2025年10月10日金曜日

斎藤隆夫 - Wikipedia

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斎藤隆夫

曖昧さ回避 その他の同名の人物については「斎藤隆夫 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
曖昧さ回避 斎藤孝雄」、「齋藤太朗」、「斎藤貴男」、「斉藤隆夫」、あるいは「齋藤隆男」とは別人です。

斎藤 隆夫(さいとう たかお、旧字体齋藤󠄁 隆󠄁夫1870年9月13日明治3年8月18日〉 - 1949年昭和24年〉10月7日)は、日本弁護士政治家である。

帝国議会衆議院において、立憲主義議会政治自由主義を擁護し、弁舌により軍部の政治介入に抵抗した。

来歴・人物

但馬国出石郡、現在の兵庫県豊岡市出石町中村に斎藤八郎右衛門の次男として生まれる。8歳になり福住小学校に入学したが、12歳の頃「なんとしても勉強したい」という一念から京都の学校で学ぶことになった。ところが彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきた。その後、農作業を手伝った。

21歳の冬に、東京まで徒歩で移動する[1]。上京後は後に徳島県知事である桜井勉書生となる。桜井の退官後は桜井からの紹介で同郷但馬の朝来郡出身で大物財界人の原六郎の支援を受ける。1891年(明治24年)9月に東京専門学校(現・早稲田大学)行政科に入学、1894年(明治27年)7月に同校同学科を首席で卒業[2]。同年判事検事登用試験(現・司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。その後、アメリカのイェール大学法科大学院に留学し公法政治学などを学ぶ(イェール大学の同窓生という意味では原と斎藤は先輩後輩の間柄になる)。

帰国後の1912年(明治45年・大正元年)養父郡選出の衆議院議員佐藤文兵衛の後継として原の旧知であった斎藤に白羽の矢が立ち立憲国民党より総選挙に出馬、初当選を果たす。斎藤が説いた「国民は政治を監視し、監督する責任がある」という教えに共鳴した地元の青年たち[3]が斎藤の選挙を早くから支えた。以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党立憲同志会憲政会立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、濱口内閣では内務政務次官第2次若槻内閣では法制局長官を歴任している。

腹切り問答を行った浜田国松人民戦線事件で検挙される加藤勘十とともに反ファシズムの書籍を出したり卓越した弁舌・演説力を武器にたびたび帝国議会で演説を行って満洲事変後の軍部の政治介入、軍部におもねる政治家を徹底批判するなど立憲政治家として軍部に抵抗した。

反軍演説が軍部、及び軍部との連携・親軍部志向に傾斜していた議会内の諸党派勢力(政友会革新派中島派)、社会大衆党、時局同志会など)より反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名された。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部などからの選挙妨害内務省からの選挙文書の差し押さえをはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし衆議院議員に返り咲く。

映像外部リンク
戦後斎藤の選挙演説(7:00から)[6]

第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を免れ総務委員として党を代表する立場となり、翌1946年(昭和21年)に第1次吉田内閣国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部総裁[注釈 2])として初入閣する。

1947年(昭和22年)3月には民主党の創立に参加、同年6月に再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し1948年(昭和23年)3月に一部同志とともに離党。日本自由党と合体して民主自由党の創立に参加。翌1949年(昭和24年)1月の総選挙で13回目の当選を果たすも、同年心臓病肋膜炎を併発し、東大物療内科で死去[7]。享年79。墓所は青山霊園(1イ3-2)。

故郷の出石に記念館「静思堂」がある。

栄典

演説

「普通選挙賛成演説」、「粛軍演説」、「反軍演説」を斎藤の三大演説と扱われる。

普通選挙賛成演説

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この節の加筆が望まれています。

大正14年3月2日に衆議院本会議で行われた演説は帝国議会速記録に公開されており、演説後の登壇者に「齋藤君は二時間以上も喋って」という発言が見られる[9]

粛軍に関する質問演説

→「粛軍演説」を参照

岡田内閣の施政方針演説に対する質問演説

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この節の加筆が望まれています。

国家総動員法案に関する質問演説

政府の独断専行に依って、決したいからして、白紙の委任状に盲判を捺してもらいたい。これよりほかに、この法案すべてを通じて、なんら意味はないのである.....[10]

など議会の審議、決議なしで国民を戦時体制のために統制する国家総動員法の危険性を指摘した。

演説後、同僚議員に「この案はあまりに政党をなめている」「僕は自由主義最後の防衛のために一戦するつもりだ」と語っている。しかし斎藤の反対もむなしく、懐疑的であった二大政党もついに賛成に回り国家総動員法は可決された。

支那事変処理中心とした質問演説

→「反軍演説」を参照

逸話

「ネズミの殿様」とのあだ名[11]で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は小柄でイェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる[12]

反軍演説で除名処分を受けた後、「第七十五帝国議会去感」という一編の漢詩を残している。

吾言即是万人声 (吾が言 即ち是れ万人の声)
褒貶毀誉委世評 (褒貶毀誉は世評に委ねん)
請看百年青史上 (請う看よ 百年青史の上)
正邪曲直自分明 (正邪曲直 自ずから分明なるを)

著作

単著

共著

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論集

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日記

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参考文献

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脚注

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注釈

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  1. ^ 反軍演説で議員除名処分
  2. ^ 現総務省行政評価局・行政管理局

出典

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  1. ^ 『回顧七十年』「上京し、弁護士となる」より。
  2. ^ 会員名簿 昭和2年11月』早稲田大学校友会、1927年、243頁。 
  3. ^ 記者、有田哲文さん「"日曜に想う"ー斎藤隆夫がいた帝国議会」『朝日新聞』2024年8月11日。
  4. ^ アンドレ・ヴィオリス著『1932年の大日本帝国』、大橋尚泰訳、草思社、2020年、p.89-90
  5. ^ 正式名称『国防の本義と其強化の提唱』
  6. ^ 株式会社日本映画社・国立歴史民俗博物館・NHK戦争証言アーカイブス、1946、「近づく総選挙 どの政党を支持すべきか?」『日本ニュース 戦後編』第11号、1946年3月28日(2013年11月30日取得)。
  7. ^ 『朝日新聞』 1949年10月8日
  8. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  9. ^ 内閣印刷局、1925、「衆議院議員選擧法改正法律案 第二讀會」『官報號外 大正十四年三月三日 衆議院議事速記錄第二十一號』四七八~四八五頁、帝国議会会議録検索システム(国立国会図書館)、(2013年11月30日取得、 https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=005013242X02119250302 )。
  10. ^ 内閣印刷局、1938、「國家總動員法案 第一讀會」『官報號外 昭和十三年二月二十五日 第七十三囘帝國議會 衆議院議事速記錄第十七號』三四九頁2段目中央、(2013年12月1日取得、 https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=007313242X01719380224&page=1&spkNum=0&current=-1 )。
  11. ^ 岡本一平の新聞漫画による。
  12. ^ 『回顧七十年』「アメリカに留学」を参照。グレース・ホスピタルでの治療が理由のようである。

関連項目

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外部リンク

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公職
先代
(創設)
行政調査部総裁
初代:1946年 - 1948年
次代
船田享二
議会
先代
小川原政信
衆議院内閣委員長
1949年
次代
小川原政信(代理)
先代
横山金太郎
衆議院懲罰委員長 次代
武藤嘉門
党職
先代
川崎克
日本進歩党総務会長
第2代
次代
犬養健
先代
結党
民主自由党総務会長
初代:1948年
次代
星島二郎

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