たっすいがは、いかん!~南国土佐を前にして~
この火曜市がある旧水通町から南へ少し行ったところに、高知市内を流れる鏡川がある。
わりと大きな川で、地図を見るかぎり河川敷も整備されているようだったから、歩いてみることにした。
なんといっても鏡川は、その昔坂本龍馬が少年だった頃には乙女姉さんに水泳を教わり、また日根野道場の門下生だった頃には水練をしていたという川である。
脚色だらけではあるけれど、武田鉄矢原作、小山ゆう作のマンガ「お~い、竜馬!」でも、たびたび描写されていた川でもある。
坂本龍馬にかぎらず、往時の高知城下の人々にとって、生活に密着した川だったであろうことは想像に難くない。
テクテク歩くうちに、ほどなく鏡川の土手に。
ゆるやかに流れる川は、思っていたよりも広かった。
広い川面には、往時とさほど変わらぬであろう青く広い空が映っている。
今でもいざとなるととんでもなく水量が増すこともあるのか、堤防の高さがかなりあるため、川辺まで降りるには堤防にところどころ設けられている階段を使わなければならない。
この階段がなかなかオマタヒュン的に心細い造りで、一段ずつコンクリートが壁から突き出ているだけ。
丈夫なことは理屈ではわかってはいても、高いところから降りる際には、櫛の歯が欠けるようにどこかの一段がもげたりして…という気にもなる。
オマタヒュンの階段を下りると、そこは広々とした土手で、広場ではおんちゃんたちがゲートボールかグランドゴルフをし、草原ではムクドリたちが餌をついばんでいる。
川沿いにウォーキングやジョギングをしている方々の姿も見える。
実にのどかな河川敷。
日当たりのいい場所にベンチもあった。
火曜市でゲットした品々を、このベンチでいただくこととしよう。
まずは田舎寿司!
上端の鮮やかな緑色はリュウキュウという名の、なんだか沖縄と縁深そうでまったく無縁の高知のお野菜(フキ系)。
右2つはタケノコ。
そして左端はシイタケ。
その隣は蒟蒻をお稲荷さん状にしてあるもの。
上にまぶされた紅ショウガもどうやら自家製っぽい。
これがまた相当な逸品。
ネタもさることながら米がまた美味しく、酢の加減が絶妙抜群出色秀逸で、ネタも味付けも、「田舎寿司」などというネーミングが上質の自虐ギャグにしか思えないほどだった。
後日ひろめ市場でも「田舎寿司」という名で売られている商品を目にしたけれど、軍配は取組前から火曜市でいただいた品に高々と上がった。
未体験の方は、日曜市や火曜市の田舎寿司、是非一度お試しあれ!
さてさて、デザートは、高知産プチトマト(ハウス産)に、オタマサこだわりの文旦。
これ、家でいただく分には皮の剥き方いろいろあれど、スイスアーミーナイフがポッケに入っているわけじゃなし、川原のベンチでとなると手以外に使える道具がない。
その点オタマサ1人いると、たとえ分厚い文旦でも食べることができるのであった。
そんなオタマサを、人はスイスアーミー・ウーマンと呼ぶ。
ガッシガッシと文旦を剥いていくオタマサを、川原の木に止まった百舌鳥は首を傾げて眺めていた。
風もなくポカポカ陽気に包まれたベンチで美味しいお弁当(?)を食べたあと、再び散歩を始める。
この鏡川沿いの町は江戸時代の土佐藩や土佐藩士ゆかりの史跡が多く、特に幕末の土佐藩に興味がある方にとっては、あれもこれもそれも一度はその名を聞いたことがあるものばかり。
土手からふたたび堤防を越えたあたりにあるこの高知文化服飾専門学校、この建物の近辺に、あの河田小龍が開いていた塾があったという。
河田小龍というと、幕末もののドラマや小説で坂本龍馬が主役級の登場人物になると、彼に影響を与えた人物として欠かせない存在の1人として出てくる人である。
ただし、「奇人」という描写の方が突出しがちで、今ひとつどういうヒトなのかつかみにくいまま、作中からフェードアウトしていくことが多い。
なのでこの機会にあらためてウィキペディアで調べてみると、実際は、絵師として土佐藩のエリート街道をまっしぐらに歩んでいた画伯だったという。
後の土佐藩政吉田東洋に付き従う形で京都に遊学もしていて、京都では狩野派の大御所に師事していたのだとか。
後の二条城襖絵修復の際には、師匠とともに従事していたというから、本来であれば下級武士坂本龍馬などがホイホイと気軽に話ができるようなヒトではなく、完全に絵の世界でのみ名を残していてしかるべきアーティストだったのだ。
いや、もちろん画伯として名を残してはいるのだけれど、彼が日本に多大な影響を及ぼしたのは、大著「漂巽紀畧」に尽きるといっていい。
「漂巽紀畧」とは、漂流~救出~渡米~帰国という大アドベンチャーを果たしたジョン万次郎こと中浜万次郎の取り調べをするよう吉田東洋から命を受け、その聴取係になったことがきっかけで誕生したものだ。
中浜万次郎が語るアメリカの話を聞けば聞くほど「これはただごとではない」と悟った彼は、一言一句聞き漏らすことなく、主観脚色を交えない代わりに挿絵などを添え、全5巻の大作を土佐藩に上梓したそうな。
内容が内容だけに土佐藩はただちに幕府に披露したところ、あれよあれよという間に諸国大名の知るところとなり、語り部の中浜万次郎は一躍時の人に。
おりしもペリーショックに揺れる鎖国時代のこと、突如目の前に現れたアメリカを当時の日本で誰よりも知る男として、中浜万次郎は幕府直参、すなわち旗本にとりたてられたのであった。
万次郎そのヒトも優秀であったからこそではあるけれど、彼を世に早いうちに送り出すことができたのは、河田小龍の「漂巽紀畧」のおかげといっても過言ではないのだ。
そして万次郎のおかげで開明的に先進国のあり方を知るところとなった河田小龍は、その後土佐で藩士たちにどのような教えを説くことになったかは、あらためていうまでもない。
そしてそんな河田小龍からアメリカンなデモクラシー思想の影響を受けた人物の一人が、たまたま義兄(乙女姉さんのダンナ)が画伯の友人だったという縁もあった坂本龍馬なのである。
ようするに風が吹けば桶屋が儲かる的に考えてみると、風が吹いて万次郎が漂流したことによって、江戸幕府は倒れたことになるわけだ。
風が吹けば幕府が倒れる。
うーむ、これぞ歴史の妙、ヒトの縁の綾。
そして河田小龍塾は、服飾専門学校になる……。
このあたりから、堤防沿いに町を歩く。
堤防が高いためにあいにく川はまったく見えないかわりに、実に古風な一直線の石垣が続く道になる。
このあたりは築屋敷(つきやしき)と呼ばれていた土地だそうで、詳しくはこちらの説明をご覧ください。
で結局、今に残るこの石垣が当時築造された石垣なのかどうかという肝心なことを説明してはくれないのだけれど、ともかくもこの築屋敷に、坂本龍馬が14歳から19歳まで通った日根野道場があったという。
ちゃんと旧跡を示す案内文も立っている。
このあたりに道場があったのなら、鏡川で水練をするなら目と鼻の先だ。
水量も川原の様子も随分変わってしまっているだろうけれど、遠くの山並みは基本的に往時と変わらないはず。
きっと坂本龍馬その他多くの土佐藩士たちも、この風景を眺めながら道場に通い、剣術や水練に励んだことだろう。
そのまま下流に向けて歩きながら往時の風景に思いを馳せていると、すぐ隣で目の前の風景に目を奪われているヒトがいた。
やっぱり冬の水辺といえばカモ。
オオバンも、カモに混じってスイスイと泳いでいる(左がオオバン)。
もう少し下流に行くと大きなホテルがあって、その専属運ちゃんなのかホテルスタッフなのか、おんちゃんが川辺でカモ相手にエサを与えていた。
すると次々に集まってくるカモ軍団!!
鏡川は現在も人と繋がっているようで、こうしてカモにエサを与えて楽しんでいるおんちゃんがいる一方、ヤスと網を手に、ときおり川面を覗き込みながら散歩しているおじぃもいた。
なにが獲れるのか訊ねてみると、今は水量が少なくて何がおるというわけじゃないけど、何かいた時のために持っているだけ、というような意味のことを、土佐言葉で教えてくれた。
ただ歩くだけじゃつまらんから、あわよくば獲物付きのウォーキングということらしい。
そのさらに下流には、こういうものも。
池や湖や流れの無い海でしか手漕ぎボートを操ったことがないと、気がつけば遥か下流に…なんてことになりそうな危うい遊び……と思ったけど、これってただボートに乗るためじゃなくて、釣りの手段なのかな?
この貸しボートハウスの向こうに見えているのが、天神大橋だ。
幅広い鏡川に架かる橋はどれも立派なんだけど、この天神大橋だけは朱塗りの古風な造りになっている。
欄干の擬宝珠も趣きがある。
なぜにこの天神大橋だけこのような作りなのだろう?
橋詰めに掲げられていた説明によると、どうやら江戸時代の高知城城下町で鏡川に架かっていた橋はここが唯一だったそうで、他の川に架かる橋も含めて城下最大だったため、俗に「大橋」と呼ばれていたのだそうな。
ここから北へ伸びる道は大橋通りで、前日のれそれを買った大橋通り商店街に続いている。
その名の由来はこの橋だったわけですな。
明治後はこの大橋の近隣に次々に橋が架かり、かつての「大橋」の存在意義が無くなりかけた頃もあったようだけど、大正時代にはコンクリート化され、戦後になって大型化された際にあらためて「天神大橋」という名になったという。
なので見た目は古風でも、造りは今風の近代建造物ではある。
でも朱塗りであるところといい、その存在感といい……
「はりまや橋」より立派なんですけど。
< それを言っちゃあ、おしまいよ。
そんな天神大橋の橋詰めにも、いました、尾長鶏!
……って、標識によると、我々が河川敷を歩いている間にスルーしてきたところに、旧山内家下屋敷長屋なんてものがあったらしい。
カモ見ている場合じゃなかったカモ?
天神大橋からそのまままっすぐ北へ歩くと、後藤象二郎誕生地などがある。
しかしそれよりも目を引いたのはこちらの看板。
今じゃもう、両者相並んでいるのが当たり前みたい……。
やがて向かいに大橋通り商店街入り口が見える国道に出た。
そのまままっすぐ行けば、ほどなくひろめ市場だ。
時刻は午前11時。
我々の早お昼タイムにバッチリ、ひろめ市場がランチタイムで混み合う前という意味でもバッチリ。
しかし。
火曜市で買ったサバチビターレの干物は要冷蔵だし、文旦、プチトマトの残りをそのまま抱えて歩き続けるのも何なので、いったんホテルに戻って出直すことにした。
地図をご覧いただければ、いかにムダに遠回りかということをご理解いただけるはず。
でも道のり的にはものすごくムダだけど、おかげで再びはりまや橋。
やっぱ、天神大橋の方が立派なんじゃ……?
< だから……それを言っちゃあおしまいよ。
はりまや橋交差点近くのビル脇にある、からくり時計が作動しているところも観ることができた。
からくり時計に合わせて流れるメロディは、もちろんのこと
~♪坊さんかんざし買うを見たぁ
ここからはりまや橋商店街を歩いていると、朝方には準備中状態だった小さな商店街が活気づいていた。
魚の棚商店街。
はりまや橋商店街の途中から、北へと延びている。
商店街とはいっても、幅せいぜい3メートル、長さ100メートルにも満たないこじんまりとした通りだ。
しかしなりは小さくとも、歴史は古い。
なんと江戸時代初期に、藩主から魚の小売を許可された界隈なのだとか。
今の世から見れば魚を売るのにいちいち藩主の許可が必要というのも不思議な気がするけれど、ジョートーなものはお上のものだった当時のこと、なにかと縛りはあったのだろう。
その名のとおり今ももちろん魚を扱う店が多い。
そして、数百種類のコロッケを扱う惣菜店も人気なのだとか。
コロッケ美味そう……。
しかし今ここで腹を満たすわけにはいかない。
このあとはもちろん……
ホテルの部屋に荷物を置いてしまえば、あとは身一つ、目指す場所ももちろんひとつ。
南国らしく燦々と降り注ぐ日光を浴びて緑に輝くフェニックスロード、追手筋をゆく。
毎週日曜日には、この片側2車線すべてが1キロに渡って市になるというのだから、さぞかし壮観なことだろう。
もうすでに何度も歩いているから我が庭のごときこの界隈、夜と昼とで姿は違えど、ひろめ市場は夜昼カンケー無し。
時刻は11時30分。
各店は早くも全開状態ながら、閑散期の平日ということもあってか、恐れていたほどの混雑はない。
混雑はないけど、みなさん当然のように昼からお酒。
やっぱ旅は朝酒、昼酒ですよねぇ!(共感強要)
昼から酒という心強い同志を得るにはうってつけの空間だという意味では、ここひろめ市場は新世界のジャンジャン横丁に勝るとも劣らない。
ジャンジャン横丁と同じく、ひろめ市場に飲み屋は星の数ほどあるなか、我々が陣取ったのはやいろ亭の前。
ヤイロチョウにあやかっているのであろう店名だからというわけではなく、地元県外問わず多くの方が、ひろめ市場でカツオを食べるならオススメナンバーワンに挙げている店なのだ。
イートインシステムが整っているこの市場にはテーブル席が数多く設けられており、とりあえず席を確保してからお好みの店舗で酒・肴を購入し(スイーツでもOKです)、テーブルにてゆっくり食べるというルールになっている。
食器ジョッキその他は、どこで購入したものであろうともテーブルに置いたままで大丈夫。
市場内には各テーブルに残された使用済み食器回収専門スタッフがいるので、テーブルはただちに次のお客さんが使用可能状態になるのである。
まさに、イートイン特化市場。
やいろ亭の生ビールは、アサヒとキリンのいずれかを選べた。
それでも、客から中生のオーダーが入ると、女将さんは必ず最初に「アサヒでいいですか?」と問うていたところをみると、アサヒビール高知支社、相当なりふり構わぬ営業をしていると思われる。
もちろん我々はキリン一番搾りの生。
たっすいがは、いかん!のである(キリンの公式見解では、このキャッチコピーに他者をディスリスペクトする意図はない、とのことです)。
そうこうするうちに、ついに登場、ザ・カツオのタタキ@1250円!!
塩、タレどちらか選べるようになっているので、迷わず塩でいただく(副菜の大葉や大根のツマには柚子風味のポン酢がかかっている)。
もちろん、当然のようにニンニクスライスも添えられている。
昼から生ニンニク!
ただの旅行者に、なんの躊躇やあらん。
矢も盾もたまらず、まずは一口。
ムフフフフ……♪
やはりこちらの土地でのタタキというのはメインディッシュ的存在感で(価格的にも)、濃厚かつ上質なレアステーキを食べているかのよう。
カツオといえば内陸にお住いの方は臭みがある魚というイメージがあるかもしれない。
しかしそれは、モノが違う、調理が違う。
臭みどころか旨味がある!
ただ、昨夜かもん亭でいただいたモンズマガツオのタタキとは違い、ここでいただいたザ・カツオのタタキは、外側に比べて内側が随分冷たい感じがした。
すでに薄々は見当がついていたその理由は、やがて明らかになる。
そうはいっても我々のような高知のタタキビギナーにとっては、やはりメインディッシュ級の美味しさだ。
ともかく今こうして昼から飲んでいる身には、何にも勝る肴である。
そして↓こちらは、あおさのり入りじゃこ天@200円。
じゃこ天はご当地の名物練り物だけど、それにあおさのりが混入されて淡いグリーンになっている。
添えられてあるマヨネーズをつけずそのままいただいてもしっかりした味があり、温めてあるから味がすぐさま口内に広がる。
これまた旨し。
一方、オタマサが別の店からゲットしてきたのがこちら。
のれそれとともに、高知で一度は食べておきたかったどろめ@300円。
1匹1匹はこんなに小さいにもかかわらず、イワシらしいワタの苦味がちゃんと存在感を出していた。
これに比べればのれそれは遥かに大きいというのに、内臓?それ何語?ってなくらいに体内に何も無かったような気が……。
これも醤油やポン酢味だけじゃなく、オリーブオイルと塩でもいただいてみたいなぁ…。
後日うかがったところによると、季節により獲れるイワシ類の稚魚の種類が微妙に異なるそうで、それに応じて味も変わるのだとか。
季節ごとの違いも感じてみたいところである。
興味深いところで、こういう貝もゲット。
ご当地でマイゴと呼ばれている、きれいな巻貝(正体不明)@300円。
500円玉ほどの大きさのきれいな巻貝が、ほどよく味付けされて10個ほど入っている。
爪楊枝で身を引っ張り出してチビチビ食べると、妙にクセになる味。
サザエなどとは違い、最初はその存在に気づかないまま食べてしまったほどフタが柔らかい。
そして、オタマサが興味津々だったご当地山菜がこちら。
いたどり@200円。
黒ゴマを少々和えつつ油で炒めてあり、オタマサによると食感が良くてクセになるそうだ。
これらはどれも持ち運びしやすい小容器に入れられていて、少しずついろんな種類を食べてみたい方にはうってつけの適量&低価格で用意されている。
そのまま尽きることなく次々にいろいろと食べてみたい品々だらけだ。
しかしここで矢尽き刀折れ憤死するわけにはいかないので、そろそろトドメの一品を再びやいろ亭でお願いした。
その頃にはすでにお昼時になっていて、出張その他ビジネスで高知市を訪れているのであろう会社員風のみなさんが行列を作っていた。
こんな真っ只中に到着していたら、生ビールひとつ頼むのも大変になるところだった…。
各テーブルも、いつの間にか……
こちらはやいろ亭がある区域とは別のところで、テーブル数が多い分お客さんも多い。
青少年たち以外、もちろんみなさん飲んでます。
とても正午とは思えないテンションで……。
そして、この昼最後の品登場。
ハランボの唐揚げ。@700円
ハランボとはこちらの言葉で魚の腹側のことで、沖縄風にいうならハラゴー。
カツオのハラゴーといえば本部町内のさしみ亭でも特に区別してメニューになっているほどだから、腹側のやる気系旨さは全国区なのである。
でまた土佐のカツオのハランボ、ポン酢でいただくやる気系がビールに合うこと!!
あー美味かった。
やいろ亭の前に座ると、そこで注文した品は女将さんがビールも肴も運んでくれるので、ほぼほぼ居酒屋の雰囲気で楽しめる。
できることならこのままダラダラと、気の向くまま腹の向くまま過ごしていたいところ。
ああしかし、我々には午後、行かねばならない場所がある。
せっかくの青空、ここでビールを飲み続けている場合ではないのだ(それでもよかったけど…)。
市場内のコロッケ屋さんでコロッケをひとつゲットし、ウマイウマイと立ち食いしながらほろ酔い気分で我々が向かったのは……
…高知城!
高知城にも尾長鶏がいた。
ひろめ市場の眼と鼻の先にあるのだから、「行かねばならない場所が…」などと鼻息荒く言う必要などまったくない距離感。
そのわずかな距離の沿道には、さすがご城下、古道具や刀剣、各種刃物を扱う店が軒を並べている。
このご時世でも包丁を剥き身で販売できるのは、築地市場かここくらいのものではなかろうか。
そんな刃物店の道路を挟んだお向かいには、巨木が木陰を作っている広場がある。
砂利敷きの広場にはテーブルがいくつか設けられていて、それぞれにヒトが集まっている様子。
はて、なんだろう……
おお…青空将棋会館!!
おじいちゃんばかりかと思ったらそういうわけでもなく、おじぃと対局している手前の紺色ドカジャン姿は、かなり若いにぃにぃだ。
平日の昼下がり、お城の麓でのどかに将棋。
いいなぁ、こういう世界って。
これ、雨降りの時はどうなってるんだろう?
追手筋方面から高知城に向かう場合、必ず通るのが追手門。
追手門は本来古称で、多くは大手門と表記されるようになっているのだけれど、高知城をはじめとする一部のお城だけ追手門表記なのだとか。
ま、意味するところはお城の正門。
だからこちら側から眺める天守閣が、ファサードということになる……のだろうか。
天守閣同様この追手門も江戸時代から残る建造物だそうで、天守閣と追手門が揃って現存しているのは、日本全国でたったの3城だけという。
しかも、天守閣をはじめとする城郭建造物のほとんどは、暴れん坊将軍こと徳川吉宗の時代に高知城下を襲った大火で一度焼失してしまい、その後再建されたモノであるのに対し、この追手門はその大火の災厄を免れたのだとか。
何か持っているかもしれない……。
もちろん、国の重要文化財。
ガイドブック的には、この追手門の手前からカメラを向ければ、天守閣と一緒に写せる、というビューポイントでもある。
日本でたった3か所だけという、天守閣と追手門がセットで残っているお城の中で、両者のツーショットを撮れるのは高知城だけなのだそうだ。
眺め的にもレア度でも、類まれなるこの場所にいるシアワセ。
別名鷹城とも呼ばれるお城は、青空によく映える。
しかし。
ともに眺めているはずのオタマサの視線が、まったく違う方向に向いているように思えるのは気のせい?
気のせいではなかった。
水を湛えた堀ではあっても鯉の姿は見えなかったから安心していたのに、今度はいったい何が……
これが。
おお、カワセミ!!
高知城下では最近ハヤブサが増えて、よくハトをゲットしている…なんて話は聞いてはいた。
しかしまさかお城の堀でカワセミに出会おうとは。
「御宿かわせみ」ならぬお城カワセミ。
彼はどうやらこの辺をナワバリにして、堀にいる小魚か何かを狙っているらしく、しばらくの間ずーっと同じ枝に止まっていた。
追手門と天守閣を前にして、濠端ばかり見ている我々は、行き交う人々にとってはさぞかし変に映っていたことだろう…。
お城の造りというのは、基本的に攻められにくくするようにする、というところに全力を傾注するため、後世の観光客が観光しやすいようにはまったくなっていない。
この高知城ももちろん、建築思想は戦国のお城だ。
となるとお城へ登るルートがたやすいはずはなく、ましてや大阪城のようにエレベーターがあるはずもない。
そのかわり、こういうものが用意されていた。
高知城登城お助け杖。
そうか、杖が必要になるほどの勾配ルートなのか。
酒飲んでから来たのは失敗か?
すっかりほろ酔い気分のワタシ、どちらかというと杖よりもAEDが必要になるかも……。
同じく酒、それもビールを飲んだ状態だと困ったことになりがちな重要なモンダイは、さすが天王寺動物園級のお手洗い密度を誇る高知市街、場内随所にもお手洗いが設けてあるおかげで助かった(ただしもちろん天守閣内にはありません)。
巨大な梁がものすごい追手門をくぐると、そこは広場になっている。
その広場の奥、天守側に石像があった。
同じポーズをしているつもりでも、なぜだか仮面ライダーの変身ポーズになってしまうオタマサとは違い、さすが歴史に名を残す「偉人」は形が決まっている。。
この像は、乾退助こと自由民権運動の旗頭・板垣退助。
「板垣死すとも自由は死せず…」と名言を残したものの実際はその時に死んだわけではないから、単なる大げさオヤジだった感もあるけれど、かつての日本では旧百円札でおなじみの顔でもあった。
そういえば天神大橋から続く大橋通り沿いには、後藤象二郎の誕生地のほか、ちょっと小道に入ればこの方の誕生地跡もあったようだ。
坂本龍馬と同時代に同じ土佐で生きた後藤・乾両名は、上士(あとから土佐に乗り込んできた「功名が辻」一派山内侍)・郷士(もともと土佐にいたけど関ヶ原で西軍についてしまった「夏草の賦」一派長宗我部侍)という藩士の上下の区別が厳しかった土佐藩においては、郷士だった坂本龍馬とは逆にエリート階級に属する方々で、子供の頃からわりと自由だったと思われる。
そんな人が自由を求めるのだから、いかに当時が不自由だったかがよくわかる。
もっとも、「自由死すともアベは死せず!」と言い出しかねない政治家ばかりの今の世の中は、相当不自由路線に舵をきっているような気が……。
ちなみにこの像の「板垣退助先生像」という揮毫は、これまた吉田茂首相(当時)の手によるものだそうな。
吉田茂、書きたがり説。
……と思ったら、なんと吉田茂の実父竹内綱は、自由民権運動当時の板垣退助の腹心だったそうで、むしろ坂本龍馬よりも板垣退助のほうがよほど縁の深いヒトだったようだ。
さらにちなみに、この板垣退助像は桂浜に聳える坂本龍馬像と同じ作者の手によるものだという。
なんだかそれって、タイガースの六甲おろしとジャイアンツの闘魂込めてが同じ作曲者っていう話と同じように思えるのは気のせい?
板垣退助像がある広場から、すぐさま苦難の階段が始まる。
この階段、一段一段がやけに幅広くて歩幅になかなか噛み合わず、リズミカルに登っていけない。
それもそのはず、これもまた「敵」に備えてのモノで、攻め上がる際にまっすぐ駆け上がりにくくなるよう工夫されているそうな。
逆に駆け下るには便利だといい、そういえばたしかに帰り道は不便を感じなかった記憶がある。
階段の脇にずっと続く石垣には、ところどころこういう設備がある。
石樋と呼ばれているもので、雨の多い土佐らしく、流れ出す雨水が石垣に害を及ぼさないよう、排水路を何ヵ所も設けてあったそうで、この石垣から突き出ているところが排水口なのだとか。
マニアックながら、これまた他所ではなかなか観ることができないモノのひとつだったりする。
そうこうするうちにたどりつくのが、こちらの像。
馬とともにたたずむ、なんだか垢抜けない女性……と思ったら、畏れ多くも彼女は日本一の内助の功で有名な、初代藩主山内一豊の妻、仲間由紀恵…じゃなかった、千代さんだった。
司馬遼太郎の「功名が辻」を原作にした大河ドラマでも、たしか仲間由紀恵の役名は原作どおり千代だった。
しかし実はこの女性、落飾後の見性院という法号は誰も異論を唱えるところがないものながら、それまでの名前は「千代」だったのか「まつ」だったのか、実は歴史考証学的に不明なのだとか。
名前が不明なくらいだから、その出自も諸説ありすぎてさっぱりわからないという。
早い話が、どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知っている月光仮面のような方なのである。
ねねでずっと通ってきたのに「おね」になったり、お江さんなのか江与さんなのかわからなかったりと、天下人の奥様連でさえ、落髪前の正確な名前がわからないのだから、土佐一国の藩主の嫁の名も素性もわからないのも無理はないのかも。
女性にとって、そういう時代だったということなのだろう。
そんな千代orまつさんのところから仰ぎ見る天守閣。
…まだ遠いんですけど。
ヘェ…ホォ……いいつつ階段を登ると、やがて三の丸広場に出てくる。
桜の季節にはとっても素敵な広場になることだろう。しかし今はただ風が吹くのみ。
でも我々にはとってもありがたい公衆トイレが、広場の奥にある。
スッキリしてから再び階段を登る。
やがて二の丸にたどり着くと、そこにあるのは…
おお、アイスクリン!
ここ高知ではアイスクリンもまた定番スイーツである、という話は知っていたけど、まさか閑散期の平日にまで店を出しているとは。
週末しか出店しない沖縄のアイスクリンとは、営業方針が違うらしい。
もっとも、アイスクリンの店といえば若い(若すぎる?)おねーちゃんが定番の沖縄とは違い、土佐のアイスクリン屋さんは……
……ちょっと年配気味。
やはり沖縄とは、営業方針が違うらしい……。
往時は藩主が暮らしていた二の丸御殿のあとに、アイスクリン。
場所柄の景観を考慮するなら、今の世ならとうてい出店が許されそうにないド派手な看板なんだけれど、兼六園の中にあった売店同様、きっとアイスクリンには観光名所高知城とともに歩んできた歴史があるのだろう。
店舗はここだけに限らないはずなのに、高知滞在中、結局一度も食べずに終わっちゃった、高知名物アイスクリンである。
梁にスターウォーズと高知市がコラボしたデザインの手作り大漁旗が、なぜだか何枚も飾られている詰門をくぐり抜ける。
これ、外側から見るとこんな建物。
往時は「橋廊下」と呼ばれていた構造物で、二の丸と本丸を繋ぐ渡り廊下になっている。
この2階部分を歩いていたらしい。
先にこの外観を見ていたというのに、中を歩いている時にはまったく気づいていなかった。
もっとも、この建物を見て内部にスターウォーズの絵が飾ってあるなんてことを予想するヒトも、まずいないことだろう……。
この橋廊下こと詰門を抜けると……
ついに天守閣が目の前に。
お城というとなによりも天守閣。
お台場に立っていた実物大ガンダムとほぼ同じ高さだ。
ただし高知城で注目すべきは、その前にある本丸御殿。
全国に数ある復元されたお城は、天守閣こそ立派であっても、この本丸御殿まで復元されているところはないから、天守閣がポツンと建っているイメージであることが多い。
しかし本来のお城はこういう構造になっているものなのだとか。
そして高知城は、そんな本丸御殿が現存している唯一の城なのである。
天守閣は有料で、本丸御殿が天守閣入場券売り場になっている。
このあたりから周囲を見渡してもけっこう眺めはいいので、疲労困憊された方は無理に登る必要もないかも。
でもそもそも目的が「高いところに行く」なオタマサが、ここで引き返すはずはない。
この青空だもの、オタマサならずとも登りたくなりますわな。
天守閣内部は土禁なので、券売機で入場券を購入したあと、鍵付きの下駄箱に靴を入れ、券をもぎってもらって本丸御殿のなかへ。
格調も敷居も高い老舗旅館のような趣のある各広間を見つつ、廊下を歩く。
やがて天守閣に。
外から見ると3層か4層に見える天守閣は、実際は6階建てで、もちろんエレベーターもエスカレーターも無いから、狭く急な階段をえっちらおっちら登りながら各階を見て回ることになる。
各階にはいろんな展示物があって(大河ドラマで仲間由紀恵が着ていたという着物もあった……のは本丸御殿内だったか?)、往時の高知城の全体模型も。
どうもこういうジオラマ模型が無性に大好きなワタシ…。
天守閣まで歩いてきた道のりや、往時の三の丸や二の丸の様子もよくわかる。
その他いろいろある展示物の中で、ひときわ目を引いたのがこの写真だった。
説明文にもあるように、空襲に大地震にと相次いだ人災天災、さらには予算不足による放置プレイであったがためのシロアリ被害で、戦後の高知城はボロボロになっていたのだ。
何年もかかる苦難の果てに見事修復なったからこそ現在の姿があるわけで、当時のことをご記憶の方々からすれば、夜静かに美しくライトアップされている現在の天守の姿は、さぞかし感慨深いことことだろう。
震災後苦難の日々が続く熊本城にも、必ずそんな日が来ます。
がんばろう、熊本城。
そんな展示物や城の造りをフムフムと見つつ、階段を登っているうちに、ようやく天守最上階に到着!
こりゃたしかに眺め抜群だわ!
オタマサがなにげに寄り添っているこの欄干、これまた高知城の特徴のひとつだそうで、擬宝珠ひとつすら家康にいちいち許可を得たものなのだという。
ただしこの天守最上階をグルリと歩ける屋外廊下、欄干自体がなんとなく心もとないために、高いところがヒト3倍くらい苦手なワタシはオマタヒュンとなる。
それでも負げずに欄干越しに東側を見下ろすと、先ほど通ってきた追手門が見えた。
西側を見れば、追手門同様国の重要文化財に指定されている黒鉄門が、そしてそのむこうの市街地の先には、この日の午前中歩いた坂本龍馬誕生地や日根野道場がある(矢印のあたり)。
市街地には高いビルが立ち並んでいるため、そのあたりの地上からお城はまったく見えなかったけれど、江戸の昔ならいつも、丘の上にこの天守閣が聳え立っているのが見えたことだろう。
お城が見えるといえば。
我々が泊まっているセブンデイズホテルプラスは高知城の東にあって、部屋は東向きだからそもそも城など見えるはずもない。
途中のビル群を思えばたとえ西側の部屋でも城は見えなかっただろう。
でもひょっとして?
と思い、屋外の非常階段に通じるドアを開けて踊り場に出てみると……
見えた♪
ズームイン!
ビルの谷間にお城がピョコン。
これなら、オタマサが天守最上階にいるときにここから撮ることもできたなぁ……しないけど。
だからどうしたと言われればそれまでながら、なんだかうれしい発見なのだった。
我々がこの天守最上階に登ってきたときには、先にガイドつきのカップルがいらっしゃったのだけど、ガイドさんの説明が終わると、彼らはそそくさと下に下りていった。
チャンス到来!!
オタマサのライフワーク、名所で大の字@高知城。
ちなみに傍らには、こういう注意書きが。
大の字は……「昼寝」じゃないっすよね?
妙な達成感を得て、来た道を戻る。
最下層に下りると、別ルートで東多聞というこれまた往時から残る天守構造物にも入ることができ、そこにもまた展示物があった。
なかでも興味深かったのがこちら。
江戸の昔の捕鯨の様子を再現したジオラマ模型。
時代はたとえ違おうとも、番場蛮の父ちゃんもほぼほぼこのようにして鯨と戦い、死んでいったのだろう(フィクションです)。
捕獲の様子もさることながら、さらに興味深いのは解体シーンだ。
ご丁寧にも解体後の肉のブロックまで作りこまれているくらいだから、解体シーンもけっこうリアルで……
なるほど……こうやって皮を剥いでいたのか。
いやほんと、すみません、好きなんですこういう模型。
もっと他にも、長宗我部時代の土佐のことや埋蔵文化財的な展示物もあるんですよ、実際は。
往時は武器庫だったという東多聞で、まさか捕鯨の模型が見られるとは……。
天守閣を出たあとは、黒鉄門をくぐって帰路につく。
壁の向こうからヒョイ…と馬上姿の松平健が出て来そうな道を下っていくと、石垣の上の壁に、敵意剥き出しの構造物が。
下に向かって口を開けた石落としを囲むように、デンジャラスそうなものがたくさん突き出ている。
ローカルFM局の放送を受信するためかな?と思ったら、なんとこれは忍び返しというものだそうな。
壁沿いに刀を突き出しておくことによって、忍びの者たちの侵入を許さないようにしているのだとか(誰もいない時に石落としから侵入されるんじゃ……?)。
高知城でも忍び返しが現存しているのはこの一画のみだそうだけど、この忍び返しが現存しているのは、全国でこの高知城だけなのだという。
つまりこの区画、国内唯一なのである。
なにげに、国内唯一とか日本有数が多い高知城なのだ。
日本の城に造詣が深い方々にとっては、高知城なんていったらもっともっと見どころだらけのスーパーマニアックゾーンなのだろう。
我々が登った階段は「まっすぐルート」だそうで、このほかにもお城の周囲をグルリとゆっくりまわる「ゆったりルート」もあるらしい。
木々や鳥を愛でるなら、そちらのほうが良かったかも……
と思いつつも、酒を飲んだあとだとAEDがいるかも…と心配したほどにはしんどくなかったし、空は晴れ渡っているし、これ以上何も望むものはないくらいに高知城を堪能した我々なのだった。
うーん、空が青いぜ!