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2026年5月3日日曜日

見落とされた土器編年——阿波と畿内の併行関係(小型丸底鉢の変化)|committed to excellence 阿波古代史など

見落とされた土器編年——阿波と畿内の併行関係(小型丸底鉢の変化)|committed to excellence 阿波古代史など

参考文献)

大北和美 2006「西州津遺跡・東州津遺跡一般国道32号井川IC関連改良工事に伴う埋蔵文化財発送

調査報告書』徳島県埋蔵文化財センター調査報告書 第67集 財団法人徳島県埋蔵文化財センター

佐原真編 1983「弥生土器!』ニューサイエンス社

近藤 2002『矢野遺跡(1) 一般国道192号徳島南環状道路改薬に伴う埋蔵文化財発掘調査」徳島県埋蔵文化財センター調査報告第 33集 財団法人徳島県埋蔵文化財センター

菅原康夫 1987『黒谷川郡頭遺跡II 昭和60年度発掘訓査概報』徳島県教育委員会

菅原康夫・瀬山雄一2000「阿波地域」「弥生土器の様式と編年四国編」木耳社

菅原康夫 2002「弥生時代」「論集 徳島の考古学」徳島考古学論集刊行会


弥生土器の様式と編年 (四国編) 単行本 – 2000/3/25 


https://note.com/cute_hebe442/n/n7b461910e074

見落とされた土器編年——阿波と畿内の併行関係(小型丸底鉢の変化)

見出し画像

キーワード:邪馬台国 どこ/邪馬台国 阿波説/邪馬台国 四国説/纒向遺跡 謎/卑弥呼 祭祀/卑弥呼 墓/小型丸底鉢/東阿波型土器/萩原墳墓群/東瀬戸内 弥生時代


はじめに——畿内編年だけが編年ではない

弥生終末から古墳時代初頭にかけての土器編年は、現在も研究者の間で議論が続く難問である。

この時期の基準として広く使われているのが、畿内の資料を中心に構築された編年体系だ。庄内式・布留式という名称はその代表であり、全国の遺跡報告書でこれらの用語が基準として用いられている。

しかし見落とされていることがある。

畿内編年と独立して、阿波(徳島県)にも精緻な編年体系が存在する。

菅原康夫(1987・2000・2002)が吉野川下流域の一次資料に基づいて構築した黒谷川式編年がそれだ。そしてこの編年は、畿内編年と対応関係をもちながら、畿内研究ではほとんど参照されてこなかった。

本稿の目的は一点だ。

菅原編年という対抗軸が存在することを、畿内編年との対比において示す。


第1節 菅原編年とは何か

菅原康夫は徳島県教育委員会の考古学者として、吉野川下流域の遺跡調査に長年携わった。その成果として構築されたのが黒谷川式編年である。

黒谷川式編年の特徴は三点ある。

第一に、一次資料に基づいている。

黒谷川郡頭遺跡をはじめとする吉野川下流域の遺跡から出土した土器を、層位的証拠を踏まえて分類・編年したものであり、形態比較だけに依存していない。

第二に、畿内編年との対応関係を明示している。

菅原は畿内編年(庄内式・布留式)との並行関係を論文中で具体的に示しており、両者を接続するための基盤を自ら整備している。

第三に、東阿波型土器という独自の概念を設定している。

吉野川下流域で発達した特有の土器群を「東阿波型土器」と定義し、その搬出先・搬出量・時期を一次資料に基づいて実証している。

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阿波弥生時代終末期社会の特質 菅原康夫 1992


第2節 二つの編年を重ねる

菅原編年と畿内編年の対応関係は、東州津遺跡(2011)報告書所収の第4表「阿波東部と西部の土器編年案」に明示されている。

より正確には、近藤執筆部分に収録された第4表に、近藤編年2002と菅原編年2000との対比が示されている。庄内式併行期を弥生終末期とする(菅原)か、古墳時代とする(近藤)か議論がある。

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阿波東部と西部の土器編年案 東州津遺跡 発掘調査報告書2011より

萩原2号墓報告書2010(菅原康夫)によると、
萩原2号墓供献土器:Ⅵー1(庄内0)
萩原1号墓供献土器:Ⅵー2(庄内1)
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菅原2000

菅原はさらに次のように記している。

「次の段階は黒谷川Ⅳ式の段階であり、布留0〜1式と接点をもつ。壺・甕ともに球形化が進み、丸底となる。」

菅原康夫「弥生土器の様式と編年 四国編」2000年 p.125 

黒谷Ⅳ=布留0という対応は、菅原自身の記述と一致している。

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菅原1987ほか

ちなみに最近の上牧遺跡報告書2022に記載された編年では、

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摂津東部・上牧遺跡における古墳時代の土器編年202209(笹栗拓)
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摂津東部・上牧遺跡における古墳時代の土器編年202209(笹栗拓)

上記編年を総合した、およその併行関係表

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筆者による整理


第3節 小型丸底鉢をめぐる定説と一次資料の矛盾

定説の構造

小型丸底鉢は現在の考古学において、きわめて重要な位置を占める器種だ。

定説はこうだ。

小型丸底鉢は布留式の典型例であり、大和(纒向)を発祥とする全国統一祭祀の象徴である。

寺沢薫の初期ヤマト政権論と結びついたこの理解では、纒向において成立した小型丸底鉢が、初期ヤマト政権の政治的統合とともに全国へ普及したとされる。西村2008もこう記している。

「小型丸底土器は庄内式期の段階では大きな動きをみせないが、布留式期に至って飛躍的な展開を遂げる。」

つまり畿内編年の論理はこうなる。

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菅原編年が示す一次資料

しかし菅原康夫「阿波弥生時代終末期社会の特質」(1992年)は、この定説に対して一次資料から問い返す。

「大阪湾岸周辺では摂津・河内・紀伊・大和に向けて拡散する東阿波型土器群は主として甕・壺B・小型丸底鉢・細頸壺を搬出

菅原康夫「阿波弥生時代終末期社会の特質」(1992年)

阿波から畿内への搬出器種に小型丸底鉢が含まれることを、菅原は一次資料に基づいて明示した。そして論文の表1では、この搬出が対応する遺跡として河内の美園DSK306・小阪合遺跡、大和の纒向遺跡が明示されている。

菅原編年上では、この搬出は**黒谷Ⅲ段階(庄内2〜3)**に位置する。この対応は東州津遺跡報告書(2011)第4表において、近藤編年2002と菅原編年2000の対比として明示されており、萩原2号墓供献土器がⅥ-1(庄内0)、萩原1号墓供献土器がⅥ-2(庄内1)に位置づけられることとも整合する。

補論:「搬出」と「先行・起源」の論理的区別

ここで一点、論理的な留保を明示しておく必要がある。

菅原1992が示すのは「阿波産土器が畿内へ搬出された」という事実であり、これは直ちに「阿波が小型丸底鉢の起源地である」ことを意味しない。搬出の事実からは、次の二つの解釈がともに成立しうる。

  • A)阿波で先に成立した器形が畿内へ伝播した

  • B)畿内と阿波で並行的に発達しつつある器形が双方向に流通した

ホケノ山報告書2008はAの蓋然性を「高い」と評価しており、本稿もその判断を根拠のひとつとしている。ただし本稿の主たる主張は「起源の確定」ではなく、「菅原編年を参照すれば定説が答えられていない問いに応答できる可能性がある」という問題提起である。

矛盾の所在

二つの記述を並べると、矛盾が浮かび上がる。

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畿内編年では布留式期に「成立・飛躍的に展開」するとされる器種が、菅原編年ではそれに先行する庄内式期にすでに阿波から畿内へ搬出されていた

滝山1985の問題提起

さらに遡ると、滝山雄一(1985)「樋口遺跡出土の土器」がある。滝山は次のように記した。
きっかけは大量に布留式土器・小型丸底鉢が出土した「大和発志院遺跡」報告書だった。

「全国的斉一性の象徴とされる小型丸底土器の成立に東四国地方がかかわった事実は、きわめて重大である。畿内勢力が何故地方祭祀を吸収し、また全国に流布したのか、今後の課題は大きい。」

この記述は二点で重要だ。

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樋口遺跡出土の小型丸底鉢
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レキシル徳島での展示、小型丸底鉢(弥生終末期)
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レキシル徳島での展示、小型丸底鉢(弥生終末期)
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レキシル徳島での展示、小型丸底鉢(弥生終末期)

この記述は二点で重要だ。

ひとつは、体部扁平の小型丸底鉢が庄内式期と並行する段階またはそれ以前に東四国で成立した可能性を示したこと。もうひとつは、出土した小型丸底鉢の内面に朱が付着していたという事実——祭祀具としての性格が阿波においてすでに備わっていた直接的な証拠だ。

さらに滝山は、寺沢薫「纒向遺跡と初期ヤマト政権」(1984年)を参照した上でこの問いを立てている。定説の文脈を知った上で、それに疑問を呈したのである。

定説では「大和が地方の祭祀を吸収して全国に普及させた」とされる。しかし滝山が示した朱付着という証拠は、祭祀様式が阿波において先行していた可能性を示す。

「大和発祥・全国普及」という定説は、阿波の一次資料と向き合うとき、再検討を迫られる。

ホケノ山報告書2008による予察の追認

この滝山の予察は、後の一次資料調査によって補強されている。

橿原考古学研究所『ホケノ山古墳の研究』(2008年、p.251〜252)は、矢野遺跡などの調査資料を踏まえてこう記している。

「かつて滝山雄一は形態が類似することをもって、阿波地域の小形丸底鉢が近畿地方のそれに先行するのではないかと予察的に述べたが、近年の矢野遺跡などの調査資料からはその蓋然性は高い」

同報告書はさらに、小形丸底土器の成立について「吉備からは『技術』を、阿波からは『形』を……東部瀬戸内の複数地域からいくつかの要素を吸収する形で、近畿地方において成立した可能性を考えてよいのではないか」(p.252)と論じている。

注意すべきは、この記述の出所だ。橿原考古学研究所は纒向研究の中心機関であり、邪馬台国畿内説を積極的に支持する立場にある。その機関が公式報告書において阿波先行の蓋然性を認めたという事実は、傍流からの異論ではなく、定説の内側からの自己修正として受け取るべきものだ。

ただし同報告書は技術的連続性については留保を付している。「阿波地域におけるそれは必ずしも横方向のヘラ磨きが施される訳ではなく、技術的には近畿地方の小形丸底壺土器に直結するものではない」(p.252)。「形の先行」と「技術的直結」は区別して理解する必要がある。

しかし、胎土分析によっても決着はつかないかもしれない——阿波産と纒向産の砂礫組成に重なりがあり、現状の分析手法では判別が困難な可能性があるためだ(詳細は別稿参照)

脚台付小型丸底鉢——萩原1号墳からの出土確認

滝山は注20において、小型丸底鉢の系譜的前身にあたる器形についてこう記している。

「小形丸底鉢の成立には、岡山県黒宮大塚等で出土している台付壺形土器の動向に注目したい。徳島県内では徳島市矢野遺跡(1984年8月、徳島市教育委員会が発掘)、鳴門市萩原1号墳(菅原康夫編『萩原墳墓群』徳島県教育委員会 1983年)より出土している。」

菅原康夫(1983)の報告によれば、萩原1号墳から出土した脚台付小型丸底鉢(台付壺形土器)には算盤玉形体部と球胴形体部をもつ二種があり、鮎喰川流域産と讃岐産の両方が確認されている。

ここから確認できる事実は二点だ。

ひとつは、小型丸底鉢の系譜的前身が阿波の墳墓から出土しているという事実。もうひとつは、阿波産と讃岐産が同一墳墓に共存しているという事実——両地域の密接な関係を示す資料として注目される。

滝山はこの器形を、小型丸底鉢成立の先行段階として位置づけた。朱付着(祭祀具)という性格と、その前身器形の萩原1号墳出土という事実を合わせると、小型丸底鉢をめぐる祭祀の文脈が阿波において早期から形成されていた可能性が示唆される。

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萩原1号墓 供献土器 脚台付小型丸底鉢


第4節 畿内側が認めた空白

西村2008の「移植元不明」

定説を支える畿内編年の側でも、重要な空白が認められている。

西村歩(2008)は庄内形甕についてこう書いている(p.15)。

「このような底部の形状は、弥生形甕の特徴である突出した平底からの型式変遷を追跡することができない。したがってその出現経緯は内面ケズリ等の技法と共に、新たな器形概念が中河内地域に移植されたことを窺わせる。」

西村歩「中河内地域の古式土師器編年と諸問題」ふたかみ邪馬台国シンポジウム8資料集

そして論文のまとめ(p.35)でこう続く。

「庄内形甕の形質は畿内に存在しなかったもので、その出現経緯と存在意義についてはまだ明快な解答が得られていない。」

西村歩「中河内地域の古式土師器編年と諸問題」ふたかみ邪馬台国シンポジウム8資料集

庄内形甕は外部から「移植」された。しかし移植元は特定できていない。

この論文の参考文献リストには39点の文献が列挙されている。菅原康夫(1992)は存在しない。滝山雄一(1985)も存在しない。四国・阿波に関する文献は1点もない。
なお、西村2008が「移植元不明」と述べているのは庄内形甕についてであり、本稿が主題とする小型丸底鉢とは別器種である。両者を直接接続するには別途の論証が必要であるが、「庄内形甕の移植元が不明である」という空白と、「東阿波型土器の甕が内面ヘラケズリという庄内形甕と共通する技術的特徴をもつ」(菅原2000、p.27)という事実は、阿波を移植元の候補として検討する理由を与える。

米田2008・松宮2008の証言

同シンポジウムの米田敏幸(p.64)も別の論考でこう記している。

畿内独自に庄内甕を生み出したものではないことだけは事実であろう。」

米田敏幸「3世紀における河内平野の動向」ふたかみ邪馬台国シンポジウム8資料集

さらに、纒向遺跡の調査に関わる桜井市教育委員会の松宮昌樹は、纒向出土の庄内河内型甕を論じた論文の末尾にこう記した。

讃岐や阿波などこれまで比較的少ない割合であった地域の土器が増加するに従い、大和との中間に位置する河内の重要性がより増してくる事は必至である。(中略)同様の現象が河内を介して各地域と大和に繋がっていく可能性も今後考えられる。」

松宮昌樹「纒向遺跡出土の河内の土器」ふたかみ邪馬台国シンポジウム8資料集

「今後考えられる」。

2008年時点において阿波・讃岐と纒向の関係がまだ検討されていなかったことを、纒向調査の当事者自身が認めた言葉だ。菅原が1992年に実証し、滝山が1985年に問いを立ててから、それぞれ16年・23年が経過していた。


おわりに——菅原編年を参照することが必要な理由

定説はこう言う。小型丸底鉢は布留式の典型例であり、大和(纒向)発祥の全国統一祭祀の象徴である、と。

しかし菅原編年の一次資料はこう示す。布留式に先行する庄内式期(黒谷Ⅲ)に、阿波からすでに小型丸底鉢が畿内へ搬出されていた、と。この事実が何を意味するか——起源の先行なのか、並行的交流なのか——は、現時点では確定できない。しかしその問いを立てるために、菅原編年を参照することは不可欠である。

そして畿内考古学者自身がこう認める。

  • 庄内形甕は「移植」されたが移植元は不明(西村2008)

  • 畿内独自の起源ではない(米田2008)

  • 阿波・讃岐との関係は「今後考えられる」(松宮2008)

これらはすべて畿内考古学者自身の言葉だ。

菅原編年は、定説の「外側」にある傍流ではない。定説が答えられていない問いに、一次資料に基づいて答える可能性をもつ編年体系だ。

「在地産」という判定は、分析の終点ではなく、分析の出発点であるべきだ。


確実な事実・有力な解釈・推測・不明

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引用・参照文献

  • 他記事と同様に、この記事もYoichi氏の発信・問題提起を受けて調べたことを整理しました。

  • 滝山雄一「樋口遺跡出土の土器」『徳島考古』第2号、徳島考古学研究グループ、1985年

  • 橿原考古学研究所『ホケノ山古墳の研究』橿原考古学研究所研究成果第10冊、2008年

  • 菅原康夫「阿波弥生時代終末期社会の特質」同志社大学考古学シリーズV、1992年

  • 菅原康夫「弥生土器の様式と編年 四国編」梅木謙一編『弥生土器の様式と編年 四国編』 木耳社、2000年(本稿ではp.27・p.125を参照)

  • 森岡秀人・西村歩「古式土師器と古墳の出現をめぐる諸問題——最新年代学を基礎として——」『古式土師器の年代学』財団法人大阪府文化財センター、2006年

  • 西村歩「中河内地域の古式土師器編年と諸問題」ふたかみ邪馬台国シンポジウム8資料集、香芝市教育委員会・香芝市二上山博物館、2008年

  • 米田敏幸「3世紀における河内平野の動向」ふたかみ邪馬台国シンポジウム8資料集、香芝市教育委員会・香芝市二上山博物館、2008年

  • 松宮昌樹「纒向遺跡出土の河内の土器」ふたかみ邪馬台国シンポジウム8資料集、香芝市教育委員会・香芝市二上山博物館、2008年

  • 東州津遺跡報告書(第4表「阿波東部と西部の土器編年案」所収)、2011年

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シュメル最古のキス描写は、紀元前2400年頃のニップルから出土した円柱型粘土板(バートン・シリンダー)に刻まれた神話にて、エンリル神(又はアン神)とニンフルサグ女神の間でおこなわれるキスとされる これは単なる愛情表現ではなく、大地の肥沃さや生命が育まれる「宇宙創成」の行為として描かれる この記述は、後のシュ・シン王の詩にも通じる「聖婚」思想の原型と言え、神聖な親密さが世界の秩序と豊穣をもたらすという、シュメルの基本的な考え方といえる またシュメル文学のキスは「性交の直後」に描かれ、恋愛の「前戯」ではなく、行為の締めくくりとして登場することが多い

 シュメル最古のキス描写は、紀元前2400年頃のニップルから出土した円柱型粘土板(バートン・シリンダー)に刻まれた神話にて、エンリル神(又はアン神)とニンフルサグ女神の間でおこなわれるキスとされる

これは単なる愛情表現ではなく、大地の肥沃さや生命が育まれる「宇宙創成」の行為として描かれる

この記述は、後のシュ・シン王の詩にも通じる「聖婚」思想の原型と言え、神聖な親密さが世界の秩序と豊穣をもたらすという、シュメルの基本的な考え方といえる

またシュメル文学のキスは「性交の直後」に描かれ、恋愛の「前戯」ではなく、行為の締めくくりとして登場することが多い

https://x.com/enlil_anzu/status/2051096532271661093?s=61



オルフェウス教

https://x.com/suzumura_inc/status/2030609277938008455?s=61




 オルフェウス教では死後の世界をどのようにイメージしていたのでしょうか。

実はギリシアで出土した黄金の板(前5~3世紀)には、死後に出会う記憶の番人に伝えるべき合言葉が刻まれています。

以下の合言葉は敬虔なオルフェウス教徒にとって護符の役割を果たしました。


「私は大地と星芒輝く天空の子だが、私が属するのは天空の種族である。このことをあなたたちみずからも心得よ。私は渇きのために喉が乾涸びて死にそうだ。すぐに記憶の沼から流れ出ている冷たい水を与えなさい」(レオル・ソレル『オルフェウス教』、p.110-111)


ちなみに、合言葉に登場する大地はガイア(ゲー)、天空はウラノス、記憶はムネモシュネに対応しています。

このような黄金の板は南イタリアでも出土しており、エリアーデも『世界宗教史』で言及しています。

オルフェウス教とピタゴラス派の輪廻転生論はプラトンの『パイドン』や『ティマイオス』へと受け継がれ、中期プラトニズムを経てヘルメス文書、ナグ・ハマディ文書にも影響を与えました。


※ジャン=バティスト・カミーユ・コロー《エウリュディケを冥界から連れ戻すオルフェウス》、1861年

トルストイ『要約福音書』あらすじと感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは

トルストイ『要約福音書』あらすじと感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは
トルストイ全集14 宗教論(下)
https://shakuryukou.com/2022/07/11/dostoyevsky822/

トルストイ『要約福音書』あらすじと感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは

トルストイ『要約福音書』概要と感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは

今回ご紹介するのは1880年にトルストイによって書かれた『要約福音書』です。私が読んだのは河出書房新社より発行された中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(上)』1979年第3刷版の『要約福音書』です。

早速この本について見ていきましょう。

ひと口にいえばこれは有名な四福音書の書き直しである。しかしこれが、トルストイのような人間によって書き直されたという事実は、われわれにとってまことに大きな幸福であったといえる。

思うに、この人ほど、身をもって聖書―キリストの教えを理解した人は少ないに違いない。周知のとおりキリストの教えを伝える四福音書は、それぞれ伝者の名を冠して、ヨハネ伝、マルコ伝、マタイ伝、ルカ伝と呼ばれている。これと同じ意味で、本書は、これを「トルストイ伝福音書」と呼んでしかるべき改作であるが、しかもこれは決して単なる整理、書き直しではない。トルストイの心身をくぐって出て来た実感の集積であって、ちょっと誰にでも書けるといったものではないのである。

いうまでもなくトルストイは、高く深い近代的教養を身につけた合理主義者であり、しぜん本書には、キリストの言説と伝えられるものであっても、近代人にとって不合理と認められ、抵抗を感じさせるような奇蹟や神秘の部分は除去されて、私たちの頭にもすなおに入り易く整理されている。この点で、四福音書中もっともすぐれたものと言えるのである。
※一部改行しました

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(下)』1874年初版P458-459normal

この作品は聖書に書かれているイエスの生涯をトルストイ流に再構成したものになります。

この作品の特徴は何と言っても「キリストの言説と伝えられるものであっても、近代人にとって不合理と認められ、抵抗を感じさせるような奇蹟や神秘の部分は除去されて」いる点にあります。

この作品ではイエスが病人を治したり、水の上に浮かんだり、死者を蘇らせたりというエピソードがカットされています。キリスト教にとって最も重要な教義のひとつである「イエスの復活」ですらカットする徹底ぶりです。

トルストイ自身この作品の冒頭で次のように述べています。

この要約では、左の詩句は省略した―すなわち、洗礼者ヨハネの受胎と出生、彼の禁獄と死、キリストの出生、その系図、母を伴ってのエジプト脱出、カナと力ぺルナウムにおけるキリストの奇蹟、悪魔の放逐、海上の歩行、無花果樹の乾燥、病人の治癒、死者のよみがえり、キリスト自身の復所、およびキリストの生活において成就された予言の指示などである。

これらの詩句を、この要約書で省略したのは、これらのものが毫も教訓をふくむことなく、キリストの説教以前、その時代およびそれ以後に生じた事件を記述するにとどまって、叙述を煩雑ならしめるにすぎないものであるからである。これらの詩句は、よしどのように解釈せられようとも、その教義の反対にも、その真実性の証明にもなりはしない。その教義の反対にも、その真実性の証明にもなりはしない。キリストの神性を信じないものにたいしてそれを証明するだけのことである。奇蹟に関する物語の不確実性を理解する人にとっては、そればかりでなく、彼の教義によってキリストの神性に疑念をいだく人にとっては、これらの詩句は、その不要性によりて自然に消滅してしまうからである。

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(上)』1879年第3刷版P254normal

イエスによる奇跡は「信じないものを信じさせるためのものに過ぎない」とトルストイはばっさりと切り捨てます。

そしてさらにこう続けます。

読者は、われらの先入見となっている、四福音書は一言一句の末に至るまで神聖な書物であるとすることの誤りであることを忘れないようにしなければならない。

読者はまた、キリストは、プラトンのごとく、フィーロンのごとく、マーカス・アウレリアスのごとく、みずから書物を書いたことは一度もなく、またソクラテスのごとく、自分の教えを教育あり文字ある人々に伝えたことすらなくて、無学文盲の群集に語ったものにすぎないこと、および、彼の死後久しくして初めて人々が彼について聞いたことを書きつけはじめたにすぎないことを、記憶しなければならぬ。(中略)

読者は、これらのことをすべてよく記憶して、福音書が現在理解されているような、まさしく聖霊からわれらに送られたものであるというような常套的見解に、惑わされないようにしなければならぬ。

また読者は、福音書から不要な部分をとりすて、各章句を比較対照してその意義を開明することは、けっして非難さるべきことでないばかりでなく、むしろそれをしないで、一字一句の末を神聖視するの不合理であることを、記憶しなければならぬ。

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(上)』1879年第3刷版P254normal

これもかなり大胆な見解です。

「聖書は神の言葉ではなく、後世の人間が書いたものに過ぎない。だからそれを無謬の神聖なものとして崇拝するのは合理的ではない」とトルストイは断言するのです。

ですが、こうした「聖書の合理的な解釈」というのは実はトルストイ以前にも存在していました。

その最も有名なものがドイツの思想家ダーフィト・シュトラウスによって1835年に発表された『イエスの生涯』になります。

この本はあのマルクス、エンゲルスに巨大な影響を与えた本としても知られています。

シュトラウスの『イエスの生涯』も奇跡を排した「イエス伝」になっていて、合理的な解釈によって「人間イエス」を描こうという試みでした。

そしてもう一つ有名な「イエス伝」として知られているのがフランスの思想家エルネスト・ルナンの『イエス伝』です。

こちらも奇跡を排した人間イエスの伝記となっていて、死後の復活なども一切書かれません。

ルナンの『イエス伝』もヨーロッパ中で広く読まれ、トルストイだけでなく、ドストエフスキーもこの本について言及しています。

というわけで、合理的なイエス解釈というのはトルストイ以前にも存在し、無神論的な人々にとってはすでによく知られていた考え方でした。

しかし、トルストイにとっての「福音書」というのは無神論者の述べるような「単なる歴史的書物」ということではありませんでした。

なお、別の方面から予が予の要約福音書の読者にたいして記憶してもらいたいと思うのは、もし予が福音書を目して、生霊から与えられた神聖な書物と考えないとすれば、なおさらそれを宗教文学の歴史的記念物とは考えない、ということである。

予は、福音書にたいする神学的ならびに歴史的見解を、理解する。けれども予は、別の立場からそれを見ているので、予が読者に希うところは、予の解説の読過にさいして、予のとらない教会的見解や、または、近来教養ある人々のあいだに常套的となっている、福音書にたいする歴史的見解に惑わされないように、ということである。

予はキリスト教にたいしては、それを特殊な神の啓示としてでもなければ、歴史的現象としてでもなく、―一個人生に意義を与える教義として、見ているのである。(中略)

もともと予は、人生問題にたいする解答を求めたのであって、神学上の問題や、歴史上の問題の解答を求めたのではなかったので、予にとっての主要な問題は、イエス・キリストが神であるかないか、聖霊は誰から生じたかなどということにあるのではなく、同時にまた、いつなんぴとの手によってどんな福音書が書かれたとか、どんな譬喩はキリストの言ったものだとか、そんなことはありえないとかいうようなことを知ることも、同様重要でもなければ、必要でもないのである。

予にとって重要なのは、千八百年間人類を照らし、過去において予を照らし、現在また照らしつつある、この光そのものである。

しかし、この光の根源を何と名づくべきか、その要素が何であるか、またなんぴとの手で点火されているものであるか、―こういうことは、予にとってどうでもよろしいことなのである。
※一部改行しました

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(上)』1879年第3刷版P255-257normal

「予はキリスト教にたいしては、それを特殊な神の啓示としてでもなければ、歴史的現象としてでもなく、―一個人生に意義を与える教義として、見ているのである。」

これがこの作品を貫く最も重要なポイントです。

トルストイの信仰は「神の奇跡にひれ伏すのではなく、人間の合理的な理性によって把握され、それによりひとりひとりがいかに生きるか」という点にその眼目があります。

トルストイはショーペンハウアーを学んだ流れからブッダ、老子なども読み込んでいました。

全知全能、無謬の創造主による奇跡をベースにした宗教ではなく、「人生をいかに生きるか」ということを重んじる東洋的な思想の影響をトルストイは強く受けています。

この記事では長くなってしまうのでお話しできませんが、トルストイの『要約福音書』を読んでいると明らかに東洋的な思想の影響が感じられます。

これは僧侶である私としても非常に興味深いものがありました。

そしてこの『要約福音書』を読んで感じたのは、逆説的にはなりますが「聖書そのものの面白さ」です。

トルストイの『要約福音書』では奇跡や劇的な物語は語られません。ただひたすら人間イエスの行動が淡々と語られ、「何が善で何が悪であり、これこれをして生きるべし」というものが並んでいきます。

正直、これは読んでいて厳しいものがありました。

それに対して従来の福音書で説かれる物語はやはりドラマチックで面白く、とても親しみが湧いてくるというのが私の感想です。(聖書に「面白い」という言葉を使うのが適切かは難しいところですが)

もしキリスト教の歴史上、従来の福音書ではなくてトルストイの『要約福音書』がその根本聖典であったとしたら、キリスト教はここまで広がっていなかったのではないかと私は思います。

やはり物語の力はすさまじいものがあります。物語だからこそ人々の心を動かした。そして奇跡の物語もやはり布教には大きな意味を持っていたということ。そのような物語があったからこそ人々は感動し、キリスト教を信じるようになったのではないでしょうか。

そしてこれと同時に感じたことがあります。

それは「トルストイを尊敬し、トルストイ主義を奉じる人にとってはこの作品はこの上ない教義になるであろう」ということでした。

トルストイの教えは世界中に大きな影響を与え、彼のもとには多くの「トルストイ主義者」が生まれていました。

そうした人々にとっては「何が善で何が悪か。何をなすべきなのか」ということがびっしり並べられたこの書はまさに福音であったろうということを想像してしまいました。

ゼロから新たな宗教として布教する際には、こうした作品はなかなか人に受け入れてもらうことは難しいでしょう。先に述べたように、もしキリスト教の根本聖典が『要約福音書』だったらキリスト教は広まらなかったろうということと同じです。物語的でないと多くの人には理解されず、人びとの宗教感情を動かすことも難しいのです。

ですが、すでにトルストイ主義というグループができていて、トルストイを尊敬している人からすれば、そのようなわかりやすい物語や奇跡はもはや必要ないのです。トルストイ自身も先に見た引用の中で奇跡物語は「キリストの神性を信じないものにたいしてそれを証明するだけのことである」と述べています。

奇跡物語は不信仰者を信仰に導くために必要なものであって、それはいかに生きるべきかの問題には関係ないとトルストイは断言します。

逆に言えば、すでに信仰しているならば奇跡も何もいらず、「何が善で何が悪か、何をなすべきか」さえはっきりさせ、それを実行するのみでいいのです。その手引きとして『要約福音書』はこの上ないものなのではないだろうか。私はそう感じたのでありました。

そしてこの作品を読み終わった後に巻末の解説を読んでみると、やはり次のように書かれていたのです。

いうまでもなくトルストイは、高く深い近代的教養を身につけた合理主義者であり、しぜん本書には、キリストの言説と伝えられるものであっても、近代人にとって不合理と認められ、抵抗を感じさせるような奇蹟や神秘の部分は除去されて、私たちの頭にもすなおに入り易く整理されている。この点で、四福音書中もっともすぐれたものと言えるのである。

つまり、その整理の標準がトルストイの良識にあるという点で群をぬいており、私が今、年七十にして再読三読、『要約福音書』が容易ならざる大文字であることを身にしみて感じとったといっても誇張でないだけの内容を持っている。ともあれ私は、『懺悔』『わが信仰』等、この時期の数ある宗教的述作との関連については、他の項のほうで語られるであろうからふれないが、本書が『懺悔』『人生論』の二名著とともに、トルストイの全思想、全宗教のエッセンスともいうべきトリオであることを、強調したいのである。

今日ふつうに行なわれている聖書―福音書は、キリスト教徒以外の者にはすこしく縁の遠い感があり、気易く読みかかれないうらみがある。それからみると、トルストイのこれは、いわゆる宗教をはなれ、教義を別にして、人生の教科書として、キリスト者なら何人にも、実に親しみ易い長所を持っている。

しかもここでは、その一節一節が、心がこもる以上に、まぎれもない実感をもって書かれているのである。キリストの教えにこそ真理があるとするトルストイのゆるぎない確信が、厳として文字の底に流れているのである。

すばらしい一編のドラマであるキリストの生涯が彷彿として描き出されているのである。キリストという一個の人間の考え方生き方が、単純直截にはっきりと語られているのである。その信念の深さ、大きさ、神を霊と見、愛と観じて、人間のよって生きるべきみちを、力強く指し示しているのである。(中略)

私はくり返していう。『要約福音書』は伝者トルストイの生涯に裏づけされて、千釣の重みをました万人必読の書であると。もちろん『要約福音書』は本巻所載の諸編との関連において読まれることが望ましいが、上述の意味から言って、単独に読まれることも、もとより結構なのである。
※一部改行しました

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(下)』1874年初版P458-459normal

私はこの解説を書いた中村白葉氏がトルストイ主義者であるかはわかりません。ですが、氏がトルストイを深く敬愛されていることが上の言葉からも伝わってきます。

そして上の文を読んで頂いて皆さんもお気づきかと思いますが、「従来の聖書は読みずらく、一般の人には縁遠いものとなっているが、トルストイの福音書は実に親しみやすい」と述べられています。

これぞまさしく、トルストイ主義を奉じる方からすればこの『要約福音書』がいかに重要な教義であるかを示しているのではないかと私は感じました。

私は正直、トルストイが苦手です。

これはよく語られる「トルストイか、ドストエフスキーか」という問題に直結しています。

これら両者の思想、理想は対極にあり、交わりようがありません。

トルストイ主義を奉ずることのできない私にとって、『要約福音書』が親しみやすい書物とはなかなか思えないのにはこうした背景もあります。

「トルストイか、ドストエフスキーか」という問題については後にじっくり当ブログでも考えていきたいと思いますのでこの記事ではこれ以上はお話ししませんが、『要約福音書』はトルストイの思想、理想を考える上であまりに重大な作品であることは疑いようがありません。

ドストエフスキーとトルストイを比較する上でもこの作品を読めたことは非常に大きな経験となりました。

以上、「トルストイ『要約福音書』概要と感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは」でした。

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トルストイ『人はなんで生きるか』あらすじと感想~素朴な人間愛が込められたトルストイ民話の代表作

今回ご紹介するのは1881年にトルストイによって書かれた『人はなんで生きるか』です。私が読んだのは岩波書店版、中村白葉訳の『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇』です。

早速この作品について見ていきましょう。

トルストイはこの作に、一八八一年の一月から着手して、その脱稿に、幾多の中断を伴ってではあるが、ほとんど一年を費やしている。

これは、民話中では一番長いものの一つであり、また力作ではあるけれども、それにしろ、六、七十枚の短編にこんなに長い時日を費やしたことは、もともとトルストイは推敲に推敲をかさねる人であったとはいえ、この種の作品の第一作であるこの一編に、どれほど緊張した努力を傾注したかが推測されて、奥床しい。この作の制作にあたってトルストイが、例の「民衆自身の言葉で、民衆自身の表現で、単純に、簡素に、わかり易く」をモットーに努力したことは明らかで、あたかもそれを証明するかのように、この作の原稿として今日なお三十三とおりの草稿が保存されていることが伝えられている。

岩波書店、トルストイ、中村白葉訳『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四編』P182-183normal

この作品は1870年代末より宗教的転機を迎えたトルストイが満を持して発表した民話作品になります。

トルストイがどのような宗教的転機を迎えたかについては当ブログでも「トルストイ『懺悔』あらすじと感想~トルストイがなぜ教会を批判し、独自の信仰を持つようになったのかを知るのに必読の書」「トルストイ『教義神学の批判』概要と感想~ロシア正教の教義を徹底的に批判したトルストイ」「トルストイ『要約福音書』概要と感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは」の記事で紹介してきました。

この作品にはトルストイ流のキリスト教のエッセンスが込められています。

では、この作品のあらすじを見ていきましょう。

これは古くからある民衆的な天使伝説をもとにしたもので、内容はすべて超自然的な話だと言ってよい。

若い死の天使が人間を憐れんで神の命令に背き、魂を抜きとるのをやめたため、罰を受けて地上に落とされる。靴屋のセミョーンがこの天使をただの浮浪者だと思って、家に連れ帰り靴屋の手伝いをさせる。ミハイルという名のその男、実は天使は経験もないのに、靴作りに異常な才能を発揮し、セミョーンの商売は大繁盛する。ミハイルは長靴を注文に来た地主の背後に同僚の死の天使を見て、長靴の代わリに死んだ人に履かせる突っ掛け靴のようの履物をあらかじめ作っておく。すると、地主はその日に死んでしまうなど、次々に不思議なことをやってのける。そして、ついに神の赦しが与えられ、天使(ミカエル)はロケットが発射されるように、屋根を突き破って一瞬のうちに天に戻っていく。

これは狭い日常性や自然科学的事実を超えて、感情と、夢と、無限の想像力とともに生きている人々の心を知り、それに応えようとした人の作品である。トルストイのロシア正教批判は自然科学、実証主義、唯物論、合理主義の立場からなされたものではなく、信仰の根源と本質を問うものであり、理性にも感情にも背反しない真の信仰を求めるものだったのである。

第三文明社、藤沼貴『トルストイ』P413normal

この物語では、心優しきセミョーンがとても冷えた日に礼拝堂の傍で寒さに震える青年を助け、家に連れ帰るところから始まります。

セミョーンは元々、貧しいながらも冬に備えて外套を新調するためになけなしのお金を携えて村にやって来たのでありました。

そこで目にしたのが礼拝堂の傍で寒いのに服も着ないで身動きもせず座っている若い男だったのです。

セミョーンは追いはぎにあったのだろうかといぶかり、気味が悪くなったので最初はその男のそばを通り過ぎます。ですが、心優しきセミョーンは心に良心のうずきを感じ始めます。

「おまえはいったいどうしたというのだ、セミョーン?」と彼は自分に言うのだった。「ひとが災難にあって死にかけているのに、おまえはこわがって、見て見ぬふりをしようとしている。それともおまえは、それほどたいした金持ちにでもなったというのか?持ってるものをとられるのがそんなにこわいのか?おい、セミョーン、よくねえだぞ!」

セミョーンは踵をかえして、その男のほうへ戻って行った。

岩波書店、トルストイ、中村白葉訳『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四編』P11normal

このエピソードで見事だなと思うのは、トルストイがセミョーンに若い男の前を素通りさせた点です。最初から男を助けるようではリアルさを失ってしまいます。

自分の保身のために疑い、不安を覚えてしまうのは当然のことです。ですがそこから少し通り過ぎた後に「本当にこれでよかったのか?」と良心のうずきを感じる。これも誰しもが感じたことがある感覚なのではないでしょうか。

こうした誰の心の内にもある感覚を呼び起こすことこそ、トルストイが願っていたことなのかもしれません。

トルストイはこの作品で「人はなんで生きるか」を探究していきます。

そしてその大きな柱となるのが「愛」です。

この作品は民話を題材にしていることもあり、非常に素朴です。ですがこれがとにかく味わい深い!

上の本紹介でも出てきましたが、この作品は「民衆自身の言葉で、民衆自身の表現で、単純に、簡素に、わかり易くをモットーに努力した」というトルストイの渾身の一作です。まさにその通りの作品となっています。

そして文庫本で50ページほどのコンパクトな作品ですので肩肘張らずに手に取ることができます。

トルストイというと難解で長大なイメージがありますが、この作品は決してそんなことはありません。

読むと温かな気持ちになれます。ぜひおすすめしたい作品です。

以上、「トルストイ『人はなんで生きるか』あらすじと感想~素朴な人間愛が込められたトルストイ民話の代表作」でした。

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