2026年2月16日月曜日

【名医伝】和田東郭先生語録 | 漢方専門の相談薬局 – 山梨県甲府市・漢方坂本

【名医伝】和田東郭先生語録 | 漢方専門の相談薬局 – 山梨県甲府市・漢方坂本

【名医伝】和田東郭先生語録

日本東洋医学の歴史において、

最も重要な時代を一つ上げろと言われれば、間違いなく江戸時代です。

特に江戸後期から末期にかけて、さまざまな名医が実学を求めました。

それまであった、思想や理屈に拘泥しがちな東洋医学を、

多くの臨床家たちが独自の見解をもって、治療として成り立つ医学にまで昇華させました。

平成・令和の漢方が、昭和時代の漢方をいしずえとしているならば、

昭和漢方の礎は、確実に江戸末期にあります。

江戸の医学に称賛を惜しまない昭和の大家たちの発言は、

現在我々が目にいしている漢方がいかに江戸医学の隆盛に支えられているのかを、如実に物語っています。

江戸末期の漢方家といえば、

このコラムでもたびたび登場する尾台榕堂おだいようどう浅田宗伯あさだそうはくを筆頭に、

山田正珍やまだせいちん山田業広やまだぎょうこうなども忘れてはいけません。皆、天才としか言いようのない臨床家です。

そして今回紹介したいのは、その彼らが称賛した天才。

さらに一時代前である江戸後期の名医「和田東郭わだとうかく」についてです。

東郭先生語録

江戸後期のはじめ、京都において活躍した和田東郭は、

同じく京都の押しも押されぬ名医・吉益東洞よしますとうどうの門下生でした。

しかし必ずしもその医説に従わず、自らの道に進みます。

当時「万病は一毒によってなされ、毒は腹中に有り」とした吉益東洞に対して、

「ならば先生の腹はすこぶる綺麗なんでしょうね。腹を見せてください。」と、

真っ向から東洞を問い詰めたといいます。

この時代、吉益東洞といえば医学界の超大物ですから、

和田東郭の胆力というか、誠を貫かんとする意気込みには震えるものがあります。

東郭の医説は門人が数々の書を残しましたので、そこから我々も彼の理論やその思想を知ることができます。

それがまた秀逸。一臨床家として、私もその書から多くのことを学びました。

今回はそんな和田東郭の言葉を、『蕉窓雑話しょうそうざつわ』より抜粋していくつかご紹介したいと思います。

漢方を志している方にとっても、とても面白い内容が多いので、

是非、東郭の言葉を聞きながら、江戸医学のありようを思い浮かべてみてください。

とにかく人は「実意深切」というものが第一である。
これに心をとめて尽くして見る時は、すなわち「忠」である。
この忠をつらぬく時は、岩をも通す力があるものだ。

(※筆者意訳・以下同様)

まず最初に紹介したいのがこの一文。

これこそが東郭の姿勢。彼の医に対する態度であり、彼自身のアイデンティティーだと私は感じます。

とにかく人を診察するときは、「実意深切」でありなさいと。行動の裏に、深い思いやりを持てということです。

そしてその心を強く宿せば「忠」、すなわち何事にもぶれない誠の姿勢が生まれると。

それを貫けば、その力は岩をも通すほどだというのです。

この人、ほとんど武人です。要するに侍のような人です。

多分、あまり笑わない人じゅあないかなぁ。いや、これ褒めてます。褒めているというとおこがましいのですが、要するに非常に実直な方だろうな、ということです。

ぜったいに治すぞという気概。その忠心を心に秘めて、おそらく眉間にしわを寄せながら常に病と闘ってきた人です。

そんな人となりがこの文章から伺えます。だからこそ、診察に当たっては、次のようなことが大切だと言っています。

病の人に対した時は、肩が怒らないようにしなければならない。
なぜならば、肩が怒るような時は、
こちらの気分の収まりが悪く、うわついているからである。
とにかく気を静めて、ただ向こうの言うことをふんふんと
聞いている気になって気を収めるようにする。
気が収まれば、肩が怒ることはない。

患者さまに対するときは、とにかく気を落ち着けろと言っています。

怒るな、気を急くなと。とにかく怒気を収めて、静かなる心持ちで病を見ろと言っているわけです。

硬く心に秘めた忠心は、ややもすれば強い態度として外に出てしまうものです。

治そう治そうと肩を怒らせ、人の話がきけない。それでは医術は行えないということです。

想いは強く、ただし態度は軟らかく。ある意味、謹厳実直な性格を持つ東郭だからこそ、この戒めを自らに心がけていたのでしょう。

東郭先生の人柄が見える気がしませんか。師匠であったら、きっと怖い人だったのだと思います。

怒気を持つ彼だからこそ、常に柔らかさを意識することの大切さを、こうやって説いているのだとも思うのです。

東郭先生はさらにこう続けます。

病人を見ている最中に、
これから何軒も何軒も往診しなければ、
などと気が急いてしまえば、
必ず見落としが出てしまうものである。
よくよく心得なければならない。

臨床家であれば、皆さん誰でも思い当たるフシがあるような、実にリアルな戒めだと思いませんか。忙しい時ほど気もそぞろ。先のことを考えて気が急いてしまう。

治そうという強い気概を持つからこそ、自らが感じたことをありのままに表現される東郭先生。

やはり、誠心・実直の方だと私は感じるのです。

さて、そんな和田東郭先生は、いったいどのような腕前を持った方だったのでしょうか。

臨床家としての姿勢、そして医に対する態度、確かに立派です。しかし、それだけでは名医とは言えません。

言うことは立派、でも治せる技量は無い、そういう臨床家は江戸時代にもごまんといました。

その中で名を残した名医。そんな東郭先生が残した口訣は、息を飲むほどの達人っぷりを私達にまざまざと見せつけます。見ていきましょう。

古き名医たちが病を診察する時は、
その色を望む場合でも目ではなく、
その声を聴く場合でも耳ではなく、
単に目や耳だけで人を知ろうしなかった。
故に病のサインを体表から察することができたのだ。

この意味、分かるでしょうか。

少し、難しいことを言っているように聞こえるかも知れません。

昭和の名医・松田邦夫先生は、この文章の意味をこう表現しています。

診察の極意、それは人の五感を越えた所にあると。

和田東郭は非常に勘の鋭い方でした。勘といってしまえば、まるで占いのような人智を超えた能力のように聞こえてしまうかも知れません。

しかし、そうではありません。あくまで誰であっても感じることができるものです。

ただし普通の方では気にもとめないようなことに、ちゃんと臨床上の意味をもたせることができていたのです。

例えば、心地よい朝日を感じれば息を深く吸い込みたくなります。その意味を、ちゃんと理解することができていたということです。

例えば、雨の日に一日中家で丸まって寝ている猫を見て、その意味をちゃんと理解することができていた、ということです。

私の例えが正しいかどうかは置いといて、とにかく患者さまから誰しもが感じ得る事象に意味をもたせることができていたのです。

何人もの患者さまを視てきた、その経験があるからこそ、普通の人では気にもとめないような確かな実感に着目できた。これが、単に目や耳で知ろうとしなかったという意味なのです。

常々言い示す通り、
総じて病人のいる所へすぐに入っていってはいけない。
必ず一、二の間をおいて、
まず何となくその形様を遠くからとくと眺めてみなさい。
(中略)その歩きようや、座りようなどの勢いをチラチラと見ておいて、
その軽重や虚実の大枠を一つ心に認めておくようにする。
反ってこのチラと見ることによって、よく分かるものです。

多くの病を治してきた名医だからこその口訣です。

実際にこういうことは、本当に良くあることなのです。

患者を目にした瞬間に感じる印象。そして本人が無意識に起こしている態度。こういった患者自身さえも気に留めていない様子こそが、その方の状態を如実に物語ることがあるのです。

これは、臨床家であれば誰しもが共感できることだと思います。もしかしたら東洋医学に留まることではないと思います。

勘といってしまえばそれまでですが、当てずっぽうでは決してありません。

見た瞬間に「なるほど」と、理解できるものがあるのです。

では、何故それができるのでしょうか。

まず第一に、今まで何人の患者さまを診てきたのか。

その数がものを言うと思います。

さらにその極意を、東郭先生は以下のように説明しています。

私はこの言葉を目にしたときに、背筋に鳥肌が立ちました。

患者を視る時に、
患者を視ているとは思ってはいないのだ。
患者をもって我と為す。
つまり彼・我を分けて考えていないのである。

没我の境地。

患者に起こっていることを、まるで自分に起こっているかのように感じることで、その具体的な病態を実感し得たのです。

研ぎ澄まされた臨床感覚。

東郭先生の言葉は、卓越した腕を持つ臨床家だということを証明するだけでなく、

確かにそうだと感じさせる説得力があります。臨床家として感じ入るものが、確かにあるのです。

厳格かつ実直な医道への熱意。そういう志を持った人間だからこそ、到達することの出来た境地なのでしょう。

ただし、医道はただそれだけを行っていたとしても、決して極められるものではありません。

むしろ普段の生活に転がっているさまざまな事象に、目を向けることが大切だと。

さまざま物事に想いを馳せ、感動し、気付かされる感受性を持つこと。

東郭先生は、そう我々に教えを説いています。

何をしていても道につなげることが出来るからこそ、医道は深く、高く達することができるようになるのです。

医たる者、よく医道に心を用いるときは、
事々物々の中に、自然と我が道の法則と思い合わすべきことを遇しているものだ。
(中略)庭の樹木を見るときも、山に遊び水に浮かぶときも、
また煙草盆一つを手に取ってみるときでも、
事々物々の中に自然と我が術の工夫の手がかりとなることが遇している。

感受性こそが大切です。

一筋に漢方を思い続けるからこそ、何気ない日々の生活の中から多くのヒントが生まれてくるということです。

そして道を極めると、ある結論に達します。

和田東郭先生の言葉、その中でも特に有名な至言。

「用方簡なる者は、その術日にくわし」

到達する答えは、常にシンプルであるという口訣です。

処方を簡(簡潔)に用いる者は、
その術が日を追うごとに精通してくるものだ。
しかし処方を繁(繁雑)に用いるものは、
その術が日を追うごとに粗くなるものである。
世の中の医者は、ややもすれば簡であることを粗となし、
繁雑なものを精だと勘違いしている。
哀しいことだ。

和田東郭、その臨床の境地。

彼以後、江戸漢方は隆盛を極めるとともに、実学として性質を濃く色づけていくことになります。

その誠心・実直な意思と、類まれなる観察眼をもって、

後の医道に大きな影響を与えた和田東郭の言葉。

いかがでしたでしょうか。感じ入るものがありましたか。

後に浅田宗伯に絶賛されたことや、抑肝散や四逆散の運用に長けた名医として有名ですが、

それ以上に彼の根底にある、臨床家としての卓越した思想こそが、名医たる所以なのだと私は感じています。

私事ですが、先代である父は特に和田東郭を愛した人でした。

どこで作ったか分かりませんが、当薬局の壁には「和田東郭方函」と銘打たれた161処方が刻まれています。

父も書を読むときは、よく眉間にしわを寄せていました。

そして患者さまを見るときは、わざと深く腰掛け肩を脱力させていたように思います。

性格的にも、東郭先生の言葉に感じ入るものがあったのでしょう。

今ならば分からなくもない。確かに至言だと、私も思うのです。

私の中で、父と東郭先生とはどこか重なる部分があります。

怒気を内包した鋭さというか。私にとっては怖い人だったからこそ、

東郭の言葉を見ると、まるで父に言われているように感じるのです。

最後に、東郭先生の言葉をもう一つ紹介して終わろうと思います。

私自身への訓戒として。

これは父から受け継いだ、当薬局の本旨であると、私は受け止めています。

医の任務とは、ただ病を察するのみ。
富貴を観るのではなく、ただ病を察す。
貧賤を観ることなく、ただ病を察す。
たとえ激しく訴える病を見ても落ち着け。必ず劇中の易を察せ。
たとえ軽そうな病を見ても軽視するな。軽中の危を察せ。
これを肝に命じて、ただ病を直視しろ。
それこそが医の任務。病を察するの道なり。



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薬が効かないなら、石を撫でろ」 江戸時代の名医・和田東郭による驚きの症例です。 気鬱(メンタルの不調)に苦しむ患者に、彼はあえて薬を使わず「石」を与えました。 「温まるまで撫で続け、温まったら新しい石と交換せよ」 https://t.co/8wzFOPtteZ

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石って残留思念とかが宿りやすいから、あまり気軽に持ち帰らないほうがいいというのも聞いたことある……。 x.com/mizuho_kampo/s…

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「薬が効かないなら、石を撫でろ」 江戸時代の名医・和田東郭による驚きの症例です。 気鬱(メンタルの不調)に苦しむ患者に、彼はあえて薬を使わず「石」を与えました。 「温まるまで撫で続け、温まったら新しい石と交換せよ」 

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使徒トマスはインドで福音を説教しに行きました。西暦50年、インドってどんな国だったんだろう? : r/AskHistorians

2/2

トーマス伝説の話になると、ちょっと面白くなってくるんだよね。伝統的な話では、彼は西暦52年にインド南西部のケララ州にあるコーチの港に到着したんだって。そこから陸路で福音を説いて回り、今のチェンナイのあたり(マイラプルが候補地)で処刑されたらしい。インドを横断して、西暦72年にインド南東部に行ったんだね。1498年にポルトガル人がその地域に到着したとき、トーマスの血を引くというキリスト教徒に会ったんだって。インドに住んでいたとき、ケララ出身でマル・トーマ共同体とつながりのある友達がいて、彼女もこの伝統を信じてたよ。でも、これらのキリスト教徒はシリア人キリスト教徒とも呼ばれることが多くて、2つの対立する説があるのは明らかだよね。また、タパルによると、エデッサのカトリック教会は、トーマスがシリアから2回の宣教旅行をしたと主張しているんだ。1回目はパルティアへ、2回目はインドへ。おそらく海路を使って、マルバール海岸に共同体が出現したんだって。この伝統が本当なら、2つの説明の違いを調和させたり、少なくとも説明したりできるかもしれないね。

西暦1世紀の記録を見てみると、インドに関する知識がかなり発展していたことがわかるんだ。ヘロドトスの知っていたことを参照すると、彼の知識は限られていて、しばしば不正確だったことがわかる。彼は『歴史』の第3巻(主に3.97-106)でインドについて数章書いているだけで、他の場所でも少し言及している程度なんだ。ヘロドトスはインドの富、ペルシア帝国の属州であること、多数の民族がいること、そして彼らの独特の習慣について言及しているんだ。彼は2つの部族の名前(3.38のカラティアエと3.98のパダエイ)を挙げ、金を発掘する巨大なアリや、動物を傷つけることを避ける菜食主義者のグループについても説明しているんだけど、これはまるでジャイナ教徒みたいだよね。

プリニウス(大プリニウス)は、西暦77年頃に出版された『博物誌』の中で、インドについてもっと詳しく書いているんだ。第6巻の21-26章では、カースト制度について報告し、インダス川、ガンジス川、西海岸を含む広範囲な地理について説明し、多くの部族の名前を挙げているんだ。プリニウスは、多くの人がインドを物理的な大きさも人口も広大な国だと考えていたと報告しているよ。プリニウスだけがインドについて言及しているわけではなくて、他の同時代の作家もこの国について言及しているんだ。さらに、1世紀には直接的な接触もあったんだ。ディオ・クリュソストムは、エジプトのアレクサンドリアで聴衆に演説し、その聴衆の中にインド人がいたことを言及しているんだ(『演説』32.40)。これらの言及をすべて説明する必要はないけど、この2つだけでも、インドに関する知識があっただけでなく、接触もあったことがわかるよね。これは、アレクサンダー大王の遠征の結果として部分的に発展したんだけど、紀元前3世紀には、インド皇帝アショーカ(「大王」とも呼ばれる)が現在のインドとパキスタンのほぼすべてを征服し、マウリヤ朝は最盛期には現在のイランとアフガニスタンにまで及んだんだ。アショーカは仏教を受け入れ、他の国々に宗教を広めるために宣教師を派遣したんだ。ローマ帝国にインド大使館が派遣されたという記録(例えば紀元前25年)や、マルバール海岸でローマのコインが見つかっているんだ。だから、街の普通の人はインドについてぼんやりとした考えしか持っていなかったかもしれないけど、知識のある人たちの間ではある程度の知識があったんだよ。

この知識をトーマス伝説と結びつけて考えると、エウセビウスの著作で以前に見たパンテヌスがアレクサンドリア出身だったということが面白いと思うんだ。アレクサンドリアは、多数の活気あるユダヤ人コミュニティがあった場所なんだ。ユダヤとアレクサンドリアは、海路を通じてインドと接触していたことが知られていて、エウセビウスは『パレスチナの殉教者』6.2で、インドとエチオピアを動物の点で結びつけているんだ。おそらく、両方とも紅海沿岸の同じ港を経由していたからだろうね。『エリュトゥラー海案内記』は、イエスの死後すぐに書かれたもので、アラビア海周辺のさまざまな地域や港をリストアップすることで、ローマのユダヤとインド南西部との間の貿易関係を示しているんだ。北部のスキタイ(インダスデルタ地域周辺)、アリアカ(インドの中央部)、ダキナバデス(インド南部)への言及があるんだ。これには、トーマスが訪れたと言われる地域も含まれているんだよ。

さらに興味深いのは、コーチが古代ユダヤ人のディアスポラ共同体の場所だったと報告されていることなんだ。伝統では、彼らはソロモン王の時代、つまり紀元前900年代にまで遡るんだって。イエスの信者たちは、初期の宣教活動で他のユダヤ人を主なターゲットにしていたんだ。このコスモポリタンな性質は、新約聖書の使徒言行録(2:5-13)に明らかで、ユダヤ人が集まった地域には、アラビア、メソポタミア、パルティアなどが含まれているんだ。弟子の一人であるフィリポは、エチオピア人と話したと記録されている(使徒言行録8:26-40)し、ユダヤ人から異邦人への改宗は、ユダヤ人への宣教が最初に重視されなくなってから起こるんだ。実際、使徒言行録は、パウロがなぜ異邦人への宣教活動を始めたのか、そしてそれが初期の教会でどのような問題を引き起こしたのかを正当化することにかなりの時間を費やしているんだ。タパルは、アレクサンドリアのユダヤ人コミュニティとコーチのユダヤ人コミュニティを結びつけているけど、確固たる結論を出すことには躊躇しているんだ。でも、もし彼らが西暦1世紀以前に存在していたとしたら、キリスト教徒が改宗のためにそこに向かうのは完全に理にかなっているよね。

トーマス伝説に関しては、私は、その話に真実が含まれている可能性が高いという側に立っているんだ。これは、キリスト教の最初の広がりがユダヤ人のディアスポラ共同体をターゲットにしていたこと、そしてイエスの時代にはすでに共同体が存在していた可能性が高いことなどが理由なんだ。たとえトーマス自身でなくても、一部のキリスト教徒は、それが可能であれば、初期にそこに向かっただろうし、当時の貿易ルートが証明されているように、それは確かに可能だったんだよ。

https://www.reddit.com/r/AskHistorians/comments/gvxegt/thomas_the_apostle_went_to_preach_the_gospels_in/?tl=ja

出雲口伝 その後 出雲のヘビカミはキリスト教で悪だった 大神神社 巳の神杉 岩上神社 磐座 阿陀加夜神社 わら蛇

2026年2月15日日曜日

ブラーフミー文字 - Wikipedia Brāhmī script

ブラーフミー文字 - Wikipedia
最古のブラーフミー文字(Brāhmī scriptによる碑文を見ると、当時のアラム文字と比べて2つの言語間で等価な少数の音素に関して著しい類似点が見られる。

ブラーフミー文字

曖昧さ回避 Unicodeのブロックについては「ブラーフミー文字 (Unicodeのブロック)」をご覧ください。
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この記事で珍しいUnicode文字を表示するために表示支援が必要な場合があります。

ブラーフミー文字(ブラーフミーもじ、ブラーフミー表記: 𑀩𑁆𑀭𑀸𑀳𑁆𑀫𑀻、デーヴァナーガリー表記: ब्राह्मी、: Brāhmī script)は、初期のブラーフミー系文字の一種。

解説

ブラーフミー文字で書かれた最も有名な碑文としては、紀元前3世紀頃の石に刻まれたアショーカ王法勅がある。これは長い間、ブラーフミー文字の最初期の使用例であると考えられてきた。しかし、最近の南インド[2]スリランカ[3][4]における考古学的知見は、ブラーフミー文字が最も初期に使われたのは紀元前6世紀前後であると示唆している。年代は放射性炭素法と熱ルミネッセンス法で測定された。

ブラーフミー文字は南アジア東南アジアチベットのほとんどの文字体系の祖である。ブラーフミー数字は、現在世界中で使われているアラビア数字の元になっている。

起源

ブラーフミー文字は、ほとんどの研究者によって、同時期にアケメネス朝の支配下にあった北西インドの一部で発生したカローシュティー文字と同様、アラム文字のようなセム語派の文字から生じた、あるいは少なくともその影響によって生じたと考えられている[5]。しかし、この問題は直接的な証拠がなく、セム語派の文字、カローシュティー文字、ブラーフミー文字の間に解明しづらい相違点が見られるため解決されていない[6]。いくらかの研究者(西洋とインドの両方)は、ブラーフミー文字がアショーカ王の治世の間に短期間で発明されて碑文のために広く使われたとし、その時にセム語派の文字の文献から触発されたという見解を示唆している[6]。それと対照的に、一部の研究者は外国からの影響とする見解を否定している[7][8]

ブラーフミー文字の最古の使用例はスリランカの交易都市アヌラーダプラから見つかった紀元前5世紀初頭の陶片であると思われる。さらに、アーンドラ・プラデーシュ州Bhattiproluとインドタミル・ナードゥ州Adichanallurの陶片からより古いブラーフミー文字の証拠が発見されている。放射性炭素年代測定がそれらは紀元前6世紀のものであると証明した[2]

最古のブラーフミー文字による碑文を見ると、当時のアラム文字と比べて2つの言語間で等価な少数の音素に関して著しい類似点が見られる。とくに書字方向の変更を反映して文字を反転させると明らかである[要出典]

別の説によれば、ブラーフミー文字はおそらくインダス文字をその祖先として全く独自に発達した。この説はイギリスの学者G.R. Hunter[9]John Marshall[10]Raymond Allchin[11]などが主張している。

特徴

ブラーフミー文字はアブギダである。すなわち各文字は音節を表現する。各文字は子音の音価と暗黙に続く母音の音価を保持する。ブラーフミー文字では、随伴母音は /a/ である。異なる母音を表現するには基字にダイアクリティカルマークを加える。また、子音を伴わない母音単独音を表記するための独立した文字もある。

/pr/ や /rv/ のような子音連結で始まる音節を表すために専用の記号が存在する。これらの多くは2つの音を表す文字を組み合わせて作られた結合文字である。

文字

母音

基本

文字(記号) 転写
(IAST)
発音
(IPA)
文字(記号) 転写
(IAST)
発音
(IPA)
母音字
(子音なし)
母音記号
(子音あり)
母音字
(子音なし)
母音記号
(子音あり)
𑀅 a /ɐ/ or /ə/ 𑀆 𑀸 ā /ɑː/
𑀇 𑀺 i /i/ 𑀈 𑀻 ī /iː/
𑀉 𑀼 u /u/ 𑀊 𑀽 ū /uː/
𑀋 𑀾 /ɻ/ 𑀌 𑀿 /ɻː/
𑀍 𑁀 /ɭ/ 𑀎 𑁁 /ɭː/
𑀏 𑁂 e /eː/ 𑀐 𑁃 ai /əi/
𑀑 𑁄 o /oː/ 𑀒 𑁅 au /əu/

(※「」は子音字を表す。)

その他

記号 転写
(IAST)
発音
(IPA)
意味
𑀀 /ŋ/ 鼻音付加。
𑀁 /ⁿ/ 鼻母音化。
𑀂 /h/ 母音に後続する/h/。

子音

基本

無声音 有声音 鼻音
無気音 有気音 無気音 有気音
軟口蓋音 𑀓 k(a) /k(ə)/ 𑀔 kh(a) /kʰ(ə)/ 𑀕 g(a) /ɡ(ə)/ 𑀖 gh(a) /ɡʱ(ə)/ 𑀗 (a) /ŋ(ə)/
硬口蓋音 𑀘 c(a) /c(ə)/ 𑀙 ch(a) /cʰ(ə)/ 𑀚 j(a) /ɟ(ə)/ 𑀛 jh(a) /ɟʱ(ə)/ 𑀜 ñ(a) /ɲ(ə)/
そり舌音 𑀝 (a) /ʈ(ə)/ 𑀞 h(a) /ʈʰ(ə)/ 𑀟 (a) /ɖ(ə)/ 𑀠 h(a) /ɖʱ(ə)/ 𑀡 (a) /ɳ(ə)/
歯音 𑀢 t(a) /t̪(ə)/ 𑀣 th(a) /t̪ʰ(ə)/ 𑀤 d(a) /d̪(ə)/ 𑀥 dh(a) /d̪ʱ(ə)/ 𑀦 n(a) /n(ə)/
唇音 𑀧 p(a) /p(ə)/ 𑀨 ph(a) /pʰ(ə)/ 𑀩 b(a) /b(ə)/ 𑀪 bh(a) /bʱ(ə)/ 𑀫 m(a) /m(ə)/
接近音 𑀬 y(a) /j(ə)/ 𑀭 r(a) /r(ə)/ 𑀮 l(a) /l(ə)/ 𑀯 v(a) /ʋ(ə)/
歯擦音摩擦音 𑀰 ś(a) /ɕ(ə)/ 𑀱 (a) /ʂ(ə)/ 𑀲 s(a) /s(ə)/ 𑀳 h(a) /ɦ(ə)/

結合文字

連続した子音を表現するための結合文字は、子音字を縦に組んで作る。

(このように子音字を縦に組んで結合文字を作る手法は、続く悉曇文字シッダマートリカー)やチベット文字などにも継承されたが、デーヴァナーガリーなどの段階になると横に組んで結合文字を作るようになる。)

数字

→詳細は「ブラーフミー数字」を参照
旧式
1 2 3 4 5 6 7 8 9
𑁒 𑁓 𑁔 𑁕 𑁖 𑁗 𑁘 𑁙 𑁚
10 20 30 40 50 60 70 80 90
𑁛 𑁜 𑁝 𑁞 𑁟 𑁠 𑁡 𑁢 𑁣
100 1000
𑁤 𑁥
新式
0 1 2 3 4 5 6 7 8 9
𑁦 𑁧 𑁨 𑁩 𑁪 𑁫 𑁬 𑁭 𑁮 𑁯

字形比較

他のブラーフミー系文字インド系文字)や、フェニキア文字アラム文字との字形の比較。

フェニキア文字 アラム文字 音価 ブラーフミー文字 グプタ文字 シッダマートリカー
悉曇文字梵字
デーヴァナーガリー チベット文字
a 𑀅
- - i 𑀇 -
- - u 𑀉 -
- - 𑀋 -
e 𑀏 -
- - o 𑀑 -
k 𑀓
- - kh 𑀔
g 𑀕
gh 𑀖 -
- - 𑀗
c 𑀘
- - ch 𑀙
j 𑀚
- - jh 𑀛 -
- - ñ 𑀜
- - 𑀝 -
- - ṭh 𑀞 -
- - 𑀟 -
- - ḍh 𑀠 -
- - 𑀡 -
t 𑀢
th 𑀣
- - d 𑀤
dh 𑀥 -
n 𑀦
p 𑀧
- - ph 𑀨
b 𑀩
- - bh 𑀪 -
m 𑀫
y 𑀬
r 𑀭
l 𑀮
v 𑀯 -
ś 𑀰
𑀱 -
- - s 𑀲
h 𑀳

使用

未解読のインダス文字を除けば、ブラーフミー文字とその姉妹カローシュティー文字がインド最古の音素文字の代表である。カローシュティー文字は北西インドでのみ使われたが、ブラーフミー文字はインド亜大陸全域で使われた。時代を経るにつれ、さまざまな形式や様式のブラーフミー文字が生まれ、そこから多数の文字体系が派生していった。一方カローシュティー文字は最終的に使われなくなり、それに続く文字体系も産まなかった。

カローシュティー文字と同様、ブラーフミー文字はプラークリットの早期の方言を書くために使われた。その使用はほとんどが建築物や墓に刻み込むか典礼用の文章に限られた。サンスクリットはこの時点では記録されず、代わりに口述で伝えられ、何世紀も後になってから書かれるようになった。結果として、サンスクリットの音韻論的特徴の多く (たとえば末尾の子音) には対応する記号やダイアクリティカルマークがブラーフミー文字に存在しないため、ブラーフミー文字それ自身はサンスクリットの記録に適さない。

派生した文字体系

→詳細は「ブラーフミー系文字」を参照

ブラーフミーは、南インドグループと北インドグループに大別される多くの異なるアブギダに発展した。時代を経るにつれ、特定の文字体系が特定の言語へ関連づけられるようになり、各アブギダは言語固有の文字体系となった。

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Unicode

ブラーフミー文字は、2010年10月に策定されたUnicodeスタンダード 6.0 で、U+11000からU+1107Fの追加多言語面に含まれる領域に次の文字が収録されている。

U+ 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 A B C D E F
U+1100x 𑀀 𑀁 𑀂 𑀃 𑀄 𑀅 𑀆 𑀇 𑀈 𑀉 𑀊 𑀋 𑀌 𑀍 𑀎 𑀏
U+1101x 𑀐 𑀑 𑀒 𑀓 𑀔 𑀕 𑀖 𑀗 𑀘 𑀙 𑀚 𑀛 𑀜 𑀝 𑀞 𑀟
U+1102x 𑀠 𑀡 𑀢 𑀣 𑀤 𑀥 𑀦 𑀧 𑀨 𑀩 𑀪 𑀫 𑀬 𑀭 𑀮 𑀯
U+1103x 𑀰 𑀱 𑀲 𑀳 𑀴 𑀵 𑀶 𑀷 𑀸 𑀹 𑀺 𑀻 𑀼 𑀽 𑀾 𑀿
U+1104x 𑁀 𑁁 𑁂 𑁃 𑁄 𑁅 𑁆 𑁇 𑁈 𑁉 𑁊 𑁋 𑁌 𑁍
U+1105x 𑁒 𑁓 𑁔 𑁕 𑁖 𑁗 𑁘 𑁙 𑁚 𑁛 𑁜 𑁝 𑁞 𑁟
U+1106x 𑁠 𑁡 𑁢 𑁣 𑁤 𑁥 𑁦 𑁧 𑁨 𑁩 𑁪 𑁫 𑁬 𑁭 𑁮 𑁯
U+1107x

Unicodeでは、グプタ文字やその系統のホタン文字、更には古タミール文字などもブラーフミー文字に統合されている。

脚注

  1. Salomon 1998, pp. 11–13.
  2. ^ a b Subramanian, T.S., Skeletons, script found at ancient burial site in Tamil Nadu
  3. Deraniyagala on the Anuradhapura finds International Union of Prehistoric and Protohistoric Sciences, Proceedings of the XIII International Congress of the Union of Prehistoric and Protohistoric Sciences. 1996.
  4. *Coningham, Robin, University of Bradford Anuradhapura Project
  5. Brahmi, ブリタニカ百科事典 (1999), 引用: "Brāhmī, writing system ancestral to all Indian scripts except Kharoṣṭhī. Of Aramaic derivation or inspiration, it can be traced to the 8th or 7th century BC, when it may have been introduced to Indian merchants by people of Semitic origin. (中略) a coin of the 4th century BC, discovered in Madhya Pradesh, is inscribed with Brāhmī characters running from right to left." 一方、Salomon 1998 27-28pでは「マディヤ・プラデーシュ州エランから見つかった紀元前4世紀のコインのブラーフミー文字がアラム文字のように右から左へ記される。古代の文字は多くが書く方向が不規則的だった」と記述されることを指していようか。
  6. ^ a b Salomon 1998, pp. 18–24.
  7. Salomon 1998, p. 19-21 with footnotes.
  8. Annette Wilke & Oliver Moebus 2011, p. 194 with footnote 421.
  9. Hunter, G.R. (1934), The Script of Harappa and Mohenjodaro and Its Connection with Other Scripts, Studies in the history of culture, London:K. Paul, Trench, Trubnernormal 
  10. ^ John Marshall (1931). Mohenjo-daro and the Indus civilization: being an official account of archaeological excavations at Mohenjo-Daro carried out by the government of India between the years 1922 and 1927. Asian Educational Services. p. 423. ISBN 978-81-206-1179-5. https://books.google.com/books?id=Ds_hazstxY4C&pg=PA423 , 引用: "Langdon also suggested that the Brahmi script was derived from the Indus writing, (後略)".
  11. ^ Goody, Jack (1987), The Interface Between the Written and the Oral, Cambridge University Press, pp. 301–302 (note 4) 

参考文献

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  • Annette Wilke; Oliver Moebus (2011). Sound and Communication: An Aesthetic Cultural History of Sanskrit Hinduism. Walter de Gruyter. ISBN 978-3-11-024003-0 
  • Salomon, Richard (1998). Indian Epigraphy: A Guide to the Study of Inscriptions in Sanskrit, Prakrit, and the Other Indo-Aryan Languages. Oxford: Oxford University Press. ISBN 0-19-509984-2 
  • Kenneth R. Norman's, The Development of Writing in India and its Effect upon the Pâli Canon, in Wiener Zeitschrift für die Kunde Südasiens (36), 1993 (英語)
  • Oscar von Hinüber, Der Beginn der Schrift und frühe Schriftlichkeit in Indien, Franz Steiner Verlag, 1990 (ドイツ語)
  • Gérard Fussman's, Les premiers systèmes d'écriture en Inde, in Annuaire du Collège de France 1988-1989 (フランス語)
  • Siran Deraniyagala's The prehistory of Sri Lanka; an ecological perspective (revised ed.), Archaeological Survey Department of Sri Lanka, 1992. (英語)

関連項目

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外部リンク

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【名医伝】和田東郭先生語録 | 漢方専門の相談薬局 – 山梨県甲府市・漢方坂本

【名医伝】和田東郭先生語録 | 漢方専門の相談薬局 – 山梨県甲府市・漢方坂本 https://kanpousakamoto.jp/%E3%80%90%E5%90%8D%E5%8C%BB%E4%BC%9D%E3%80%91%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%9D%B1%E...