2025年12月23日火曜日

【若一調査隊】標高約350m「神様の山」の断崖に建つ天空の宮!1400年の歴史、聖徳太子ゆかりの神社『太郎坊宮』を参拝

出雲口伝その後 ヤマトの巫女・モモソ姫が讃岐にいた理由 倭迹迹日百襲姫命は奈良(ヤマト)から讃岐に移り住んだ

オスカー・クルマンによる『クリスマスの起源』  ミトラス教 

 
 
鈴村智久 Tomohisa Suzumura
⁦‪@SUZUMURA_Inc‬⁩
キリストの降誕祭はなぜ12/25なのか、この重要な問いに真正面から応答した本として評価が高いのが、20世紀ヨーロッパを代表する古代キリスト教史学者オスカー・クルマンによる『クリスマスの起源』です。 pic.x.com/Sxn3tZLZNQ
 
2024/10/01 21:16
 
 

キリストの降誕祭はなぜ12/25なのか、この重要な問いに真正面から応答した本として評価が高いのが、20世紀ヨーロッパを代表する古代キリスト教史学者オスカー・クルマンによる『クリスマスの起源』です。
クルマンが述べるように、コンスタンティヌス大帝治世下(306~337年)のローマ帝国では太陽を崇拝するミトラス教が普及しており、その主祭日として冬至に当たる12/25が祝われていました。
意識的なシンクレティストだったコンスタンティヌス帝は、キリストの生誕が祝われていた1/6(最古層にあるのは、アレクサンドリアのバシレイデス派がこの日をキリストの洗礼日として祝っていたことに由来)が時期的に12/25に近いことに注目し、政治的なレベルで調和をはかるために太陽崇拝とキリスト崇拝を統一することを決定します。
これと連動して、ローマ市民の一週間ごとの休日であった「太陽の日」を「安息日」(主の日)とも一致させ、共通の休日として市民が憩えるように企図しました。

「いずれにせよ、ローマにおいて336年12月25日にキリストの降誕祭が行われたことが確認されており、おそらくすでにコンスタンティヌス大帝治下にこの日が降誕祭として祝われていたものと思われる」(p.38)

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鈴村智久 Tomohisa SuzumuraさんによるXでのポスト

鈴村智久 Tomohisa SuzumuraさんによるXでのポスト

実はヨハネ福音書の著者はグノーシス主義の影響を強く受けていたという学説を提唱して、学界に衝撃を与えた新約聖書学者にケーゼマンがいます。
この解釈は大貫先生が述べるようにすでに定説になっていますが、今あらためて読み返しても凄まじいインパクトがありますので、以下に御紹介します。

「[…]ヨハネがグノーシス主義的告知を準備しているか、あるいはすでにその影響下に立っていることも明らかである。なぜなら、グノーシス主義的告知は、地上に散らされた魂が天上の故郷のために集められることの中に世界史の目標を認めているからである。このグノーシス主義の問題は、われわれの福音書が流布し始めた時期が考えられねばならないような時になって始めて浮かび上がってくるのではない。それはすでにヨハネ的終末論の全体を通して提出されている」(『イエスの最後の意志』、p.173-174)

グノーシス主義自体が原始キリスト教成立以前から存在していたことも現在では定説になっています。
ちなみに、大貫先生の『ロゴスとソフィア』には『イエスの最後の意志』の「解説」が「ヨハネ福音書とグノーシス主義」として再収録されています。
近年の『ヨハネ福音書解釈の根本問題』でも、やはりケーゼマンのこの著作に新たな解説が加えられているため、ヨハネとグノーシスの問題系は大貫先生のライフワークの一つだと言えるかもしれません。

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鈴村智久 Tomohisa Suzumura
⁦‪@SUZUMURA_Inc‬⁩
実はヨハネ福音書の著者はグノーシス主義の影響を強く受けていたという学説を提唱して、学界に衝撃を与えた新約聖書学者にケーゼマンがいます。
この解釈は大貫先生が述べるようにすでに定説になっていますが、今あらためて読み返しても凄まじいインパクトがありますので、以下に御紹介します。 pic.x.com/2UCOi7Ptf0
 
2025/12/18 21:10
 
 

鈴村智久 Tomohisa SuzumuraさんによるXでのポスト

 
 
鈴村智久 Tomohisa Suzumura
⁦‪@SUZUMURA_Inc‬⁩
一人の人間が集中して本を読める時間は、実は人生の中でそれほど多くは与えられていません。
限られた時間の中で何を読むべきか、何をなすべきかについて考える時、私を奮い立たせてくれる本の一つにラビたちの箴言を集成した『ピルケ・アボス』(1世紀末~5世紀半に最終編集)があります。 pic.x.com/QkvqjT7bDA
 
2025/12/07 22:30
 
 
一人の人間が集中して本を読める時間は、実は人生の中でそれほど多くは与えられていません。
限られた時間の中で何を読むべきか、何をなすべきかについて考える時、私を奮い立たせてくれる本の一つにラビたちの箴言を集成した『ピルケ・アボス』(1世紀末~5世紀半に最終編集)があります。

「彼[ヒレル]はよくいう。もし私が私のために存在しているのでないとするならば、誰が私のために存在するのか。私が私自身のために存在するのであれば、私とは何者であるのか。もし今でないならば、いつの時があろうか。シャンマイは言う。時を定めて律法を学び、口数すくなく実践に励み、すべての人を親しく迎えなさい」(『聖書外典偽典拠 第3巻』、p.263)

ちなみに、ラビのヒレルはバビロニア出身のトーラー学者で、ラビ・ユダヤ教の創始者とされています。
この謎めいた言葉はヒレルに帰せられる箴言の中でも最も難解なものとして知られていますが、コヘレトの書との親和性を指摘する学者もおり、私が『ピルケ・アボス』の全箴言の中で最も惹かれるものでもあります。

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2025年12月22日月曜日

fukuko2025さんによるXでのポスト ヨシュア川

NHK青森放送局さんによるXでのポスト イタコ



 
 
NHK青森放送局
⁦‪@nhk_aomori_pr‬⁩
#ハートネットTV
イタコ 中村タケ93歳の日々

【Eテレ】12/22(月)夜8:00

死者の霊を呼び寄せ、そのことばを語るとされるイタコ。視覚障害のある女性の生業として200年以上の歴史がある。最後の、全盲のイタコといわれる女性の日々をみつめた。

👇NHK ONEでも配信
web.nhk/tv/an/hntv/pl/… pic.x.com/AipT2SzlkA
 
2025/12/20 19:00
 
 

グノーシス主義の最大勢力の創始者ヴァレンティノス

 
 
鈴村智久 Tomohisa Suzumura
⁦‪@SUZUMURA_Inc‬⁩
グノーシス主義の最大勢力の創始者ヴァレンティノスの多くの著作は断片しか現存していませんが、実は彼が自分の神秘体験を綴った可能性が高い「夏の収穫」という7行詩がヒッポリュトスの『全異端反駁』に収録されています。
この詩についてのH・J・クラウクの解説には驚くべきものがあります。 pic.x.com/BM0bCFuyQK
 
2025/08/20 22:31
 
 
グノーシス主義の最大勢力の創始者ヴァレンティノスの多くの著作は断片しか現存していませんが、実は彼が自分の神秘体験を綴った可能性が高い「夏の収穫」という7行詩がヒッポリュトスの『全異端反駁』に収録されています。
この詩についてのH・J・クラウクの解説には驚くべきものがあります。

「夏の収穫」(全文)

「私はすべてのものが霊によって宙づりにされているのを見る。
私はすべてのものが霊によって支えられていることを理解する。
肉体は魂にぶらさがり、
魂は空気に固定され、
空気は天空にぶらさがっている。
深みから実が運ばれてきたり、
そして母胎から胎児が運ばれてきたるのを[私は見る]」
(『初期キリスト教の宗教的背景(下)』、p.276-277)

ミュンヘン大学新約聖書学教授や国際新約学会会長などを歴任したフランシスコ会司祭でもあるクラウクによれば、この詩で歌われている「夏の収穫物」は「認識」(gnosis)による収穫物を意味しています。
前半の詩行によれば、この世界のあらゆる事物は、あたかも木の実が樹木にぶらさがっているように、霊(聖霊)という見えない樹木によって支えられています。
どんな実にも収穫の時がありますが、この見えない実から生まれてくるのは「胎児」として表現されています。
中期プラトニズムでは神のロゴスは「胎児」として表現され、この最後の行はそこに初期キリスト教におけるイエスの生誕伝承が結び付けられています(同書、p277)。
つまりこの詩は、木から実が収穫されるように、可視的世界を支えている見えない霊から「認識」によって収穫できるものがあり、それこそがイエス・キリストに他ならないということを伝えています。
さらに興味深いのは、ヴァレンティノスがこの世界における霊の充満を「見る」と表現している1行目です。
つづく2行目では「理解する」と続いており、これは「見る」ことによって内容の「理解」が事後的に起きたこと、つまり何らかの体験が彼自身に起きたことを暗示しています。
ヴァレンティノスがその後の重要なグノーシス派の指導者たち(マルコス、プトレマイオス、ヘラクレオン、アクシオニコス)の師として尊崇されたのは、彼が中期プラトニズムやフィロン哲学に精通し、それらを学問的に「理解」していただけでなく、実際にまず霊的な世界を「見る」経験を持っていたからであると考えられます。

九戸城さんによるXでのポスト

2025年12月21日日曜日

古代ギリシャのヘルメスさんによるXでのポスト

 
 
古代ギリシャのヘルメス
⁦‪@kodaigirisyano‬⁩
ヘシオドス『神統記』と『仕事と日』から流れでた天文学が,文学・精密科学・哲学の各分野で影響を相互に与えながら発展していく様子がよく分かる壮大な図になっています. pic.x.com/2vAtRQ1dHq
 
2025/12/21 17:39
 
 

「אנו hebrew bible」の検索結果 - Yahoo!検索

アノヒ
アナンキ
https://search.yahoo.co.jp/search?p=אנו%20hebrew%20bible&ei=UTF-8

freeassociations: 穴太衆 高めよう徳島!ふるさとの四大青徳島古事記研究会会長 立石量彦氏 近江の石垣築成者穴太衆

freeassociations: 穴太衆 高めよう徳島!ふるさとの四大青徳島古事記研究会会長 立石量彦氏 近江の石垣築成者穴太衆

穴太衆 高めよう徳島!ふるさとの四大青徳島古事記研究会会長 立石量彦氏 近江の石垣築成者穴太衆

穴太衆(あのうしゅう)について

穴太衆(あのうしゅう) は、 日本の近世初期にあたる織豊時代 (安土桃山時代)に活躍した、 石工の集団。

主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団。古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。

北垣聡一郎の『近江の石垣築成者穴太衆』 (昭和51年(1976年))によれば、 粟田氏の話として、「先祖は阿波国から来た」 と語っていたとしている。

(wikipediaより引用)

江戸時代初期 阿波屋喜兵衛創業×

十五代石匠 代表取締役社長 粟田 純徳



https://dl.ndl.go.jp/pid/6062576/1/11

北垣聡一郎「近江の石垣築成者穴太衆」

17頁

    1

 穴太の地は,大津市坂本町穴太にあって, 京阪電鉄石坂線の終着験坂本から, 西へ約2kmの地点に位置する。

 古くより漢氏系渡来氏族の本貫がおかれたところとして また、のちには石工の里として注目されている。穴太の呼称については, 嵯峨天皇の勅命によって編纂された 『新撰姓氏録』 『未定雑姓右京」 条に 「志賀穴太村主後漢孝献帝之男美波夜王之後也」 とする例や, また, 山城国にも 「未定雑姓」 として「穴太村主曹氏宝徳公之後也」 とみえるところから、 両者が都と里とに居住する, いわゆる両貫を有する渡来氏族であったことをうかがわせるものであろう。また、 少なくとも9世紀中葉には成立したとみられる 『令集解』 のうち, それに引用する「穴記」の著者

としての明法博士, 穴太内人もこの氏族からの自出が考えられる (『三代実録』)。

 いまひとつは『正倉院文書』 にあって, 奈良時代とみてよい史料のなかに収められた, 穴太の 「村主」,「日佐」, 「史」 を有する人名等が散見されることである。

 なかでも穴太村主について, つぎの史料は注目されよう。 すなわち, 『続日本紀』 延暦六年七月条には「右京の人正六位上大友村主広道, 近江国野洲郡の人正六位上大友民日佐亀人, 浅井郡の人従六位上錦曰佐興 蒲生郡の人従八位上錦日佐名吉, 坂田郡の人大初位下穴太村主真広等, 並びに本姓を改め志賀忌寸を「賜う」 とする記事である。

 この 「坂田郡」 に貫を有する 「穴太村主真広」が,「志賀忌寸」 姓に改姓したことについては, 「新撰姓氏録」 「摂津国諸蕃」 に 「志賀忌寸, 後漢孝献帝より「出る」 とするところから理解することができる。 しかし, 「大友村主」, 「大友民曰佐」, 「錦曰佐」については 『姓氏録』 に記載がなく, その祖先伝承はさだかでない。

 ところが 『和名類聚抄』によれば, 穴太の地の存在する湖南 滋賀郡大友郷には大友・志賀両氏族の本貫

北垣聡一郎

があり,さらにまた, 隣接して錦部郷となるが, ここ

は (織) 氏の本貫でもある。

以上のことから, 穴太村主真広をはじめとするこれ

ら三氏族の関係は, 同族, もしくは擬制的同族 (民族

の立場からみて同族) を意味するものであろうか。

このように, 古代の氏族としての穴太氏が保持した

であろうその職掌・性格については, 今日明らかにし

がたい。ただ, いっぽうでは, 穴太を安康天皇の名代

である穴穂部から出たものとする説 (太田亮 『姓氏家

系大辞典』 ) から, 安康天皇が穴穂皇子といわれたの

は, 名代以前に穴穂なる名称があったことを示すもの

で, 穴穂皇子がアナホアナオの氏人によって養育さ

れたところから名づけられたものとする意見 (落合重

信 「地名からみた尼崎地域」 ( 「地域史研究』 1-3

所収))もあることを申しそえておく。

くだって, 中世における穴太氏に関する記録は,現

在のところ全く知ることができない。 わずかに 『康平

記』 の康平五年 (1062) 正月十三日条に, 「屯食八

具」のひとつとして「穴太御園」 の名を知ることがで

きるのみである。

 かかる理由のもとに, 石垣築成者としてその名をと

どめる, 近世の穴太について述べてみたい

  2

 近世における穴太の初現は, 『兼見卿記』の天正五

年 (4577) 九月廿四日条の 「早々に穴太を召し寄せ,

石懸け (石垣)を普請す, 醍醐清龍の御修理也」 とす

る例であろう。

 いっぽう 『小早川家文書』 によれば, 同十八年 (15

90) 七月十一日秀吉は, 小早川隆景 吉川広家に対し

「穴太三十五人を遣わされ候, 宿伝馬事」 とあって,

穴太のうちより三十五人を相州石垣山城普請のため

に派遣することを要請している。

 さて,近世の穴太がはじめて受領名を冠して現われ

るのは, 『駒井日記』 文禄二年(1593) 十二月廿六日

条に「伏見城の石垣 穴太出雲」 とする例であろ

う。 また, その実体については「一話一言』 所収の

「御材木石奉行支配穴太頭二人由緒書」 によってうか

....

20頁

 古式穴太流石積み技術保持者である栗田万喜三氏(1911年生) によれば, 「私の先祖は阿波国からきた。私はその十三代目を継いでいる。 かつてその盛んなときには, ここ 穴太)も二百から三百人もの穴太衆がいたと祖父や父から聞いている。 また, 私の若いころ(廿才ごろ), 父に連れられ叡山にのぼった (石垣修築) 当時この石組みを眺めるたびに, 先祖の築いたこの石垣のように, 一日も早く築けるようにと今日まで一生懸命がんばってきた」と述べられている。

 そして今, 叡山の西塔 弁慶屋敷周辺に残る石垣の一部は,まさにこの穴太積とみえる。

 前述した大友郷, なかでも坂本は古代の渡来氏族,三津氏の本貫でもある。 この場合, 天台宗を創設した伝教大師最澄もまた, この三津氏より出たものとされることである(『元亨釈書』)。

 以上の伝承は, 城郭の石垣に先行する遺構としての寺院が考えられるのではあるまいか。 しかし, この点にうついては今後入念な調査に加え、 それについての多面的な検討を要することはむろんである。

〔付記〕

最後に≪近世城郭研究からの提言 ≫として, 私案を

提示して大方のご批判を仰ぎたい。

過般, 古代学研究会主催による滋賀里周辺の古墳見

学は, 多くの点で得るところがあった。 玄室内石組み

をみて, これら 「もちおくり」 部分がなぜ崩れないか


書誌情報:出版者古代學研究會出版年月日1976-04

17~21頁





【若一調査隊】標高約350m「神様の山」の断崖に建つ天空の宮!1400年の歴史、聖徳太子ゆかりの神社『太郎坊宮』を参拝

【若一調査隊】標高約350m「神様の山」の断崖に建つ天空の宮!1400年の歴史、聖徳太子ゆかりの神社『太郎坊宮』を参拝 youtu.be