2025年9月19日金曜日

みたままつり 柳田國男と靖国神社の関係についての通説を検証し、柳田の靖国神社に対する親和性を探る。

本稿は、柳田國男と靖国神社の関係についての通説を検証し、柳田の靖国神社に対する親和性を探る。
柳田國男と靖国神社に関する通説
• 柳田は『明治大正史世相編』や『先祖の話』で靖国神社に言及し、特に「家永続の願い」や「晴の祭場」という表現を用いている。
• 宮田登や川村邦光は、靖国神社の祭神を民俗的なカミとは考えず、忠魂祭祀を批判している。
• 柳田は、靖国神社を完全には否定していないと報告者は理解しているが、通説では彼が靖国神社を否定的に捉えたとされる。
• 柳田の考察は、個人の死や幽界に関するものであり、戦時中の特攻精神とも関連している。
柳田の靖国神社との関係の仮説
• 柳田は靖国神社に対して親和的だった可能性があり、特に「みたま祭」との関係や靖国神社での講演を通じてこの仮説を検証する。
• 柳田は、戦没者の慰霊を重要視し、民俗的な祭祀のあり方を模索していた。
• みたま祭は、柳田の影響を受けて仏式の盆行事とは異なる形で行われるようになったとされる。
みたま祭の成立と柳田の影響
• みたま祭は1946年に始まり、柳田が神職と意見交換を重ねた結果、正式に執行されるようになった。
• 所功の研究によれば、柳田の助言がみたま祭の創始に寄与したとされ、祭の性格が『先祖の話』の精神を反映している。
• 柳田は、戦没者の魂を祀ることが日本の平和に不可欠であると考え、神社の計画に賛意を表した。
靖国神社での講演とその内容
• 柳田は靖国神社で「氏神と氏子」に関する講演を行い、神社の種類や氏神の信仰について議論した。
• 講演の中で、氏人を持たない神社についても言及し、靖国神社もその一例として挙げられる。
• 柳田は、戦死者を念頭に置いた信仰の変遷や、仏教との関わりについても考察している。
結論
• 柳田國男は靖国神社に対して否定的な立場だけでなく、むしろその祭祀のあり方に親和的であった可能性が高い。
• 彼の考察や活動は、戦後の日本における慰霊祭祀のあり方に深い影響を与えたと考えられる。


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柳田國男と靖国神社
2018/10/14 @駒澤大学 [日本民俗学会 第70回年会] 由谷 裕哉(小松短期大学教授)
https://researchmap.jp/read0040709/presentations/21388879/attachment_file.pdf

7月13日~16日 みたままつり
https://www.yasukuni.or.jp/schedule/saiji.html

令和7 年 光の祭典 みたままつり https://youtu.be/CFdhdVDHbTA?si=xoNdsdYWYVyE4plH @YouTubeより

さとうさおりが絶賛するかき氷 ※みたままつりは7月16日まで #さとうさおり #減税党 #千代田区 #参院選 #かき氷 https://youtube.com/shorts/ok5nSJzlSKU?si=eCa_4JtjpjZrbKv4 @YouTubeより

柄谷行人

引用

少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒の言う無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけにはいくまいと思う。もちろん国と府県とには晴の祭場があり、霊の鎮まるべきところは設けられてあるが、一方には家々の骨肉相依るの情は無視することが出来ない。


八一 二つの実際問題  
 さて連日の警報の下において、ともかくもこの長話をまとめあげることが出来たのは、私にとっても一つのしあわせであった。いつでも今少し静かな時に、ゆっくりと書いてみたらよかろうにとも言えないわけは、ただ忘れてしまうといけないからというような、簡単なことだけではない。もとは他国へ出て行って働くにも、やがては成功して故郷に還り、再び親類や故旧の間に住もうという者が多かったようだが、最近になって人の心持ちはよほど改まり、何でもその行く先の土地に根を生やして、新たに一つの家を創立しようという念願から、困苦と闘っている人たちが日に加わっている。すなわち家の永続は大きな問題とならざるを得ない。風土環境の我々に及ぼす力は軽く見ることが出来ぬであろうが、住めばたちまちその天然の中にまぎれ込んでしまって、やがて見分けも付かなくなることは、少なくとも開発者の本意ではないのである。淋しいわずかな人の集合であればあるだけに、時の古今にわたった縦の団結ということが考えられなければならぬ。未来に対してはそれが計画であり遺志であり、また希望であり愛情である。ことごとく遠い昔の世の人のした通りを、倣うということは出来ない話だが、彼らはどうしていたかというまでは、参考として知っておくのが強味である。古人は太平の変化少なき世に住んで、子孫も自分が先祖に対するのと同一の感じをもって、慕い懐かしみ迎え祀るものと信ずることが出来た。しかし実際は次々と社会の事情が改まって、ある部分においては明らかに失望しているのである。その悲しみをちっとでも避けるがためには、われわれはこれから後の世の中の、今の通りではないことを予期することが必要であるのみでなく、それを力の及ぶ限り、現在我々が善しと信ずる方向へ、変わらせていくように骨折らなければならぬ。すなわち家というものの理想は外からも内からも、いい頃加減にしてほったらかしておくわけにいかぬのである。日本のこうして数千年の間、繁り栄えて来た根本の理由には、家の構造の確固であったということも、主要なる一つと認められている。そうしてその大切な基礎が信仰であったということを、私などは考えているのである。もとより信仰は理をもって説き伏せることの出来るものでなく、人が背いていくのを引き留めることは困難であろうが、多数の我が同胞は感覚においてこれを是認しつつも、実はこれを考えまた言葉にする機会だけをもたなかったのである。はっきりと言ってしまったら、かえって反対は強くなり、消滅の危険を多くすることになるのかも知れないが、なお私はこの事実を正確にした上で、それを再出発の起点としなければならぬと思っている。

 それから第二段に、これも急いで明らかにしておかねばならぬ問題は、家とその家の子無くして死んだ人々との関係如何である。これには仏法以来の著しい考え方の変化があることを、前にもうくだくだしく説いているが、少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒の言う無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけにはいくまいと思う。もちろん国と府県とには晴の祭場があり、霊の鎮まるべきところは設けられてあるが、一方には家々の骨肉相依るの情は無視することが出来ない。家としての新たなる責任、そうしてまた喜んで守ろうとする義務は、記念を永く保つこと、そうしてその志を継ぐこと、及び後々の祭を懇ろにすることで、これには必ず直系の子孫が祀るのでなければ、血食と言うことが出来ぬという風な、いわゆる一代人の思想に訂正を加えなければならぬであろう。死者が跡取りならば世代に加える制度を設けるもよし、次男や弟たちならば、これを初代にして分家を出す計画を立てるもよい。ともかくも歎き悲しむ人がまた逝き去ってしまうと、ほどなく家無しになって、よその外棚を覗きまわるような状態にしておくことは、人を安らかにあの世に赴かしめる途ではなく、しかも戦後の人心の動揺を、慰撫するの趣旨にも反するかと思う。子代御名代の貴き御ためしを引くまでもなく、古来我が邦には叔母から姪女へ、伯父から甥へ行く相続法もあり、あるいはまた血縁の繫がりの無い者にも、家名を承け継がせた習わしがよく発達している。新たに困難に身を捧げた者を初祖とした家が、数多く出来るということも、もう一度この固有の生死観を振作せしめる一つの機会であるかも知れぬ。それは政治であって私らの学問の外ではあるが、実は日本のたった一つの弱味というものが、政治家たちの学問への無関心、今なおこういう研究はよくよく閑のある人間だけに、任せておいてよいかのごとく、思っている人が多いことにあると思うので、思わずこんなことにまで口を出すはずみになったのである。

(昭和二十年五月二十三日)

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