26 西士が言った、「しかし、天地を尊ぶという考え方も、納得しにくいものがあります。
そもそも最も尊いものは唯だ一つで、二つとはないものです。天と言い地と言うと、これは
二つのものです。 我々の国で言う天主とは中国語の上帝であり、土で造る玄帝や玉皇といっ
た道教の像とは異なるものです。 それらは、武当山に棲んで修業をした者にすぎず、人にほ
かなりません。どうして人が天の帝や皇となることができましょう。我々の天主は、[中国]
古代の経書で上帝と呼ばれているものです。 「中庸』では、「郊社の祭礼は上帝に仕えるため
のものである」という孔子の言葉を引用しており、朱子の注釈には「后土に仕えると言って
いないのは、文章を省略したものだ」とあります。 [しかし] よく考えてみますに、孔子は
[仕えるべきものは]一つであって二つではないということを明らかにしたのであって、文
章を省略したというものではありません。
天主実義 上巻 70
る。
原文に「周子」とあるのは、北宋の周敦頤(一〇一七~七三)のこと。字は茂叔、号は濂渓。
「太極図」「太極図説」『通書』等を著した。周子は「太極」を万物の根源であるとしたが、理
に関しては直接言及してはいない。ここは、太極を理と解釈する朱子の説を踏まえている。
(2)「太極図」 「太極図説」によれば、太極 (無極) 陰陽五行 乾道坤道一万物化生という生
成論的、ないしは存在論的構造がある。
(2)「太極図説」によれば、 太極の活動状態が陽で、静止状態が陰であり、陰陽が交錯して木火
水金土の五行を生じる。
(2) 朱子は「太極図説解」の中で、「太極は形而上の道なり」と述べている。 朱子によれば、物
を形成するものは陰陽の気(形而下の器)であり、形而上の道である理が物の本質をなす。
(2) 原文には「霊覚」とある。動物一般が有する単なる「知覚」ではなく、霊妙な知覚を指す
霊魂の属性と解することができる。
(2) ここで言う「鬼神」は、カトリックで説く「天使」の意味に近いと言える。明末天主教にお
いては、「天神」(天使)と「魔鬼」(悪魔)をあわせて「鬼神」と表現する場合がある。
(3)『論語』衛霊公篇に、「子曰く、人能く道を弘む。道の人を弘むるには非ず、と」とある。
よ
ひろ
(3) 本篇の注3を参照。『易経』 繫辞伝は、 十翼の一つで、孔子の作と伝えられる。
まつ
(32)「郊社の礼」とは、天子が冬至の日に天を、夏至の日に地をまつる祀りのこと。本篇の2
で西士が引用するように、『中庸』第十九章に、「郊社の礼は、上帝に事うる所以なり」とあ
つか
()
[『詩経』]周頌[執競篇]には、「自強の道を執り守られた武王、その功業は強きもの。成
王と康王の徳が顕らかにされ、上帝はこれを君主とされた」とあります。
また「『詩経』周頌臣工篇には]、 「ああ見事な小麦と大麦、大いに[上帝の]明徳の賜物
(3)
71 第二篇 天主に関する・・・
45
(33)「玄帝」「玉皇」は共に天帝のこと。 玉帝、玉皇大帝、元始天尊とも言う。
(34) 本篇の注3を参照。 孔子の言葉として見える。
(35) 朱子は『中庸章句』第十九章の注の中で、「郊は天を祭るなり。社は地を祭るなり。后土を
言わざるは、文を省くなり」と解釈している。后土とは大地の神で、皇天(上帝)に対する。
(36) 『詩経』周頌執競篇に、「競きを執る武王、競きこと無からんや維の烈。顕らかならざるや成
きみ
上帝、是れを皇とす」とある
ああおお
つよ
むぎ おおむぎ おお
そ
こ
あき
あき
(3)『詩経』周頌臣工篇に、「於皇いなるかな來と牟、将いに厥の明を受く。明、上帝に昭らかな
り」とある。
つつし
(3)『詩経』商頌長発篇に、「聖敬、日に躋り、昭仮、遅遅たり。上帝を是れ祗む」 とある。
ここ
あき
つか
(3)『詩経』大雅大明篇に、「維れ此に文王、小心翼翼として、昭らかに上帝に事う」とある。
(4)『易経』説卦伝に、「帝は震に出づ」 とある。
つぶさ
4)『礼記』月令篇に、「五者備に当たれば、上帝其れ饗く」とある。
みずか
せいきよちよう
(4)『礼記』表記篇に、「天子親ら耕す。粢盛秬鬯、以て上帝に事う」とある。
みち やす
『書経』湯誓篇に、「夏氏に罪有り。予は上帝を畏れ、敢えて正さずんばあらざるなり」とあ
まこと
つね
したが
よ
4)『書経』湯誥篇に、「惟れ皇いなるかな上帝、衷を下民に降す。恒有るの性に若い、克く厥の
きみ
猷を綏んぜしむ。惟れ后なり」とある。
なん
『書経』金縢篇に、「乃、帝の庭に命じ、四方に敷佑せよ」とある。


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