2024年8月28日水曜日

竿燈まつり | 全国観光資源台帳(公財)日本交通公社

竿燈まつり | 全国観光資源台帳(公財)日本交通公社

*4 眠(ねぶ)り流し:柳田国男は「同時代に行われていた村々の眠流しの方は、ただ単に麻稈(おがら)をめいめいの齢の数だけ折って、 草のかずらでからげ、それを枕の下に敷いて寝て、七日の朝早く川へ流すだけの行事をそう呼んでいた」あるいは「眠流しまたはネブタ流しというのが、これからそろそろ始まる夜仕事に坐睡りの出ぬまじないだった」 としているが、いずれも眠り流しの最初の趣意は穢れを流すもので、「魂送(たまおく)りや聖霊舟(しょうりょうぶね)のそれと、本来同じであった」としている。また、もともと盆行事の性格もあったことから、精霊を迎えるために門前に木を立て横木を結び、これに燈籠を飾る風習もあって、これを持ち運ぶようになり、竿燈の原形になったとも考えられている。
https://tabi.jtb.or.jp/res/050013-

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秋田市民俗芸能伝承館の写真

秋田市民俗芸能伝承館

風俗問状答 竿燈の写真

写真提供:国立国会図書館デジタルコレクション / 風俗問状答 竿燈

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秋田市民俗芸能伝承館

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風俗問状答 竿燈の写真

写真提供:国立国会図書館デジタルコレクション / 風俗問状答 竿燈

8月3日から6日までの4日間、秋田市の中心部、竿燈大通りなどで繰り広げられる祭り。この祭りの主役となる竿燈*1の最大である「大若」は、12mの竹竿に46個の提燈*2を米俵を重ねたように九段にわけて吊するすため重量が50kgに及ぶ。これを印半纏、白足袋姿の若者の差し手が囃子に合わせ額、肩、腰へと倒れないようバランスをとりながら移動させる。
 例年の祭りのスケジュールとしては、4日間とも、38の町内や企業、学校などの団体がグループごとに、昼間は町内を練り歩き、夜は提燈に灯が入った二百数十本の竿燈が竿燈大通りに勢揃いして妙技を披露する。竿燈大通りでの披露のあとは、町内での「戻り竿燈」が夜遅くまで催される。2~4日目の昼には千秋公園前の広場で、幼い頃から鍛えてきた技を競い合う昼竿燈(竿燈妙技会)*3が開催される。
 竿燈まつりの起源については、詳しいことは分かっていないが、この地域では古くから神が合歓の木などに宿るという信仰から、神を送る形代(かたしろ)、あるいは穢れを移して水に流す「眠(ねぶ)り流し」*4と呼ぶ習わしがあり、提燈なども流す精霊流しや高提燈を家の前に掲げる習俗や七夕行事とも結びつき行われていた。秋田市の竿燈は、こうした習俗行事が、「風流」*5の影響も受け、芸能的な要素も取り入れられ巨大化して発展したと思われている。竿燈の形式は、宝暦年間(1751~1764年)*6に始められ、天明の飢饉を乗り越え、文化年間(1804~1818年)には、現在のような形式となり盛大に行われるようになったと推測される記録*7が遺されている。

みどころは、祭りの期間中、毎夕竿燈大通りに、二百数十本の竿燈が勢揃いして次から次に妙技を披露するところ。夜空に提燈の灯りがゆらりゆらりと揺れる様は美しい。次の差し手が継竹を継ぎやすいように支える「流し」をはじめ、「平手」、「額」、「肩」、「腰」など差し手の技術、動きが観るものを飽きさせない。子供用の小さな竿燈も登場して、見物客を大いにわかせる。
 竿燈の囃子は町中を練り歩く時に奏でる「流し囃子」と演技中の「本囃子」の2種類。勇壮な太鼓とのびやかですっきりと響く笛の音が祭りを盛り上げてくれる。
 じっくりと近くで見たい場合は、町内に戻っての「戻り竿燈」を楽しむのも良い。また、差し手の技の競い合いを見るのには、昼の「妙技会」を覗いてみるのも面白い。お囃子を含め子どもたちも参加しており、伝統の継承に努めていることがよく分かる。

*1 竿燈:大若以外にも中若は高さ9m、重さ30kg、提燈46個、小若は高さ7m、重さ15kg、提燈24個、幼若は高さ5m、重さ5kg、提燈24個があり、あわせて4種類ある。
*2 46個の提燈:一段目の表に「七夕」、裏に「町名」。2段~8段に「町紋」「企業名」、9段に「町紋・町名、企業名」が描かれている。
*3 昼竿燈(竿燈妙技会):大若団体規定、大若団体自由、大若個人、小若団体規定、小若囃方、囃方などの種目があり、次世代への技や伝統の継承の場ともなっている。


*4 眠(ねぶ)り流し:柳田国男は「同時代に行われていた村々の眠流しの方は、ただ単に麻稈(おがら)をめいめいの齢の数だけ折って、 草のかずらでからげ、それを枕の下に敷いて寝て、七日の朝早く川へ流すだけの行事をそう呼んでいた」あるいは「眠流しまたはネブタ流しというのが、これからそろそろ始まる夜仕事に坐睡りの出ぬまじないだった」 としているが、いずれも眠り流しの最初の趣意は穢れを流すもので、「魂送(たまおく)りや聖霊舟(しょうりょうぶね)のそれと、本来同じであった」としている。また、もともと盆行事の性格もあったことから、精霊を迎えるために門前に木を立て横木を結び、これに燈籠を飾る風習もあって、これを持ち運ぶようになり、竿燈の原形になったとも考えられている。


*5 風流:京都の祇園祭のように華やか祭りを「風流」と呼ぶが、神を華やかに迎えたり、送ったりするために、祭礼の山車,鉾などを指し、のちには仮装の練り物、囃子、踊りまでが含まれるようになった。中世の京都で生れ、細工などの技術が徐々に広まり、蝋燭や紙の発達とともに江戸期半ばまでには全国の祭りで取り入れられようになったという。秋田には京都から、あるいは佐竹家が常陸国から持ち込み、竿燈と結びつき、より華やかなものになったのではないか、と言われている。
*6 宝暦年間(1751~1764年):柳田国男は「火の昔」のなかで「蝋燭の蝋を絞る櫨の木の栽培が奨励されたのも。菜種の畠も多くなったのも・・・中略・・・江戸期半ばのことで、その時分から蝋燭の利用が民間に盛んになった」とし、庶民の間でもロウソクが自由に使えるようになったのが宝暦年間前後の江戸期半ばとしている。
*7 記録:竿燈の形式について明確に記録されているものとしては、1789(天明9・寛政元)年頃に書かれたとみられる、津村淙庵の紀行文「雪のふる道」に「ねふりながしとかやいひて なかき竿を十文字にかまへたるに ともし火をあまたいかけてささげもちて 太鼓をうちつづけ町くだりもてあるく ともし火のかず二十三十にをよべり」(眠り流しといって、長い竿を十文字に構え、灯火を沢山掲げ持ち、太鼓を打ち続け町に繰り出し練り歩く 灯火の数二十三十に及んでいる)と挿絵付きで記している。また、1804(享和4・文化元)年の人見藤寧「秋田綺麗 6月」の6日項に「鹿燈、犬燈、走馬、乞巧(七夕の祈願)、猜燈(かくし絵燈籠)、洒落、組立、風流盡さざるなし。就中三十六街より別に大なる燈籠二十、三十乃至四十五十に至るほど大竿に擎げ、力士をして持しめ、先に立は大勢筰(ささら)、柝子(ひょうしぎ)、太鼓の囃子にて聲々猥雑の語を唱へ、第一橋に隊揃し川口の方へ下る。實に未曾有の壮観也」と文化年間には、竿燈行事が盛んになっていることを書き遺している。藩主の上覧があったことも記している。この時期には、菅江真澄の「牧のあさ露」や屋代弘賢の「秋田風俗問状答」などにも同様の記録がみられる。

能代役七夕 - マスミさんの秋田探訪

能代役七夕 - マスミさんの秋田探訪

能代役七夕

能代役七夕


のしろやくたなばた(ねぶながし)

能代市街地

最終更新:2024/1/28


🏯祭り

  • 祭日:8月
  • 1日:鎮守日吉神社祈願、会所開き
    • 6〜7日:灯籠曳き回し
    • 7日(夕方):鯱流し
  • 巡行:能代市街地
  • 人員:各丁150人超(田楽、囃子含む)
  • 奉納社:日吉神社

 能代の七夕行事は『ねぶながし(眠り流し)』とも呼ばれ、
7月の七夕祭りに灯籠を川に流し悪霊を流し去る行事であったが、蝋燭が庶民にも安価で入手できるようになってから現在のような町を引き回す灯籠へと変化していった。

 明治時代に入り『役七夕』の呼称が使われて、灯籠が城郭型に大型化していった。


 町が近代化に連れて電線などのインフラが整備されてくると、大型化した屋台、山車行事は運行が難しくなる。

そのおかげで姿を消した昔ながらの屋台行事も多いが、能代役七夕は屋台に工夫することでこの問題をクリアした。

 市内各道路を運行中、電線に干渉せぬようシャチ飾りが可動するギミックがある。

このシャチは運行2日目に取り外され、最後に米代川でシャチ流しが行われる。


 江戸時代の「秋田風俗問状答」には眠流しと記され、高さ12mにも及ぶ趣を凝らした屋台人形がことに華やか、とある。

挿絵では神輿のように人が担ぐ形態で描かれる。


 狭い町内を文字通り所せましと運行するので場所によっては屋台にかなり近く、

迫力がありました。

 頭にボトボトと何か落ちてくると思ったら、街路樹のマツボックリがシャチホコに干渉して落ちてきてました。

結構痛かったです。


  • 駐車場:あり(能代市役所駐車場)
  • 案内板:なし
  • トイレ:なし
  • 備考:巡行路交通規制あり





【秋田県教育委員会 (編集) 】


民俗誌はおもしろい。ー「ぼぼのげぇ」ー | ーとんとん機音日記ー

民俗誌はおもしろい。ー「ぼぼのげぇ」ー | ーとんとん機音日記ー

民俗誌はおもしろい。ー「ぼぼのげぇ」ー



$ーとんとん機音日記ー-秋田風俗問状答

《大正13年刊"秋田風俗問状答"》



きのう、書物の整理をしていたら、"秋田風俗問状答"という小冊子が出てきた。

この風俗問状答というのは、各地の年中行事や風習について幕府の奥御祐筆を勤める博識の国学者であった屋代弘賢が文化年間に「諸国風俗問状」と題する質問状を木版で刷り、日本各地の藩儒や知人に宛てて送り回答を求めた「風俗問状」と、それに対する「答書」という意味で、「答書」のほうは、20編が写本などのかたちで伝わり現存していると云われていて、わたしが持っているこの「秋田風俗問状答」という小冊子の原典は『出羽国秋田領風俗問状答(内務省旧蔵・全5冊)』として国立公文書館に収蔵されていますが、図版などをそれと比較してみますと、どうやらこの小冊子は、その写本を底本にして大正13年に発刊されたもののようです。


$ーとんとん機音日記ー-鎌倉の図

《大正13年刊"秋田風俗問状答"に収録の鎌倉の図》




この小冊子は、大正時代のものなので残念ながら図版写真はカラーではなく図版から読み取れる情報は限られているのですが、幸いに国立公文書館さまのサイトで、彩色図のいくつかが公開されていて、それと照らし合わせて観ると、とても面白い。


収録されている、この「鎌倉の図」について、「この事は十五日を用う、是を俗に歳の神と申す也。この日には左義長をし侍る是を鎌倉と申す也。」と記し、さらに、「鎌倉の祝の體は二日三日ばかり前より門前に雪にて四壁を造り厚さ一尺二尺にし水そそぎ氷かためてそれへ其日には茅を積み門松飾藁なんど皆積みて四壁には紙の旗さまざまの四手切かけし榊など飾り、わらべ打群れほたたき棒てんでに提てゆきかふ女あらば尻うたんと用意す若き女なんどこの日は恐れて往来せず木のほら吹鳴らしてやや暮れ行く頃・・・(以下省略)」というような説明が加えられている。

比較する為に、国立公文書館蔵の原典の彩色図版のほうも観てみると、・・・




鎌倉に飾られた"つくりもの"の様子が鮮やかに描かれていて、
赤・黄・薄青・紺(黒)の四色の短冊状の紙と白い繭玉がつけられた木が三本。市松文様のもの二本と白いもの一本の紙の旗が計三本。梵天を逆さにしたようなかたちで円形に綺麗に開いた五垂の幣が三本。アイヌのイナウに良く似た削りかけが二本、しかも、その二本ともが赤く染められている。・・・など、

ざっと観ただけでも様々な情報が飛び込んで来る。染織に関係するところでは、"繭玉飾りの様子"や"紙の旗の市松文様が意味するところ"、"削りかけを赤く染めた染料"などについてが気になるところである。
織物などの場合でも、このような実際の様子を写した古い図版や、実際の布や、その拡大写真などの非文字情報(非言語情報)から得られるものは大きく貴重だ。


今回、わたしの眼が釘付けになったのは、
『木のほら吹鳴らして・・・』と記されている「木のほら」の図版だ。

$ーとんとん機音日記ー-木の法螺を吹く

《大正13年刊"秋田風俗問状答"に収録の"木のほらを吹く男"の図》


この図では、四角い箱のような厚みのある下駄を履き、大きくなった筍のようなものを吹いている。

『なんだろう。これ。?』

「木のほら」ということだから、木製の法螺貝という意味なんだろうけど、形状は全くそれとは異なる。
まるで、オーストラリア先住民アボリジニの楽器「ディジュリドゥ」みたいな印象がする。

「ディジュリドゥ」も『ヴォー、ヴォー』というような音がするから、この「木のほら」も同じような音色がするのだろうか。
法螺貝の音に似ているから「木のほら」と呼ばれるのだろうが、・・・。
こんなものがあったなんて、全く知らなかった。



あとで調べてみると、名久井 文明氏の労作『樹皮の文化史』に収録されていた。


$ーとんとん機音日記ー-樹皮の文化史


オニグルミの樹皮を用いてクルクル角状に巻いてつくるらしい。
収録されているものは、実測図によれば46㎝のやや小ぶりのもので、ちょうど角笛のような感じがする。


$ーとんとん機音日記ー-ぼぼのげぇ

《「樹皮の文化史」に収録されている樹皮の法螺貝"ぼぼのげぇ"》


東北地方には樹皮利用の文化が比較的に残されていると云われるが、同書には復元品と記されているので、名久井氏が調べた頃にはもう廃絶していたのだろう。

『ぼぼのげぇ』という呼称であったそうであるが、これは音色を写して言った呼称のような気がするので、他にも呼び名があったのかもしれない。
でも、こういうものは本来何に使われたのだろうか。
なんだか、狩猟に関係するような気もするが、それは想像の域を出ない。

名久井氏は同書に於いて、「リードは付けず唇と息の加減だけで鳴らすものだが、かなり大きな音が出る。アイヌ民族はこれと同じものを楽器あるいは通信用具として用いたらしい。」と付記しているが、そこではもう"秋田風俗問状答"に記されているような小正月行事との関わりは抜け落ちているので、そういう行事に用いられなくなって久しいのだろう。


屋代弘賢が風俗問状を発し、それに応えて、出羽国秋田領の儒者、那珂通博が主筆となって彩色図を加えた答書を記し、名久井文明氏が樹皮利用の文化について調査しなければ、こういうものがあったことや、その素材、つくり方、どのような時に使われたのかなど、様々なことが忘れ去られていたことだろう。


私事ですが、今わたしは、三重県内の養蚕と製糸に興味を持っていて、そのことを調べているんですが、オフィシャルな市町村史や公的な記録からだけでは全くわからなかったことが、郷土史を調べて書き残す活動をされている桜郷土史研究会さまより御教示いただいたことから、いろいろと養蚕と製糸が盛んであった当時の実情について知る事ができました。
参考の為にと「ふるさとの生活誌」という手づくりの小冊子を、ざわざご送付くださったのですが、その本からは郷土に対しての愛情が溢れ出ています。

誠実で熱心な専門家がまとめた郷土の民俗誌も価値のあるものですが、郷土に対する愛情が動機となって、小さなことまで事細かに記された幼い頃からその土地に住んでいる人たちの記した民俗誌も、専門家によるそれにも増して価値のある記録です。

桜郷土史研究会さまのような自分たちの郷土の生活誌を自分たちの手で丹念に記すというような活動がもっと広まればいいと思います。


・・・・・《この記事に関連して参考となるweb上のサイト》・・・・・






マスミさんの秋田探訪さんによるXでのポスト

2024年8月27日火曜日

【ヘブル語と詩の味わい④】 「二行詩か、四行詩か」 津村俊夫(『新改訳2017』翻訳編集委員長・聖書神学舎教師) | クリプレ(クリスチャンプレス)

【ヘブル語と詩の味わい④】 「二行詩か、四行詩か」 津村俊夫(『新改訳2017』翻訳編集委員長・聖書神学舎教師) | クリプレ(クリスチャンプレス)

【ヘブル語と詩の味わい④】 「二行詩か、四行詩か」 津村俊夫(『新改訳2017』翻訳編集委員長・聖書神学舎教師)

キリスト新聞社ホームページ

「二行詩か、四行詩か」

<< 詩篇103:2 >>

 わがたましいよ 主をほめたたえよ。

 主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(新改訳2017)

2節の前半は、1節の前半の繰り返しである。ヘブル語本文の語順が透けて見えるようにすれば、

 ほめたたえよ(a)。わがたましいよ(b) 主を(c)

 忘れるな(a')。彼が良くしてくださったことを何一つ(C')      

となる。この二行の対応関係は a-b-c // a'-C' と図式出来る (1節では、a-b-c // b'-C')。1行目の「わがたましいよ」という呼びかけに対応する要素 (b') が2行目にない代わりに、動詞の目的語が1行目のそれ (c) よりも長く (C') なっている。このような技巧は、前回に触れたように、省略 (ellipsis) されている b' の欠けを補う「バラスト・バリアント」と呼ばれる。このように詩の並行法の特徴からすれば、2節は形式的によく整った二行詩であると言える。

ここで「ほめたたえよ」(肯定)と「忘れるな」(否定)という二つの命令は、「わがたましい」という語り手自身に向けられたものであるが、だからと言ってそれぞれの動詞の目的語、すなわち「主」と「良くしてくださったこと」とは同一指示ではない。それゆえ、1節の並行関係で見られたような、前半と後半が同義 (類義) であると言うことではないのである。

翻訳では気がつきにくいが、「すべてのもの」と「何一つ」は、ヘブル語のכל kol(全て)の訳で、1節と2節それぞれの2行目に来ている。

1節と2節をヘブル語の語順にしたがって並記すると、

 ほめたたえよ。わがたましいよ 主を

 私のうちにあるすべてのものよ *聖なる御名を。

 ほめたたえよ。わがたましいよ 主を

 忘れるな。彼が良くしてくださったことを何一つ。          

となる。通常、これは二つの二行詩 (bicolon) と考えられているが、ここでは、一つの四行詩 (tetracolon) と捉えることのメリットについて説明しておこう。

全体は、四行詩の特徴の一つ、ABACというパターンになっている。これはABを機械的に繰り返して ABAB (または ABA'B') という反復的スタイルで表現するのではなく、ABACという、反復を装いながら新たな発展に向かうようなスタイルである (例えば、ハバクク1:10) 。この理解が特に魅力的なのは、4行目の「主が良くしてくださったこと」は、後続する3-5節で具体的に展開される事柄の「先取り」表現となっていることである。

*注:「聖なる」は、原文では「聖」という名詞であって形容詞ではない。「聖なる御名」の原文 שם קדשו  は英語に直訳すれば、"the name of/for his holiness" で「主の聖にふさわしい名」という意味である。それは「主が聖なる方であることを表すにふさわしい名前、すなわち存在」を意味する。ヘブル語の「聖」を意味する語は、神の本質を表すにふさわしい語であって、人間を含む被造物が「聖」であると言われることはない。


つむら・としお
 
1944年兵庫県生まれ。一橋大学卒業、アズベリー神学校、ブランダイス大学大学院で学ぶ。文学 博士(Ph.D.)ハーバード大学、英国ティンデル研究所の研究員,筑波大学助教授を経て、聖書神学舎教師。ウガリト語、 旧約聖書学専攻。聖書宣教会理事、聖書考古学資料館理事長。著書に『創造と洪水』『第一、第二サムエル記注解』など。

2024年8月26日月曜日

伊予

 https://www.blogger.com/blog/post/edit/756445346920566665/8650503795197581270

島


https://x.com/_luminous_woman/status/1828134320625836280?s=61


https://translate.google.co.jp/?sl=iw&tl=ja&text=%D7%90%25D6%25B4%D7%99&op=translate





創世記10:5

5海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった。
新共同訳

5 これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。
新改訳

5 これらから島々の国民が分かれ出た。それぞれの地に、言語ごとに、その氏族にしたがって、国民となった。

新改訳2017

イザヤ11:11
11 その日、主は再び御手を伸ばし、 ご自分の民の残りの者を買い取られる。 彼らは、アッシリア、エジプト、パテロス、025クシュ、 エラム、シンアル、ハマテ、 海の島々に残っている者たちである。

イザヤ41:1
41 1 「島々よ、わたしの前で静まれ。 諸国の民よ、新しく力を得よ。 近寄れ。そして語れ。 われわれは、ともに、さばきに近づこう。








アジア、南米

 アジア

 
 
Dr. Shintaro Sawayama
⁦‪@sawayama0410‬⁩
東南アジアがどの国の植民地だったかの地図です。
これも重要です。 pic.twitter.com/w75r79PiSR
 
2024/08/27 3:07
 
 

https://x.com/sawayama0410/status/1828132052077814142?s=61


南米

https://x.com/buna0725/status/1828281244720787654?s=61


 
 
Muhammad Abid Afridi
⁦‪@iMAbidOfficial‬⁩
⁦‪@sawayama0410‬⁩ ①300〜400年前から宗主国が植民地支配
②🇯🇵が宗主国を追い払う
③終戦で🇯🇵が引き上げる
④独立戦争という名の旧宗主国による再植民地化戦争が各国で起きる
⑤宗主国が負けてアジア各国が独立

②だけ植民地支配ガー、侵略戦争ガーと言われ、①と④は何も言われないのが不思議で仕方ない🤔
 
2024/08/27 14:31
 
 
https://x.com/imabidofficial/status/1828304287199613153?s=61

Neil Young and Promise of the Real - Cortez the Killer (Live at Farm Aid... https://youtu.be/jLuuCYxw8fA?si=GoeyZkMvGqqlCuDo

  https://tour.club-t.com/booking/application?p_from=&p_company_cd=1002000&p_course_no=1566747&p_date=2026/12/23&p_cookie=OK...