2025年5月2日金曜日

#18 阿波国、徳島藩と蜂須賀家|kanakana@とくしま御朱印なび

#18 阿波国、徳島藩と蜂須賀家|kanakana@とくしま御朱印なび

#18 阿波国、徳島藩と蜂須賀家

見出し画像
ブログを始めたときから気になっていたことが新聞記事にあったので、ものすごく久しぶりに長文で更新。

先日、徳島新聞電子版でたまたま見たこの記事なんですが。

⇩⇩⇩

【阿波藩はなかった?】「徳島藩」が呼称としては適切

時代劇とか、歴史的な話でよく見る「○○藩」という呼称。徳島の場合はなぜか「徳島藩」と「阿波藩」と2種類の呼称があるんですよね。

でも、正式名称はひとつしかないはずなので、どちらかが間違いなわけです🤔

神社仏閣のご由緒だったり歴史的な話をいろいろ調べていると、紙媒体・インターネット問わず、びっくりするほどここの表記がバラバラでした。

歴史は好きな方ですがめちゃめちゃ詳しい!というほどではないので、ブログを始める頃に悩んだ記憶があります。

この

「阿波藩」
「徳島藩」

ど っ ち や ね ん 問 題。

▼▼▼▼▼

実は、幕藩体制まっただ中の江戸時代には「藩」という表現はほとんど使われていなかったそうです(「幕藩体制」という言葉も後からできたもの)。

意外ですね!

明治時代になってから【藩主の居所の地名】+【藩】という呼称が行政区分として正式に定義されたとか。

とすると、徳島の場合は蜂須賀の殿様は徳島城表御殿に住んでたので、【徳島藩】が正解のはず…。

そもそも「藩」と「国」は別のもので、

藩=大名の領地のこと、幕末にはおよそ300の藩があった
国=令制国(りょうせいこく)、現在の都道府県的な行政区分で68か国があった

こういう違いがあります。

300と68。

数がぜんぜん違うのでひとつの国に複数の藩があることがほとんどですが、複数の国がひとつの藩になっているパターンもありました。

徳島藩は後者で、阿波国と淡路国(淡路島)の2つの国で構成されています。

じゃあ、「阿波藩」ってやっぱりしっくりこないよね…淡路はどこ行った。

"当時はなかった呼称だからどっちでもええわ"という意見もあると思いますが、せっかく定義づけされてるなら正しい呼称を使いたいですよね🤔

ブログやインスタグラムで徳島の御朱印情報や神社仏閣のこと、歴史、うんちくなどをかれこれ2年ほど書き散らかしてますが、一番気をつけているのが情報の正確性です。

とか言いながら、最近もインスタで「四国霊場に臨済宗妙心寺派のお寺はひとつしかない(ドヤァ)」って書いて、フォロワーさんにこっそり教えてもらいました。ひとつしかないのは曹洞宗のお寺でした(テヘペロ☆)。

どんなにご大層なことを言ってても、誤字脱字とかあると一気に信憑性がなくなるというか。

簡単な誤字脱字に気づかないということは、おそらく自分で書いた文章を読み返しもしないうっかり屋さんでしょう。

あんまり信用できなくないですか😂

それはさておき、自分で情報発信するうえでは「徳島藩」が正しいものとして統一してたんですが、本当にこれで合ってるのか実はずっと不安でした。

冷静に考えれば新聞記事内にもあるとおり、

"阿波"とは国の名前であり、藩としては阿波と淡路(淡路島)両国で徳島藩である

これがジャスティス。

そう解釈しているんですが、なぜか文献などでは正しいはずの「徳島藩」表記のほうが劣勢なんですよね。。。

でも、これでようやく自信を持って「徳島藩」って言えるYO!

ただし、藩主のことを指す場合は「阿波(の国の)藩主」的な解釈もできるので、文脈次第な気もしますが。

ニホンゴ ムズカシイデスネー🤷

「家祖」と「藩祖」と「初代藩主」

画像1

画像は史料館の映像資料からですが、これも「阿波藩主」表記なんですわ。

阿波藩・徳島藩問題に続き、藩主のカウントもルールがあります。

領地替えなんかで藩主が途中で変わっている国も多いですが、阿波国は江戸から明治まで一貫して蜂須賀家が藩主でした。

蜂須賀家はもともと尾張国(愛知県)出身の一族。

豊臣秀吉に仕えていた蜂須賀正勝が阿波国を与えられましたが、高齢を理由に嫡男の家政が代わりに阿波へ入国。

最初は現在の徳島城がある場所から10km ほど内陸にある一宮(いちのみや)城を居城としていました。

画像2

一宮城天守跡より眉山を臨む。眉山ふもとのあたりが現在の徳島市中心部で徳島城はJR徳島駅のすぐ北側です。

その頃の徳島城周辺は今とは違って海で、小さな島がたくさん浮かんでいるような状態だったとか。

今でも市内中心部は川が多く、当時の名残があります。

蜂須賀家政の阿波入国は天正14年(1586年)のことです。

そう、これは天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い(1600年)」前の話。

父の代から豊臣の忠臣である家政は関ヶ原には出陣せず、息子の至鎮(よししげ)が徳川方として戦い、武功を上げました。

これにより阿波国18万石は蜂須賀家に所領安堵され、家政は出家して至鎮に家督を譲ります。

\関ヶ原後の所領安堵/

これを徳島藩主蜂須賀家の始まりとするのが正確なんだって。

へぇー😗

なので、

蜂須賀家を大名家として大きくした正勝が「家祖」
蜂須賀家として最初に阿波に入国した家政が「藩祖」
徳川の世になり正式に徳島藩主となった至鎮が「初代藩主」

とするのが正式。

画像4

徳島城公園にある家政の銅像は「藩祖」表記ですが、やっぱり「"阿波藩"祖 」。

たまに家政から「初代藩主」としてカウントしているものもあり、私も最初このへんがあいまいだったのでブログの初期では間違ってたりします💦

今でも全部は直しきれてないので、もし間違ってたら脳内補完してください。

ここは読者の皆さまに丸投げしますので、よろしくお願い申し上げます🙇‍♀️

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