<城、その「美しさ」の背景>第59回 徳島城 青く輝く石垣に独特の味わい 蜂須賀氏とともに豊かな歴史刻む

蜂須賀氏が築き守り抜いた城
羽柴秀吉の股肱の家臣だった蜂須賀小六こと正勝。徳島城を築いたのは、その嫡男の家政だった。天正13年(1585)の四国攻めの戦功を評価して、秀吉は阿波(徳島県)一国を正勝にあたえようとしたが、還暦に届こうとしていた正勝は辞退し、家政にあたえてほしいと希望したと伝わる。
こうして阿波18万6000石の領主になった家政が築いたのが徳島城だった。城地は吉野川河口にデルタ地帯を形成する寺島川と助任川にはさまれた標高61メートルの渭山(城山)と、その周囲。とりわけ軟弱地盤の平地は難工事だったが、主要部は600余日で完成したという。敵が攻めにくい要害であるとともに、紀伊水道を臨む海上交通の要衝だった。
家政は朝鮮出兵した際、戦線縮小案を上申して秀吉の逆鱗に触れ、蔵入地(家臣にあたえる知行地に対する直轄地)を没収のうえ蟄居を命じられもした。しかし、秀吉の死後は徳川家康に近づき、息子の至鎮は大坂冬の陣および夏の陣の戦功を評価されて、淡路7万1000石が加増。石高は25万7000石になった。
以来、徳島城は明治維新を迎えるまで、蜂須賀家の居城であり続けた。秀吉の手で大名に取り立てられ、関ヶ原合戦後も同じ領土が維持され、明治まで転封されることもなかった。すなわち、城主は最初から最後まで蜂須賀氏だった。これはきわめて珍しい例である。

城山山頂部は本丸、東二の丸、西二の丸、西三の丸が階段状に下がって並び、山麓の平野部に居館が築かれた二元的な構造で、とくに山城部分は中世山城によくある縄張りだ。しかし、築かれた当初は先進的な城だった。秀吉の命で建てられた多くの城と同様、総石垣で天守も建てられたのだ。
そして、同じ総石垣の城でも徳島城が特徴的なのは、五輪塔などを転用した一部の石を除き、石垣にはすべて、地元で産出する結晶片岩と呼ばれる青い石が用いられていることである。

青く美しい結晶片岩の石垣
家政の時代に構築された山城部分も総石垣づくりで、とくに本丸東端には、天正時代に築かれた当初の、自然石を積んだ野面積みの石垣が残る。本丸を囲む石垣でも北側は、文禄から慶長年間(1592~1615)のもので、粗く加工した割石が力強く積まれ、隅角部は石材の長辺と短辺を交互に組み合わせて強度を増した算木積みが完成されつつある。

山上の虎口がすべて枡形を構成しているのも特筆される。大手筋から本丸に向かう最初の虎口である西三の丸門など、文禄から慶長年間の石垣で構成され、小規模ながら迫力がある。
また、築城当初は本丸に天守が築かれたようだが、元和年間(1615~24)に解体され、一段低い標高約40メートルの東二の丸にあたらしく三重三階の天守が、天守台は築かず東三の丸の平面に直接建てられた(呼び名は御三階櫓だった)。ここ東二の丸にも文禄から慶長年間の石垣がよく残っている。

平野部の石垣は文禄から慶長年間以降に築かれ、寛永年間(1624~45)から幕末までに改修された部分もふくめ、さまざまな時期に積まれた石垣が残る。それらもみな結晶片岩が積まれている。
結晶片岩には「片理」という縞模様が見られ、とくに雨に濡れると青色が際立ち、その色が縞模様と相まってとりわけ美しい。このため、昔から庭石として重用されているが、徳島城の石垣はすべて、そんな特別な石で構成されているから、見れば見るほど独特の味わいが感じられる。

たとえば、黒門(大手門)の枡形の石垣は結晶片岩の切り石がすき間なく積まれ、隅角部は算木積みになっている。ちなみに、この門の西側にあった太鼓櫓は、最上階に廻縁のついた望楼型の、天守相当というべき三重四階の櫓で、徳島城には事実上、ふたつの天守があったともいえる。

クロダイが泳ぐ堀と青い石垣のコンビネーション
明治6年(1873)の廃城令で廃城処分となると、残念ながら明治8年(1875)に、大手門のさらに外にあった表門の鷲之門を除き、すべての建造物が撤去された。鷲之門だけは昭和20年(1945)まで現存していたが、その年の7月4日に徳島市を襲った大空襲で焼失してしまった。
鷲之門は両側に番所を従えた脇戸つきの薬医門(2本の本柱の背後に2本の控柱を立て強度を増した門)で、文禄から慶長年間に建てられたと考えられている。平成元年(1989)、徳島市市制100年を記念して木造で復元された。

戦前から国の名勝に指定されている表御殿庭園も見応えがある。南側は大きな石を大胆に使用した枯山水、北側は築山泉水庭で、いずれにも結晶片岩が大胆に配置され、石垣に積まれた石が庭石としていかに映えるかを確認できる。表御殿跡には市立徳島城博物館が建つが、外観は御殿を模しているので、庭園の景観はたもたれている。

大手門から御殿を囲むように設けられた内堀は、いまも助任川の汽水域から導水されており、クロダイやボラが泳ぐ。そんな堀から立ち上がる結晶片岩の石垣は、何度見ても美しい。

明治初期に撮られた古写真には鷲之門の北側に、大手門の東に建っていた二重三階で廻縁がつく月見櫓と、それに連なる多門櫓が写っている。月見櫓は一重目の屋根を飾る千鳥破風と唐破風も印象的で、さらに多門櫓ともども古風に下見板が張られ、秀吉時代の城郭の雰囲気が濃厚である。青い石垣のうえにこれらの建造物が存在していたら、どれほど美しかったことだろうか。
そんな姿を想像しつつ、それを同じ蜂須賀家が築き、維持してきたことを考えると、徳島城が特別の城に思えてくる。

香原斗志(かはら・とし):歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『教養としての日本の城』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等、近著に『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(同)がある。
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