推理作家高木彬光氏は壱岐から東に向かったと考えている。夏の風向きを考えるとそれが合理的らしい。ただし帆船があったという仮定をしている。ちなみに高木彬光氏は邪馬台国宇佐説。東への航路は邪馬台国四国説でも採用する人が多い。
宗像=末蘆説を固める材料として、神湊近くの福津市勝浦にある年毛神社に伝わる「永島文書」という古文書に「この辺りは昔は万津浦(まつうら)と呼ばれていた」という記述があったと、「ムー」の2001年11月号で取り上げられた件があります。
推理作家高木彬光氏は壱岐から東に向かったと考えています。夏の風向きを考えるとそれが合理的らしいです。ただし帆船があったという仮定をしています。ちなみに高木彬光氏は邪馬台国宇佐説です。東への航路は邪馬台国四国説でも採用する人が多いです。
宗像=末蘆説を固める材料として、神湊近くの福津市勝浦にある年毛神社に伝わる「永島文書」という古文書に「この辺りは昔は万津浦(まつうら)と呼ばれていた」という記述があったと、「ムー」の2001年11月号で取り上げられています。
高木彬光『邪馬台国推理行』(1975)に詳述
159
第二部 邪馬台国への新しい道
往々にあらわ
れ
る
大
た
たしかに、造船のほうも突貫工事で進められたことだから、船そのものの構造にも若干の弱さがあっ
たのかも知れない。しかし、この時代の大型船舶だったなら、少なくとも三世紀の古代帆船よりは、造
船技術も進歩し、強度も増していたことだろう。
要するに、私のいいたいことは、この海域の航海は、たえずこのような不測の事故がおこる危険を秘
めているということである。
そして同時に、彼等が東松浦半島へいったん上陸して橋頭堡を作るというような、常識的な戦法に出
ず、直接博多湾へ向ったという事実にも御注意ねがいたい。
帆船航路にしたならば、壱岐から博多方面へ向う海路は、案外すなおな道なのである。
ここでいま一度、風向の問題を思いおこしていただきたい。
安全の上にも安全を求める航海なら、魏使たちは、八月に海を渡って来るしかない。
すいそうりゅう
とうぜん風は西または西南の方向から、対馬海流の表面に吹きつけて、いわゆる「吹送流」の現象を
おこし、海流の速度を倍にも三倍にも高めてくれる。
そして帆にはたはたと吹きよせる風は、ただでも船の速度をあげる。ほっておいても、船は自然に、
東へ東へと向うのだ。
彼等が東を目ざすかぎり、どうして中間の不要な港に上陸して、重い荷物を運搬しながらの「陸行」
で苦労する必要があるだろう。
彼等の利用した船は、とにかく朝鮮対馬間、 それに対馬 壱岐間を一気に走行できるだけの能力を
持っていたはずなのだ。
そして、現在の汽船航路を考えても、対馬 壱岐と壱岐―博多間は、ほとんど等距離、ほとんど同時
間の航行である。
目ざす目的地、邪馬台国が東にあるかぎり彼等は少なくとも博多湾まで一気に船を進めたろう。呼子
…
163
163
第二部 邪馬台国への新しい道
神湊と宗像神社
こうのみなと
さて、ここまで論証を進めて来れば、魏使の「神湊上陸」には、相当以上の公算があると断定して
よいだろう。
私個人としたならば、それこそ百パーセントといいたいくらい、絶対的な自信をいだいているのだ
18......0
しかし、これまでの「定説」に従うと、このあたりは、せいぜい不弥国だということになる。 末盧国、
伊都国、奴国――その中間の三つの国は消滅してしまうわけなのだ。
しかし、論理学的に見れば、この問題はなんでもない。
東松浦半島を末盧国、糸島半島を伊都国、福岡市付近を奴国と比定したのは、あくまでも後世、四百
年以上後につけられた地名の発音から生じた類推だったのである。
そして、いままでの研究は、あくまで魏使の上陸地点が、東松浦半島のどこかだという大前提の上に
成立していたといってもよい。そのために、こういう地名比定も「絶対に不動」のものと思われていた
のだった。
しかし、この上陸地点が変ったとすれば、この「大前提」も崩れてしまい、自然にこれまでの「定
「説」も瓦解してしまうのだ。
魏使たちが末盧国へ上陸した。そして、その上陸地点が宗像神湊だとなれば、宗像付近を末盧国と比
定するのは、論理的にとうぜんの帰結だし、したがって伊都国も、その東南の方向にあったと推定しな
ければならなくなる。奴国、不弥国にしたところで、さらにその東方に求めなければならないはずだ。
私はこの「神湊上陸説」を邪馬台国研究史の上で、コペルニクス的転換ではないかと思ったくらいで
日本史:メモ
邪馬壹(やまと)国は阿波から始まる : やまと研究会: 2019
高木彬光
と、案内役の倭人にたいして烈火のようにどなりつけるのではなかろうか? これはとうぜんの怒りである。当時の倭国は臣礼をとってまで魏の国と親交を結ぼうとしていたのだ。その答礼使というべき使節たちに、こういう非礼非常識な道中をさせたということは、私にはとうてい考えられない。 しかも、この時代に糸島半島の北側は十ぐらいの島にわかれており、現在の唐津街道のあたりには、糸島水道とでも呼びたいような海峡があり、唐津湾と博多湾は直接この海峡を通って舟で水行できたはずである。 これについては、九大名誉教授、山崎光夫博士が作製された復元地図があり、宮崎康平氏の『まぼろしの邪馬台国』にも掲載されているから、興味のあるお方はそちらを参照していただきたい。 ということは、呼子―唐津―深江―博多と来るような沿岸ぞいの水行コースはとうぜん存在したはずだということになってくる。そしてこのときの魏使の旅行の最大唯一の目的は、邪馬台国を訪ねて、女王卑弥呼に詔書金印その他の下賜品をわたすことにあったはずだから、そのコースは出来るだけ安全でしかも便利な道だったろう。邪馬台国が現在の福岡市より東側に存在するとしたならば、この間の難路を「陸行」することは、ぜんぜん無意味というほかはない。 そこまで推理を進めれば、現在の糸島半島の北側を一路博多湾へ向かう直線コースもとうぜん考えられるのだ。現在の汽船航路を見ても、対馬の厳原と壱岐の郷の浦、そして郷の浦から博多港、このコースはほぼ同じ約八十キロの距離であり、所要時間も約二時間半と一致している。 だから、私は博多湾に当時の良港を探し求め、宗像神湊が彼等の上陸地点ではないかという大胆な推定を下したのだった。 もちろん、ここまで来るためには、玄界灘一帯の気象条件、潮流風向その他の自然地理的条件に対しても出来るだけの調査は行なっている。 そして、彼等が神湊へ上陸したとし、「倭人伝」に出て来る里程を七里=約一キロと考えたら、原文の方向や里程、日程の表示は一字も変えないで、道は必然的に宇佐市付近にたどりつくという推理が出来たのだった。 このあたりの詳しい説明は、たいへん長くなるから、いっさい省略するが、興味のあるお方は『邪馬台国推理行』を読んでいただきたい。 ただ、あえて一言するならば、神湊上陸とその後の「陸行」には必然性がある。この後も水行を続けて宇佐方面へ向かうとすれば、鐘の岬、響灘、関門海峡、周防灘――古代人にとってはたいへんな難所と思われるこの四つの水域を乗り切らなければならなくなるということをつけ加えておきたい。
ーーーー
「そうですね……最初の『文永の役』のほうは、冬の侵攻作戦でした。台風のシーズンを外れていますから、いまでも冬の玄界灘に年何回か発生するという局地的な大暴風雨ではなかったでしょうか。二度目の『弘安の役』のほうは、夏の侵攻作戦ですから、こちらは完全に大型台風だと見ていいでしょうね」
「そういう風に対するそなえまで考えると、博多湾方面に、良港は一つしか考えられないんだがなあ……たとえば、宮地嶽神社に近い津屋崎は、西風に対しては完全に無防備といっていいだろう。もっとも、卑弥呼時代の海岸線は、現在の地形とは相当にかわっているかも知れないけれど……。
宗像海岸、神湊――
僕には、風に対して強い古代の港は、博多湾では、ここしかないように思われるんだ」
「神湊……」
「そうだよ。こうして地図をにらんでも、草崎という岬のかげに曲がりこんでいるから、西風、西南の風には強いはずだ。勝島、大島、地島など、こういう付近の島々も、北風に対しては、かなりの障壁になってくれるんじゃないのかな?」
「………」
「それに、僕は毎日こうして九州の地図とにらめっこしているあいだに、ふしぎなことに気がついた。九州の海岸や島に『神』という名前がついているところが三つある。一つはこの宗像の神湊、それから唐津湾の神集島、周防灘に面した苅田町沖の神の島――まあ、細かな地図を調べたら、ほかにも見つかるかも知れないがね」
邪馬台国の秘密
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『邪馬台国の秘密』(やまたいこくのひみつ)は、高木彬光の推理小説。
概要
高木彬光作品の中のベストセラー小説のひとつである。1972年(昭和47年)、光文社版「高木彬光長編推理小説全集」の刊行の中の第15巻の『都会の狼』と共に収録される『新作B』として書かれた。全集版は1974年1月の刊行で、改訂版が1976年9月に東京文藝社から刊行の後、1979年4月刊行で角川文庫に収録されている。カッパ・ノベルス版が半年間で35万部販売された。ジョセフィン・テイの探偵がベッドで推理するというベッド・ディテクティヴ・スタイル(『時の娘』)を真似ており、同じタイプの作品には先行する『成吉思汗の秘密』、後に書かれた『古代天皇の秘密』などがある。
この作品は高く評価され、荒正人、大内茂男は“「歴史派」の推理小説として出色のものだと思う[1]”“推理小説の臨界を極めたもので「純粋推理文学」が実現された[2]”とそれぞれ評価している。
初版で方角の決定法において、初歩的なミスが見つかった。黄道修正説と作中でしめした、春分の日、秋分の日に太陽が真東から昇ってこないと神津恭介は誤解し、魏使の考察した東西南北は現在のそれとずれているとした。発売後、読者の指摘でミスが作者に連絡され、カッパ・ノベルス版が増刷する中で訂正がなされた。他の邪馬台国研究者から様々な指摘もあり、結果的に先行する説と類似したが、これについて高木は神津に「既に発表されている候補地に辿り着いても、その論拠や推理過程が重要」と語らせ、批判を一蹴している。邪馬台国の論考を執筆している松本清張との間でも、「論争」がおこなわれた[3]。それらの指摘に対する反論は『邪馬壹国の陰謀』[注 1](日本文華社、1978年4月)と題して公刊されている。高木自身、「黄道修正説」に代わる新たな方位の指針を決定し、大幅に『邪馬台国の秘密』を加筆改稿した。その結果、初版では全18章だったものが、改稿新版では全22章になっている[4]。
ストーリー
名探偵神津恭介は急性肝炎で東大病院に入院する。友人の松下研三が「邪馬台国をテーマにして長編推理を書きたいのでこれが何処にあったのか推理してほしい」と頼み込んだ。大和か九州かの選択から『魏志倭人伝』の話になる。古くから候補地が挙がっているが、万人の説得できる説は出てこない。魏志の記述どおりになぞってゆくと、邪馬台国は海の中になってしまう……。
脚注
注釈
- 題名は「邪馬台国」ではなく「邪馬壹(壱)国」となっている。これは、古田武彦が『邪馬壹国の論理』(朝日新聞社、1975年)において、『邪馬台国の秘密』は自著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年)からその説の一部を盗用している、と主張したことに対する反論が中心となっているためである。古田は、『魏志倭人伝』に登場する女王国は「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」が正しいと主張していた。
出典
- (『小説推理』1974年2月号の月評)
- (「推理小説界展望」「日本推理作家協会会報」1974年2月号、のちに『1974年版推理小説年鑑』に収録)
- 松本清張との「論争」は『小説推理』(双葉社)1974年7・10月号(松本清張の指摘)、9・11月号(高木の反論)参照。経緯に関しては、佐野洋『ミステリーとの半世紀』(2009年、小学館)277-281頁も参照。
- 『邪馬台国の秘密』あとがき 「解題―明快な論理で神津恭介が日本史の謎にせまる」 山前譲(推理小説研究家)
参考文献
関連項目