2025年8月27日水曜日

聖フランシスコの十字架: フランシスコのブログ

聖フランシスコの十字架: フランシスコのブログ

聖フランシスコの十字架

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[聖フランシスコの直筆の手紙] -レオ-ネへの手紙-(中央よりやや下に、赤みを帯びた大きな「T」の形が確認できるでしょうか。これがタウです。 

「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が、御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が、御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」 兄妹レオ-ネよ 「主があなたを祝福されますように」と書かれてます。

末尾の大きい「 T 」の字は、聖フランシスコが記したもので、十字架をあらわす「τ」(タウ)の字です。この「τ」はラ・ベルナ山をあらわす半円形の図の上に書かれていて、それを包むように最後の"兄妹レオ-ネよ"以下の一文が記されています。(「アシジの聖フランシスコの面影」より)

                         (タウ)

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      聖フランシスコが用いた十字架は、「タウ型十字架」といわれるものです。

ヘブライ文字とギリシャ文字の19番目の「τ(タウ)」(アルファベットの「T」に相当する)の形をしたものだそうです。普通の十字架の上の部分が無い形のものです。一番古い形の十字架とも言われ、旧約聖書のエゼキエル9章4節に「印をつけよ」と書かれているものが、「タウ」の形をした十字架だそうです。横の線が天(神)、縦の線が大地(人間)をあらわし、両者が合流する形で、「真実・言葉・光・善に向かった心」をあらわしているそうです。聖フランシスコのタウには、三つの結び目がついた、紐があり、それは、清貧・貞潔・従順をあらわしています。普通の十字架の形から、上を取り去ったような形の十字架を聖フランシスコが用いた理由は、キリストへの大いなる謙遜をあらわす意味があったと言われています。

この、タウの十字架が、聖フランシスコ直筆の兄妹レオ-ネへの手紙の末尾に記されていることは実に興味深いことです。既に「聖フランシスコの祈り」のなかで、聖フランシスコが聖痕を受けられたラ・ベルナ山での祈りのなかで、聖フランシスコは兄妹レオ-ネに手紙を書いたという部分がありました。これがまさにその手紙で、聖フランシスコ自身が書いたタウが手紙の末尾に、自分自身を象徴するかのように記されていたのです。聖フランシスコの聖痕とタウ、何か深い意味があるかのように感じます。

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                  サンダミアーノ教会の十字架

聖フランシスコが召命を受けたサン・ダミアノ教会の十字架 「栄光のイコン」 フランシスコ会ではこの十字架が使われている。 主イエスは、いばらの冠ではなく、栄光の冠を頂いています。一番上は祝福される御父の手があり、その下に御手に祝福された御昇天の主イエスが描かれている。右腕の下はマリアとヨハネ、左腕の下はマグダラのマリアと使徒ヤコブの母マリアと百人隊長が描かれています。

(聖フランシスコの十字架への崇敬)

聖フランシスコは、十字架の修行をたゆまずお続けになったことにより、霊的に最も高い人々の列に加えられる資格をお備えになった。このご生涯は、終始、十字架に貫かれ、ご自分のためには、如何なる苦しみも、痛みもおいといにならず、ご自分のうち、またご自分の力で、神様のみ心を果たすことだけを唯一の目的となさった。(小さき花 付加された章 第一章)

十字架への崇敬の信仰は、聖フランシスコの信仰の重要な部分を占めていると思います。聖フランシスコの信仰は、聖書にある主キリスの教えをそのままに生きることにありました。それは、十字架を背負ったキリストを自らの生きる姿に投影させようとするもので、十字架を担って生きることに完全な喜びを感じることでした。ラ・ベルナ山での祈りや最後、アシジの刑場に葬られることを望んだことにあらわれていると思います。その思いは、人生の最後の最後まで貫徹されたのです。あの聖フランシスコの全てを見とおされているような眼差しのまえにさらされると、わたしはなすすべがありません。自分の傲慢さにただ、恥じ入るばかりです。しかし、そんな私の必死な祈りに応え、全てを受け入れてくださいました。聖フランシスコ様に心から感謝致します。あなたに守られて、ここまでこれました。わたしのような人間がとてもついていける世界ではありませんが、自らの自戒を込めて、紹介します。「聖フランシスコの小さな花」の第8章「・・完全なよろこびとは何かを説かれたこと」の中に、次のようなことが記されています。

旅の途中、聖フランシスコは、兄弟達が次のような素晴らしいことができたとしても、そこには完全なよろこびはないと言われた。

「きよらかさと、立派な生き方とで、皆のすぐれた模範になっていても、そこには完全なよろこびはない」、「盲人の目を開け、曲がった身体を立たせ、悪魔を追い払い、聾者の耳をひらけ、足なえを歩かせ、口をきけぬ人に声を与え、さらに大きな奇跡を行っても、そこには完全なよろこびはない」、「あらゆる国の言葉、あらゆる知識、聖書の全てを知りつくしても、未来の事柄ばかりか、心に秘密や魂の内側までも言い当て、あらわしだすことができるとしても、そこには完全なよろこびはない」、「み使いたちの言葉を語り、星の運行や薬草の効能に通じ、地上の宝のすべてをくみつくし、鳥、魚、全ての動物、人間、草木、岩石、根、水などに何ができるかを知りつくしているとしても、そこには完全なよろこびはない」、「とても上手な説教をして、全ての人を回心させキリストへの信仰にみちびくことができるとしても、そこには完全なよろこびはない」

兄妹レオ-ネは非常に驚いて、聖フランシスコに「それでは完全なよろこびはどこにあるのですか」尋ねた。すると聖フランシスコは、次のような例えを持って答えられた。これから訪れようとしている修道院の門番が、汚い身なりをし憐れみを乞う聖フランシスコ達を、礼儀正しく、愛情深く迎えてくれるとは限らない。逆に、悪口、さげすみ、侮辱、ののしり、拒絶、暴力的な追い出しなどの様々なひどい扱いをされるかもしれない。このひどい扱いを神様の計らいであると受けとめ、我慢強く耐え、キリストの苦しみを思い、ご自身への愛ゆえに耐えるとするならば、そこにこそ、完全なよろこびがあると答えられた。

キリストはご自身を愛する者たちに、いろんなお恵みをどっさり与えてくださるのだが、そのなかでも、自分に勝つという賜物、ご自身への愛のため、苦しみ、あなどり、恥、不便をよろこんで耐えるという賜物こそは何物にもまさるものだ。私達が神様からいただく賜物は、神様からきているもので、私たち自身で手に入れたものではないから、誇ることはできない。しかし、艱難、苦難の十字架を負っているのなら、誇ってもよいのだ。それは私たち自身のものなのだから。そこで、使徒もこう言われたのだ。「わたしは、わたしたちの主イエス・キリストの十字架によるほか、誇りたくない」と。以上が「聖フランシスコの小さな花」の第8章に書かれている概要です。いつも十字架上の主キリストとともにあるところに完全なよろこびを感じることにより、人生の困難を乗り越えていくことができるというメッセージだと思います。次のような聖フランシスコの祈りがあります。

(聖フランシスコの祈り)

主イエス・キリスト、わたしは死ぬ前に二つのお恵みを祈り求めます。一つは、わたしが生きている間に、優しきイエス、あなたがあのひどいご受難のときに耐え忍ばれた苦しみを、わたしの霊魂と肉体において、できる限り強く感じることができますように。もう一つは、神の御子、あなたがわたしたち罪人びとのために愛に燃え、あのような受難を進んで耐え忍ばれたこの上ない愛を、できる限り強くわたしの心に感じることができますように。(ラ・ベルナ山の森の中で、聖痕を受ける前。1224年9月14日ころ)

主よ、わたしはこのひどい苦しみにふさわしい者です。主イエス・キリスト、あなたはよき牧者として、罪びとでお恵みに価しないわたしたちを、種々の罰と肉体的苦しみを通して、あなたの憐れみにあずからせてくださいました。どうぞあなたの子羊であるわたしに、恵みと力をお与えください。私がいかなる病苦、いいかなる苦悩や苦痛にあっても、あなたから離れることのないように。(聖ダミアノ聖堂で。1224年冬-1225年)

(十字架と私)

徳川幕府が禁教令を出す頃、日本の伝統的な宗教は、キリストの十字架を崇敬する精神自身がキリスト教が邪教であることを示していると攻撃しました。十字架にかけられるのは、国家の法に触れる重大な犯罪を犯した者が受ける刑罰であり、そのような犯罪者を崇敬すること自体が、邪教であることを示していると非難したのです。そして、十字架に磔にされた殉教者を崇敬するキリシタンを見て、その考えをますます強めました。キリストを神と認めない人が、そう考えるのは自然なことだと思います。事実、キリスト教が用いる普通の十字架では、一番上に INRI(Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum、ナザレのイエス ユダヤの王、)という罪状札が付けてあります。これは、主キリストが罪人として処刑されたことを示しています。私たち人間が自分の傲慢さから神を罪人として処刑したのです。まさにキリスト信者は、主キリストが自らが神であると説いているにもかかわらず、この言動は聖なるものを汚したとして、当時の人が罪人として処刑した神を、今私達は崇敬しているわけです。主キリストを神と思わない人にとっては、まさに理解不能の世界です。当時の仏僧等は、本気でキリシタンを邪教から救い出そうと思い、キリシタンに説法したそうです。主キリストを神と認めるのか、それとも認めないのかそれによって、十字架上のキリストの受け止め方は全く変わってきます。そして、本当に、十字架を崇敬しているのかが問われているのです。自分の生き方に反映されているのか。聖フランシスコのように最高のよろこびとしているのかが問われていのだと思います。

主キリストが神であること、その受難と復活の意味を深く理解している人にとっては、十字架は全くの別物になってきます。主キリストは、御父によって選ばれた人間、すなわち弟子たちに、これまで説いてきたことが真実であり、御父の世界があることを確信させるために、あえて人間の傲慢さに従い、受難の道を選択されました。これは、御父がどんなに人間を愛しておられるかを示されるためでした。そして主キリストは自らが神であることを示されるため復活されました。キリストの十字架は、どこまでも、自分がよくありたいと思う人間の傲慢さ戒め、この世の栄誉を求めるのではなく、御父がおられる天上の世界の栄誉を求めるべきであると諭されています。にもかかわらず、人間は、この世の栄誉を願う傲慢な祈りを、十字架上の主キリストに性懲りもなくしています。まさに、「理解不能」の世界と言われてもしかたのない信仰の在り方です。しかしながら、十字架上の主キリストは、主キリストの教えの本質に生きるように、絶えず温かく人間を見守っておられます。絶えず回心することにより、主キリストと繋がることができるのです。この関係は、この世の終わりまで、恐らく続くのであろう。

私も幼いころは、十字架を崇敬する理屈を言われても、十字架上のむごたらしい姿は、なぜか素直に入ってきませんでした。心が豊かに何かに満たされたり、心地よくなるものではなかったのです。「悟りの境地に入った釈尊の形をあらわした仏像」の方が、安心してみることができると思いました。今は、十字架は全く違ったものになりました。イエズス会の聖イグナチオ・デ・ロヨラの祈り、「アニマ・クリスティ」(キリストの魂)は実にすばらしい。今ではこれが毎日の大切な祈りになっています。十字架は、様々の意味が込められていますが、キリストの受難これは、後の復活を示すためのものであり、それは永遠の命の世界、御父の世界があることを示されるためのものであったのです。このキリストの受難と復活を体験した弟子たちは、その後、人が変ったように、キリストが神であることを確信し、世界にキリストの教えを述べ伝え、教えが広まっていったのです。私達もこれを深く追体験することにより、信仰を強固なものにし、教えを述べ伝えていくことができるのだと思います。十字架はまさに救い主キリストを象徴するものです。このキリストの十字架上の贖いにより、人間は救われるのです。以前厳寒のなか深閑とする修道院で、一人黙想を行った孤独な部屋に一つあった装飾的なものは、十字架だけでした。それ以外は全く何もありませんでした。最初はいつも見られているような感覚でした。しかし、何日か経っていくと、ベッドの頭の上の壁に掛けられた十字架は、両手を拡げ、私を招いてくださっているかのような形に見えてきてきました。私に微笑み、見守っているから大丈夫だよと言われているように次第に感じるようになり、本当に心をこめて、十字架に祈るようになりました。これは、はじめての体験でした。あるカリスマ神父は、十字架をとても大切にされ、この十字架にキリストの教えの全てが詰まっていると言われ、納得するものがありました。それは、十字架をきるたびに、キリストの受難と復活を思いださせ、十字架にキリスト教の神の中心概念である三つのペルソナが、全て詰まっていることを、気付かせてくれるからです。心をこめて、十字架を大きく、ゆっくりときり、全てを委ねる気持ちが信仰の全てだと思いました。主キリストの受難と復活を念祷し、心をこめて十字架を切る人の姿は実に敬虔で美しい。十字架のきりかたに、その人の信仰の全てが表れています。

(アニマ・クリスティ)(キリストの魂) 聖イグナチオの祈り

キリストの魂、わたしを聖化し、キリストの体、わたしを救い、キリストの血、わたしを酔わせ、キリストのわき腹から流れ出た水、わたしを清め、キリストの受難、わたしを強めてください。いつくしみ深いイエスよ、わたしの祈りを聞き入れてください。あなたの傷のうちにわたしをつつみ、あなたから離れることのないようにしてください。悪魔のわなからわたしを守り、臨終のときにわたしを招き、みもとに引きよせてください。すべての聖人とともに、いつまでもあなたを、ほめたたえることができますように。アーメン

2010年8月フランスのルルドからスペインのサンティアゴコンポステラまで、バスで巡礼しました。その時に、日本にキリスト教を伝えた聖フランシスコザビエルのザビエル城を訪問しました。そこの聖堂で、微笑むキリストの像が見守るなか、随行司祭によるミサにあずかることができました。微笑む十字架上のキリストとの初めての出会いでした。そして、十字架に見守られた2015年2月の長崎の黙想後、この微笑む十字架と、長崎の中町教会で出会ったのです。私の黙想を祝福してくださった思いがしました。大感激でした。アーメン。

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               スペインザビエル城の微笑むキリスト           

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                      ザビエル城

聖フランシスコの祈りの中核にあったのは、キリストの受難の黙想であったと思います。既にお示ししてきたように、形ある祈りの「念祷」の中心は受難と復活です。特に受難の黙想は、深い回心の祈りには不可欠のものです。十字架の道行の祈りを行った後の深い回心の祈りは深いものとなります。私には聖フランシスコの霊性と聖イグナチオ・デ・ロヨラの霊性には、なぜか共通のものを感じます。聖フランシスコは優れた感性の人、聖イグナチオは優れた理性の人、何れも深い潜心と福音宣教を大事にしました。過去の日本における修道会の不幸な歴史があったが、今の教皇様がフランシスコを名乗られたように、もともとの本質的なところで一致していることを大事にされ、日本の宣教のため貢献されますよう、お祈りいたします。福者に認定された高山右近様は、都のフランシスコ会の教会にゆき、信仰はイエズス会と全く同じであったと言われたそうです。

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高山右近のブログ http://augusutinusu-t-ukon.cocolog-nifty.com/httpjusutotuko/

わたしの心の詩 上高地 ―神降地賛歌―

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