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マンドレイク論
The Mandrake, NATURE 1895.4.25 / 1896.8.13
マンドレイク、あるいはマンドラゴラ。人の形をし、必殺の毒薬あるいは媚薬として用いられるというこのヨーロッパの代表的な伝説の植物の比較文化史的考察に南方が挑んだのが、一八九五年に始まる『ネイチャー』への投稿論文、"The Mandrake" であった。
およそ、あの晦渋(かいじゅう)な南方の邦文の論攷からは想像もつかないことだが、この投稿における論点はただ一つであり、その焦点へとすべての文章がまったく無駄なく収斂(しゅうれん)していく。つまり、中国のいくつかの文献に記された「商陸」という植物に関する俗信が、西洋におけるマンドレイクのそれと深い関連を持っており、おそらくは伝播による直接の影響関係を互いに受けながら形成されたということ。『ネイチャー』に発表された三本の論文は、畢境、この説の紹介と、その論拠の説明に尽きるのである。
まず、一八九五年四月二十五日号に掲載された短文では、『五雑組』を引きながら商陸についてマンドレイクとそっくりな描写がされていることが紹介されている。すなわち、これらの植物は、ともに死体の上に生え、人間の形をしており、人語を解し、毒と薬の両方として用いられた。これほどの類似点を持つ伝承がはたして偶然に生まれたといえるだろうか。
さらに一年あまりのちの一八九六年八月十三日号に載せられた投稿はかなりの長文で、実質的に「マンドレイク論」の中核をなしている。ここで南方は、『本草経』にはじまる中国の博物学書と、フォーカードの『植物の伝承・神話・歌謡』のような西洋の知識をうまくつなぎながら、商陸とマンドレイクの伝承が細部に至るまで一致していることを丹念に証そうとする。そして、ここまできて、結論としてやっと熊楠は次のように示唆しているのである。
以上のようにマンドレイク譚と商陸譚の間の多くの類似点を見てきたが、これらは二つの植物にまつわるフォークロアが、同一起源だとは言わないまでも、まったく関連なく普及したという可能性を否定するものだと言えるだろう。
つまり、マンドレイクと商陸の話が文化伝播によって直接につながりながら形成されたはずであるという指摘。これは、南方が伝播による文化現象の交流をはじめてはっきりと示した言葉として、大いに注目されるべきものではないだろうか。
私見によれば、南方のロンドン時代の文化理解には二つの筋道がある。一つは、「パターン認識論」とでもいうべきもので、人間の想像力が自然現象をとらえる時にどのようなパターンを示しているか、という問題に沿って、さまざまな文化を比較するというもの。そしてもう一つは、世界の文化が直接の伝播によって交流してきた軌跡をたどろうとするもので、これは「文化伝播論」とでも呼ぶべきものであろう。
南方は最初、処女作「極東の星座」において、このうちのパターン認識の問題を古代インドと中国の星座を比較することによって論じたのだが、文献操作のまずさから完全な失敗作となってしまった。この事実については「極東の星座」の項目を参照されたいが、パターン認識論に持ち込もうとするあまり、南方は文化伝播の可能性を不用意に否定してしまったのである。
おそらく、南方はこの時の自分の失敗が文献操作の甘さから文化交流の可能性を否定してしまったことから来るものであると、十分に意識していたと思われる。そうした反省の上に立って、彼はこの後英国博物館に通い、さまざまな文献を丹念に読みこなしながら「ロンドン抜書」と呼ばれる筆写を続けるようになり、その過程でユーラシア大陸内の文化伝播に対する鋭敏な目を養っていたのであった。
マンドレイクと商陸の類似性の発見、および、それが文化伝播によるものであるという指摘は、こうした英国博物館での研鑽(けんさん)を抜きにしては考えられないものである。ここで、南方ははじめてユーラシア大陸を鳥瞰(ちょうかん)するような視点に立って、その大陸内を縦横にめぐる文化伝播の道筋をとらえようとしている。そしてその時、彼の目の前に浮上してきたのが、東西文明の結節点としての中央アジア世界であったということは、けっして偶然ではない。マンドレイク論の結末は、そのようにして、中央アジアへ、イスラム世界へと向かっていくのである。
古代のヨーロッパ人が人間の形をした人参についてのおぼろげな知識を持っていたこと、また中世の中国人が同じように迂遠ながらマンドレイクに関する認識を有していたということは注目に値する。この事実は、周密(一二三二~一三〇八)の次の文章に、十分に明記されている。
回々教国の西数千里には土地の産物の中にきわめて有毒なものがあり、人参のように人の形をしている。これは『押不廬(ヤプル)』と呼ばれ、土中数丈(一丈は十尺)の深さに生ずる。もし人がその表皮を傷つければ、その毒が付着し、死にいたる。
この文章を読んだ人には、これが明らかにヨゼフス(Josephus)とディオスコリデス(Dioscorides)の記録から導かれた文章であること、さらにこの「押不廬」が、まさしくアラビア語でマンドレイクを指す「イブル」そのものである、ということは指摘するまでもないかもしれない。
このようにして、西洋のマンドレイク、中国の商陸を比較する南方の追跡は、「イブル」と呼ばれる植物についてのイスラム世界の伝承へとたどりついた。マンドレイク、イブル、商陸というそれぞれ西洋、中央アジア、中国の植物の伝承がほとんど一致する以上、これらはかつて一つのつながりとしてユーラシア大陸の東から西までを直接の伝播によって覆っていた俗信であったとしか思われない。その意味で、このイブルという植物はまさに「マンドレイク論」におけるミッシングリングだった。そして、そうした隠されたミッシングリングが眠る東西文化交流の結節点として、中央アジア世界は南方の視界の中に大きく浮上してきたのであった。
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