《方士の徐芾らは、海上に神薬を求めて、数年になるが得られず、費えが多いだけだったので、罰せられるのを恐れ、いつわって、「蓬萊では神薬を得られるのですが、いつも大鮫に苦しめられて、島に行くことができません。上手な射手をつけていただけば、現われたら連発の強弓で射ていただきとうぞんじます」と言った。》
(ちくま学芸文庫『史記本紀①』巻六「秦始皇本紀」)
《「天神の子といってもたくさんいるのだ。おまえが君として仕えているものがほんとうに天神の子なら、かならず徴表のものがあるはずだ。それを見せよ」
と仰せられた。そこで長髄彦は、饒速日命の天羽羽矢一本と歩靫(やなぐい)を見せたてまつった。天皇は御覧になって、
「これはつくりごとではなかった」
と仰せられて、今度は、御自身の天羽羽矢一本と歩靫とを長髄彦にお示しになった。長髄彦はその天表を見て畏敬の念を懐いた。》
(中公文庫『日本書紀』「巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇」)
饒速日(ニギはやひ)」=「徐福」
↓ (ユダヤ教→神道)
伊都國の官 従者=物部氏・・・・・徐福のことを「大物主」
爾支(ニキ)
↓
一大率(弟王)
不彌國の官
多模(タマ)・・・・「玉」から考えて後の「天皇」
↓
卑弥呼(姉王)
https://youtube.com/watch?v=1EyQbaZnawA&lc=UgynV2LXp80nkEqKrlZ4AaABAg.AXLuQiyIQOaAYRjInUZKjW&si=RqC4sgk3mvGna08e
任熊『列仙酒牌』より
船に乗る徐福
徐 福(じょ ふく、拼音: Xú Fú、生没年不詳)は、秦の方士[注 1]。斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身。本来の表記は徐巿[注 2](じょふつ)[1]。日本に渡来したという伝説がある。
概要
『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず[1]、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある。
不死の妙薬を求めて航海に出る徐福(歌川国芳画)
東方の三神山とは、渤海の先にある神仙が住むとされた島で、蓬莱・方丈・瀛州(東瀛とも)のことであり、蓬壺・方壺(ほうこ)・瀛壺とも称し、あわせて「三壺」という。のち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されている。[2]。蓬莱や瀛州はのちに日本の呼称となった[2]。魏晋南北朝時代の487年、瀛州は行政区分として制定されている。
同じく『史記』巻六「秦始皇本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せず、皇帝から金品をせしめた詐欺師」として描かれている[3]。
又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。
— 司馬遷「淮南衡山列伝」『史記』 巻百十八。
会稽から還って呉を過ぎ、江乗(江蘇・句容)から揚子江を渡り、海岸に沿うて北方琅邪に行った。方士の徐芾らは、海上に神薬を求めて、数年になるが得られず、費えが多いだけだったので、罰せられるのを恐れ、いつわって、「蓬萊では神薬を得られるのですが、いつも大鮫に苦しめられて、島に行くことができません。上手な射手をつけていただけば、現われたら連発の強弓で射ていただきとうぞんじます」と言った。
始皇が海神と戦う夢を見たが、ちょうど人のような恰好をしていた。夢占いの博士に問うと、「水神は目に見えません。大魚蛟龍の現われるのが、その兆候です。いま主上は祈禱祭祠に、謹んでおられるのに、なおこの悪神が現われました。これを除けば、善神を招くことができましょう」と言った。そこで海上に行く者に大魚を捕える道具を持たせ、大魚が出たら、始皇自ら連発の強弓で射ようと、琅邪から労山・成山まで行ったが、ついに現われなかった。之罘に行くと大魚が出たので、一魚を射殺した。海岸に沿うて西行し、平原津に行くと病気になった。始皇は死ぬということばが嫌いだったので、群臣は誰も死事をいう者がなかった。主上の病いは、いよいよひどくなった。すると始皇は公子の扶蘇に賜う璽書をつくって「棺を咸陽に迎えて葬式をせよ」と言った。詔書は封印がされ、中車府(乗輿路車のことを司る官)の長官で符璽の事をおこなう趙高の所にあったが、まだ使者に渡されなかった。七月丙寅の日、始皇は沙丘の平台(河北・平郷の平台宮)で崩じた。
ちくま文庫史記①
巻六「秦始皇本紀」
《「蓬萊では神薬を得られるのですが、いつも大鮫に苦しめられて、島に行くことができません。上手な射手をつけていただけば、現われたら連発の強弓で射ていただきとうぞんじます」》
(ちくま学芸文庫『史記本紀①』巻六「秦始皇本紀」)
《「天神の子といってもたくさんいるのだ。おまえが君として仕えているものがほんとうに天神の子なら、かならず徴表のものがあるはずだ。それを見せよ」
と仰せられた。そこで長髄彦は、饒速日命の天羽羽矢一本と歩靫(やなぐい)を見せたてまつった。天皇は御覧になって、
「これはつくりごとではなかった」
と仰せられて、今度は、御自身の天羽羽矢一本と歩靫とを長髄彦にお示しになった。長髄彦はその天表を見て畏敬の念を懐いた。》
(中公文庫『日本書紀』「巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇」)
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