2025年3月8日土曜日

和多都美神社は大和国の玄関 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

和多都美神社は大和国の玄関 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

「ワタツミ」をヘブライ語の文字で並べると、右から左にבוטאצמה (vatatsumi、ヴァタツミ)と書くことができます。בの文字は英語のアルファベットではBとなりますが、実際の発音はVに近く、「ブ」「ヴァ」と聞こえます。ヘブライ語は右から読みますが、日本語と同様に左から右に逆読みすることもできます。すると一見意味がないように見えた言葉も逆読みすることにより、文字に秘められた意味を理解できることがあります。

そこで「ワタヅミ」「ヴァタツミ」の文字列を逆さにして並べ変えて、ヘブライ語で表記するとהמצא טובとなります。その文字列の中間に「神」の頭文字であるי(y)の子音を付加するだけで、המציא טוב左から読むと「ヴァタイズミ」となり、右から読むとהמציא טוב(himtsi tuv、ヒムチトゥヴ)となります。「トゥヴ」というヘブライ語は「良いこと」、「ヒムチ」は「運ぶ」「発明する」「与える」を意味します。これら2つの言葉を合わせた「ヒムチトゥヴ」とは直訳すれば、「良いことがおきる」「良き知らせが与えられる」となります。つまり、人々を幸せにする「福音」のような意味を持つ言葉として解釈できるのです。

https://www.historyjp.com/article/225/

和多都美神社は大和国の玄関

古代海路の指標となる「5連の鳥居」の意味

和多津美神社

重要な位置を占めていた対馬の式内社

10世紀初頭、式内社延喜式神名帳と呼ばれる国内の神社一覧が編纂され、格が高く由緒ある2861社と神々3132座が式内社として朝廷から認知されました。その結果、西海道の式内社107座の内、九州では最大数となる29座が対馬から選別されたのです。これは大宰府管内9国2島の中で最も多く、重要な祭祀が多く存在する拠点として、対馬が早くから認知されていたことを意味します。島内に同名の神社が多数存在することにも注目です。また、対馬に数多く存在する古墳には、その村落周辺に式内社または論社が存在することからしても、式内社は対馬の古代史において重要な位置を占めていたと言えます。

その延喜式によると、卜部(うらべ)と呼ばれ、主に亀卜(亀甲を用いて吉凶を占う法)による国占いをする職務については、対馬から10名、壱岐および伊豆から5名ずつ、都合20名が任命されることが定められていました。古代から日本の祀りごとに対馬が深く関わり、卜部の半数が対馬の出であることが決められていたのです。

国を占う祭司が、大陸からの文化の入口である対馬、壱岐だけでなく、日本列島の太平洋側にあたる伊豆諸島からも招集されていたことは驚異に値します。これは古代の日本社会における宗教文化が、まず日本列島周辺の島々から土着化したことを示唆しているようです。対馬、壱岐、伊豆諸島だけでなく、淡路島や沖縄などの多くの島々が、アジア大陸からの移民の拠点として古代史に布石を残しています。

渡来者の指標となる和多都美神社

対馬に存在する数多くの式内社の中でも、圧倒的な存在感を誇るのが、仁位の和多津美神社木坂の海神神社です。その風格と歴史の重み、美しい境内のレイアウトは、訪れる人を魅了します。

和多津美神社は「ワタツミノ」と呼ばれ、837年に授位されて以来、国史にはすべて「和多津美神」と記載されているとおりです。また、対州神社誌(1685年)には、和多津美神社は「渡海宮」と記されており、中世からは頻繁に「渡海」と記載されていることから、「ワタツミ」とも呼ばれていたことがわかります。現在では、土地の人たちから「ワタヅミ」の発音で、呼称されています。

木坂の海神神社の「海神」も元来、「ワタツミ」と読まれることに注目です。今日では「カイジン」と読まれることが多くなりましたが、本来は、和多津見と同様の読みです。古語では「ワタ」は「海」、「ツ」は「の」、「ミ」は「神」を意味すると考えられ、「ワタツミ」は「海の神」、「海神」となります。また、海神神社は対馬国一宮として由緒ある栄光の歴史を誇り、対馬の神社の中でも最高位に位置付けられ、海神伝説と八幡伝説の宝庫として八幡宮、八幡宮本宮とも呼ばれています。「和多津美」と「海神」、いずれの「ワタツミ」も、その言葉の背景には海を旅する民に関する思いが込められているようです。

記紀に綴られている海幸山幸伝説

和多津美神社の御祭神は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、ホオリ)別名、山幸彦と、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)です。山幸彦は神武天皇の祖父にあたります。そして海幸彦と山幸彦の神話の中に、海神と山幸彦との関係を垣間見ることができます。

兄の釣針をなくしてしまい、途方に暮れていた山幸彦が、ある日、塩椎神(しおつちのかみ)の導きにより船に乗って辿り着いたのが、綿津見神(海神)の宮です。日本書紀には綿津見神が海神豊玉彦と記載されていることから、この宮の建立は豊玉彦によるものと考えられます。そこで山幸彦は豊玉彦命の二女である豊玉姫命をめとった後、その海宮に3年も滞在します。その後、赤鯛の喉に釣針が見つかり、兄の海幸彦に返却することとなり、それに纏わる主権争いの詳細が古事記、日本書紀に記されています。そこには山幸彦と海神との関わりが明記され、和多津見神社の御社殿裏には磐座だけでなく、豊玉姫命の墳墓もあります。日本神話の海幸山幸伝説は、和多津美神社が発祥ではないかと言われる所以がここにあります。

和多津美神社の境内周辺にある旧跡

海幸山幸の伝説のみならず、和多津美神社境内周辺には多くの旧跡が存在します。5基の鳥居と磯良恵比須の磐座をはじめとし、御社殿後方にある2つの岩からなる夫婦岩,豊玉姫命の墳墓(御陵)、山幸彦と豊玉姫命の出会いに纏わる玉の井の遺跡、そして満珠瀬(みつたませ)、干珠瀬(ひるたませ)の岩礁が、実に美しく自然の環境と調和しています。

満潮時に社殿近くまで満ちる海水を眺めながら、龍宮城を連想する人も少なくないはずです。この和多津美神社こそ、朝鮮半島から渡来する民が目指す最初の指標となるランドマークであり、しかも、邪馬台国へ旅立つ起点となる狗邪韓国の港が巨済島に存在することを証していたのです。

5連の鳥居が意味すること

浅茅湾の入江奥に佇む和多津美神社には、御社殿前から海に向かって一直線に5基の鳥居が並んでいます。その内、海側から数えて一ノ鳥居と二ノ鳥居は浅瀬の海中に造られていますが、潮が引くたびに浜が浮かび上がり、二ノ鳥居までは歩いていくことができます。そして潮が満ちると、今度は海水が参道沿いに御社殿の両側まで満ち、周囲一帯が海で囲まれます。海の中に建てられた鳥居が浮き沈みし、周囲の自然と調和するその幻想的な光景は、訪れる人々を魅了してきたに違いありません。何故、このような海中の鳥居が造られ、潮の満ち引きを目の当たりにする場所に、御社殿が造営されたのでしょうか。しかも鳥居は一直線に北西、310度を向いているのです。

鳥居の起源については諸説がありますが、そのルーツをイスラエル、ユダヤ教の「過越」として、「贖いと救いの象徴」に捉えることが有力視されています。旧約聖書によれば、出エジプトの時代、エジプトのすべての初子を撃つという神の怒りから逃れるために、古代イスラエルの民は、神の命令に従って其々の家の戸口を、ほふられた動物の血で赤く塗りました。その印をもって神の災いから逃れたのです。その後、イスラエルでは神の災いが通り過ぎていくことを祝し、「過越の祭り」が始まりました。そして血で染められた赤い戸口は、いつしか救いの象徴となり、それが赤い門、鳥居のルーツとなり、後世においては石造の鳥居も造られるようになったと考えられます。

また、イスラエルの民がエジプトを脱出する際のクライマックスでは、モーセが手をかざすことによって海が分かれて地が乾き、その海底をイスラエルの民が渡り、後を追って来るエジプトの軍団から逃れたことが記載されています。イスラエルの救いに関するテーマには、贖いの血で染められた戸口や、地表に露出する海底が含まれているのです。

船旅の指標となる和多津美神社の鳥居

和多津美神社が造営されたそのデザインの背景には、「神の救い」というモチーフが潜んでいるのではないでしょうか。まず、5基の鳥居は御社殿を参拝し、神の恩寵を受けるための戸口となりますが、その鳥居の一部が海の中に存在するということは、和多津美神社の御神殿に集う民が海から訪れることを意味すると考えられます。実際、対馬に存在する他の神社でも、海に向けて海岸沿いの浜辺に建てられている鳥居が少なくありません。また、鳥居の足がときには海の下に沈み、ときには地表に姿を表し、しかも人がそこを歩くことができること自体、出エジプト記においてイスラエルの民が海底を歩いて渡り、約束の地へと向かったことを連想せずにはいられません。

また、鳥居の向きや位置も無作為に作られたのではなく、すべてが計算ずくめで設計されたと考えられます。つまるところ、鳥居の向きは、その方角から参拝者が訪れることが想定される大変重要な指標です。和多津見神社の5基の鳥居は北西方向310度を指し、その角度に重大な意味が秘められています。

地図上にこれら5基の鳥居をプロットし、その方向に合わせて線引きをしてみました。すると、310度の線は対馬海峡を越えたその向こう側の巨済島、南東にある岬の頂点にあたり、その岬の北側には、港に適した入江が存在します。その場所は東アジア、中国側から釜山に向かう海路の途中に在り、双方向からのアクセスに優れているだけでなく、対馬にも近いという絶好のロケーションです。その港から岬を経由し、対馬の中心、浅茅湾入江奥の和多津美神社を目指して大勢の民が、海を旅したのではないでしょうか。和多津美神社の鳥居は、狗邪韓国から民が対馬に向けて船で海峡を渡ってくる方向を、ピンポイントで示していたと考えられます。

浅茅湾の奥に佇む和多津美神社の鳥居は、実は、巨済島の岬から大和の国の玄関となる最初の離島、対馬に向けて海を渡ってくる旅人の指標として、海上航海の安全を願うべく建立されたと推測されます。アジア大陸を渡り歩き、ときには船に乗り、最終的に朝鮮半島の最南端に位置する狗邪韓国に辿り着いた大勢の人々にとって、そこから未知の海原を渡り、対馬へと旅立つには、神の守護と勇気が必要であったに違いありません。救いの象徴である5重の鳥居を誇示する対馬の和多津美神社は、邪馬台国へ向けて更なる旅を続ける大勢の渡来者に、きっと力と勇気、信仰を与えたことでしょう。和多津美神社の優雅な鳥居の姿は、今日もその歴史の面影を対馬に残しています。

和多津美の意味は「良き知らせ」

和多津美神社と東アジアからの渡来人との関わりを証するのは、5連の鳥居の存在だけではありません。実は「ワタツミ」という言葉にも外来語の意味が込められていたのです。「ワタツミ」には「和多津美」という漢字があてられていますが、そのままでは日本語での意味が不透明です。「渡海」とあてることにより、海を渡る旅路に関連させるか、「海神」として「海の神」と解釈することはできますが、「和多津美」自体は考慮のしようがありません。

「ワタツミ」をヘブライ語の文字で並べると、右から左にבוטאצמה (vatatsumi、ヴァタツミ)と書くことができます。בの文字は英語のアルファベットではBとなりますが、実際の発音はVに近く、「ブ」「ヴァ」と聞こえます。ヘブライ語は右から読みますが、日本語と同様に左から右に逆読みすることもできます。すると一見意味がないように見えた言葉も逆読みすることにより、文字に秘められた意味を理解できることがあります。

そこで「ワタヅミ」「ヴァタツミ」の文字列を逆さにして並べ変えて、ヘブライ語で表記するとהמצא טובとなります。その文字列の中間に「神」の頭文字である י(y)の子音を付加するだけで、המציא טוב左から読むと「ヴァタイズミ」となり、右から読むとהמציא טוב(himtsi tuv、ヒムチトゥヴ)となります。「トゥヴ」というヘブライ語は「良いこと」、「ヒムチ」は「運ぶ」「発明する」「与える」を意味します。これら2つの言葉を合わせた「ヒムチトゥヴ」とは直訳すれば、「良いことがおきる」「良き知らせが与えられる」となります。つまり、人々を幸せにする「福音」のような意味を持つ言葉として解釈できるのです。

日本人にはあまり馴染みのない「福音」という言葉ですが、新約聖書では「エウアンゲリオン」というギリシャ語の言葉が何度も用いられ、古代ギリシャでは紀元前から詩人らによっても使われていました。この言葉には、国家が戦争に勝利し、その勝鬨の知らせを待ちわびている群衆に、自国の軍隊が勝利したことを伝えて皆が喜ぶ、という歴史的背景があります。すなわち、「エウアンゲリオン」とは「戦勝の良き知らせ」を宣言する言葉としてギリシャ・ローマ時代を通じて使われ、それがいつしか、「良い知らせ」「良き訪れ」、そして日本語では宗教的概念を含む「福音」という言葉で表現されるようになったのです。「和多津美」と言う言葉は、まさに「エウアンゲリオン」と同等の「福音」を意味するヘブライ語の言葉だったのです。

狗邪韓国から海を渡り、大和の国へ向けて航海してくる民は、まず、最初の拠点となる和多津美神社に佇む5連の鳥居を救いの指標として目指したことでしょう。対馬の「ワタツミ」は「福音」、「良き知らせ」の象徴として、旅立つ者に勇気と力を与えたに違いありません。大和の国に約束された神の救いこそが「和多津美」による「福音」の意味であり、その「良き知らせ」を信じた大勢の群衆が、命をかけて海を渡り、日本列島へ渡来してきたのです。

崩落した「石垣の名城」、顔認証システム応用で精巧に復元へ : 読売新聞

崩落した「石垣の名城」、顔認証システム応用で精巧に復元へ : 読売新聞

崩落した「石垣の名城」、顔認証システム応用で精巧に復元へ

 地震や豪雨による崩落被害に備え、城の石垣を画像データとして保存する動きが広がっている。従来の修復工事は熟練石工の経験が頼りだったが、データと最新技術を活用することで、精巧な復元が可能になったという。2018年の西日本豪雨などで石垣が崩落した丸亀城(香川県丸亀市)では、「顔認証システム」を使って1万個超の石を積み直す難工事が進められている。(浦西啓介)

 丸亀城は、1660年に完成した天守(重要文化財)が、江戸時代の姿をとどめ、全国で12ある「現存天守」の一つ。4層の石垣を合わせた高さ約60メートルは日本一で、その曲線の美しさから「石垣の名城」と称されている。

 しかし、2018年7月の西日本豪雨で、南西側の「 帯曲輪おびぐるわ 石垣」が幅約30メートルにわたって崩落。同年10月には、台風による大雨で「三の丸 坤櫓ひつじさるやぐら 跡石垣」も崩れ、回収した石は計1万1746個に上った。

 城を管理する市は復旧方法を検討。崩落前の16年にドローンで撮影した石垣の写真が残されており、その画像データと回収した石を照らし合わせることにした。

 応用したのが、スマホなどで使われる「顔認証システム」だ。画像に映った石垣の凹凸が生み出す影などを基に、回収した石1個につき、一致する可能性の高い石垣の場所の候補を10か所選ぶ。上位2か所を石工が見比べて判断し、19年から2年をかけて画像が残る約4000個をほぼ特定した。

 残る約7000個は照合する写真がないなどの理由で、崩落時の散らばり方や石の形などから石工が推定した。昨年8月から積み直す工事を開始。わずかな狂いが、積み上げていくと大きな誤差になるため、石工が数ミリ単位で石の位置を調整している。

 28年3月の完成を目指しており、山梨県から参加した石工(62)は「30メートルを超える城の石垣を積み直す作業は過去に例がない。コンピューターと私たちの経験の融合で成功させたい」と意気込む。

  千田嘉博・名古屋市立大教授(城郭考古学)の話 「石垣の修復で高精細画像はデータとして有効だ。デジタル技術を応用することで、効率的に修復が行えるだけでなく、石材の形状を正確につかむことで今後の城郭研究を飛躍させる可能性もある。全国の城跡の石垣修復に広がることを期待したい」

熊本城は独自システム活用、名古屋城はドローン撮影

 16年の熊本地震で被災し、今も復旧作業が続く熊本城(熊本市)でも、鍵を握ったのが画像データだった。

 熊本大などの研究グループが独自の画像照合システムを開発し、残されていた画像データを基に、南側の飯田丸五階櫓石垣370個のうち91%にあたる337個の位置を特定した。

 一方、照合に使える高精細画像が残っていたのは一部だった。熊本城で積み直しが必要な石垣は最大約10万個に上るとされ、熊本城調査研究センターの担当者は「16年から石垣の写真撮影を計画していたが、地震が起きてしまった」と話す。

 金沢城(金沢市)では、約20年前から石垣の画像データを蓄積。昨年1月の能登半島地震では、崩落が約1000個と多くはなかったため、顔認証システムなどを使わずに位置の特定作業を進めた。石川県教委金沢城調査研究所は「被害規模が大きければ、システムを活用しただろう」とする。

 名古屋城(名古屋市)も17年度から、ドローンなどを使って石垣の写真を撮影している。熊本地震で熊本城が被災したことを受けたもので、26年度には、そのデータを整理した「石垣カルテ」を完成させる予定だ。

「9日間の女王」、悲運の少女ジェーン・グレイの生前唯一の肖像画か 英(CNN.co.jp) - Yahoo!ニュース

「9日間の女王」、悲運の少女ジェーン・グレイの生前唯一の肖像画か 英(CNN.co.jp) - Yahoo!ニュース

「9日間の女王」、悲運の少女ジェーン・グレイの生前唯一の肖像画か 英

(CNN) 10代の若さで英チューダー王朝の権力闘争に翻弄され、イングランドをわずか9日間統治したのち、大逆罪で処刑されたジェーン・グレイ。研究者はいま、そんな「9日間の女王」の生前に描かれた唯一の肖像画を突き止めた可能性があると見ている。 【画像】スキャンで浮かび上がった当初の肖像 イングランドでは1553年のエドワード6世死去後、良心に欠ける政治家たちが熱心なプロテスタントだった若いジェーンを王位に就けた。カトリック教徒のメアリー・テューダーが女王に就任するのを阻むためだった。 この謎めいた肖像画は、個人コレクションから英文化財保護機関「イングリッシュ・ヘリテージ」に貸し出されたもので、白い帽子とショールをまとった控えめな装いの若い女性が描かれている。 イングリッシュ・ヘリテージによると、絵は1701年、第11代ケント伯爵だったアンソニー・グレイがジェーン・グレイの肖像として入手した。以来、イングランド史上最も短命な君主の「決定的肖像」として扱われてきたが、21世紀になって美術史家がその来歴に疑問を呈し、ジェーン本人説を否定していた。 この疑問を解決するため、イングリッシュ・ヘリテージはロンドンのコートールド美術研究所や年輪年代学の専門家と協力し、技術的な分析を試みた。イングリッシュ・ヘリテージでコレクションの保存を担当するレイチェル・ターンブル氏が、7日発表の声明で明らかにした。 声明によると、絵が描かれた板を年輪年代法で調べた結果、おそらく1539年~71年前後の時期に制作に用いられたとみられる。 板は異なる2本の樹から取られたバルティックオーク材2枚を継ぎ合わせて作られている。裏面に商人や貨物を示す印があり、ジェーンの前の国王エドワード6世の肖像画に残された印と似ているという。 イングリッシュ・ヘリテージによれば、赤外線反射法を使ったスキャンの結果、当初の肖像画の完成後、女性の服装や顔に大幅な修正が加えられていたことも判明した。 肩に掛けられた白いスカーフは後に描き加えられたものと考えられている。 スカーフの下の右腕に巻かれているバンドはもともと、今は隠れている大きな装飾袖の一部だったか、かつて二の腕に掛けられていた別のスカーフが消された跡の可能性があるという。 髪を覆うリネンの帽子(コイフ)も、当初の形状から大きく修正されている模様だ。スキャンでは異なる形状のコイフ、さらにはコイフの上から着用する派手なフードとみられるものが顔の周囲に確認できる。一時はベールも描かれていて、後に塗り消された可能性があると研修者は示唆している。 こうした修正箇所に加え、ジェーンの目や口、耳の部分が引っかかれて削られており、宗教的もしくは政治的な理由で絵が傷つけられた可能性が高い。ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーにある死後作成のジェーンの肖像画にも、同様の跡が見られるという。 一連の変更は絵に落ち着いた雰囲気を与え、ジェーンを慎み深いプロテスタントの殉教者として描き出す目的で加えられた可能性があるとも言い添えた。 ターンブル氏は「絶対にレディー・ジェーン・グレイだと断定はできないが、私たちの分析結果に説得力があるのは間違いない」と話す。 「一時はもっと豪華な衣装が描かれていた可能性を示す新たな証拠、彼女の存命時のものと推定される板材の年代、さらには意図的に削られた目の部分――。これらを踏まえると、私たちは元々もっと女王らしく描かれていたジェーン・グレイの肖像の影を見ている可能性がある。彼女の死後にトーンダウンされ、慎み深いプロテスタントの殉教者に描き直されたということだ。彼女の身元は別としても、我々の調査結果は魅力的だ」(ターンブル氏) ジェーンは父親が1551年10月にサフォーク公爵に叙されて以降、多くの時間を宮廷で過ごした。 ジェーンがプロテスタントだったことから、ノーサンバランド公爵のようにイングランドの宗教改革を支持する人物にとっては、格好の王位候補者となった。ノーサンバランド公はジェーンと息子を結婚させると、彼女を王位継承者にするよう死期が近いエドワード6世を説得した。 エドワード6世は1553年7月6日に死去。女王になる話を初めて聞かされ気絶したというジェーンは、その4日後に王位に就くことになった。 だが7月19日には、法律上もヘンリー8世の遺言上も正当な継承者とされ、民衆の支持を得ていたエドワード6世の姉、メアリー・テューダーに王座を明け渡した。 その後、大逆罪に問われたジェーンは有罪を認め、1554年2月12日に斬首された。16歳だった。 この肖像画は現在、イングランド東部ベッドフォードシャー州にある邸宅「レストパーク」で展示されている。 ◇ 原文タイトル:Is this the only known portrait of England's doomed 'Nine Days Queen'? (抄訳)

2025年3月7日金曜日

調邊 読人さんによるXでのポスト 葵

日本最大の大山古墳、初の立ち入り 歴史・考古学系の17学会・協会 [大阪府]:朝日新聞

日本最大の大山古墳、初の立ち入り 歴史・考古学系の17学会・協会 [大阪府]:朝日新聞

日本最大の大山古墳、初の立ち入り 歴史・考古学系の17学会・協会

 国内最大の前方後円墳世界遺産の大山(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵、堺市)で7日、歴史・考古学系の17学会・協会の代表者が墳丘に立ち入り、現状を観察した。戦後、学会関係者の同古墳墳丘への立ち入りは初めて。

 各学会の代表者は宮内庁職員の案内で拝所のわきからボートで濠(ほり)を渡り、墳丘に上陸。1段目のテラスをめぐって約2時間にわたり視察した。日本考古学協会の日高慎・東京学芸大教授は「崩れているところや、石積みをやり直しているところがあることなどがわかった。測量図や外からだけではわからないこともあり、一般の方と共有できる道を探りたい」と話した。

 歴代天皇や皇族を埋葬したとされる「陵墓」は、同庁により一般の立ち入りが禁じられている。研究者による立ち入り観察は2008年に初めて許可され、18カ所目。大山古墳は学術的に重要な文化遺産だが、規制のため墳丘本体の情報がほとんどなく、05年の要望当初からの第1候補だった。学会側は公開や観察範囲・機会の拡充を求めて働きかけを継続するという。

 大山古墳は5世紀の築造で、墳丘長は486メートルとされる。同庁は被葬者を仁徳天皇とするが、学界には疑問視する声がある。明治5(1872)年に堺県(当時)が前方部の埋葬施設を調べた例があるが、その後は立ち入りを厳しく規制。2018、21年には、同庁と堺市が墳丘をめぐる堤を共同調査し、多数の円筒埴輪(はにわ)や石敷を発見したが、墳丘には入っていなかった。

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

「石積みは後世に積み直された」仁徳天皇陵古墳の墳丘に研究者17人が初めて立ち入り調査 - 産経ニュース

「石積みは後世に積み直された」仁徳天皇陵古墳の墳丘に研究者17人が初めて立ち入り調査 - 産経ニュース

「石積みは後世に積み直された」仁徳天皇陵古墳の墳丘に研究者17人が初めて立ち入り調査

仁徳天皇陵古墳の第一濠をボートで渡る研究者ら(宮内庁提供)
仁徳天皇陵古墳の第一濠をボートで渡る研究者ら(宮内庁提供)

日本考古学協会など17の研究者団体が7日、5世紀中ごろに造られた国内最大の前方後円墳、仁徳天皇陵古墳(大山古墳、堺市堺区)を立ち入り調査した。管理する宮内庁以外の団体が同古墳の墳丘に入るのは初めて。同協会理事で東京学芸大の日高慎教授は「前方部の石積みは後世に積み直されているなど、入ってみないと分からないことが分かった」と語った。

同古墳は世界遺産「百舌鳥(もず)・古市古墳群」の構成資産の一つ。宮内庁が管轄する別の古墳は平成20年以降、立ち入りが許可されたものもあるが、仁徳天皇陵古墳は今回初めて許可された。

この日は研究者団体の17人が宮内庁の管理用ボートに乗り、3重の濠(ほり)のうち最も内側の第一濠(幅約70メートル)を渡って墳丘に上陸。約2時間半かけて一周し、墳丘の状態などを観察した。日高教授は「崩れている部分が多く、とくに前方部は溝状の亀裂が入っていた」と説明した。

研究者団体はこの日、古墳や遺跡のさらなる公開や観察範囲の拡充を求める声明を発表した。

2025年3月6日木曜日

伝 阿弖流為 母禮之塚 – 由緒不詳の首塚に生まれた虚構の伝承 – 特異点紀行

伝 阿弖流為 母禮之塚 – 由緒不詳の首塚に生まれた虚構の伝承 – 特異点紀行

伝 阿弖流為 母禮之塚 – 由緒不詳の首塚に生まれた虚構の伝承

伝 阿弖流為 母禮之塚 – 由緒不詳の首塚に生まれた虚構の伝承

阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)とは

阿弖流為(アテルイ)とは、8世紀末から9世紀初頭に、陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷(えみし)の族長である。母禮(モレ)は、アテルイと同時期に蝦夷の族長の一人であったとみられている。
蝦夷とは、本州東部や以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指す。

蝦夷は、時の朝廷の国土統治にあたり派遣された征討部隊に、激しい抵抗を繰り返していた。しかし、朝廷の戦力に圧され、いよいよ進退窮まった蝦夷は(諸説あるが)、802年、アテルイとモレが同族5百余人を引き連れ、征夷大将軍坂上田村麻呂の下に降伏した。その後坂上田村麻呂は朝廷に報告し、2人を伴って帰京する。2人の処遇について坂上田村麻呂は、助命を朝廷に嘆願したが聞き入れられず、河内国(現在の大阪府東部)で処刑された。

『伝 阿弖流為 母禮之塚』(アテルイの首塚)とは

『伝 阿弖流為 母禮之塚』(以下アテルイの首塚)とは、大阪府枚方市にある片埜神社隣の元境内だった牧野公園に存在する。ここは、「アテルイとモレの処刑地」という伝承があり、公園にはその慰霊碑が建立されている。

牧野公園入口。
手ごろな広さが丁度よい。
遊具やベンチもある。
慰霊碑と記念植樹。

慰霊碑は、没後1200年を機に岩手県奥州市(当時水沢市)と枚方市との交流の一環としてできた「牧野歴史懇話会」のメンバーらが2006年、建立の実行委員会を結成。アテルイ、モレ終焉の地として地域の人たちに認識してほしいと、2007年建立にこぎ着けた。

「処刑地不詳」という史実

このような慰霊碑がある以上、牧野公園が処刑地であるかに思える。しかし実は、アテルイの処刑地は河内国であること以外、具体的な場所は特定されていない。『日本紀略』には「河内國□山」と書かれてあるだけで、□山の部分は後世の写本によっては「杜山」「植山」「椙山」などと謎が多い。その中でも1900年に発行された、歴史学者・吉田東伍氏の著書『大日本地名辞書』で記述された植山=宇山説は、その後『大阪府全志』や『枚方市史』といった地誌等にも引用された。だが、当時その説は一般には広がらなかったと、歴史学者の馬部隆弘氏は述べている。また宇山説について馬部氏は、『河内国禁野交野供御所定文』にある記述から、宇山は桓武天皇の狩猟地である「禁野」であり、朝廷が自ら禁野を穢すとは考えられないとの見解を示している。

牧野阪古墳の所在

牧野公園の周辺は、遺跡地図では牧野阪古墳と記されており、一帯が牧野阪遺跡と呼ばれていた。そして、石碑が整備される以前は、「首塚」と称される塚状の小丘があったとされている。しかし、1953年の台風13号による被害復旧のため破壊されている。

馬部氏は2019年に牧野阪古墳の所在地の調査で、1954年に発掘調査報告書を書いた宮川徏氏を尋ねた。その結果、古墳は「首塚」のある牧野公園西側敷地ではなく、道路を挟んだ東側敷地の可能性が濃厚とみている(リンクのP3~4を参照)。加えて、自身の著書『由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に(勉誠出版、2019年)』にて、枚方市史資料室が所蔵する枚方市広報課旧蔵アルバムの1952年造成直前と造成直後の、石碑周辺から片埜神社・清岸寺方向を見渡した写真を掲載し、「造成前の牧野公園はもともと片埜神社境内の荒れ地で、塚らしいものは見あたらない」と述べている。

では、なぜこの場所がアテルイの首塚と「されるようなもの」になり、石碑まで建てられるようにまでなったのか。

首塚の発祥について

ある女性が一人で祀り始めた

枚方市で勤務していた馬部氏は、元市史編纂室担当者であった田宮久史氏が1990年に記したメモを発見し紹介している。それによると、1979年頃に牧野地区のある女性が、「独自に祀り始めた」のが首塚の発祥という。
女性曰く、夢に長い白髪で白いあご髭の人が何かを訴えかけてきた。気になった女性は、昔この辺りで何があったかを市史編纂室に電話し問い合わせた。窓口となった田宮氏は冗談として対応しつつも、蝦夷の族長が処刑された逸話があることを話す。その話を聞いた女性は、夢の人物がその族長に違いないと考え、市に祀ることを要望。しかし受け入れられなかったため個人で祀った。

市は最初、一市民の物好きな行為と放置した。しかし、木は徐々に繁茂し、柵が強化されるにつれて、一帯は妙に存在感をもち出し、どこか聖域の雰囲気をただよわせるようになった。その後、取材で訪れた河北新報大阪支社の記者が田宮氏から女性の存在を聞き、そしてアテルイの墓を発見したと報道したことで徐々に広まっていった。

首塚のある小丘。
首塚には今もお供え物がされている。
戦いの中で、坂上田村麻呂とアテルイとの間には「友情が芽生えていた」という説があり、助命の陳情はそれによるものともされている。そして、その説に基づいたお守りが、近くの片埜神社で販売されている。
お守りの裏側。

生成され始める伝承

牧野公園内には、昔から「戦いに負けた大物武将の首塚がある」という伝承があったという。なお、ここではまだアテルイとは断定されていない。そして、1993年の枚方市議会議事録では20年程前から(すなわち1970年代初め)牧野地区にて、一部の間でアテルイの首塚があると言われ始めていたという(これは河北新報の報道前である)。だが馬部氏は、この伝承の発生起源について、先の吉田氏の学説が発端となっており、所謂先祖代々といったものではないと指摘している。

アテルイが当地近くで殺害されたという言説は、明治33年(1900)に刊行された吉田東伍氏の著書に始まり、昭和47年(1972)に刊行された『枚方市史』などにも引用されている。これらは、『日本紀略』の解釈から提示された仮説・学説で、当然ながら伝承ではない。 一方で、枚方市には蝦夷が殺害されたという「伝承」があると熱心に主張する方々もたしかに何人もいた。しかし、蝦夷が殺害されたという「伝承」は、どう聞いても先祖代々伝わってきた類のものではなく、明らかに上記の学説が発端となったものばかりであった。このようなものは到底伝承として扱えなかった。

馬部隆弘『アテルイの「首塚」と牧野阪古墳』志学第考古

しかし、そのような素地の上に河北新報の報道がなされたことで、アテルイと何らかの繋がりを求める機運が地元で高まっていった。加えて、少し離れた宇山地区にある古墳にも「蝦夷の統領が処刑された場所」という伝承があることから、「蝦夷の統領→アテルイ→首塚もアテルイのもの」と推定されていく。

官民一体で創った「虚構」

「枚方の歴史」となったアテルイ

1989年から関西岩手県人会・関西アテルイ顕彰会は、枚方市に慰霊碑建立を陳情している。また、歴史教育者協議会は1990年発行の『歴史地理教育』で、歴史学者の瀧浪貞子氏は1991年以降に発行したいくつかの著書の中で、アテルイ処刑地が枚方市であることを記述し広く周知している。しかし当時、これらについて枚方市は、アテルイである確証がないため陳情の却下や、市発行の地誌等でアテルイの伝承を否定している。

だが、時を経て2005年。枚方市が発行した小学校副読本『わたしたちのまち枚方 小学校3・4年』に一転して、牧野公園内の首塚をアテルイの墓といわれるものとして、写真とともに掲載する。さらに2006年、市が発行した子供向け郷土史『楽しく学ぶ枚方の歴史』でも、牧野公園内の首塚をアテルイのものとして掲載する。その後も複数年に渡り、同様の記述が教科書に掲載される(馬部氏の指摘で現在は削除された模様)。さらに当時の枚方市長、中司宏氏は、アテルイ・モレの慰霊碑建立実現に向けた支援を行うと方針転換。2007年3月に、牧野公園内に『伝 阿弖流為 母禮之塚』と記された石碑が建立されることとなった。 

こうして官民一体となり、アテルイの処刑地は「枚方の歴史」として成立。慰霊碑はその伝承を象徴する存在となった。

「この地がアテルイとモレのゆかりの地」と書かれている。
慰霊碑の裏には建立に関わった者の名前が記されている。

アテルイ・モレ慰霊祭

慰霊碑建立後、例年9月に『アテルイ・モレ慰霊祭』と称した行事が牧野公園内で開催されている。内容は主に、片埜神社の宮司による神事や、中司宏氏(現・衆議院議員)をはじめとする議員、清水寺学芸員、関西アテルイ・モレの会による挨拶などが行われている。詳しくは、私が撮影したこちらの記事をご覧頂きたい。

終わりに

史実と神話の狭間で揺れ続ける伝承

日本には、地域ならではの伝承が多数ある。その中には史実というよりは神話的なものも多くあるが、それらは地域住民の心の支え、誇りであったり、または町おこしとして地域経済を支える柱となっていることもある。この『アテルイの首塚』も、きっかけとなった女性の弔いは、善意のつもりで誰かを騙そうなどという感情はきっとなかっただろう。そして、それが一部の間で民間信仰的に盛り上がることも、日本の伝承ではよくあることだ。一方で、それらに対して行政・自治体側が一方向なお墨付き(ここでは公教育に取り入れるなど)を与えてしまうと、我々は史実であると認識しかねない。そのバランスは難しい。

「一人の女性の夢」が慰霊碑として具現化し、枚方の歴史と"成った"『アテルイの首塚』。ここは現代に、史実と神話の狭間を垣間見ることができる興味深い伝承地なのかもしれない。

昔は首塚のたたりがあるため牧野公園には近づいてはいけないとの伝承があったそうだが、子どもたちに聞くと今は聞いたことがないという。

主な参考資料

  1. アテルイを顕彰する会"蝦夷の首長アテルイと枚方市"情報201 論文, 2024年7月9日閲覧。
  2. 公益財団法人大阪府文化財センター"船橋遺跡現地公開資料",2018年7月28日
  3. 馬部隆弘"由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に", 勉誠出版, 2019年.
  4. 馬部隆弘"椿井文書―日本最大級の偽文書", 中央公論新社, 2020年
  5. 馬部隆弘"アテルイの「首塚」と牧野阪古墳", 志學臺考古,20号, p. 1-6, 2020年3月.
  6. MBS毎日放送"史実と神話~戦後75年目の教科書と歴史" 2020年8月30日放送

関連記事

倶利伽羅峠の戦い - Wikipedia

倶利伽羅峠の戦い - Wikipedia

倶利伽羅峠の戦い

倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい、倶梨伽羅峠の戦い)、または、砺波山の戦い(となみやまのたたかい、礪波山の戦い)は、平安時代末期の寿永2年5月11日1183年6月2日)に、越中加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における戦いの一つ。

経過

木曽義仲の北陸道進出

治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した源義仲は、翌治承5年(1181年)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げた[1][2][3]

『平家物語』には横田河原の勝利に呼応して「北陸道七ヶ国の兵共」ら北陸の武士団が木曽義仲勢への参加を表明したと記され、九条兼実の日記である『玉葉』にも治承5年7月末時点で越中・加賀・能登の国人が「東国と意を同じくし」 反平家の動きを見せていることが伝えられている[4]。実際に、義仲による能登国国衙領四ヶ所地頭職の補任(治承5年11月24日付)、越中国石黒荘弘瀬郷の安堵(治承6年2月付)にかかる記録が残されており、治承5年から治承6年にかけて既に義仲勢は信濃から北陸道に及ぶ広域的権力へと成長していたようである[5][3][6]

ただし、越前・加賀等の北陸道南西部では治承・寿永の乱勃発以前から白山宮[要曖昧さ回避]を中核とする反権門闘争が起こっており、北陸道での反平家運動の全てが義仲の意を受けたものではなかった点には注意が必要である[7]。浅香年木は越前・加賀等の反権門勢力を「兵僧連合」と呼称し、兵僧連合が実質的に義仲の指揮下に入ったのは後述する火打城の戦いでの敗北以後のこととする[注釈 1]。このことは、倶利伽羅合戦以前の義仲の動向が全く京に伝わっていないこと、むしろこの方面の軍団の首領は甲斐武田家と京では認識されていたことからも裏付けられる[9]

このような情勢を受けて、寿永2年(1183年)4月、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた[注釈 2]

緒戦

北陸道に入った平家軍は越前国火打城の戦いで勝利し、義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされた[10]。だが5月9日明け方、加賀国より軍を進め般若野(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊平盛俊の軍が、木曾義仲軍の先遣隊である義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲されて戦況不利に陥り、平盛俊軍は全滅してしまった(般若野の戦い[11][12]。ただし、「般若野の戦い」について『平家物語』諸本は全く言及せず、『源平盛衰記』にのみ見られる戦いのため、実在を疑う説もある[13]

一方、義仲率いる本隊は越中国に入ると六動寺(現六道寺地区)に着陣し、射水川(現在の庄川・小矢部川が合流した河川)を挟んで対岸の越中国府(現伏木地区)に着到報告を行った[14][13]。越中国府まで進出することは後白河院方人脈の越中国衙在庁官人層に対する軍事制圧を意味するため、敢えて義仲は射水川を渡河しなかったものとみられる[15]。越中国衙は反平家的立場から義仲に協力的であったと考えられるが、だからこそ義仲は強圧的な要求ができず、越中兵の大規模動員を行えなかった[12]。義仲軍の中では信濃勢のみで万騎を超すのに対し、この時義仲軍に加わった越中勢が石黒宮崎あわせて500騎余りしかいなかったとされるのは、このような背景があったためと考えられる[15]

軍議

一旦後退した平家軍は、能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛・平行盛平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷いた[14]

一方、義仲軍は六動寺から「池原の般若野(「源平盛衰記』では般若野御河端)」に移って軍議を開いたとされるが、この地は現在の砺波市栴檀野地区池原に相当する[14][16]。池原の地は婦負郡・射水郡・砺波郡の境界線上にある上、砺波郡式内社格の荊波神社が位置しており、ここで義仲軍は現地の石黒勢と合流した上で荊波神社での神事執行により結束を誓ったのであろう[注釈 3]。『平家物語』等では描写されないが、越中国衙が公的には義仲勢の進軍に協力しないのに対し、石黒光弘ら在地武士は高瀬神社・荊波神社といった砺波郡内の有力神社での神前行事を経ることで義仲勢への参加を公的行事として昇華したものとみられる[17]

般若野で開かれた軍議では、平家方が再び砺波平野まで進出すると騎馬が主体の戦いとなり源氏方に不利であるとの指摘がなされ、機先を制して倶利伽羅峠の隘路を掌握し山中での急襲によって敵軍を壊滅すべしとの案が採用された[14]。そこでまず、信濃の国人保科を先遣隊として砺波山東麓の日宮林(現小矢部市蓮沼の日埜宮社)に派遣し、本隊は軍の再編を行った[14]。『源平盛衰記』によると義仲軍は(1)源行家の部隊、(2)根井小弥太の部隊、(3)今井兼平の部隊、(4)樋口兼光の部隊、(5)余田次郎らの部隊、(6)巴御前の部隊、(7)義仲率いる本隊、の7手に分かれて進軍したとされる[18]

合戦

5月11日、義仲は源行家楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かった[19]。この時義仲軍は「中田通」を通って加越国境方面へ進んだとみられ、現在も高岡市中田地区から倶利伽羅峠を結んだ線上に義仲が弓で地を穿つと清水が生じ将士の喉を潤したとされる高岡市中田常国地区の弓の清水古戦場、義仲軍が昼飯を取ったとされる砺波市小島地区の午飯岡碑、義仲が戦勝祈願したとされる砺波市西宮森地区の川田八幡宮、といった木曽義仲にまつわる史跡が残されている[20]。砺波山に到着した義仲は埴生八幡宮に対して願文を奉納しているが、これは後述するように摂津源氏との連立を表明する意図があったものと推定される[21]

義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして平家軍の油断を誘い今井兼平の兄で義仲四天王のもう一人・樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に回りこませ作戦を実行した。

平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は撤退しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に脱出ようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍はそれが分からず将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は這々の体で加賀国へ退却した。

玉葉』には「官軍(平家軍)の先鋒が勝ちに乗じ、越中国に入った。義仲と行家および他の源氏らと戦う。官軍は敗れ、過半の兵が死んだ」とのみ記されている。また『源平盛衰記』には、義仲が400~500頭の牛の角に松明をつけて平家軍に突進させ谷底へ落としたという「火牛の計」のエピソードを載せるが、『平家物語』諸写本には全く見られない記述であり、この逸話は中国の戦国時代の将軍・田単が、火牛の計で軍を破った故事をもとに創作されたと考えられている[22]

この戦いと篠原の戦いに大勝した源義仲は平氏がひるんだすきにへ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす[22]。大軍を失った平家はもはや戦力不足で防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。

勝因・敗因

平家方の敗因

「倶利伽羅峠の戦い」における平家方の敗因について、『平家物語』諸本の中でも延慶本のみ下記のような逸話を記している[23]

軍の日を点して吉凶をうらなう男有けり。彼の男申しけるは九月以前には軍不利なり。引退て後軍をかためよと申けるを、景家邪心に入て信ぜずして合戦をいそぎけり。これは肥後守貞能が菊池高直を攻め落して入洛するよし聞えければ、彼に前立て勝負を決して称功と思ける故也 — 延慶本平家物語(砂川1982,131頁より引用normal

これに関連して、『玉葉』は倶利伽羅合戦後に起こった篠原の戦いの敗因として「彼三人(平盛俊・平景家・平忠経)の郎等、大将軍(平維盛)等が、権益を相争っていた」ことを挙げている[24]。この二つの記録は、平家方の軍勢内で作戦上の方針の相違や指揮権をめぐる確執が存在していたこと、このような内部対立が北陸方面での諸戦闘の敗因になったと同時代の人間が認識していたことを示している[25]

源氏方の勝因

義仲勢の勝因について、延慶本『平家物語』のみは「合戦後、倶利伽羅峠の谷底から白山に由来する金剣宮が発見され、義仲はこれを見て『白山権現のお計らいによって平家勢を滅ぼすことができたのだ』と語り、白山に神馬・所領を寄進した」という逸話を伝える[26]。この点について、浅香年木は前述したように治承・寿永の乱勃発以前から白山宮にまつわる荘園各所で反体制的な運動が見えることに注目し、このような勢力を「兵僧連合」と呼称する。すなわち、白山権現の加護を強調する記述は、白山宮の兵僧連合=北陸道在地勢力を義仲が上手く取り組むことができたことが勝利につながったことを示唆するものであると考えられる[27]。久保尚文も義仲は単に独力で勢力を拡大し平家を討ったのではなく、摂津源氏・土岐源氏といった在京武士と結びつき正当性を担保することによって成功を収めたと考えるべきであると指摘している[28]

もっとも、『平家物語』等が伝える木曽義仲による白山宮への寄進は他の史料で確認できないため、空約束となって実現には至らなかったようである。そして、浅香年木は倶利伽羅合戦後に白山宮に代表される「兵僧連合」との提携工作を十分に行えないままに上京してしまったことが、倶利迦羅合戦とは逆に義仲の没落の原因になったと推定している[29]

英雄物語としての「倶利伽羅合戦」の見直し

越中中世史研究の専門家である久保尚文は、一連の研究の中で倶利伽羅合戦を義仲個人の英雄譚と位置付ける『平家物語』的な史観の見直しを行っている。上述したように、越中国内に入ってから義仲が行った「池原の般若野での軍議」、「埴生八幡宮での願文」は『平家物語』諸本で簡単に扱われているが、実際には義仲軍の正当性を確固たるものとするためのものであったと論証している[30]

例えば、埴生八幡宮での願文については、『平家物語』や『吾妻鏡』に見える「埴生弥太郎盛兼」が摂津源氏と縁の深い人物であることに注目する[31]。長門本『平家物語』は「いなばの国住人[注釈 4]弥太郎もりかね」が源頼政・仲綱が自害する場に居合わせたとし、『吾妻鏡』養和元年11月11日条は「入道源三位卿(頼政)の縁者」埴生弥太郎盛兼が宇治合戦以後蟄居していたものの平宗守の派遣した勇士に発見され自害した逸話を伝える[31]。これらの記録から「埴生弥太郎盛兼」は源頼政の一族(=摂津源氏)に縁深い人物であったことが分かり、砺波山一帯には坂田金時ら摂津源氏被官の伝承が残されていることもあわせると、埴生八幡宮の勧請・運営に摂津源氏が関与していたことが示唆される[21]。久保尚文は以上の議論を踏まえ、木曽義仲が埴生八幡宮を訪れたのは単に戦勝祈願のためではなく、義仲勢と摂津源氏の連立を表明するという意図を有していたことを指摘している。

また、久保尚文は通説における「越中国は平家方の知行国であったが在地武士(石黒・宮崎党)の協力を得て義仲方によって掌握された」という見方にも疑問を呈し、越中では元来徳大寺家や摂津源氏といった反平家方の影響力が強かったことを明らかにした[33]。確かに能登国では在地領主が叛乱を起こして国衙を奪取した事件が起こっているが、越中ではそのような事件は全く記録されていない[13]。むしろ、越中国衙は徳大寺家や摂津源氏といった反平家方の影響力が強かったがために当初から義仲に協力的で、だからこそ義仲方に軍事制圧されるようなことがなかったと考えるべきである[34][15]。倶利伽羅合戦で義仲に味方した越中勢が極めて少ないのも、越中国内の武士の大部分は国衙の指揮下に入り義仲の下に参陣していなかったためと考えられる[12][15]

以上の論考を踏まえ、久保は反平家方の影響力が強かった越中国衙は当初から義仲に協力的で、「それゆえに」義仲方に軍事制圧されず従来の機能を保っていたと指摘する[34][15]。以仁王の令旨以外にさしたる正当性を有しなかった義仲は、摂津源氏等の在京武士と結びつくことで勢力を拡大し、更に北陸宮の推戴を経て正当性を担保することによってはじめて公的に京を目指した[21][17]。「池原の般若野での軍議」や「埴生八幡宮での願文」はまさにこのような義仲の正当性を再確認する行事に外ならなかったと考えられる[21][17]

『平家物語』等の軍記物は入京後の義仲が孤立していったのは義仲個人の資質-「戦には強いが政事には疎かった悲劇の英雄」という性格-によるものとし、後世の史家も『平家物語』の提示する史観を踏襲してきた[28]。しかし久保は、「平家を討って京を奪還する」という共通の目的で義仲と協力体制にあった摂津源氏・土岐源氏が、入京後に後白河院方に復帰してしまったことにより「義仲個人の」軍事力・正当性が弱体化してしまったという側面を有していることを指摘している[9]。『平家物語』は幾多の英雄物語によって構成されており、義仲物語もその一つであるが、このような英雄物語から零れ落ちた歴史事実が存在することに注意を払うべきである、と久保は述べている[30]

脚注

注釈

  1. 木曽義仲が火打城の戦いの直後、寿永2年4月28日付で白山宮三馬場に願書を出したとの記録があることは、まさにこの時初めて「兵僧連合」が義仲の傘下に入ることになったことを反映していると考えられる[8]
  2. この出兵については『吾妻鏡』においては木曾義仲討伐の為と記されているが、『玉葉』における討伐の対象者は「源頼朝・源信義」となっており、追討の対象は「木曽義仲」ではなくあくまでも北陸の反乱軍であるという見解が強まりつつある。
  3. なお、荊波神社は南砺市岩木(旧福光町。石黒郷の一部)にも存在し、どちらが本来の荊波神社であるか議論がある。久保尚文は恐らく岩木が利波臣の本家でこれを継承したのが石黒家であり、池原の荊波神社は岩木から分立したものであろうと推定する[16]
  4. 頼政一族は西国との関わりが薄く、この「いなばの国」をそのまま山陰道の「因幡国」と見なすには疑問が残る。久保尚文は若狭国で有力な中原氏一門に「稲庭氏」があったことに注目し、頼政が伊豆国司在職期に「中原宗家」なる人物が伊豆守に任じられていることも踏まえ、「いなばのくにの住人」とは「稲庭氏の出身」であることが誤って伝わったものではないかと推測している[32]

出典

  1. 砺波市史編纂委員会 1990, p. 530.
  2. 小矢部市史編集委員会 1971, p. 169.
  3. ^ a b 久保 2013, p. 5.
  4. 砺波市史編纂委員会 1990, p. 517.
  5. 長村 2013, pp. 1022–1025.
  6. 砺波市史編纂委員会 1990, pp. 517–518.
  7. 浅香 1981, p. 83.
  8. 浅香 1981, p. 204.
  9. ^ a b 久保 1999, p. 7.
  10. 砺波市史編纂委員会 1990, p. 527.
  11. 砺波市史編纂委員会 1990, pp. 530–531.
  12. ^ a b c 久保 1999, p. 9.
  13. ^ a b c 久保 2013, p. 6.
  14. ^ a b c d e 砺波市史編纂委員会 1990, p. 531.
  15. ^ a b c d e 久保 2013, p. 7.
  16. ^ a b 久保 2013, p. 8.
  17. ^ a b c 久保 2013, p. 12.
  18. 砺波市史編纂委員会 1990, pp. 535–536.
  19. 砺波市史編纂委員会 1990, p. 535.
  20. 中田町誌編纂委員会編 1968, p. 130.
  21. ^ a b c d 久保 1999, p. 5.
  22. ^ a b 砺波市史編纂委員会 1990, p. 537.
  23. 砂川 1982, p. 129.
  24. 砂川 1982, p. 130.
  25. 砂川 1982, pp. 131–132.
  26. 砂川 1982, pp. 136–137.
  27. 浅香 1981, pp. 204–205.
  28. ^ a b 久保 1999, p. 6.
  29. 浅香 1981, pp. 206–207.
  30. ^ a b 久保 1999, p. 10.
  31. ^ a b 久保 1999, p. 4.
  32. 久保 1999, p. 11.
  33. 久保 2013, pp. 2–3.
  34. ^ a b 久保 1999, p. 8.

参考資料

  • 中田町誌編纂委員会編「源平合戦と中田」『中田町誌』、1968年
  • 砺波市史編纂委員会編「治承・寿永の源平争乱」『砺波市史 資料編1(考古 古代・中世)』、1990年
  • 小矢部市史編集委員会「源平の戦いと埴生新八幡」『小矢部市史』、1971年
  • 久保尚文「木曾義仲進軍と八条院領高瀬荘―越中地域史研究の原点⑧」『富山史壇』171号、2013年
  • 長村祥知「木曾義仲の発給文書」『信濃』65(12)、2013年
  • 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館)
  • 浅香年木『治承・寿永の内乱論序説』法政大学出版局、1981年
  • 砂川博「延慶本平家物語の「倶利迦羅」の生成」『平家物語新考』東京美術、1982年
  • 橋本芳雄「木曾義仲の上洛作戦と北陸道」『越後地方史の研究』国書刊行会、1981年

関連史料

関連項目

外部リンク

和多都美神社は大和国の玄関 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

和多都美神社は大和国の玄関 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究 「ワタツミ」をヘブライ語の文字で並べると、右から左に בוטאצמה  (vatatsumi、ヴァタツミ)と書くことができます。 ב の文字は英語のアルファベットではBとなりますが、実際の発音はVに近く、「ブ...