三皇五帝
いずれも実在ではなく、戦国・秦漢時代に生まれた国家形成神話の中で理想的な統治を行った帝王として伝承された。三皇とは、伏羲(ふくぎ、狩猟を始めた)・神農(しんのう、農耕を始めた)・燧人(すいじん、火食を始めた)の三神をさすが、それは諸書によって一定ではなく、燧人ではなく女媧(じょか、楽器を作った)をあげることも多い。五帝とは、司馬遷の『史記』の挙げる、黄帝・顓頊(せんぎょく)(暦法の発明)・帝嚳(こく)・尭(ぎょう)・舜(しゅん)の天子をさすとされる。特に尭舜時代は、治水事業が進み、天子も平和的に継承され(そのような政権交代を禅譲という)、孟子など儒家の思想家によって理想的な時代とされた。舜から禅譲を受けたのが夏王朝の始祖とされる禹である。三皇
司馬遷の『史記』は中国を治めた最初の人物として五帝の黄帝から論述をはじめており、三皇については直接説明していない。五帝より前は司馬遷にとっても神話の時代であり、歴史の対象ではないとと捉えたのであろう。現在の『史記』のテキストにある「三皇本紀」は、唐代に司馬貞が書いた史記の注釈書『史記索隠』によって補ったもので、それには包犠・女媧・神農を三皇としている。(引用)包犠は八卦や文字を発明し、結婚の制度を定めたが、その頭は人間でありながら、身体は蛇であった。女媧は、共工という人物のために傾いた天地をもとにもどし、笙(しょう)や簧(こう)という楽器を作ったが、これも人頭蛇身の女神であると考えられていた。三人目の神農は、農業と医薬をはじめ、五弦の瑟(しつ)を作り、商業をはじめ、さらに八卦をもとにして易を作りだしたといわれる。この神は、人間の身体に牛の頭をしている。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』1974初刊 2000再刊 講談社学術文庫 p.28>この三人の皇帝は、いずれも普通の人間ではなく、半人半獣の形をした異形の神であり、多くのことを発明したり、傾いた天地を補修するという異能の持ち主であった。それだけに、黄帝以下の五帝にくらべると、はるかに、神話的な要素をもっている。民間では広く信じられていたのであろうが、戦国時代から前漢時代のようなある意味で合理主義的な思想の栄えた時代には、思想の表面には現れなかった。それが前漢時代の終わりごろから讖緯説という神秘主義的な予言説が流行したことで整備されていったと考えられる。<貝塚茂樹・伊藤道治『同上書』 p.29-30>
中国の王朝交替の一形態。新王朝が前王朝から平和的に帝位を継承することを言う。
中国では王朝の交替を「革命」(天帝の命によって王の姓が易わるという意味の易姓革命の略)というが、それには禅譲と放伐の二つの形式があり、その一つの禅譲は前王朝から譲りを受けて、平和的に新王朝が成立する場合を言う。三皇五帝の尭から舜など、理想的な継承方式とされた。歴史時代においては、最初の例としては、後漢から曹丕が帝位を継承し魏に交替したのが最初とされる。その魏も、重臣であった司馬氏に実権を奪われ、司馬炎が禅譲を受けて晋を建国する。禅譲は五代の後周の柴氏が禅譲といってもほとんどは実力で帝位を奪ったもので、形式だけ前王朝の最後の皇帝に譲位をみとめさせたにすぎない。それにたいして実力で前王朝を倒して王朝交替を実現することは放伐という。
禅譲の終わり
中国の歴史時代の王朝交替で禅譲の形式をとった最初は後漢から魏に交替したときであるが、その後魏晋南北朝時代にはたびたび見られた。その最後となったのは、五代の最後の後周から宋に交替したときである。後周の世宗(柴栄)は五代一の名君と称され、わずか6年の在位中に全国統一を目指して南北に転戦、しかし遼を攻める北伐の陣中で病に倒れ、実子の恭帝が7歳で即位した。大敵を前にして幼帝に不安を感じた将兵が兵変を起こし、人望のあつい将軍
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