2025年12月31日水曜日

影武者

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京都・龍馬の足跡を歩く 第3回 伏見の龍馬(1):京都を知る・学ぶ | DigiStyle京都

京都・龍馬の足跡を歩く 第3回 伏見の龍馬(1):京都を知る・学ぶ | DigiStyle京都

第3回 伏見の龍馬

~寺田屋事件の真相と龍馬の逃走ルートを追って~

特定非営利活動法人 京都龍馬会理事長 赤尾博章

元治元年(1864)八月一日、坂本龍馬(30歳)お龍(24歳)京都東山粟田 青蓮院塔頭金蔵寺にて住職知足院の媒酌により内祝言を挙げました。その後すぐに、お龍は伏見寺田屋に預けられ、これより慶応二年(1866)一月までお龍は寺田屋で暮らすことになります。 龍馬とお龍の出会いから祝言に至るまでのことは別項で述べることにします。

伏見の龍馬といえばまず思い起こされるのは龍馬が寺田屋滞在中に伏見奉行所の役人に襲われた寺田屋事件です。お龍が入浴中に外の様子がおかしいのに気づき裸のまま二階の龍馬に急をつげに行くというシーンで有名です。はたしてほんとうにそんなシーンがあったのでしょうか。

寺田屋事件「名シーン」の真相とは?

この事件の起こる慶応二年(1866)一月二十三日の前々日 一月二十一日には京都二本松の薩摩藩邸において龍馬が立会い薩長同盟は成立しました。
大仕事を終えた龍馬は意気揚々とお龍の待つ寺田屋へ二十三日の夜三吉慎蔵と共に帰ります。

この事件のことを記したものはいくつか残っています。事件直後の二月六日に龍馬から木戸孝允に宛てた手紙、三吉慎蔵の慶応二年正月の日記、お登勢から龍馬に宛てた手紙。お龍の回顧談「千里駒後日譚」第二回明治32年11月5日付土陽新聞などです。

龍馬が兄権平宛に慶応2年(1866)12月4日付けで差し出した、一年間に起こった出来事を報告する手紙のなかに襲撃の様子が詳しく書かれています。
その部分を現代語に翻訳してみました。

「伏見の難は、去る正月二十三日(新暦の3月9日)夜八ツ時半(午前2時半頃)ころでした。連れの三吉慎蔵と話して風呂からあがり、もう寝ようとしていたところ、ふしぎなことに、この時二階に居たのですが、しのびしのびに歩く人の足音が、階下からするように思いました。六尺棒の音もからからと聞こえてきました。その時、前に報告しました、今は妻である龍が、勝手より駆け上ってきてこういいました。用心してください、敵が襲ってきました。槍を持ったひとが数人階段をあがってきます。」

お龍の回顧録「千里駒後日譚」(第二回明治32年11月5日付土陽新聞)にはこう書かれています。

「女が風呂へ入って居るに槍で突くなんか、誰だ誰だというと、静かにせい、騒ぐと殺すぞというから、お前さんらに殺される私じゃないと庭へ飛び降りて、濡れ肌に袷を一枚引っかけ、帯をする間もないから、はだしで駆け出す(中略)裏の秘密階段から駆け上がって、捕り手が来ました、御油断はなりませんというと、よし心得たと三吉さんは起き上がって手早く袴をつけ、槍を取って身構え、龍馬は小松さんがくれた六連発の短銃を握って待ち構えました」

お龍は着物をはおっていたんですね。
龍馬はお龍が急を告げに来る前に、すでに敵が来ていることに気づいていたこともわかります。

寺田屋事件 龍馬の戦いの様子

この当時龍馬は薩摩藩の庇護をうけ、薩摩藩士として行動していました。寺田屋は薩摩藩御用達の船宿です。
つぎに戦いの様子を龍馬は詳しく綴っています。

「それから私もたちあがり、はかまを着ようと思ったのですが次の間に置いてあったので、そのまま大小を差し短銃を取り、うしろの腰掛にさがりました。連れの三吉慎蔵は袴を着、大小の刀を差し槍を持って、腰掛にかける。間もなく、ひとりの男障子細めにあけ内をうかがう。見れば刀に手をかけていたので、何者だとききました、つかつかと入って来ましたが、すぐにこちらも身がまえたので、また引きかえしました。早次の間でもミシミシと物音がしたのでお龍に指図して、次の間又後の間のふすまを取りはずさせて見れば、早くも十人ばかり槍を持って立並んでいた。がんどう提灯(前方を照らすスポットライト) 二つ持ち、又六尺棒持った者が其左右に立っていた。

双方しばらくにらみあい、私が、どうして薩摩藩士に不礼を致すのかと申せば、敵は口々に上意なり、すわれすわれとののしりて進んで来た。こちらも一人は槍を中段にかまえ立った。敵に横から討たれると思い、私はその左へ立ち変わって立った。その時 短銃の撃鉄を起こし敵十人ほどの槍を持った一番右を初めに一つ撃つと、この者は退いてしまった。又その次なる者を撃つとその敵も退いた。その間敵は槍をなげ突け、又火鉢をなげ込んだり色々たたかった。味方もまた槍を持ってふせぐ。家のなかの戦いは実にやかましくてたまりませんでした。

その時また一人を撃ちましたがあたったかどうか分からないでいたところ、敵の一人が障子の蔭より進んで来た。脇差で私の右の親指の根本をそぎ左の親指の関節を切割り、左の人差指の根本の関節を切った。元より浅手であったので其の者に銃をさし向けたが、手早く又障子の蔭にかけ入ってしまった。

さて前の敵まだ迫り来るので、又一発撃ったがあたったかどうか分からない。この銃は元より六連発でありますが、その時は五発のみ込めていたので、実にあと一発かぎりとなり、是大事と前を見ると今の一戦で敵少ししらんだようだ。一人の敵黒い頭巾を着、たちつけ袴をはき、槍を平正眼のようにかまえ近よって壁に添って立っている。それを見て又撃鉄を上げ、慎蔵が槍を持って立っている左の肩を銃の台にして、敵の胸をよくねらって撃つと、敵は弾にあたったと見えて、唯ねむってたおれる様に前にはらばう如くたおれた。

この時も敵の方は実にドンドン障子を打破るやらふすまを踏破るやら物音すさまじく、しかしながら一向に手元には来ない、この間に銃の弾を込めようと銃の弾倉を取り外し、二発迄は込めたけれども先刻左右の指に傷を負い、手先が思う様にならなかったので、あやまって弾倉を取り落としてしまった。足元を探そうとしたが布団を引き散らかした上に、火鉢の灰など敵よりなにかなげ込まれた物と交ざって分からなかった。このとき敵は唯どんどん音を立てるばかりでこちらに向かう者はなかった。

それからは銃を捨て、慎蔵に銃は捨てたと言えば慎蔵は、こうなったら敵中に突き入り戦うべしという。私は、この間に逃げようといった、慎蔵も持っていた槍をなげすて後ろのはしごの段を下りて見れば、敵は唯家の店の方ばかりを守っていて進んでくるものはなかった。」

戦いの様子が映像を見るように伝わってきます。

寺田屋からの脱出経路

傷を負った龍馬は三吉慎蔵と寺田屋から脱出することになります。その経路も詳しく書かれています。龍馬はこの一週間ほど前に風邪を引き高熱をだしていて、襲撃を受けたときにはまだ十分に体力が回復していなかったようです。

「それより家(寺田屋)の後ろの塀をくぐり、後ろの家の雨戸を打破り内に入って見れば、実に家内のものはねぼけてにげたと見えて夜具などもひきっぱなしであった。気の毒ながら其の家の建具も何も引きはなし後ろの町にでようと思ったが、其の家随分丈夫な家で、なかなか破れなかった。両人して刀を以ってさんざんに切破り、足にて踏破りなどして町に出てみれば人一人もなし。是幸いと五町(約540m)ばかりも走ったが、私は病みあがりだったので、息がきれて歩けなかった、着物は足にもつれ、ぐずぐずしていたら敵に追い着かれる心配あり。
このとき思ったことには、男子はすねより下に垂れる着物は着るべからず。 この時は風呂より上がったままだったので、湯着を下に着て其の上にわた入を着、はかまは着る間なし。

やっと材木納屋にたどり着きました。このあと伏見薩摩屋敷から船で助けがやってきて無事龍馬は救出されることになります。この続きは次回お届けします。

京都の「龍馬の足跡」を巡る旅はまだまだ続きます。
第4回にもご期待下さい。

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2025年12月30日火曜日

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一見「誰でも再現できそう」な異形の構造、ただのオブジェと展示されていたが1900年の時を経て遂にその正体が判明する【ゆっくり解説】

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伐株山 - Wikipedia

伐株山 - Wikipedia

伐株山

伐株山(きりかぶさん[1][2]、きりかぶやま)は、大分県玖珠郡玖珠町山田にある標高685.5メートル。耶馬日田英彦山国定公園内に位置する。

地理

大分県玖珠郡玖珠町耶馬日田英彦山国定公園内に位置する[3]。頂上からは玖珠盆地を一望できる。玖珠盆地は伐株山、大岩扇山小岩扇山、宝山などの巨石・怪岩の山々に囲まれている[4]

地形

伐株山の標高は標高685メートルであり、南から北に向かって緩い傾斜をした杓子形の山体の体積は約13万平方メートルである。山上はメサ(卓状台地)の地形となっており、その外観が巨木の伐採に似ていることから伐株山と呼ばれている[5]

メサのうちでも浸食が進んで頂部が狭まった孤立丘となったビュートと呼ばれる地形であり[6]、二重メサの万年山(標高1,140.3メートル)とともに玖珠町のシンボル的な存在である[7]。玖珠地域には伐株山のようにメサを持つ山が多数あるが、全国的に見てこれだけメサが集中している地域は珍しいとされる[8]

  • 1934年の塚脇尋常小学校と伐株山

    1934年の塚脇尋常小学校と伐株山

  • 北の玖珠町四日市から見た伐株山

    北の玖珠町四日市から見た伐株山

自然環境

気象

伐株山がある玖珠地域の気候は内陸盆地型(内陸性気候)で、沿岸部と比べて気温の変動が激しく、年変化、日変化ともに較差が大きい[9]。しかし伐株山の頂上では、盆地の底と比べて最低気温は6℃ほど高く、最高気温は2.5℃ほど低くなっている[9]。また頂上における較差は8.5℃であり、盆地の底と比べて半減している[9]

伐株山の頂上付近では、深夜に気温が急に上昇することがしばしば起こり、同時に湿度の急減をともなう[9]。これは上空の暖かい乾燥した空気が、山肌で冷却してできた湿った空気と置き換わる現象とされる[9]

玖珠郡九重町南山田地区には「伐株山のほうに来た夕立ちは粟野に来る」という観天望気がある[10]

植生

5月下旬から6月上旬にかけてミヤマキリシマドウダンツツジが咲き、伐株山の登山者はこれらの花を見ることができる[11][12]

歴史

史跡

伐株山の西側の玖珠町小田地区や東側の玖珠町大隈地区には、弥生時代から古墳時代の遺跡があり、昭和50年代の整備事業に伴い数多く発見された。また、北西側には陣ヶ台といわれる丘陵が伸びており、この丘陵上には将軍塚、彦塚、姫塚と呼ばれる円墳や、その他の大小の古墳が確認されている[13]。山頂には南北朝時代に九州における南朝側の拠点となった玖珠城(伐株山城、高勝寺城)の土塀跡が残っている[7]

顕彰

1980年(昭和55年)4月には日本山岳会東九州支部によって「大分百山」に選定されたが[14]、2020年(令和2年)11月に3訂版にあたる書籍『新大分百山』が発行された際に除外された[15]。2006年(平成18年)には大分合同新聞によって万年山とともに「おおいた遺産」に選定された[8]

2017年(平成29年)には中津市と玖珠町で共同申請した「やばけい遊覧〜大地に描いた山水絵巻の道をゆく」が日本遺産に認定され、伐株山は構成文化財のひとつとなった[16]

伝説・伝承

玖珠の地名の由来

この伐株山は、大昔にあったクスノキの大木の切り株跡であると言い伝えられ、これが玖珠郡の地名になったとされている[17]。天平5年(733年)頃に編纂された『豊後国風土記』によると、「玖珠 郷は参所 里は九 駅は壹所なり 昔者 此の村に洪き樟の樹ありき、因りて玖珠郡と曰ふ」とある[17]。つまり、天平5年(733年)より前に大きなクスの木があったので、ここを玖珠郡と呼ぶようになったということである[17][18]。さらに群の中央にある山が大木の切り株に似ているところから、それがクスの木の切り株の跡であるという伝説が生まれたとされる[17]

伝説

『豊後傳説集 全』には以下のような伝説が記されている。

玖珠の森に來留島と云ふ殿様が居た。或る時、城下の山の樟の大木を切り倒すようにと命令したので、毎日樵夫の手で少しずつ伐られていった。けれど不思議なことに翌朝行ってみると、前日切った木片が切り口について、元通りの木になってゐるのだった。此処にキキリベットと云ふとても大男の樵夫が居た。人々が「キキリベットに伐らせたら」と云ふので、遂に命を受けて伐る事になった。毎日毎日一生懸命に伐り、一日の仕事を終へた後その日に伐った木片を焼き捨てた。かうして数日の後、かの大木も見事に伐り倒された。けれど木が倒されたとたんにキキリベットは刎ねとばされて山國川に落ちて流れた。下流の人々は見慣れぬ大男の死体が流れて來たので、これを上げて神様として祀った。今樟の大木があった山を伐株山と云ひ、そのすぐ側に樟を燒いた灰で出來たと云ふ小さな山がある。 — 郷土史蹟傳研究会(石井博子)、『豊後傳説集 全』郷土史蹟傳説研究会、1932年、117ページnormal

観光

平坦な頂上はハングライダーパラグライダーの基地となっている[1]

2016年(平成28年)5月、山頂に無料休憩施設「KIRIKABU HOUSE(キリカブハウス)展望休憩室」がオープンした。木造平屋建でガラス張りの建物であり、床面積は約34平方メートル。飲食スペースを20席設けており、旧豊後森機関庫、JR久大本線の線路、玖珠町中心部などを一望できる[19]

西玖珠テレビ中継局

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出典検索?"伐株山" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2017年2月)

玖珠テレビ中継局でカバーしきれない玖珠町と九重町及びその周辺の世帯に向けて、西玖珠テレビ中継局が置かれている。本放送は2008年(平成20年)11月25日に開始された。地上デジタルテレビジョン放送送信設備は以下の通り。

リモコンキーID 放送局名 チャンネル 空中線電力 ERP 放送対象地域 放送区域内世帯数
1 NHK大分総合 29 1W 大分県 -世帯
2 NHK大分教育 30 全国放送
3 OBS大分放送 28 大分県
4 TOSテレビ大分 31
5 OAB大分朝日放送 19

交通アクセス

脚注

  1. ^ a b c "伐株山(きりかぶさん)". 大分県観光情報公式サイト. 公益社団法人ツーリズムおおいた. 2019年7月30日閲覧。normal
  2. "伐株山(きりかぶさん)". 玖珠町今昔物語. 玖珠町. 2019年7月30日閲覧。normal
  3. 『大分ガイド O-BOOK』大分県、2002年、10頁。normal 
  4. ^ 玖珠町教育委員会『伐株山城跡緊急発掘調査概報I』玖珠町教育委員会、1980年、3頁。 
  5. ^ 『大分ガイド O-BOOK』大分県、2002年、148頁。 
  6. ^ "日本の典型地形について 3.地質を反映した地形". 国土地理院. 2019年7月30日閲覧。
  7. ^ a b "万年山・伐株山". おおいた遺産. おおいた遺産活性化委員会. 2019年7月30日閲覧。
  8. ^ a b "万年山・伐株山". おおいた遺産. 2024年8月4日閲覧。
  9. ^ a b c d e 大分大学教育学部『日田・玖珠地域―自然・社会・教育―』大分大学教育学部、1992年7月31日、34-37頁。 
  10. ^ "生物多様性ここのえ戦略 資料編" (PDF). 九重町 (2022年12月7日). 2024年8月4日閲覧。
  11. ^ "地域再生計画『豊かな資源を活かした活力あふれる玖珠町まちづくり計画』" (PDF). 大分県. 2024年8月4日閲覧。
  12. ^ "ミヤマキリシマ群生地". 玖珠町 (2021年4月1日). 2024年8月4日閲覧。
  13. ^ 『先人たちの囁き 玖珠町の文化財』玖珠町教育委員会、2001年、3頁。 
  14. ^ "東九州支部の沿革" (PDF). 公益社団法人日本山岳会東九州支部. 2015年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月31日閲覧。
  15. ^ 『登山ガイド 新大分百山(大分百山・三訂版)』公益社団法人日本山岳会東九州支部、2020年。 
  16. ^ "構成文化財 やばけい遊覧". 日本遺産ポータルサイト. 2024年8月4日閲覧。
  17. ^ a b c d 玖珠郡史談会 編『玖珠川歴史散歩』葦書房、2021年、200頁。 
  18. ^ "なぜ「くす」と言うの?(生い立ちと伝説)". 玖珠町. 2019年7月30日閲覧。
  19. ^ 「玖珠の中心部を一望 伐株山山頂に無料休憩施設」『大分合同新聞』2016年5月27日。

外部リンク

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影武者

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