2025年8月31日日曜日

関西だけど鉄道が来ない!「淡路島」には何がある⁉︎ 1泊2日の旅

鹿ケ谷の陰謀 - Wikipedia

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鹿ケ谷の陰謀

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鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)は、平安時代安元3年(1177年)6月に京都で起こった、平家打倒の陰謀事件。京都、東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の静賢法印信西の子)の山荘で謀議が行われたため、このように呼ばれた。近年では、平清盛によるでっち上げだとする説など解釈に諸説あり、「鹿ヶ谷の事」と著す学者もいる。

経過

建春門院の死

安元2年(1176年)後白河法皇は50歳になり、正月から祝いの行事が続いた。平氏一門も法住寺殿の宴に出席して、法皇との親密ぶりを誇示した。しかし6月に妻の建春門院の病状が悪化し、7月8日に死去した。相前後して、異母妹で長男の二条天皇の中宮だった高松院(姝子内親王)・孫の六条上皇・異母弟近衛天皇の中宮だった九条院(藤原呈子)が亡くなり、政界はにわかに動揺する。

まず母・建春門院の死により、皇子のいない高倉天皇の立場が不安定となった。成人して政務に関与するようになった高倉天皇と、院政継続を望む後白河の間には対立の兆しがあったが、12月5日の除目において後白河近臣の藤原定能藤原光能が、平知盛らを超えて蔵人頭に任じられた。後白河院政派の躍進に対する巻き返しとして、翌安元3年(1177年)正月の除目では平重盛左大将平宗盛が右大将となった。建春門院という仲介者を失ったことで、人事を巡り高倉を擁する平氏と後白河院を擁する院近臣勢力は相争うことになる。それでも3月14日に後白河院が千僧供養のために平清盛が滞在している福原を訪れて平氏に好意的態度を示し、亀裂は修復されたかに見えた。

白山事件

ところが、後白河が帰京した3月22日、山門(比叡山延暦寺)の大衆加賀守・藤原師高の配流を求めて強訴を起こした(白山事件)。発端は後白河の近臣である西光の子・師高が加賀守に就任し、同じく子の藤原師経がその目代となり、師経が白山の末寺を焼いたことに激怒した白山の僧侶が山門に訴えたことだった。国衙の目代と現地の寺社が、寺領荘園 (日本)の所務を巡り紛争を起こすことは各地で頻発していたが、この事件では白山が山門の末寺で、国司と目代が院近臣・西光の子であることから、中央に波及して山門と院勢力の全面衝突に発展した。

後白河は目代・師経を備後国流罪にすることで事態を収拾しようとしたが、大衆(僧徒)は納得せず4月12日に神輿を持ち出して内裏に向かう。後白河は強硬策をとり官兵を派遣するが、翌日警備にあたった重盛の兵と大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たって死者も出したことから事態はさらに悪化する。大衆は激昂して神輿を放置して帰山、やむなく朝廷は祇園社に神輿を預けて対応を協議した。4月20日、師高の尾張国への配流、神輿に矢を射た重盛の家人の拘禁が決定、大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着する。父親の西光については一時配流が決定された[1]が、実際には後白河の取り成しを大衆側が受け入れる形で許されることになった。

山門攻撃準備

直後の4月28日、「太郎焼亡」と称される安元の大火が発生、大極殿および関白松殿基房以下13人の公卿の邸宅が焼失して、人々に衝撃を与えた。このような中で、後白河は突如として先の事件を蒸し返し、5月4日に天台座主明雲の逮捕を検非違使に命じ、翌日には座主職を解任、所領を没官すると5月21日に伊豆国へ配流した。西光が師高の流罪を嘆き、強訴の張本人が明雲であるとして処罰を訴えたことが原因であったという。また、『愚昧記』(5月5日条)によれば、著者の三条実房が院近臣の藤原光能から先に延暦寺が起こした嘉応の強訴の際に大衆の強訴を明雲が許可していたとの密告があり、その証拠となる文書が届けられたという説明を受けたという。嘉応の強訴で配流された藤原成親は西光の義兄(西光は成親の父である藤原家成猶子)であった。

ところが、座主の解任と配流に反発する大衆が再度強訴に踏み切るという噂が京中を流れるが、実際には解任と配流の取消を求める使者を派遣して後白河に却下されるに留まった。なお、この時後白河は警備担当者の検非違使山木兼隆に対して強訴の大衆が明雲奪還に向かった際には明雲を即刻斬首せよと命じたとされている[2]。5月22日明雲の身柄は伊豆の知行国主であった源頼政の兵に護衛されて京都を出発する。ところが23日に近江国(粟津とも国分寺とも)にて大衆2千人が護送の行列を包囲、明雲の身柄を奪回して比叡山に逃げ込んでしまった。頼政は後白河の叱責を受けるが、先に大衆と戦ったために却って捕らえられた重盛の郎党を目の当たりにしているだけにこれを防ぐ意欲はなかったと考えられている。次いで明雲捕縛に派遣された多田行綱も空しく帰還するだけであった。明雲の奪還と比叡山内への隠匿には全山的な合意があったと考えられ、日本におけるアジール出現の最初の事例とも言われている。

これに激昂した後白河は平重盛・宗盛(この時両名が近衛大将を占めていた)に対して坂本を封鎖して山門(延暦寺)そのものを攻撃するようにという命令を出したのである。驚いた2人は福原にいた父・清盛に判断を仰いだ。容易でない事態と判断した清盛は直ちに上洛し、27日の夜に京都に入った。28日に後白河と会見した清盛は攻撃には消極的で後白河を思いとどまらせようとしたが、後白河に押し切られる形となり、近江美濃越前武士も動員されて攻撃開始は目前に迫った。

陰謀発覚

出撃直前の6月1日夜半、清盛の西八条邸を多田行綱がひそかに訪れ、西光らが平氏打倒の謀議を行っていた事を密告した[3][注釈 1][注釈 2][注釈 3]。謀議を知った清盛は延暦寺攻撃を中止。直ちに軍勢に動員をかけ、市内は武装した平家の武士たちで溢れかえった。平家軍は西光を捕縛、清盛のもとに連行し、拷問にかけて全容を自供させてから斬首した。呼び出されて清盛邸に出頭した成親も西光の自供を突きつけられ、拘束された。事を聞いて清盛邸に来た重盛は、命だけは助かるようにすると妻の兄である成親を励ましたという[4]。西坂本まで下っていた山門の大衆はこの動きを知ると、清盛に使者を送り敵を討ったことへの感謝を述べて山へ戻っていった。4日、俊寛・基仲・中原基兼・惟宗信房・平資行・平康頼など参加者が一網打尽にされ、5日、明雲が配流を解かれた。9日、尾張に流されていた師高が、清盛の家人の襲撃を受けて惨殺される。成親は一旦は助命されて備前国に配流されるが、食物を与えられず、崖から突き落とされて殺害された。

影響

謀議が事実であったかどうかは当時でも議論があり、西光と成親が清盛の呼び出しに簡単に応じていることから、平氏側(清盛)が院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との衝突を回避するためにでっち上げた疑獄事件の可能性もある。一方、『百錬抄』が「成親卿已下密謀有るの由」、『愚管抄』が「成親、西光、俊寛ナド聚(あつま)リテヤウヤウノ議ヲシケルト云事ノ聞エケル」と記している。清盛が狙いをつけたのは院近臣の中核である西光・成親で、後白河には手を下さず福原に引き上げた。後白河は「こはされば何事ぞや、御とかあるべしとも思し召さず」と白を切ったという。また、清盛も後難を恐れて院御所への出仕を拒む諸臣に出仕を命じていることから、この時点で後白河への処分を見送ったと考えられている。

延暦寺攻撃という後白河の命令に清盛が抵抗した理由については次の理由が考えられている。当時の人々からは、神罰や仏罰の存在が真実であると考えられていた。しかも平安京を仏法で守護していると信じられてきた延暦寺を攻撃するともなれば、ただでは済まされず必ず仏罰を受けると思われていた。これは、『平家物語』のこの事件の件において、かつて関白藤原師通が延暦寺大衆の攻撃を命じた仏罰を受けて死亡したという故事を載せていることからも理解可能である。特にそれを命じたのが治天の君であり、「王法」の代表者とされた後白河であったことは、王法と仏法の相互依存によって国家が守護されるという「王法仏法相依」理念の崩壊を意味することにもなりかねない深刻なものであった。実際に攻撃を命じられた清盛の立場からすれば、延暦寺攻撃による因果応報によって自己及び平家一門が仏罰を受けて滅亡するという事態を危惧することは十分に考えられ、それを強制的に平家一門に行わせようとした後白河及び院近臣に何らかの意図を疑う余地があったと考えられる[注釈 4]。「延暦寺攻撃命令=平氏一門滅亡の謀略」という発想は、その後の足利義教細川政元織田信長比叡山焼き討ちの事実を知る後世の人々には突飛に見えても、清盛及びその時代の人々には通用する構図であったと考えられるのである[注釈 5]

一方、重盛は、白山事件で家人が矢を神輿に当てる失態を犯したのに加え、妻の兄が配流されて助命を求めたにもかかわらず殺害されたことで面目を失い、6月5日に左大将を辞任した。この結果、宗盛が清盛の後継者の地位を確立した。また、清盛の弟で、成親捕縛時に重盛と共に居合わせた頼盛も、妻の兄弟の俊寛が参加していた事で同じく面目を失い、後白河の院近臣としてただでさえ微妙だった立場がより悪化していく事になる。清盛は山門との衝突を回避し、反平氏の動きを見せていた院近臣の排除に成功したが、清盛と後白河の関係は修復不可能なものとなり治承三年の政変1179年)へとつながっていく。

史料

脚注

注釈

  1. 行綱は藤原成親らから反平家の大将を望まれるが、平家の強勢と院近臣の醜態から計画の無謀さを悟り平清盛に密告したとされる。
  2. ただし『愚管抄』によれば、清盛が福原を立つ前に行綱と会見していたという)。後白河が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まり平氏打倒の計画が話し合われ、行綱が呼ばれて旗揚げの白旗用として宇治布30反が与えられたという(円はこの事件に関する記述については「一定の説は知らねども」と真相を確認した訳ではないとも記している)。
  3. また『平家物語』によれば、成親が立ち上がって瓶子(へいじ)が倒れ、後白河が「あれはいかに」と問うと成親が「平氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどうするか尋ねると西光が「頸をとるにしかず」と瓶子の首を折り割ったという。なお、この会合を比叡山攻撃の方針を確認した会合に過ぎなかったとする見解もある。多田行綱は明雲捕縛に失敗したという行きがかりがあり、会合の目的が延暦寺攻撃・平氏打倒のいずれにしても何らかの軍事行動に加わる立場にあったと推定される。
  4. 下向井龍彦は清盛がこの命令をきっかけに平家と対立する院近臣層の排除に乗り出したと説く。一方、河内祥輔は後白河や院近臣に平家に対する敵対の意思が無かったとしても、命令出したことそのものを平家に対する陰謀と清盛が受け止めて院近臣に敵意を抱いたとする。
  5. 後の治承4年12月11日におこなわれた日本で最初の仏教寺院への直接武力行使となる園城寺攻撃において、僧房などの宗教的な要素が低い部分に攻撃を限定し、堂塔への攻撃を避けることで問題回避を図ることになる。また、南都焼討は大衆との市街戦はあったものの、火災は失火によるものである。

出典

  1. 『愚昧記』4月15日条
  2. 『玉葉』・『愚昧記』・『百練抄
  3. 『平家物語』
  4. 『愚管抄』

参考文献

関連項目

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外部リンク

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平忠盛 - Wikipedia

平忠盛 - Wikipedia

平忠盛

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曖昧さ回避 忠盛」はこの項目へ転送されています。小惑星については「忠盛 (小惑星)」をご覧ください。

平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代後期から末期の武将平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠[注釈 3]

伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。

生涯

白河院政期

父の正盛は白河法皇北面武士として仕え、源義親の追討で武名を上げた。一方で源義忠に息女を娶わせるなど、先行の軍事貴族である河内源氏とも連携を図り、義忠は忠盛の烏帽子親となっている。義忠死後に河内源氏が衰退するのと入れ替わるように、伊勢平氏は源氏の与党を従わせつつ勢力を伸ばしていった。

天仁元年(1108年)、忠盛は13歳で左衛門少尉となり、天永2年(1111年)には検非違使を兼帯して、京の治安維持に従事した。天永4年(1113年)には盗賊の夏焼大夫を追捕した功で従五位下に叙される[1]。同年の永久の強訴では父とともに宇治に出動して興福寺の大衆の入京を阻止している。永久2年(1114年)、白河院の寵妃・祇園女御に鮮鳥を献上し、父に続いてこの女御に仕えた。その後、検非違使の任を離れ伯耆守となり、右馬権頭も兼任する。

永久5年(1117年)、鳥羽天皇に入内した藤原璋子(待賢門院)の政所別当となる。他の別当には藤原長実藤原顕隆など白河法皇の有力な近臣が名を連ねており、法皇の信頼の厚さがうかがえる。元永2年(1119年)11月14日の賀茂臨時祭では新舞人に選ばれ、その華やかな装いは「道に光花を施し、万事耳目を驚かす。誠に希代の勝事なり」と周囲を驚嘆させた[2]保安元年(1120年)に越前守に転任するが、在任中に越前国敦賀郡で殺人事件が起こり、犯人の日吉社神人を逮捕して検非違使に引き渡す途中で、延暦寺悪僧が犯人の身柄を奪取するという事件が発生する。朝廷が悪僧を捕らえたことで延暦寺の強訴に発展するが、白河法皇は忠盛を擁護した。この頃に院の昇殿を許され、藤原宗子(池禅尼)を正室とする。

大治2年(1127年)、従四位下に叙され、備前守となる。さらに左馬権頭を兼任し、院の牛馬の管理を行う院御厩司となった。馬寮と院御厩は職務内容が共通するため兼任は自然なことであったが、戦闘における騎馬の重要性の観点からすれば、軍事貴族である忠盛にとっては大いに意義のあるものだった。大治4年(1129年)3月、忠盛は山陽道南海道海賊追討使に抜擢される[3]。これは、正式な宣旨ではなく院宣検非違使別当宣(別当は待賢門院の兄・三条実行)によるものであり、白河法皇の強引な引き立てだったと考えられる。それから間もなくの7月7日、白河法皇が77歳で崩御した。忠盛は法皇の葬儀で他の近臣とともに入棺役を務め、山作所(火葬場)の設営も担当した。

鳥羽院政期

鳥羽上皇が院政を開始すると、忠盛は御給により正四位下に叙される。白河院近臣の多くは鳥羽院近臣に横滑りし、忠盛も鳥羽上皇および待賢門院の北面となる。院御厩司の職務もそのまま継続が認められた。白河法皇が崩御して程なく、死んだと思われていた源義親を名乗る者が京に出現して藤原忠実の邸に保護されていたが、何者かに襲撃され殺害されるという事件が起こる。忠盛にも嫌疑がかけられたが、真犯人が美濃源氏源光信と判明したことで事無きを得た。

天承2年(1132年)、上皇勅願の観音堂である得長寿院造営の落慶供養に際して、千体観音を寄進する。その功績により内昇殿を許可された。『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たちによる闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す機転によって防ぎ、鳥羽上皇から賞される(殿上闇討)。また、鳥羽上皇の前で舞を披露した際、忠盛が斜視(すがめ)だったことから、公卿たちに伊勢の特産品「酢瓶の瓶子」と囃し立てられたが、見事な舞踏を演じて逆に賞されたという話も残っている。なお、内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇だった。中御門宗忠は「この人の昇殿猶未曾有の事なり」[4]と評した。

やがて鳥羽法皇の寵愛が藤原得子(美福門院)に移り藤原家成が院近臣筆頭の地位を確立すると、忠盛は妻の宗子が家成の従兄弟であったことから親密な関係を築いていく。鳥羽院政期になると荘園整理が全く実施されなくなったため、各地で荘園は爆発的に増加した。忠盛も受領として荘園の設立に関与し、院領荘園の管理も任されるようになった。肥前国神埼荘預所となった忠盛は、長承2年(1133年)宋人・周新の船が来航すると院宣と称して、荘園内での大宰府の臨検を排除しようとした[5]日宋貿易は民間で活発に行われ博多には宋人が居住し、越前国の敦賀まで宋船が来航することもあった。忠盛は越前守在任中に日宋貿易の巨利に目を付け、西国方面への進出を指向するようになったと思われる。

保延元年(1135年)、中務大輔に任じられる。この頃、日宋貿易につながる海上交通ルート・瀬戸内海は、海賊の跋扈が大きな問題となっていた。これらの海賊は、有力な在地領主、神人・供御人の特権を得た沿岸住民などが経済活動の合間に略奪しているケースが多く、国衙の力だけでは追討が困難だった。4月8日、西海の海賊追討について忠盛と源為義のどちらが適当か議論となったが、備前守を務めた経験を買われ、「西海に有勢の聞こえあり」という理由で忠盛が追討使に任じられる[6]。8月には日高禅師を首領とする70名の海賊を連行して京に凱旋した。もっともその多くは忠盛の家人でない者を賊に仕立てていたという[7]。忠盛は降伏した海賊(在地領主)を自らの家人に組織化した。

その後、美作守に任じられる。保延5年(1139年)、別当・隆覚の停任を求めて興福寺衆徒が強訴を起こすと、宇治に出動して入京を阻止した。天養元年(1144年)、正四位上に叙され尾張守となった。忠盛は鳥羽院庁の四位別当としても活動した。同僚の藤原忠隆は貴族でありながら乗馬の達人で意気投合するところがあったのか、忠隆の子・隆教は忠盛の娘を妻に迎えている。なお、忠隆の妻・栄子は崇徳上皇の乳母であり、忠盛の妻・宗子は崇徳上皇の子・重仁親王の乳母だった。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳上皇を中心に展開していた。忠盛自身も和歌に通じ、たびたび崇徳主催の歌会に参加した。崇徳にとって忠盛はもっとも頼りにできる人物だった。

久安2年(1146年)、忠盛は播磨守に任じられる。播磨守は受領の最高峰といえる地位であり、受領から公卿への昇進も間近となった。ところが、翌久安3年(1147年)6月15日、清盛の郎党が祇園社神人と小競り合いとなり、多数の負傷者が出る騒ぎとなる(祇園闘乱事件)。忠盛はすぐに下手人を検非違使庁に引き渡すが、祇園社の本寺である延暦寺は納得せず、忠盛・清盛の配流を求めて強訴を起こした。忠盛にとっては大きな危機だったが、鳥羽法皇は忠盛の有する軍事的・経済的実力を重視して延暦寺の要求を斥けた。事件後、忠盛は伊勢の自領を祇園社に寄進して関係修復を図っている。

久安4年(1148年)、藤原忠隆が公卿に昇進すると忠盛は四位の最上位者となり、翌久安5年(1149年)には忠隆の後任として内蔵頭となった。同年3月、熊野詣の途中で次男の家盛が急逝するという不幸に見舞われる。忠盛は家盛の死を嘆き、哀傷歌を遺している。仁平元年(1151年)、刑部卿となる。この時、鳥羽法皇に意見を求められた藤原頼長は「生まれは卑しいものの、正四位上・内蔵頭・播磨守を歴任しているので問題はない」という見解を示した[8]

仁平3年(1153年)、忠盛は公卿昇進を目前としながら58歳で死去する。頼長は『宇槐記抄』にて「数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ。人となり恭倹、いまだかつて奢侈の行いあらず、時人これを惜しむ」とその死を悼んだ。

経歴

※日付=旧暦

※宮崎康充『国司補任』(続群書類従完成会)や『中右記』等参照。

系譜

画像集

  • 忠盛塚(津市)(三重県津市産品1437‐1平氏発祥伝説地碑有り)

    忠盛塚(津市)(三重県津市産品1437‐1平氏発祥伝説地碑有り)

  • 胞衣塚(忠盛塚)(手前は産湯池)

    胞衣塚(忠盛塚)(手前は産湯池)

  • 忠盛塚(津市)後方(農道方面から撮影)

    忠盛塚(津市)後方(農道方面から撮影)

脚注

注釈

  1. 源平盛衰記』によると、忠度のすぐ上の兄である六男の忠重がいたと述べている。
  2. 母親は藤原為忠の娘で忠度の同母姉妹。
  3. 」の字は義忠から与えられた偏諱と考えられる。

出典

  1. 長秋記』3月14日条
  2. 中右記』11月19日条
  3. 朝野群載』巻11
  4. 『中右記』3月22日条
  5. 『長秋記』8月13日条
  6. 『中右記』『長秋記』同日条
  7. 『中右記』『長秋記』8月19日条
  8. 台記別記』

参考文献

  • 五味文彦『平清盛』吉川弘文館〈人物叢書〉、1998年。normal 
  • 高橋昌明『清盛以前-伊勢平氏の興隆-』(増補改訂)文理閣、2004年。 

関連作品

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映画
テレビドラマ
ラジオドラマ
人形劇

関連項目

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外部リンク

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堅牢~穴太の石積~

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