2026年1月14日水曜日

龍馬のご先祖様が「明智光秀の縁者説」は荒唐無稽なのか 家伝史料を見てみたら - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

龍馬のご先祖様が「明智光秀の縁者説」は荒唐無稽なのか 家伝史料を見てみたら - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

龍馬のご先祖様が「明智光秀の縁者説」は荒唐無稽なのか 家伝史料を見てみたら

坂本龍馬が、あの明智光秀(縁者)の子孫だった――そんなことを申し上げると、十中八九は「アタマ大丈夫?」と引かれるだろう。

それはわかる。私だってそう思う。

しかし、まったくの根拠ゼロか?と言えば、引っかかる部分もあるゆえに興味を惹かれるわけで。

例えば龍馬の実家・坂本家には「明智光秀の子の子孫」とする家伝と、「土佐国国司・紀貫之ら紀氏の子孫」とする家伝が存在する。

他ならぬ坂本龍馬は「紀氏の子孫」だと自称。

彼の墓には「坂本龍馬直柔之墓」と彫られており、ならば明智は関係ないではないか?とツッコまれるかもしれない。

坂本龍馬の墓(京都・霊山墓地)/photo by PHGCOM wikipediaより引用

他に状況証拠として以下のような見解が挙げられている。

・明智は謀反人であるから龍馬も子孫とは自称せず

・「坂本」の姓は、明智光秀の居城「坂本城」から

・「亀山社中」は、明智光秀のもう1つの居城「亀山城」から

・龍馬の写真にもある坂本家の家紋「組合角に桔梗」は、明智家の家紋「水色桔梗」から

バカバカしい?

そんなツッコミは承知の上で【龍馬=光秀縁者の子孫説】を追ってみたい。

家祖の坂本太郎五郎は誰の子か

まずは龍馬の先祖に関するあらましから確認しておこう。

坂本家は天保9年(1838年)、土佐藩に『先祖書』を提出。

そこには明智光秀の子孫とも、紀氏の子孫とも書かれていなかった。

しかし、坂本家の『先祖書(指出控)』には、後に【紀氏の子孫と書いてある家伝書が発見された】と書き加えられている。

かなり怪しげな経緯ではあるが、この紀氏説の他に

【坂本家の始祖・坂本太郎五郎の正体が明智光秀の子(秀満)か孫(秀満の子)である】

という見方が存在する。

この坂本太郎五郎とは一体誰なのか?

今度は龍馬の産まれから、坂本家の歴史を紐解いていってみよう。

坂本龍馬/wikipediaより引用

坂本龍馬の坂本家は、才谷家(大浜家)の分家

坂本龍馬直陰(なおかげ・後に直柔なおなり)は、天保6年(1836年)未(ひつじ)、11月15日に生まれた。

生誕地は土佐国土佐郡上街本町1丁目(現在の高知県高知市上町1丁目)。

土佐藩郷士・坂本八平直足の二男である。

きょうだいは、兄の坂本権平直方と、他に3人の姉(千鶴、栄、乙女)がおり、龍馬は5人兄弟の末子。

このとき兄・直方は21歳で、姉の千鶴(ちづ)は18歳、栄(えい)は15歳、乙女(お留)は3歳だったという。

坂本龍馬の坂本家は、才谷家(大浜家)の分家だった。

才谷家はもともと質屋、酒造業、呉服商を営む豪商である。

6代目の大浜直益が、郷士格を得るために長男・大浜直海を分家させ、才谷(大浜)家7代は次男・才谷直清に継がせた。

【才谷家系図】
①坂本太郎五郎(光秀や秀満の子???)

②坂本彦三郎

③坂本太郎左衛門

④才谷守之

⑤大浜正禎

⑥大浜直益
│────────────①大浜直海(坂本直海)
⑦才谷直清【才谷屋坂本家】

坂本家系図】
①坂本直海(大浜直海)

②坂本直澄

③坂本直足
│────────────────直柔(坂本龍馬
④坂本直方【郷士格坂本家

この坂本(才谷・大浜)家の祖先について、坂本龍馬は次のように信じていたという。

【武内宿禰の子・紀角宿禰(きのつののすくね)を始祖とし、大和国平群県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠地とした紀氏の「紀貫之の子孫」である】

前述の通り墓石には「坂本龍馬紀直柔」と彫られている。

坂本家の家伝では、数多く分かれた紀氏のうち、和泉国坂本郷に移住した一族が坂本氏と名乗ったという。

紀貫之とは、あの平安歌人であり、土佐国の国司(930-935)である。

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左馬助こと秀満か?

天保9年(1838年)1月。

当時の坂本家宗主・長兵衛は、土佐藩庁へ『先祖書』を提出した。

その控え(後掲史料2)には、

【始祖・坂本太郎五郎は、戦禍を避け、土佐国長岡郡才谷村大浜(現在の高知県南国市才谷字大浜)に移住したと提出した】

とした上で、

【提出後に、坂本家の遠祖(とおつおや)は武内宿禰であり、紀氏(紀貫之)であるとする古文書が見つかった】

と書き加えられている。

さて問題は「初代坂本太郎五郎」である。

一体何者なのか?

家系図(後掲史料1)には次のように記録されていて、

【山城国の産なり。蓋し弘治、永禄の比、畿内の乱をさけて土佐の国に来り、長岡郡殖田郷才谷村に住して農業に従事す】

※「弘治、永禄の比」とは西暦1555-1570年頃

その正体については、主に以下の5説が取り沙汰されている。

①坂本城があった坂本(現在の滋賀県大津市坂本)の庶民

②明智左馬助秀満(三宅弥平次)

③明智左馬助秀満と側室の子・太郎五郎

④明智左馬助秀満と正室の子・喜三兵衛

⑤明智光秀の家臣

何やら戦国ファンを刺激するワードがずらりと並んでいる。

が、その多くは学者によって否定されている。

一つずつ見てみよう。

①坂本城があった坂本(現在の滋賀県大津市坂本)の庶民説

坂本家の本貫地(苗字の地)が「坂本」だとして、全国には「坂本」という地名があちこちにあるので特定できない。

『先祖書(指出控)』では、「山城国、郡村未だ詳らかならず」としている。

国名だけ明らかで、郡名、村名は不明ということだ。

②明智左馬助秀満(三宅弥平次)説

「坂本城攻め」の時、坂本城に火を放って自害とされている。

繋がらない。

『明智左馬助の湖水渡り』歌川豊宣/wikipediaより引用

③明智左馬助秀満と側室の子・太郎五郎説

太郎五郎は、坂本城が落城した時、壷一杯の黄金をかかえて土佐国才谷村領石へ逃れて豪農になったという。

お金持ちで、何か始める上での資本金はあった。

よって可能性はある。

「坂本龍馬其人の來歴を尋るに其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め一旦美濃國關ヶ原の邊にありしが其後故ありて土佐國に下り遂に移住て郷士となり今も家の紋處は桔梗を用ゆるとかや夫より代々高知の城下に住居し197石の領地10石4斗の禄米を食たりしが龍馬の父の名は長兵衛と呼び母をお幸と云ふ龍馬は長兵衛の二子にして天保6年巳未10月15日を以て出生せり」
坂崎鳴々道人(坂崎紫瀾)『汗血千里駒』(「明智左馬之助光俊」は「明智左馬助秀満」の別名)

④明智左馬助秀満と正室の子・喜三兵衛

坂本喜三兵衛は、長宗我部氏を頼って土佐国に逃げ、長宗我部元親に仕えると、坂本城(瓶岩土居城・高知県南国市亀岩字落合)の城主になったという。

城跡の石碑には「坂本家先祖 初代ハ亀岩坂本城々主坂本喜三兵衛天正十年近江坂本城落城後土佐ニ来リ長宗我部元親ニ仕ヘル父ハ近江坂本城々主明智左馬之助光春ト伝ハル」と彫られている。

⑤明智光秀の家臣

「山崎の戦い」で明智光秀が敗れると、明智一族や家臣は、毛利氏や長宗我部元親を頼って逃れた。

坂本龍馬は、この「山崎の戦い」の落ち武者の後裔だという。

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)

上士の後藤150石よりも裕福な下士の家

話を龍馬のご先祖様へ戻そう。

下士(郷士)として召し出された大浜(才谷)直海は、苗字帯刀を許されて分家した。

このとき家伝にあった明智家との繋がりを意識し、苗字を坂本城にちなんで「坂本」と決定。

家紋は明智家の「桔梗」を枠で囲む「組合角に桔梗」紋にした。ちなみに本家の才谷(大浜)家は「丸に田」の家紋である。

所領は161石だった。

上士(馬廻)・後藤象二郎は150石であるから、下士なのに割と裕福な家だったと言えるだろう。

土佐国は流刑地であり、もともと落人伝説は多い。

明智光秀にも同様の伝説(殺されたのは影武者)は各地に残されているが、残念ながら土佐国へ逃れてきた光秀本人が土着したという話はない。

学者も以下のような理由から明智の縁者説を否定している。

①秀満は「本能寺の変」後、坂本城で自害した。土佐には来ていない。

②坂本家が土佐藩に提出した『先祖書』に太郎五郎は山城国から来たと書いてあり、秀満ではない。

③太郎五郎には「坂本」という苗字はない。才谷村大浜に住み、「才谷」とか「大浜」を苗字とした。

④坂本龍馬=明智光秀の子孫説は、崎鳴々道人(坂崎紫瀾)が『汗血千里駒』(秀満を光俊とする)で紹介して有名になった。

ただ、坂本城(瓶岩土居城/高知県南国市亀岩字落合)の石碑に、

「坂本龍馬の祖先は坂本太郎五郎ではなく、明智光春(秀満の別名)の子の坂本喜三兵衛」

とあるように、坂本家の祖先は

という家伝もある。

明智光秀は謀反人であり、普通は子孫であることを隠すので、『先祖書』には坂本太郎五郎の子孫だと嘘を書いたという理屈だ。

坂本龍馬の曽祖父・直海は、才谷家(商家)から独立して別の家(武家)を興した。

このとき「才谷家は明智光秀の子孫」という家伝に基づき、武家らしく、苗字を「坂本」、家紋を「組合角に桔梗」に決めたと伝わる。

では、私自身はどう思うか?

というと、やっぱり明智光秀の子孫だとは考えにくい。

ただし、豪農から商家に成長した家であるので、初代が農民であったとも考えにくい。

それよりも倒幕派の志士が、

【坂本龍馬を明智光秀の子孫だと考えていた、考えたかった】

と思われる状況の方が歴史的には重要ではないか?

そんな印象を受けた。

明智光秀/wikipediaより引用

倒幕を目論む勤王の志士たちは、徳川家に仇なす妖刀「村正」を買い集めたという。

彼らが坂本龍馬の着物を見たとき、そこにある家紋を見て

『明智光秀の子孫ならば何か大きな事をしでかす』

そんな期待を抱いた――。

と、すればやっぱり歴史は無常に動いているものである。

なお、気になる坂本龍馬と明智光秀の人物伝については以下の記事に詳しいので、よろしければ併せてご覧いただきたい。

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著者:戦国未来

戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。

モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。本サイトで「おんな城主 直虎 人物事典」を連載していた。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の"直虎三部作"など。

公式サイトは「Sengoku Mirai's 直虎の城」

https://naotora.amebaownd.com/

Sengoku Mirai s 直虎の城

オマケ解説 戦国~江戸期の土佐国

長宗我部元親に替わり、土佐を治めたのは「関ヶ原の戦い」で東軍側についた掛川城主・山内一豊だった。

山内一豊/wikipediaより引用

土佐藩士には、

上士(じょうし・上級藩士・山内系藩士)

下士(かし・下級藩士・長宗我部系藩士)

という身分制度がある。

坂本家は商家だが郷士株を新規に取得、「下士」の内の「郷士」となっていた。

天保9年(1838年)の郷士数は807名で、その内訳は、譲受559名、新規召出47名、大規模な新規召出179名、不明22名とする。

坂本家系図「坂本直海」には「明和8年、新規郷士に召出され、天明4年、郷士御用人仰付けらる」とあり(明和8年は1771年)、『先祖書(指出控)』(天保9年)「第一坂本兼助」(初代・坂本直海)には、「一 明和8卯年5月27日、新規郷士に被召出之」とある。

坂本氏は、郷士格(郷士の身分)を譲り受けた(買った)「譲受」(従来説)ではなく、土佐国幡多郡開墾のために新たに募集された「幡多新規召出」(新説)とされる。

【参考】
「天保9年時点の土佐藩総郷士の召出時期と事由(「郷士年譜」より作成)」
山本大編『高知の研究3』(全8巻・清文堂)

史料1 家系図

初代・坂本太郎五郎:山城国の産なり。蓋し弘治、永禄の比、畿内の乱をさけて土佐の国に来り、長岡郡殖田郷才谷村に住して農業に従事す。某氏を娶り、一男・彦三郎を生む。墓、才谷寺跡にあり。

二代・坂本彦三郎:才谷村に在りて父の業を襲ぐ。才谷川の上流、大浜屋敷に在り。妻・須藤加賀守の二女。大和の国吉野の住人なりしが、乱を避けて土佐に落ち来りしものなりという。

三代・太郎左衛門:才谷村に住う。妻:竹村氏。墓:同上。

四代・坂本八兵衛守之:寛文6年11月、27才にして高知城下に移り住みて商家となる。屋号「才谷屋」を称す。

五代・坂本八郎兵衛正禎:本町年寄役を勤む。妻:山崎源兵衛の女。墓:小高坂山字大平に在り。碑面には前大浜八郎兵衛正禎とあり。

六代・坂本八郎兵衛直益:19年間本町年寄役を勤む。2女あり。長男・兼助、後の平八直海に、郷士格を求めて、明和7年、本町1丁目南側に分家せしめ、次男・八次、後の八郎右衛門直清に宗家を継がしむ。

七代・坂本八平直海:初め兼助と称す。直益の長男なり。新に郷士格を得て、本町1丁目南側に分家す。明和8年、新規郷士に召出され、天明4年、郷士御用人仰付けらる。妻:久万安衛門の女。墓:福井、通称「タンチ山」にあり。以下同じ。

八代・坂本八蔵直澄:父に継ぎて御用人を勤む。妻:井上好春の長女。

九代・坂本八平直足:養子。山本覚右衛門の次男なり。直澄の養子となる。

十代・坂本権平直方:妻:川原塚氏。後妻:大石氏。仝:福留氏。

次男・坂本龍馬直柔:慶応3年11月15日、凶徒の手にし斃る。享年:33。妻:楢崎将作の女。

※郷士格坂本家三代目直足は、下士(白札)・山本信固(覚右衛門)の次男である。

史料2『先祖書(指出控)』

一 先祖・坂本太郎五郎、生國山城國、郡村未た詳。仕■(声?)、避弓戦之難、長岡郡才谷村に来住す。但、年暦、妻之里、且、病死之年月等未詳。嫡男・彦三郎、元龜2年、出生。妻は須藤加賀守娘也。明暦2年申正月16日、嫡男・太郎左衛門、出生。之年暦月日等分明。妻・豊永氏之娘也。延寶4年辰の7月23日、病死。右3氏之墓所、才谷村に有り。右太郎左衛門二男・八兵衛、寛永17年辰年、出生。寛文10年、高知に罷出為酒肆。元禄10丑年5月27日、病死仕、以後、代々、高知住居仕候。

【現代語訳】
一 坂本家の先祖(初代)・坂本太郎五郎は、山城国(京都府)生まれであるが、何郡の何村であるかはまだ詳しく分かっていない。伝え聞くのは、「弓戦の難」(戦禍)を避け、長岡郡才谷村(南国市才谷)に移住したということだ。
但し、生まれた年、妻の故郷、且つ、病死の年月などは分からない。
坂本太郎五郎の嫡男・坂本2代彦三郎は、元亀2年(1571年)生まれである。妻は須藤加賀守の娘である。明暦2年丙申(1656年)1月16日、坂本彦三郎の嫡男・坂本3代太郎左衛門が生まれた。(この1656年1月16日というのは明らかではない。)妻は豊永氏の娘である。延宝4年(1676年)丙辰7月23日に病死した。以上3氏(初代・太郎五郎、2代彦三郎、3代太郎左衛門)の墓は、才谷村にある。この太郎左衛門の二男・八兵衛は、寛永17年庚!
辰(1640年)に生まれた。寛文10年(1670年)、才谷村から高知城下に、酒肆(しゅし。酒屋)「才谷屋」を営むために出た。元禄10年丁丑(1697年)5月27日に病死した。以後、代々、高知城下に住んでいる。

以上が土佐藩庁へ提出した『先祖書』である。

◯傅云、紀武内之孫也。但、連枝繁榮、諸國に住すと云。
皇極天皇元年、坂本長兄、撃任那、有功と云。
(但、此傅聞書後日、1笈之中より見出し記す。仍而、取次方江指出し有之帳面には不記之也。)
◯天武天皇初為皇太弟、太弟の将となつて坂本財攻陥高安城。
(但書同断)

【現代語訳】
◯坂本家は、武内宿禰の後裔・紀氏である。但し、紀氏は、多くの分家に分かれ、諸国に住んでいるという。(坂本氏は、和泉国坂本郷に移住して「坂本」と称した紀氏だという。)皇極天皇元年(642年)、坂本長兄、任那を襲撃して、戦功ありという。
但し、この伝聞は、『先祖書』を提出後に笈の中から出てきた。それで、土佐藩庁へ提出した『先祖書』には、この事は書いてない。
◯天智天皇の弟・天武天皇が即位した天武天皇元年(672年)、天武天皇の将・坂本財は、「壬申の乱」において、高安城(奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市にまたがる高安山の山頂部に中大兄皇子(後の天智天皇)が築いた城)を攻め落とした。この事も土佐藩庁へ提出した『先祖書』には書いてない。

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2026年1月12日月曜日

長宗我部元親 - 高知市公式ホームページ

長宗我部元親 - 高知市公式ホームページ

長宗我部元親

天文8年(1539年)、岡豊城主・国親の子として誕生した。少年時代はおとなしい性格で、『姫若子(ひめわこ)』と呼ばれるほどだった。父・国親も戦場の用に立つとは思っていなかったが、永禄3年(1560年)5月の初陣で周囲も驚くような活躍をして勝利へと導いた。

初陣の翌月に死亡した父のあとを継ぎ、15年で土佐を統一、その後10年をかけて天正13年(1585年)に四国の大部分を平定した。しかし、同年8月には豊臣秀吉の四国征伐の前に降伏し、土佐一国の領有を許された。翌14年、豊後戸次川の戦いで長男・信親を失うと、跡継ぎ問題など治世の乱れも見せたが、内政面では領内の検地を進め長宗我部検地帳を作り、長宗我部元親百箇条などの法令を制定し、居城を浦戸へ移転し城下町を建設した。

元親は早くから都の文化の吸収につとめ、一門の者に習わせたといわれている。慶長4年(1599年)5月19日、伏見の邸にて死亡。享年61歳。

※史跡めぐりにおすすめなレンタサイクルもあります。詳細は若宮八幡宮ホームページをご覧ください(サイト内「お知らせ」バックナンバー,平成23年8月10日付記事)。

岡豊城 - Wikipedia

岡豊城 - Wikipedia

岡豊城

logo
岡豊城
高知県
岡豊山全景 南方より。手前は国分川。
岡豊山全景
南方より。手前は国分川
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 長宗我部氏
築城年 13世紀
主な改修者 長宗我部国親
主な城主 長宗我部氏
廃城年 天正19年(1591年
遺構 石積、土塁、曲輪、堀切、井戸、虎口、縦堀、横堀、
指定文化財 国の史跡
位置 北緯33度35分41.86秒 東経133度37分20.97秒座標: 北緯33度35分41.86秒 東経133度37分20.97秒
岡豊城の位置(高知県内)
岡豊城
岡豊城
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岡豊城(おこうじょう)は、高知県南国市にあった中世日本の城山城)。戦国時代四国の覇者となった長宗我部氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている[1]

概要

南国市街の北西部、香長平野(かちょうへいや)の北西端にあたる国道32号の西側の岡豊山(標高97メートル)に位置する。戦国時代末期に廃城となり、現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残り高知県指定史跡を経て国の史跡として整備されている。また、城址の一角には高知県立歴史民俗資料館がある。

城の縄張りは最高所に本丸に当たる詰(つめ)があり、東に詰下段、二の段、南から西に三の段、四の段、更に西側丘陵に伝厩跡曲輪が配された連郭式の山城である。また、城の北東部には岡豊八幡があった。

江戸時代の史料集である『南路志』には「豊岡城」と記載され、いつ頃に現在の呼び名になったかは分かっていない[2]

沿革

鎌倉時代初期に、信濃より土佐へ移住した長宗我部能俊が、土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住した当初は、ただの宗我部氏であったが、隣の香美郡にも別系ながら同じ名字の宗我部氏があったため、それぞれは郡名の一字を付け加え、長宗我部氏と香宗我部氏と名乗るようになった。この頃、長宗我部氏によって築かれたと思われる岡豊城は、調査の結果では13世紀~14世紀の築城年代と考えられている。

室町時代応仁の乱後の永正4年(1507年)に管領細川政元が暗殺された以降の細川氏本家では家督・管領職争いの抗争を続けるあまり、その直轄領である土佐でも支配力を低下させてしまう。それが長宗我部氏、本山氏山田氏吉良氏安芸氏大平氏津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の台頭につながり、戦乱の時代の始まりとなった。

七雄の抗争は翌年の永正5年(1508年)に早くも表面化すると、本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって岡豊城は落城する。
従来の通説では、この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序は自刃、土佐南西部の中村一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は永正15年(1518年)、一条氏の取り成しで旧領に復し岡豊城に入ったことになっている。
それが近年の研究では、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年(1518年)頃に息子・国親へ家督を譲ったことが明らかとなっている[3]

岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。

国親の子・元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574年)主家であった一条兼定豊後に追放し土佐を平定。この城を拠点に天正13年(1585年)には四国を統一した。しかし同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591年浦戸城を改築して移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。

城跡

1894年明治27年)に日清戦争勃発し、城跡を有する岡豊村から20名が出征するが、全員が無事凱旋。日本の勝利を祝って城跡の厩床(伝厩跡曲輪)を村が購入し、翌年に坂崎紫瀾撰文の凱旋記念碑が建立され、公園化された[4]

1904年(明治37年)に日露戦争勃発。岡豊村の出征者から戦死者が出たため、日清戦争凱旋記念碑を引き上げ、墓地が整備される[4]

1944年昭和19年)に墓地廃止[4]

城跡は、1955年昭和30年)2月15日、高知県指定史跡に指定された[5]。また、西側丘陵上の伝厩跡曲輪は1970年(昭和45年)12月16日付で市指定史跡に指定されていた[5]

1970年(昭和45年)10月27日、3年の歳月と1億円の総工費をかけた歴史公園「岡豊ハイランド」が完成[4]

1978年(昭和53年)、岡豊ハイランドにフィールドアーチェリーが完成[4]

1983年(昭和58年)、高知県立歴史民俗資料館の建設予定地に選ばれる[4]

1985年(昭和60年)より1990年平成2年)にかけて、1~6次にわたる発掘調査が行われ史跡整備がなされた。第1次発掘調査では土師質土器、備前焼、瀬戸天目茶碗、青磁、白磁、硯、茶臼、渡来銭、鉄滓等が発見されている[6]

2008年平成20年)7月28日、国の史跡に指定された[1]

2017年平成29年)4月6日、続日本100名城(180番)に選定された。また2017年(平成29年)4月1日から2019年(平成31年)2月28日にかけて、詰ノ段にが建てられ公開された。史跡の上に建てられているため仮設で、後に解体予定。

ギャラリー

  • 岡豊城の碑

    岡豊城の碑

  • 詰ノ段(本丸に相当)

    詰ノ段(本丸に相当)

  • 詰下段

    詰下段

  • 詰下段と二の段の間にある井戸と堀切

    詰下段と二の段の間にある井戸と堀切

  • 二の段

    二の段

  • 三の段と石積

    三の段と石積

  • 虎口

    虎口

  • 四の段

    四の段

  • 竪堀

    竪堀

  • 伝厩跡曲輪

    伝厩跡曲輪

  • 伝厩跡曲輪に建つ坂崎紫瀾「岡豊公園征清凱旋碑」

    伝厩跡曲輪に建つ坂崎紫瀾「岡豊公園征清凱旋碑」

  • 高知県立歴史民俗資料館

    高知県立歴史民俗資料館

  • 詰ノ段の櫓

    詰ノ段の櫓

  • 櫓からの景色

    櫓からの景色

周辺

脚注

  1. ^ a b 岡豊城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  2. (公財)高知県文化財団 高知県立歴史民俗資料館 編集・発行『岡豊風日 第121号』令和6年3月31日発行、p.6.
  3. KKベストセラーズ 2012 p.85
  4. ^ a b c d e f (公財)高知県文化財団 高知県立歴史民俗資料館 編集・発行『岡豊風日 第104号』平成30年12月1日発行、p.6.
  5. ^ a b 高知県教育委員会 1988 pp.1
  6. 松田 1986

参考文献

  • 松田直則 1986「高知県岡豊城発掘調査概報」『考古学ジャーナル』261号
  • 現地説明板

関連項目

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外部リンク

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