2025年5月24日土曜日

[新装版]十六菊花紋の超ひみつ 日本人ならぜったい知りたいユダヤと皇室と神道 手島郁郎関連


[新装版]十六菊花紋の超ひみつ 日本人ならぜったい知りたいユダヤと皇室と神道
第一刷 
2018年5月31日
著 者 中丸 薫 ラビ・アビハイル 小林隆利 久保有政
発行人 石井健資
発行所 株式会社ヒカルランド

 …ネストリウス派については、手島郁郎(後述、キリスト幕屋創始者)が、同様の証言をしています。1939年、手島氏は、中国の奥地に滞在し、彼の指揮の下で雑用をするために、イスラム教徒の村からやって来た使用人を雇っていました。この使用人が彼に語ったところによると、彼の出身の村人は、現在はイスラム教徒として生活してはいても、豚肉も、もものつがいの上の腰の肉も食べず(創世記32:32)、彼らの祖先はイスラエル人であり、家屋が約100年前に戦火で焼失したために、その地に逃れてきたということでした。  
 これを聞いた手島氏は、詳細を調査しはじめました。彼はそこで、50年前から伝道のために働いていたスウェーデン人の宣教師である、ブロム牧師夫妻から、こんな話を聞きました。〝中国の奥地には、古代ネストリウス派クリスチャンの子孫が住んでおり、そのうちの多くは、現在道教の迷信の影響下にあるか、イスラムあるいはカトリックに改宗してしまいました。……ネストリウス派はシルクロードを通って中国にやって来ました。ネストリウス派が、実のところユダヤ系キリスト教徒であることは、特筆に値します。彼らはイスラエル人なのです〟。


日本でもっとも多い八幡系神社のヤハタ神は秦氏の神──手島郁郎の研究  

 日本には「キリストの幕屋」と呼ばれるグループがあります。その創始者である手島郁郎は、イスラエルの失われた十支族、ユダヤ人、秦氏その他をも調べた優れた研究家でした。  手島氏によると、日本のすべての神社の中で、もっとも多いのが、八幡系神社で、これは、かつては八幡(ヤハダ)と呼ばれていました。  
 八幡の神は、秦氏が信仰していた神です。手島氏は、佐伯氏と同様に、秦氏はユダヤ系東方キリスト教徒だと考えました。さらに、ヤハダは、元々ヘブライ語で、ユダヤを意味する〝イェフダー〟が起源だとも、考えました。そうすると、ヤハダの神は、ユダヤの神と同一だということになります。日本の古代歴史書である『古事記』には、ヤハダの神は外国の神であると、明確に記されています。手島氏は、さらにこう主張しています。

〝日本の古代歴史書である、『続日本紀』は、736年、聖武天皇が、唐人・皇甫(こうほ)と、ペルシャ人李密醫(りみつえい)に、位階を与えた、と記録しています。これは、ネストリウス派の来日の最初の公式な記録といわれています。それ以前に、秦氏はユダヤ系キリスト教徒として日本で活動していました。〟

〝静岡県浜名湖の奥にそびえる山に建つ半僧坊の本尊は、ユダヤの景教僧アキバといわれる。〟

〝日本では、第二次世界大戦までは、赤ちゃんが生まれた時、男子の場合は白、女子の場合には赤のチャンチャンコを、近隣や友人がプレゼントして祝福するのが、慣わしでした。チャンチャンコの背中には、赤ちゃんの幸福を願って、ダビデの星の形を縫い付けてありました。終戦後、この風習は次第に廃れはじめ、欧米スタイルの洋服が、伝統的着物に取って代わるようになりました。しかしながら、はるかいにしえの頃より、新生児の幸福の伝統的なシンボルとして、着物の背中にダビデの星が縫いつけられてきました。幸福を願うこの風習は、日本のほとんどの地域に広まっていました。ダビデの星は、イスラエルの12支族を象徴するように、12針で縫いつけられるのが、伝統でした。〟

〝日本には、桃太郎というお伽噺がありますが、その中で、桃太郎は、鬼ヶ島へ征伐に行った時、〝エンヤラヤー〟と歌って、家来を元気づけました。しかし、もし子供から掛け声の意味を尋ねられても、大人はその意味を知りません。〝エンヤラヤー〟は、ヘブライの表現、〝エァニ・アーレル・ヤー〟に似ていますが、これは、〝私はヤハウェを讚える〟を意味します。以前、熊本県八代市にある、妙見宮のお祭を見物した際、参加者が、〝ハレルヤ、ハーリヤ、ハーリヤ、トーセ……ヤウェ、ヤウェ、ヨイトンナー〟と歌っているのを聞きましたが、それもまるでヘブライ語のように聞こえました。〟  

 これらはすべて、興味深い記述です。手島氏は、京都にある秦氏の墓に関しても、墓のスタイルが、ユダヤのそれに似ていると、主張しています。古代ユダヤ人はトンネルを掘るか、あるいは岩を積み上げることで洞穴をつくり、それを墓としました。秦氏の墓も同じ様式になっています。  
 また、奈良県の大神神社の近くの山で、2500年前のオイルランプが発見されたことも、興味深いので、触れておきます。手島氏の話によれば、これらのオイルランプは、古代イスラエルで使用された物に似ているそうです。

平安京と祇園祭に見られる失われた十支族の影響!
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出典:http://jewsandjoes.com/the-10-lost-tribes-of-israel.html   :http://jewsandjoes.com/


 ヨセフスによる、イエスの時代のスキタイとパルティア  

 1世紀のユダヤ人歴史家、フラヴィウス・ヨセフスは、その著書において、イスラエル十支族という神秘的な存在について、聖書と無関係でありながら、パワフルなヒントを提供しています。彼はこう記しています。 〝……イスラエルの民の全体が、その国に留まった……二支族はアジアと、ローマ支配下のヨーロッパにいる。一方十支族はユーフラテス川の向こうにいて、数えきれないほど膨大な民衆となっている。〟  

 ほとんどの十支族説は、スキタイ人([訳注]南ウクライナ中心に活動した世界最古の遊牧騎馬民族)、あるいはスキタイ人とつながりをもったユーラシア移民説がベースになっています。スキタイ人は、アッシリアによって、黒海北部とコーカサス・ペルシャ中央地域に、イスラエル十支族が追放されたのとほぼ時期を同じくして、同地域に現れた人々です。アメリカ百科事典には次のように記載されています。  
 スキタイ人とは、紀元前約700年に黒海北部地域を占領した種族であり、国家がいくつかに分離した紀元前4世紀までは、結束力のある単一の独立した政治形態を維持していた。  
 ギリシャ人によって、西部のスキタイ人として認識されている人々は、アジア内部のさらに東部に居住していた種族と親密につながりのあった多数の人間から枝分かれした人たちに過ぎないということは、歴史家の間では周知の事実です。スティーブン・M・コリンズはこう付加えています。  

 スキタイ人に、黒海スキタイ地域よりも東部に居住する〝血縁の一族〟がいたということは、イスラエルが、多くの親族の支族によって構成されているという事実と符合します。タマラ・ライスの著書、『スキタイ人』には、アジアの東部奥地に居住したスキタイ人、〝血縁の一族〟の場所を示した地図が掲載されています。彼らの埋葬場所は、東端では、ロシア国境と、中国およびモンゴル国境の西端が接する、ロシアのパジリク・アルタイ地域まで確認されています。スキタイ人は、アッシリアのサルゴン王の治世でアジアに出現しています(紀元前722-705)。これは、イスラエル王国の崩壊と、イスラエル人のパレスチナからアジアへ脱出の時期と、見事に一致しています。 ペルシャのベヒストゥン碑文  追放されたイスラエル人と、キンメリア人([訳注]南ウクライナ中心に勢力をふるった古代遊牧騎馬民族)、及びスキタイ人との間のミッシング・リンクをつなぐものとして、しばしば引合いに出されるのが、ベヒストゥン碑文です。ジョージ・ローリンソンは、こう記述しています。  
 紀元前7世紀にアッシリアとメディア王国の国境に最初に出現したギミルライ、またはガミルとも呼ばれたキンメリア人と、その約2世紀後のベヒストゥン岩の碑文に記されたスキタイ人は、サマリアすなわちイスラエルの家の十支族と同一である、と考えるべき理由があります。  
 ベヒストゥン碑文は、旧ペルシャ人とエラム人の中で、サカ、サカエあるいはスキタイ人として知られる人々と、バビロニア人の中でギミルライあるいはキンメリア人として知られる人々を結び付けるものと、信じられています。

黒いオベリスク──シャルマネセル3世の足元にひざまずくイエフ、オムリの息子あるいはイエフの大使  

 最初に明らかにすべきことは、〝キンメリア〟と〝スキタイ〟の二つの語が、交換可能だということです。たとえばイスクザイ(アスグザイ)は、アッカド語では、極めて例外的な名前です。ギミルライやガミルの名は、アッカド語におけるスキタイと同様に、キンメリアをも表す通称でした。  
 考古学者のE・レイモンド・キャプトは、ブラック・オベリスク右手の尖った頭巾をかぶったイエフ王と、ベヒストゥン磨崖碑上部に描かれた捕虜のサカ/スキタイ王との類似性を指摘しました。さらに、アッシリア語でイスラエルの家を表す〝クムリ〟は、紀元前8世紀のイスラエルのオムリ王の名前から取ったものですが、これが発音的に〝ギミルライ(ガミル)〟と似ているとも、彼は主張しています。 〝サマリア(Samaria)〟と〝キンメリア〟(Cimmeria辞典によればcはsのように発音される)の二つの語の、驚くほどの、発音の類似性に気づいてください。このキンメリア人がその頃メディアに到着したことは、彼らが、サマリアからのイスラエル人の捕虜と同一であるという説の信憑性をさらに高めています。イスラエルに移住させられたサマリア人は、反アッシリア派であるはずなので、当然、反アッシリア派同盟に加わるでしょう。 「イスラエル人とスキタイ人の同一説」の批判派は、スキタイ人とキンメリア人の習慣が、古代イスラエル人のものとかなり違うということを根拠に反論します。しかし、ローリンソン氏とコリンズ氏のような著述家は、こうした反論を否定するでしょう。北王国イスラエルの民は、アッシリアから追放される前に、トーラーをベースにした自国の文化から遠ざかり、周囲の人々の偶像崇拝を信奉するようになったという見解を述べる人たちもいます。また、イスラエル十支族は、そもそも〝ユダヤの習慣〟の多くに、触れておらず、ユダヤの習慣が発展したのは、その何世紀も後のことであるため、〝ユダヤの習慣〟の有る無しを、イスラエル出身かどうかのリトマス試験紙に使うのは、決定的な過ちです。  

 キリスト教の伝統は、スキタイ人はセムではなく、ノアの息子ヤペテの子孫だと反論する傾向にあります。このような批判に対して提供される反論材料は、大抵は創世記9:27にあります。そこに書かれた内容は、ヤペテは、セムのテントに居住するだろうという預言です。すなわち、北のヤペテ族は、〝ヨセフの家〟と一緒になったか、あるいは、彼らによって、脇へ押しやられてしまったと信じられています。というのは、

〝彼(ヨセフ)は、国々の民を、一度に、地の果てまで突き倒すだろう〟とあるからです(申命記33:17)。スキタイ人は、発祥時及び後期においても、一度も単一民族のグループだったことがありません。その点は、真に〝純血〟だったことがない、イスラエル十支族も同様で、彼らはむしろ他民族と混じる傾向にあり、エジプトを最初に離れたときでさえ、すでに〝混血〟した群衆となっていました(メモ:エフライムとマナセの母はエジプト人であった)。 17世紀から20世紀までの間の失われた十支族とユダにフォーカスする  少なくとも、17世紀以来、ユダヤ人とキリスト教信者の双方が、失われた十支族に関する独自の理論を提示してきました。アシュケナジム系ユダヤの人の伝統は、失われた十支族を〝小さな赤いユダヤ人〟Die Roite Yiddelech、という言葉で呼んでいます。彼らは、伝説のサンバチオン川によって、他のユダヤ民族から隔絶しています。〝サンバチオン川の泡立つ水は天高く上昇し、火煙の壁はその川を通り抜けることが不可能〟とされています。  

 1649年12月23日、著名なアムステルダム出身のラビである、マナセ・ベン・イスラエルは、〝失われた十支族の中には、南米のアンデスにネイティブ・アメリカンと共存していた人々もいる〟と、アントニオ・デ・モンテシノスからいわれたとき、こう記しました。 〝……十支族は、アンデスに住んでいただけでなく、世界各地の、それ以外の土地にも散らばったと思う。この人々は、その後、第二神殿(エルサレム)には戻らず、こんにちまで、ユダヤの教えを信仰し続けている、と私は考えます〟  

 1655年、ラビ・イスラエル氏は、ユダヤ人がイギリスに戻れるよう、その許可をオリバー・クロムウェル(イギリスの政治家)に嘆願しました。1290年以降、イギリスはユダヤ人の居住を法律で禁じていたからです。ユダヤ人のイギリス帰国に対して、クロムウェル氏側は興味を持ちましたが、その理由の一つは、当時、世界終末論に関する仮説が溢れていたことでした(いくつかは、アイザック・ニュートン卿が研究し、普及させた)。こうした終末論の概念の多くは、1666年に定着し、第5王国派は、この物質界を千年の間支配する最後の王国を創造する人物である救世主イエスの帰還を待っていました。彼らは、ユダヤ人帰還は来たる第5王国への準備との期待から、クロムウェルのイングランド共和国を支持しました。第5王国とは、アッシリア、ペルシャ、ギリシャ、ローマの世界帝国の次に来る世界王国(キリストの千年王国をさす)のことです。

失われた特定の支族の子孫であると主張しているグループ  
 数多くのグループが失われた特定の支族の子孫だと主張しています。  

 ベネ・エフライム(南インド)──エフライム支族の子孫と主張  
 ブネイ・メナシェ(北東インド)──マナセ支族の子孫と主張([訳注]シンルン族のこと)  ペルシャのユダヤ人(特にブカラ・ユダヤ人)──エフライム支族の子孫と主張  ベタ・イスラエル人(エチオピア出身)──ファラシャ、あるいはエチオピア系ユダヤ人とも呼ばれ、ダン支族の子孫と主張  ナイジェリアのイボ(イグボ)・ユダヤ人──エフライム、マナセ、レビ、ゼブルン、ガドの各支族の子孫と主張  
サマリア人(約600人いる)──エフライムとマナセ支族の正統な子孫と主張

支族を特定せず失われた支族の子孫を主張しているグループ  
 十支族の子孫であると信じていても、どの支族に該当するのか不明なグループ(メモ:これはユダヤ人一般にも共通の難しい問題である)。  

 レンバ族(アフリカ南部出身)──現在のイエメンから逃れ南へ旅した、失われた支族と主張。  ガーナのイスラエルの家──イスラエル十支族の一つであると主張。  パシュトゥン族(アフガニスタンとパキスタン出身)──伝統的にイスラエル十支族の子孫と主張。彼らの大規模なユスフザイ一族は、〝ヨセフの子孫〟を意味する。  
 チャン・ミン族(中国南西部)──アブラハムの子孫と主張。彼らの祖先は十二の子孫を残したという伝統を持っている([訳注]チャン族、羌族ともいう)。  
 開封ユダヤ人(中国)──歴史記録によると、1163年に建てられたシナゴーグとそのユダヤ人共同体が、少なくとも、南宋(1127-1279年)の時代から、19世紀後半まで、開封に存在していた。また都市にある石碑は、開封ユダヤ人が、少なくとも紀元前231年からいたことを示唆している。  
 ブリティッシュ・イスラエリズム(アングロ・イスラエリズムと呼ばれることもある)──アングロサクソン人はイスラエル十支族の子孫であると主張。  

 日本人──日本の「幕屋」(キリストの幕屋)と呼ばれるグループ

([訳注]創始者は手島郁郎)によれば、古代日本文化と、聖書の習慣は類似しており、これは日本の宗教と文化の多くが、イスラエル支族を起源としているからだという。  

 ナスラニス族(インドのマラバル)──イスラエル人の子孫(DNAにより確認済)であるが、彼らの過去についてはあまり知られていない。  右に挙げられたグループのほとんどの主張は、イスラエル十支族のものとして、正当なものだと考える最大限主義者の人々もいます(創世記48:19「(エフライムの)子孫は多くの国民となるであろう」に注目)。 ネイサン・オースベル著の『ユダヤ人の図解歴史』から引用のリスト  1953年の著作『ユダヤ人の図解歴史』の中で、ネイサン・オースベルはこう記しています。  

 現在、失われたイスラエル十支族の子孫で、古代の伝統を遵守している人たちは、かなりの数にのぼります。アフガニスタンの氏族、西アフリカのイスラム化されたベルベル人、ナイジェリアのキリスト教イボ(イグボ)族の600万の人々。疑問の余地なく、彼らはみな特定の古代ヘブライの習慣と宗教を実践しており、そのことは彼らの風変わりに見える主張になんらかの信憑性を加える役目を果たしている。  彼は、なんらかの形でイスラエル十支族と関連あるといわれている人々を、左のようにリストアップしました。 バグダッド イラン クルディスタン イエメン グルジア ボハラ(ブハラ) ハドラマウト 山岳ユダヤ人 アフガニスタン ベネ・イスラエル コーチン・ユダヤ人 中国 エジプト アルジェリア モロッコ リビア チュニジア ジェルバ島 サハラ砂漠  洞窟族(トリポリタニアとチュニジアの南、アトラス山脈)──サハラ砂漠のユダヤ人に深く関連している。彼らは、自分たちの祖先が70年以降、ローマ皇帝ティトゥスによって、ユダヤから捕虜として連行されたと信じている。彼らは小さな紙の舟を切り抜き、それが、近いうちにやって来て、エルサレムへと自分たちを連れていくようにという願いを込めて、それを祈りの場であるシナゴーグに飾り付ける。  
ファラシャ(エチオピアのタナ湖)──古代にシバの女王と共に、ソロモン王を訪ねたと主張。  
サマリア人(ナーブルス〔シケム〕)──エフライム、マナセ、レビ各支族の子孫と主張。エズラの時代に、対抗してゲリジム山に神殿を建立。  
カライ派(ユダヤ教の一派)

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