2026年3月22日日曜日

カラコルム1956

https://minpaku.repo.nii.ac.jp/record/3974/files/KH_031_2_002.pdf

長寿祝賀、の巻: 続ナードサークの四季ver.2

長寿祝賀、の巻: 続ナードサークの四季ver.2

長寿祝賀、の巻

今朝のTVでこんなニュースが流れていました。


miklasanomiyahi


三笠宮妃のご長寿をお祝い申し挙げ、ご病気の全快をお祈りします。


ところで、以前三笠宮について書いたことを思い出しました。


月の輪古墳と三笠宮、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


逝去が伝えられた三笠宮さんを悼んで、地元紙「山陽新聞」の今朝のコラム「滴一滴」にこんな文章が寄せられています。


 ライフワークの歴史研究を通して岡山とは縁が深かった。オリエント史研究者として知られ、「学者殿下」と呼ばれた三笠宮さまが亡くなられた▼(中略)岡山県では、1953年に地域住民ら延べ1万人が参加した月の輪古墳(美咲町)の発掘に関わった。現地の教員宿舎に泊まり、村人と同じスルメを昼食にしながらの作業だった▼後に「月の輪古墳の発掘は、私にとって忘れることのできない懐かしい思い出」と書き残している。岡山市立オリエント美術館開館にも力を尽くした。同美術館の名誉顧問も務め、岡山へは度々足を運んだ


去年のこの記事◇連休末日の「悲劇」三題、の巻に、「月の輪古墳」のことを、少し書きました。一部引用します。


今日の「これなあに?」をもう一つ。
実家付近から、正面の山を遠望しますと、こんな様子です。


(中略 )



父によると、これが月の輪古墳だそうです。
雑木が生い茂って、変哲のない小山にしか見えない状態であったのが、最近整備が行き届いて、手軽に見学できるようになったようです。


また、wikipediaによりますと、


 本古墳は、年代からも、内容からも、地域集団の首長の墳墓であると考えられている。(中略)
1953年(昭和28年)8月から12月にかけて、岡山大学助手(当時)の近藤義郎を中心に地元の住民や教師、学生らによって発掘調査が行われた。この調査は、周辺地域の関連遺跡と月の輪古墳の全面発掘が行われた。こうして弥生時代以降の生産力の高まり、さらに前期古墳の歴史的性格を理論的実証的に明らかにする道を開いた。この一連の活動・調査は「月の輪方式」と呼ばれ学術的、教育的、また地域運動としても当時の話題となった。この記録は翌1954年(昭和29年)スライドと記録映画となり、文集『月の輪教室』として記録された。古墳は1959年(昭和34年)9月15日に岡山県指定史跡に指定された。
(中略)
これらの出土品は、山麓の飯岡地区に1974年(昭和49年)建造された文化財収蔵庫(月の輪郷土資料館)に収蔵されており、1984年(昭和59年)4月10日に岡山県指定重要文化財に指定された。飯岡地区では毎年8月15日頃「月の輪踊りの夕べ」を開催し、盆祭りのなかで月の輪古墳発掘調査を記念している


とあります。
子どもの頃、この記録映画を観たことがありますし、中学生の頃には、地元の友達と、飯岡地区からブッシュをかき分けてこの山に登り、雑木の中の古墳あとを見たこともあります。
月の輪古墳の発掘は、全国から学者・研究者・学生・学校教師・生徒・地元住民ら、延べ1万人が参加して行われ、地域住民の参加により郷土の歴史をともに学ぼうという画期的な発掘運動で、「月の輪方式」と呼ばれ、全国的に注目されたということは、のちに学びました。
しかし、自分が育った家でありながら、こんな目と鼻の先に月の輪古墳が見えるとは知りませんでした。


子ども時代の淡い記憶にあるこの記録映画について、故近藤義郎岡大名誉教授は、「月の輪古墳(吉備考古ライブラリ1)」の後書きでこう書いておられました。


あとがき
発掘の翌年、 一九五四年に映画「月の輪古墳(製作共同映画社)が完成し、岡山市表町天満屋葦川(いせん)会館を満員にして行われた試写会は感動的だった。映画は、 その年の教育映画祭において最優秀賞を得ると共に、全国都道府県教育委員会による推薦9の栄誉を受けた。また文部省教育映画審議会は特別選定をもって応えようとしたが、時の大達文部大臣は、大衆が発掘という学問に参加している場面は文化財保護の面から間題がある、支配被文配の意識をあおっているので教育上面白くない、といった理由にならない二つの理由を挙げて選定を拒否した。これは当時ほとんどの新間が取り上げ、三笠宮崇仁さん・ 三上次男さん・阿部知二さんをはじめ多くの学者・作家が抗識を行い、審識会の委員のほとんどの方は辞表を出された。そのお陰で映画「月の輪古墳」は全国に知れわたり、各地で移動映写されると共に、その一六ミリのプリントは空前絶後の売れ行きだったとぃう。
同じ一九五四年、発掘開始の八月一五日を村の祭りの日とすることが決まった。飯岡村はそれまで夏祭りがなかったので、村人は以来「月の輪祭り」を続けている。年や天候によって百人ほどから何百人まで集まりの具合は違うが、話、歌、余興、屋台、ビールなどがあり、そしてかならず「月の輪古墳」の上映と「月の輪音頭」が歌われ踊られる。


ここに飯岡(ゆうか)村と記述されている旧久米郡柵原町(現美咲町)飯岡には、大叔父の家があり、子どもの頃、夏休みなどには泊まりがけで遊びに行ったことがありました。その時の「月の輪祭り」で、この映画を見た記憶がうっすらと残っているのだと思います。当時は、いさささか退屈な、難しい映画という印象だけが残っています。
前掲の「後書き」のつづきにこうあります。


 「月に輪をかく月の輪踊り」に始まる「月の輪音頭」は永瀬清子作詩、箕作(みつくり)秋吉作曲で、東京中央合:唱団によってレコードに吹き込まれた。 これは第一回の「月の輪祭り」に間に合い、永瀬先生や中央合唱団の振り付けの方も来られ、大勢の村人と共に賑やかに楽しい一夕を過ごした。
これまた同じ年に、「月の輪教室」(理論社発行)が刊行された。三笠宮崇仁序文、和島誠一あとがきで、発掘に参加した教師、小学生・中学生・高校生、村人、訪問者、発掘指導者など計六八人が詩や感想や決意を思いおもいに寄せている。


(中略)


月の輪古墳発掘運動と三笠宮さんについての、もう少し詳しい紹介が、「山陽新聞」web版「サンデジ」の10月27日付記事にありました。


前略)戦前の皇国史観が崩れ、真実の歴史を求める機運が高まっていた1953年。地域住民ら延べ約1万人が参加した月の輪古墳(岡山県美咲町飯岡)の発掘調査に、三笠宮さまも2泊3日の日程で参加された。
「専用の宿舎を用意したが、『研究者として来た。語り合いながら勉強したい』と断られた」。中学3年だった角南勝弘さん(77)=元美咲町教育委員長=は、旧飯岡村教育長だった父らに、きっぱりと話された姿を思い出す。結局、発掘を指揮した故近藤義郎岡山大名誉教授らと同じ宿舎に寝泊まりされた。
岡山大生で調査に参加していた神原英朗さん(84)=元建部町教委文化振興室長=は、現場でみんなと一緒に簡素な弁当を召し上がるなど、ざっくばらんな人柄が印象的だったという。「雲の上の人だと思っていたが、こちらが硬くならないよう気遣っていただいた」
79年には岡山大の楯築弥生墳丘墓(倉敷市矢部)の発掘調査を訪問。学生だった乗岡実岡山市教委文化財課長は「近藤先生の説明に聞き入り、熱心に質問もされていた。本当に研究が好きなんだろうなと感じた」と振り返る。
楯築訪問は、岡山市立オリエント美術館の開館式典に合わせたものだった。日本オリエント学会の初代会長を務めた三笠宮さまは、同館の開館に尽力された。(後略)


逝去後に、次々と発表される追悼記事は、それぞれ、宮の生涯と人柄を浮かび上がらせるものが少なくなく、感じさせられるところ大でした。そのうちの一つ、リテラの記事「◇逝去した三笠宮が語っていた歴史修正主義批判! 日本軍の南京での行為を『虐殺以外の何物でもない』と」にこうありました。


 崇仁親王の思いが、皇室と国民の垣根を越える"民主主義"にあったことは明らかだ。たとえば1952年の「婦人公論」(中央公論社、当時)2月号に掲載された「皇族と自由」と題した聞き書きのなかで、崇仁親王は、昭和天皇の地方巡幸の際に警官が万歳しない人に対して叱りつけたという話を受けて、「これでは少しも人間と人間との感情が流れてきません。こんなとき号令をかけられた人がなぜ抗議しないのでしょう」「同じ人間同しなのですからハダカとハダカでぶつかり合ってほしい」としたうえで、「これが民主主義の基礎であることはいうまでもありません」と語っている。


月の輪古墳発掘運動の中で垣間見せた「庶民性」「気さくさ」のおおもとには、民主主義への確たる思いが横たわっていたのかと、気づかされるエピソードです。
そして、冒頭に引用したコラムはこう続きます。


▼戦後に始めた歴史研究の原点は、自らの戦争体験だったのだろう。以前、NHKのラジオ番組に出演してこう語っていた。「第2次大戦前に陸軍がもう少し科学的な判断を下していれば、歴史もまた違ったと思う。歴史の研究が十分でなかった結果ではないか。やはり歴史の研究は大事だと思う」▼陸軍軍人として中国に赴き、そこで見聞きした戦地の実情を著書などで明かした。軍部を批判すると同時に、戦争の罪悪性を十分に認識していなかった自身への後悔もつづった。その平和への思いをしっかりと受け継ぎたい。


同感です。


今日の付録。


巣立ちしたツバメの巣を狙って、また新しいつがいが巣作りを始めるようです。


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今日はこれにて。

posted by kazg at 20:52Comment(0)私の切り抜き帳

学会概要 | 一般社団法人 日本オリエント学会


https://www.j-orient.com/about/

沿革

1954年6月30日日本オリエント学会(The Society for Near Eastern Studies in Japan)創立
設立総会において三笠宮崇仁親王殿下を初代会長に選出
事務所を東京都千代田区皇居内宮内庁書陵部三笠宮研究室に置く
1954年第1回公開講演会(三笠宮殿下「ノアの洪水」)を開催
1955年日本オリエント学会月報第1巻1号を刊行(月報としては1961年12月の第4巻12号まで)
1959年第1回年次大会を京都大学にて開催
1960年欧文機関誌Orientを創刊
1962年和文機関誌を『オリエント』に改称(第5巻1号より)
1963年社団法人となり、事務所を東京都千代田区神田錦町1–9に置く
1979年日本オリエント学会奨励賞を創設
2011年三笠宮オリエント学術賞を創設
2013年一般社団法人となる
2017年事務所を東京都千代田区神田小川町3–22に移す

三笠宮賞について | 一般社団法人 日本オリエント学会

三笠宮賞について | 一般社団法人 日本オリエント学会

三笠宮賞について

Prince Mikasa Award

昭和60年、本学会の創立者のおひとりである三笠宮崇仁殿下の御下賜金により「三笠宮基金」が設置され、昭和62年、同基金にもとづいて「三笠宮賞」が設けられました。本賞は、日本のオリエント学の推進につくすとともに、本学会の発展に著しく貢献した方に授与するものです。これまでに下記三名の方に授与いたしました。

  • 第1回受賞者 杉   勇 (東京教育大学名誉教授) 平成2年6月9日
  • 第2回受賞者 中山 善衞 (天理教真柱)      平成5年1月29日
  • 第3回受賞者 吉川  守 (広島大学名誉教授)   平成13年10月20日
  • 三笠宮崇仁親王 - Wikipedia

    三笠宮崇仁親王 - Wikipedia

    三笠宮崇仁親王

    戦後

    3人の兄たち(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)とは年齢も離れた四男であり(大正天皇の4人の皇男子のうち唯一の大正時代生まれ)、皇位継承の可能性が低かったことから、かなり自由な立場で行動した。

    1945年(昭和20年)11月29日、昭和天皇から歴代山陵への代拝を命じられる。目的は、歴代各陵に対し戦争の終熄へのお詫びと日本の復興に対する御加護を祈るためであり、同年12月1日に東京を出発して鹿児島県下の神代3陵および安徳天皇陵に参向。同年12月6日に帰京して、翌12月7日に昭和天皇に復命した[10]

    1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職[11]。1947年(昭和22年)4月に東京大学文学部(旧制東京帝国大学)の研究生となり[12]歴史学を学修した(専攻はオリエント史)。同年11月28日に公職追放の仮指定を受ける[13]

    1946年(昭和21年)1月、第1男子寬仁親王が誕生。1947年(昭和22年)、東京都品川区上大崎長者丸の邸宅を三笠宮家が購入し転居、以後13年間御仮寓所とする。この地は1985年にプラトーの分譲(清水建設施工)よってマンションになり、館名は崇仁親王の「お印」にちなんで「若杉ホームズ」とされた。

    1950年(昭和25年)9月、ジェーン台風により大きな被害を受けた大阪府和歌山県兵庫県京都府を視察した[14]

    1955年(昭和30年)に東京女子大学講師に就任したほか、青山学院大学専修大学天理大学拓殖大学でも講義を行い、日本オリエント学会の会長も務めた[15]。1956年(昭和31年)にはセイロン(スリランカ)、イランイラクなどを訪問し、古代遺跡の視察も行った[16]

    1957年(昭和32年)、スカンジナビア航空北極圏航路の航空機運航を開始した記念に親王と同妃の搭乗を要望。これを受け入れることで同年中にデンマークスウェーデンノルウェーへの訪問が実現した[17]

    1968年(昭和43年)には翻訳した『聖書年代学』(ジャック・フィネガン著、岩波書店)が第4回日本翻訳文化賞を受賞している。

    1979年(昭和54年)、出光佐三出光興産創立者)の協力を得て、東京都三鷹市に「中近東文化センター」を設立し、同センター総裁を長く務めた。また出光が中心となってすすめた福岡県宗像市に鎮座する宗像大社沖ノ島祭祀遺跡の調査が行われた際には立ち会っている。この時に宗像大社沖津宮の前に、槙の木を植樹している。

    1994年7月、本人も廃却されたものと思っていた、戦時中の講話をもとにした文書が発見される。1944年1月、支那派遣軍総司令官参謀として若杉参謀の名で書かれたもので、中国からの帰国直前に支那派遣軍将校らへ行った講話を基に書かれた「支那事変に対する日本人としての内省」とその付録として中国人との交際心得を示した「綿鉄集」である。軍の中国侵略や残虐行為に対する率直な批判にわたる部分もあり、話題をまいた。当時、危険文書として軍で廃棄され、三笠宮も終戦時に自身用の控えも焼却したというが、経緯は不明ながら阿部信行のところにあったものが、遺族から東大法学部近代日本法制史料センターに寄贈され、国会図書館の阿部信行陸軍大将関係文書のマイクロフィルムに写されていたものが発見されている[18]。この文書の内容は、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』でも取上げられることになる[19]

    2006年(平成18年)に中近東文化センター図書室がリニューアルオープンした際には、その功績を記念して「三笠宮記念図書館」と命名された。1991年(平成3年)にはフランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に就任、また1994年(平成6年)6月にはロンドン大学東洋アフリカ研究学院の名誉会員に就任した。

    1950年代後半から「紀元節」(神武天皇即位紀元(皇紀)に基づき、三笠宮自身の父系祖先と伝承される初代天皇・神武天皇が即位したとされる西暦紀元前660年2月11日を「日本建国の日」とするもの)の復活への動きが具体的なものになってくると、考古学者及び歴史学者としての立場から「神武天皇の即位は神話であり史実ではない」として、「『神話』と『史実』は切り離して研究されるべき」と強く批判し、皇族の身分でありながらも積極的に「紀元節復活反対」の論陣を張った。編著『日本のあけぼの』は、このときに刊行されたものである。このため「赤い宮様」とあだ名された。

    当然、紀元節復活を推進する人々は三笠宮を激しく非難し、なかでも里見岸雄野依秀市は、三笠宮を「無責任」「非常識」「左翼」と罵倒し、皇族の身分を離れることを要求する著作を公表している。右翼団体の構成員が宮邸に押しかけて、面会を強要した事件も起きている[20]。最終的に「紀元節」という旧来の呼称は使用されなかったものの、国民の祝日のひとつとして、2月11日を建国記念の日とすることになり、三笠宮らの反対運動は成功しなかった。

    90歳前後から、心臓僧帽弁に異常が見つかり、度々僧帽弁閉鎖不全で入退院することがあった。

    2012年(平成24年)6月14日、長男の寬仁親王斂葬の儀(葬儀)に出席した翌日の6月15日に体調を崩し、聖路加国際病院に入院した。当初は過労によるものと診断され、1週間の入院の予定だったが、僧帽弁閉鎖不全のため心機能と血圧が低下し、改めて鬱血性心不全と診断された。7月2日には集中治療室に入り、7月11日に川副浩平による手術を受けた。その後再び集中治療室で治療を受け、8月31日に退院した[21]。11月21日には、高円宮邸で行われた三男の高円宮憲仁親王十年式年祭霊舎祭に出席し、退院後はじめて公の場に姿を現した。

    2014年(平成26年)6月17日に行われた二男の桂宮宜仁親王の斂葬の儀では、孫である寬仁親王第一女子の彬子女王が喪主代理となり、自身は車椅子で参列し拝礼した[22]

    2015年(平成27年)12月2日、百寿(満100歳)を迎え[23]、同時に確かな記録の残る皇族としては初めて100歳となった[23][注釈 1]

    薨去

    2016年(平成28年)10月27日8時34分、東京都中央区の聖路加国際病院心不全のため薨去[24][25][26][27]。享年102(満100歳没)。皇位継承順位は第5位であった[27]。11月4日、葬儀にあたる斂葬の儀豊島岡墓地で行われた[28]。喪主は百合子妃が務め、司祭長は自身が名誉総裁を務めた日本・トルコ協会の東園基政常任理事が務めた。当時の天皇皇后は「皇族であっても自身らより目下の者の葬儀には参列しない」という皇室の慣例により参列せず、使者として河相周夫侍従長が拝礼した[29]。告別式にあたる葬場の儀には600人が、当日行われた一般参拝には、1335人が参列した[30][31]。午後、新宿区内の落合斎場火葬され、豊島岡墓地[28]にある寛仁親王、桂宮宜仁親王、高円宮憲仁親王の墓の近くに埋葬された。

    映画『夜と霧(Nuit et brouillard)』アラン・レネ|紫陽花

    映画『夜と霧(Nuit et brouillard)』アラン・レネ|紫陽花

    映画『夜と霧(Nuit et brouillard)』アラン・レネ

    見出し画像

    戦後80年ということで、日仏学院では戦争に関する映画の特集をしている。
    先日、アラン・レネ監督の『夜と霧』を観に行った。1955年の作品だが、今回初めて鑑賞。

    『夜と霧』というと、個人的には映画よりも書籍の方が印象が強い。そこで今回、ヴィクトール.E.フランクルの『夜と霧(新版)』を、数年ぶりに手に取り再読した。

    フランクルの著作とアラン・レネの映画は、どちらも強制収容所を題材としているが、アプローチがかなり異なるので内容は重ならない。
    前者は収容所の体験から生きる意味まで問う記録であり、後者は記憶と忘却を伝える映像の記録だ。

    タイトルになっている「夜と霧」は、1941年のヒトラー総統令にナチス自身がつけた通称。
    映画の原題(仏)は "Nuit et brouillard" で同じだが、フランクルの『夜と霧』の原題(独)は "…trotzdem Ja zum Leben sagen: Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager" 「それでも人生にイエスと言う:心理学者が収容所を体験する」となっている。

    今回は映画の『夜と霧(Nuit et brouillard)』について、印象に残ったことを書いておこうと思う。

    1.『夜と霧』という映画

    ナチス強制収容所解体から10年後、アラン・レネ監督は第二次世界大戦歴史委員会の要請を受けて、アウシュヴィッツやマイダネクの廃墟となった敷地を記録したそうだ。
    ドキュメンタリーの手法で、収容所の映像や当時の人々の様子を通して視覚的にうったえてくる。映像から現実の恐怖や悲惨さが直接伝わってくるため、鑑賞者の感情が動かされたりする。
    脚本に携わったジャン・ケロールはマウントハウゼン収容所の生還者とのこと。淡々と語るナレーションが印象深かった。

    2.静寂の中の記憶

    「かつての点呼場所に今や草が生い茂っている」とナレーションは伝える。
    本映画では、廃墟となった収容所の静寂と、戦時中の衝撃的な映像を対比させていることによって、残虐行為を今後どう阻止するかについて考えざるを得なくなる。

    歴史的事件の現場だった廃墟を見つめるとき、ある種の空想が湧き上がり戦慄が走る。つまり、わたしたちは強制収容所という閉鎖空間で起きたことを想像し、自分たちの時代に関連づけようとするのだ。その過程で、収容所の廃墟は腐葉土の役割を果たし、それを土壌として啓蒙という希望が花開く。

    映画『夜と霧』とホロコーストより(P14)

    『映画『夜と霧』とホロコースト―各国の受容物語』には、映画の構成や検閲、さらに各国がどう受容しているかなどが描かれている。当然だが、国によって受け止め方が異なる。

    ちなみに、日本では「あまりに残酷で風俗公安を害す」とのことで税関で差し止められたようだ。その後衝撃的ないくつかの場面をカットして1961年に一般公開となったとのこと。
    カットされたひとつに、ブルドーザーで死体の山を処理するという場面がある。確かにその場面は強烈に頭に残っている。次にその場面を書いていこうと思う。

    3.遺体の前で

    フランクルの本でも描かれるが、収容所では人間の尊厳が完全に剥奪される。
    人間の死体の山が、ゴム人形のような弾力性とやわらかさを感じさせるままにブルドーザーで片づけられていく。まさに人間の存在の軽さと非人間的な扱われ方の象徴のような場面だった。
    とにかく遺体の映像がたくさん出てくる。他にも敷地に散乱する遺体、カッと目を見開いたままの遺体、極限の極限までやせ細った下半身を持つ遺体、溝に遺体を投げ込む人の姿、斬首されたであろう体。そしてその遺体の多くが裸であった。

    さらに、この果てしない数の遺体で何かできないのかということで、石鹸(??)を作ったと言う場面があった。よく分からなかった。

    「この遺体で‥‥‥何とも言いようがないのだが‥‥‥目的はこの遺体から石鹸を作ることだった‥‥‥皮膚では‥‥‥」。
    起きたことは筆舌に尽くしがたいと語り手は最初に述べるが、次にその事実に言及する。ここでは映像とナレーションが緊密に連携している。鑑賞者は遺体と石鹸を目にする。皮膚も目に入るが、ナレーションはその描写を、観る者の想像に任せる。

    P24

    想像を絶するような特殊な外科的行為があったのであろうが、「想像に任せる」といっても、想像できない。

    毛髪の山も忘れられない。
    カメラを(たぶん下から上へ)ずらしていくが、毛髪の山のてっぺんががなかなか来ない。いったい何メートルあったのだろうか、様々な色の毛髪の山がそびえていたようだった。

    4.教育としての映画

    本映画は、国によっては教育目的として学校で見られたりもしているようだ。場合によってはショッキングな映像にトラウマになってしまいそうな気もする‥‥‥
    例えばドイツでは、「映画は未来に対する警告」「映画の狙いは全体主義体制の残虐行為を示すことにある」「人間の尊厳の価値」という意見が出ていたとのことなので(P114)、歴史の記憶を伝える重要性が認識されているのだろう。
    日本では歴史教育の素材としての使用はないとのこと。わたし自身の記憶だと、小学生の頃だったと思うが『シンドラーのリスト』を授業で鑑賞した記憶がある。

    5.人間であることの意味

    このような極限状態の環境で生きた人々がいた。そして、人間が人間に対して極限まで非人間的になれる場所があった。周りの環境によって、理性や倫理がどれほど簡単に麻痺するのかが伝わってくる。
    あの映像の静寂の中に、今を生きるわたしたちへの問いが埋まっているかもしれない。何を記憶し、何を忘れ、そして何を繰り返すのか。

    次回書こうと思っているフランクルの『夜と霧』では、収容所の体験からさらに進み、生きる態度や生きる意味、苦悩と死、心理学的、哲学的な分析がなされている。色々考えさせられた。

    中近東文化センター - Wikipedia

    中近東文化センター - Wikipedia

    中近東文化センター

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    (2022年1月)

    中近東文化センター(ちゅうきんとうぶんかセンター、The Middle Eastern Culture Center in Japan)は、東京都三鷹市にある博物館図書館公益財団法人中近東文化センターにより設立された。

    概要

    中近東の歴史的文化を研究し、その成果を公開する施設として、三笠宮崇仁親王の発意の下、出光佐三の協力を得て開館した。

    東京都三鷹市に中近東文化センター附属博物館、中近東文化センター附属三笠宮記念図書館をもち、トルコクルシェヒル県カマン郡チャウルカン村に中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所をもつ。

    収蔵品・蔵書

    2021年時点。

    • 附属博物館収蔵品:1,128件2,297点
    • 附属三笠宮記念図書館蔵書:53,189冊

    沿革

    • 1975年(昭和50年)1月 - 設立趣意書が交わされる。
    • 1979年(昭和54年)10月 - 開館。
    • 1998年(平成10年)5月 - トルコにアナトリア考古学研究所を設立。

    外部リンク

    カラコルム1956

    https://minpaku.repo.nii.ac.jp/record/3974/files/KH_031_2_002.pdf