2025年12月19日金曜日

岩村城 - Wikipedia

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岩村城

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岩村城
岐阜県
 本丸虎口の石垣(六段壁の異名を持つ)
 本丸虎口の石垣(六段壁の異名を持つ)
別名 霧ヶ城
城郭構造 梯郭式山城
天守構造 なし
築城主 遠山景朝
築城年 1221年(承久3年)以降(鎌倉中期)
主な改修者 河尻秀隆各務元正
主な城主 遠山氏森氏大給松平氏
丹羽氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、郭、井戸、移築門
指定文化財 県指定史跡
再建造物 藩主邸
位置 北緯35度21分35.75秒 東経137度27分3.68秒
岩村城の位置(岐阜県内)
岩村城
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岩村城(いわむらじょう)は、岐阜県恵那市岩村町にあった中世の日本の城山城)。鎌倉幕府御家人遠山氏宗家の岩村遠山氏鎌倉時代初期に築いたとされ、別名「霧ヶ城」とも呼ばれた。戦国時代末期には織田氏武田氏の争奪戦に巻き込まれた。江戸時代には岩村藩の城となった。

奈良県高取城岡山県備中松山城と並び、日本三大山城の一つとされる。

また中津川市苗木城可児市兼山城と並び岐阜の三山城とも称される。岐阜県指定史跡[1]

概要

岩村城は恵那市の南部に位置し、明知鉄道明知線岩村駅の南東に位置する城山山上にある。本丸が諸藩の居城中最も高い海抜717mに位置していた。このため、日本三大山城の一つに数えられている。「女城主おつやの方」の悲哀の物語が残る。

歴史・沿革

戦国時代以前

鎌倉幕府御家人加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏戦国時代に至るまで城主であった。

景朝が遠山荘に赴任した鎌倉時代初期頃には平坦部に築かれた砦あるいは城館的なものであり、織田氏徳川氏武田氏の抗争が激しくなった戦国時代末期の16世紀中に遠山氏・武田氏の手で本格的な城山が構築されていったとみられる。[2]

太平記』の1337年南朝延元2年、北朝建武4年)越前金ヶ崎城の戦いにおいて「美濃霧城遠山三郎」なる名が出る事から、鎌倉時代の終わりには諸国に認知される遠山氏の城が存在していたことがうかがわれる(ただし巖邑府誌では霧城とは当時の遠山氏諸城の通称で、太平記の霧城が現在の岩村城の場所にあったかは分からないとしている)。

戦国時代・安土桃山時代

  • 1570年元亀元年) 甲斐国武田氏の家臣で、信濃伊那郡大島城を拠点に伊那郡代であった秋山虎繁(信友)が東濃に侵攻、上村での戦いに勝利し西進してきたが、織田方の武将明智光廉(三宅長閑斎)が小田子村でこれを撃退した(上村合戦[3]
  • 1572年(元亀3年)8月14日[4]1571年(元亀2年) 12月3日[3]とも)、遠山氏最後の城主は遠山景任であったが、景任が病没すると信長は5男で幼少の(御坊丸)を岩村遠山氏の養子とした[3]。後見は信長の叔母にあたる女性(通称はおつやの方など)で幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。
  • 1572年(元亀3年)10月、信玄は大軍を率いて遠江徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に再び虎繁に岩村城の攻略を命じた。岩村城は武田方に包囲されたが信長は諸戦で助けに来ることができず、おつやの方は秋山虎繁と婚姻するという条件で降伏。
  • 1573年(元亀4年)2月末に虎繁はおつやの方を妻に迎えた。信長は物見のように1万人の兵を連れて岩村城周辺に布陣した。3月15日に馬場信春が雑兵と共に800人で織田勢を攻め、岡部正綱50騎、越中衆30騎、飛騨衆30騎、110騎の中から若者34~35人が織田勢を追いかけて、草に臥せて引き下がる雑兵27人の首を取った。織田勢は岐阜へ退却した。その後、岩村城は落城して岩村遠山氏は降参し、信長直参の35騎が首を取られた。(岩村城の戦い[5]
  • 1575年(天正3年) 同年5月21日の長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行った。信長は嫡男・信忠を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、武田勝頼の後詰が間に合わず城は陥落した。開城の際、虎繁の助命が約されていたが織田方はこれを翻し、虎繁夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔[要出典]となり処刑された[6]。織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行い現在の城郭に近いものとなった。
  • 1582年(天正10年)織田氏による甲州征伐が行われたが、武田氏が天目山の戦いで滅亡するまで 信長は信濃へ足を踏み入れることをせず岩村城に滞在して戦果の報告を受けていた。武田氏が滅亡後は、河尻秀隆が甲斐国に移封となり、団忠正の居城となる[7]が3ヶ月と経たぬ内に本能寺の変で忠正は戦死。岩村城は信濃国から戻った森長可が接収し、長可死後は森忠政が引き継いだ。この時の城代となった森氏家老、各務元正は、この後約17年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した。
  • 1584年天正12年)、小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康の元に逃れていた明知遠山氏遠山利景が攻め寄せるも、元正により退けられる。
  • 1599年慶長4年)豊臣秀吉の死後、森忠政が信濃国松代に移封となると田丸直昌が入城。
  • 1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで大阪城番であった直昌は西軍となり、岩村城は田丸主水が城代となっていたが、遠山利景・遠山友政小里光親らに攻められて田丸主水は城を明け渡した。(東濃の戦い)
  • 1601年(慶長6年) 松平家乗が城主となって岩村藩が立藩した。家乗は山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し城下町を整備した。

江戸時代

近現代

歴代城主

1873年(明治6年)時点での構造

  • 本丸建物
    • 櫓門・納戸櫓・西多門・東多門・平重門・棚門
  • 二の丸建物
    • 二の門・厩・菱櫓・武器蔵・北城米蔵・東城米蔵・二重櫓・不明門・添番所・朱印蔵・上番所・土蔵
  • 長局の内建物
    • 埋門・平重門
  • 東丸建物
    • 二重櫓・廊下門
  • 帯曲輪建物
    • 仕切門・番所・平重門(2箇所)・煙硝蔵
  • 出丸建物
    • 平重門・番所・多門(3箇所)・二重櫓(2箇所)
  • 八幡曲輪建物
    • 橋櫓・多門(2箇所)・俄坂門・番所(3箇所)・二重櫓(2箇所)・追手櫓門・平重門・橋・土岐門・一の櫓門・多門
  • 本丸の外側に二の丸、西外側には出丸、二の丸の外側に三の丸が配されていた。
  • 本丸には二重櫓が2基あったが天守はなく、三の丸大手口にあった三重の到着櫓が天守と言えるものであった。
  • これらの建物の木造復元計画はない。

遺構・木造復元

  • 建造物は廃城の際解体されたが、遺構の保存状態は良く曲輪、高石垣、井戸等が良く残る。
  • 岩村町の八幡神社(加藤景廉が祭神として祀られている)の本殿は、岩村城の八幡曲輪から移築されたものである。(現在の岩村城の存在を示す最も古い遺物は永正年間の遠山頼景による八幡神社棟札である。)
  • 不明門が城下の妙法寺の山門として移築され現存する。
  • 岩村城の廊下の部材が、城下の地酒"女城主"蔵元の岩村醸造の廊下にも利用されて残っている(見学可能)。
  • 岩村城のどの場所の建造物かは不明であるが、勝川家の土蔵の一部も岩村城の遺構である。
  • 岩村町の妙法寺には岩村城の城門であった二の丸赤時門が山門として使用されている。
  • 岩村町の隆崇院の境内には岩村城の二の丸にあった弁財天社が移築されている。
  • 岩村町の徳祥寺には岩村城の城門であった土岐門が1873年(明治6年)に移築され、山門として所在する。
  • 恵那市上矢作町円頂寺の畳八畳分の天井絵は岩村城より移築された「八方睨みの龍」が使用されている。どこからみても龍が睨んでいるように見えることから、このように呼ばれる。
  • 藩校の知新館の正門と釈奠の間(岐阜県指定文化財)が現存し、城の麓の藩主邸跡に移築されている。

城跡公園

  • 同じく城の麓の藩主邸跡において、表御門・平重門・太鼓櫓が1990年(平成2年)に木造復元された[8]
  • 下田歌子勉学所や知新館、菖蒲園が建設されている。

絵図

享保3年(1718年)12月17日に城主松平乗賢が、石垣修理のため幕府に提出した絵図と平面図が岐阜県指定重要文化財となっており、岩村歴史資料館に展示されている[9][10]

現地情報

所在地

  • 岐阜県恵那市岩村町字城山

座標: 北緯35度21分37.2秒 東経137度27分4.7秒

交通アクセス

脚注

  1. "岩村城跡". 岐阜県. 2012年8月4日閲覧。normal
  2. 日本歴史地名大系第二一巻 岐阜の地名, 平凡社地方資料センター, 1993, 平凡社 ISBN 4-582-49021-2
  3. ^ a b c 美濃国諸旧記・濃陽諸士伝記p.138-160
  4. 加藤護一『恵那郡史』P152
  5. 『甲陽軍鑑』第39品
  6. 『信長公記』8巻
  7. 森成利(蘭丸)の居城だったとする説もあるが『信長公記』では岩村を賜ったのは団忠正であり、また『兼山記』は成利が岩村城ではなく金山城を領地としていたという記述が残る。
  8. 城跡公園(太鼓櫓・下田歌子勉学所・知新館・菖蒲園)
  9. "岩村城絵図、平面図". 岐阜県. 2013年5月13日閲覧。normal
  10. "展示品概要". 岩村歴史資料館. 2013年5月13日閲覧。normal

参考文献

  • 『恵那郡史』第六篇 第二十三章 岩村城 p158~p172 恵那郡教育会 大正15年
  • 『定本 日本城郭事典』 西ヶ谷恭弘/編 p186 秋田書店 2000年

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、岩村城に関連するメディアがあります。

外部リンク

九戸城 - Wikipedia

九戸城 - Wikipedia

九戸城

九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市福岡城ノ内[2]にあった日本の城。後に盛岡へと移るまで南部氏の居城となり福岡城と改められたが、九戸城と呼ぶのが普通である[注 2]。別名「宮野城」。国の史跡に指定されている[注 1]

九戸城
岩手県
九戸城の堀

九戸城の堀

別名 福岡城、宮野城、白鳥城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 なし
築城主 九戸光政
築城年 明応年間(1492年 - 1501年)
主な改修者 蒲生氏郷
主な城主 九戸氏南部氏
廃城年 寛永13年(1636年
遺構 曲輪、石垣、堀、土塁
指定文化財 国の史跡[注 1]
位置 北緯40度16分03秒 東経141度18分16秒座標: 北緯40度16分03秒 東経141度18分16秒
九戸城の位置(岩手県内)
九戸城

九戸城

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概要

中世の平山城で、主に南部氏の一族である九戸氏が居城した。正確な年は不明である[4]が、九戸氏が九戸城を築城し移ったのが、『系胤譜考』では7代目光政のとき、『奥南落穂集』では12代目信実の代という。また、11代目(『奥南落穂集』の代数では14代目)政実が二戸を加増されて移ったとされる説もある。

九戸政実の乱」以後、蒲生氏郷によって改修されて南部宗家の本城となった。

西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫淵川により、三方を河川に囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって、本丸、二の丸、三の丸、若狭館(わかさだて)、外館(とだて、石沢館とも)[注 3][5][6]松の丸などの曲輪群を形成し、本丸の一部には東北最古の石垣をもつ。東北地方では有数の規模であったが江戸初期に廃城となった。

城跡は、1935年昭和10年)6月7日、国の史跡に指定され[7][注 1]、現在は保存整備されている。ただし、三の丸跡は大部分が市街地となっており、史跡指定対象外となっている[4]

沿革

→詳細は「九戸政実の乱」を参照

以前から城主・九戸政実は、南部一族内の石川(南部)信直と対立し抗争していたが、南部宗家相続争いで九戸氏を差し置いて惣領を継承した南部信直に対し天正19年(1591年)兵を挙げる。これは、南部信直が豊臣秀吉から領地安堵をとりつけていたため豊臣政権への反乱とみなされた。陸奥国では他にも大規模な一揆など起きており、秀吉は豊臣秀次を総大将に浅野長政蒲生氏郷関東奥羽の諸将を鎮圧軍として派遣する。鎮圧軍は一揆を平定しながら北進し、9月2日約6万の兵で九戸城を包囲、助命の約束で9月4日に降伏開城させた。しかし約束は反故にされ、政実はじめ主だった首謀者は処刑され、城内にいた者は女、子供構わず撫で斬りにされて皆殺しされた。平成になって城内から人骨が多数発掘されたが[8][9]、この時に殺害された人たちであるかどうかは判明していない。

この乱は、秀吉による天下統一の総仕上げとされるが、天下の豊臣軍が攻めあぐんだ末に謀略、反故、撫で斬りといった史実は歴史書から抹消されたともいわれる。二ノ丸跡の発掘調査で、首を刎ねられて刀傷を負った、女性を含む複数の人骨が発掘されている[10]。この後、九戸氏の残党への警戒から、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部家の本城として南部信直に引き渡されて三戸城から居を移し、九戸を福岡と改めた。しかし領民は九戸氏への思いから九戸城と呼び続けた[10]

慶長2年(1597年)の不来方(盛岡)築城によって南部氏の居城は盛岡城へ移されたが、城は寛永13年(1636年)の廃城、破却まであった[5]

平成元年(1989年)から九戸城の史跡環境整備事業が行われ、本丸・二ノ丸跡を中心に継続的に発掘調査が行われた[1]。平成7年(1995年)には二ノ丸跡で墓穴が発見され、刀傷や刺傷のある人骨が多数発見された。平成11年(1999年には二ノ丸跡で工房の遺構が発見され、鎧の札などが発見された。これらの調査で多くの出土品が発見されて、九戸氏が近隣だけではなく日本の中心である京都や大阪等の中央とも交流があり、交易が行われていたことが裏付けられた。

平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(104番)に選定された。

脚注

注釈

  1. ^ a b c 指定地の総面積は約211,911㎡[1]
  2. 江戸時代に描かれた古図が複数残っているが、「九戸城」・「九戸古城」等の表題・解説がついており、「福岡城」と印された物は見当たらない[3]
  3. 東北地方でいう「館」の意味は曲輪にあたる。用例には、根城の沢里館(さわさとだて)や七戸城の宝泉館(ほうせんだて)などがある。

出典

  1. ^ a b 関1995、223頁
  2. (地図閲覧サービス) 国土地理院
  3. 関1995、224頁
  4. ^ a b 『図説日本の史跡 第6巻 中世』、同朋舎、1991
  5. ^ a b
  6. 財団法人日本城郭協会監修『日本100名城 公式ガイドブック』学習研究社 2007年
  7. 九戸城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  8. 発掘調査により新事実
  9. 九戸城跡
  10. ^ a b 二戸市教育委員会 九戸城跡

参考文献

詳細

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。2017年1月
  • 児玉幸多坪井清足日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 
  • 関豊「史跡九戸城跡(福岡城跡)について」『中世城郭研究』第9号、中世城郭研究会、1995年、222-225頁、ISSN 0914-3203  - 第11回全国城郭研究者セミナー(1994年8月6日開催)における同氏の報告の要旨。
  • 小和田哲男監修『日本の城』小学館〈ビジュアルワイド〉、2005年3月。ISBN 4-09-681563-2 
  • 村田修三総監修 著、八巻孝夫ほか 編『日本名城百選』小学館〈ビジュアル・ワイド〉、2008年。ISBN 978-4096815649 

関連項目

編集

岩村城 - Wikipedia

岩村城 - Wikipedia #人生を変えた場所 岩村城です🏯 高校生の時に先生から「行ってこい」と言われて 一人で鉄道に乗って見に行きました🚃 それまで名古屋城や姫路城しか知らなかった私は山の中の石垣の連続に圧倒され、雷⚡️に打たれたようなショックと感動を覚え、今...