2025年9月23日火曜日

邪馬台国は熊本にあった!【邪馬台国の界隈035】



隋書俀(倭)国伝では…


其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 


その国境は東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に至る。地勢は東高く、西は下。


その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。



太平御覧の記述が気になります。


◆所居絶島方四百余里、地多山林無良田、食海物自活乗船南北市糴


居るところ絶島にして、四方は四百里、地は山林多く、良田なし。海物を食べて自活し、

船に乗りて南北に市糴する。


翰苑では?


 「山により、海を負い、馬臺を鎮め、以て都を建てる。」

 臺の字の上部は吉ですが、去となっています。形が似ており、文字の書き癖、かすれ等から誤ることはじゅうぶん想像できます。邪馬臺の邪がどこかへ行って、馬臺にされてしまいました。これは間違いではなく、著者、張楚金が意図的に変えたものです。理由は後に明らかになります。
 

 「後漢書曰く、倭は韓東南大海の中に在る。山島に依り居す。およそ百余国。武帝が朝鮮を滅してより使訳が漢に通じるのは三十(=卅)余国。王を称す。その大倭王は邪馬臺に治す。楽浪郡境はその国を去ること万二千里。その地はおおよそ会稽(東冶)の東にあり、朱崖、儋耳と相近い。」
 「魏志曰く、倭人は帯方東南にある。倭地を参問すれば、孤立して海中の島々の山(魏志は上)にあり、あるいは離れ、あるいは連なり、巡り巡って五千余里ほどである。四面はともに海に極まる。営州より東南、新羅を経てその国に至る。」

 注の中の誤字や脱字は、後漢書を正しく写したのではなく、注者が言い換えた部分があることを示すのかもしれません。後漢書の「居を為す」が「居す」、「使駅」が「使訳」、「三十許国」が「三十余国」になっています。意味は変わらず、青字にはしませんでしたが、修正しようかどうかと迷うところです。「翰苑」の本文自体も、過去の史書を要領よくまとめただけの文ですから、そのまとめる過程において、著者、張楚金の解釈が色濃く入っています。
 後漢書には「会稽東冶の東」と書いてありますが、後漢代には会稽郡が設けられていて、東冶も会稽…





隋書倭国(俀国)伝(原文、和訳と解説)

http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm


隋書俀(倭)国伝

 隋書は唐の魏徴撰。唐の二代目、太宗(李世民)の貞観二年(628)、学者を率い、数年かけて戦乱の間にバラバラになってしまった四部書(経、史、子、集)を校訂したとされている(旧唐書魏徴伝。新唐書では貞観三年)。隋書もこの間に編纂された。魏志倭人伝の「壱与」を「台与」と記す梁書(姚思廉撰)の編纂にも魏徴が関与している。


俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近

俀国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り。山島に依りて居す。魏の時、中国に訳通するは三十余国。みな王を自称す。夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る。その国境は東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に至る。地勢は東高く、西は下。邪靡堆に都する。すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり。古くは云う、楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びて一万二千里。会稽の東に在りて、儋耳と相近しと。

「倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している。その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。古には、楽浪郡境(後漢書、この頃帯方郡は存在しない)及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れていて、會稽(郡)の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」

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