2025年12月25日木曜日

ロッセリーニ『ソクラテス』 :

ロッセリーニ『ソクラテス』 : 関本洋司のブログ


https://vt.tiktok.com/ZSPEyAkuU/


出典:

『ソクラテスの弁明』

『パイドン~魂について~』

プラトン著

納富信留(のうとみ・のぶる)訳

光文社古典新訳文庫



以下、『ソクラテスの弁明』より

 もし私があなた方を懇願によって説得して、宣誓した皆さんを懇願で無理強いするとしたら、明らかに、私はあなた方に神々が存在しないと考えるように教えていることになるでしょう。それではまさに、弁明をしながら、私が神々を信じていないと私自身を告発することになってしまいます。  

 しかし、まったくそんなことはありません。アテナイの皆さん、私は実際、神を、私の告発者のだれにもまして、信じています。そして、私にとっても皆さんにとっても最善になるように、私について判決を下されるよう、あなた方と神にお任せします。


以下、『パイドン』より

 「よろしい、優れた者よ。君はこのことに知識を持っている。何をすればよいのかね。」  

すると、彼は言いました。「いや、ただ飲んで、両脚が重くなるまで歩き回って、その後横になっているだけでいい。そうすれば、こいつは効くだろう」。そして同時に、その杯をソクラテスに手渡しました。

 「分かったよ。だが、神々に祈りを捧げることは許されているだろうし、それは為さねばならない。この世からあの世への移住が、幸あるものとなりますようにと。これを私はお祈りします。どうぞ叶えて下さい。」


「なんということをやっているのだ。驚いた人たちだね。私はまさにこのことのために、つまり、こんな失態をしでかさないようにと、女たちを家に帰したのに。私は、静寂において死を迎えるべきだと聞いている。だから、落ち着いて、耐えなさい。」

 「クリトンよ、ぼくたちはアスクレピオスの神様に鶏をお供えする借りがある。君たちはお返しをして、配慮を怠らないでくれ。」


以下、『パイドン』解説より


「神秘主義(mysticism)を過剰に嫌悪し哲学史から排除する者は、この世界と宇宙が神秘に満ち溢れ、私がここに生きてあることそれ自体が神秘であるという現実感覚を失っている。無論「神秘」という言葉の意味が問題であり、軽々に使うべきではないが、現代のそうした不感症を見直し、私たちを目覚めさせてくれる哲学の言論として、『パイドン』は読まれるべきかもしれない」(『パイドン』、p.272-273)


ロッセリーニ『ソクラテス』

ゴダールはロッセリーニはソクラテスだと言ったそうだが、そのロッセリーニは晩年、教育的な歴史映画シリーズの一環として、西欧の偉大な哲学者を題材にした作品を作っている(「ソクラテス」(1970) 、「ブレーズ・パスカル」(1972)、「デカルト」(1974))。
上記作品は全編ネット上で見ることができる。

Sócrates - filme completo

http://youtu.be/SlJSF-V6yBA
参考:
http://shahr.exblog.jp/12516561/
古代世界の午後雑記 : 古代ギリシア歴史映画1971年版「ソクラテス」


Blaise Pascal - Filme Completo

http://youtu.be/C3fhX3q0-SQ


Descartes - Filme Completo

http://youtu.be/T9cq7G8hoAE

字幕がなかったり、ポルトガル字幕だったりするので内容はよくわからない。ソクラテス以外は英語字幕版が発売されているようだ。
デカルト以外は主人公の死で終わる。まるでパゾリー二映画みたいだ(逆か?)。

近代を題材にした方が出来がいいように思える。

以下はデカルトの英語字幕版(一部のみ)。

鈴村智久 Tomohisa SuzumuraさんによるXでのポスト

 
 
鈴村智久 Tomohisa Suzumura
⁦‪@SUZUMURA_Inc‬⁩
久々に本を読みながら感動しました。
納富先生が『パイドン』の研究史を振り返る「解説」で、近年の英米圏の研究ではかつての分析哲学によるアプローチから、オルフェウス教、ピタゴラス派の系譜に連なる「神秘思想」に定位した方向へシフトしつつあると率直に述べてくださっています。 pic.x.com/8S3FL45GWb
 
2025/12/04 22:05
 
 
 解説 納富信留 
現代に『パイドン』を読む意義

 だが、英米の明晰な研究で見落とされた側面は大きい。近年はその反動として、それらの宗教的背景を正当に顧慮しようとする研究が出始めている。私自身も、次節で示すように、この対話篇を「死」をめぐる神秘の論究という方向で捉えている。「神秘主義mysticism」を過剰に嫌悪し哲学史から排除する者は、この世界と宇宙が神秘に満ち溢れ、私がここに生きてあることそれ自体が神秘であるという現実感覚を失っている。無論「神秘」と言う言葉の意味が問題であり、軽々に使うべきではないが、現代のそうした不感症を見直し、私たちを目覚めさせてくれる哲学の言論として、『パイドン』は読まれるべきかもしれない。  
 対話篇の場面は「ソクラテスの死」である。私が「死」をどう迎え、そこで「私がある」ということをどう語ることが可能か、それを正面から問うのが『パイドン』である。そこで対話し、死んでいくソクラテスこそ、「知を愛し求める者(フィロソフォス)」、つまり哲学者の究極モデルであり、私たちに絶対を顕現する存在である。この対話篇が、ソクラテス裁判を舞台にした『ソクラテスの弁明』の言論を完成させる。プラトンの哲学は、まさにこの二つの対話篇の間で始まった。その内容を確認していこう。

鈴村智久 Tomohisa SuzumuraさんによるXでのポスト

 
 
鈴村智久 Tomohisa Suzumura
⁦‪@SUZUMURA_Inc‬⁩
久々に本を読みながら感動しました。
納富先生が『パイドン』の研究史を振り返る「解説」で、近年の英米圏の研究ではかつての分析哲学によるアプローチから、オルフェウス教、ピタゴラス派の系譜に連なる「神秘思想」に定位した方向へシフトしつつあると率直に述べてくださっています。 pic.x.com/8S3FL45GWb
 
2025/12/04 22:05
 
 
久々に本を読みながら感動しました。
納富先生が『パイドン』の研究史を振り返る「解説」で、近年の英米圏の研究ではかつての分析哲学によるアプローチから、オルフェウス教、ピタゴラス派の系譜に連なる「神秘思想」に定位した方向へシフトしつつあると率直に述べてくださっています。

「神秘主義(mysticism)を過剰に嫌悪し哲学史から排除する者は、この世界と宇宙が神秘に満ち溢れ、私がここに生きてあることそれ自体が神秘であるという現実感覚を失っている。無論「神秘」という言葉の意味が問題であり、軽々に使うべきではないが、現代のそうした不感症を見直し、私たちを目覚めさせてくれる哲学の言論として、『パイドン』は読まれるべきかもしれない」(『パイドン』、p.272-273)

ちなみに、イアンブリコスは『ピタゴラス的生き方』において、プラトンはピタゴラス派の哲学者であったと位置付けていますが、このような見方は中期プラトニズムでは珍しくありませんでした。
古代ギリシアにおける霊魂論、輪廻転生論、死後の世界観に関心のある方にとって、『パイドン』は読みやすさにおいてもダイナミックな議論構成においても、史上最高の古典だと思います。

#読了 
#読書垢とつながりたい

多宝如来 - Wikipedia

多宝如来 - Wikipedia

多宝如来

多宝如来(たほうにょらい、サンスクリット語: प्रभूतरत्न、英語: Prabhūta-ratna)は、大乗仏教の信仰対象である如来の一尊。「多宝」はサンスクリット名の意訳である。法華経に登場する、東方の宝浄国の教主。釈尊の説法を賛嘆した仏である。多宝塔に安置したり、多宝塔の両隣に釈迦牟尼仏と合わせて本尊一塔両尊)にしたりする。

法華経の見宝塔品第十一

多宝如来は、過去仏(釈尊以前に悟りを開いた無数の仏)の1人であり、東方無量千万億阿僧祇(あそうぎ)の宝浄国に住するという(「無量千万億阿僧祇」とは「無限のかなた」というほどの意味)。中国朝鮮半島、日本を通じて多宝如来単独の造像例はほとんどなく、法華経信仰に基づいて釈迦如来とともに2体1組で表される場合がほとんどである。釈迦如来と多宝如来を一対で表すのは、法華経の第11章にあたる見宝塔品(けんほうとうほん)の次の説話に基づく。

釈尊(釈迦)が説法をしていたところ、地中から七宝(宝石や貴金属)で飾られた巨大な宝塔が出現し、空中に浮かんだ。空中の宝塔の中からは「すばらしい。釈尊よ。あなたの説く法は真実である」と、釈尊の説法を称える大音声が聞こえた。その声の主は、多宝如来であった。多宝如来は自分の座を半分空けて釈尊に隣へ坐るよう促した。釈尊は、宝塔内に入り、多宝如来とともに坐し、説法を続けた。過去に東方宝浄国にて法華経の教えによって悟りを開いた多宝如来は「十方世界(世界のどこにでも)に法華経を説く者があれば、自分が宝塔とともに出現し、その正しさを証明しよう」という誓願を立てていたのであった。

この説話に基づき、釈迦如来と多宝如来を一対で造像したり、1つの台座に釈迦如来と多宝如来が並んで坐す並坐像(びょうざぞう)が作られた。

如来像の安置

日蓮宗・法華宗

日蓮宗法華宗では、多宝如来は法華経の正しさを証明する仏として、釈迦如来に次いで重視されており、宝塔の両脇に釈迦如来と多宝如来を配した「一塔両尊」という安置形式をしばしば見る。

日蓮宗・法華宗以外

日本における日蓮宗・法華宗以外の遺品としては、奈良・東大寺戒壇院中央の塔内に安置された釈迦如来・多宝如来像(唐時代)が知られる。中国における作例としては、東京・根津美術館所蔵の銅造釈迦如来・多宝如来並坐像は、中国の北魏の「太和13年」(489年)の銘があり、制作年代の判明する基準作として貴重である。

多宝塔

多宝塔の項目を参照。

関連項目

みほとけさんによるXでのポスト 法華経

 


[第十一章] 宝塔の出現 妙法蓮華経見宝塔品第十一◆けんほうとうほん

天空の法座  

こうして諸仏が参集したようすは、清らかな池に蓮の花が咲きそろい、夜の闇に灯火が点々とともされたかのようでございました。諸仏の身体が発する芳香は十方世界におよび、神々も人々も風に小枝がなびくように心を仏に向けております。  世尊は、諸仏が集まり、ことごとく宝塔を開くことに同意したのを聞いて、座から立ち上がり、空中に身を浮かべました。そして、多宝如来の塔の扉に至り、右手の指で扉を打ちました。  すると、大きな城門の掛け金をはずすかのような音がとどろいて、扉が開きました。その中に獅子座があり、多宝如来が坐しておられたのでございます。その塔には遺骨が納められたと申しますのに、多宝如来の全身があり、あたかも禅定に入っておられるかのように見えました。  そのとき多宝如来は、ふたたび声を発したのです。 「讃えよ、讃えよ。釈迦牟尼世尊は妙法蓮華経を説かれた。我は法華経を聞くため、ここに参った」  幾千万億劫の過去に入滅した仏がそのように告げたのを聞いて、人々は未曾有のことに驚嘆し、多宝如来と世尊に花々をささげました。  
そのとき多宝如来は身体を動かし、宝塔の中の座の半分をあけて世尊に呼びかけました。 
「釈迦牟尼世尊よ。どうぞ、この座におつきください」  
こうして人々は、宝塔の獅子座に二人の如来が並んで結跏趺坐した姿を仰ぐことができたのです。けれど、あまりの高みにあり、人々から遠いところでございました。
 「世尊に申しあげます。如来の神通力をもって、わたくしどもをお近くにまいらせてください」  
世尊はその願いを容れて人々を間近の空中に引き上げ、大空の高みに置きました。そして、このように告げたのです。

角川ソフィア文庫
法華経

奥原インスタ20251227

  https://www.instagram.com/p/DSv8nnwEuLl/?igsh=MWhzMzNmNjF0bzlzcg==