C. 蔦重が関与した宣長著作(推定を含む)
提供された資料に基づき、蔦重が関与したとされる宣長の著作を整理すると、以下のようになる。
表1:蔦屋重三郎が関与した本居宣長著作
著作名
関与年
蔦重の役割(資料に基づく推定)
典拠資料
備考
『手まくら』
1795年
江戸販売者(江戸売弘)
蔦重の松坂訪問の主目的とされる。
『玉勝間』
1795年
江戸販売者(江戸売弘)
「刊行」との記述もあるが、「江戸売弘」が具体的。内容改変の助言対象。
『出雲国造神寿後釈』
1795年以降
江戸販売者
蔦重訪問後に江戸へ広まったとされる。
『古事記伝』(一部または江戸版)
不明
江戸販売者(可能性)
名古屋の永楽屋が主力版元だが、蔦重も江戸での販売に関与した可能性。
この表は、蔦重と宣長の職業的な関係性を具体的に示すものであり、蔦重が宣長の学問を江戸に紹介する上で果たした役割を明確にする上で価値がある。
蔦屋重三郎と本居宣長の間にはどういう関係があったのか

はじめに
江戸時代後期、18世紀後半の日本は、町人文化が爛熟期を迎える一方で、学問の世界でも新たな潮流が生まれていた。この時代を象徴する二人の人物がいる。一人は、江戸の出版界を席巻し、浮世絵や戯作といった大衆文化の流行を次々と仕掛けた版元、蔦屋重三郎(以下、蔦重)。もう一人は、日本の古典を深く研究し、国学を集大成した大学者、本居宣長(以下、宣長)である。
蔦重は江戸の出版界で「メディア王」と称されるほどの成功を収め、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった才能を発掘・プロデュースし、江戸文化の形成に多大な影響を与えた。一方、宣長は伊勢松坂に居を構えながら、『古事記伝』をはじめとする浩瀚な著作を通じて、日本固有の精神や文化を探求し、その学問は後世に大きな影響を残した。
活動分野も拠点も異なるこの二人が、同時代に生きたことは確かであるが、彼らの間にどのような関係があったのか、あるいはなかったのかは、必ずしも明確ではない。本稿は、提供された資料に基づき、蔦重と宣長の人物像と業績を概観した上で、両者の直接的な接触の記録、出版活動における関与、共通の知人を通じた間接的な繋がりなどを調査し、彼らの間に存在した可能性のある接点の性質とその意義を明らかにすることを目的とする。
I. 蔦屋重三郎:江戸の進取的な版元
A. 経歴と勃興
蔦屋重三郎は、1750年(寛延3年)、江戸の遊郭吉原で生まれたとされる。彼の出版事業は、吉原の引手茶屋の軒先を借りた貸本屋、あるいは吉原大門近くの小さな書店から始まったと考えられている。初期の成功は、吉原の案内書である『吉原細見』の出版によってもたらされた。蔦重は、既存の『吉原細見』と差別化を図るため、遊女屋の配置を見やすく記すなどレイアウトに工夫を凝らし、判型も従来の小型本から中型本へと変更した。利用者の利便性を追求した蔦重版『吉原細見』は大きな評判を呼び、市場を席巻、1783年(天明3年)頃には独占状態となった。
この成功を足掛かりに、蔦重は自身の店「耕書堂」を吉原の大門前に構える。この場所は吉原を訪れる客が必ず通る一等地であり、商売の拠点として申し分のない立地であった。彼はすぐに洒落本や黄表紙といった、当時の江戸で流行していた大衆的な読み物の出版にも乗り出し、江戸出版界の中心人物の一人となっていった。彼の商才は、『一目千本』という画集の出版戦略にも見て取れる。この本は一流の妓楼にのみ置かれ、花魁が馴染み客に贈る限定品とすることで話題を呼び、人々の関心が高まったところで一般向けに販売するという手法をとった。
B. 「江戸のメディア王」:才能の発掘者として
蔦重は、単なる出版者にとどまらず、同時代の才能を見出し、世に送り出す卓越したプロデューサーでもあった。彼が発掘・育成した作家や絵師たちは、天明・寛政期の江戸文化を彩る重要な存在となった。
特に浮世絵の分野では、美人画で一世を風靡した喜多川歌麿、そして僅か10ヶ月ほどの活動期間に強烈な個性を持つ役者絵を残した謎の絵師・東洲斎写楽が挙げられる。写楽の現存する全作品は、蔦重によって版行されたものである。
戯作文学の分野でも、山東京伝、十返舎一九、恋川春町、朋誠堂喜三二、滝沢馬琴といった人気作家たちの作品を次々と出版した。
その他にも、狂歌師・戯作者・学者として活躍した大田南畝、発明家としても知られる平賀源内、狂歌師・国学者の石川雅望、後に風景画で名を馳せる葛飾北斎など、蔦重の周辺には当代一流の文化人が集っていた。これらの才能を発掘し、彼らの活動を支えたことから、蔦重は「江戸のメディア王」と称されるに至ったのである。
C. 寛政の改革と戦略転換
順風満帆に見えた蔦重の事業であったが、松平定信が主導した寛政の改革は大きな転機となった。改革は綱紀粛正を掲げ、風俗を乱すと見なされた出版物に対する統制を強化した。特に、蔦重が得意としていた洒落本などの娯楽性の高いジャンルは、厳しい取締りの対象となった。
蔦重自身も改革の直接的な影響を被る。彼が出版した山東京伝の洒落本(『仕懸文庫』『錦の裏』『娼妓絹籭』)が摘発され、京伝は手鎖50日の刑に処され、版元の蔦重も身代半減(資産の半分を没収)という重い罰金刑を受けた。
この事件は、蔦重の経営に深刻な打撃を与えただけでなく、彼の出版戦略にも大きな変更を迫るものであった。これまで主力としてきた大衆向けの、時には風俗的にきわどい内容を含む出版物は、常に検閲と処罰のリスクを伴うようになった。一方で、寛政の改革は学問を奨励する側面も持っていた。このような状況下で、蔦重は新たな出版の方向性を模索する必要に迫られた。処罰による経済的打撃と出版統制のリスクを背景に、蔦重は学術書という、より「堅い」分野に活路を見出したと考えられる。特に、当時評価が高まっていた宣長の国学は、幕府の意向にも沿いやすく、かつ権威ある分野として、新たな市場となり得ると判断したのだろう。彼の後半生の活動、特に宣長への接触やその著作の扱いは、単なる事業の多角化ではなく、変化した政治・文化状況に対応するための計算された戦略的転換であったと解釈できる。
この戦略転換の一環として、蔦重は「書物問屋仲間」に加入した。書物問屋は、地本問屋が主に江戸の草紙類を扱ったのに対し、歴史書や儒学書、漢籍といった学術書や専門書を取り扱い、上方(関西方面)を含む全国的な流通網を持っていた。書物問屋仲間への加入は、蔦重にとって、学術書出版への本格的な進出と、販路の全国的な拡大を意図したものであった。
II. 本居宣長:国学の泰斗
A. 経歴と学問的成長
本居宣長は、1730年(享保15年)、伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿商・小津家に次男として生まれた。実家は江戸日本橋にも店を構えるほどの商家であったが、宣長自身は商売には向かず、幼い頃から学問を好んだ。
母の勧めで医師を志し、23歳で京都へ遊学。医学を学ぶ傍ら、堀景山に儒学(特に荻生徂徠の学派)を学び、また契沖の著作などを通じて日本の古典研究への関心を深めていった。この京都での経験が、彼の国学者としての方向性を決定づけた。
1757年(宝暦7年)、松坂へ戻り内科・小児科医として開業。医師としての仕事は生涯続け、研究活動を支える経済的基盤となった。宣長は昼間は診療に励み、夜間に古典研究に没頭するという生活を送った。
彼の学問における大きな転機は、1763年(宝暦13年)、江戸の国学者・賀茂真淵との出会いであった。伊勢神宮参拝の帰途に松坂に立ち寄った真淵を訪ね、教えを請うたこの「松坂の一夜」と呼ばれる会見は、宣長に『古事記』研究の重要性を認識させ、真淵の学問を継承する決意を固めさせた。宣長は、荷田春満、賀茂真淵、そして後の平田篤胤とともに「国学の四大人」の一人に数えられる。
宣長は松坂という地方都市に住みながらも、その学問的名声は全国に広まった。松坂が伊勢参りの要衝であったことは、彼の学問活動にとって有利に働いた側面がある。全国各地からの参詣者や旅人を通じて、様々な地域の学者や門人候補と接触する機会が得られた。これにより、自身は生涯を通じて畿内周辺以外への旅はほとんどしなかったにもかかわらず、書簡などを通じて全国的な情報ネットワークを構築し、広範な知識を要する研究(例えば、方言や地名に関するもの)を進めることが可能となった。また、武士の支配が比較的緩やかであった松坂の自由な雰囲気も、幕府の公認学問である朱子学とは異なる独自の思想を展開する上で、好都合であったかもしれない。
B. 国学への主要な貢献
宣長の学問的業績は多岐にわたるが、特に以下の点が重要である。
『古事記伝』:宣長の代表作であり、国学研究の金字塔とされる。35年もの歳月を費やして完成された全44巻に及ぶ『古事記』の詳細な注釈書である。宣長は、それまでの仏教的・儒教的な解釈を排し、文献に即した実証的な方法で『古事記』を読み解き、古代日本の「真心」や「古道」を明らかにしようとした。この業績により、『古事記』は単なる神話集ではなく、日本固有の精神文化を伝える重要な古典としての地位を確立した。
「もののあはれ」論:『源氏物語』の研究を通じて提唱された、日本文学の核心をなす美的・哲学的概念。『紫文要領』や『源氏物語玉の小櫛』といった著作で展開され、儒教的な勧善懲悪や仏教的な因果応報といった外来の道徳規範から離れ、人間の自然な感情の発露や、物事に触れて深く感じるしみじみとした情趣こそが日本文学、ひいては日本固有の精神性の本質であると論じた。
国語学研究:宣長は、日本語の歴史的研究においても画期的な業績を残した。上代特殊仮名遣いの発見、動詞の活用体系の整理(『御国詞活用抄』)、係り結びの法則の解明(『てにをは紐鏡』)、漢字音(呉音・漢音・唐音)の研究(『漢字三音考』)など、その貢献は広範囲に及ぶ。これらの研究は、日本語の構造と歴史を科学的に解明する上で、重要な基礎を築いた。
その他の主要著作:随筆集『玉勝間』、国学入門書『うひ山ぶみ』、神道論・古道論を展開した『直毘霊』、漢意(からごころ)を批判した『馭戒慨言』など、多数の著作がある。
C. 影響と後世
宣長の学問は、生前から高い評価を受け、彼の私塾「鈴屋(すずのや)」には、九州から東北まで、全国各地から入門者が集まった。その数は最終的に500名近くに達したとされる。
彼の学問は、平田篤胤をはじめとする後代の国学者に大きな影響を与え、日本固有の文化や天皇中心の古代社会を理想化する思想は、幕末の尊王攘夷運動や明治維新へと繋がる知的潮流の一翼を担った。また、彼の文学論や言語研究は、近代以降の日本文学研究や国語学の発展に不可欠な基礎を提供した。
III. 交差する視線?:直接的接触と協働
A. 蔦重の松坂訪問(1795年)
蔦重と宣長の直接的な接触を示す最も確実な記録は、寛政7年(1795年)3月25日に、蔦重が江戸から伊勢松坂の宣長宅を訪問した一件である。当時、蔦重は45歳、宣長は65歳であった。
宣長自身がこの訪問を日記『雅事要案』に記録しており、「江戸通油町蔦ヤ重三郎 来ル、右ハ(加藤)千蔭(村田)春海ナドコンイ(懇意)ノ書林也」と記している。これは、蔦重が江戸の書肆(本屋)であり、宣長の知人である江戸の国学者・歌人、加藤千蔭や村田春海とも懇意であることを、宣長が認識していたことを示している。
B. 訪問の目的
この訪問の主目的は、商業的なものであったと考えられる。蔦重は、宣長の著作を江戸で販売するための交渉、あるいは挨拶のために松坂まで赴いた。具体的には、宣長の『源氏物語』の補作である『手まくら』の江戸での販売が目的として挙げられている。
蔦重がわざわざ江戸から松坂まで足を運んだ背景には、単なる儀礼的な挨拶以上の、積極的な事業展開の意図があったと推察される。寛政の改革による出版統制という逆風の中、蔦重は新たな収益源として学術書分野への進出を図っていた。その際、当時すでに国学界の第一人者として全国的な名声を得ていた宣長の著作は、極めて魅力的で、かつ幕府の意向にも沿う「安全な」商品と映ったであろう。また、名古屋の版元・永楽屋東四郎などが宣長本(特に『古事記伝』)の出版で成功を収めていたことも、蔦重の関心を刺激した可能性がある。蔦重にとって、宣長との提携は、自身の出版社の格を高め、学術書市場への参入を確実にするための重要な一手であった。この訪問は、蔦重の鋭い商才と、時代の変化に対応する柔軟性を示すものと言える。
C. 『玉勝間』改稿事件
この訪問に関連して、あるいはその後のやり取りの中で、宣長の随筆集『玉勝間』の内容をめぐる重要な出来事があったことが記録されている。
伝えられるところによれば、蔦重は『玉勝間』の中にあった儒学や儒者を批判する章句について、幕府の咎めを受ける可能性があるとして、「ちと危き事」と宣長に忠告した。宣長は万事に慎重な性格であったとされ、この忠告を受け入れ、該当箇所を削除、あるいは改稿したという。
蔦重がこのような助言を行った背景には、彼自身が寛政2年(1790年)に山東京伝の洒落本出版によって処罰を受けた苦い経験があった。これは単なる憶測に基づく忠告ではなく、具体的な前例を踏まえたリスク管理であった。この一件は、当時の出版事情において、版元が出版物の内容にまで踏み込み、政治的な配慮から著者に修正を求めるという、編集者・ゲートキーパーとしての役割を担っていたことを示している。一方で、宣長ほどの大学者であっても、自作を広く世に問うためには、出版を巡る現実的なリスクを考慮し、版元のアドバイスを受け入れて内容を修正するという判断を下したことを物語っている。これは、寛政の改革が知識人の表現活動に与えた影響の大きさ(いわゆる「萎縮効果」)と、著者の意図と出版の現実との間の複雑な交渉過程を浮き彫りにする事例である。
IV. 松坂から江戸へ:蔦屋重三郎と宣長著作の流通
A. 蔦重の役割:開板者か、江戸販売者か
複数の資料が、蔦重が宣長の著作、特に『手まくら』や『玉勝間』を扱ったことに言及している。『出雲国造神寿後釈』も蔦重を通じて江戸に広まったとされる。
しかし、蔦重の具体的な役割については、注意深い検討が必要である。江戸時代の出版においては、「開板(かいはん)」(新たに版木を彫って出版すること)と、「江戸売弘(えどうりひろめ)」(既に他所で出版されたものを江戸で販売・流通させること)は区別される。
いくつかの資料()は、『玉勝間』が寛政7年(1795年)に蔦重によって「刊行(かんこう)」されたと記している。しかし、他の資料()は、『玉勝間』や『手まくら』に関する蔦重の役割を明確に「江戸売弘」と記述している。また、蔦重の訪問の目的が江戸での販売であったこと、訪問後にこれらの書物が江戸に広まったこと、そして名古屋の永楽屋が宣長本の主力版元であった可能性などを考慮すると、蔦重の役割は主に江戸における販売代理・流通業者であった可能性が高い。すなわち、これらの著作は、おそらく名古屋などで先に開板され、蔦重はその版木を借り受けるか、あるいは完成した本を仕入れて、江戸市場で販売したと考えられる。「刊行」という言葉は、この文脈では「世に出す」「流通させる」といった広い意味で使われている可能性がある。
B. 江戸での流通の意義
たとえ開板者ではなかったとしても、蔦重のような江戸の大手版元が宣長の著作の流通を担ったことの意義は大きい。江戸は当時、日本最大の消費市場であり、文化の中心地でもあった。蔦重の持つ広範な販売網と、吉原や日本橋といった一等地にある店舗は、他の版元にはない強力な販売力を持っていた。
蔦重が流通に関わることで、松坂の碩学による難解とも言える国学の著作が、伊勢や名古屋といった地域的な学者のサークルを超えて、江戸という巨大な市場、ひいては全国の読者層へと届けられる道が開かれた。これは、宣長にとっては自身の学問を広く普及させる機会となり、蔦重にとっては権威ある学術書を扱うことで、版元としての格を高め、寛政の改革後の新たな事業の柱を築くことに繋がった。両者にとって利益のある関係であったと言える。この事実は、江戸時代の日本において、学術的な著作がどのようにして広範な読者に届けられたのか、その流通メカニズムの一端を示すものであり、商業的な出版ネットワークが知的普及に果たした重要な役割を物語っている。
C. 蔦重が関与した宣長著作(推定を含む)
提供された資料に基づき、蔦重が関与したとされる宣長の著作を整理すると、以下のようになる。
表1:蔦屋重三郎が関与した本居宣長著作
著作名
関与年
蔦重の役割(資料に基づく推定)
典拠資料
備考
『手まくら』
1795年
江戸販売者(江戸売弘)
蔦重の松坂訪問の主目的とされる。
『玉勝間』
1795年
江戸販売者(江戸売弘)
「刊行」との記述もあるが、「江戸売弘」が具体的。内容改変の助言対象。
『出雲国造神寿後釈』
1795年以降
江戸販売者
蔦重訪問後に江戸へ広まったとされる。
『古事記伝』(一部または江戸版)
不明
江戸販売者(可能性)
名古屋の永楽屋が主力版元だが、蔦重も江戸での販売に関与した可能性。
この表は、蔦重と宣長の職業的な関係性を具体的に示すものであり、蔦重が宣長の学問を江戸に紹介する上で果たした役割を明確にする上で価値がある。
V. 交差する世界:間接的な接点とネットワーク
A. 共通の知人
蔦重と宣長が直接交流した記録は限られているが、彼らが活動した文化・学術界には、両者と繋がりを持つ人物が複数存在した。これは、彼らが完全に隔絶された世界に生きていたわけではなく、人的なネットワークを通じて間接的に繋がっていた可能性を示唆する。
大田南畝(蜀山人):狂歌・戯作・漢詩など多方面で活躍した江戸文化界の重鎮であり、蔦重とは極めて親しい関係にあった。南畝は、宣長の知人(例えば木村蒹葭堂)とも交流があり、江戸と上方の文化人ネットワークの結節点に位置していた。資料上、南畝と宣長の直接的な深い交流は確認できないが、互いの存在は認識しており、高レベルでの情報の媒介者となった可能性はある。
村田春海と加藤千蔭:二人とも宣長の師である賀茂真淵の門下であり、江戸を代表する国学者・歌人であった。蔦重は彼らと面識があり、宣長も蔦重訪問の記録に彼らの名前を記していることから、蔦重と宣長を結びつける直接的な接点となっていたことがわかる。彼らと宣長の関係は、師の学統を継ぐ者としての敬意と、学説上の相違(特に春海は宣長の古道説や漢学排斥に批判的だった)が混在する複雑なものであった。千蔭は自身の『万葉集略解』執筆にあたり、宣長の協力を得ている。
山東京伝:蔦重が出版した戯作の多くを手掛けた人気作家。宣長との直接的な関係を示す資料はないが、京伝が寛政の改革で処罰された事件は、版元である蔦重に大きな影響を与え、結果的に蔦重が宣長の著作を扱う際の慎重な姿勢(『玉勝間』改稿助言)に繋がったと考えられる。
その他の繋がり:平賀源内、石川雅望、十返舎一九、滝沢馬琴、上田秋成など、蔦重または宣長のどちらかと関係のあった文化人は数多く、当時の文化界がいかに相互に繋がっていたかを示している。宣長の門人ネットワークも全国に広がっていた。
B. 広範な文化的背景
蔦重と宣長は、共に天明・寛政期という、江戸文化が爛熟期を迎える一方で、政治的な引き締め(寛政の改革)が行われた時代に活動した。
蔦重は、浮世絵、戯作、吉原といった江戸の華やかな大衆文化の中心に身を置いていた。一方、宣長は、松坂を拠点としながらも、国学研究の頂点を極め、その学問は全国的な影響力を持っていた。
一見、対照的な世界に属するように見える二人だが、蔦重の宣長訪問と著作販売への関与は、江戸の商業的な大衆出版の世界と、国学というエリート的な学術研究の世界とが、決して完全に分離していたわけではないことを示している。流行を創り出すマーケターとしての蔦重が、宣長の厳密な学問の文化的価値と市場性(特に寛政の改革後の状況下で)を認識し、積極的にアプローチした。この接点は、当時の文化状況において、「大衆」と「エリート」の境界が流動的であり、市場原理と知的動向が合致すれば、商業出版が高度な学術研究の普及にも貢献し得たことを示唆している。これは、蔦重の経営者としての適応能力の高さと、国学が純粋な学術サークルの外にも影響力を広げつつあった時代の反映と言えるだろう。
VI. 結論:蔦屋重三郎と本居宣長の関係性の評価
本稿では、提供された資料に基づき、江戸時代の版元・蔦屋重三郎と国学者・本居宣長の関係性について考察した。以下にその要点をまとめる。
直接的接触:記録されている直接的な接触は、寛政7年(1795年)に蔦重が松坂の宣長を訪問した一度に限られる。
関係性の核:両者の繋がりは、主として職業的・商業的なものであり、蔦重が宣長の著作(『手まくら』『玉勝間』など)を江戸で販売・流通させることを中心としていた。
出版への関与:蔦重は、宣長の著作の内容に関しても、寛政の改革下での検閲リスクを考慮し、儒学批判部分の修正を助言し、宣長はこれを受け入れたとされる。
間接的接点:大田南畝、村田春海、加藤千蔭といった共通の知人を通じて、江戸の文芸界と国学界の間に間接的な繋がりが存在した。
これらの分析から、蔦重と宣長の関係は、個人的な親交や深い知的協働というよりは、蔦重の事業上の必要性と宣長の学問的名声とが結びついた、職業的・商業的な性質のものであったと結論付けられる。この関係は、版元である蔦重が、確立された学者である宣長にアプローチするという非対称的な形で始まった。また、寛政の改革という特定の政治・社会状況下で、蔦重がより安全で権威ある出版物を求め、国学の評価が高まっていたという時代的文脈に依存して生まれたものであった。
しかし、この限定的な関係性も、江戸時代の文化・知的交流を理解する上で重要な示唆を与えてくれる。それは、江戸のダイナミックな大衆出版産業が、当代最高峰の学術研究といかにして交わり得たかを示す事例である。蔦重の活動は、彼が単なる版元ではなく、時代の変化を読み取り、地方の学知を中央の市場へと結びつける文化的な仲介者(ブローカー)としての役割をも果たしていたことを示している。同時に、宣長のような碩学でさえ、自らの学問を広く世に問うためには、流通や検閲といった出版を取り巻く現実的な制約と向き合わなければならなかったことを明らかにしている。
蔦屋重三郎と本居宣長は、親密な協力者ではなかったかもしれないが、彼らの間に記録された職業的な接点は、市場原理、政治状況、そして相互の戦略的利害によって、商業的事業と学術的探求がいかに交差し得たかを示す、江戸時代後期の文化・知性史における貴重な断面図を提供しているのである。
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