2026年2月3日火曜日

石舞台古墳 - Wikipedia

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石舞台古墳

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特別史跡に指定されている。

元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。

概要

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(2018年12月)

墳丘は現在失われているが、下部は方形で、20-50センチメートル大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられていた。墳丘の周りに幅5.9-8.4メートルの空堀がめぐり、幅約7.0メートルの外堤が設けられている。外堤を復元すれば一辺約80メートルで、高さは約1.2メートルである。

封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されている。また、一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83メートル、東西81メートル)をめぐらした壮大な方形墳であるという。

埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口している。花崗岩で作られた石組みである。玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を有する。また、石室内部には排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300トンに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰のふもとから運ばれた。

石室はすでにほとんどの埋葬品が盗掘に遭った後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。羨道部と外堤から土師器須恵器や銅の金具などが見つかり、時代が下る宋銭や寛永通宝も出た[1]

外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていた。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかり、いずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたって周辺にあった古墳を削平し、土などを移したものと考えられている[2]

1952年昭和27年)3月29日、国の特別史跡に指定された。

被葬者

被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している[3]。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説もある。 また、三重中京大学名誉教授上野利三は石室の壁に「馬子墓」の文字が刻まれており、肉眼でも確認可能との説を主張している[4]

ただし、異説があり、奈良大学水野正好は、石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱えている。

研究・発掘史

石舞台古墳が文献に記されるのは、江戸時代になってからである[5]延宝9年(1681年)の林宗甫大和名所記』(和州旧跡幽考)に、石太屋というがあると記しており、陵とは前後の文脈から天武天皇の陵と了解できる[6]。「石太屋」(いしふとや)は大きな石で造った屋の意味で、これが「石舞台」と転訛したのではないかとの意見がある[7]嘉永元年(1848年)の『西国三十三所名所図会』にも、石舞台を天武天皇ののあとという記述があるが[8]、現在では天武天皇の墓とする説を支持する学者はいない。

地元では他に「石蓋」(いしぶた)などの名前で呼ばれていた。「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられた」という伝説については、古墳のすぐそばで生まれ育った網干善教は、そのような話を自分は聞いたことがなく近年に創作された話であろう、としている[9]

明治時代に喜田貞吉が『日本書紀』にみえる桃原墓が石舞台にあたるとする説を発表し、以後これが有力になった。

1933年昭和8年)と1935年(昭和10年)に京都帝国大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われた。これより前には前方後円墳ではないかという説もあったが、貼石列、空堀、外堤の跡が見つかり、方形であることが判明した。発掘調査で古墳周囲の堀が見つかったのはこれが初めてのことであった[10]

1954年(昭和29年)から1959年(昭和34年)にかけて古墳の復元整備事業が行われた。この時、外側の堀を掘るために上を通っていた県道が迂回させられた。

巨石が組み上げられた基本的な外観は江戸時代から変わっていないが、石室と羨道部はかなり崩れていた。現在は修復され[10]、内部が公開されているので玄室内に入ることも可能である。

入場

8時から17時まで

  • 大人・大学生:300円
  • 高校生:200円
  • 中学生:150円
  • 小学生:100円

ギャラリー

  • 墳丘

    墳丘

  • 天井石前面

    天井石前面

  • 天井石側面

    天井石側面

  • 石室俯瞰

    石室俯瞰

  • 玄室(奥壁方向)

    玄室(奥壁方向)

  • 玄室(開口部方向)

    玄室(開口部方向)

  • 羨道(開口部方向)

    羨道(開口部方向)

  • 羨道(玄室方向)

    羨道(玄室方向)

  • 開口部

    開口部

周辺

脚注

  1. 門脇 1970, p. 106.
  2. 網干善教「別冊太陽 飛鳥 古代への旅」(2005年、平凡社) p.33
  3. 『日本書紀』巻第22、推古天皇34年5月丁未(20日)条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の589頁。
  4. 上野利三 (2011-03). "『別冊太陽 飛鳥』所載石舞台古墳組石の写真に見える「馬子墓」字". 三重中京大学地域社会研究所報 (23): 305-310.normal 
  5. ^ 門脇 1970, p. 102.
  6. ^ 林宗甫. "大和名所記  和州旧跡幽考 第十五巻". 国際税務の福袋 International Tax Planning 加藤英之. 加藤英之. 2016年9月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月28日閲覧。[要検証]
  7. ^ 泉森皎「石舞台古墳」文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第3巻 原始3』同朋舎出版、1991年、46ページ。
  8. ^ 武庫川女子大学関西文化研究センターデジタル・アーカイブ西国三十三所名所図絵No.454[リンク切れ]No.455[リンク切れ]。2011年2月18日閲覧。
  9. ^ 網干善教著・太田信隆構成 『高松塚への道』 草思社、2007年10月、66-68頁。
  10. ^ a b 門脇 1970, p. 103.

参考文献

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  • 門脇禎二『飛鳥 その古代史と風土』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1970年。 
  • 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守・校注・訳『日本書紀』2(新編日本古典文学全集3)、小学館、1996年。

関連項目

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外部リンク

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2026年2月2日月曜日

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陝西省阿房宮遺跡で新たな考古学的発見―中国 | NEWSjp

陝西省阿房宮遺跡で新たな考古学的発見―中国 | NEWSjp

陝西省阿房宮遺跡で新たな考古学的発見―中国

阿房宮の土台の建設手順や施工の詳細が初めて明確に確認され、中国古代の宮殿形態や立地選定、秦の都城建設計画の研究に新たな資料を提供しました。

中国西部の陝西省にある阿房宮遺跡の考古学研究でこのほど、新たな進展がありました。陝西省文物局によると、阿房宮の土台の建設手順や施工の詳細が初めて明確に確認され、中国古代の宮殿形態や立地選定、秦の都城建設計画の研究に新たな資料を提供しました。

阿房宮遺跡は、陝西省西咸新区灃東新城に位置します。阿房宮と上林苑の考古学チームは今年、阿房宮の土台中央東寄りの場所で発掘を進め、土台南縁の正確な位置を確認し、従来の復元位置より約32メートル北にあることが分かりました。

考古学チームは、阿房宮の土台を突き固めて築造する土壁打ちの基本的な工程を明らかにしました。まず工事区域にある「池」の水を抜き、底部の淤泥(おでい)を清掃し、深さが異なる基礎溝を作り、「池」の底の淤泥をほぼ同じ厚さに保ちます。その後、阿房宮の土台をいくつかの部分に分け、土壁打ちを南(外側)から北(内側)へ向け進めました。基礎の土壁打ちが一定の高さまで達した後、南から北へと土台の北部に土を運び、下層の硬質構造を構築しました。さらに硬質構造の北端で土台北部の土壁打ちを進め、次第に南へと土を突き固め、北から南への順で土壁打ちを実施しました。今回の考古学調査では、阿房宮の建設任務が明確で、整然とした分業の下に進められていたことが分かりました。(提供/CRI)

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阿房宮 - Wikipedia

阿房宮 - Wikipedia

阿房宮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

阿房宮(あぼうきゅう)は、始皇帝が現在の阿房宮村に建設した宮殿である。秦帝国の首都であった咸陽からは渭水をはさんで南側に位置していた。現在の陝西省西安市未央区の西の13kmの三橋街道阿房宮村から遺跡が出土している。

概要

始皇帝が天下を統一し、秦の領土が広がり、咸陽の人口も増えると、かつて孝公の建てた咸陽の宮殿は手狭になった[1]。そのため始皇帝は渭水の南にあたる上林苑に朝宮を建てる計画を立て、阿房の地にその前殿を造ろうとした。受刑者70万人あまりが動員されて、前殿(阿房宮)と驪山陵(始皇帝陵)の建造にあたらせた[2]。阿房宮は紀元前219年に着工[3]し、始皇帝の死後も工事が続いた[4]が、秦の滅亡によって未完のままに終わった。阿房宮の名称は、当時の人々が地名にちなんで呼んだという説[5]、宮殿の形が「四阿旁広」であることから命名された説[6]、あるいは「宮阿基旁」であることから命名された説[7]がある。

規模・容姿について

阿房宮の規模については、諸説がある[8]。その殿上には1万人が座ることができ、殿下には高さ5丈の旗を立てることができた。殿外には柵木を立て、廊下を作り、これを周馳せしめ、南山にいたることができ、複道を作って阿房から渭水を渡り咸陽の宮殿に連結した。これは、天極星中の閣道なる星が天漢、すなわち天の川を渡って、営室星にいたるのにかたどったものである。なおも諸宮を造り、関中に300、関外に400余、咸陽付近100里内に建てた宮殿は270に達した。このために民家3万戸を驪邑に、5万戸を雲陽にそれぞれ移住せしめた。各6国の宮殿を摹造し、6国の妃嬪媵嬙をことごとくこれに配し、秦の宮殿を造って秦の佳麗をこれに充てた。六国の珍宝は尽く咸陽に運ばれた。そこで、趙の肥、燕の痩、呉の姫、越の女などそれぞれ美を競って朝歌夜絃、「三十六宮渾べてこれ春」の光景をここに現出せしめた。唐代詩人の杜牧「阿房宮賦」(zh)に詠われたのは、必ずしも誇張ではない。「民力を搾取した秦の驕り」と「六国の財宝が散乱する様」を描写することで批判し、後世の統治者への警告とした。

阿房宮の構造と規模(杜牧『阿房宮賦』による描写)

杜牧(とぼく)の賦(ふ)『阿房宮賦(あぼうきゅうのふ)』は、秦の始皇帝が築いたと伝えられる阿房宮を、文学的誇張を交えて壮麗かつ巨大な建築群として描写している[9]

空間の規模

広大な敷地:「覆压三百余里」、宮殿群が 300里(約125キロメートル)以上にわたって広がり、土地を覆い尽くす様子を表現[10]

自然との一体化:「驪山北構而西折」、北の驪山(りざん)から建物が構築され、西へと屈曲して渭水(いすい)に至ると描写。[10]

建築構造の特徴

複合的な楼閣群:「五歩一樓、十歩一閣」、5歩ごとに楼、10歩ごとに閣が立ち並ぶ密集した建築群。

曲折する回廊:「廊腰縵回」、回廊が 絹の帯のように曲がりくねり、建物を連結。

高く反る屋簷:「簷牙高啄」、屋根の軒先が 牙のように鋭く空へ向かって反り返る形状。

密集した配置:「各抱地勢、鉤心鬭角」、建物が地形に密着し、屋根の反りが **互いに絡み合い競う** かのような錯綜構造。[9]

内部空間の描写

光と影の効果:「高低冥迷、不知西東」、高低差による複雑な影で 方角さえ見失う迷宮的空間。

気候の異なる区域:「一日之内、一宮之間、而気候不斉」、同じ宮殿内で地域ごとに気候が異なるという比喩的表現で広大さを強調。[10]

象徴の描写

渭川と樊川の水流:「二川溶溶」、渭水と樊川(はんせん)の水が宮殿群を豊かに流れ潤す様子。

歌舞の熱気

「歌臺暖響、春光融融」、歌や踊りの熱気が 春光のように宮殿を満たすと表現。[10]

財宝の描写

略奪品の収集:「燕趙之收藏、韓魏之経営、齊楚之精英」、滅亡した六国(燕・趙・韓・魏・齊・楚)から略奪した珍宝が収蔵されていることを強調[9]

堆積する財貨:「幾世幾年、取掠其人、倚疊如山」、幾世代もかけて民から収奪した財宝が山のように積み上げられている状態。

奢侈な浪費:「鼎鐺玉石、金塊珠礫」、青銅の鼎(かなえ)を鍋のように、宝玉を石ころのように、金塊を土塊のように、真珠を小石のように扱う常軌を逸した浪費。

棄損の描写:「秦人視之、亦不甚惜」、秦の宮廷人がこれらの珍宝をまったく惜しげもなく棄てる様子で批判を強める。[9]

宮女の描写

略奪された女性群像:「妃嬪媵嬙、王子皇孫」、六国の后妃から王族の娘までが秦に連行されたと強調。「辭樓下殿、輦來於秦」、故国の楼閣を追われ、輦(御輿)で強制的に移送される悲劇[10]

奢侈な日常の虚構:「明星熒熒、開妝鏡也」、宮女たちの鏡が夜空の星のように無数にきらめく晨妝の光景。「緑雲擾擾、梳曉鬟也」、髪を梳る宮女の群れが緑の雲のように渦巻く視覚的比喩。[9]

圧政の象徴的描写:「有不得見者、三十六年」、皇帝に一度も会えず36年間放置された宮女の存在で、非人道性を告発。「秦人視之、亦不甚惜」、財宝と同様、人間さえも消耗品扱いする秦の冷酷さ(財宝描写と重複表現で批判を強化)。[10]

破壊

なお『史記』項羽本紀に「項羽が咸陽に入り、秦王子嬰を殺害すると、秦の宮室は焼き払われ、3か月間にわたって火が消えなかった」とする記述があり、このとき阿房宮は焼失したものとみなすのが長らく通説であった。

しかし、2003年に「項羽によって焼かれたのは咸陽宮中国語版であり、阿房宮は焼かれていない」とする新説が公表された[11]。これが事実であれば、阿房宮は秦王朝の滅亡後も王朝によって使用されていた可能性が高いと言える。

全国重点保護文化財指定

阿房宮遺跡は、1961年中華人民共和国全国重点文物保護単位の第1次全国重点保護文化財に指定された。

その他

日本の食用菊の品種の一つ(黄花八重大輪)に「阿房宮」と名付けられたものがある。

脚注

ウィキメディア・コモンズには、阿房宮に関連するカテゴリがあります。
  1. 『史記』秦始皇本紀始皇35年の条に「始皇以為咸陽人多、先王之宮廷小」とある。
  2. 『史記』秦始皇本紀始皇35年の条に「隠宮徒刑者七十余万人、乃分作阿房宮、或作驪山」とある。
  3. 『史記』六国年表
  4. 『史記』秦始皇本紀二世2年の条で馮去疾李斯馮劫が阿房宮の造営中止を胡亥に訴えて拒否されている。
  5. 『史記』秦始皇本紀始皇35年の条に「作宮阿房、故天下謂之阿房宮」(阿房に宮を作る、ゆえに天下はこれを阿房宮と謂う)とある。
  6. 史記索隠』秦始皇本紀
  7. 三輔黄図』秦宮
  8. 『史記』秦始皇本紀は、阿房宮の規模を東西500歩、南北50丈とする。また『史記正義』所引『三輔旧事』は、東西3里、南北500歩とする。さらに『三輔黄図』秦宮は、東西50歩、南北50丈とする。『水経注』渭水所引『関中記』は、東西1000歩、南北300歩とする。『漢書』賈山伝は、東西5里、南北1000歩とする。
  9. ^ a b c d e "杜牧《阿房宫赋》原文及其翻译". www.yuwenmi.com. 2025年6月30日閲覧。normal
  10. ^ a b c d e f "高中文言文 阿房宫赋 原文注释译文" (中国語). 跟我学语文. 2025年6月30日閲覧。normal
  11. 「項羽は阿房宮を焼き払っていない、前殿の発掘調査で明らかに」中国通信社、2003年12月31日時点でのインターネットアーカイブ

座標: 北緯34度15分30秒 東経108度48分36秒

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