2025年8月5日火曜日

三ハン国の分立

三ハン国の分立



三ハン国の分立

 モンゴル帝国の統治者大ハーンの地位は、チンギス=ハンの血を引く一族の優れた者が、クリルタイの全員一致の推戴によって就任することとなっていた。1227年8月にチンギス=ハンが亡くなると、その地位をめぐって、4人の息子(ジョチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイ)の間でまず争いが起こり、1229年には第2代にオゴタイが選出されたが、その後も内紛が絶えなかった。第3代はオゴタイの子グュクが継いだがすぐに死去(毒殺の疑いもある)、1251年、第4代にはトゥルイの子モンケが即位した。
 モンゴルの国家はモンゴルではウルスと言われ、全体のモンゴル国家は「大モンゴル=ウルス」と言われたが、分立した国家もそれぞれウルスといわれた。

ウルスの分立

 このとき、オゴタイとチャガタイの一族は中央から排除された。チャガタイはチャガタイ=ハン国(チャガタイ=ウルス)を形成したが、大きな勢力ではなかった。またジョチ(チンギス=ハンの実子ではないといううわさもあった)一族も中央から遠ざけられて西方に拠点を移し、その子バトゥがロシア遠征を行い、1243年にキプチャク=ハン国(父の名を取ってジョチ=ウルスという)をつくった。モンケ=ハンの弟フラグは西アジアに遠征、中央で第5代に兄のフビライ=ハンが就任すると、そのまま1258年イル=ハン国(フラグ=ウルス)をつくってとどまった(イル=ハン国は厳密には1260年の成立)。

フビライの覇権

 1259年にモンケ=ハンが死去すると、その子たちが幼少であったため、モンケの弟たちが大ハーンの位の継承に乗りだし、フビライアリクブケの二人がそれぞれ別にクリルタイを開催して大ハーンに選出されるという事態になった。両者は激しく争った結果、1264年にフビライが勝利した。
 フビライは、同年に都を大都(現北京)に移し、さらに1271年には国号を中国風に(大元ウルスという)と改めた。

3ハン国=ウルスの形成

 こうしてモンゴル帝国は元とハン国(ウルス)に分かれることとなり、次第に独自性を強め、互いに争うようにもなる。フビライ=ハンに対しては、オゴタイ家のハイドゥのように反発する勢力も多く、フビライ=ハンの死後、1300~05年のハイドゥの乱が起こった。ハイドゥの乱が鎮圧されてからはモンゴルと中国を支配する本家で大ハンの元と、中央アジアのチャガタイ=ハン国、西アジアのイル=ハン国、カザフ草原からロシアにかけてのキプチャク=ハン国という3ハン国が分立した。
 これらのハン国=ウルスは、対立しつつも共生する関係であり、モンゴル人の支配という秩序が成立し、14世紀前半まではタタールの平和(パクス=モンゴリカ)といわれるユーラシアの安定がもたらされた。
 この分立は、広大な領土を一族で分割統治するためのものであり、あくまで本家の元を宗主国として、他のウルスはそれに大元ウルスに従属しており、この段階でモンゴル帝国が分裂したのではないことに注意しよう。

参考 「4ハン国」とは言わなくなっている

 モンゴル帝国を構成するハン国は、従来、オゴタイ=ハン国、チャガタイ=ハン国、キプチャク=ハン国、イル=ハン国を並べて「4ハン国」と言っていたが、現在は、オゴタイ=ハン国はすぐに滅びて実体がなかったとしているので除外し、「3ハン国」とし、またモンゴル語で国を表す「ウルス」という用語も高校の教科書に見られるようになっている。ハン国=ウルスは固定的なのもではなく、実際のウルスは常に変動した。一貫してウルスとして定着したのは、大元ウルスと西のジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国)、フラグ=ウルス(イル=ハン国)だけである。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 下 講談社現代新書 p.67>

3ハン国のイスラーム化

 中国本土とモンゴル高原を支配した元(大元ウルス)は帝国としての一体性や、駅伝によって結ばれた経済的一体性は維持していたが、次第に違いが明確になっていった。それは、元以外の三ウルスが支配した地域は、イスラーム教圏であったため、支配層であるモンゴル人が現地人と同化していく過程で、ウルス自体がイスラーム化していったことであった。ロシア草原を支配したキプチャク=ハン国、イラン高原を支配したイル=ハン国において顕著であったが、イル=ハン国は1295年にイスラーム教に改宗、キプチャク=ハン国も14世紀前半にハンが正式にイスラーム教に改宗している。14世紀半ばには中央アジアのチャガタイ=ハン国もイスラーム化が進むと共に14世紀後半には東西に分裂し、弱体化した。

フラグの西アジア遠征によって、1260年に成立したイラン高原のモンゴル系国家。13世紀末にガザン=ハンの時イスラーム化し、高度なイラン=イスラーム文化を開花させた。14世紀半ばにはモンゴル人の王統が途絶え、イラン系地方政権が各地に生まれ、16世紀にはティムール帝国に吸収された。

 モンゴルのフラグ(フレグが正しいともされる)が西アジア遠征によってイランを中心とした西アジアに建国した、モンゴル帝国のハン国の一つ。 都はタブリーズ(イラン西部)。なお、イルとは、トルコ語で人間集団もしくは国を意味するのでイル=ハンとは「部衆の王」ないしは「国王」の意味となる。これはこの国の俗称であり、正しくはフラグの建てたウルスなのでフラグ=ウルス(フレグ=ウルス)とすべきである。 → 三ハン国の形成

イル=ハン国の成立年

 その成立年は、一般に1258年とされるが、それはモンゴル軍がバクダードを占領してアッバース朝を滅ぼした年である。しかし、この段階では本国のモンケ=ハンは健在であるのでフラグが独立国を作ることはなかった。そのモンケ=ハンが急死し、1260年にフビライとアルクブケがともにハン位についた知らせを受け、フラグがカラコルム帰還をあきらめて西アジアにウルス(国家)を建設することを決意したことをもって始まりとするのが正しい。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.184>

マムルーク朝との戦い

 フラグはカラコルムに向かう一方、部下のキトブカにさらに南下を命じた。キトブカは同年中にダマスクスを攻略し、さらにエジプト進出をめざしたが、マムルーク朝バイバルスとのアインジャールートの戦いに敗れ、モンゴル軍の西アジアでの侵攻はとまった。

イル=ハン国の興亡

 フラグの次はその子アバガが第2代ハンとなり、1270年にチャガタイ=ハン国のバラクがホラーサーン地方に侵攻したのを撃退して、ウルスとしての地位を確固たるものにした。その後、現在のイランを中心に、イラク、シリアを支配し、エジプトを本拠とするマムルーク朝と対立した。1278年には小アジアのルーム=セルジューク朝を属国とした。また北方のキプチャク=ハン国とはアゼルバイジャンの豊かな平原やコーカサス地方の領有をめぐって対立した。そのような国際情勢のもとで、アルグン=ハンはラッバン=ソウマというネストリウス派キリスト教徒を、ビザンツ帝国、フランス、イギリス、ローマ教皇のもとに派遣している。その後もイル=ハン国のハンはたびたびローマ教皇やフランス王に使節を送っている。

イスラーム化

 イル=ハン国はモンゴル人の支配する地域に、主としてイラン人が居住し、イラン人にとっては異民族支配を受けることとなったが、イラン人は高い文化的伝統を持っていたので、文化的には次第にイラン化が進み、第7代のガザン=ハンの時、1295年、イスラーム教(スンナ派)に改宗した。ガザン=ハンはイラン人宰相ラシード=アッディーンを登用し、イラン化を進め、イラン=イスラーム文化を開花させることとなった。ガザン=ハンが自らのルーツであるモンゴル帝国の成立の歴史と、イル=ハン国を取り囲む世界の歴史を記述させたのが、ラシード=アッディーンが編纂した『集史』である。

イル=ハン国の滅亡

 1335年、第9代のアブー=サイードが宮廷内で皇后に殺害されるという事件が起き、フラグの血統が途絶えた。有力集団はそれぞれ継承権を主張して争い、1353年にはトルコ=モンゴル系やイラン系の地方政権が各地に割拠抗争するようになって事実上国家としての統合は失われた。15世紀にはティムール朝に吸収されるが、イスラーム化したモンゴル人の一部はイラン高原やアフガニスタンの草原地帯で遊牧生活を続け、現在もアフガニスタンではハザラ人と言われ少数派を形成している。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『DMV+1』歴史ツアー ぐーたら先生と行く!みなみ阿波スサノオの足跡 | みなみ阿波

『DMV+1』歴史ツアー ぐーたら先生と行く!みなみ阿波スサノオの足跡 | みなみ阿波 『DMV+1』歴史ツアー ぐーたら先生と行く!みなみ阿波スサノオの足跡 | みなみ阿波 https://minamiawa.jp/tour/docs/2025082500017/ "...