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で、最終的には、映画見てる人はわかると思うけど、キャルが、アロンを連れて、その、キャシーに会いに行くんですよ。で、アロンはそこで全部が崩壊するんですよ。つまりあまりにも無垢だから、自分の母親がこの姿、しかも娼婦であるっていうことはとてもじゃないけど許せない。で兵隊行っちゃうんだよ。戦死しちゃんだ。そこまでいってすべての、今まで積み上げてきたその、父親の、立ち直ってもう一回やり直そうとかいうそういったものがすべて崩壊する。
で、父親も息子が戦死したことのショックで、脳溢血みたいなので倒れ、言葉を失い意識を失い、死の床に、っていうのが最後の場面なんですよ。でそのときに、キャルは自分の罪の意識、これはものすごいわけですよ。このままおやじは死ぬのかっていうところで、自分がすべての世界を壊してしまった。自分はあんな風にキャシーみたいに悪魔になりたくなかった。化け物になりたくなくて、ずーーーーと気をつけて生きてきたのに、結局は自分が、自分の愛するものすべてを壊すっていう局面に立つわけ。で、ものすごい罪の意識になるわけ。
そのときに中国人のリーっていう使用人が、その、カインとアベルの創世記の中の物語、最後の神の言葉。それを治むることになる「だろう」、と。つまりその罪の意識をあなたは克服する「だろう」と。というのを中国語訳で読んでたと。だけど、ここがひっかかるんだと。で、そのあとその話題になって何年もしてから、自分は調べたんだと。英訳で読むと、「治めよ」、になってる。命令形だと。つまり神からの命令なんだと。じゃあ、ヘブライ語、原語は何か?っていうと、それを知るためにそのリーってものすごくインテリなんですよ。ヘブライ語を語学全部勉強して、何年もかけて、勉強し、その言葉を導き出すんだよ。
それはtimshelっていう、ヘブライ語でいうと。これは何かっていうと「可能である」っていう意味なんだ。つまり、神は命令もしてなければ予言もしてないんだと。本来のヘブライ語の意味で言うと、治むることを能ふ(あたう)っていう能率の能です。つまり「治めてもいいよ」っていう言葉timshel。汝それを治るを能うっていうっていう言葉なんだと。っていうことをリーっていう人は、自分で調べる。
で、それを父親にもいうんだけど、つまりそれはどういうことかっていうと、カインとアベルのように運命づけられた人間、キャルとアロンもそうだしチャールズとアダムもそうだと。でも最終的に罪を背負った人間、キャシーもそうですね。それは、神が決めた罪っていうのは最終的にどうなるかっていうと、「治むるを能う」だから、つまり最後の選択権は人間に残されているんだ。キャルっていうのもずーっとその血、あの毒婦の息子であるっていうことで悩み続けるわけ。その運命にはとても逆らえないっていうところで、ずーっとこの物語は、ずーっと悩むんだ。
だけど、リーはそうじゃないんだ。人間には選択権があるんですよ。私はキリスト教でも何でもないけども聖書というのは名著だと思う。その名著の最後ヘブライ語の言葉はtimshelだと。それは可能であるという意味で、選びたければえらべってことなんですよ。最後の選択権は人間にある。それを知ってくれ。ってこうリーはいうわけ。そいでその死の床にいる、聞こえているんだかどうだかもわからない、アダムに、リーは説得するわけ。あなたの息子は今、その運命に翻弄され、自分の血で悩んでいると。どうかお願いします。あなたの息子に祝福を。許してやってくださいと。いうわけ。
そうすると、最後それが通じるんですよ。父親であるアダムの右手が挙がり、そのキャルに向かって祝福するような仕草をして、最後言葉にならない言葉を、それをよく聞くと、timshelっていう言葉なんですよ。おまえはもう運命から逃れよ。キャル、もうおまえは解放されていいんだ。っていうまあ俺はそういう意味合いだと思うんですけど、その最後は人間に選択権があるんだ、人間が自分の人生は選んで、血でも何でもない、運命でも何でもない、俺たちが選べるんだっていうそういう、この壮大な、それを言うための
田中 すごい三代にわたってずっとあったわけだねそれがね。
太田 そう。そういう物語なんですよ。このエデンの東は。
昔淀川長治の解説でテレビ放送していた。
ラストが原作通りで映画より良い。
「ティムシェル(timshel)」
さん
小説エデンの東の最大のテーマですね。 文庫版の第3巻68ページあたりから書かれています。 ティムシェルとはヘブライ語で創世記第4章第7節にある言葉で、日本聖書協会の新共同訳では「お前はそれを支配せねばならない」と命令になっていますが小説では「汝は彼を治むること能ふ」と解読します。 すなわち、命令形で訳せば神はカインに「罪に打ち勝て」と言っていることになるが「彼を治むること能ふ」と訳せば神はカインに選択権を与えたことになります。 これらを踏まえて小説の最後にアダムが自責の念に苛まれている息子のキャルに言った言葉が「ティムシェル」です。 この最後のシーンをじっくり味わい思考をめぐらすことがこの長編小説を読み終えた者の特権でもあります。
https://www.youtube.com/watch?v=7cR6abvS7Ik

- 「~すべし(命令)」でも「~するだろう(予言)」でもなく、 「汝は~することができる(=意思あらば、罪や運命に打ち勝つ選択ができる)」という意味が込められています。 [1]
- 父から息子への許しと託し: 兄アロンを死に追いやったことへの深い自責と罪悪感に苦しむキャルに対し、死の床にある父アダムがこの言葉を遺すことで、「お前には善を選ぶ自由がある、自分の生き方は自分で選んでよい(自分を責め続けなくてよい)」という究極の受容と赦しを与えました。
https://victorysportsnews.com/articles/4757
少し聖書の話をしよう。人類は神にその命を与えられるが、エデンの園で「罪」を犯し、東の果てに追放される。そこでアダムとイブは、カインとアベルという二人の子をもうける。
ある時、若い兄弟は神に捧げものをするが、神はアベルの捧げ物しか受け取らなかった。それを妬んだカインは、アベルに殺意を抱く。悪意を察した神は、カインにある警告をした。
『おまえが正しくないのなら、罪が戸口で待ち構えている。罪はおまえを慕うが、おまえは罪を治めなければならない(抑えなければならない)』
この「治めなければならない」の部分が、「ティムシェル(timshel)」というヘブライ語にあたる。創世記4章7節の最後の部分である。
カインは結局自分の中の「悪」に負け、アベルを殺してしまう。これがアダムとイブから引き継がれた『原罪』である。
小説『エデンの東』の中では、聖書にある「ティムシェル」という言葉の解釈について、トラスク家二代目で信心深いアダムと、教養豊かな中国人使用人、リーとのやりとりがある。
ヘブライ語を原書とする英語の聖書には、「あなたは罪を治めるだろう」と、「あなたは罪を治めなければならない」という二通りの訳がある。昔から議論のある箇所なのだが、リーが最終的にたどり着いた解釈は、「意思あらば、罪を治めることができる」という、「人間の自由意思」が入ったものだった。
町田が演ずる上で自分なりに解釈したという、『運命は自分で切り開く』がそれにあたる。
この物語の登場人物は、「善」と「悪」とに色分けされている。二代目のアダムは善人であり、その妻は殺人も含めてありとあらゆる悪に手を染めた女である。生まれた双子のアロンは善で、カレブは悪という立ち居地になる。
カレブは父に愛されず、出来のいい兄弟を疎ましく思い、ついには間接的に死に追いやることになる。
心労が重なり病に倒れた父を前に、カレブははじめて罪を告白し、許しを求める。それを聞いたアダムは、死の床で「ティムシェル」と呟く。それは、かつて使用人リーが語っていた「人間には善と悪とを自ら選択する権利、選ぶ責任が与えられている」ということを息子に伝えるために。そして過ちを許すのである。
町田の演ずるカレブには、痛々しいまでの純粋さや危うさ、そして一筋の光のような救いを感じる。
『運命は自分で切り開く』、惜しまれつつも自ら競技人生に終止符を打ち、新たな世界に飛び出していった町田樹。その芽が開き始めている。