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テロップが怪しい箇所は、
磐境神明神社の御祭神についてで、多分白人神社と同じで、
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
邇邇芸命(ににぎのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
豊秋津媛命(とよあきつひめのみこと)
でいいと思いますが、確認が取れてません。wikiではまた違います。完全版を作りたいのですが…
賢見神社
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テロップが怪しい箇所は、
磐境神明神社の御祭神についてで、多分白人神社と同じで、
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
邇邇芸命(ににぎのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
豊秋津媛命(とよあきつひめのみこと)
でいいと思いますが、確認が取れてません。wikiではまた違います。完全版を作りたいのですが…
賢見神社
息栖神社(いきすじんじゃ)は、茨城県神栖市息栖にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。
茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮とともに東国三社の一社である。
なお江戸時代の文書では、主神を気吹戸主神とする説もある[2]。
社伝では、第15代応神天皇の代に日川の地(にっかわ。現:神栖市日川)に創建されたという[3]。その後大同2年(807年)4月13日、藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝える[3]。
当社の名称について『日本三代実録』では「於岐都説神」と記される。また元亨元年(1321年)の古文書で「おきすのやしろ」と記されるように、当社は「おきす」と呼ばれていた[4]。この「おきつせ・おきす=沖洲」という古称から、香取海に浮かぶ沖洲に祀られた神であると考えられている[5]。祭神が久那戸神(岐神)・天鳥船命であることからも水上交通の神であることが示唆され[5]、鹿島・香取同様に東国開発の一拠点であったという見方もある[5]。
国史では、『日本三代実録』において仁和元年(885年)に「於岐都説神」が正六位上から従五位下に叙されたという記事が見える。この「於岐都説神」は当社を指すものとされるが[3]、『延喜式神名帳』には記載がないため、いわゆる国史見在社にあたる。
当社は古くから香取神宮・鹿島神宮と並んで「東国三社」と称されたといわれる。ただし地理的な関係から鹿島神宮の影響が強く、当社は同宮の摂社とみなされていた。鎌倉時代の『鹿島社例伝記』や室町時代の『鹿島宮年中行事』から、鹿島神宮と当社の密接な関係性が指摘される[2]。また当社は朝廷からの崇敬を受け、元寇の際にも国家安泰を祈願するために勅使が派遣されたという。
江戸時代には徳川家の崇敬が篤く、慶長9年(1604年)に鹿島神宮領から14石が給された[6]。またこの時代には、「下三宮参り」と称して関東以北の人々が伊勢神宮参拝後に東国三社を巡拝する慣習があったという[6]。参拝客が利用する息栖の河岸は利根川水運の拠点として江戸時代から大正時代まで栄えたという。
明治維新直後の明治元年(1868年)と明治4年(1871年)には当社に勅使が派遣された。明治10年(1877年)、独立した神社として近代社格制度において県社に列した[5][注 1]。
社殿は戦後の昭和35年(1960年)に火災で焼失した。焼失した社殿は享保7年(1722年)造営で、華麗なものであったという[6]。現在の社殿は、3年後の昭和38年(1963年)の再建のものである。鉄筋コンクリート造りで本殿・幣殿・拝殿からなる。神門は弘化4年(1847年)の造営時のもので、焼失を免れている[3]。
一の鳥居の両側には「忍潮井(おしおい)」と呼ばれる2つの井戸があり、「日本三霊泉」の1つという[3]。社伝では神功皇后3年に造られたとし、日川からの移転に際して後から自力でついてきたという[2]。井戸はそれぞれ「男瓶」「女瓶」という名の2つの土器から水が湧き出ているが、現在の井戸は昭和48年(1973年)5月に河川改修のため移転している[3]。
本殿
神門
忍潮井(男瓶)
忍潮井(女瓶)
4柱合祀社(左)と5柱合祀社(右)
稲荷神社
今回の探検記は茨城県神栖市に鎮座する息栖神社です。茨城県と簡単に書いてますが、ほとんど千葉県で、私が住んでいる県西北からは最も遠いところで121kmあります。この前行った福島・会津の伊佐須美神社とさほど変わりません。(笑)
常陸利根川側から見た一の鳥居
二の鳥居
江戸時代には鹿島神宮、香取神宮と合わせて、東国三社と言われ、相当な参拝客でにぎわっていたらしいです。
ウィキペディアによれば、息栖神社は、
ご祭神は久那戸神(くなとのかみ)
百嶋神社考古学でこれらの祭神を解説すると、岐神は長脛彦です。
出てきましたね。くなとの神ですよ。長脛彦ですよ。たぶんカガセオですよ~(笑) 別名彦国オキツ、天利剣(あめのとつるぎ)神です。
彦国オキツは、由緒にもあるように三代実録の於岐都説(おきつせ)神だろうと言われていることからも分かります。茨城県日立市日高町の小木津(おぎつ)駅近くに、澳津説(おくつせ)神社があります。小木津と言う地名はこの神社から来ていることが推測されます。
また、記憶では新井白石か本居宣長が、日高町は日高見国の比定地であるといっていたと思います。
高天原は日立市十王町高原だとも言っていたと思います。(歴史の教科書に乗っている偉人でもこの程度の研究しかできないのですね。)
天利剣は、天神系の、利根にいる剣のような力のある人、というほどの意味でしょう。
百嶋神社考古学では相殿神の天鳥船命はウガヤフキアエズ(=アジスキタカヒコネ)、住吉三神は、表筒男が安曇礒良(あずみのいそら)、中筒男がツヌガアラシト(=贈崇神天皇)、底筒男が開化天皇です。
気吹戸主は金山彦(=カグツチ)です。
気吹戸主(いぶきどぬし)は、いぶき=息吹ですから息栖と同じ意味合いではということで、祭神にされたようです。
言葉遊びですね。(笑)さすが江戸っ子、なかなかやりますね。
これこそおやじギャグ解読法の神髄です・・・。(笑)
さらに他の二社は、鹿島神宮は鹿島大神(=海幸彦)、香取神宮は猿田彦(=山幸彦)、が祀られており、中でも息栖神社が中心をなしていたということです。
港だから船(天鳥船命)や澄み良し(住吉三神)を祀っているだけなのでしょうか。(笑)
なぜ息栖神社(岐神=長脛彦)が中心かと言えば、東国開発におけるプロジェクトチームのリーダーだからです。それは格式の差です。モーゼと徐福直系のスサノヲの長男ですから。
神武に謀反を起こした長脛彦を近畿に置いておくわけにもいかなくなったので、豊玉彦を中心とする参謀本部は、本来なら極刑でしょうが、なにせこの世代は有力な男が不足していました。
だから長脛彦を東国開発のリーダーに任命し、近畿から呈よく追い払ったのでしょう。
(あるいは避難させた)長脛彦にとっては東国は投獄だったのかもしれません。(笑)
そのあたりの背景を百嶋系図で見ると以下のようになります。
長脛彦の妹はオキツヨソ足姫(おきつよそたらしひめ)です。オキはサンズイの嬴(えい)と言う漢字ですが、嬴(えい)は秦の始皇帝の姓です。
長脛彦の先祖(イスラエルモーゼ直系)がアレクサンダー大王に追われ、アジアを放浪していた時に、中原の王、秦の始皇帝に、その格式の高さから縁組を許され、嬴(えい)氏となったようです。海を渡って渡来したので。日本では、サンズイをつけた嬴(えい)、瀛を使っています。長脛彦はモーゼの子孫だったのです。
数年前、現在のイスラエルのアミシャーブが、日本におけるイスラエルの血統を調べに来日しています。
その結果、日本人の約6割がヘブライ系(イスラエル、ユダヤ系)であると報告しているようです。
失われた10氏族の調査の一環でしょうが、その最終目的は第三神殿建設のようですね。
神殿に必要なものは神器と正当な祭司ですから、それをイスラエルに戻すことが神との契約らしいですよ。
日本人の6割が祭司の可能性があるのですから、かどわかされない様に注意しましょう。
特に、阿〇寛君や平〇堅君などは要注意。(笑)
だから、最初に調査に赴いたのが諏訪大社で、次は徳島、剣山だったようです。
諏訪大社と言えば守屋山。神がアブラハムを試したモリヤ山ですね。詳しくはこちら 。
剣山と言えば、失われたアーク。詳しくはこちら
あなたもわたしもイスラエル人です。いやだと言ってもイスラエル人です、ユリゲラーです。
ネタニヤフが嫌いでも同族です。(笑)
(詳しく言うと現在のイスラエル人はアシュケナージユダヤ人=偽ユダヤですから、民族が違います)
つまり、ユダヤ教と神道は同根です。
おやっ、今日はすんなり妄想に入ってしまいましたね。(笑)
長脛彦はモーゼのように民を連れて、出エジプトならぬ出常陸をしたのでしょうか?
行き先はカナンではなく、出雲だったのでしょうか?
我々の推測では、長脛彦は息栖神社から、ひたちなか市の酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)を経由し、馬で陸路東海村の豊受皇大神宮に来ています。その後、日立市大みか町の大甕倭文
神社付近に本拠を構えて北常陸開発を推進します。日立市小木津町や久慈郡大子町に出張所を作り、鉱山開発をします。蝦夷地の古々ヘブライ人、エビス(蝦夷)たちとも和平を結び穏やかな東国生活を送っていましたが、何かがきっかけとなり、鹿島(海幸)、香取(山幸)との争いが勃発します。
さあ、何かとはなんでしょう。妄想スイッチ第二弾ON!(笑)
鹿島、香取の両方に関係することと言えば、豊受ですね。
豊受は伊勢の外宮様であり、稲荷神でもあるのですが、記紀では天細女、ストリッパー(古いね)として扱われています。
記紀編纂の主導者藤原氏は、海幸、山幸の系統のハイブリットですから、両方の妻であった豊受をこれほどまでに貶める必要はないはずなのですが、この扱いは相当ひどいですね。アホ女としか言いようがない。しかし、豊受はキツネ付。白山姫譲りの霊能力があり、それは天照大御神代理を務めたほどですから、長脛彦は豊受を専属ストリッパー兼憑代にしてしまったのです。普段は仲の良くない海幸山幸もここは団結です。強権発動してしまった上司に対しての反乱の始まりです。格式の高さから居丈高になってしまう長脛彦の欠点が常陸国でも出てしまったのですね。
ついに大甕山決戦がスタートしてしまいました。一時は長脛彦が優勢ですが、最終的には撤退を余儀なくされました。これが、長脛彦の出常陸のはじまりです。逃げる、逃げる、逃げる。逃げる。
中原でのカルマの繰り返しです。氏族のカルマが長脛彦、海幸、山幸に出てしまったのですね。
これが、近津神社の物語や伊佐須美神社の妄想になっていったわけですね。ちゃんちゃん。(笑)
気分転換に清々しい風景をどうぞ。
常陸利根川。
沖に見える緑の線はまだ茨城県。散歩していた近所のお婆ちゃんは、昔は手漕ぎ舟で川向うまで行って田植えをしてたんだよと言ってました。
その向こうの少し高い青い部分は千葉県です。
男甕を彦国オキツ=長脛彦、女瓶をオキツヨソ足姫の兄妹の象徴とする見方もあるようですが、
瓶(甕)と言えば甕星香々背男≒長脛彦ですね(笑)
瓶(亀)と言えば豊玉姫ですね(笑)
拝殿と茅の輪。6月末と12月末に厄払いとして行っている神社があります。
扁額 本殿 千木は男
このお稲荷さん。境内社なのに本殿までつくってもらってます。二の鳥居を入ってすぐ左側に位置しています。一般的にこの位置は重要な祭神を祀ってあります。
さてはて、本当のご祭神は誰なのでしょうか。何度も書いてますが、千木を間違えるはずはありませんから、本当の祭神は女神のウカノミタマではないでしょう。おそらく長脛彦と豊受の父親のスサノヲではないかと推測しています。
境内社
境内社の一つ、高房神社の祭神は、カガセオを成敗したと言われる建葉槌です。
ジョー立つんだ!立つんだジョー!明日はきっと何かある!あしたはどっちだ。
この辺は猿田さんが多いらしい。
香取神は猿田彦ですから、百嶋神社考古学から言っても不思議ではないですけど・・・。
真相は、おそらく岐(くなと)神を猿田彦と理解していた宮司さんや坊さんが、明治維新
百嶋神社考古学にご興味の方は、久留米地名研究会 古川さんまで。090-6298-3254
白人神社、御祭神: 国常立尊(くにのとこたちのみこと) 邇邇芸命(ににぎのみこと) 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 豊秋津媛命(とよあきつひめのみこと) Xユーザーのluminous woman(@_luminous_woman)...