名護屋城

所在地:佐賀県唐津市鎮西町、呼子町、玄海町
城 主:豊臣氏
遺 構:天守台、櫓台、石垣、堀
文化財:国特別史跡
探訪日:平成24年(2012年)8月26日
概要
豊臣秀吉が慶長の役、文禄の役(いわゆる朝鮮出兵)の際に築いた城。
全国統一を果たした秀吉は明帝国への侵攻を計画し、李氏朝鮮に協力を求めたが拒否されたため、全国の大名を集め朝鮮半島への出兵のための最前線城郭を築かせた。慶長・文禄の役の際はこの城が政治・経済の中心となっていたため、一地方であった名護屋は大いに発展したという。
しかし、秀吉が薨去すると派兵は中止され、名護屋城も廃城となり、廃材は寺沢氏の唐津城等へ移築された。
この時点では廃城となり建物が取り壊されただけであったが、後の島原の乱の際にキリシタン軍が廃城の原城を利用したため、幕府はこの城が再利用されるのをおそれ、石垣も含めて徹底的に破城した。
上記の通り破城はされているのですが、何しろ超大規模な城跡です。
今まで建物の全くない城跡は何か所も見てきましたが、これだけ広大な城跡は始めて見ました。
佐賀県の北端という少し不便な場所ですが、破城の痕跡も含めてよく整備されており、機会があれば一見の価値はある城です。
縄張り図

建物はともかく石垣が完璧に残っていたら、とてつもない城跡だったんでしょうね。
復元模型(二の丸方面から)

復元模型(大手・三の丸方面から)

なお、この復元模型は城跡に隣接する博物館内に展示されており撮影自由でした。
さて城跡。
天守台

城のシンボル的存在な場所だけあり、石垣も他のヶ所と比べて徹底的に破壊されています。
それでも、かなり巨大な天守台です。
本丸側から。

こちらは多少石垣が残っていました。
なお、当時は五層七階の天守が建っていたようです。

本丸跡

所々で発掘調査がされています。
本丸西南隅櫓台

本丸東南隅櫓台

本丸櫓門跡

本丸石垣(南側)

草があるため分かりにくいですが、大きくV字状に破壊されており、崩れた石が転がっています。
二の丸跡

本丸直下にあった郭で本丸の西側にありました。
ここは石垣が保存状態よく残っていました。

遊撃丸跡

二の丸の北側、天守台の直下にあった郭です。
ここも本丸と同様にV字状に石垣が破壊されています。

弾正丸跡

二の丸の南側にあった郭で、弾正丸の名は浅井弾正長政に因んでいます。
馬場郭石垣

本丸の南にある郭で、二の丸と三の丸をつなぐ通路の様な感じです。
当時は、この上に塀があったそうです。
三の丸跡

これも本丸直下にある郭で、本丸の東側にあります。
ちなみに、この城は本丸への入口は二の丸ではなく、この三の丸からのみとなっています。
東出丸跡

三の丸の東にある出丸。
大手門跡

現在も、城跡の入口となっており、ここから東出丸へ一直線の大手道が伸びています。
大手門脇櫓台

山里郭跡

城跡からは直接行けず、城域の北側を走る道路から行くことになります。
ここは入口の石垣が復元整備されており、連続枡形という特殊な形状になっています。
ただ、郭自体は草が伸び放題です。

鯱鉾池

城の北側にあった堀跡で、形が鯱に似ていることからその名がついたとのこと。
といった感じで、非常に壮大な大城郭跡でした。
場所は遠いけど、是非機会があれば一度は行ってみることを本当にオススメする城跡です。
なお、この城の周りには各大名の陣屋が数多くあり、現在も発掘や整備が進んでいるみたいです。
二ヶ所ほど行きましたが、それはまた別の記事で。
マップ
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城 主:豊臣氏
遺 構:天守台、櫓台、石垣、堀
文化財:国特別史跡
探訪日:平成24年(2012年)8月26日
概要
豊臣秀吉が慶長の役、文禄の役(いわゆる朝鮮出兵)の際に築いた城。
全国統一を果たした秀吉は明帝国への侵攻を計画し、李氏朝鮮に協力を求めたが拒否されたため、全国の大名を集め朝鮮半島への出兵のための最前線城郭を築かせた。慶長・文禄の役の際はこの城が政治・経済の中心となっていたため、一地方であった名護屋は大いに発展したという。
しかし、秀吉が薨去すると派兵は中止され、名護屋城も廃城となり、廃材は寺沢氏の唐津城等へ移築された。
この時点では廃城となり建物が取り壊されただけであったが、後の島原の乱の際にキリシタン軍が廃城の原城を利用したため、幕府はこの城が再利用されるのをおそれ、石垣も含めて徹底的に破城した。
上記の通り破城はされているのですが、何しろ超大規模な城跡です。
今まで建物の全くない城跡は何か所も見てきましたが、これだけ広大な城跡は始めて見ました。
佐賀県の北端という少し不便な場所ですが、破城の痕跡も含めてよく整備されており、機会があれば一見の価値はある城です。
縄張り図

建物はともかく石垣が完璧に残っていたら、とてつもない城跡だったんでしょうね。
復元模型(二の丸方面から)

復元模型(大手・三の丸方面から)

なお、この復元模型は城跡に隣接する博物館内に展示されており撮影自由でした。
さて城跡。
天守台

城のシンボル的存在な場所だけあり、石垣も他のヶ所と比べて徹底的に破壊されています。
それでも、かなり巨大な天守台です。
本丸側から。

こちらは多少石垣が残っていました。
なお、当時は五層七階の天守が建っていたようです。

本丸跡

所々で発掘調査がされています。
本丸西南隅櫓台

本丸東南隅櫓台

本丸櫓門跡

本丸石垣(南側)

草があるため分かりにくいですが、大きくV字状に破壊されており、崩れた石が転がっています。
二の丸跡

本丸直下にあった郭で本丸の西側にありました。
ここは石垣が保存状態よく残っていました。

遊撃丸跡

二の丸の北側、天守台の直下にあった郭です。
ここも本丸と同様にV字状に石垣が破壊されています。

弾正丸跡

二の丸の南側にあった郭で、弾正丸の名は浅井弾正長政に因んでいます。
馬場郭石垣

本丸の南にある郭で、二の丸と三の丸をつなぐ通路の様な感じです。
当時は、この上に塀があったそうです。
三の丸跡

これも本丸直下にある郭で、本丸の東側にあります。
ちなみに、この城は本丸への入口は二の丸ではなく、この三の丸からのみとなっています。
東出丸跡

三の丸の東にある出丸。
大手門跡

現在も、城跡の入口となっており、ここから東出丸へ一直線の大手道が伸びています。
大手門脇櫓台

山里郭跡

城跡からは直接行けず、城域の北側を走る道路から行くことになります。
ここは入口の石垣が復元整備されており、連続枡形という特殊な形状になっています。
ただ、郭自体は草が伸び放題です。

鯱鉾池

城の北側にあった堀跡で、形が鯱に似ていることからその名がついたとのこと。
といった感じで、非常に壮大な大城郭跡でした。
場所は遠いけど、是非機会があれば一度は行ってみることを本当にオススメする城跡です。
なお、この城の周りには各大名の陣屋が数多くあり、現在も発掘や整備が進んでいるみたいです。
二ヶ所ほど行きましたが、それはまた別の記事で。
マップ
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