2026年6月27日土曜日

邪馬台国阿波説




https://youtu.be/EpgeJneoUMs?si=1D7hsBuxS0zZY-et

 


邪馬台国阿波説の特徴は古事記の舞台が阿波であるという歴史の連続性の主張である。例えばフランキー堺のテレビ番組(「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!!幻の国・皇祖の地高天原」日本テレビ、1977年)も邪馬台国より高天原が重視された。


以下メモ。

●空海『太龍寺縁起』に皇都阿波説を連想させる記述があるという。

●徳川光圀は、江戸に修史局を開き、大日本史の編纂に乗り出した後、元禄10年(1697)、突然、徳島藩や老中土屋相模守政直を呼びつけ、阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査を命じた。古代阿波国の重要性を嗅ぎつけていた?

●本居宣長の弟子筋?千家俊信による『杉の小山の記』は、

天保二年(1831年)に記された「天石門別八倉比賣大神御本記」解説本。千家は柿本人麻呂が阿波で歌を詠んだと確信したらしい。

●その後幕末の阿波の勤皇国学者、池辺真榛(1830~1863)がいる。池辺は平安時代の法令集『延喜式』を研究するなかから、阿波国を日本の「本つ国」と称した。


https://cultural-experience.blogspot.com/2021/02/fudoki-itsubun-nankaidou.html

阿波国風土記によれば、空から降ってきた山の大きなもので、阿波国に降ってきたものを天本山(あまのもとやま)という。その山は砕けて大和国に降り付いたものを天香具山(あまのかぐやま)と呼ぶという。

●その影響を受け、維新後に東京美術学校教授になった小杉榲邨(1835~1910)が阿波神代史を研究、

●さらにその流れをくみ、樺太・択捉の探検でも知られる明治中期の徳島中学校長の岡本監輔(1839~1904。『名神序頌』の著書あり)が、「神代の高天原は阿波の国をさすと思われる」と公言したという話が地元に伝わっている。

●折口信夫(1887~1953)は、天皇家のルーツを辿って奈良を調べていたがどうしても7世紀から遡れず、あることがきっかけで遂に皇祖の地が阿波であると確信したと言われる。

《阿波といへば、舊地の舊地》(「日本文學の發生 序說」『折口信夫全集 第七巻』246頁)


●以下谷川健一(1921~2013)「阿波--栗の信仰と海人族の足音」『黒潮の民俗学』(1976)より、

《古事記や日本書紀の作者ができるだけ神話の舞台をひろく見せるために、九州や出雲をさかんに登場させることがあっても、イザナギ、イザナミの神話は淡路をそう遠くはなれてはならぬ。むしろ、鳴門海峡や明石海峡が出てくるのだから、阿波の国を考えるのが一番自然である。》 

明示的な邪馬台国阿波説については、以下大杉博氏(1929~)の著作から引用する。

●邪馬台国阿波説を最初に発表したのは上板町の故・保田兵治郎氏で、昭和36年(1961年)地元の神社の古記録に「粟散土国王在日弥子」の記事を発見し、邪馬台国研究に入った。
そして阿波歴史研究会で「邪馬台国阿波在国説」を発表したのが昭和39年(1964年)。

保田氏は昭和41年(1966年)には「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」を自費出版した。
●この保田氏をモデルとして「邪馬台国は阿波だった」(1983年刊行、表題作執筆は1974年)という小説を書いたのが堤高数氏。

●これらの足跡を受けて昭和51年(1976年)に、古代阿波研究会というグループが「邪馬壱国は阿波だった」を出版した。


●『道は阿波より始まる』 (①②③1985~1989)の著者岩利大閑(1925~1989)は上記グループの一員。

●『皇都ヤマトは阿波だった』の笹田至孝も『古代史入門』の藤井榮も彼の弟子筋。


●2006 (平成18) 年 9月11日にたま出版から発行されたのが、高木隆弘先生の 『記・紀の説話は阿波に実在した』。

●小説『アマテラスサーガ』、小説『ヒミコの暗号』は、

岩利氏の主張をわかりやすく書いた藤井榮『古代史入門』に多くを負っている。

(邪馬台国阿波説を最初に商業小説にしたのは『邪馬台国の神符』志茂田景樹1984年。後に九州説に転向)

他に●「阿波古事記研究会」 の三村隆範氏、●ブログで活躍しているぐーたら秋山氏、●鉱物に着目した越智正昭氏、●邪馬台国行程に画期的な説を唱えたyoutuberのANYAチャンネルなど。ぐーたらさん以外は著作あり


。。。


邪馬台国阿波説 誰が阿波説を言い始めたのか 阿波説の提唱者と研究者 【邪馬台国専門チャンネル】 https://youtu.be/EpgeJneoUMs?si=1D7hsBuxS0zZY-et @YouTubeより


阿波説の起源

・~いつ、誰が唱えたのか~

50%


江戸時代後期

(1800年代初頭)

橘守部(たちばなもりべ)

国学者。「邪馬台国=阿波(徳島)説」の先駆けとして、地名・神社の対応を指摘。阿波説の最初期の論者の一人。


明治〜大正時代

喜田貞吉(きたさだきち)

歴史学者。

「邪馬台国論』において阿波の地名や神話との関連を論じ、阿波説に一定の根拠を与えた。


昭和~平成時代

村木喜久治、その他郷土研究者

徳島の郷土史家・研究者たちが阿波各地の遺跡・地名・神社を丹念に調査し、阿波説を体系化していった。


平成~現在

林博章(はやし ひろあき)ほか

「阿波古事記研究会」など団体が結成され、インターネットや書籍を通じて阿波説を精力的に発言・普及。

邪馬台国阿波説誰が阿波説を言い始めたのか 阿波説の提唱者と研究者【邪馬台国専門チャンネル】

82回視聴 9日前 #邪馬台国と卑弥呼...その他

邪馬台国専門チャンネル 442

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邪馬台国阿波説の特徴は古事記の舞台が阿波であるという歴史の連続性の主張である。これは皇都阿波説と言われる。
そこまで明言していない場合も多いがアマテラス=卑弥呼説を多くの研究者は取る。例えばフランキー堺のテレビ番組(1977年)も邪馬台国より高天原が重視された。
以下メモ。
●空海『太龍寺縁起』に皇都阿波説を連想させる記述があるという。
●徳川光圀は、江戸に修史局を開き、大日本史の編纂に乗り出した後、元禄10年(1697)、突然、徳島藩や老中土屋相模守政直を呼びつけ、阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査を命じている。古代阿波国の重要性を嗅ぎつけていた?(山口敏太郎「急浮上、幻の古文書『阿波風土記』が裏付ける"邪馬台国四国説"、邪馬台国は阿波だった!?」参照)

●本居宣長の弟子筋?千家俊信による『杉の小山の記』は、

天保二年(1831年)に記された「天石門別八倉比賣大神御本記」解説本。千家は柿本人麻呂が阿波で歌を詠んだと確信したらしい。


●その後幕末の阿波の勤皇国学者、池辺真榛(1830~1863)がいる。池辺は平安時代の法令集『延喜式』を研究するなかから、阿波国を日本の「本つ国」と称した。
●その影響を受け、維新後に東京美術学校教授になった小杉榲邨(1835~1910)が阿波神代史を研究、
●さらにその流れをくみ、樺太・択捉の探検でも知られる明治中期の徳島中学校長の岡本監輔(1839~1904。『名神序頌』の著書がある)が、「神代の高天原は阿波の国をさすと思われる」と公言したという話が地元に伝わっている。

折口信夫(1887~1953)は、天皇家のルーツを辿って奈良を調べていたがどうしても7世紀から遡れず、あることがきっかけで遂に皇祖の地が阿波であると確信したと言われる。


《阿波といへば、舊地の舊地》

(「日本文學の發生 序說」『折口信夫全集 第七巻』246頁)



以下谷川健一(1921~2013)「阿波--栗の信仰と海人族の足音」『黒潮の民俗学』(1976)

《古事記や日本書紀の作者ができるだけ神話の舞台をひろく見せるために、九州や出雲をさかんに登場させることがあっても、イザナギ、イザナミの神話は淡路をそう遠くはなれてはならぬ。むしろ、鳴門海峡や明石海峡が出てくるのだから、阿波の国を考えるのが一番自然である。》

邪馬台国阿波説については、以下大杉博氏(1929~)の著作から邪馬台国阿波説の歴史を引用する。


●邪馬台国阿波説を最初に発表したのは上板町の故・保田兵治郎氏で、昭和36年(1961年)地元の神社の古記録に「粟散土国王在日弥子」の記事を発見し、邪馬台国研究に入った。
そして阿波歴史研究会で「邪馬台国阿波在国説」を発表したのが昭和39年(1964年)。 

保田氏は昭和41年(1966年)には「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」を自費出版した。
●この保田氏をモデルとして「邪馬台国は阿波だった」(1983年刊行、表題作執筆は1974年)という小説を書いたのが堤高数氏。 

(中略) 

●これらの足跡を受けて昭和51年(1976年)に、古代阿波研究会というグループが「邪馬壱国は阿波だった」を出版した。


●『道は阿波より始まる』 (①②③1985~1989)の著者岩利大閑(1925~1989)は上記グループの一員。

●『皇都ヤマトは阿波だった』の笹田至孝も『古代史入門』の藤井榮も彼の弟子筋。



●2006 (平成18) 年 9月11日にたま出版から発行されたのが、高木隆弘先生の 『記・紀の説話は阿波に実在した』

●小説『アマテラスサーガ』、小説『ヒミコの暗号』は、
岩利氏の主張をわかりやすく書いた藤井榮『古代史入門』に多くを負っている。
(邪馬台国阿波説を最初に商業小説にしたのは『馬台国の神符』志茂田景樹1984年。後に九州説に転向)

他に「阿波古事記研究会」 の三村隆範氏、ブログで活躍しているぐーたら秋山氏、鉱物に着目した越智正昭氏、邪馬台国行程に画期的な説を唱えたyoutuberのANYAチャンネルなど。ぐーたらさん以外は著作あり。


。。。。

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 阿波国は本当に粟国なんですか?

。。。。。。


④ 1985年 阿波国史研究会 「道は阿波より始まる」その1
    86年 その2
    89年 その3  


https://awanonoraneko.hatenadiary.com/entry/43383993

大杉博

徳島が「古事記の神話の舞台」または「邪馬台国」とする説を、今までどういう方々が唱えてきたのか、簡単に書いてみます。
れんだいこ氏の「邪馬台国考」の中の邪馬台国四国説考を参考にしました。


① 1975年(昭和50年)郡昇氏(郷土史家)  「阿波高天原考」(自費出版)

② 1976年 古代阿波研究会 「邪馬壱国は阿波だった-魏志倭人伝と古事記との一致」(新人物往来社)

③  「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!!幻の国・皇祖の地高天原」(日本テレビ)
   フランキー堺が「邪馬壱国は阿波だった」を読んで驚き、プロデューサー山中康男と共同で番組制作。
   1977年、山中氏がその時の取材調査成果をもとに 「高天原は阿波だった」(講談社)を執筆。

④ 1985年 阿波国史研究会 「道は阿波より始まる」その1
    86年 その2
    89年 その3 

 ※ 著者の岩利大閑氏は、阿波国が「倭」であり、その遷都先が「大倭」=「大和」国であるという
   阿波倭説をとっているが、上記「邪馬台国四国説考」で、れんだいこ氏は、
   ~岩利氏の主張のユニークなところは、高天原だけではなく、
    記紀にいう「大倭」とは阿波国のことであるとし・・・~ と書き、誤解があります。
   この違いは大きいので、一応指摘しておきます。

 ※ その他「邪馬台国四国北岸説」「邪馬台国北四国説」「邪馬台国土佐説」等が発表されるが、詳細は省略。

⑤ 1977年  大杉博氏 「日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-」(自費出版)
   1979年  「ついに解けた古代史の謎」で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。
   1992年  「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)

大杉氏は、徳島に転居された後、どなたかの著作に触れてこのことに興味を持ち、その後ご自分で調査・研究を続けた結果、現在の持論を持つに至りました。
そのことを著作の中で説明されていたので、該当箇所を見つけたら、後で正確に書き直します。

※追記

大杉氏の著作から該当部分を引用します。

邪馬台国阿波説を最初に発表したのは上板町の故・保田兵治郎氏で、昭和36年地元の神社の古記録に「粟散土国王在日弥子」の記事を発見し、邪馬台国研究に入った。
そして阿波歴史研究会で「邪馬台国阿波在国説」を発表したのが昭和39年。

保田氏は昭和41年には「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」を自費出版した。
この保田氏をモデルとして「邪馬台国は阿波だった」という小説を書いたのが堤高数氏。

(中略)

これらの足跡を受けて昭和51年に、古代阿波研究会というグループが「邪馬壱国は阿波だった」を出版したのである。
私は、この本によって邪馬台国研究に入ったのである。

(引用終わり)

上に書いた郡昇氏の「阿波高天原考」に約10年先行する研究の歴史があったようです。


私の場合、阿波古事記研究会というグループの方々が、地元のテレビ番組に出演し「古事記の舞台は徳島だった?」というテーマで話された内容をネットで見て興味を持ち直したことが、大杉氏の本なども読み返すきっかけになりました。


大杉氏は宇野正美氏と知り合うことによって、朝廷の出自隠しの理由を「契約の箱(失われたアーク)を隠匿するため」ということに変更しました。
それまでは、日ユ同祖論的な話には興味がなかったようです。

。。。

この笹田先生ご自身のことは巻末に年表式に:
 
1944年 徳島生まれ。
1979年 徳島市役所観光課在職中、邪馬台国阿波説をもとに阿波邪馬台国観光を推進する。
1983年 『道は阿波より始まる』 の著者岩利大閑氏に師事、古代史に引き込まれる。

ぐーたら秋山ブログ


2006 (平成18) 年 9月11日にたま出版から発行されたのが、高木隆弘先生の 『記・紀の説話は阿波に実在した』

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 阿波国は本当に粟国なんですか?

阿波国は本当に粟国なんですか?

ちょっと二人程に先にしゃべくってしまったので、なんとなく書いてしまいます。
阿波国はホントに粟国からの由来なんですか?

「阿波」の名称と表記
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために「粟国(あわのくに)」、南の地域は「長国(ながのくに)」と呼ばれていたが、大化の改新の後に「粟国」に統一された。和銅6年(713年)、元明天皇の命により地名を二字で表記するため粟は「阿波」に変更された。 wikipedia
とあります。

また、古事記の国産みの段を見れば

如此言竟而。御合。生子淡道之穗之狹別嶋【訓別云和氣下效此】次生伊豫之二名嶋。此嶋者身一而有面四。毎面有名。故伊豫國謂愛(上)比賣【此二字以音下效此】讚岐國謂飯依比古。粟國謂大宜都比賣【此四字以音】土左國謂建依別。次生隱伎之三子嶋。亦名天之忍許呂別【許呂二字以音】次生筑紫嶋。此嶋亦身一而有面四。毎面有名。故筑紫國謂白日別。豐國謂豐日別。肥國謂建日向日豐久士比泥別。【自久至泥以音】熊曾國謂建日別【曾字以音】次生伊岐嶋。
亦名謂天比登都柱【自比至都以音訓天如云】次生津嶋。亦名謂天之狹手依比賣。次生佐度嶋。次生大倭豐秋津嶋。亦名謂天御虚空豐秋津根別。故因此八嶋先所生。謂大八嶋國。

とあり、「粟國を大宜都比賣と謂う」から「粟國」との記述で、粟がこの地で多く栽培されていたのに由来すると解釈するのが普通でしょう。
また、吉野川中流の川中島として「粟島(現在の善入寺島)」が阿波の地の語源とも言われていることは有名でしょう。

しかし、単に「粟島」ならば他にもありまして、例えば香川県三豊市の「粟島」
あるいは新潟県岩船郡粟島浦村の「粟島」
新潟県の「粟島」については
縄文時代の遺跡が東海岸に5ヶ所発見されていることから、既にその時代には人が住んでいたと想定される。しかし、弥生時代・古墳時代の遺跡は発見されていない。万葉集第12巻所収の「波の間(ま)ゆ雲居に見ゆる粟嶋の逢はぬものゆゑ吾(あ)に寄する児(こ)ら」が文献資料での粟島の初見と思われる。wikipedia
ともあります。

また、「粟国」についても「粟国(あぐに)の塩」で有名な沖縄県島尻郡粟国村は「粟国」島にありますよね。

なーに言ってるんだ、って声が聞こえてきそうですが、単に「粟島」から「粟国」は分るにしても、「阿波」になった理由が釈然としないってことが言いたいだけなんです。
「粟島」が阿波だけに存在する地名でない以上、例えば新潟が「阿波」になっててもおかしくなかったかもしれないということです。
もちろん、吉野川の「粟島」が川中島であり、阿波の中心付近に位置していたからとか、色んな理由があるってことは承知の上で、世迷い言を呟いてるんですぜ(笑)

では、なんでこんな世迷い言を呟いているかと言いますと、去年からこんなのを読んでおりまして。
「阿波國後風土記巻之一 初稿」松浦年長(宗作)の手による文です。

徳島県立図書館の正式な許可を得てませんので画像は部分といたします。

松浦年長(宗作)は、ワタクシがくどくど言っております「阿波國続風土記」編纂御用掛

主要メンバーの内「主任」とされております(後藤年譜より)。

後藤家文書の中で、後藤尚豊(麻之丞)が「まつらぬし様」と呼んでいる、実務上のまとめ役を行なっておりました方です。

ちなみに徳島藩校である「長久館」から出仕した士分の方です。

その「松浦年長」が「阿波國続風土記」の序文として書いた文書ですが、「続風土記」の編集方針であるとか基本的な阿波国の由来であるとかを記しております。

最初の方だけ簡単に書下しますと(旧仮名遣いとかは勝手に変えてます)

此の粟の國は顕世(うつしよ)の初めにまず成り出るは伊豫の二名(ふたな)の島の四面あるが中の其の一面にして山青く水長く萬(よろず)満ち足るをせる御國なり、そは古事記に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)二柱神・・・

と始まっております。

また色々面白いことも書いてあるんですが

例えば位田を王地山城国と同等に扱われているとか、「拾芥抄」(しゅうがいしょう)に「封戸に充ずして其の國を禁秘し賜う」とあるとか(笑)

ここらは全文書き下してから見て行きたいと思いますが(思うだけだったりして)

今回見ていただきたいのは、この部分。


本国(このみくに)を阿波という名の義は海國(あまのくに)なり(阿)波と麻とは同じ唇音にて、ことに親しく通へり、凡て皇国の古義事実を探索なすには、まず神社地名の起源を故事に倣し古言和訓を明らめ五十音を貫徹し神国の神国たる御名代(みなしろ)の御名代(みなしろ)たる言霊の幸は小国たる所以・・・

阿波國(あわこく)は海國(あまのくに)の意だと申されております。

ここからは原文の書き下しは載せませんが、その理由が綿々と書かれております。

凡直(おおしのあたい)、粟凡直(あわのおおしのあたい)は海神に縁(えにし)あり、大麻日子の神も海神(わたのかみ)建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)に因縁(ちなみ)ありしより潮之郡(いたのぐん)の名神となり、などとも言っております。

また、凡直(おおしのあたい)は尾張連(おわりのむらじ)凡海連(おおしあまのむらじ)、安曇連(あずみのむらじ)と同祖なる事継体天皇の御巻に尾張連の祖は凡連という人出て、とも書かれております。

そして粟については、粟という作物はどこでもできる雑穀であり、その昔に(粟を植えることを)奨励されたが農民はそれに従わなかった程の無味下品(げぼん)の性であるのでこれを国名にするのは有りえない、じゃあ吉備国は黍(きび)が多く穫れたから吉備にしたのか?ちがうでしょ(笑)との説を展開しております。

では大宜都比売(おおげつひめ)の鼻から粟が実って、云々の話はどうなんじゃいとの問いには、凡爾臣(和爾氏)の祖である「意祁都命(おげつのみこと)」その妹「意祁都比売命(おげつひめのみこと)」また妹「素祁都比売命(そげつひめのみこと)」からきてて、これは全て海神(わたのかみ)の縁(えにし)であると言っております。

実際、安曇宿禰が上八万町の大木にいたことと佐那河内にいたことは多分間違いないんです。上八万の大木は王城からの転ですし、佐那河内には大川原(高原)がありますが、あそこに川原なんて無いことは県民誰でも知ってます。「王ケ原(おうがはら)」の転なんです。

まだまだ書ききれないんです、松浦年長による説は。

でも大筋は上に書いた通りです。阿波国の義は「粟」からではなく「海国(あまこく)」からという説です。


1.松浦宗作について
【A】『阿波人物志』
 p123「松浦長年 まつうらながとし」の項に、
 「字は長年、通称宗作」
 「明治初年、市原源兵衛らと共に『続阿波国風土記』編纂の藩の仕事を担当した。」
 と書かれており、生没年や出身地もあり。

。。。。

  






舍心山太龍寺緣起

金剛遍照撰

夫以諸佛鎮場雖多。或自刧初以後以出砌揮德。或自仁王卽位以後。當某御宇因宿積用數威力。忝順勅應紫震豈有開某靈地。或高賤平等以益信新初成興隆依正有運步。或者亦超世勝生高祖以作德有安佛菩薩像。亦修普賢大士昔行因生隨果。沙門以一氣發心集十方之勸志累德屬減有請信仰。在々處々如是。及其阿波國那賀郡舍心山太龍寺。天神七代之内六世面足倉惶根偉降居坐 磯輪上秀眞國是也。與當七代伊沣伊奘毌算居坐之玉墟內國產在八嶋。先產淡路州。是云淡道穗狹別。大伊與產在二名州。有一身四面。一云愛止比賣。是與州也。二云飯依比賣(古)。是讚岐國也。三云大宜都比賣。是阿波國也。四云達(建)依別。是土佐州也。元根者伊與二名圓所稱人情之賢別二名云。四國名中。此大宜都比賣天神之爲相應惠會爲玉城內國。天地開闢以後。天棚霧中登金色雲。一莖二神乘金色雲。降大雨爲濁潮和泥建立世界。積風輪上戒(成)水輪。最居下其量無數也。此上水輸。深十一億三(二)萬。下八洛叉。厚十六路叉。凝結成金。廣厚十二洛叉。三千四百半周圍此三億(倍)也。一洛叉此三(云)億踰善(膳)那三(云)由旬也有情業增上故。先於虛空最下生風輪。其量廣無數。厚十六億由旬。某(其)上有水輪。厚十一億二万由旬。上三億二万由旬凝結爲金下八億由旬尙爲水。其二廣其量是同。其徑十一億三千四百五十由旬。風水金如是立。風爲頻沫吹上爲須彌山。及(乃)至四大州八万小州成鐵圍山等。彼万億世界建立同時。是云三千大千世界忝白鏡現替上名光音天。須彌四方化下在生蒩王種。光音天上白正哉吾勝尊在。然須彌四方有五十二洲數。四方王種皆是梵天王種子祝故。悉忝天照大神宮貴孫御子孫也。自須彌東王種名敕。大梵天王末繼。然東南方王種大梵天王種末也。西北方王種妙法大梵天王末繼。北方同西南方乃至下方上方世界尸案大梵天王種末。在此南閻浮提大日本國者。百億世界開闢為根種。爲十方世界種子。故云之遮摩羅洲。遮摩羅者縛曰羅也。万物金剛號也。然云草木万物之惣名。正十方世界自此州賦五穀種子實也爲保食神生住洲故也。亦忝王種大照太神宮直道御末繼不盡王種。如吾視勅在。掛畏貴可上重敬。是國土長養思(恩)奉報送以爲慈悲正直柔和成。末世可有下劣種。但奉孝心用崇可得高位姓。開闢始爲飛行自在有光明身無男女相違。形色端嚴果報殊妙也。人壽無量也。爾時自(身)量千尺或二千尺。所食地餅也從地亦踊(湧)出甘泉。其味如乳蜜。競是取食。故人身漸堅重。身隱光失神道(通)。雖然此於玉墟內國。忝天照太神行求開持基。爲不盡三界百億屋形祈禱鎮靜。舍心地長養在。御慈悲辱不可及言語。末世於是詣太龍寺爲御本尊。賓前奉拜日月星者。非保治世上莊嚴大家受勝妙快樂。可奉得柔和正德。聞否哉舍心者。因得舍心令鎮治一切眾生。果報福智愛三德故名舍心。往昔無本堂。御影向虛空藏舍心石示安坐所。空海尋神代妙貴金剛遍照生五十復拜登安坐。期百日六時溫坐。求聞持護摩三十五日。滿願合成就。次六時溫坐。神道如意納受護摩。同神樂五足。護摩法三十五日。令大德成就果。一切衆生不盡本樂。解除供二十一日合成就畢º天地和合風調雨順°祓供九日令成就畢。其日帝釋天垂御影向°不動尊作御頭賜。空海兩手忝天照大神宮作。兩(雨)賓童子作在五身衣體奉作空海之兩足鴛敷一殿大己貴尊作也。此不動明王一度奉見於輩生々世々得無病息災無疑。亦金剛之自登山H企本堂閣奉爲造新空海峰承聞傳所。往昔神武天皇按(狹)野俘。從筑紫日向宮崎宮大和國入御坐時。五月十六日舍心山行幸在2舍心峰明星御影向石通夜上向禮明星給。公卿數輩軍兵游。促(低)頭出現明星牽念。神武五十四年歲次甲寅五月十六日寅時。出現明星在。自光中漏降。在五寸虛空藏。舍心峰石盤示安坐。其圓光連三十五脉。耀在天地。其光數滴集合所涌出閣伽水。和修吉龍王守護常住也。亦當西南方地鎮三十二町敷三十二相有靈地。神代初二神上產珍貴的祝後上產三柱彥神在。當三生上產在蛇。蛭子無足无分間。天橡船奉乘大海原放捨在。和修吉龍王拾取奉養育。奉授自地出主賣買幸万民。愛敬神在。奉名戒(戎)。今鷲敷社在其時乘在天樟船爲上久御鎮坐邊。亦鎮殿造社三間形南殿三柱神在。忝天照大神宮鹿嶋一御殿春日大明神濟(井)天照大神宮第一稚子神在。中殿西宮愛敬戎三郎神祝。坎殿三柱神在白山辨財天三輪大己貴在。涌出閼伽水爲守護奉遷宮。空海天長二年歲次乙巳六月一日本堂再興成就治納元。去自五月十六日奉企御本尊作誓。神武行幸日涌降五寸虛空藏奉成等◼️服身。同六月一日寅時御本尊安坐鎮靜。眞實恭敬勤行令滿足畢。是偏依忝天照大神宮御正勅者也。一度參詣值遇难。富貴子孫永繼。蒙壽命長遠無病息災德無疑。天長二年歲次乙巳自六月二日空海住福定洛义。同七日結願滿足簌時五日巳時帝釋天引其青白童子垂影向手金剛逼照日我是忝天照大神宮御勅奉順。垂影向當山之再興成就貴意希有歡喜全心開闢安御坐。一百十億二千餘歲新希有。金剛逼照大伽藍再興成就圓滿之。及今生身不動明王爲三界舍心擁護明星石奉安坐者°忝天照大神宮毎日午時垂御影向至摩頂大辨財天女十五童子戎愛敬神忽加守護。草木萬情不絕種子令與萬民衣食如意。此山是和修吉(娑龍王婆竭羅龍示坐守護。靈地者龍神直誓勅言。盡未來際檠燈明每夜照生死長夜。以求聞持成就力不可墮一切衆生惡道誓約堅固。以信言忝天照大神宮奉請額字"忝天照大神宮返勅宣。爲龍神守護靈地吾亦加守護所者奉號太龍寺。辱勅訖言。帝釋天其額形獻上勅在。時四天大王中毘沙門天此額形獻上帝釋天。其時廣目天擎硯筆在。帝釋天舍心山居三字賜空。餘微妙歡喜不覺了知奉書三字大龍寺額是也。自今後於當山不奉本求開持可知滅亡帝釋天幸之後。爲奉報厚恩。隔北方五十町每夜奉初丑刻參詣。爲天長地久一切衆生所求圓滿無病延命。佛法人境常住安穩常住繁昌治定也。

 天長二年歲次乙巳六月十三日金剛遍照敬白

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舍心山太龍寺緣起

金剛遍照撰


仏様が多いといっても仏様が多いです。あるいは災いが始まって以来、彼は自分の美徳を示すために策略を使ってきた。あるいはレン王が王位に就いて以来。とある帝国宇宙が蓄積により数の力を使うとき。子鎮は燕順の命令に応じて、どのようにしてある精神的な場所を開くことができたのでしょうか?あるいは、高低の平等は、新たな始まりが繁栄して繁栄し、幸運が訪れるという信念に有益である可能性があります。あるいは、この世を超越した偉大な祖師が、徳と安らぎの仏菩薩像を造られたのかもしれません。また、結果につながるサマンタバドラの過去の行為も実践してください。修行者たちは息を合わせて四方八方から集まり、疲れて困窮している人々に信仰を説きます。これはどこでも当てはまります。阿波国那賀郡社心山にある太龍寺。七代の神々のうち、六代に渡り出会い、降臨して岩車に座り、真実の姿を誇示した。言うまでもなく、宜峰の七代目である宜蔵が八島の翡翠遺跡に住んでいました。淡路県が最初に誕生しました。雲と波の間の狭い道です。ダイーとチャンは恵美州にいます。身は一つ、側面は四つ。 Yiyun Aizhi は販売よりも優れています。それは国家と一緒だ。エリュン米は価格に応じて販売されます(古代)。ここは讃岐の国です。サンユン・デイドゥ・ビシュオ。ここは阿波の国です。シユンダ(建てられた)は分離されています。土佐県です。易の由来と袁の二名を徳者の二名といいます。 4カ国の中では。この大宜都碧星天神は、玉城内国にとってもそれに相当する利益となるでしょう。天地創造後。天井の霧の中に金色の雲が立ち上ります。二人の神が金色の雲に乗っています。大雨が降ると、濁流と泥の世界が生まれます。風車が積もって水車となる。最小の数は無数にあります。これが水運です。ディープ 113 (2) 万。バローチャまで下ります。太い16本のロードフォーク。ゴールドに凝縮。広州十二羅茶。三千四百五十というのは約三億(倍)です。一羅茶では、この三(雲)億は善(食事)よりも多いので、三(雲)由旬の感情カルマが増加しました。虚空の底から風車が生まれる。その量は膨大で無数にあります。その厚さは16億由旬です。その上に水車があります。厚さは11億2000万由旬。上の3億2千万由旬が凝縮して金となり、下の8億由旬が水となります。 2つ目は量が同じであることです。その直径は113万4500由旬。風水ゴールドはこんな感じで立っています。風がその泡を須弥山まで吹き上げます。そして(さらに)4大州と8万の小州が鉄の壁と山を形成した。何兆もの世界が同時に確立されました。それは空に現れる三千大千世界の白鏡であり、その名を広陰天といいます。シュメルは四方から変化して王の種を生みました。空の光と音は白と正宰、そして私の最高のマスターはここにあります。しかし、Xumi の四方には 52 の大陸があります。四方の王の種子はすべて梵天王の種子です。天照大社の貴族の孫であり子孫でもある。徐美東の王の名前から。ブラフマーキングは最後の後継者です。しかし、南東の王はブラフマーの王ではありません。北西の王、素晴らしい手法の王であるブラフマーが最後に成功しました。北でも南西でも、そして下でも上でも、ブラフマーキングの死体事件は世界の終わりにあります。この南部にジャンブドヴィパは偉大な日本の国です。百億の世界が根の種として開かれていく。十方世界の種子です。ということで、雲のチャモルオ島です。チャモルオはルオと呼ばれます。万物の王様の数字。ランユンは万物の名前です。それ以来、十方の世界には穀物の種が与えられ、そのために食糧を守る神が生まれ、住んでいたのです。また、王の種は太神宮によって大きく照らされ、皇帝の後継者は王の種を完成させることができませんでした。勅令を見ると。貴族を恐れるなら、尊敬されるべきだ。自分の考え(恵み)を育み、彼が思いやりがあり、正しく、優しい人であると報告するのは国の指導者です。終わりの日には悪い人たちが現れるかもしれません。しかし、親孝行と敬意を払えば、高い姓を得ることができます。発展の始まりは、自由な飛行、軽い体、そして男女間の争いのないことです。見た目も色も厳しく、仕上がりは素晴らしいです。人生には終わりがありません。その時、自分(体)は千フィートか二千フィートを測りました。食べた餅からは甘い泉が湧き出ていました。味はミルクとはちみつのような味わいです。競争は食べ物をめぐるものです。したがって、体はより強く、より重くなります。体は隠され、光は失われ、神の道(通路)は失われます。ここは玉蜀の国ですが。 Tianzhao Taishenxing は基礎を祈ります。無限の三界、数百億の家に平安を祈りなさい。いつまでも平静の精神を持ち続けてください。慈悲と屈辱は言葉では言い表せません。晩年には太龍寺に赴き御本尊となられた。客の前で太陽、月、星を崇拝する人々。世界の尊厳を守らなければ、誰もが素晴らしい幸福を得るでしょう。あなたは優しさと正義の祝福を受けることができます。心を許すのはあなただと聞きました。心の平静さによって、すべての衆生はコントロールされます。実り、祝福、知恵、愛の3つの美徳を平静といいます。昔は本堂はありませんでした。王室の影はハートの石を虚空に隠し、座る場所を示します。空海は神代の妙貴金剛に五十回生まれて安らかに座るよう求めた。百日間、六時に暖かく座ってください。 35日間、聞き、しっかりと守り、守るよう努めてください。あなたの願いが叶いますように。今度は6時に、暖かく座ってください。神道如意は五毛を受け入れる。神楽の五本足と同じ。ヒューマダルマ35日目。大きな徳を実現させましょう。すべての衆生は本来の幸福を実現することはできません。二十日の供養が完了し、天地が調和し、天候も順調である。その日、日本の皇帝、史天は空に影を落とし、王の首を不動尊に贈りました。天照大社では空海の両手が使われていました。二人の(雨の)客人少年が五体の袈裟を着て、堂内に空海の二足オシドリを拝んだのも、高貴な殿様が作られたものです。この不動明王はかつて見られて、生涯無病災難を免れたのです。さらに、金剛の自登式の H Qi 正殿パビリオンは、新しい金海峰へのニュースと情報が伝達される場所とみなされます。かつて、神武天皇は野生で捕らえられました。筑紫日向から大和国宮崎宮へ御所に入るとき。 5月16日、私は幸運にも社新山に行くことができました。 社新山への旅行の2日目、山のスターであるユインは一晩中石のところに行き、星に敬意を表しました。数世代の軍人や大臣が各地を旅しました。頭を下げて星を出現させて考えます。神武の治世五十四年、嘉陰五月十六日殷の時であった。星が現れます。光漏れ。 5インチの空間に隠されています。社新峰の石板は安らかに座っていることを示しています。その丸い光は 35 の経絡を結びます。天にも地にも輝く。その光の数滴が集まり、ゲジア水が湧き出ます。彼秀吉龍王は永遠に守り、永遠に生きます。南西部の 32 の町には 32 の霊的場所が満たされるべきであるとも言われるべきです。神々の初期の2番目の神は、女王の3番目の柱を生み出した貴重な神朱燕を生み出しました。三代目が蛇に生まれるとき。ヒルには足も部門もありません。スカイオークボートはもともと海の上に置かれていました。彼はそれを拾い、龍王秀児とともに育てました。私はすべての人々に利益をもたらすために自分の土地を売り買いするように教えられました。そこには神への愛と敬意が存在します。フォン・ミンジエ(ロン)。今日、和紙四季協会は天張船に乗って上九玉珍の隣に座っていました。三間型の役場南殿と神社の三本柱が建てられた。天照大神宮 志賀島1 御所 春日大名神事(井戸) 天照大神宮の第一子神がここにあります。中殿の西宮殿には愛敬龍三朗の祝福があります。カンディアンの三柱の神は白山にあり、富と天の三輪を区別します。鳳仙宮を守るためにランガ水が湧き出ています。空海天長の治世2年6月1日、寺院は再興され、那源の統治者となった。私は5月16日に天皇陛下に誓いを立てました。神武興興、太陽は虚空の5インチに急降下し、体になった。六月の同日、時御本尊は静かに坐っておられた。命令には誠実に敬意を持って絶対に従います。天照大神宮の勅命を信じる者たちである。一度、彼は勤務中に殺された。裕福な子孫は永遠に続きます。無病息災で長生きできることは間違いありません。天昌二年、易思は六月二日から福鼎洛意に住んでいる。同じ日に誓いが立てられ、5日目に成天帝は緑と白の少年の影を金剛に導き、私は天照大神の勅命を強制的に輝かせました。従順な神社。垂れ下がった影は山の再出現を望み、高貴な意味を達成し、心から幸せになり、平和に座ることを望みます。まれに10億年、2000年以上前のものも存在します。ヴァジュラはグレート・カラムに従って生まれ変わり、完璧を達成します。そして、今生においては、その体は動かず、明王はその心を捧げて三国を支え、天照大社の石に祀られ、毎日正午にその影が頂上に映ります。山、慈悲深い富の神、15 人の少年、ロンは神を愛し、崇拝し、彼を守ります。植物や木の永遠の種子は、すべての人々が十分な食べ物と衣服を確保できるようにします。この山は河秀吉(サウロン王ポジルオロン)によって守られており、その命を守るために毎晩ランプを灯すことを直接誓います。一切衆生の邪道に堕ちよ、天照大社に「勅を返上せよ」と書かれた信仰状を送り、龍神の守護者を太龍と名付けます。勅令は終わりました。その額は天王に捧げられました。そのとき、大龍の三文字に与えられた名前です。寺よ、今より当山の仏を祈らなければ、世久大帝の多大な恩に報いることができる、永遠に、すべての衆生は、完璧な病を望んでいる――。自由で長寿です。仏法と人間界は常に安定し、繁栄し、安定しています。


‪太龍寺縁起については、ぐーたら秋山さんのサイトが詳しいのですが、‬‪http://goutara.blogspot.com/2011/01/blog-post_06.html‬
‪ぐーたらさんが参照しているのは以下の二冊でしょう。
‬‪(国会図書館デジタルコレクションに登録すると閲覧可能)‬‪
続群書類従第28‬‪ 

https://dl.ndl.go.jp/pid/936489/1/171‬‪

鷲敷町史 (1981)‬‪
https://dl.ndl.go.jp/pid/9774092/1/63‬ ↓

第1章/鷲敷への道

114頁~

舎心山太龍寺縁起
金剛遍照 
 それもって諸仏鎮場多しといえども、或は劫初より以後、出ずる砌をもって徳を揮う、或は仁王即位より以後、当某御宇、宿に因り用を積み威力を数う。かたじけなくも勅にしたがい、紫宸の宣に応じ某、霊地に開くあり、或は高賤平等もって益、信、新に初め成り、興隆正により運び歩みあり。
 或はまた超生勝生高祖の作徳をもって仏を安んじ菩薩像あり。また普賢大士の昔行を修し生により果に随う。沙門、一気発心を以って十方之勤志を集め、徳属を累ね有請を減じ信仰す。在々処々是くの如し、その阿波国那賀郡舎心山太龍寺に及ぶ。天神七代のうち六世、面足尊、惶根尊降り磯輪上に居坐す秀真国これなり。当七代伊弉諾尊、伊弉冊尊居坐に降る玉墟うち国産み八嶋あり。まず淡路州を産む、これ淡道穂狭別という。 
 つぎに伊与産む二名州あり、一身四面あり、一に愛止比売と言い、これ与州なり、二に飯依比古と言い、これ讃岐国なり、三に大宜都比売と言いこれ阿波国なり、四に(建)依別と言い、これ土佐州なり元根は伊与二名国ところ人情の賢別二名を称すと言う。四国名中、この大宜都比売、天神のため相応に玉城内国のため恵会す。天地開闢以後、天棚霧中、金色雲登る。一茎二神、金色雲に乗り、大雨降り濁潮となる。和泥、世界を建立す。
 風輪をつむ上水輪となり、最も下におり、その量無数なり、この上水輪、深さ十一億三萬、下八洛叉、原十六洛叉、凝結して金と成る。広厚十二洛叉、三千四百半、周囲此の三倍なり、一洛叉此言、三億喩繕那と言い由旬なり情あり業ます上のゆえ、まず虚空に於て最下に風林を生ず。その量、無数に広し。厚さ十六億由旬、その上水輪あり、厚さ十一億二万由旬。上、三億二万由旬、凝結して金と為る。下八億由旬なお水と為る。その二つ広さその量これ同じ、その径十一億三千四百五十由旬、風水金、かくのごとく立つ。風、頻りに沫と為り吹き上げ須弥山となり乃至は四大州八万小州鉄と成り山等を囲む。彼の万億世界建立同時なり。これ三千六千114世界と言う。かたじけなくも白鏡尊上名を現し替え光、天に音す、須弥四化して世に下し王種を続く。光音天上白正かな吾勝尊あり。
 然るに須弥四方、五十二洲数あり、四方王種、皆これ梵天王の種子祝う故、ことごとくかたじけなくも天照大神宮の貴孫の御子孫なり、自ら須弥東王種の名敕せり、大梵天王の末を継ぐ、然し東南方の五種の大梵天王種の末なり、西北方王種妙法の大梵天王の末を継ぐ、北方同じく西南方乃至、下方上方世界尸棄は大梵天王の種末なり、この南閻浮堤大日本国在るは、百億世界開闢の根種と為す、十方世界の種子と為す、故にこれ遮摩羅洲と言う。遮摩羅は練日羅なり。万物金剛と号すなり。然るに草木万物の惣名と言う。正に十方世界にこの州より五穀種子の実を賦すなり。保食神為し生往する洲故なり。
 また、かたじけなく王種、天照太神宮の直道の御末継ぐ、王種尽きず、吾に視勅在る如し、かけまくもかしこく貴き上、重く敬うべし、是れ国土長く思いを養い報い奉り送りもって慈悲と為し正直柔和なり、末世、下劣種有るべし。ただし孝心を奉じ用い崇め高位性を得べし、開闢の始め飛行自在と為し、明身光あり男女相違無し。形色、端厳、果報、殊妙なり、人寿無量なり、時に自量、千尺あるいは二千尺、食うところの地みな餅なり。地よりまた甘泉涌出す。その味、乳蜜の如し。これを競い取り食す。故に人身漸く堅く重し、身光に隠れ、神道を失う。然りと雖も、ここ玉城内国において、かたじけなくも天照太神行き求聞し基を持す。為に尽くさず三界百億の屋形祈禱し鎮静す。舎心地長く養いあり、御慈悲かたじけな言語及ぶべからず。末世、ここに於て太龍寺に詣で御本尊と為す。宝前、日月星を奉拝するは治世の上荘厳大家勝をうけ快楽を妙し保つにあらずや柔和正徳を得、奉るべし。聞くや否や舎心を得るに因り一切衆生を鎮治せしむ。
 果報、福智、愛の三徳故に名は舎心、往昔、本堂無く、御影向は虚空蔵の心石の安坐を示す所、空海、神代を尋ぎ妙貴金剛遍照、生五十復た拝して安坐に登る。百日六時を期し温座す。求聞、護摩を持すこと三十五日満願成就せしむ。つぎ六時温座す。神道、意の如く護摩を納受す。同じ神楽五足、護摩法三十五日。大徳成就せしめ畢わんぬ。一切衆生、本楽尽さず。解除供二十一日成就せしめ畢んぬ。天地和合、風調い、雨順う祓供し九日成就せしめ畢んぬ。その日帝釈天御影向を垂る。不動尊の御頭を作り賜う。空海、両手かたじけなく大神宮を作る。両賓童子を作す。五身あり、衣体作り奉り空海の両足、鷲敷一殿大己貴尊を作す。この不動明王一度、輩に見せ奉る。生々世々無病息災うたがいなし。また金剛の登山日より本堂閣、新に空海の峰承聞伝所を造らしめ奉る。往昔、神武天皇狭野尊、筑紫日向宮崎宮より大和国御坐入りの時、五月十六日舎心山、行幸あり、舎心の峰の明星、御影向石に通じ夜上に向き明星に礼し給う。公卿数輩、軍兵、蹲踞す。低頭出現し明星を念じ奉る。神武五十四年歳次甲寅五月十六日寅時、明星出現在り、自光の中降す、五寸虚空蔵あり、舎心峰の石盤、安坐を示す。その円き光の連三十五脈、輝き天地に在り、その光数滴り集合する所、閼伽水涌出す。和修吉龍王を守護し常住なり。
 また西南方に当る地を鎮め三十二町敷、三十二相の霊地有り。神代の初二神上、珍貴尊を産し、祝後上に三柱彦神を産す在り、当に三生の上産に蛇あり、蛭子、足無し分間無し、天櫲樟船に乗せ奉り大海原に放し捨て在り、和修吉龍、拾いとり奉り養育す。自地を授け出でて売買を主とし万民に幸す。愛敬神あり、名を戎と奉る。今鷲敷社にあり、その時、天櫲樟船に乗りあって上、久しく御鎮座の辺と為す。また鎮殿造社三間形、南殿三柱神あり、かたじけなくも天照大神宮鹿嶋一御殿、春日太明神、ならびに天照大神宮第一種子神あり。中殿西宮に愛敬戎三郎神を祝う。坎殿三柱神あり。白山に弁財天、三輪に大己貴尊あり、閼伽水を涌出し守護なし遷宮奉る。空海天長二年歳次乙巳六月一日本堂再興成就、元を治納す。 
 去る五月十六日より御本尊作を企て奉り誓う。神武行幸日、五寸虚空蔵涌降なり奉る等□服身なり、同六月一日寅時御本尊安坐鎮静す。真実恭敬勤行し満足せしめ畢んぬ。これひとえにかたじけなくも天照大神宮御正勅に依る者なり。一度参詣、値遇の輩、富貴子孫永く継ぐ。寿命長遠無病息災の徳、疑いなし。天長二年歳次乙巳、六月二日より空海福定洛叉に住む。同七日結願満足す、兼ねて時に五日巳の時、帝釈天その青白童子を引いて影向を垂る。手、金剛遍照いわく。我れこれかたじけなくも天照大神宮の御勅を順じ奉り影向を垂れ当山の再興成就す。貴意、希りあり歓喜し舎心開闢、御坐に安ず。一百十億二千余歳新たなる希いあり。金剛遍照大伽藍再興成就しこれ円満に及んで身、不動明王、三界のため舎心、明星石の奉安座を擁護する者なり。かたじけなくも天照太神宮、毎日午時、御影向を垂れ摩頂に至る。大弁財天女十五童子、戎愛敬神、たちまち守護を加う。草木萬情、種子を絶やさず萬民を与えしめ衣食、意の如し。この山こ和修吉龍王、婆竭羅龍、坐を示し守護せしむ。霊地は、龍神直に勅言を誓う。尽未来際、燈明を築け毎夜、生死長夜を照らす。求聞持、成就力。一切衆生悪道に堕すべからず誓約堅固。もって信言かたじけなくも天照大神宮の額字を奏請す。かたじけなくも天照大神宮勅宣を返し、龍神と為り霊地を守護す、吾また守護を加うる所の者なり、太龍寺と号し奉る。かたじけなくも勅言を訖す。
 帝釈天、その額形、献上の勅あり、時に四天大王中、毘沙門天その額形、帝釈天に献上す。その時、広目天擎硯筆あり、帝釈天舎心山居三字、空海に賜う。余り微妙、歓喜、覚めず了知、三字を奉書す大龍寺額これなり。今よりのち当山において本求聞持し奉らず滅亡知るべし。帝釈天帰幸ののち、厚恩を報じ奉らす。北方五十町を隔て毎夜、初丑の刻参詣奉る。天地久のため、一切衆生求める所、円満無病延命なり、仏法人の境、常住安穏常住繁昌治定なり。 
 天長二(八二五)年歲次乙巳六月十三日   金剛遍照敬白



シャーウッド山泰隆寺の由来

著:ヴァジュラダーラ

すべての仏陀は多くの礼拝所を持っていますが。 彼らは太古の昔から野にあったかもしれません。 あるいは、リンポチェ王の直々の治世以来かもしれない。 今泉今右衛門は仏教の僧侶である。 今泉今右衛門が今泉家に入った以上、私の居場所を開けるはずもない。 今泉の息子である私が精神的な場所を開くことなどできるわけがない」「今泉の息子である私が精神的な場所を開くことなどできるわけがない」「今泉の息子である私が精神的な場所を開くことなどできるわけがない。 
 
仏像や菩薩像も、普殷大師の過去に培われた、生起の因果。すなわち、仏像や菩薩像も、過去に培われた、生起の因果である。 
 
で、どこで、として。 廟(びょう)。 天神は七代の六代目、磯波鈴虫国に鎮座する足倉熊念仏の御顔である。 七代目の一向一揆(いっこういざなぎ)と同じ屋島で作られた。 初産地は淡路県。 淡路初産である。 大井、蜷尾は蜷尾州で生産された。 ボディは4面ある。 最初はアイジビズツ。 州と同じである。 第二は飯伊備前。 ザンキの状態でもある。 三番目は大意都比斬。 阿波国である。 そして4つ目は大義別。 これは土佐である。 而人名,而人名。 名の四国。 これは、対応する利益として天の神を売るよりも、偉大なイドゥである于成内国でしょう。 天地の開放後。 天蓋の霧の中で、黄金の雲が搭載された。 金色の雲には茎と二柱の神が乗っている。 世界は大雨を濁流と泥として降らせて造られた。


。。。。。

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 阿波国は本当に粟国なんですか?

阿波国は本当に粟国なんですか?

ちょっと二人程に先にしゃべくってしまったので、なんとなく書いてしまいます。
阿波国はホントに粟国からの由来なんですか?

「阿波」の名称と表記
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために「粟国(あわのくに)」、南の地域は「長国(ながのくに)」と呼ばれていたが、大化の改新の後に「粟国」に統一された。和銅6年(713年)、元明天皇の命により地名を二字で表記するため粟は「阿波」に変更された。 wikipedia
とあります。

また、古事記の国産みの段を見れば

如此言竟而。御合。生子淡道之穗之狹別嶋【訓別云和氣下效此】次生伊豫之二名嶋。此嶋者身一而有面四。毎面有名。故伊豫國謂愛(上)比賣【此二字以音下效此】讚岐國謂飯依比古。粟國謂大宜都比賣【此四字以音】土左國謂建依別。次生隱伎之三子嶋。亦名天之忍許呂別【許呂二字以音】次生筑紫嶋。此嶋亦身一而有面四。毎面有名。故筑紫國謂白日別。豐國謂豐日別。肥國謂建日向日豐久士比泥別。【自久至泥以音】熊曾國謂建日別【曾字以音】次生伊岐嶋。
亦名謂天比登都柱【自比至都以音訓天如云】次生津嶋。亦名謂天之狹手依比賣。次生佐度嶋。次生大倭豐秋津嶋。亦名謂天御虚空豐秋津根別。故因此八嶋先所生。謂大八嶋國。

とあり、「粟國を大宜都比賣と謂う」から「粟國」との記述で、粟がこの地で多く栽培されていたのに由来すると解釈するのが普通でしょう。
また、吉野川中流の川中島として「粟島(現在の善入寺島)」が阿波の地の語源とも言われていることは有名でしょう。

しかし、単に「粟島」ならば他にもありまして、例えば香川県三豊市の「粟島」
あるいは新潟県岩船郡粟島浦村の「粟島」
新潟県の「粟島」については
縄文時代の遺跡が東海岸に5ヶ所発見されていることから、既にその時代には人が住んでいたと想定される。しかし、弥生時代・古墳時代の遺跡は発見されていない。万葉集第12巻所収の「波の間(ま)ゆ雲居に見ゆる粟嶋の逢はぬものゆゑ吾(あ)に寄する児(こ)ら」が文献資料での粟島の初見と思われる。wikipedia
ともあります。

また、「粟国」についても「粟国(あぐに)の塩」で有名な沖縄県島尻郡粟国村は「粟国」島にありますよね。

なーに言ってるんだ、って声が聞こえてきそうですが、単に「粟島」から「粟国」は分るにしても、「阿波」になった理由が釈然としないってことが言いたいだけなんです。
「粟島」が阿波だけに存在する地名でない以上、例えば新潟が「阿波」になっててもおかしくなかったかもしれないということです。
もちろん、吉野川の「粟島」が川中島であり、阿波の中心付近に位置していたからとか、色んな理由があるってことは承知の上で、世迷い言を呟いてるんですぜ(笑)

では、なんでこんな世迷い言を呟いているかと言いますと、去年からこんなのを読んでおりまして。
「阿波國後風土記巻之一 初稿」松浦年長(宗作)の手による文です。

徳島県立図書館の正式な許可を得てませんので画像は部分といたします。

松浦年長(宗作)は、ワタクシがくどくど言っております「阿波國続風土記」編纂御用掛

主要メンバーの内「主任」とされております(後藤年譜より)。

後藤家文書の中で、後藤尚豊(麻之丞)が「まつらぬし様」と呼んでいる、実務上のまとめ役を行なっておりました方です。

ちなみに徳島藩校である「長久館」から出仕した士分の方です。

その「松浦年長」が「阿波國続風土記」の序文として書いた文書ですが、「続風土記」の編集方針であるとか基本的な阿波国の由来であるとかを記しております。

最初の方だけ簡単に書下しますと(旧仮名遣いとかは勝手に変えてます)

此の粟の國は顕世(うつしよ)の初めにまず成り出るは伊豫の二名(ふたな)の島の四面あるが中の其の一面にして山青く水長く萬(よろず)満ち足るをせる御國なり、そは古事記に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)二柱神・・・

と始まっております。

また色々面白いことも書いてあるんですが

例えば位田を王地山城国と同等に扱われているとか、「拾芥抄」(しゅうがいしょう)に「封戸に充ずして其の國を禁秘し賜う」とあるとか(笑)

ここらは全文書き下してから見て行きたいと思いますが(思うだけだったりして)

今回見ていただきたいのは、この部分。


本国(このみくに)を阿波という名の義は海國(あまのくに)なり(阿)波と麻とは同じ唇音にて、ことに親しく通へり、凡て皇国の古義事実を探索なすには、まず神社地名の起源を故事に倣し古言和訓を明らめ五十音を貫徹し神国の神国たる御名代(みなしろ)の御名代(みなしろ)たる言霊の幸は小国たる所以・・・

阿波國(あわこく)は海國(あまのくに)の意だと申されております。

ここからは原文の書き下しは載せませんが、その理由が綿々と書かれております。

凡直(おおしのあたい)、粟凡直(あわのおおしのあたい)は海神に縁(えにし)あり、大麻日子の神も海神(わたのかみ)建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)に因縁(ちなみ)ありしより潮之郡(いたのぐん)の名神となり、などとも言っております。

また、凡直(おおしのあたい)は尾張連(おわりのむらじ)凡海連(おおしあまのむらじ)、安曇連(あずみのむらじ)と同祖なる事継体天皇の御巻に尾張連の祖は凡連という人出て、とも書かれております。

そして粟については、粟という作物はどこでもできる雑穀であり、その昔に(粟を植えることを)奨励されたが農民はそれに従わなかった程の無味下品(げぼん)の性であるのでこれを国名にするのは有りえない、じゃあ吉備国は黍(きび)が多く穫れたから吉備にしたのか?ちがうでしょ(笑)との説を展開しております。

では大宜都比売(おおげつひめ)の鼻から粟が実って、云々の話はどうなんじゃいとの問いには、凡爾臣(和爾氏)の祖である「意祁都命(おげつのみこと)」その妹「意祁都比売命(おげつひめのみこと)」また妹「素祁都比売命(そげつひめのみこと)」からきてて、これは全て海神(わたのかみ)の縁(えにし)であると言っております。

実際、安曇宿禰が上八万町の大木にいたことと佐那河内にいたことは多分間違いないんです。上八万の大木は王城からの転ですし、佐那河内には大川原(高原)がありますが、あそこに川原なんて無いことは県民誰でも知ってます。「王ケ原(おうがはら)」の転なんです。

まだまだ書ききれないんです、松浦年長による説は。

でも大筋は上に書いた通りです。阿波国の義は「粟」からではなく「海国(あまこく)」からという説です。

これを「阿波國続風土記」の序文として書いているのです。

その他にも「勝間の井」についても調べて行く旨、記されており、これについては「後藤尚豊」氏の「勝間井探索記」も手元にありますので、皆様の希望があれば書かせていただきますが、どうしましょうか?

あ、もひとつ。

これはあくまで「松浦年長」の説であって、ボクはよく分りません(笑)

ただし、海国説を採るといろいろ面白い解釈ができることも確かです、例えば御名を大海人(おおあま)と云う天武天皇は、幼少期に凡海氏(海部一族の伴造)に教育されたと言いますよね。

「大海人皇子(おおあまのおうじ)」ですよね。

海人(あま)が海国(あわこく)から来てるなら........以下略

嗚呼、今回も画像が無くて読みにくいなぁ。


。。。。


私が購入したこの3冊の本の著者はいずれも大杉博さん。大杉博さんは昭和4年(1929年)、岡山県のお生まれ。昭和51年(1976年)から古代史の研究を始め、『日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-』を自費出版。昭和52年(1977年)に「倭国(いのくに)研究会」を主宰。昭和54年(1979年)、自費出版した『ついに解けた古代史の謎』で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。昭和56年(1981年)に倭国(いのくに)研究所を設立し、所長に就任。平成4年(1992年)、『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』(たま出版)を発表して、それまでの研究成果を世に問いました。「邪馬台国四国説」の論客で最も精力的に活動された徳島県三好市池田町在住の郷土史家でした。著書にはほかに『古代ユダヤと日本建国の秘密』、『邪馬台国の結論は四国山上説だ』、『天皇家の大秘密政策―大和朝廷の出自隠し1300年の密謀』、『古代ユダヤと日本建国の秘密―消えたユダヤの秘宝と四国・剣山の謎』など多数あります (それにしても、なんとも刺激的な題名の本ばかりですね。これじゃあ、いわゆる“トンデモ本”と思われても仕方ありませんわね)。

https://www.halex.co.jp
>blog
>ochi



2018/2/16 -大杉博さんは昭和4年(1929年)、岡山県のお生まれ。昭和51年(1976年)から古代史の研究を始め、『日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地

「剣山の失われたアーク」と「邪馬台国・古事記 徳島説」の流れ - 空と風

「剣山の失われたアーク」と「邪馬台国・古事記 徳島説」の流れ

卑弥呼さん。「卑弥呼」で画像検索したら出てきたんですけど・・・。

徳島が「古事記の神話の舞台」または「邪馬台国」とする説を、今までどういう方々が唱えてきたのか、簡単に書いてみます。
れんだいこ氏の「邪馬台国考」の中の邪馬台国四国説考を参考にしました。 


① 1975年(昭和50年)郡昇氏(郷土史家)  「阿波高天原考」(自費出版) 

② 1976年 古代阿波研究会 「邪馬壱国は阿波だった-魏志倭人伝と古事記との一致」(新人物往来社) 

③  「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!!幻の国・皇祖の地高天原」(日本テレビ)
   フランキー堺が「邪馬壱国は阿波だった」を読んで驚き、プロデューサー山中康男と共同で番組制作。
   1977年、山中氏がその時の取材調査成果をもとに 「高天原は阿波だった」(講談社)を執筆。 

④ 1985年 阿波国史研究会 「道は阿波より始まる」その1
    86年 その2
    89年 その3  

 ※ 著者の岩利大閑氏は、阿波国が「倭」であり、その遷都先が「大倭」=「大和」国であるという
   阿波倭説をとっているが、上記「邪馬台国四国説考」で、れんだいこ氏は、
   ~岩利氏の主張のユニークなところは、高天原だけではなく、
    記紀にいう「大倭」とは阿波国のことであるとし・・・~ と書き、誤解があります。
   この違いは大きいので、一応指摘しておきます。 

 ※ その他「邪馬台国四国北岸説」「邪馬台国北四国説」「邪馬台国土佐説」等が発表されるが、詳細は省略。 

⑤ 1977年  大杉博氏 「日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-」(自費出版)
   1979年  「ついに解けた古代史の謎」で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。
   1992年  「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版) 

大杉氏は、徳島に転居された後、どなたかの著作に触れてこのことに興味を持ち、その後ご自分で調査・研究を続けた結果、現在の持論を持つに至りました。
そのことを著作の中で説明されていたので、該当箇所を見つけたら、後で正確に書き直します。 

※追記 

大杉氏の著作から該当部分を引用します。 

邪馬台国阿波説を最初に発表したのは上板町の故・保田兵治郎氏で、昭和36年地元の神社の古記録に「粟散土国王在日弥子」の記事を発見し、邪馬台国研究に入った。
そして阿波歴史研究会で「邪馬台国阿波在国説」を発表したのが昭和39年。 

保田氏は昭和41年には「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」を自費出版した。
この保田氏をモデルとして「邪馬台国は阿波だった」という小説を書いたのが堤高数氏。 

(中略) 

これらの足跡を受けて昭和51年に、古代阿波研究会というグループが「邪馬壱国は阿波だった」を出版したのである。
私は、この本によって邪馬台国研究に入ったのである。 

(引用終わり) 

上に書いた郡昇氏の「阿波高天原考」に約10年先行する研究の歴史があったようです。 




『名神序頌』(メイシンジョショウ) (岡本監輔・オカモトカンスケ 1839 − 1904)


名神序頌 図書 岡本監輔 著 黒崎精二, 明28.6
1895年


https://dl.ndl.go.jp/pid/816135


https://dl.ndl.go.jp/pid/816135/1/33
30頁に橿原

刊行時、小杉の没後から3年が経っていた。喜田ら後続の学者たちが遺著としてまとめたものであった。 本書は、古代から近世に至るまでの、古文書・古記録を中心に、絵図や棟 ...


折口信夫全集 第七巻

  折口博士記念古代研究所 編 中央公論社, 昭和41 1966
日本文學の發生 序說/153

《阿波といへば、舊地の舊地》

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【俳優・フランキー堺の注目】


俳優の故フランキー堺はこの「邪馬壱国は阿波だった」[1976年、新人物往来社]を読んで驚き、日本テレビのプロデューサー・山中康男氏との共同で、「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!! 幻の国・皇祖の地高天原」(出演・フランキー堺)を製作した。1977年、山中氏が、その時の取材調査成果を「高天原は阿波だった」(講談社)という書籍にまとめた








大杉博




笹田至孝




三村




藤井榮


(新発売)最終結論 皇都ヤマトは阿波だった

岩利大閑氏の後継者? 笹田孝至 (著)  阿波国古代研究所 2024年4月18日発売予定
目次
第一章 記紀神話の封印(謎)を解く
第二章 阿波国延喜式内社
第三章 神話の本源地(舞台)を復元する
第四章 神武天皇の東征
第五章 倭(阿波)と大倭(奈良)
第六章 遷都はいつ行なわれたか

https://note.com/cute_hebe442/n/n13fe3af2e2bd

阿波古代史を知るための公開古文書リスト、「阿波國風土記」他(更新2024.4.10)

見出し画像

阿波邪馬台国説を提唱する、先人の調べた資料・痕跡をたどるために、
とくに、ネット上で無償公開されて読めるものを中心にピックアップした資料を列挙して紹介しておきます。

※なにゆえ古代史であり、それぞれの内容の真偽は不明です。
私は、先人の説におおむね賛同しており、阿波から始まった政権が奈良平城京に遷都したと考えています。
ただし、近年までの考古学的成果を踏まえて、少し修正すべき点もあると思います。

道は阿波より始まる(岩利大閑著)

道は阿波より始まる(その1,その2、その3)は 徳島のスーパー・キョーエイ(京屋社会福祉事業団)から発行されているものであるが、これを読まずしては始まらない。
「狐の帰る國」の著者坂東一男氏の家系に伝わる伝承を、岩利大閑氏とともに調べてまとめ上げたものである。

後世の阿波邪馬台国説を語る人は、これをベースにしている。

狐の帰る國(坂東一男著)

著者が生まれた実家、徳島県旧勝浦郡多家良村(徳島市八多町)に伝わる伝承をもとに、万葉集の舞台を説明した本です。
坂東氏は、「道は阿波より始まる」著者の岩利大閑氏とともに、阿波古代史を解き明かしてきました。

(新発売)最終結論 皇都ヤマトは阿波だった

岩利大閑氏の後継者? 笹田孝至 (著)  阿波国古代研究所 2024年4月18日発売予定
目次
第一章 記紀神話の封印(謎)を解く
第二章 阿波国延喜式内社
第三章 神話の本源地(舞台)を復元する
第四章 神武天皇の東征
第五章 倭(阿波)と大倭(奈良)
第六章 遷都はいつ行なわれたか

(新発売)甦る皇都阿波への旅: ~岩利大閑に導かれて~ 古事記が示す神々の舞台

藤井 榮 (月神文芸)  Kindle版 藤井 榮 (著) 2024.2.8発売

岩利大閑氏、笹田氏の説を徳島以外の人にもわりやすく地図・写真と対応させて説明しています。全体像をつかむのにも詳細を知るための入り口としてもおすすめします。

国会図書館デジタルコレクション

粟之抜穂 巻1 飯田義資 著 徳島県教育会, 1961

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古風土記逸文 栗田寛 纂訂 大岡山書店, 1927

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阿波

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勝間井 アマノリト山

阿波国徴古雑抄 小杉榲邨 編 日本歴史地理学会, 1913

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阿波の歴史地理 第1 福井好行 著 1964

岩利大閑氏よりも古くから郷土史を調査していた方

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粟国、長国、伊予、土佐、讃岐は直轄だったため、国造の設置が後回しになったのか?
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徳島県郷土史 徳島県教育会 編 大正7

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成務天皇の御代から国司が阿波にはおかれていた

道は阿波より始まる その1

(阿波風土記伝承と磯上乃古事記) は公開されていないので、発行元からの直接入手が必要だが、その2、3はなぜか公開されている。

道は阿波より始まる その2

(阿波風土記伝承と磯上乃古事記) 
岩利大閑 著 阿波国々史研究会, 1986.5

道は阿波より始まる その3

(阿波風土記伝承と記紀の史実)
岩利大閑 著 阿波国国史研究会, 1989.5

邪馬壱国は阿波だった

: 魏志倭人伝と古事記との一致
古代阿波研究会 編 新人物往来社, 1976

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邪馬壱国は阿波だった : 魏志倭人伝と古事記との一致

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邪馬壱国は阿波だった : 魏志倭人伝と古事記との一致

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邪馬壱国は阿波だった : 魏志倭人伝と古事記との一致

邪馬壱国は阿波だ

堀川豊平 [著] 教育出版センター, 1982.3

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邪馬壱国は阿波だ
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邪馬壱国は阿波だ
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邪馬壱国は阿波だ

高天原は阿波だった

山中康男 著(元日本テレビ社員) 講談社, 1977.3

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高天原は阿波だった

新しい阿波史 (新生文庫)

飯田義資 著 徳島新聞出版部, 1953

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新しい阿波史

徳島県史料 第2巻 (阿府志,阿淡御条目)

徳島県史編さん委員会 編 徳島県, 1967

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阿府志 巻第十二
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阿府志 巻第十三

佐那河内村史 1967


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佐那河内村史

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佐那河内村史

名東郡史 1960

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大和時代 阿波国造
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大和時代 阿波国造 

徳島市史 第1巻 (総説編) 1973

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大化の改新

鴨島町誌 1964

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大化の改新以前 鴨島町の古墳とその副葬品

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呉島郷 大陸からの帰化人

小松島市史 風土記 1977

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阿波三峰

小松島市史 上巻 1974

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板野郡誌 上巻 1972

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神領村誌 1960

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折口信夫全集 第七巻

  折口博士記念古代研究所 編 中央公論社, 昭和41 1966
日本文學の發生 序說/153

《阿波といへば、舊地の舊地》

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日本文學の發生 序說

御肇国史 開篇 大槻如電 著 昭和8

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御肇国史 主篇

宮内庁 図書寮文庫

宮内公文書館 陵墓資料(繪図類)阿波国名方郡図 ※非公開

宮内公文書館 陵墓資料(繪図類)東大寺文書 阿波国名方郡新鳥山庄絵図(条里図)/天平宝字2年 ※非公開

阿波志 (12巻) ※非公開

万葉集作者部類1巻) 文化二(1805) 阿波国文庫&不忍文庫 

国書データベース 唯一の日本古典籍ポータルサイト

★阿波國風土記 巻之一,K1,地誌,久富/憲明,1件,619352
(筑波大学付属図書館)

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阿波国風土記
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天照皇太神の御弟神素戔嗚尊の御悪行を・・・
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人皇の第一神日本磐余彦**天皇舟師を引率したまひて・・・
皇帝の命令に背き・・・長髄彦征罰・・・

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(鴨島は神島?)
鴨島村・・・かもとかみとの誤り也と伝・・・又宮地と伝・・・
西門東門・・・神領の蔵あり
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阿波國古郷名附 風土記編纂
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高足(タカシ) 土師
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讃州界道 天皇社 拝村 種穂山忌部社
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鴨島 古は 冠島ナリ
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阿波國風土記編纂雑纂
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麁妙服事

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阿波真人廣記

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阿波國風土記
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粟の落穂,K1,地誌,野口/年長(野口/直道) 編,安政三,3件,87489

万葉集作者部類(1巻) 文化二(1805) 阿波国文庫&不忍文庫  
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「人麻呂は飛鳥のち岡本宮のひに生まれて藤原京和銅の始奈良へ遷都より前にみまかれし也この人すべて日本紀にのす万葉考別記に詳し」

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万葉集作者部類(1巻)

徳島県立図書館 郷土古文書資料一覧

https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/monjyo/kmonjyo.html

阿波志 藤原之憲著 文化一二(一八一五)
阿府志 赤堀良亮著 天明二(一七八二)
阿波志抄 柴野碧海著 文化二(一八〇五)
粟の落穂 野口年長著 安政三(一八五六)
阿波国後風土記巻 松浦長年著 明治二(一八六九)

阿波志 一
阿波志 二
阿波志 三
阿波志 四
阿波志 五
阿波志抄
異本阿波志 上
異本阿波志 下

阿府志 十二

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阿府志 十二

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阿府志 十二
阿府志十二 按ニ斉明天皇ノ朝大友実記ニ曰昔百済国ノ福信ト云者カ乞ニ応シテ救ヒノ人数ヲ九州及中国四国ノ軍勢 数騎百済ニ渡ル 阿波ノ司阿波ノ真人広純五百ノ軍勢ヲ引率シテ彼ノ地ニ至ル・・・
(?天武天皇の和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇。阿波ノ真人だった時期があったのでは?)

阿府志 十三
阿府志 十四
阿府志 十五
阿府志 十六
阿府志 十七
阿府志 十八
阿府志 十九 上
阿府志 十九 下
阿府志 二十二
阿府志 二十四
阿府志 二十八
阿府志 二十九
亜墨新話
阿波名所圖會(図会)

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阿波名所圖會(図会) 

阿波名所記
阿波地誌
阿波国名勝記
阿波名所
阿波名所案内 名西郡
阿波国群村浦録 附名所旧跡
小学阿波国地誌
祖谷紀行
四国徳島写真帖
白鹿洞掲示図解
女孝経 源元寛 校訂
闇路指南車  上
闇路指南車  下
山崎邨神社紀
阿波国杉之小山之記

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阿波国杉之小山之記

洞明神
阿波国二十二社順拝記
阿波国神社 全
當山開基由来書(竹林院)
式社略考論
二狂談
雪夜吟
雪窓夜話
阿波西国三十三ヶ所
阿波国秩父三十四ヶ所道中記
阿波三十三所巡礼記
四国偏礼道指南増補大成
天保再刻 四国遍路道志るべ 全
四国偏礼霊場記(一)
四国偏礼霊場記(二)
四国偏礼霊場記(三)
四国偏礼霊場記(四)
四国偏礼霊場記(五)
四国偏礼霊場記(六)
四国偏礼霊場記(七)
御尊号略縁起
丈六寺秋葉山唐銅獅子寄附名面牒
民間童蒙 孝行和讃
土沙加持永祠縁記並真言宗在家要抄
七星九曜念誦真言
地蔵菩薩-万躰印行勸記
地蔵菩薩讃歎記
安心小鏡内編  上下
安心小鏡外編  上下
光明真言配当和釈
奉納経(一)
奉納経(二)
名東郡井戸村切支丹宗門就御改仕上書物帳控
郷土関係記事
内外歴史地理断片
社寺(一)
社寺(二)
社寺(三)
社寺(四)
世々のうもれぎ_匂玉考(全)
白鹿洞窟提示図解1
粟の落穂(一)

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粟の落穂(一)

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粟の落穂(一)

粟の落穂(二)
粟の落穂(三)
阿波国古記録
阿波国後風土記起稿 他
南海治乱記 一
南海治乱記 二
南海治乱記 三
南海治乱記 四
南海治乱記 五
南海治乱記 六
阿淡両国掟記録写 全
阿淡御両国御譜録
渭水勤懲録 乾坤
浅川浦取立之覚 他
郡方記 全
野芹(全)
大粟誌稿 全
阿波平均簿
阿波古城図郡記
阿波廃城考

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阿波廃城考

元武弘徳明視録 上
元武弘徳明視録 下
阿淡御両国御壁書之写
温故録

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温故録

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温故録

古狸金長義勇珍説 乾
近頃古狸珍説 礼義智信
阿波百物語
燈下録 一
燈下録 二
燈下録 三
燈下録 四
燈下録 五
阿州奇事雑話 一
阿州奇事雑話 二
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阿波藍栽培及製造法
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阿波藍沿革史 一下
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阿波藍沿革史 二下
阿波藍沿革史 三
阿波藍沿革史 四上
阿波藍沿革史 四下
阿波藍沿革史 五上
阿波藍沿革史 五下
阿波藍沿革史 六上
阿波藍沿革史 六中
阿波藍沿革史 六下
阿波藍沿革史 七上
阿波藍沿革史 七中
阿波藍沿革史 七下
阿波藍沿革史 八下
阿波藍沿革史 八中
阿波藍沿革史 八下

徳島県郷土研究論文集 阿波学会研究紀要

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郷土研究発表会紀要第30号 古代信仰と鴨島https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/30/3017.html







谷川健一「阿波--栗の信仰と海人族の足音」『黒潮の民俗学』(1976)3~12頁

 オオゲツヒメは栗の女神であり、同時に月の女神でもあった。沖縄の海人(うみんちゅ)にとって潮の干満を左右する月の存在は、片時も忘れることのできないものである。その南方の人びとが黒潮に乗って土佐神をかすめ、紀州にむかうとき、黒潮の支流は紀伊水道に入りこみ、鳴門海峡の近くまで北上し、そこで反転して徳島の海岸を洗う。おそらくこのようにして南方の人たちの文化が徳島(阿波)の東海岸と淡路の西海岸のあいだに滞留した。 そしてそこに日本でもっとも古い神話が生まれた。それがオオゲツヒメの神話であった。
 徳島県は、大化の改新(六四五年)で阿波の呼称に統一されたが、もともと栗と長の二国に分かれていた。栗の国は吉野川の流域を中心に、長の国は那賀(なか)川以南の地方を指す。南方からやってきた海人(あま)族は、このあたりで焼畑に栗をまきながらくらしていたのだった。その生活の習俗は、稲作の渡来ののちもこの地方に伝えられたのである。


 粟の農耕儀礼にともなうオオゲツヒメの神話は、古事記の一ページの中にまぎれこんで残っている。オオゲツヒメはスサノオノミコトに咬み殺された。そうしてその屍体から栗や麦や稲や小豆や蚕を生み出した。 地母神であるにせよ、穀母神であるにせよ、殺されて人びとに寄与し貢献するというのは女性の宿命の大きさを私に感じさせる。

 ふしぎなことに、オオゲツヒメの屍体から生まれた穀物の名と一致する地名が徳島県の周辺にある。蚕は児島半島であり、小豆は小豆島である。栗は阿波である。麦は徳島県の南部にあるこれは自然のいたずらとはおもえない。とすれば、南方から渡来した古代の海人族は、粟(阿波)の国を中心として、オオゲツヒメの身体を描いてみたのだろうか。すなわち頭は児島半島に、下腹部は徳島県の南部にひろがっている。オオゲツヒメの肉体の輪郭の中に阿波の国はつつまれる。粟は五穀の総称でもあった。
 だがやがて、月と粟の女神であるオオゲツヒメにとってかわって、日と稲の女神であるアマテラスが登場する。日つぎの皇子であり、稲の首長でもある天皇を聖化する朝廷の物語の中では、日と稲の神話が強調され、月と栗の神話はかげがうすれる。それは、昼間の月のようにかすかな爪跡を残しているだけだ。

 淡路は阿波への道である。淡路から阿波へ渡るには、粟の水門と古く呼ばれた鳴門海峡を横切らねばならない。私がこの海峡をとおったとき、汽船はかなしげに汽笛を鳴らし、卓上の瓶の液体は波立った。そして冬の荒れた海の果てに、桃色の夕焼けが凝っていた。私は今も二千年まえも変わらぬ自然の中に、粟の女神であるオオゲツヒメのほのかに大きな肉体を感じた。
 阿波への旅は私自身に宿るはかり知れないほど古い記憶を遡行することであった。たとえばイザナギが黄泉の国のイザナミを訪問し、イザナミの屍体をのぞき見したというかど
で、イザナミから追われて、黄泉の国を逃げ出したあと、ミソギをする話がある。このくだりは日本書紀の中の『一書』十一では次のようになっている。

「すなわち往きて粟の門および速吸名門をみそなわす。しかるにこの二つの門、潮すでにはなはだはやし。故、橘の小門に還向りたまいて、払いすすぎたまう。」

 この中の粟の門は鳴門海峡を指しているといわれる。 速吸名門はふつう豊海峡のことだとされているが、明石海峡を指すばあいもある。そして古事記と日本書紀の『一書』六に「筑紫の日向の小門の橘の檍(あはき)原」となっているところから、橘の小門を筑前の糟屋(かすや)郡に比定したり、あるいは日向の国になぞらえたりすることが少なくない。
 しかし、前にあげた書紀の『一書』 十一には、筑前とも日向とも書いていないのだから、かならずしも九州とは考えなくてもよさそうである。 
 それにイザナギ、イザナミの国生みの神話が淡路を中心とした島生みの神話にほかならなかったことを考えると、九州は遠すぎる。古事記や日本書紀の作者ができるだけ神話の舞台をひろく見せるために、九州や出雲をさかんに登場させることがあっても、イザナギ、イザナミの神話は淡路をそう遠くはなれてはならぬ。むしろ、鳴門海峡や明石海峡が出てくるのだから、阿波の国を考えるのが一番自然である。

 徳島県の南部に蒲生田(かもうだ)岬や舞子島をはじめとする島々にかこまれた橘湾が見付かるのである。橘湾を一望に見渡す津峰神社にのぼってみれば直ちに分かるように、それは徳島県随一の天然の良港である。『阿波風土記』によると、小松島が「中のみなと」、この橘湾は「さき(咲の右)のみなと」とよばれていた。古代から上貢のとして知られ、和歌山県の湯浅あたりと海上の交通路がひらかれていた。橘湾の突端にある椿泊(つばきどまり)に多い湯浅の姓は、紀州からの移住者を物語る。
 この橘湾は、潮のながれがゆるやかで、しかも深いので、湾内にながれこむ福井川の川口には今でも二畳敷ほどにも大きい魚のエイが卵を生みにくる。また以前には海亀や鮫がどんどんはいってきたものだ、と漁師にきいた。それはとおく海神の宮につながる場所でもあったのだ。
 そして現に津峰(つのみね)神社のふもとには青木という地名が見付かる。この青木が津峰のふもとの樹海の様相から生まれた名であるか、それとも檍(阿波岐) から由来するものであるかたしかめるすべはないが、いずれにしても、今より湾が深く入りこんでいた古代には、そこはイザナギがミソギをするのにふさわしい場所のように私にはおもわれてならない。つまり、「橘の小門の檍原」という記紀の文章になぞらえるのにかっこうな土地柄なのだ。

 橘湾の南がわの岬は椿泊である。阿波水軍の根拠地として知られるこの漁港は、一風変わった町の体裁をもっている。岬にそったわずかばかりの平地に二ならびの家並があり、 そのまんなかを、ほそい道路がとおっている。道路の左右の家々にはもちろん門も庭もない。小型自動車はその道路をやっと通れるが、むこうからくる車をわきに避けることはできない。どちらかが無限に後退をつづけるほかない。
 椿泊の突端である燧(ひうち)崎に弁財天がまつられ、そこから、潮が引けばとおれそうな海中に舞子島がある。その島は周囲が断崖になっていて、とりつくしまがない。
 しかもその舞子島に、大正十一年に横穴式古墳が発見された。それらの古墳は息切れをしないではのぼることができない島の頂上の断崖に面したところにあった。古墳はつごう十三基あった。とても人が住めそうにはないこの島の頂上にどうして古墳を作ったのか。
 古墳の天井を蓋石は三、四尺(一メートル強)のものであって、他所からわざわざはこん
だものにまちがいない。 蒲生田岬や椿泊には石棺をこしらえる材料には事欠かないのに、それを捨てて、何のためにこの不便な島を墳墓の地にえらんだのか。それにはとくべつの理由がなければならない。つまり古代の海人族が、その首長を葬るために、この島を海上他界としたと考えるほかにない。
 舞子島からは弥生式土器も発見されているので、その信仰習俗は古墳時代に限定するよりは、はるかにさかのぼる起源をもつものである。
 しかも椿泊の老人から聞いたところによると、この舞子島は明治十年頃まで、死人を捨てる島として使用されていたという。他所の港で伝染病に罹って死んだ者の死体は、椿泊の町に入れずに、この地先の島に捨てた。それは伝染病が蔓延しないための賢明な措置であった。それに、椿泊の手のひらほどの墓地にはこれ以上墓石をふやす余裕はない。しかしそれだけの理由であったろうか。
 老人は次のようなうたをおぼえていると、私に語った。

竹のたんは
どこへいった
舞子の浜へ
金掘りに

「たん」は「おたつさん」ともいい、この地方で母親を呼ぶときの語である。つまり、竹とよばれる子供の母さんは舞子の島の浜に屍骸を埋めにいった、ということを指している。舞子島こそは海上他界である。その島の砂嘴に死体をさらす風習はとおく古代の海島古墳にまでさかのぼれることを物語っているのである。海中にそそり立つ奇怪な死人の島のすがたは、私を神話の世界にまでつれ去ってゆく。
 舞子島が死者をほうむる島だからといって私はなにもそれを、イザナミの葬られた黄泉の国に比定しているのではない。ただ橘湾を橘の小門と考えるとき、その神話の構図の視野の中に舞子島がとうぜんはいってくることをいいたいのである。
 イザナギは橘の小門でミソギをしたのち淡路で死んだ。淡路の一の宮にまつられているのはイザナギである。ところで仁徳帝の子どもである履中天皇は淡路に狩をして、島神であるイザナギの機嫌を損じたと、日本書紀にある。しかもその履中天皇が、 徳島県の最南端で高知県の甲の浦まではわずか四キロという町に関係がある。

 履中天皇に姉妹で仕えていたある女官の兄は、阿波の国の脚咋(あしくい)の里にかくれ住んだ、と日本書紀にあるが、この脚の里はいまの宍喰(ししくい)だといわれている。また、風土記には、履中天皇が阿波の国の和那散(わなさ)でシジミ貝をたべた、とあるが、和那散は、この宍喰町の那佐(なさ)である。
 この那佐には和奈佐意富曾(わなさおふそ)神社が祀られていた。ワナサのナサは波の音がやむことがない、という意味で、オフソは大磯という語から由来するといわれているから、海人族の祀った神社であったにちがいない。この神社は現在、宍喰町の北の海南町の大里公園の中に移っているが、海部郡唯一の式内社として、この地方二十一ヵ村の人びとの尊崇をあつめている氏神である。

 ところでふしぎなことに、出雲にもアハキヘ・ワナサヒコという神があった。このアハキへは阿波から来経(きへ)た―つまり阿波から出雲に移住したワナサヒコだという意味だと折口信夫は解釈している。
『丹後風土記』には次のようにいう。丹後の比治(ひじ)の里に真奈井(まない)という井戸があって、そこに八人の天女が降っては水浴びをしてたのしんでいた。ところがその村にワナサオキナワナサオウオウナという老翁、老嫗がいて、天女のなかのひとりの着物をかくしてしまった。天女は仕方なく老夫婦のいいなりにその子どもとなり、十数年をすごした。翁と嫗は天女のおかげで富み栄えたが、それにもかかわらず邪樫にも天女を追い出してしまった。天女はなげきかなしんで老夫婦のもとを去り、奈具の村の社にとどまった。これがトヨウカノメノミコトである、と。
 羽衣伝説は奄美、沖縄などにひろく分布している。トヨウカノメノミコトは穀物女神でオオゲツヒメと同一である。しかもここにはワナオキナワナサオウナという二人の老夫婦が出てくる。とすれば、これは阿波の和那佐と関係がふかいことは誰しも想像がつく。
 ワナサの信仰は、貴人の赤んぼうを潮水に漬けて産湯を使わせたり、みそぎの儀式の手引をする海女の役割とつながりがある、と折口信夫は考えているようである。さきにあげた羽衣伝説にも、真奈井という井戸が出てくる。水の信仰を方々に持ち歩く集団があって、それが自分たちの出身地である宍喰の和那佐を聖化するために、履中天皇の故事を作り上げ、 むすびつけて語ったのかも知れぬ。
 私はそれを宍喰浦から北へ牟岐、木岐、由岐、志和岐、阿部(あぶ)などの浦々にたどってみることができるとおもうのだ。これらの浦々はいまも海士海女が生業を立てている。
 由岐町から蒲生田岬の方へ道をとると、にわかに海を見下すけわしい山坂となる。曲がりくねった山の中腹の道から、はるかむこうの断崖絶壁に太平洋の怒濤が押しよせているのがみえる。そして山からの展望がひらけるとわずかばかりの平地にとつぜん集落があらわれる。このあたりは陸路の交通は以前は不可能に近かったことが想像される。漁村どうしの交通には海上から近づく以外にはない。だから海がシケるとこれらの村々は暗澹とした日々を送らねばならなかった。私がぞっとする山道を車で越えて阿部の村に立ち寄ったとき、冬季のことでモグリのすがたは見られなかった。自動車道路ができてからは、頭に海産物をのせて売りあるく「阿部のイタダキ」のすがたも消えてしまったという話であった。

 戦前には信州や日本海の海岸はおろか、満洲まで行商をしたという阿部の女たちのたくましい活動ぶりから、私はかつてワナサの水の信仰を持ち歩いた古代の阿波の海人族の遍歴の足あとを偲んだ。
 私の推測によれば、そのような海人族の信仰や芸能にまつわる伝承は、宍喰の那佐にはじまって、阿波の東南岸に孤立した海角である牟岐、木岐、 由岐、志和岐とふしぎにも語尾に岐をもつ地名をたどってはこばれたのだった。漂海民である海人族の生活習俗は、定着した農耕民とはほどとおく、丹後や出雲にもおよぶ陸上の移動を少しも苦にしなかったにちがいない。
 私が徳島県と高知県の県境にある宍喰の町についた夜、めずらしく冬の雷がとどろいて、私は紫色の華麗な稲妻に襲われた。それは、これから幻想の神話の世界にむかって旅立とうとする私へのかっこうの贈物ではなかったか。


初稿発表紙誌
阿波ーー粟の信仰と海人族の足音 『小原流挿花』72年2月号

谷川健一 たにがわけんいち
1921年 熊本県に生まれる
<主要著作>『魔の系譜』 (紀伊国屋書店), 『沖縄・辺境の時間と空間』 (三一書房), 『常民への照射』(冬樹社), 『埋もれた日本地図』(筑摩書房), 『古代史ノォト』 『原風土の相貌』(大和書房), 『神・人間・動物』(平凡社)など。

『黒潮の民俗学 神々のいる風景』
1976年10月25日初版第1刷発行
著者 谷川健一
発行所 筑摩書房


 天石門別八倉比賣大神御本記

 古(いにしえ)天地(あめつち)の初めの時、高天原に成りませる神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申します。
次に国ができてから間もなく、浮き脂のようにただよえる時に生まれた神を、その形が抽葦(あしかい)の牙(もえいずる)ごとき(様の)神で、國常立尊(くにのとこたちのみこと)という。
 その後にも、神が生まれられた。
 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)次に妹(いも)伊邪那美神(いざなみのかみ)。
 この二柱(ふたはしら)の神は国、海原と山川、諸々の神を産まれた後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日孁大神(ひるめのおおかみ)という。
 これが八倉乃日孁大神(やくらのひめおおかみ)である。
 最初(いやはじめ)高天原で戦に備えた後、天石門別の神に勅(みことのり)を発して今より後、汝ら我に代わって戦に備えよ。
 また、これは羽々矢(ははや)である、この御弓を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持ち降りて、よき地に奉り蔵(おさ)めよと言われた。
 永く爾莫用(なつかいそね)と賜りき。(高天原に還ってこの国に長く留まってはならない)われ(八倉乃日孁大神)もまた天より降りてきて、天の羽々矢(あめのははや)と天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)を納めるのによき所だと言われた。
 そのため二柱の神、高天原よりこの弓矢を持ち降りたまわれた。
 その時、二柱の神は天の中空に立って、この矢が落ちたところに蔵(おさ)めなさいと言って矢を放ち、落ちたところを矢達の丘という。(今は矢陀羅尾という)
 そのため、二柱の神、この地に矢が落ちた事を覚えておくために、広く知らしめたので、その地を矢乃野(やのの)という。
 その矢を持ち帰って永く奉って、納めた所を矢乃御倉(やのみくら)という。
 その弓を奉りて納めた地を弓乃御倉(ゆみのみくら)という(今は「ゆの丸」という)。
 そしてその後、
二柱の神この地に留って(松熊二前の神はこれである)
御矢倉と御弓を守られた。
 その後、比賣大神(ひめおおかみ)は天の八重雲を押し分け、伊津乃路(いつのち)を別けて天より降りられた。
 最初は杉の小川の清き流れを覧になって、この川の水は深いが大変早いと申された。
 その所を早渕の村という。
 ときに、
大地主神(土宮のこと)と
木股神(御井神のこと)
が参り、この河の魚を漁って献上した。
 大神の言われるには鰭(はた)の狭物と言うべき食物であるので、その河を鮎喰川という。
時に大地主(おおつちぬし)と木股神に言われた。わたしはどこに住むべきであろうか。あなたがたよい所に案内しなさい。
 大地主神が答えて、ここより西の方、朝日がまっすぐに刺す山、夕日の日が照る気延の嶺があります。先導しますので、その地に行っていただけるようお願いいたします。
時に名を伊魔離神という神が現れて、この野の五百個の野薦(多くの小竹をいう)、八十玉籖(玉串のこと)などいろいろ御幣る(たてまつる)。
これより西の方の杉の小山の麓にたどりついたとき、
石門別神が迎えられて礼を尽くされた。
 大神の言うには、あなたたちは私が言ったようにして、私を待っていましたか。
(その問いには)ここは前の神宣(みことのり)のように、御矢を納めたところであると答えた。
 そのため(自分の申し付けていたようにしていたため)大神は非常にほめたたえて
この地に一晩泊まってから(このため矢倉の郷という、また屋度利の社という)山坂を登って、杉の小山を通り気延の山に到る。
 時に広浜の神が現れて時節(ときふし)の御衣を献上した。
 その地を御衣足(みぞたり、または御衣谷)という。
 すぐに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と太敷を立て、高天原にいた様子を装い、天上のように祀り鎮座する。
(天石門押し開くため、天石門別という。八倉の郷に居る姫御神であるために八倉比売という)
 この夜、八百萬(やおよろず)の神々は集って宴(うたげ)を行う。
 その神々の集った所を喜多志嶺(きたしみね)という。
 その宴(うたげ)に使ったいろいろな物を納めた所を加久志の谷(かくしのたに)という。
大神が(歌を)詠むには

 雲の居る八倉の郷の喜延山
 下津岩根に宮井そめとも

 この後、大泉神が申し上げて、天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。
 また小泉の神、田口の御田を献上して、御饌乃御田(みけのみた)とする。
 しかして後、二千百五年を経て小治田の御世、元年龝(あき)八月に、大神は
毛原美曽持(けはらみそもち)に託して言うには、わたしの宮のある場所は、はるかに高く急峻である。
 このために神主や祝部、巫(みこ)など、多くの若い人でも参詣するのに疲れてしまうだろう。
 杉の小山は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない正によい所である。
かの嶺に遷(うつ)りましょう。大神は前に天より持ってきた瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あかつち)で覆い納めた。その赭(あかつち)は諸々の邪鬼、妖怪および諸々の病を厭(まじのう)に奇(くしひ)に妙なる験(しるし)と教え諭し賜ひき。
 赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇めたてまつったのはこれである。
その印璽(みしるし)を埋めた所を印璽の嶺という(また御石ノ峯とも言う)。
時に神主、祝部らは、大神のおっしゃるように(宮を)遷したてまつる。されとも霊験が無ければ諸々の人々は(大神の事を)信じないでしょう、どういたしましょうかと申し上げた。
その時大神はそうであろうとおっしゃられた。
 そしておっしゃるには、わたしの前の谷の水が山の頂きに遡るのでそそぎ流して御田を作り、宮を造って食料を得なさい。
 一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至る。
田(の稲は)実り、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を左迦志麿谷(さかしまだに)と言う。その田を志留志田(しるしだ)と言う)
 神主、祝部や多くの若者がその神宣の明らかである事を敬って
杉の小山に宮柱太を知り立て高天原の千木(ちぎ)高知りて、天の御蔭、日の御蔭と永く隠しまして國家の大基(おおもと)を守護なされるという。
 宮を移されたのが九月十三日、このためにこの日を以って御霊の現れし日として奉るのである。

  奉授神位
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さてさて、いかがでしょうか。
訳の巧拙はあっちへおいといて、「御本記」やたらと面白いでしょう!
さらに面白いのが「杉の小山の記」の解説。
例えば
此言吾御前乃谷乃水乎逆仁山乃頂爾漑流氐御田作以造宮乃料食止勅一夜爾而谷水逆洄而山頭爾至田則成熟其穂八束爾莫々然而喜穀(其谷乎左迦志麿谷云 其田乎志留志田云)
の部分。「ぐーたら」訳では、
http://goutara.blogspot.com/2010/05/blog-post_21.html

天石門別八倉比賣大神御本記

あれ、ちょっとぐーたらしてたら誰もいなくなっちゃったかな。
まあ、もともと閑散としているブログなんですが。気をとりなおして。
天石門別八倉比賣神社に行ってきました。と言えば、いまさらなんだよー金返せ(もらってないよー)といわれそうですね。
まずは八倉比賣神社の略記をちょっと

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御祭神 大日孁女命(別名天照大神)

御神格 正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和八年(八四一)八月に正五位下を授けられ
清和天皇貞観十三 年(八七一)二月二十六日に従四位上を
次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦 二年(一一八五)
三月三日正一位となる。

当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。



中略

当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の 
先導伊魔離神、
葬儀委員長大地主神、
木股神、
松熊二神、
神衣を縫った広浜神
が記さ れ、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。

中略

当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には 出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。

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で、案内板と同じような事を紹介しても面白くないので「天石門別八倉比賣大神御本記」に
ついてちょっとばかし書いてみようかなと思います。
でも、御本記の事ってあんまり出てないんですよね。
「高天原は阿波だった 山中康男 著」にも抜粋の感じで少しだけ出てましたけど。
全文を入力しようと思って、まずは「道は阿波より始まる」の付録の御本記から見てました。で、現代語訳をしようとしてあまりにも道が険しいので、さらに参考書を探しておりましたら2つ見つけました。
一つは著作権とかで引っかかるといけないので書名は出しませんが、もう一つはこれ。

「杉の小山の記」千家俊信でございます。

天保二年(1831年)に記された多分唯一無二の「天石門別八倉比賣大神御本記」解説本です。珍本中の珍本と言えるでしょう。

「道は阿波より始まる」も当本を参考にしたのではないかと思われるふしがあります。

著者は出雲宿禰俊信(いずものすくねとしざね)、第七十六代出雲国造千家俊秀の弟。

「千家俊信」で検索をかけるとWikiで引っかかってきます。

本居宣長の高弟だそうです。つまりは国学者。

多分、

>出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され

とある千家某とはこの人の事なんでしょう。

そしてページをめくれば

おお、「阿波國文庫(あわのくにぶんこ)」の蔵書印が。

「阿波國文庫」についてはあまりにも面白いので改めて書きます。

でも、この本、徳島県立図書館の「当館所蔵阿波国文庫資料一覧」にも載ってないのは
なぜでしょうか。
それはさておき、「道は阿波より始まる」と「杉の小山の記」ともう一つを見比べて
入力していきました。
ちょっと残念だったのが「道は阿波より始まる」には誤植?がいくらかあるようです。
「于時(ときに)」と書くべき所が「干時(ひでりのとき?)」となっていたり
「赭(あかつち)」が「猪(いのしし)」であったりし、また文脈もつながらないところ
が見受けられたので、この本を基とするのはあきらめ後の二冊をベースにしました。
ただ、丸写しではないです。これもまた文脈として疑問が出てきた所を最小限のつもりで
変更してあります。
つまり、後に示す御本記はどこにも載っていない「ぐーたら」解釈の御本記です。
物好きな人がコピーしていくのは構いませんが、そこんとこだけはご注意ください。
また(そんな人はいないと思うけど)どっかで使うときは必ず連絡してください。
ただ、自分なりには充分考証したつもりです。(自分なりにね♡)

まずは書き下ろしです。
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天石門別八倉比賣大神御本記
古天地初發之時 於高天原成神名号天之御中主神止
次國雅如浮脂多陀用弊琉之時状如抽葦牙物化為神号國常立尊止
而後在神伊邪那岐神 次妹伊邪那美神 此二神國土海原及山川諸乃霊神産生之後 伊邪那岐神洗左御目時所成神名号日孁大神是則八倉乃日孁大神也
最初高天原爾志氏武備志賜比志後 天石門別乃神爾勅天自今以後汝等吾爾代天武備乎奉負
亦曰此羽々矢此御弓於波葦原中國仁持降天可善地爾奉蔵永爾莫用矣
吾亦天降天其地可佳止宣氏天羽々矢乃天乃麻迦胡弓止於賜只
故二神高天原與利此弓矢於持下利賜布示時二神天乃中空爾立志氏此矢乃止所以奉蔵止盟給天発所乃矢則止流地 号矢達之丘(今謂矢陀羅尾)故二神此地爾矢於覚来利天周久覚給志加波其地於号矢乃野 其矢求出低永奉蔵地乎波号矢乃御倉
其弓於奉蔵之地乎波弓乃御倉止謂只
而後二神此地爾留坐天(松熊二前之神是也)御矢倉乃御弓於守利給㕝在年
而後比賣大神天八重雲於伊津乃路別爾千別天天降給只最初椙乃小川乃清只流乎照臨賜天此川乃水深志止謂登毛太早止宣喜故其所乎謂早渕乃邑止
于時大地主神(土宮是也)木股神(御井神是也)参逢天此河乃魚乎漁天奉饗太神禰言鰭乃狭物止謂止毛可食物也止故号其河鮎喰川
于時大地主及木股神爾勅言久吾可住在処矣汝等宣奉導大地主答曰久是與利西乃方朝日乃直刺山夕日乃日照留気延嶺阿利請其地爾可行幸止啓天奉引導
于時在神名於者伊魔離神止白天此野爾生採五百箇野薦八十玉籖雑々乃幣奉流(其採野薦地者謂五十串野其奉饗地者謂美阿閇野謂髪狭野止)是與利西乃方杉乃小山乃麓爾到利給者石門別神迎来天敬禮啓須
大神宣久汝等吾勅言乃如爾志氏天吾乎待志哉答曰久然前乃如神宣則此處御矢乎蔵地也止仍天太神甚加褒辞賜而此地爾一宿経而(此故爾謂矢倉乃郷止亦謂屋度利乃社止)猶山坂乎攀登天杉乃小山乎経天気延乃山爾到利給布于時広浜乃神参相天時節乃御衣奉留其地乎謂御衣足止
直爾気延乃嶺乃下津磐根爾宮柱廣敷立高天乃原爾峻峙榑風天天上乃如儀仁志氏天鎮座須(天石門押坐故天石門別云八倉郷爾坐姫御神故ニ八倉比売ト云)此夜八百萬乃神々集爾集天エラキ楽賜其神集志所者喜多志嶺止謂
其嘘楽之手草及雑々乃物乎所蔵者加久志乃谷止云
即大神詠曰
雲乃居留八倉乃郷能喜延山
下津岩根爾宮井曽女都毛
此後大泉乃神爾勅志天天真名井乃水於波玉乃碗爾汲湛天写左志女朝夕乃御食炊水止須
亦小泉神田口乃御田乎奉利弖御饌乃御田止須気延乃山亦乃名者神山大日孁貴坐故爾尊而云神山止
而後経二千百五年而到小治田御宇元年龝八月太神毛原美曽持爾託曰久吾宮地遙爾高峻志此故爾神主祝部巫乃百乃蒼生爾到萬天参詣拝趨爾倦労奈牟
杉乃小山者不高不低不遠不近直善地也彼嶺爾欲遷座止吾前爾従天持降流所乃瑞乃赤珠乃印璽於波杉乃小山乃嶺爾深久埋弖天乃赭乎以覆蔵是其赭者諸邪鬼妖怪及諸病乎厭爾奇仁妙奈流験止教喩賜只
赭印璽止号弖奉秘崇是也其印璽所埋之地乎謂印璽乃嶺(又謂御石之峯)于時神主祝等啓申久大神乃如託宣可奉遷坐雖然無効験者諸人乃取信如何止其時大神宣久宣哉
此言吾御前乃谷乃水乎逆仁山乃頂爾漑流氐御田作以造宮乃料食止勅一夜爾而谷水逆洄而山頭爾至田則成熟其穂八束爾莫々然而喜穀(其谷乎左迦志麿谷云 其田乎志留志田云)
神主祝及百蒼生其神宣炳チコナル乎恐美畏美則杉乃小山爾宮柱太知立高天原爾千木高知天乃御蔭日乃御蔭止永仁隠坐弖國家乃大基乎守護御坐云云迂坐乃月者長月日者中三日此故爾此日乎以御霊現乃日止奉啓矣
奉授神位

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あー、目がくらくらする。

これじゃ、ただ書いただけなんで、これまた「ぐーたら」流に現代語訳したのを

記しておきます。

これも念押ししておきますが、あくまで「ぐーたら」の訳です。

他のどんな書籍にもありませんのでご注意を。

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天石門別八倉比賣大神御本記
古(いにしえ)天地(あめつち)の初めの時、高天原に成りませる神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申します。
次に国ができてから間もなく、浮き脂のようにただよえる時に生まれた神を、その形が抽葦(あしかい)の牙(もえいずる)ごとき(様の)神で、國常立尊(くにのとこたちのみこと)という。
その後にも、神が生まれられた。
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)次に妹(いも)伊邪那美神(いざなみのかみ)。
この二柱(ふたはしら)の神は国、海原と山川、諸々の神を産まれた後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日孁大神(ひるめのおおかみ)という。
これが八倉乃日孁大神(やくらのひめおおかみ)である。
最初(いやはじめ)高天原で戦に備えた後、天石門別の神に勅(みことのり)を発して今より後、汝ら我に代わって戦に備えよ。
また、これは羽々矢(ははや)である、この御弓を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持ち降りて、よき地に奉り蔵(おさ)めよと言われた。
永く爾莫用(なつかいそね)と賜りき。(高天原に還ってこの国に長く留まってはならない)
われ(八倉乃日孁大神)もまた天より降りてきて、天の羽々矢(あめのははや)と天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)を納めるのによき所だと言われた。
そのため二柱の神、高天原よりこの弓矢を持ち降りたまわれた。
その時、二柱の神は天の中空に立って、この矢が落ちたところに蔵(おさ)めなさいと言って矢を放ち、落ちたところを矢達の丘という。(今は矢陀羅尾という)
そのため、二柱の神、この地に矢が落ちた事を覚えておくために、広く知らしめたので、その地を矢乃野(やのの)という。
その矢を持ち帰って永く奉って、納めた所を矢乃御倉(やのみくら)という。
その弓を奉りて納めた地を弓乃御倉(ゆみのみくら)という(今は「ゆの丸」という)。
そしてその後、二柱の神この地に留って(松熊二前の神はこれである)御矢倉と御弓を守られた。
その後、比賣大神(ひめおおかみ)は天の八重雲を押し分け、伊津乃路(いつのち)を別けて天より降りられた。
最初は杉の小川の清き流れを覧になって、この川の水は深いが大変早いと申された。
その所を早渕の村という。
ときに、大地主神(土宮のこと)と木股神(御井神のこと)が参り、この河の魚を漁って献上した。
大神の言われるには鰭(はた)の狭物と言うべき食物であるので、その河を鮎喰川という。
時に大地主(おおつちぬし)と木股神に言われた。わたしはどこに住むべきであろうか。あなたがたよい所に案内しなさい。
大地主神が答えて、ここより西の方、朝日がまっすぐに刺す山、夕日の日が照る気延の嶺があります。先導しますので、その地に行っていただけるようお願いいたします。
時に名を伊魔離神という神が現れて、この野の五百個の野薦(多くの小竹をいう)、八十玉籖(玉串のこと)などいろいろ御幣る(たてまつる)。
これより西の方の杉の小山の麓にたどりついたとき、石門別神が迎えられて礼を尽くされた。
大神の言うには、あなたたちは私が言ったようにして、私を待っていましたか。
(その問いには)ここは前の神宣(みことのり)のように、御矢を納めたところであると答えた。
そのため(自分の申し付けていたようにしていたため)大神は非常にほめたたえて
この地に一晩泊まってから(このため矢倉の郷という、また屋度利の社という)山坂を登って、杉の小山を通り気延の山に到る。
時に広浜の神が現れて時節(ときふし)の御衣を献上した。
その地を御衣足(みぞたり、または御衣谷)という。
すぐに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と太敷を立て、高天原にいた様子を装い、天上のように祀り鎮座する。
(天石門押し開くため、天石門別という。八倉の郷に居る姫御神であるために八倉比売という)
この夜、八百萬(やおよろず)の神々は集って宴(うたげ)を行う。
その神々の集った所を喜多志嶺(きたしみね)という。
その宴(うたげ)に使ったいろいろな物を納めた所を加久志の谷(かくしのたに)という。
大神が(歌を)詠むには

雲の居る八倉の郷の喜延山
下津岩根に宮井そめとも

この後、大泉神が申し上げて、天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。
また小泉の神、田口の御田を献上して、御饌乃御田(みけのみた)とする。
しかして後、二千百五年を経て小治田の御世、元年龝(あき)八月に、大神は毛原美曽持(けはらみそもち)に託して言うには、わたしの宮のある場所は、はるかに高く急峻である。
このために神主や祝部、巫(みこ)など、多くの若い人でも参詣するのに疲れてしまうだろう。
杉の小山は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない正によい所である。
かの嶺に遷(うつ)りましょう。大神は前に天より持ってきた瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あかつち)で覆い納めた。その赭(あかつち)は諸々の邪鬼、妖怪および諸々の病を厭(まじのう)に奇(くしひ)に妙なる験(しるし)と教え諭し賜ひき。
赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇めたてまつったのはこれである。
その印璽(みしるし)を埋めた所を印璽の嶺という(また御石ノ峯とも言う)。
時に神主、祝部らは、大神のおっしゃるように(宮を)遷したてまつる。されとも霊験が無ければ諸々の人々は(大神の事を)信じないでしょう、どういたしましょうかと申し上げた。
その時大神はそうであろうとおっしゃられた。
そしておっしゃるには、わたしの前の谷の水が山の頂きに遡るのでそそぎ流して御田を作り、宮を造って食料を得なさい。
一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至る。
田(の稲は)実り、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を左迦志麿谷(さかしまだに)と言う。その田を志留志田(しるしだ)と言う)
神主、祝部や多くの若者がその神宣の明らかである事を敬って
杉の小山に宮柱太を知り立て高天原の千木(ちぎ)高知りて、天の御蔭、日の御蔭と永く隠しまして國家の大基(おおもと)を守護なされるという。
宮を移されたのが九月十三日、このためにこの日を以って御霊の現れし日として奉るのである。
奉授神位
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さてさて、いかがでしょうか。
訳の巧拙はあっちへおいといて、「御本記」やたらと面白いでしょう!
さらに面白いのが「杉の小山の記」の解説。
例えば
此言吾御前乃谷乃水乎逆仁山乃頂爾漑流氐御田作以造宮乃料食止勅一夜爾而谷水逆洄而山頭爾至田則成熟其穂八束爾莫々然而喜穀(其谷乎左迦志麿谷云 其田乎志留志田云)
の部分。「ぐーたら」訳では、


そしておっしゃるには、わたしの前の谷の水が山の頂きに遡るのでそそぎ流して御田を作り、宮を造って食料を得なさい。

一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至る。

田(の稲は)実り、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を左迦志麿谷(さかしまだに)と言う。その田を志留志田(しるしだ)と言う)

この部分の解説として

さかしま谷は杉の小山の南の麓、宮谷の郷にあり。しるし田も同じ所の小泉の下流にて

すなわち田の名も「こいつみ」といふて、不浄の物を肥にせず。

これはすなわち、しるし田の証、今に残れり。

うわあ、宮谷ってこのあたりじゃないですか。

それで「杉の小山の記」には絵図も載ってます。これがすごい!!

ぜひクリックして拡大図を見てください。

そして次のGoogleEarthの写真を見てください。

これもぜひ拡大して上の絵図と見比べてください。

いやほんとに航空写真と見まごうばかりの絵図じゃないですか。字が見にくいかも

しれませんがGoogleEarthに主立った地名を入れてみました。

これは凄すぎるでしょう。天保の時代にどうやったらこんな鳥瞰図が書けるんでしょうか。

そして「御本記」の内容。

一番気になったのが

「二千百五年を経て小治田の御世」の部分、原文では

「而後経二千百五年而到小治田御宇」とあり、小治田の御世に遷座されたってことは

当初造営されたのはそれより2105年前?おおっ?

また、「杉の小山の記」の解説部分は本が一冊書けるほどの内容です。

実際には一冊書けないので面白そうな所だけ紹介したいなと思ったりしております。

今回の最後に、

「入力してて死ぬかと思ったぞー」

との「ぐーたら」氏の心の叫びを記しておきます。






『名神序頌』(メイシンジョショウ) (岡本監輔・オカモトカンスケ 1839 − 1904)

名神序頌 図書  岡本監輔 著 黒崎精二, 明28.6
1895年


30頁に橿原




名著「名神序頌(めいしんじょしょう)」は「岡本監輔」氏の著作なのです。
http://goutara.blogspot.com/2015/03/blog-post.html

「岡本監輔」を知っていますか?

岡本監輔を知っていますか?
まず略歴を記すれば

天保10年(1839年)、徳島県穴吹町三谷に生まれる。

地元である儒学者のところへ居候している際に訪ねてきた瀬戸内の漁師の話よりサガレン(樺太)という島があることを知り、興味をもって江戸に でた。
彼は江戸において、間宮林蔵の「北蝦夷図説」と出会い、ようやく自分のめざしているのが当時の北蝦夷、現在の樺太、サハリンであることを知る。

 文久3年(1863年)、樺太探検し、鵜城からシルトタンナイを探検し 敷香に滞在、原住民と同じ生活をして樺太風土への理解を深めた。

 慶応元年(1865年)、丸木舟によって間宮海峡を通り西海岸を探索し北端 のガオト岬へ到り、この地に天照大神を祀った。日本人初である。
そして西海岸を南下した。
間宮海峡を横目に8月にはシララオロ、クシュンコタンに到着する。かくして樺太一周をなし遂げた。おそらく地元アイヌも含めて世界で初めての快挙だろう。

だが、この時1865年。まさに幕府は倒れようとしていた。ほとんど政府の援助なく行った事業であることも含めて、岡本の壮挙は評価されることはなかったのである。

その後、クシュンナイの日本人がロシアに拉致される事件がおき、それが元で両国の境界を決めようという動きとなる。しかし、現状では日本が主張できるのは南端のみ。それに反対して、ロシアに向かう使節団を追いかけて京都まで行っている。(結果的に境界は決まらなかったのだが。) その後、岡本は坂本竜馬と逢って北蝦夷開拓を訴えている。

 明治元年(1868年)、函館裁判判事となり、樺太経営を担当する。

 明治3年(1870年)、樺太放棄論をひろめた黒田清隆と意見が合わず 辞任、東京第一中学にて教壇にたつ。

 明治4年(1871年)、「北門急務」を著し、樺太が古来より日本領で あったことを記す。

明治24年(1891年)には、千島列島のエトロフ島を訪れた。樺太と交換した千島がほったらかしであることを知り、千島開拓を企てて千島義会を結成。全島の探検を目指すが、船が沈没してエトロフ止まりだった。

 明治25年(1892年)、千島義会を設立、択捉島などを探検し「千島見聞録」などを著し、 北方についての知識を国民に広めた。

 明治37年(1904年)、ポーツマス条約にて樺太の南半分を得たことを知ることもなくこの世を去る。

著書に『北蝦夷新誌』、『窮北日記』、『烟台日記』、『万国史記』など多数。


樺太一周って簡単に言うけど、まあみてください。直線距離でも札幌、東京間をはるかに超える道のりです。
それを間宮海峡を丸木舟で渡った上、海岸部分を一周するという途轍もない調査を単独で行っているのです。
んで、ここが当時言う所の間宮海峡部分です。
ここを丸木舟で渡ったのですね。
彼のおかげで日本は1904年樺太の半分を日本領土とすることができたと言っても過言ではありません。
無論、その後の「ごたごた」は彼のせいではありませんし、いわんや第二次世界大戦後の領土問題など....
「岡本監輔」編集の「樺太郷土読本」中でも「北門急務」として北方領土の重要性を説いております。

では、なぜ今回この「岡本監輔」を紹介したかと申しますと、実はかの名著「名神序頌(めいしんじょしょう)」は「岡本監輔」氏の著作なのです。

阿波国延喜式内社を、余すところなく解説した阿波人必読の書と言えましょう。
ただし、全編漢文で、無茶苦茶読みにくい!
ですが、多くのところで引用されており、その価値は一級品でしょう。
例えば
式内社 阿波國美馬郡 伊射奈美神社の由緒
当神社は岡本監輔著「名神序頌」によれば貞観中 (八五九~八七七)に創建されたと記され また三大実録に貞観十年(八六八)三月十二日 阿波国正六位伊奘再神に従五位下を授くと載すとある

式内社 天佐自能和氣神社(ブログ「空と風」より)

ただし、『名神序頌』(メイシンジョショウ) (岡本監輔・オカモトカンスケ 1839 − 1904) には、「旧号を高木権現と云ふ」とあり、御祭神が「高木神」すなわち、「高皇産霊尊」であったと見られる。

などなど。

そしてこの「名神序頌(めいしんじょしょう)」中、白眉と言えるのが、「天石門別八倉比売神社」についての記載部分です。

この部分はかの「入田村史」にも引用されております。

入田町 麻能等比古神社」を参照のこと。

余切に謂ふ、是は、皇太神駐驛の處也。神號に、天石門別と冠す、乃ち天石門別が斎所八倉姫の義なるならんか。八倉は、八重席を謂ふ。諸(これ)を彦火々出見ノ命及び橘姫の事に徴して知るべきなり。
抑々神代に謂所高天原は、皇都の在る處にやあらん。
蓋し、阿波國は、吉野川両岸の境域と、勝浦郡の一部を言ふ。吉は安及び八湍と通す。後人は皇都大和に在り、大和に吉野川有るに因り遂に艶美比べ擬して以て轉化を致すのみ。大神嘗て、矢野神山及び、忌部山の各所にあり、故に天石門別及び、神明山大神の説を傅ふるなり。後に伊豫に遷り、日籠山いまし、豊前中津に臨む、皆天津日等の號を存す、亦怪しむに足るなし。

「余切に謂ふ」と正に叫ぶが如き一文でしょう。

続き、「是は、皇太神駐驛の處也」と。

後は、言わずもがなでありましょう。

「神代に謂所高天原は、皇都の在る處にやあらん。」と.......

樺太を日本領土とし、坂本龍馬とも関わり合った稀代の探検家「岡本監輔」は阿波国のことを、このように記して世を去ったのです。

さて、我々はどう答えるべきなのか。

最後に

美馬市ホームページに「岡本監輔」生誕の地の地図が記載されておりましたので転載いたします。


https://youtu.be/EpgeJneoUMs?si=llSrccpJW2z0z3tq



















【徳川光圀の阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査命令】


四国の阿波に何か古代の秘密があるということに徳川光圀も気が付いていたようで、江戸に修史局を開き、大日本史の編纂に乗り出した後、元禄10年(1697)、突然、徳島藩や老中土屋相模守政直を呼びつけ、阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査を命じている。古代阿波国の重要性を嗅ぎつけていることになる。(山口敏太郎「急浮上、幻の古文書『阿波風土記』が裏付ける"邪馬台国四国説"、邪馬台国は阿波だった!?」参照)





以下ここまでわかった!邪馬台国(新人物文庫)より




 邪馬台国四国説の背景には、幕末の阿波の勤皇国学者、池辺真榛がいる。池辺は平安時代の法令集『延喜式』を研究するなかから、阿波国を日本の「本つ国」と称した。その影響を受け、維新後に東京美術学校教授になった小杉榲邨が阿波神代史を研究、さらにその流れをくみ、樺太・択捉の探検でも知られる明治中期の徳島中学校長の岡本監輔が、「神代の高天原は阿波の国をさすと思われる」と公言したという話が地元に伝わっている。







 儒学者の新井白石、国学者の本居宣長も漢籍や記紀の研究から邪馬台国の所在地には関心をもち、明治時代になると歴史学や考古学の知識を用いて邪馬台国が論じられた。阿波の史家たちも、全国的な学問の潮流のなかから、独自の邪馬台国四国説を打ち立てていったとみられる。 「魏志倭人伝」の倭の記述に「その山には丹(水銀朱)あり」とあるが、徳島県阿南市の若杉山遺跡は弥生時代後半から古墳時代初頭の全国最大級の水銀朱採掘・精製遺跡。まさに邪馬台国と時代が重なる。邪馬台国の存在をにおわす考古学上の傍証である。







以下、れんだいこ氏サイトより(後述)




1976(昭和51).6.10日、徳島県の郷土史家グループ古代阿波研究会が「邪馬壱国は阿波だった-魏志倭人伝と古事記との一致-」(新人物往来社)を世に問い、阿波説が全国に知らしめられることになった。同書の奥付によると、古代阿波研究会の当時の事務局長は堀川豊平氏とあり、編集委員として多田至、板東一男、椎野英二、上田順啓、岩利大閑、磯野正識各氏の名が記されている。岩利大閑が原稿を堀川豊平から預かって東京の出版社へ持ち込んだ。堀川によれば、その時に(おそらく出版社の判断で) 相当の部分が削除され、内容としては不本意なものになってしまったとのこと。それでもこの本のインパクトは相当だった。「阿波古事記研究会」 の三村隆範もはじめは堀川に学んでいる。この頃を "第一期阿波説ブーム"。




 同書は、徳島県には神話の女神イザナミの名前を取った伊射奈美神社が美馬市にあるほか、天皇陛下がご即位後に初めて行う大嘗祭にあらたえを献上するなど、古くから朝廷にゆかりがある土地であるとして、まず、古事記が阿波国の別名としてオオゲツヒメと記していることに注目する。オオゲツヒメは農作物を産んだ女神の名でもある。そこからその昔の阿波国が穀霊の国であったということから論を進めていく。阿波国こそ記紀神話の高天原に他ならないと云う。更に、三国志の現存刊本にある「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤写ではないという立場をとって邪馬壱国とする。




 倭の女王・卑弥呼は記紀神話の天照大神と同一人物であり、その宮の跡は名西郡神山町神領の標高700mの山頂にある高根城址であり、ここが邪馬台国の中心地と主張した。今は悲願寺という寺になり、境内には古代中国の文字が刻まれた常夜塔が立っている。




 御陵は名方郡国府町矢野の矢野神山山頂、天石門別八倉比売(やくらひめ)神社の奥の院にある石積み正五角形(高さ50cmほど、1辺が約2.5m)の祭壇だと云う。他の土地ではちょっと見られない形をしている。また、記紀神話の出雲とは、阿波国南部の勝浦川・那珂川方面であり、三国志倭人伝の狗奴国にあたるという。この「卑弥呼=天照大神の宮都・陵墓、出雲=狗奴国の所在に関する比定」は、山中、岩利、大杉各氏に引き継がれることになる。




 「邪馬壱国は阿波だった」のユニークなところは、邪馬壱国の統治システムとして次のように述べている。


「卑弥呼が、瀬戸内海一帯にはりめぐらした山上の物見や通信台からの情報で、明日の天気を予見を予見すると、それは太陽光の銅鏡反射を利用し、ピカピカピカッという信号で中継通信基地、焼山寺山がうけ、それを四方に信号でおくるという一種の光通信が行われていたという主張がある(焼山寺山は標高930m、阿波の他の山々からの見晴らしがよい地点にある)。魏からもたらされた銅鏡百枚はこの反射信号に使われただけでなく、舟と陸上との連絡、舟と舟との連絡にも用いられた実用品だった。また、銅鏡ばかりでなく、自然の鏡石を利用した古代の灯台もあった」。


 それが単なる空想でない証拠として、同書は阿波の中津峰山麓の古老の「むかしは、中津峰山で火がピカピカピカッと出たら、あくる日は雨になるといいますわ。そういや、このごろはでまへんな。昔は出よったといいますわ」という言葉を挙げ、「太古のことを、ついこの間のように語り伝えてきたものなのでしょう。(中略)古代をついこの間のように語りつたえる古老たち。その陰にどのような邪馬壱国の非運があったのでしょうか。抹殺と無視にたえて約二〇回の百年の節をこえてきた庶民の豊かな表情とゆとりに、いったい何があるのでしょか」と感極まった口調で説明している。




 「邪馬壱国は阿波だった」では、阿波が高天原だったことがなぜ忘れられたのか、その理由を明記していない。ただ、明治の漢学者・岡本監輔が阿波麻植郡舞中島出身であるにも関わらず、「千葉県平民」を称していたことに「歴史のゆがみを思わざるをえない」





【俳優・フランキー堺の注目】


俳優の故フランキー堺はこの「邪馬壱国は阿波だった」[1976年、新人物往来社]を読んで驚き、日本テレビのプロデューサー・山中康男氏との共同で、「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!! 幻の国・皇祖の地高天原」(出演・フランキー堺)を製作した。1977年、山中氏が、その時の取材調査成果を「高天原は阿波だった」(講談社)という書籍にまとめた








大杉博




笹田至孝




三村




藤井榮

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邪馬台国阿波説

https://youtu.be/EpgeJneoUMs?si=1D7hsBuxS0zZY-et   邪馬台国阿波説の特徴は古事記の舞台が阿波であるという歴史の連続性の主張である。例えばフランキー堺のテレビ番組( 「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!!幻の国・皇祖の地高天原」...