2025年9月28日日曜日

四川のチャン族 - 株式会社 風響社

四川のチャン族 

[シ文]川大地震をのりこえて〔1950-2009〕

中国少数民族の暮らしと文化を図説、初の写真大百科。衣食住から文化や産業を網羅。貴重な民族文化を残す、日中の協同作業。

著者李 紹明 編著
松岡 正子 編著
ジャンル人類学
書誌・資料・写真
出版年月日2010/03/24
ISBN9784894891432
判型・ページ数B5・416ページ
定価本体4,800円+税
在庫在庫あり
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目次

序文(李紹明) 
地図 

序 章 チャン族概説 
 カラー口絵

第1章 1950-60年代の羌族社会

 概説 
 1 村の環境 
 2 民居・[石周]楼 
 3 交通運輸 
 4 文物 
 5 服飾
 6 飲食 
 7 生業 
 8 学校教育
 9 文化生活・民俗 
 10 政治生活 
 11 威州の発展

第2章 暮らしの姿

 概説 
 1 村の景観 
 2 生業 
 3 民居と[石周]楼 
 4 飲食 
 5 服飾 
 6 家族

第3章 暮らしの心

 概説 
 1 信仰 
 2 年中行事 
 3 婚礼と生育
 4 葬礼

第4章 5・12[シ文]川大地震:復興と展望

 概説 
 1 [シ文]川県 
 2 理県 
 3 茂県 
 4 北川羌族自治県 
 5 平武県

終 章 チャン族の未来

付 録 

 羌族歴史年表
 羌族地区の考古概略
 人口グラフ 
 参考文献 
 収録写真一覧

写真コラム〈1930年代の羌族社会〉 
後記(松岡正子・袁暁文) 

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内容説明

中国少数民族の暮らしと文化を図説、初の写真大百科。2008年の大震災で崩壊した羌族の生活基盤。衣食住から石[石周]や信仰、教育や産業に至るまで網羅。貴重な民族文化を未来に残す、日中の研究者の協同作業。ダブルトーン印刷・カラー口絵付き。


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序 文
李 紹明


『四川のチャン族-5.12[シ文]川大地震をのりこえて(1950~2009)』は、写真と解説が豊富に盛り込まれた文化人類学の著作である。


周知のように、今日のチャン族は、多民族国家中国という大家族のなかの一員である。総人口は32万人で、主に四川省西北部の阿[土覇]蔵族羌族自治州の[シ文]川県、理県、茂県、綿陽市の北川羌族自治県に居住し、隣接する松潘県、平武県、黒水県にも少数が分布する。チャン族は、人口は少ないが、悠久の歴史と華やかな文化をもつ。古羌人の歴史は、夏、商、周の三王朝に遡り、4000年以上を経ており、古華夏人の重要な部分を構成した。現在のチャン族は、古羌人の後裔の一つであると同時に、チベット・ビルマ語群の民族諸集団と体質や文化的要素において密接な関連をもつ。そのため、チャン族研究は、国内外の学術界から熱く注目されている。


2008年5月12日に発生した[シ文]川大地震は、1950年代以来、最強の破壊性と最大の波及面積を有し、救災が最も困難な地震であった。地震による破壊は甚大で、四川省では21の市と州、140の県、市、区がそれぞれ被害を受けた。8万人を超える人々が亡くなり、1千万人以上が家屋をなくした。被災地では生態環境やインフラが甚大な被害を受けただけではなく、文化伝承においても重大な脅威にさらされた。特に深刻なのは、今回の地震の震央が[シ文]川県の映秀鎮であったために、チャン族が集居する[シ文]川、北川、理県、茂県、松潘、平武などの各県がみな大きな被害を受けたことである。死者は総人口32万人の10%にあたる約3万人に達した。これは悠久の歴史と輝かしい文化をもちながら人口は多くないという民族集団にとって、疑いもなく深刻な打撃であった。


5.12[シ文]川大地震に対して、中国人民と中国政府はすぐに大きな関心をよせた。中国の各民族、各界人士はすぐさま行動を起こし、組織的な救済活動に入った。同様に、救済活動は世界各国の人々や政府の大きな関心と支持を受けた。この1年間に、被災地における救済と復興、再建は段階をふんで進められており、目にみえる成果をあげている。中国政府は、3年で被災地の復興と再建の任務を完遂すると決定している。これは、3年後に被災地の基本的な生活条件や経済と文化の発展水準が被災前の水準に達する、あるいはそれを越えるということである。


チャン族は、今回の地震で大きな被害を受けた民族であり、国内外の各界人士は、チャン族に強い関心をよせている。なかでも民族とその文化を研究対象とする人類学界や民族学界の学者は、再興と再建に熱心に取り組んでいる。それはまさに彼ら自身の分野だからである。チャン族およびチャン族地区の今後の経済と文化の復興と再建に役にたつために、彼らはみな自分自身の仕事においてそれぞれの研究と課題を結びつけ、なすべき努力をしている。本書の編集と出版は、まさに中日両国の人類学、民族学界の学者が従事すべき仕事の一つである。


四川省民族研究所の研究者と日本の愛知大学の松岡正子教授は、ともに長年にわたってチャン族研究を行い、多くの著作を世に問うてきた。5.12[シ文]川大地震以後、両者は、人類学と民族学の視点から一書を編集することで、チャン族の地震前と地震後の姿を映し出し、現在のチャン族地区の復興と再建および今後の研究に役立たせなくてはならないと強く感じた。この共通認識のもとに、昨年の7月以来、双方が何度も協議を重ね、この書を編纂することに合意した。そして1年余りの努力を経て、本書は日本語と中国語、英語の3ヶ国語対照で編集され、世にだされることとなった。


本書は、序文と結語のほか4つの章からなる。民族誌の記述方法をとり、写真と文字を結合させるという形式によって、歴史的視点から、できる限りチャン族の一民族としての様々な側面とその変化を描きだし、現在と今後にわたるチャン族研究のためのひとつの参考になるよう試みた。特に、本書には貴重な歴史的写真が選ばれており、社会のより多くの人々にチャン族社会の変革と発展の生き生きとした軌跡を提示しようとしている。本書がこの目的を達成しているかどうかは、多くの読者のご批判を待ちたい。当然ながら、本書にはなお多くの不足があると思われるが、ご叱正いただければ幸いである。


後記


本書は、中華人民共和国成立後の60年間のチャン族を、約600枚の記録写真と日・中・英の3ヶ国語の解説によって記した民族誌である。


本書を企画した大きな理由は、2008年5月12日午後2時28分に発生した[シ文]川大地震にある。この地震で四川のチャン族地区では、多くの家屋が全半壊し、総人口のほぼ10%にあたる約3万人が亡くなった。特に、学校の倒壊などで多くの子供達が犠牲になったことは、中国社会に深刻な問題を提起した。


しかし同時に、被災地では、3年間で復興を完成させるという中国政府の強力な指導のもと、道路や橋、学校や病院、家屋などが次々に復旧再建され、人々の生活は着実に改善されている。また羌文化保護のために羌族文化生態保護試験区が設置され、民族文化の再建が観光による産業振興策の一環として進められている。例えば、北川羌族自治県では、壊滅した旧県城が地震遺跡として保存されることになり、新県城とを結ぶ沿線が「黒色旅遊」の観光ルートに創りかえられている。沿線の村々では、瓦屋根と煉瓦造りであった家屋が、岷江流域の伝統的なチャン族の家屋をモデルに、羌文化のシンボルである白石を飾った石造り風に建替えられて、羌寨風の外観に一新されている。


筆者は、民族の文化資源が破壊から再建にむかう過程で、新たな「伝統文化」が創出されていくのを目の当たりにして、復興の進展を実感するともに、ある種の違和感を覚えた。では、今回、外国人の研究者として何ができるのか、恩師である李紹明先生や四川民族研究所の袁暁文所長らと相談して出した答えが、記録写真によって民族の「記憶」を伝えるという、本書の刊行である。


記録写真は、記憶や事実を伝えるための有効な手段であり、撮影者の意図を超えて、読者に多くのことを語りかける。本書に収録された写真は、複数の研究者が異なる時に異なる場所で撮影したものである。そこには、撮影者が何を写し、何を写さなかったのかというそれぞれの視点が反映されている。


本書は、序文、序章と4つの章、終章のほか、冒頭のカラー写真と荘学本先生撮影の1930年代の写真、および付録から構成されている。このうち序文は李紹明、序章は耿静、終章は李錦が担当した。第1~4章の写真及び概説・解説は以下のようである。


第1章は、1950~60年代の記録写真である。中国科学院民族研究所の四川少数民族社会歴史調査組が、1956年から四川の民族地区において民族識別のための調査を行った時に撮影された。解説は、四川調査組の一員であった李紹明先生の口述を耿静がまとめた。当時の羌区は、茂[シ文]羌族自治県が成立し、人民公社が始まったばかりの変革期であった。全国規模の少数民族社会歴史調査は、16の調査組によって各省の民族地区で実施され、収集された膨大な資料は、後に『中国少数民族社会歴史調査資料叢刊』として刊行された。本章の写真は、その時の原資料であるが、一つの民族に関する当時の写真がこれほどまとまって出版されるのは初めてではないかと思う。極めて貴重である。


第2章は、1980年代以降の暮らしの記録である。写真は、1980~90年代のものは筆者が、2000年代以降は余耀明、李星星、耿静の撮影による。概説と解説は筆者による。筆者は、1988年から1年間、四川大学に留学して李紹明先生の指導を受け、その後20年余り多くの羌寨をまわって、現地の人々から多くの助けをいただいた。本書にたびたび登場する理県蒲渓と茂県赤不蘇は、伝統的なチャン族の暮らしが比較的残る地域とされており、筆者が定点調査を行ってきた村である。


第3章は、1980年代以降の非物質文化に関する記録である。写真は、1980~90年代は松岡、2000年代は余耀明、李星星、耿静による。概説は筆者が記し、解説は、筆者が信仰と年中行事の羌年・春節・■爾及び葬式を、耿静が年中行事の瓦爾俄足及び婚礼と生育を担当した。非物質文化は、1990年代前半の筆者の記憶では、羌文化のシンボルとされる白石は一部の地域あるいは一部の家屋にしかみられず、許比(チャン族のシャーマン)は高齢化が深刻であった。また文革時の中断の影響を受けて、春節以外の年中行事はあまり行われておらず、本章に収めた羌年(1993)や祭山会(1994)は数十年ぶりに再演されたものである。しかし近年、非物質文化の保護は大変重視されており、チャン族の瓦爾俄足や羌笛、羌年も国家級非物質文化に登録されている。


第4章は、震災後の記録である。写真は、2008.7は袁暁文、2008.9は松岡、2009.4、2009.11は耿静が撮影し、概説・解説は耿静が担当した。被災地が迅速に復旧され、新しい羌寨や[石周]楼が建設されて新たな地域づくりが進むなか、人々が比較的安定した日常生活に戻りつつある様子が窺われる。


本書の3ヶ国語の翻訳は、日本語は松岡、中国語は耿静が文責を負い、英語は姜源・馮梅およびケネス・ロビンソンが担当した。


本書の刊行にあたっては、日本の愛知大学より2009年度愛知大学研究助成の交付をいただいた。心より感謝申し上げる。また風響社の石井雅氏には企画、編集等に多大なご支援をいただいた。


2009年8月、李紹明先生が急逝された。李紹明先生は、中国民族学の第一世代の研究者であり、西南民族研究を代表する巨星であった。多くの後継者を育て、筆者にとっては、20年間、最も尊敬してきた師である。5.12[シ文]川地震発生後は、チャン族と羌文化の復興に奔走され、本書については構成、写真選び、解説などすべてに目を通していただいていたが、完成を見届けていただくことができなかった。弟子として慙愧に耐えない。心からご冥福をお祈り申し上げる。
本書を、被災されたチャン族と李紹明先生にささげます。


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執筆者紹介
李 紹明
1933年中国重慶市秀山県生まれ。土家族。四川省民族研究所研究員。専攻は文化人類学。著書に『李紹明民族学選』(1995、成都出版社)、『羌族史』(共編、1985、四川民族出版社)、『羌族歴史問題』(2002、阿[土覇]州志版)等。


松岡正子
1953年日本長崎県生まれ。愛知大学教授。専攻は文化人類学。著書に『青蔵高原東部の少数民族 チャン族と四川チベット族』(2000、ゆまに書房)、「羌年と国民文化」(2007、『現代中国における思想・社会・文化』日本評論社)、『中国少数民族事典』(共編、2001、東京堂出版)等。


袁 暁文
1966年中国四川省冕寧県生まれ。チベット族。四川省民族研究所所長。専攻は文化人類学。著書に『四川民族地区基礎教育の現状と対策研究』(共編、2003、四川民族出版社)、『蔵彝走廊東部辺縁の族群の動態と発展』(主編、2006、民族出版社)等。


李 錦
1965年中国四川省成都市生まれ。漢族。四川省岷増研究所研究員。専攻は文化人類学。著書に『羌笛新曲』(2000、雲南大学出版社)、『民族文化生態と経済の協調発展』(共編、2008、民族出版社)等。


耿 静
1969年中国四川省[シ文]川県生まれ。羌族。四川省民族研究所副研究員。専攻は羌族の歴史文化研究。著書に『羌郷情』(2006)。



荘学本(1909-1984)、写真家。上海市生まれ。かつて上海『良友』画報、『中華』画報、『申報』画刊等の特約写真記者。長期にわたって西南少数民族地区で撮影活動に従事し、チャン族の生活習俗や社会状況に関する写真資料も大量に撮影し、『羌戎考察記』(上海良友図書公社)を著した。中華人民共和国成立後は、国家民族事務委員会参事や民族出版社画刊編輯室、『民族画報』社編輯部副主任等の職務を歴任。

チャン族[羌族 Qiāng] | 中国まるごと百科事典

チャン族[羌族 Qiāng] | 中国まるごと百科事典

チャン族[羌族 Qiāng] | 中国まるごと百科事典

人口:19万8252人。チベット系。
居住地域:主に四川省阿藏族羌族自治州茂汶羌族自治県に居住している。汶川、理県、黑水、松潘及び甘孜藏族自治州の丹巴、錦陽市の北川等に分布している。
言語:漢・チベット語系チベット・ミャンマー語族羌語派に属する羌語を使用。南、北の2種類の方言がある。自民族の文字はない。
歴史:歴史的には、チベット高原東部に紀元前5000年から紀元前4000年以前から居たと言われており、文献上は古代の商王朝(紀元前1000年前後)時代の甲骨文字の資料に記載されている。
古代羌族はチベット系民族で西アジアの遊牧民族であったと言われており、やがて、中国西部に勢力を伸ばし、後に漢民族として漢水の上流にいる羌族を「南羌族」、現在の青海省にいる羌族を「西羌族(胡人)」と呼ぶようになる。
【伝説によると、およそ5000年前に炎帝と黄帝が戦って炎帝が負け、その大部分の領土・領民が黄帝によって支配され、華夏族(現在の漢族)の国である殷を形成した。黄帝の支配から逃れた一部が西と南に移住し、土着の民族と融合してチベット族や羌族を形成した。とされている。】
紀元前1046年に中国の周と協力し、殷王朝を滅ぼし、紀元前770年から紀元前476年頃の中国春秋時代には「斉」を名乗る。紀元前220年頃の中国漢時代には「西羌」と呼ばれ、中国魏晋南北朝時代に陝西省に入り自ら国を建てた(斉万年の軍)。
紀元前206年頃からは前漢に吸収され、紀元後291年から紀元後306年にかけての晋の内乱(八王の乱)時には、羌(後の後秦)、氐(テイ、後の前秦)、匈奴(キョウド、後の前趙、夏国)、鮮卑(センピ)、羯(ケツ、後の後趙)の五民族が参戦しこれらは五胡と呼ばれる(五胡十六国時代)。
チベット族や漢族と融合し、一部が中国西南部の岷江や大渡河、雅聾江などの大河に沿って南下した。現在これらの大河流域に居住する四川省西北部のチベット族諸集団や普米族などは、古代羌族の一分支である。
羌族は漢族とチベット族という二大民族のはざまにあって、一貫して中国王朝側につき、唐王朝時代には、唐軍の兵として吐蕃王国と戦った。
そして一部は吐蕃王国の支配下に入り、一部は寧夏方面に移って、1038年に西夏国を建設したが、これも1227年に元に滅ぼされた。

love-history: Kuki people from B.C 700-1919 A.D – thangbawitouthang

love-history: Kuki people from B.C 700-1919 A.D – thangbawitouthang

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The names of villages of the time were Noimang, Kholaichal, Khopalva, Khothip, Khomang, Khokanglai and Khokisupi.[4] The period Chongthu and his clansmen come out from 'Khul' is believed to be between 180-230 A.D. This can be rectified by the settlement of Lenthang (100-182 A.D) and  Lunkim in their so called upper earth, by the time Chongthu and party reached the site, after coming out from 'Khul'. It is pertinent to state that, the period between 180-230 A.D has been neither recorded nor the period of Chongthu's emergence from the bowel of the earth or 'Khul' has been indicated.


https://thangbawitouthang.wordpress.com/2010/12/16/kuki-people-from-b-c-700-1919-a-d/

Kuki people from B.C 700-1919 A.D – thangbawitouthang

Published on December 16, 2010

By Letkhosei Haokip
Origin: Kuki people are Tibeto-Burman Mongoloid-Jewish ethniccommunity,separated by the three international boundaries of India, Myanmar and Bangladesh. It is believed that the Kukis emerged out from a cave called "Khul"[1] somewhere in central China. The so stated cave is believed to be the present 'Great Wall of China' built by Qin Shi Huangdi during the 17th century.
About 20-25 years back (1987) my elderly paternal grand uncle told me that "His father who had taken from father and great grand-fathers down the generations' that, "Those ancestors emerging from the cave include Chongthu/Songthu ,Vangalpa ,Khupngam and some  clansmen, leaving behind Songja, Noimangpa and others of the group". [2]

According to William Shaw in his book, "The Thadou Kukis", (1929), (op cit),when Chongja's party, following on, found the stone blocking their passage out and after making many attempts gave up and returned to Noimangpa reporting the result'. Pi Nemneh, wife of Songja, cursed Chongthu and party for leaving them at doom in the 'Khul'. It is also told that Songja, Noimangpa and other clansmen of the Manmasi (Manashe[3]) people who were left behind are assimilated with the Chinese and Japanese people.

The names of villages of the time were Noimang, Kholaichal, Khopalva, Khothip, Khomang, Khokanglai and Khokisupi.[4] The period Chongthu and his clansmen come out from 'Khul' is believed to be between 180-230 A.D. This can be rectified by the settlement of Lenthang (100-182 A.D) and  Lunkim in their so called upper earth, by the time Chongthu and party reached the site, after coming out from 'Khul'. It is pertinent to state that, the period between 180-230 A.D has been neither recorded nor the period of Chongthu's emergence from the bowel of the earth or 'Khul' has been indicated.

Kuki-Jewish Origin: One acceptable theory propounded by Dr Milui Lenthang Khuplam, in his book, 'Manmasi Chate Thulhun Kidang Masa: The Wonderful Genealogical Tales of Manmasi'(2005), stated the Kukis to be one of the ten lost tribes of the Jews.[1] In this connection in 1999, Hillel Halkin, a well-known author and journalist, and for many years the Israel correspondent for the 'New York Times' presented Dr. Khuplam a scroll of confirmation that states the Kuki people as descendants of Manmasi (Manasseh), one of the twelve tribes of Israel.[3]

Published on December 16, 2010

By Letkhosei Haokip
Origin: Kuki people are Tibeto-Burman Mongoloid-Jewish ethniccommunity,separated by the three international boundaries of India, Myanmar and Bangladesh. It is believed that the Kukis emerged out from a cave called "Khul"[1] somewhere in central China. The so stated cave is believed to be the present 'Great Wall of China' built by Qin Shi Huangdi during the 17th century.
About 20-25 years back (1987) my elderly paternal grand uncle told me that "His father who had taken from father and great grand-fathers down the generations' that, "Those ancestors emerging from the cave include Chongthu/Songthu ,Vangalpa ,Khupngam and some  clansmen, leaving behind Songja, Noimangpa and others of the group". [2]

According to William Shaw in his book, "The Thadou Kukis", (1929), (op cit),when Chongja's party, following on, found the stone blocking their passage out and after making many attempts gave up and returned to Noimangpa reporting the result'. Pi Nemneh, wife of Songja, cursed Chongthu and party for leaving them at doom in the 'Khul'. It is also told that Songja, Noimangpa and other clansmen of the Manmasi (Manashe[3]) people who were left behind are assimilated with the Chinese and Japanese people.

The names of villages of the time were Noimang, Kholaichal, Khopalva, Khothip, Khomang, Khokanglai and Khokisupi.[4] The period Chongthu and his clansmen come out from 'Khul' is believed to be between 180-230 A.D. This can be rectified by the settlement of Lenthang (100-182 A.D) and  Lunkim in their so called upper earth, by the time Chongthu and party reached the site, after coming out from 'Khul'. It is pertinent to state that, the period between 180-230 A.D has been neither recorded nor the period of Chongthu's emergence from the bowel of the earth or 'Khul' has been indicated.

Kuki-Jewish Origin: One acceptable theory propounded by Dr Milui Lenthang Khuplam, in his book, 'Manmasi Chate Thulhun Kidang Masa: The Wonderful Genealogical Tales of Manmasi'(2005), stated the Kukis to be one of the ten lost tribes of the Jews.[1] In this connection in 1999, Hillel Halkin, a well-known author and journalist, and for many years the Israel correspondent for the 'New York Times' presented Dr. Khuplam a scroll of confirmation that states the Kuki people as descendants of Manmasi (Manasseh), one of the twelve tribes of Israel.[3]

In the year 2001, Lars Goran Svensson of Sweden and 'Sister Angel', his assistant, met with Dr Khuplam. They had come to Manipur for a third time to seek out the lost tribes of Israel in order to bring them back to the 'Promised Land'. [3] In the year 2006-07, 200 Kuki families were taken on batches to Israel.[5]
Course of Migration: According to history, the Kuki-Manmasi (Manashe) people with other tribes of Israel were exiled to Assyria in 722 BC. Babylon conquered Assyria in 607 BC. Syria was later conquered by Persia in 457 BC. Alexander the Great of Greece conquered Persia in 331 BC.[6] It was during this period that the Kuki-Manmasi people were deported from Persia to Afghanistan and other places. Throughout this entire period, their 'Savun Lekhajol' or 'Torah Scroll' was with them under the possession of 'Thempu' [priest(s)] and 'Lamkai Pipu' [elder(s)].
From Afghanistan their migration continued eastward till reaching Tibetan-Chinese border. Some of the tribesmen remained back at the Bay of Bengal. From there the adventurous groups continued to wander following the course of Wei River, and reached China. The Kuki-Manmasis settled there at about 231 BC.[6]
Historical Chronology of Kuki People from B.C 300 to 01 A.D. is briefly substantiated as under. There is no detailed and chronologically recorded document. Little information found from different books by different writers at different period states that the Kuki-Manmasi people lived in Yunnan province during 300-200 B.C period. Yunnan at that time was not a territory of China. Some of the known Manmasi chieftains are Naman (Namin), Nul/ Nur and Lhandoh/ Thlanrawk.[7]
1. B.C 300-200 Period: Some of the prominent Manmasi Kuki villages, bearing the present day indigenous names are Injang, Lunglen, Lungten/Lungtian, Mongga-lung/ Maungalung, Phaijang, Selkul/ Seipui, Thenjang and Thenchung etc. The names of their chiefs and chieftains of the period are Zosua/Joshua (Zosanga), Thokpu and Khangpa.[8]
2. Khangpa (B.C 220-200): Khangpa was their most powerful and influential chieftain. The period between 270-250 B.C, witnessed hostility among the various Chou, Misho, Mao and Hans dynasties. Feeling unsecured, the Manmasi Kuki people shifted their settlement from Yunan province to Central China. The Chinese called Manmasi Kuki people as 'Khang'.[9]
3. Benglam (Chhura) Era (B.C 201-131): During this period, there is nothing much to highlight about this people. The significant event worth mentioning is about their chieftain called Benglam. Benglam possessed a magical power to hypnotise people. He was in love with a Mishmi girl. The parents of the girl did not consent his proposal to marry their daughter. His two comrades 'Douvan-ngul' and 'Douvanthang' co-operated him to marry her. Even today, the stories and fables about this ruler is being narrated and tld to children. There was a rivalry between the Mons and Manmasi Kukis during this period.[7]
4. Songkho-on (Chawngkhum) Era (B.C 140-101): This era is the period of their settlement in Thakthing region and Irrawady river valley. The most powerful chieftain was Songkho-on.[10] During this period, some clansmen travel to Arakan region and some of them into Chinhills.
5. Mopung Era (B.C 100-50): Mopung became the most powerful chieftain after the death of Dangsa. The Shans continued to wage war against them even in their new settlement at Molpi. So they continued to travel further. Travelling to the most southern part and founded a new settlement in the Chindwin valley. They called this new location, 'Bolkho',[11] (meaning swampy village).

6. Dangsa Period (B.C 70): After the death of Songkho-on, Dangsa emerged as the strongest chief. 'Songsang' was their biggest village and centre of the period. The Shans attacked and captured Songsang. The Manmasi Kukis went southward to find a new location. They settled in a place called 'Molpi',[12] (meaning, huge hill).

7. Tamlop (B.C 60-10 A.D): Tamlop was their chieftain at Buolkho during 60-10 B.C. During this period, the Sijangs were famous for their blacksmithy.[13] During Tamlop's era, a certain chieftain was said to be very rich, who was stated to have meal in golden plate.[7]

Historical Chronology of Kuki People from 01-1919 A.D (Emergence of Kuki Kings and Kingdoms):
The era of chieftainship has come to an end and the emergence of small kingdoms started taking its root from A.D period onwards. Some of the available recorded kingdoms and kings of the Kuki-Manmasi people are briefly chronologised as under.

1. Mangthangson (A.D 1-20): Mangthang was from Molcham. He was the most prominent Kuki Manmasi king of the period. Other prominent chieftainships of the period in and around Molcham are Galpi, Molpi, Molcham, Mangsaphai, Sikibung, Sipibung, Chonjolbung, Chalon, Sangthei, Jangtunlui, Sijol, Bungjol, Lapuphai, Kungbulbung, Hansebung, Phabanthra, Moirangkhom and Khambikhal etc, (The Marings by R.K Das).

2. Chongphut (B.C 19-70): The next king to come in power was Chongphut. Nothing much is known about this chieftain. Chongphut's territory comprised of Chindwin valley and its contagious regions. His capital was located at 'Bolkho', [7] in the Chindwin valley.
3. Thimzin (Total Darkness),(25-40 A.D): The period of 'Thimzing' is believed to be between A.D. 25-40. This unusual total darkness befell humanity for consecutive 7 days and 7 nights. There was shortage of dry firewood and other daily essential items. The interesting thing said about the unusual event was that the ghosts (spirits) of the dead visit human beings. It was also said that whoever doze were dying. In order to keep their eyes widely opened (not doze), they used to insert a bamboo-chip between the eyes to keep the eyes widely opened.[2]
The clansmen gathered together at the house of the chieftain and sang together. The singers as well as the 'Khongsai/Khongbeng'(drummers), party were said to be very melodious. It is from that period that those drummer groups came to be known as 'Khongsai' (meaning drummers or drum beaters). The song they sang goes as, "Kachung'ah thimpi ajinge, Jaitha nem in lhavai inge; Akhu meiloijing abang e, Chungleng arvan a bom e, Daidona tha daikom e, Jangsel bang kahung soh e, Sel-hon kilip silsel e, leilong hon jai kasa e".[2]

Its free translation goes as, "Darkness befall upon me; Disgustingly I am discouraged, The darkness look like a heap of clouds, covered by a heap of dark clouds, The spirit of toleration diminishes, Like a Yak I exclaimed, A pack of shivering Yaks, we sang a group chorus". Some people have died of the unusual darkness. By this time Chongphut's wife bored him a son, whom he named as Sinson.[7]
4. Sinson/Sinsuon (60-110 A.D): Sinson was the eldest son of Chongphut. He had shifted from Bolkho to Sakhijang, alongwith his people. There were 11 villages with 952 houses. His sons are Lunkim, Lenthang, Thangngeo and Changsan.[7]
5. Lenthang (100-182 A.D): After the death of Sinson, the second son, Lenthang took up the responsibility of kingship. Lenthang, though younger, was the king of about 20 big villages. All other brothers too founded new villages and became chiefs. Lenthang's two sons are Songte and Telien. Telien's kingship was succeeded by his son Thangneu.[7]
6. Thangneu (230 A.D): Thangneu was the most prominent king of the period. His capital was at Sijang. He left Sijang accompanied by some of his subjects to Arakan to find more suitable area for settlement.[14] Some of the villagers remained back in the village.
7. Vumjang (254 A.D): Vumjang was the son of Thangneu (230 AD) and grandson of Telien, the second son of Lenthang (100-182 AD). During this period, it was said that an extra ordinary human with half human, half lion form, terrorized human beings. Vumjang had a son, whom he named as Sholun.[7]
8. Sholun (317 A.D): Sholun was another chief to come in power. He was the son of Vumjang (254 AD). Sholun's kingship covered about 13 large villages.[7] He was an excellent magician, as his father.
9. Thangvum (370-421 A.D): Thangvum is the great grandson of Sholun (317 AD). His empire covered 27 villages. The capital was at Sijangbul.[16]
A Tabulation Chart showing Khongsai-Kuki Dynasty (B.C 19-317 AD):
10. Kuki Kingdom of Taguong & Agaltala (A.D 80 & 200):
(i) Khupling (80 A.D) Taguong Kuki Kingdom (Chittagong)-: During 80 A.D Khupling was the king of Taguong kingdom. His ruled over 27 big villages. There were another 12[7] different kingdoms in Chittagong, during the period. At that time, this ethnic Kuki people were called as Pong or poi by other kingdoms.
(ii) Neitholla/Neithawthla (200 A.D) Agaltala Kuki Kingdom (Tripura): In the meantime, there emerged the kingship of Neitholla at Agaltala (Agartala). This king was said to be very rich, possessing large number of Mithuns and other household assets. His kingdom extended over an area of 7000 square miles.[7]
11. Hangsai Kuki Kingdom (401-480 A.D): Hangsai was an expert magician and the most notable Kuki King of the period. His capital was at Chinbok. He was a well known rich king of the time. His kingdom covered a large area of Chindwin valley up to some portion of present day China, in the north.[7]
12. Galngam Kingship (470-573 A.D): Galngam was more or less the comtemporary rival chieftain of Hangsai (401-480). Galngam on his bewitching magical mantra married Hangsai's daughter. He later assassinated Hangsai, his in-law-father through the same mantra. Galngam occupied the kingship of Hangsai. He further extended his kingdom up to 'Saihaphoh' of upper Chindwin.[7]
13. Jamdil/Lamdil (1000 A.D):Jamdil was the Kuki king during 1000 A.D. He is said to be very robust and strong. His kingdom comprised of 700 houses.[7] Except this, nothing much about this king is available.
14. Chongthu Dynasty:
(i) Lelse/Chongthu – Lendou Era (920-970 A.D): Lelse (Lersi) and brother was an orphan, staying at the house of their chief named Lawnkhara, a Lusei chieftain. Lelse was an obedient, sincere, polite and faithful person, since his boyhood. He was serving selflessly his ailing mistress, Cherchawngi wife of Lawnkhara. At the time of attaining maturity, luck favoured him that he became a chieftain of Chinbok.[7] Lelse became a famous chieftain.

At his celebration of success, 20 numbers of Mithun were slaughtered to feed his subjects. Large amount of food surplus became rotted (Athu, A-ui) that he got the new name, Chongthu, meaning 'Rotten/Rotted Celebrity'. Chongthu's territory covers an area of 40,000 square miles.[7] The literal meaning of 'Lelse' is distorted basket. Being an orphan, this name (Lelse) was given to mark his misfortune. This was a practice of Kuki Manmasis in olden days.
(ii) Chon-mang (1134-1205 A.D): Chongthu was succeeded by his son Prince Chonmang. King Chonmang's territory covered the present Chittagong hill tracts, Mizoram, Tripura and Cachar hills. His three Sub-Capitals are Khampat (Burma), Champhai (Mizoram) and Vanlaiphai (Tripura-Chittagong). The main capital Chinbok, of his father's regime remained unchanged. [9]
(iii) Pamang (1278-1340 A.D): Prince Pamang, the son of King Chonmang came to the throne by 1278, after his father. He improved the systems of governance of his kingdom in every respect. Every Kuki princely states and kingdoms of the time offered him annual obligatory taxes. He was said to be the greatest Kuki king of the time. A song in praise of Pamang's kingdom goes as, "Pamang's shopping complex rushes hither thither; Greatest is he of the kings of all".  [16]
(iv) Telenpa/phunsepa- Phuntiaha (1360-1480): Telenpa is the last ruler of Chongthu dynasty. This king is said to be very orderly in every respect and alert by keeping spies (CID) all over his kingdom. He could see the weaknesses and loopholes of his courtiers and their activities. As such he was known as "Phunsepa/ Phuntiaha", meaning 'Great Grumbler'. [17]
15. Guite/Nguite Dynasty (1017-1087 A.D):
Genealogically, Guite is the head clan of Haokip-Kipgen-Doungel-Guite lineage. The Guite-Kuki dynasty started from early 1010s A.D to 1870 A.D. [7] Some of the recorded prominent Guite Kingdom and Kings are Mangsum, Mangson and Goukhothang @ Raja Goukhothang.
* Mangsum- Simnoi/Chimhnuai (1017-1087 A.D):

* Mangson –  Simnoi/Chimhnuai (1780-1840 A.D):

*Raja Goukhothang –Simnoi/Chimhnuai (1830-1890 A.D):

*Raja Chengjapao Doungel – Aisan (1850-1919 A.D: Chengjapao is the Kuki Rajah [18] of Aisan territory. He was the overall leader of the Kuki Rising 1917-1919.

16. Second Era- Khongsai Dynasty (A.D 1350-1870):
Khongsais are the leading clans of Kuki people. Khongsai-Kukis are one of the earliest settlers in India. Khongsai Kingdom and dynasty dates back to early 19 B.C. (Chongphut B.C 19-70). The first Era of Khongsai-Kuki Kingdom and dynasty flourished during 19-70 B.C. The second era started from 1350 A.D and lasted by 1870 A.D.[7] The notable recorded dynasties of the Khongsai clansmen in the second era are as under.

* Lenthang-II: Vangai Lhang & Halflong (1350-1417 A.D):

* Mangtinthang- Litan (1500-1580 A.D):
* Mangtinkhup- Molkoi/ Muolkawi (1580-1621 A.D):
* Mangtinkai@Pakai– Molkoi/ Muolkawi (1810-1870 A.D):

# Enjakhup Khollhou (1870-1919): Enjakhup was a Khongsai-Kuki clansmen chieftain, who was the Deputy Chief-in-Command of Kuki Army during the Kuki Rising 1917-1919.[18]

17. Thadou-Kuki Kingdom and Territories:
* Thadou- Khochung (1200 A.D); Thadou was the son of Sehtha. He was the king of Khochung territory around 1200 A.D. His sons later on became Singson kings, Sitlhou Kings and Haokip kings.

# Vomjamang- Kholen (1489-1530 A.D): Vomjamang was a Singson clansmen chief of Kholen and Henglhang. During this period, there was a misunderstanding between Singson chiefs and Sitlhou Chiefs that he and his people had shifted to Lamka, Sadar Hills and Nagaland between 152-1528.[7]
#  Demlukim- Lungthul (1500 A.D): Demlukim was another Singson clansmen  chieftain of Lungthul, after Vomjamang. It is recorded that at this time, the Haokip clansmen had settled at 'Elmun', where some of the Singson clansmen took refuge in the continuing Singson-Sitlhou misunderstanding.
* Mangkhai-Champhai (1730-1750); Mangkhai was the king of Champhai kingdom. His territory comprised of 877 houses. The subjects of Mangkhai were composed of Ralte and Thadou clansmen tribes. Out of 877 houses, 300 belonged to the Ralte tribe. The remaining to Thadou.[7]
# Khotinmang-Jampi (1750-1820): Khotinmang is a Sitlhou clansmen chief of Jampi. He was one of the courageous and richest Kuki chiefs of the period.[4]
Khotinkai- (1820-1880): Khotinkai became a chief during 1750-1880 A.D. This chief is stated to have many daughters and no male issue. This according to Shaw, might be a curse for revolting the Sitlhous. Realising the sin, he went to the Sitlhou chief Khotinmang, getting blessing and got a son.[4]
# Thangkhohen-Sangnao (1880-1919): Thangkhohen, Sangnao Chief was the one who sent 1000 Kukis to help Raja Ngameingam/ Chandra Kirti in the latter's war against the Sukte Chief, Kamhau.[4]
#  Khotinthang-Jampi (1880-1919): Khotinthang@ Kilkhong was the chief of Jampi. He was one of the leaders of Kuki Rising 1917-1919.[18]
18. Haokip Dynasty (1750-1897 A.D):
The emergence of Haokip clansmen's dynasty starts from early 17th to the late 19th centuries.[7] Some recorded  Haokip clansmen kingship and Kingdom are as under.
* Sutmang-Phaileng (1750-1847 A.D): The Kingdom of Sutmang had its capital at Phaileng. The Phaileng king and Sailo king Lalsavunga (1740-1820 AD), who died in 1820, were closed friends.
* Tongkho @ Pache-Chahsat (1830-1897): Tongkho @ Pache was the King of Chahsat Haokip-Kuki kingdom. Chahsat, the capital had 700 houses. Tongkho @ Pache was the deputed king. His territory extended from the present day Ukhrul district up to upper Chindwin and Homlin region in the present day Myanmar (Burma).
Some of the recorded prominent villages of the kingdom are Chahsat, Chatrik, Matejang and Molnoi, Phai-len, Khongkang, Pumjang , Phungtha and Saihaphoh of Burma. Chahsat Kingdom comprised of 40 villages. [7]
# Nehlam-Chahsat(1840-1862 A.D):  Nehlam was a Haokip clansmen chieftain, within the territory of Chahsat kingdom. He was murdered by the Raja of Manipur in 1862, while going to pay his respects to the Raja and the Political Agent respectively.[4]
# Tintong Haokip- Laijang (1880-1919): Tintong  chief of Laijang, Tamenglong was the Chief-in-Command of the Kuki Army  during Kuki Rising 1917-1919.[18]Conclusion: The period, Chongthu and party come out from 'Khul' is believed to be between 420-425 A.D. This can be rectified by the settlement of Lenthang (100-182 A.D) and  Lunkim in their so called upper earth, when they emerged out from 'Khul' and found the two clansmen.[4]

It is imperative to state that the 'Khongsai Kukis" have already left Khul after 'Thimzin' (25-40 A.D) and set up their kingdoms there.The ten Khongsai-Kuki dynasties, as had already mentioned above, have flourished from Chongphut@Chongpu (the first king (B.C 19-70) to the last king, Mangtinkai (1810-1870 A.D).

The writer is a reseach scholar at Manipur University, India.

「パンダはチベットの動物」チベット亡命政府首相「『パンダ外交』でなくチベット外交だ」 - 産経ニュース

「パンダはチベットの動物」チベット亡命政府首相「『パンダ外交』でなくチベット外交だ」 - 産経ニュース

「パンダはチベットの動物」チベット亡命政府首相「『パンダ外交』でなくチベット外交だ」

来日したチベット亡命政府のペンパ・ツェリン首相=3日午前、国会内(奥原慎平撮影)
来日したチベット亡命政府のペンパ・ツェリン首相=3日午前、国会内(奥原慎平撮影)

チベット亡命政府のペンパ・ツェリン首相は4日、国会内で記者会見し、中国政府が希少動物のパンダを他国に貸与することで友好関係を演出する手法に疑問を呈した。「『パンダ外交』と呼ばれるものは『チベット外交』という呼び方ではないか。パンダはチベットの東の地域の動物だからだ」と指摘した。

その上で「かつてほどパンダ外交の重要性はないのではないか。早い時期には一定の影響はあった。ただ、米国にも贈っているが、米中関係は改善されていない」と語った。ツェリン氏はチベット問題を話し合う国際会議に合わせて来日した。

パンダが生息する四川省の西部はかつてチベットの領域だった。1911年の辛亥革命以降、中華民国は独立国だったチベットを侵略、多くの中国人が入植してパンダが乱獲された経緯がある。

チベット蹂躙を既成事実化

一方、中国は72年にニクソン米大統領が訪中した際、パンダ贈呈で米国内の対中観を和らげるなど愛らしさで人気の高いパンダを外交に活用してきた。日本では今年4月、和歌山県で飼育される4頭のパンダの中国返還が決まって以降、自民党の森山裕幹事長や政界を引退した河野洋平元衆院議長らが訪中の際、中国共産党幹部にパンダ貸与を訴える。

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のアリヤ代表は産経新聞の取材に、「日本が中国と良い関係を持つことは良いことだ。良好で友好的な関係があってこそ、平和と発展がある」と述べた上で、「パンダがチベット出身であるという事実を忘れてはならない。(パンダを貸与する際)中国はチベットの名前を出さない。チベットの土地をすべて中国のものにしようとする政策の一端がパンダ外交だ。チベット人蹂躙(じゅうりん)を既成事実化している」と語った。(奥原慎平)

和歌山県白浜町長は「パンダの契約延長」懇願せず

【新聞に喝!】パンダブームで隠される「チベット侵略」 元東京大学史料編纂所教授・酒井信彦 - 産経ニュース

【新聞に喝!】パンダブームで隠される「チベット侵略」 元東京大学史料編纂所教授・酒井信彦 - 産経ニュース

パンダブームで隠される「チベット侵略」 元東京大学史料編纂所教授・酒井信彦

今年は中華人民共和国との国交成立から50年の節目だが、中国から贈られたパンダ2頭の上野動物園(東京都台東区)来園50年ともなり、新聞各紙には関連記事が見られた。礼賛一方の記事がほとんどだが、珍しく中国の「パンダ外交」を危惧する意見もあった。

10月12日付朝日新聞「耕論」欄の「日中とパンダの半世紀」で、歴史学者の家永真幸氏は、「世界的に見ても、日本ほどパンダが好きな国はないと思いますが、中国はそんな日本人のパンダ好きを巧妙に使ってきたともいえる」「パンダを誘致したいがために、日本人が中国政府の嫌う話題を避けるようになってしまうと、たとえば人権問題など、真剣に議論すべき問題の解決は遠のいてしまうでしょう」と指摘している。

家永氏は人権問題に言及しているが、しかしそこにパンダに関する、はるかに深刻で、根本的に重要な事実の説明は見られない。それはパンダが、中国によるチベット侵略の象徴であるという厳然たる事実である。

パンダは主に四川省の西部に生息している。同省の西半分は平均海抜約4千メートルのチベット高原の一部であり、ミニヤコンカという標高7556メートルの高山があることでも知られ、その名前はチベット語である。チベット高原は、チベット自治区、青海省の全域、甘粛省と雲南省の一部も含む一大高原地帯で、これが本来のチベットの領域であった。現在のチベット自治区だけが、チベットではない。パンダはこのチベット高原の、東の端あたりに生息している。中国のパンダ研究の中心は、臥竜というところで、四川省アバ・チベット族チャン族自治州にある。

チベットは歴史の古い国で、7世紀にはすでに存在していて、唐の時代に隆盛となり、唐の首都・長安に攻め込んだこともある。以後も独立国として存在し、モンゴル人の元の時と、満州人の清の時に、その帝国に含まれたが、宗教や習慣についてほとんど干渉されず、ゆるやかな支配を受けたに過ぎない。

元と清の間の明の時代には、完全に独立していたことは、世界史の地図帳や高校の世界史教科書を見ればすぐに分かる。要するに中華人民共和国の成立以前にチベット高原が漢民族の本格的な支配を受けたことは一度もないのである。

日本人は、愛らしいパンダに目を引かれ、チベット侵略の真実に、目を閉ざされているのである。

酒井信彦

さかい・のぶひこ 昭和18年、川崎市生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東京大学史料編纂(へんさん)所で、『大日本史料』の編纂に従事。

我が父 手島郁郎

https://d1wqtxts1xzle7.cloudfront.net/50817322/手島郁郎の生涯講演録のみ-libre.pdf?1481382910=&response-content-disposition=attachment%3B+filename%3D50817322.pdf&Expires=1759119004&Signature=eeUxtlq79rlebrTEZQdJ7k4bmuousX33ISBmQw9CxLZsHruU9nlHngxMUMCcsGg5ynfTce~479W2u8FXpktZfUVFsZ7IvMxQamiI1QU~13ac3wA2mQGEzlaH-JUH6SmSIlMcmUBKJp8YbTzF9xZETiHTGxRkl7GC10sSO6SEFFjV~WxgrMtUcTvUs5bOpvLg3Tx7OXra5IHumTZv2GctYauscqpBY5~zOiSfCSTDCHH3DvdTmroO8jXIR534XEjAfk7hN8v~ZYZqxOHlMWnOnc8atwlL3ylxXno2OPback9ROZoUjSz0f9CDFOPcV-nRXiwinO0dc~UV-nj91mqmDg__&Key-Pair-Id=APKAJLOHF5GGSLRBV4ZA

【弟イスキリの耳と聖母マリアの頭髪も!】世界の常識が覆される!? 伝説の地を役場の方に案内してもらいました

2025年9月27日土曜日

chin identity

https://www.burmalibrary.org/docs08/In_Search_of_Chin_Identity.pdf

チンクキミゾ族の簡単な歴史:彼らの起源、政治、宗教、アイデンティティの発展。 – 丘は生きている

チンクキミゾ族の簡単な歴史:彼らの起源、政治、宗教、アイデンティティの発展。 – 丘は生きている

チン・クキ・ミゾ族の簡単な歴史:彼らの起源、政治、宗教、アイデンティティの発展。

パートI

国境を越えた団結:ミゾラムのミャンマーからのチン難民。

によって – David V.L.ムアンプイア・フラウンド、B。Sc。(優等)物理学、II年、サマニール・イムチェン、B.A.(Hons)歴史、II年目、聖デリー大学スティーブンスカレッジ

チンクキミゾ族の初期の歴史

チン・クキ・ミゾ族は、インド、ミャンマー、バングラデシュのチッタゴン丘陵地帯の民族グループです。Chin-Kuki-Mizoという用語自体は、すべての人々に受け入れられる名前を見つけることが闘争をやめていないため、使用され続けている植民地時代の慣習から生じる学術的な説明です。仏教の哲学者ダルマキルティが観察したように、名前は棒のようなものです。棒は自分で人を殴ることはありません。それはそれを振るう人に従います。名前は参照元には適用されません。ユーザーの希望に従うだけです。それらはラベルであり、変化します。名前を調べて人を調べるのは見当違いに思えるかもしれませんが、自分自身、隣人、住居に対する人々の認識を理解するのに役立ちます。

「クキ」という用語は、18世紀にイギリスの記録に初めて見つかった起源不明の外名です。それはもともと人々自身による自己指定ではありませんでした。同様に、「チン」は外名であり、元々はミャンマーの西部フロンティアのすべての丘陵部族に使用されたビルマ語でした。これは、これらの人々が上記の名前の起源の前にどのような名前と同一視したかという疑問を投げかけます。イギリス人によるいくつかの歴史的記録からわかったのは、多くの場合、人々は単に彼らの氏族、サブ部族、または彼らが話す言語によって自分自身を識別したということです。人々は一つの名前で団結するのではなく、より小さな細分化によって識別されることを選びました。これは、イギリスが支配する前の古代には、各村が独立した単位として機能したという事実に起因する可能性があります。村間の襲撃は一般的であり、すべてのチンクキミゾ族を団結させる包括的な政治構造はありませんでした。

現代国家が誕生する100年以上前に、すでに「ゾラム」/「ゾガム」の概念のために喜んで死ぬ人々がいました-ゾスの国

これは、これらの人々が共通の起源と言語的つながりを知らなかったという意味ではありません。しかし、この共通のアイデンティティは、他のより関連性の高い資質、つまり、人の村、氏族、部族、または言語よりも優先順位が低くなった。詩と古い記録を通して、これらの人々は自分自身を「ゾ」の何らかの形と呼んでいたことがわかります。これが「三蔵」という言葉とその対応物「蔵美」の由来です。ここで「Zo」は丘を意味し、「Mi」は人々を意味し、「丘の人々」を意味します。「ミゾ」がミゾラム州出身の人であるというのは誤解です。近代国家が誕生する100年以上前に、「ゾラム」/「ゾガム」の概念のために死ぬことをいとわない人々がすでにいました。今日、多くの人々は、「Kuki」、「Mizo」、「Chin」、「Zomi」、「Zo」、「Zou」などの名前、または「Hmar」、「Mara」、「Hrangkhol」などの単数形の部族名で自分自身を識別します。植民地時代の慣行を通じて、これらの人々は3つの国に分かれ、異なる州と異なるアイデンティティが、人々が引き寄せられた政治的境界に沿って出現しました。これが、この記事で分析するように、丘全体で新たに発見された統一感が成長しているにもかかわらず、一般的な名前を見つけることがそのような問題である理由です。

クキチン族は、北東部の他の先住民族の部族政治と同様に、マニプール、バラク渓谷、チンヒルズ、ルシャイヒルズ、ナガヒルズ、チッタゴンヒルトラクトなどの丘陵地帯の部族長の下で村にその基盤を持っていました。定住農業を実践するために落ち着く前は、彼らは10年ほどで自然の変化の遊牧民でした。村が一定の人口になると、しばしば独立した村に分割されます。ほとんどの場合、ほとんどの村は独立して機能しました。戦争や襲撃が盛んになり、ヘッドハンティングが行われました。全人口が単一の行政単位の下には決してなかったので、単一の部族、氏族、村、または言語に関連するアイデンティティに優先する共通のアイデンティティの必要性はありませんでした。

チンクキミゾの居住地域。出典:Ro、S。R。(2007)

言語的には、チン・クキ・ミゾ語の人々は、チベット・ビルマ語族の共通起源の約50の言語のグループであるチン・クキ・ミゾ語を話します。人々の起源は、中国南部とビルマ北部のどこかから来たようです。彼らはチンドウィン渓谷からビルマに入り、1300-1400年までにチンヒルズに到着したと考えられています。これらの人々の中で最も早いのは、西暦1600年までにトリプラのジャンピウの丘に到達し、西暦1500年頃にはマニプールに到達しました。

1890年代に行われたインドの言語調査では、チン・クキ・ミゾ族が住む領土は、北のジャインティアとナガの丘からビルマのサドウェイ地区まで、東のミティア川から西のほぼベンガル湾まで広がっていることがわかりました。その地域はほぼ完全に山々で満たされている。

植民地時代から1986年の三蔵平和協定までの歴史

イギリスがチッタゴンとビルマ周辺の地域を占領し始めたのは、ゾ族とイギリス人の最初の出会いが起こったのは19世紀半ば頃でした。後者は当初、前者をあまり気にせず、彼らを無能な野蛮人と見なしていました。彼らの長く激動の関係が始まったのは、1826年にイギリスが統治したアッサムで記録された最初のルシャイ襲撃でした。この後、襲撃と暴行攻撃は毎年発生し、最も深刻なのは1871年でした。報復として、イギリスは1871-72年にルシャイ遠征を組織し、ルシャイヒルズの村を一つずつ鎮圧しました。

1895年、ルシャイ丘陵は宣言によってイギリス領インドの一部として正式に宣言されました。北の丘と南の丘は、1898年にルシャイ・ヒルズ地区に統合され、アイザウルを本部としました。イギリスは不干渉の政策に従い、村の内部秩序と管理の多くは首長に委ねられた。1919年にインド政府法の下でルシャイヒルズと他のいくつかの丘陵地帯が「後方地区」に指定されたとき、部族グループが支配するアッサム地域における英国政権を統合するプロセスが始まりました。

植民地支配中のこれらの部族に関する重要な出来事は、1917-1919年のクキ蜂起(Zou-Gal)でした。これは、外部の勢力が先祖代々の土地に侵入し、彼らの問題と混ざろうとしていると感じたとき、拡大する英国の権力に対するThadouとZouの部族によって主導されました。この失敗した蜂起の後、彼らの領土はイギリスに征服され、イギリス領インドとイギリスビルマの行政に分割されました。

クキチン族がイギリス政権下に置かれた後、S.Thangboi Zouは、最高の酋長によって特徴付けられる氏族ベースの村のアイデンティティは、明確な部族に「結晶化」され、言語と文化の親和性に基づいて汎民族のアイデンティティにさらに成長したと書いています。1946年と1947年にそれぞれ結成されたクキ国民議会(KNA)とクルミ連合(KU)は、すべてのクキチン家族の代表者を代表する初期の2つの頂点機関でした。前者は、Thadouの指導者とKNA内の他の同族との意見の相違の後に作成されました。しかし、KUは明確で明確に定義された目的がないため長くは続かなかったし、それが失敗したとき、部族は独自の体を形成し始め、独自のアイデンティティの認識を求めました。例えば、パイテスは1949年にパイテ国民評議会(PNC)を結成し、マニプール、アッサム、ミゾラムなどのすべてのフマルを「統合」するために1962年にHmar国民連合(HNU)が設立されました。

西洋教育の出現により、1935年にヤング・ルシャイ協会(YLA)を結成し、後にヤングミゾ協会(YMA)と名付けられた教育を受けたエリートが出現し、ルシャイ語を話すチンクキ族をすべて含む行為が行われました。

この記事の焦点の代わりに、ミゾラム州の形成につながった出来事の簡単な歴史を説明します。ルシャイヒルズのゾ族の間で政治的覚醒の感覚が醸し出され始めたのは、植民地政権の間でした。西洋教育の出現により、1935年にヤング・ルシャイ協会(YLA)を結成し、後にヤングミゾ協会(YMA)と名付けられた教育を受けたエリートが出現し、ルシャイ語を話すチンクキ族をすべて含む行為が行われました。しかし、彼らは第二次世界大戦が終わるまで政治に関与しませんでした。第二次世界大戦後、思想が彼らに影響を与えた部外者との接触が増加したため、新しい政治意識がありました。民主主義への欲求は大きかったし、YLAの指導者たちは国民によって選出された政治団体の必要性を悟った。そのため、1946年に三蔵人民連合と呼ばれる最初の政党が結成され、後に三蔵連合と改名されました。1954年、アッサム政府はミゾラムの長年の酋長制を廃止する法律を可決した。その代わりに、大人のフランチャイズに基づいた村議会が設立されました。しかし、1959-60年にミゾラムが飢饉に見舞われたとき、ミゾラムの人々の間で一般的なコンセンサスは、アッサム政府は問題を解決するために深刻な措置を講じていないというものでした。

アッサム政府は以前、50〜60年ごとに発生する飢饉(ミゾのマウタムとして知られている)について知らされていましたが、彼らの懸念は迷信以外の何物でもないと見なされていました。ミゾの人々は、地区議会とアッサム州政府による継母的な扱いに満足していなかったため、政党はミゾの国家制を要求しました。1955年に設立された三蔵文化協会は、飢饉と戦うために1960年3月に「マウタム」戦線と改名されました。その後、三蔵国民飢饉戦線(MNFF)と改名され、多くの三蔵の若者が内陸部の村への米やその他の必需品の輸送を支援したことで人気を博した。飢饉から回復した後、MNFFは1961年1022日にミゾ民族戦線(MNF)と呼ばれる新しい政治組織に変更されました。1966年、ミゾ民族戦線(MNF)は、その後20年間続いた独立したミゾラムの要求を開始しました。その後、ミズー地区議会は1972年に連邦準州の地位に昇格し、1972年に初のミズーラム議会選挙が行われた。

地下のMNFとインド政府の間の平和的解決の可能性に関する協議は、中央政府がLaldenga氏(MNFの創設者)に、連合内務大臣のSL Khurana氏とそのような協議を開始するよう要請したときに始まりました。1ヶ月の議論の後、1976年3月24日にある程度の理解が得られました。しかし、この暫定合意は中央政府の交代の結果として長くは続かなかった。ジャナタ政府は1977年3月に権力を握ったが、MNFとの和平交渉は再開されなかった。その結果、暴力的な活動と反暴力活動がミゾラムで再び現れた。しかし、センターは1980年1月にインディラ・ガンジー夫人が権力を握った直後に和平交渉を再開した。1986年6月21日、ミゾラム和平協定の草案が確定し、1986年6月25日にラルデンガ氏とアルン・シン氏の間で政治的和解が締結されました。協定に規定されているように、ミゾラム州は1987年2月20日に発足した。最初のミゾラム州議会選挙は1987年に行われた。

しかし、20年近く一緒に戦った後、チンクキミゾ族が住むほとんどの地域は1986年のミゾ協定によって除外され、かつてのルシャイヒルズの領土だけが州に昇格しました。

1960年代に戻ると、ミゾ族とその同族のクキチン族指導者たちは、インド当局に対する共同闘争が重要だと感じました。そのため、1965年1月にマニプールのカウンプイ村でミゾ人民大会(MPC)が開催されました。すべての部族の指導者は、「水蔵連合」の旗の下に団結することに合意した。会議では、彼らは一つの子孫であり、わずかな方言の違いにもかかわらず、共通の民族的起源を持っていることを再確認しました。その後、ミゾ国民戦線(MNF)はマニプールの同族部族によって支援されました。マニプールのクキチン居住地域は、MNFのグレーターミゾラムの目標に組み込まれました。同様に、チンヒルズ、チッタゴンヒルトラクトなどのすべての部族からのボランティアがこの目標のために集まりました。しかし、20年近く苦戦した後、チン・クキ・ミゾ族が住むほとんどの地域は1986年のミゾ協定によって除外され、かつてのルシャイヒルズの領土だけが州に昇格しました。これは、チン・クキ・ミゾの領土統合という複合的な願望の希望を打ち砕いた。ミゾラムで始まった領土の祖国をめぐる闘争であるフマール族でさえ、「大ミゾラム」の要求に応えられなかった1986年のミゾ平和協定に失望しました。

その結果、80年代後の数十年は、チン・クキ・ミゾ族の兄弟部族間の民族紛争に満ちていた。この地域では、各部族がそれぞれの目標を争うにつれて、部族主義が著しく増加しました。その例は、1997-1998年のサドゥとパイテの衝突で、353人の命が奪われ、4670軒以上の家屋が破壊されました。フマール人民条約は、自治的な行政区画を確保するために、ミゾラム政府に対して武器を取り上げた。かつて「大ゾラム」のために戦った同じ部族は、互いに戦っていることに気付きました。驚くべきことに、これらの紛争は、深刻ではあるが、最終的に平和に道を譲った。Thadou-Paite紛争は1998年に平和を見つけ、最後のHmar武装ボランティアは2018年に武器を降ろしました。平和は、ほとんどの場合、丘の中で成長している傾向であり、それに伴い、団結と和解です。この統一傾向につながる要因は複雑で多面的な実体ですが、その中で役割を果たした可能性のある2つの要因だけを分析します。

団結の源:教会と社会経済的要因

まず、ほとんどすべてのゾ族はキリスト教徒であり、教会は常にゾ族コミュニティの中で非常に強い位置を占めてきました。インド、ミャンマー、バングラデシュのゾ族は、それぞれヒンドゥー教、仏教、イスラム教の少数民族です。ミゾラム州の誕生とミゾ平和協定の成功でさえ、教会が果たした積極的な役割によるものです。ミゾラム州最大のNGOであるヤングミゾ協会は、団結の強力な支持者であり、上記の理由から教会と緊密に協力してきました。

ミャンマーのチン州は、人口がほぼすべてチン人と他のゾ族グループで構成されている州であるミャンマーのチン州を襲うたびに、YMAは教会とともに、人々の善意に頼って、寄付を通じて集められたお金、食料、衣服の形で援助を迅速に送っています。このため、チャリティーコンサートも一般的に開催されます。このような寄付は、ミャンマーのような戦争で荒廃した国の人々にとって大きな意味があります。

2008年以降、ミャンマーがより民主的な憲法を採択したとき、停戦が宣言され、ようやく丘の平和がゆっくりと戻ってきました。これは、分離した兄弟の間で、両国間の旅行が再び可能になったことを意味しました。前述したように、移住の歴史により、Zoコミュニティの多くの有名な祖先の遺跡がチンヒルズにあり、これまで以上に国境を越えて移動する多くの人々につながっています。

ミゾラムの人々のこの善意は報いがないわけではありません。ミゾラムの場合、州とアッサムとインドの他の地域を結ぶ国道306号線は、アッサムの住民によって封鎖されていることがよくあります。この封鎖により、必須の必需品や物資がミゾラムに侵入するのを防ぎ、州を孤立させたままにします。そのような場合、チン州の住民は本質的なニーズの源であり、それなしでは生存が極めて困難である。

長年にわたり、ゾ族は離れていても絆を再強化し、お互いのためにそこにいようとしました。この絆の強さは、2021年のミャンマーのクーデターが起こり、何万人もの人々が命からがら逃げたときに試されました。ミゾ族は兄弟を失望させなかったと言っても過言ではありません。

現在のシナリオ:ミゾラムのチン難民

2021年10月29日、ミャンマーのチン州で、軍事政権軍からの砲撃によって多くの建物が破壊されたタントランの火災から煙が上がっています。
ストリンガー—AFP/ゲッティイメージズ

ミゾラムの近所とその周辺で起こっていることは、州に紛れもない影響を与えています。ミゾラムに移住した最初のチン難民の出発点は、ミャンマーの政治情勢に起因しています。これは2021年3月、軍が民主的に主導するアウンサンスーチー政権を掌握し、民間人の抗議を引き起こした。軍隊は抗議者に対して武力を行使し、そのうちの何人かは武装し、歴史上軍事政権と戦った武装民族運動に参加した。軍と武装反対派の衝突が優勢だった重要な地域は、多くの罪のない命が十字砲火に巻き込まれたチン州です。当然のことながら、これがチン州(チン人)の人々がミゾラムに移住するきっかけとなった。

最近、ミャンマーからのチン難民の移住が増加しているため、ミゾラム州は、地域社会や組織、NGO、教会、州政府などが彼らに避難所や必需品を提供するための努力の波を見て経験しています。難民の多くは親族と一緒に滞在し、水蔵学生協会や青年水蔵協会などのNGOの同盟により、食料、配給、毛布、衣類、蚊帳などが供給されています。これは数年前から行われており、州の資源に大力をもたらしています。

なぜミゾラム州はこれらの「部外者」のためにこれほど多くの努力をしているのでしょうか?

では、なぜミゾラム州はこれらの「部外者」のために多くの努力を払っているのでしょうか?簡単に言えば、州はチン族を彼らの民族の親族と見なし、したがって彼らを兄弟と見なしている。センターは理解力がなく、一見無関係に見える民族のつながりから発せられる同情を欠いています。現在の首相であるゾラムタンガは首相に訴え、チン族はミゾ族の兄弟であり、彼らの窮状に目をつぶることはできないと説明しようとしています。ミゾラム州政府は、キャンプに土地、飲料水、トイレ、電気を提供しています。また、さまざまな救援団体や教会やYMAなどの地元のNGOが提供する食料、衣類、毛布、その他の物資の配布のファシリテーターとしても機能します。幸いなことに、人道支援は地元だけでなく、さまざまな国のNGOからも流れています。

ミゾ族が難民に注いだ治療を垣間見ると、「血は水よりも濃い」という信念が真実であることが示されます。チン難民は、部外者や難民ではなく、彼ら自身の人々として、すでにシングサイ村の一部と見なされています。子供たちは入学の過程で何の差別もなく学校に通い、すべての学校が彼らに教育を提供しています。仕事に関しても、ミャンマー人は固定の日給をもらっており、家主は差別なく家を難民に貸しています。チン難民について、P.C Lalremkunga(Thingsai村議会会長)は、「彼らは私たちの兄弟であり、私たちは同じZo族に属し、私たちの祖先は一緒に住んでいました。私たちは兄弟のために国境を閉めることは決してありません。」偶然にも「ラルトラン救済」と呼ばれるものに大量の寄付が注がれています。Raltlanは「生命への恐怖のために紛争地域から逃げる人」を意味するミゾ語です。民間人によると、「これらのラルトランは私たちの兄弟であり、難民ではありません。」ミゾ族によって拡張されたこれらのすべての措置は、ミゾ族がチン難民に対して感じている紛れもない兄弟愛の意識を例示しています。

結論

チンクキミゾ族の歴史と、アイデンティティ、祖国、包摂性への欲をめぐる彼らの様々な闘争を通して、今日のシナリオには心から健全な集大成が見られる。ミゾラム州が援助、救済、避難所、資金などの形でチン難民に対して行った多くの努力は、センターからの支援がないにもかかわらず、両方のグループがおそらく何らかの本質的で共通の拘束力のある要素を共有していることが知られているときに、人々が他の人のためにどこまで進んで行くかを示す良い例です。歴史と貴族の共通の結びつきをたどって、ミゾ族は、政治的境界が文化的、民族的、人種的境界をどのように含んでいないか、そしてできないかを示し、彼らが必要な時に自分の親族を助けることに失敗していません。

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