太秦語りと幻想のエルサレム 井上章一
https://www.nichibun.ac.jp/ja/research/nichibunken_pj/2023/08/01/
太秦をウズマサと、すなおに読めるのか
大秦の謎、シリアかローマか
長安の大秦寺
638年 長安義寧坊に波斯寺建立 745年 大秦寺へ改称 845年、廃仏毀釈
広隆寺 (622年 秦河勝造立とつたわる)
境内に大酒神社、『延喜式』では、大辟神社
「膣」に「門」(もんがまえ)をそえれば「聞」、そして、大闘はダビデ
西側の伊佐良井は.
1
大田錦城(1765~1825年) 『梧窓漫筆拾遺』
長安のキリスト教寺院
「 大宗玄宗の大秦寺を建てたるにひて、西京に大秦寺を建てられたること必定と覚ゆ」
地名のいわれ
「大泰を何とてウズマサと唱ふべきや。 ウズマサと云ふは、胡語蛮語の伝はりたること、明白なリ」
日光菩薩、月光菩薩
ゆめゆめ
「仏家のものとは、努々思はれず、波斯大奉などの天を奉ずる家の像設たること、明日なり」
2
松浦静山(1760~1841年) 『甲子夜話 正編』(第63巻)
牛祭り
「天主教の徒は牛を学ぶ」
京師に太秦広隆寺と云あり。かの大秦の教も吾邦に伝へたりしか、此寺今に牛祭と云ことありて、
異体の仮面を蒙れる者牛に乗りて進退すること有よし
多胡郡の碑.
「 上州多胡郡の碑にある羊[ひつじ](人名)は、蓋し遣唐の人なり。後其墓中より・・・・・十字架を出だす……唐
に景教と云有り·····遣唐使もら此後の頃なれば、或はこの数を伝乗りしなるべし」
つたべきた
「是を『イサアカテッチンギ』(先年舶来の紅毛人)に長崎屋の旅舎にして、上州の御代官より示せ
(ਜਾਰੀ)
(に、『テッチンギ』是を鑑定せよとは甚不審なりと言と(この意は、此物は天主教の所用。吾邦
制禁のものなる故なり)」
イザーク・ティツィングの江戸参府は、1780年と1782年の2度、
「二十歳の時・・心付きたり」 (梧窓)
3
鎖国時代の海をこえた想像力 背景には、どんな情報環境があったのか
『旧唐書』(IOC中頃)
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『資治通鑑』(11c後半)
『西渓叢話』(12C初頭)
「仏祖統記』(13C中頃)
アレニジウリオ
『西学凡』 (艾傷略 1623年)
『金石萃編』 (1805年)
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1623年 大秦景教流行中国碑出土
『…
『甲子
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通鑑をみたるより 心付きたり」
२२
「西渓叢語に云立祆寺号大秦寺」
太秦寺の事・・・ 『旧唐書』にも見ゆ」
「『仏祖統記』云····· 京師建大奏寺」
近藤重蔵(1795年 長崎奉行 1808年 書物奉行)
『好書故事』(76巻77巻 「禁書」)
『恋』
「西学凡には、唐碑 篇を付載して云」
『甲子…』「唐寅教と云有り。これは『金石萃編』」
4
431年 ローマ帝国エフェソス(現トルコ)の会議で、ネストリウス派は異端と認定
以後、東方へ数宣をむける。 ソグディアナ、トルキスタンをへて7世紀に中国へ
阿羅本を団長とする伝導団が長安入城
大秦景教流行中国碑建立(大秦寺境内)
碑文は景浄=アダムによる
景浄はソグド語ができた。 インド僧の般若三蔵とソグド仏典の漢訳にいどんだこともある。
ヨーロッパでは半信半疑 ボルテールは、イエズス会による捏造説
の発見
635年
781年
1623年
1896年
高楠順次郎 帯吹中に景浄の実在説を英語で発表
景浄の名は、『貞元新定釈教目録日(唐代)に記載されていた
The Name of "Messia" in a Buddist Book
5
佐伯好郎
『景教碑文研究』 (1911年)
「景」=「日」+「京」
「京」
「宗」=「大」,
景
「太秦(禹豆麻佐)を論ず」「歴史地理』 1908年1月号
大酒神社、伊佐良井
『教の研究』 (1935年)
L
・大日」
服部之総『原敬百歳』(1955年)
「ユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」
「そのために打った第一着手が大秦氏=猶太人の着想であった」
6
聖徳太子(鹿戸豊聡耳皇子 574~622年)
『日本書紀』(720年), 『上宮聖徳太子伝補闘記』(9c初頭)
久米邦武 (1839~1931年)
トキリスト
「聖徳太子の対外硬」 『太陽』1904年1月号
基督の新約書を焼直したるもの」
ヤリ
『上宮太子実録』1905年 「隋唐のころに耶蘇教の支那に伝播し、其説を太子の伝に付会し」
秦氏
ローマ
中里介山『夢殿日(1929年)鳥仏師の独白 秦氏の祖先は「羅馬とかシリアとかいう国だそうだ」
景教….…向うの言葉ではネストとかネストリとかいう」
飛鳥昭雄・三神タケル『失われた原始キリスト教徒<秦氏>の謎』(1995年)
空海
司馬遼太郎『空海の風景』 (1975年)
陳舜臣『曼陀羅の人・空海求法伝』(1984年)
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バビロンの言語擾乱と日ユ同祖論
ペドロ・モレホン 『日本中国見聞録 (1621年)
ケンペル 『日本誌』 (1777~1779年)
「この民族は疑いもなく、直接にバビロン諸島人の一部がこの島に辿りついた」
ロドリゲス 『日本教会史』(1620~1634年)
ルイス・フロイス,
チャールズ・マックファーレン 『日本・地理と歴史の物語』 (1852年)
アンドリュー・シュタインメッツ
(1859年改訂)
ノーマン・マクロード(マクレオッド) 『日本古代史の縮図」(1875年)
小谷部全一郎、川守田英二、マーヴィン・トケイヤー
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