2025年5月16日金曜日

イスラエル北部編「ダン遺跡」 | テマサトラベル Staff Blog

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イスラエル北部編「ダン遺跡」

今回はイスラエル最北端、ダンの遺跡のご案内です。

ダンは遺跡そのものも歴史的価値が大きいのですが、遺跡の中にはヨルダン川の水源があり、先日メルマガでご案内したバニアスの遺跡同様、現代イスラエルの重要な水資源の供給地でもあります。

時間の関係で、普通のツアーで訪れることはあまりないですが、それでも時々ここにやってくると、豊富に流れる水、せせらぎの音、豊かな緑、その中を通る遊歩道を歩いていると、本当にホッとする場所で、ここも同じイスラエル?と思ったりするところです。

上の全体図でご覧の通りです。

遺跡内はこんな感じです。

聖書の中には「ダンからベエル・シェバまで」という言葉が数回出てきます(士師記 20:1-7、サムエル記上3:20,同下17:11など)。面白いことに、歴代誌には「ベエル・シェバからダン」と南北が逆になっています(歴代誌上21:2、同下30:5)  

2つの場所は直線で280㎞ほど離れています。表現の違いはあるにせよ、聖書時代のイスラエル領土の実質的な北端と南端を表す表現だったことは、間違いのないところでしょう。

ダンは族長ヤコブの第5子、ラケルの召使いビルハの第1子で生まれたときに、

「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」と言った。そこで、彼女はその子をダンと名付けた。

(創世記30章6節)

というところから、名前がつけられています。

ヤコブの息子たちはエジプトへ下り、やがて出エジプトしカナンに入りますが、当初は現在のテルアビブ付近、海岸地方の豊かな場所を与えられました。ところが他民族の勢力が強かったため北へ移動。もともとはレシェムと呼ばれていた現在の北端の地域に移住し、場所の名前を変えてダンとしました(ヨシ19章47)。それにしても、何もこんなに遠くまでと思いますが、他に居場所がなかったのでしょうかね。

それでは遺跡の中に入って見ましょう。

祭壇跡

入り口から最も奥まったところにある、イスラエルの北王国時代に建てられた立派な祭壇跡です。ダビデによって築かれたイスラエルの統一王朝はソロモンに引き継がれますが、彼の死後北と南に分裂。北王国はソロモン王の家来だったヤラベアムに引き継がれ、南王国はソロモンの息子レハベアムに引き継がれました。

彼(ヤラベアム)はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り、人々に言った。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」 彼は一体をベテルに、もう一体をダンに置いた。 この事は罪の源となった。民はその一体の子牛を礼拝するためダンまで行った。 (列王記上12章28-30)

宗教上もダビデ・ソロモン王の影響から離れようとして、北王国の北端・ダンと南端の重要な町ベテルに祭壇を築いて、金の子牛を祭ったというのです。1箇所しかないエルサレムに対抗して、北王国全体に及ぶ独自の祭儀を築こうとした、並々ならぬ意欲が感じられます。この行為は、のちのち「ヤラベアムの罪」として断罪されるようになります。

ちょっと見にくいですが、真ん中の金属のフレームの部分に、石でできた祭壇が置かれていました。

ベテルは中心地に近いので良いとしても、ここダンまで来るのは、当時としては大変な距離だったと思います。

城門

紀元前9世紀ころ建てられた城壁と城門跡です。

城門を入ってすぐの場所は広場になっていて、聖書の時代には話し合いや裁判が行われていました。ダンの城門広場には、下のような四角い石でできた場所が備えられていましたが、学者たちはその手前にある飾り付きの穴のあいた丸石に注目しました。おそらく、これは天蓋を支える柱を立てるもので、この場所に王や町の長老が座ったのではないか、と考えられています。

そうやってこれを眺めていると、威厳をもってここに座っていた支配者の様子、となりに立つ使いの者、周りを囲む民衆の様子などが、リアルに思い浮かんでくるような感じがします。

テル・ダン石碑

上の石碑は、さきほどの広場から少し入ったところで発見されたもので、同じく紀元前9世紀のものとされています。「ダビデの家」(上の写真の真ん中右側にある少し白くなった文字)と刻まれた唯一の聖書外の考古学的文献として注目されています。

この石碑は1993年に発見され、言語的にヘブライ語に近いアラム語で、「ある人物がアハブの息子でダビデ家の王であったイスラエルのエホラムを殺した」と記されています。

列王記下6章に、ヨラム(エホラム?)は、イスラエル王アハブとフェニキア人の妻イゼベルとの間に生まれた息子である、と記されるという聖書の記述の裏付けになるものです。

アブラハムの門

テル・ダンに北端には、青銅器時代のものとされる門が発掘され、紀元前1750年頃に建てられたとされています。大きな玄武岩の上に日干し泥レンガで作られていて、3つのアーチ状の入り口を持ち、高さ7メートルまで修復されています。

 

創世記の中で、アブラハムが甥のロトを救出するためにダンへ向かったという物語が記されていますが、時代的にも近いところから「アブラハムの門」と呼ばれます。

 

アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。 夜、彼と僕たちは分かれて敵を襲い、ダマスコの北のホバまで追跡した。 アブラムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻した。(創世記14章14-16)

 

泥レンガは、建てられてから四半世紀も経たないうちに崩壊し始めたようで、門全体の崩壊を防ぐため泥で門を塞いでしまったようです。

アブラハムがいつの時代に生きたのか、いまだ議論が絶えない部分もありますが、その可能性を考えただけでも、歴史のロマンを感じるのは私だけではないと思います。

ぜひ一度、皆さんもダンを訪ねてみてください。

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