2025年1月17日金曜日

国書データベース 太龍寺縁起

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鶴尾神社4号墳 - Wikipedia

鶴尾神社4号墳 - Wikipedia

鶴尾神社4号墳

鶴尾神社4号墳(つるおじんじゃよんごうふん)は香川県高松市西春日町に所在する古墳時代前期の前方後円墳。国指定の史跡石清尾山古墳群」の一つで、香川県最古の古墳と見られている。

概要

前方後円墳の特徴である鍵穴形ではなく、シャモジのような墳形をしているのが特徴である。これは時代が下るにしたがって定型化した鍵穴形の前方後円墳の祖形となったと思われている[1]

現状

  • 古墳の脇はかつての採石場跡であり、幅300メートル・高さ50メートル以上の非常に高い断崖絶壁となっているため、柵により一般人の立ち入りは禁止されている[2]
  • 後円部は後述の採石によって削られ、そのまま崖へ落ち込んでいる。
  • 埋葬施設の竪穴式石室は一旦発掘されたものの、その後保存のために埋め戻されている。

経緯

存在が知られるまで

昭和初期、石清尾山古墳群の分布調査が実施され、まず1934年(昭和9年)に石船塚古墳が国の史跡に指定された。その時点でこの鶴尾神社4号墳では伝世鏡「獣帯方格規矩四神鏡」の一部が出土したものの、古墳自体が史跡に指定されることはなかった。

採石場へ

1961年(昭和36年)、香川県の認可を得た四国砕石工業がこの古墳の直下で採石を開始した。採石場となった直下の斜面一帯は露天掘りの要領で大幅に削られ始める。すると、この斜面のピークに位置する古墳では、すぐ脇にまで断崖絶壁が迫るようになり、遂には古墳自体の後円部も土壌と一緒に削られる至った。そのため、1980年(昭和55年)に高松市は四国砕石工業に対して採石の中止を要請、翌年1981年(昭和56年)には約50年ぶりの発掘調査を行い、戦前に出土していた伝世鏡「獣帯方格規矩四神鏡」の欠損部分が新たに出土して完全形となったことは大きな話題となった。更に、築造の年代については全国最古級であることが判明し、古墳の始まりや国家の成り立ちなどを知るうえで非常に価値のある文化遺産として知られることになった[3][リンク切れ]。しかしこの古墳自体、採石場脇の不安定な崖の上で常に崩落の危険にさらされ続けたものの、具体的な保存措置がとられることはなく、事実上放置されてきた[4][リンク切れ]

史跡指定へ

1989年(平成元年)8月14日には国指定の史跡石清尾山古墳群」に追加指定され、古墳区域は公有化されるなど、文化財としての保存が始まる。

一方、直下で採石をしていた四国砕石工業に対しては史跡指定時に高松市が約1億1000万円の採石権消滅の損失補償を行い、県に採石業廃止届を提出したものの、その後も1996年ごろまで採石を続けていた[4][リンク切れ]

保存

史跡の指定された後もこの古墳の危険な立地状態は変わらず、1996年と2000年の2回にわたって直前の崖面が小規模崩落し、2006年5月には大規模崩落を起こすなど、古墳にとって非常に危険な状態が継続する[5][リンク切れ]

そこで高松市はその対策として1997年と1998年の2年間にわたって5000万円を予算化したものの、神社などと施工方法について折り合いがつかず、結局施工は出来なかった[4][リンク切れ]

2008年度から高松市教育委員会による復元整備事業が計画されており、今後は古墳の麓に建設中の都市計画道路(高松市道木太鬼無線)の残土を使用して土盛り造成工事を行い、崖を解消する予定である[5][リンク切れ]

脚注

  1. 高松市創造都市推進局文化財課. "古墳の出現". 高松市. 2021年2月28日閲覧。normal
  2. 高松市創造都市推進局文化財課. "鶴尾神社4号墳". 高松市. 2021年2月28日閲覧。normal
  3. [1]
  4. ^ a b c [2]
  5. ^ a b [3]

関連項目

外部リンク

蓮田兵衛 - Wikipedia

蓮田兵衛 - Wikipedia

蓮田兵衛

蓮田 兵衛(はすだ ひょうえ)は、室町時代中期の土豪寛正の土一揆の首魁。室町期に発生した徳政一揆の指導者として、最も早くに名が知られる人物である[1][2]

略歴

出自は不明で、『新撰長禄寛正記』は「牢人地下人」としている[1][3]寛正3年(1462年9月ごろより京都、続いて奈良で徳政一揆が断続的に蜂起しており、蓮田兵衛は9月11日に蜂起した京都の一揆の大将だった。この一揆は一度沈静化したものの、10月21日に再び蜂起し、諸口を封鎖して東寺を制圧。さらに糺の森に進出して相国寺東門を攻撃し、幕府(花の御所)にまで侵入するかの勢いを見せた。幕府は侍所所司代多賀高忠、次いで赤松政則ら在京大名に鎮圧を命じた。兵衛は土豪百姓を糾合し一度は赤松勢の攻撃を退けたものの、再度の攻勢によってついに敗走した。一揆衆は離散し、11月2日に兵衛もで捕らえられて殺された。2日後に兵衛ら8名の首級が京都に到着し、四塚で獄門に懸けられた[1][2][4][5]

関連作品

小説

脚注

  1. ^ a b c d 今谷 1994.
  2. ^ a b c 黒川 1983.
  3. 『新撰長禄寛正記』, p. 238.
  4. 佐藤 1988, § 長禄・寛正の土一揆.
  5. 『新撰長禄寛正記』, pp. 238–239.

参考文献

2025年1月16日木曜日

大化前代からの渡来系氏族・伊伎氏、亀卜に従事し神事を司る重職に就任、とんでもない出世を果たした是雄の生涯(JBpress) - Yahoo!ニュース

大化前代からの渡来系氏族・伊伎氏、亀卜に従事し神事を司る重職に就任、とんでもない出世を果たした是雄の生涯(JBpress) - Yahoo!ニュース

大化前代からの渡来系氏族・伊伎氏、亀卜に従事し神事を司る重職に就任、とんでもない出世を果たした是雄の生涯

(歴史学者・倉本 一宏) 日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、伊伎是雄です。 【画像】亀卜(壱岐市立一支国博物館) ■ 代々亀卜に従事した家に生まれる  次はさらに辺地の出身者を述べることにしよう。『日本三代実録』巻二十一の貞観十四年(八七二)四月二十四日癸亥条は、伊伎是雄(いきのこれお)の卒伝を載せている。 宮主従五位下行丹波権掾伊伎宿禰是雄が卒去した。是雄は、壱伎島の人である。本姓は卜部(うらべ)。改めて伊伎となった。始祖は忍見足尼命(おしみのすくねのみこと/押見宿禰)である。神代より始め、亀卜(きぼく)に仕奉してきた。その後、子孫が祖業を伝習し、卜部に備えた。是雄は、卜数の道に、最もその枢要を究め、吉凶を占う人の中で、独歩と称すべきであった。  嘉祥(かしょう)三年、東宮(惟仁[これひと]親王)の宮主となり、皇太子が即位した後は、転じて宮主となった。貞観(じょうがん)五年、外従五位下を授けられた。貞観十一年、従五位下に叙され、丹波権掾に拝任された。宮主は元のとおりであった。卒去した時、行年は五十四歳。  伊伎氏の伊は壱、伎は岐・吉とも書く。『日本書紀』に見える伊岐乙等、伊岐麻呂、伊吉博徳(はかとこ)、壱伎韓国(からくに)などから考えるに、特に外交の実務に従事した大化前代からの新しい渡来系氏族とされる。後に中臣・卜部氏と同祖を称したようである(『国史大辞典』による。北村文治氏執筆)。なお、博徳は遣唐使として渡唐した際の紀行文を残し、後に大津皇子の謀反に坐したり、大宝律令の撰定に携わったりした。韓国は壬申(じんしん)の乱における近江朝廷軍の将軍として河内戦線で戦っている。  壱岐国は、肥前国東松浦半島の北方、玄界灘上の島で、すでに、『魏志倭人伝』に、「一大(支)国」と見える。原の辻遺跡がその故地とされている。律令制では対馬とともに国に準じる取扱いを受け、国府は最初は壱岐郡国分にあったが、後に石田郡に移転した。寛仁(かんにん)三年(一〇一九)の「刀伊の入寇」や、鎌倉時代の元の襲来を受けた。  是雄は弘仁(こうにん)十年(八一九)に壱岐島石田郡に生まれた。父は「松尾社家系図」では壱伎氏成(うじなり)としているが、確証はない。母は不明。元は卜部姓であったというから、伊豆・壱岐から各五人、対馬から十人、卜術にすぐれた者が選ばれたという卜部の一族だったのであろう。  代々亀卜に従事した家に生まれ、その術に長じて独歩と称された。亀卜というのは海亀の甲羅を焼いて現われたひび割れの形状によって吉凶の判断をする占いのことである。現在でも壱岐市立一支国博物館や長崎県立対馬歴史民俗資料館にはその文献や実物が残されていて、中国や台湾の博物館でも何度か見たことがある。なお、火を付ける際に「ポクッ」という音がするので、「卜(ぼく)」というのだとの由である。  是雄がいつごろ、どのような経緯で都に上ってきたのかはわからないが、三十二歳になった嘉祥三年(八五〇)に、生まれたばかりで立太子した東宮惟仁親王(後の清和[せいわ]天皇) の宮主(東宮の御燈・御贖・忌火庭火祭・鎮魂祭・大殿祭・八十島祭他の神事にあずかる職)となり、天安(てんあん)二年(八五八)に清和天皇が即位すると、是雄も宮主に転じた。こちらは御燈の御卜・御祓、神今食に奉仕する小斎人の卜定をはじめ、御体御卜・御贖・忌火庭火祭・鎮魂祭・大殿祭・八十島祭・新嘗祭の忌火炊殿祭、大嘗祭の御禊、大嘗宮の点地などに奉仕し、また同祭抜穂使の稲実卜部を勤めるなど、総じて御所方の神事を司った重職である(『国史大辞典』による。渡辺直彦氏執筆)。  その後も貞観五年(八六三)正月に外従五位下、九月に伊伎宿禰の姓を賜り、貞観十一年(八六九)に従五位下に上った。その出自から考えれば、家業を継いだものとはいえ、とんでもない出世である。やはりそれほどの能力と信任があったのであろう。五十四歳で卒去したのは、貞観十四年四月二十四日のことであった。  なお、「松尾社家系図」では、和気好道(わけのよしみち)の女を妻とし、承和(じょうわ)五年(八三八)に男子月雄(つきお)が生まれたことになっているが、史実としては疑問が残る。

カイウラニ王女|ハワイ州観光局公式ラーニングサイト

カイウラニ王女|ハワイ州観光局公式ラーニングサイト

カイウラニ王女

所用時間5min

2015.01.29

ハワイ王国最後の王位継承者、カイウラニ王女。

ハワイ王国第8代リリウオカラニ女王の姪、カイウラニ王女は本名をヴィクトリア・カイウラニ・カラニヌイアヒラパラパ・カヴェクイ・イ・ルナリロ・クレッグホーンといい、1875年10月16日にオアフ島ホノルルにて、父はスコットランド人のビジネスマン、またオアフ島の最後のロイヤルガバナーのアーチボールド・スコット・クレッグホーン 、母は高位酋長ケポオカラニ(カメハメハ1世の従兄弟)の家柄を持つ皇族の王女、ミリアム・カピリ・ケカウルオヒ・リケリケの間に生まれ、カイウラニ王女は生まれながらにして、皇太子妃でした。時は、叔父のカラカウア王の時代でした。母リケリケ王女の兄はハワイ王国第7代のカラカウア王であり、姉は第8代のリリウオカラニ女王です。母はカイウラニ王女が11歳の時に亡くなったため、リリウオカラニ女王の後継者になり、次世代の女王として多くの期待を背負いました。

カイウラニ王女;イギリスのジャージーでの写真。Photo Credit: Hawaii State Archives

カイウラニ王女は幼少3年間、イオラニ宮殿の近くのクィーン・エマ・ストリートに住んでいました。その後父が購入した土地であり、後にゴッド・マザーであったルース王女より、誕生の時に譲り受けた「アウアウカイ」と呼ばれていたワイキキの10エーカー(約40,468㎡)の土地に、父が建てられたヴィクトリア調の2階建ての白い家に移り住みました。アウアウカイは後に母により「アイナハウ」と名付けられ現在のプリンセス・カイウラニ・ホテルはその土地の南に位置し、エントランスのドライブウェイだったという大きな土地でした。この土地には芝生のテニスコート、クロケットコートなどもありました。幼少期の王女は、この土地で乗馬、またすぐ前の海で、水泳、サーフィンを楽しんだと言われています。また、庭には王女の大好きだったたくさんのクジャクと香しいピカケの花に囲まれていました。アイナハウには父により植えられた大きなバニアン・ツリーが植えられ、その成長は著しく、家族や、仲良しのロバート・ルイス・スティーブンソンとの団欒の場にもなりました。

1883年8歳の時にルース王女が亡くなり、1887年2月、11歳の時には母リケリケ王女が亡くなりました。その後は異母姉妹の姉アン・クレッグホーンがカイウラニ王女を見守りました。翌年1888年、王女13歳の時に、将来の女王にふさわしい女性の教育を受けるために、イギリスのボーディングスクールへと旅立ちました

アイナハウで大好きなクジャクにえさを与えているカイウラニ王女(右)そのすぐ横は異母姉のローズ・クレッグホーン。その横は友達のイヴァ・パーカー、左は婚約者だったの従兄弟デイビッド・カワナナコア王子1898年の写真:Photo Credit: Hawaii State Archives

学校では、勉強の他、母の家族より遺伝でもある音楽も楽しみました。また絵画を描くことも王女の楽しみの一つでもありました。

母国では1891年、叔父のカラカウア王が亡くなったため、叔母であるリリウオカラニ女王が誕生し、王女が16歳の時に、次の女王という後継者に選ばれました。1893年、リリウオカラニ女王の時にハワイ王国が滅亡し、女王の希望もむなしく、1895年には裁判により、捕らわれの身になってしまいました。そのことを遠いイギリスの地で聞いたカイウラニ王女はすぐにでもハワイに戻って来たいと思いましたが、すぐにアメリカ合衆国に行き、ニューヨーク、ボストン、ワシントンDCなどでハワイ王国の復興を訴えました。王女たったの17歳の時でした。そのかいあって、当時の大統領グロヴァー・クリーブランドに意向が伝わり、ホノルルへジェームス・ブラントを派遣し、王国の復興にも荷担してくれましたが、結局、夢に終わってしまいました。カイウラニ王女は1897年にやっと祖国ハワイに戻り、その後ハワイ王国は崩壊し、アメリカ合衆国の支配下にされ、1898年8月には準州になりました。

叔母のリリウオカラニ元女王からは、従兄弟であるデイビッド・カワナナコア王子、同じく従兄弟のジョナ・クヒオ・カラニアナオレ王子、または日本の明治天皇の皇族である東伏見依仁親王との縁談をハワイ王国存続のために勧められたと言います。カラカウア王が初めて日本を訪れた1885年には明治天皇に会い、姪のカイウラニ王女と東伏見依仁親王の縁談についての密談を赤坂離宮にて行ったと文献で残っています。カイウラニ王女は政略結婚ではなく、愛のある結婚を希望するということをリリウオカラニ元女王にあてて、綴っています。

1897年にはとても仲の良かった姉のアニー・クレッグホーンが29歳の若さで亡くなりました。1898年2月、イギリスでも一緒に教育を受けていた従兄弟のデイビッド・カワナナコア王子との婚約を発表しました。ホノルルに戻った後は、父のクレッグホーン氏とともに、王政復古を願っていましたが、ハワイがアメリカの準州になったことで、次第に健康を損ね、ハワイ島のワイメアで乗馬をしていた時に雨に濡れた事が引き金になり、ホノルルに戻っても病状は一向に良くならず、1899年3月6日に23歳の若さでこの世を去りました。

ハワイ王国最後の王位継承権を持った、まだ若い王女の死にハワイ国民は悲しみに暮れました。王女がこよなく愛したアイナハウの土地に、今でも王女の像が大好きだったクジャクとともに佇んでいます。

 参考資料:

The Hawaiian Monarchy, by Allan Seiden Mutual Publishing

Kaiulani – Crown Princess of Hawaii, by Nancy Webb and Jean Francis Webb

Mutual Publishing

Princess Kaiulani of Hawaii, by Kristin Zambucka Mutual Publishing

Princess Victoria Kaiulani and the Princess Kaiulani Hotel in Waikiki, by Stan Cohen

カイウラニ王女、サンフランシスコでの写真:Photo by I.W.Taber, Photo Credit: Hawaii State Archives

りる🎄🕯️🪩さんによるXでのポスト ハワイ

 
 
りる🎄🕯️🪩
⁦‪@pono358‬⁩
保守と名乗る人達が「日本をアメリカの51番目の州に」と言ってますが、独立した南の王国だったハワイはアメリカの州になりました。 pic.x.com/3ajQh6AmO1
 
2025/01/16 21:22
 
 
保守と名乗る人達が「日本をアメリカの51番目の州に」と言ってますが、独立した南の王国だったハワイはアメリカの州になりました。

ハワイ最後の君主リリウオカラニ女王は逮捕され、裁判を受ける屈辱を味わいます。支持者の命と引き換えに廃位に署名しました。財産も地位も取り上げられ、宮殿で8ヶ月幽閉されました。ハワイ王国は終焉しました。幽閉の間に女王が作って、アメリカに連れて行かれる時に歌ったとされるのがあの有名な「アロハオエ」です。

はてなき海こえて
遠く遠くひびけ
アロハオエ アロハオエ
こだまする あの調べよ
アロハオエ アロハオエ
さらばハワイよ

チベットもウイグルも自治区になりました。これを批判している有本氏が笑っているのが理解できません。

遷座祭(春の遷座祭)《諏訪大社下社の神事》

遷座祭(春の遷座祭)《諏訪大社下社の神事》

諏訪大社下社の遷座祭(春の遷座は秋宮から春宮へ) 2月1日

 中世に編纂された『諏方大明神画詞』に、下社の遷座祭が書かれています。
正月一日、(中略) 湖水を隔たる遠山下宮(※下社)(いらか)見ゆ、今日神幸(※遷座祭)思やられて是を拝す。(後略)

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』

 上社の本宮から下社の瓦が見えたというのは疑問ですが、素直に「昔は、環境も人の目も良かった」としました。念のために調べると「甍」には「屋根の意」もありました。
内御玉戸社祭・外御玉戸社祭 諏訪大社下社では、遷座祭に先立ち、冬期では早朝とも言える9時から「内御玉戸社祭と外御玉戸社祭」が行われます。かつては、両社の御霊代を「大御正台・小御正台」に乗せて先導したようにも思えますが、現在は通常の神事で終わっています。

初めての遷座祭

 平成16年は諏訪湖が全面結氷したため、昨日「御神渡拝観式」がありました。続いての今日は諏訪大社下社で春の遷座祭があります。「春」と言っても厳寒期の神事なので、年によっては雪の舞う中で行われます。映像で見る限り「白い遷座祭」は実に風情がありますが、…今日は現地で見学するには最適の晴天です。 
 今日を逃すと当分は休日と重ならないことはわかっていますが、それでも迷っていました。最大の要因は寒さによる腰の重さでした。開始時間だけでもチェックしよう、と調べると午後1時でした。これなら朝の暖かく穏やかな「コーヒーと新聞」を犠牲にしなくても済みます。急に腰周りが軽くなりました。

遷座は秋宮から

 諏訪大社秋宮の境内は思いの外参観者が少なく、ほぼ希望通りの場所からカメラを向けることができました。
 笙や篳篥(ひちりき)などの鳴り物が流れる中で、宝殿から神輿に御霊代(みたましろ)が移されました。ただし、幣拝殿や片拝殿の隙間を通しての動きしか見えませんから、遷座の具体的な様子は紹介できません。
 御霊代を乗せた神輿(と担ぐ人)だけが幣殿と神楽殿の真ん中を通り、薙鎌や鉾を先頭にした約二百人の行列の最後尾という位置で春宮へ向かいます。私も、写真を撮りながら行列の後先になって同行しました。

春宮へ

 遷座の道程は最短距離ではなく、秋宮・春宮間を一辺とする「三角八丁」の二辺を伝って春宮へ向かいます。
 その頂点に当たるのが現在の住所表示では「矢木東」ですが、かつては、この近辺まで諏訪湖が広がっていたという話があります。

 参道にある下馬橋も神輿だけが通ることができます。このシーンを春宮境内の石垣上から望遠で狙ってみました。距離感が詰まった望遠効果狙いの写真が左です。(この当時は)連写ができないデジカメの悲しさで、書き込みが終わるのが長く感じられました。

 2時5分、行列の後部に位置する神輿はそのまま春宮神楽殿の中を素通りし、さらに幣拝殿の真ん中を誰はばかることもなく進入して宝殿前に置かれました。
 遷座の儀は、秋宮とは逆に、御霊代を宝殿に安置することから始まります。神職の動きだけは窺えられる秋宮と違い、春宮は条件が悪いので司会のアナウンスを聞いて想像するだけです。


楊柳の幣帛 神輿から宝殿へ遷座する御魂代は、本来は"見(撮)る"ものではないので諦めがつきます。しかし、「楊柳の幣帛」だけは撮りたいと、"奥の手"を使って、離れた場所から望遠で撮ってみました。
 円内が楊柳の幣帛です。数本ずつ小分けにした枝を、神職がリレー形式で宝殿内に座す宮司に渡しました。
 下諏訪町誌編纂委員会『下諏訪町誌』では、「楊柳の幣とは川柳の小枝百本であるが、以前は二百五十本であったという。新しく巡り来る年の初めにあたり、芽吹き始めた川柳に春の神々の訪れを信じた古代の住民が、この柳の小枝を一束に束ねて、山の御手倉として奉ることそれ自体この川柳が神霊招請の依坐(よりま)しであったのであり」と書いています。

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 今日は快晴ですが、2月初日の日陰では寒さが身に染みます。写真のような人だかりですから、神事の立ち会いは"専門職"にお任せし、私は焚き火を囲む輪の方に加わりました。体の前後を交互にあぶりながら、神事の終わりをひたすら待つだけという関係者の冷えた身を思いやりました。
 3時過ぎに、秋宮へ帰る行列の先頭が鳥居から顔を出しました。遷座祭は終わりましたが、今日は最後まで見届けようと秋宮まで同行することにしました(実は、秋宮の駐車場に車を置いてあったので…)。出発時は、宮司と献幣使は馬に乗っていましたが、気が付くと、(乗り慣れない)疲労や渋滞対策でしょうか、今は歩いています。3時半に秋宮の鳥居下に戻り、神職を始め関係者は寒さから解放されました。

一ヶ月遅れの遷座祭

 冒頭の『諏方大明神画詞』では「正月一日」とありますから、現在の遷座祭は、旧儀より一ヶ月遅れで行われていることになります。

二月一日と八月一日の遷座祭は、昔は旧暦の正月一日と七月一日に行われていたが、明治十年に地元の下諏訪村の正副戸長、氏子総代が連署で七月一日頃は養蚕で猫の手も借りたい時期であるので、祭日を変更してほしいと神社に申し出たので、内務省の許可をうけて (後略)

下諏訪町誌編纂委員会『下諏訪町誌』〔民俗編〕

 当時の養蚕は国策でしたから、神社側も呑むしかなかったのでしょう。この"影響"で、春宮の筒粥神事は祭神不在の状態で行われていることになります。

国書データベース 太龍寺縁起

https://kokusho.nijl.ac.jp/work/87536?ln=ja