2026年6月15日月曜日

阿摩和利を英雄にしたのは誰か?|グスクラボ|武部拓磨

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阿摩和利を英雄にしたのは誰か?

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阿摩和利(アマワリ)は、15世紀の琉球において勝連グスクを治めた按司として知られる歴史上の人物です。

首里王府に対して反旗を翻したと伝えられており、近世以降の文献では、もっぱら「逆賊」として語られてきました。

しかし近年では、その評価を見直す動きがみられます。阿摩和利は地元の民衆に支持された優れた指導者であり、王府にとっては逆賊であっても、地域社会の視点から見れば、むしろ英雄として評価できるのではないか――。
そのような見解が広く浸透するようになりました。

こうした評価の根拠としてしばしば挙げられるのが、1531〜1623年にかけて王府によって編纂された『おもろさうし』(全22巻)です。
『おもろさうし』には、阿摩和利が首里の国王にも比肩しうるほど立派な人物として詠われたオモロ(歌謡)が採録されています。

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『おもろさうし 十五 十六 十七 十八 十九 廿 仲吉本』
伊波普猷文庫
(琉球大学附属図書館所蔵)

この点に着目した『おもろさうし』研究の先駆者・伊波普猷は、
「阿麻和利は沖縄最古の古英雄なり」(「阿麻和利考」1905年)
と評しました。近年みられる阿摩和利の再評価は、こうした伊波の解釈が研究者の間だけでなく、一般社会にも広く共有されるようになった結果といえるでしょう。

しかし、ここで一つの疑問が生じます。

王府はなぜ、反旗を翻し首里城にまで攻め上った阿摩和利を、自ら編纂した歌謡集の中で称賛したのでしょうか?
王府が国家事業として編纂した『おもろさうし』において、討伐したはずの逆賊が賛美されていることは、極めて不可解です。

このことに関して伊波普猷は、
「当時にあっては、これは恐らく危険思想の本と思はれてゐたでらう」
と述べています。(「校訂おもろさうし」1925年)
つまり伊波は、『おもろさうし』には、王府の公式な歴史観とは必ずしも一致しない、反体制的な要素が含まれていた可能性を示唆したのです。

しかし、本当にそうなのでしょうか?
王府の主導で編纂された『おもろさうし』に、王府の歴史認識と矛盾する内容が果たして含まれ得るでしょうか?

むしろ私は、『おもろさうし』が編纂された時代においては、阿摩和利は王府にとって称賛の対象であったと考える方が自然ではないかと考えています。

そして、その論理は極めてシンプルです。

それを説明するためには、まず琉球国の王統について確認しておく必要があります。

琉球には歴史上、次の五つの王統があったとされています。

・舜天王統(1187〜 1259年)
・英祖王統(1260〜1349年)
・察度王統(1350〜1405年)
・第一尚氏王統(1406〜1469年)
・第二尚氏王統(1469〜1879年)

これらの王統が交代する過程で、武力による政権交代が繰り返されたことは言うまでもありません。

ここで注目したいのが、阿摩和利が反乱を起こした当時の王統です。

史料によれば、阿摩和利が首里に攻め上ったのは1458年、第一尚氏第6代・尚泰久王の治世でした。
そして、阿摩和利を讃えるオモロを採録した『おもろさうし』が編纂されたのは、第二尚氏の時代です。

もうお分かりいただけるでしょうか。

阿摩和利が敵として攻めた第一尚氏は、第二尚氏にとってもまた、自らが滅ぼした前王朝でした。
阿摩和利と第二尚氏にとって、第一尚氏は共通の敵だったのです。

こう考えると、『おもろさうし』における阿摩和利賛美も理解しやすくなります。

第二尚氏にとって阿摩和利は、王権に反逆した逆賊ではなく、自らに先立って第一尚氏に挑戦した人物として評価することができました。

阿摩和利を称賛することは、第一尚氏打倒の正当性を補強するとともに、自らの王統の正統性を支えることにもなったのです。

阿摩和利を英雄にしたのは誰か?

もしその問いに一つの答えを与えるとするならば、それは『おもろさうし』を編纂した第二尚氏だったと言えるのではないでしょうか。

もっとも、後の時代になると、阿摩和利は「逆賊」として語られるようになります。
その背景には、近世以降に琉球へ浸透した儒教的価値観があった可能性があります。

なぜ阿摩和利は英雄から逆賊になったのか。

その話は、また別の機会に譲りたいと思います。

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阿摩和利を英雄にしたのは誰か?|グスクラボ|武部拓磨 https://note.com/kokkotakezo/n/ne3bbef76cfee 阿摩和利を英雄にしたのは誰か? 2026年6月10日 21:29 ...