2025年9月11日木曜日

『南方熊楠を知る事典』-松居(第三章) さまよえるユダヤ人


http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/books/jiten_matsui_ch3.html#Jew

さまよえるユダヤ人

The Story of the "Wandering Jew", NATURE, 1895.11.28 The Wandering Jew, NOTES AND QUERIES, 1899.8.12 / 1899.8.26 / 1900.4.28

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 「さまよえるユダヤ人」は、「マンドレイク論」と並ぶロンドン時代の南方の、文化伝播に関する代表的な論攷である。当初、一八九五年の『ネイチャー』に短い報告として掲載されたものが、一八九九年にいたって『N&Q(ノーツ・アンド・クエリーズ)』誌上で詳細に展開されたのだが、そのことは『ネイチャー』から『N&Q』へという熊楠の発表先の移行を象徴しているともいえよう。この時の状況を想像すれば、おそらく、最初の報告以降、この題材に関する資料を集めていた熊楠が、帰国にあたって発表先を『N&Q』に求めたというところだろうか。

 さて、マンドレイクの伝承の場合と同じく、この「さまよえるユダヤ人」の物語も、ヨーロッパに深く根づいたものであった。話の内容は、アハスエルスというユダヤ人の靴屋が、ゴルゴダの刑場に向かうイエス・キリストを冷たく追い払ったために、罰として永久に地上をさまようことになる、というごく単純なものである。熊楠の説明を少し引用しておこう。

 耶蘇刑せらるるとき、履工の門に息む。履工、腹黒くて、「耶蘇、汝、今刑せられなば、永久に息を得べし。何を苦しんで少息するか」と罵る。耶蘇怒って、「われは刑せられて永久に息まん。汝は過言の咎で、永久息み得じ」という。それより、この靴工、世間を奔走して少時も息を得ず、常に罪を悔いて死に得ぬという。(柳田国男宛書簡、一九一四年五月十日付)

 十六世紀頃からの存在が確認されているこの説話は、十九世紀になると、反ユダヤ主義の勃興ともあいまってヨーロッパ全土に普及した。死ぬこともできずに地上をさまようというその悲哀をテーマにした詩がさかんに作られ、また十九世紀半ばには、ウージェーヌ・シューの『さまよえるユダヤ人』が、新聞小説のはしりとしてフランスで大評判になった。母国を持たずにヨーロッパに居着いているユダヤ人の祖先が、実はキリストによってさまようことを義務づけられた存在である、といういかにももっともらしい解釈は、いわば「黒い噂」として大衆の心をくすぐったのであろう。

 熊楠の論攷「さまよえるユダヤ人」は、こうしたヨーロッパの説話が、実は仏典に起源を持つことを論証したものである。一八九六年の『ネイチャー』の記事は、この説話に関連して思い起こされる話として、仏陀(ぶっだ)によって地上をさまようことを義務づけられた賓頭廬(びんずる)の話を引用しただけであるが、一八九九年の『N&Q』掲載の論文においては、これが伝播であることについての論証と、さらに東アジアで賓頭廬がどのようにとらえられているかという紹介が行なわれている。その『N&Q』版の冒頭での、熊楠の自信に満ちた宣言を見てみよう。

 古代インドの仏教説話と中世・近世ヨーロッパの「さまよえるユダヤ人」との間に存在する緊密な関係について、私が世人の関心を引こうと試みてからすでに三年以上の月日が流れた。この件に関して、私は、日本のすぐれたパーリ語学者である村山清作氏と協力しながら最近まで進めてきた追加調査の結果、ほとんどの民俗学者が今まで言及しなかった多くの題材を得ることができた。

 ここで協力者として記されている村山清作については、土宜法龍の友人であったこと以外には、はっきりしたことはわかっていない。この村山清作がセイロンで調査したらしい『請賓頭廬経(しょうびんずるきょう)』は、『N&Q』版「さまよえるユダヤ人」の中核をなす資料だが、仏典の定本として用いられる『大正新脩大蔵経』の版とは大幅に異なっており、現在では扱いの困難な文献となっている。

 ともあれ、この『請賓頭廬経』に加え、『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』、『法苑珠林(ほうおんじゅりん)』などを引きながら、熊楠は「さまよえるユダヤ人」の原型たる賓頭廬の物語を紹介する。それによると、基本的にはこの話は、仏陀の高弟であった賓頭廬は、無断で法力を用いてしまったために、仏陀の怒りを買う。そして、涅槃(ねはん)にいたることを禁じられたまま、永久に地上をさまようことになる、というものである。熊楠は、この賓頭廬と「さまよえるユダヤ人」との共通する点として、ともに永久に生きることを課せられたこと、教義を保護する役目を与えられたこと、みすぼらしいが法力を使うこと、など細部にわたって列挙する。そして、もちろん賓頭廬の話と「さまよえるユダヤ人」には、異なる点もないわけではないが、ヨーロッパの中での「さまよえるユダヤ人」の説話にさえ、さまざまなヴァリエーションがあるではないか、と結論づけるのである。

 このようにして、熊楠はインドからヨーロッパにいたる説話伝播を立証し、賓頭廬像の転移を明らかにしようとした。そして彼は、併せてこの論攷の中で『竹取物語』、『和漢三才図会』、そして十五世紀の『鷺烏(さぎからす)合戦物語』などの日本の文献に現われる賓頭廬についても筆を伸ばしている。

 結局、「マンドレイク論」にも増して、この「さまよえるユダヤ人」は、文化伝播に関する熊楠の認識を大きく前進させたことであろう。古代インドの阿羅漢賓頭廬、それが西に行ってさまよえるユダヤ人となり、東に行って法力のすぐれた人物の代名詞として用いられる。そうした、空間と時間の大きな隔たりを越えてあらわれる文化現象の力と、それを支えてきたユーラシア大陸の交通の網の目に、熊楠の目は急速に見開かれていったのであった。のちのシンデレラ譚に関する研究、そして猫一匹によって大金持ちになった話の研究など、熊楠の伝播論の最初の形が、ここにはあるのだ。

 だが、それにしても、仏陀を怒らせたかと思えば、中世の日本の物語にひょっこり登場したり、ヨーロッパ各地を席巻したり。この賓頭廬というみすぼらしい老人、さすがに不死だけあって、なかなかのものではないか。 〔松居 竜五〕

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