2026年1月16日金曜日

絶対不便だと思っていたある縄文土器が、実はめちゃ優秀だった話 #27 Primitive Japan

【禁断の歴史】人類の起源は日本だった…縄文人が世界を渡っていた!モルドバ国立大 名誉教授・杣浩二

青春と読書 塞王の楯

青春と読書

戦う勇気よりも終わらせる勇気に、 人間の強さを感じるんです。

―― 「小説すばる」二〇一九年八月号で『塞王の楯』の連載が始まった時のことはよく覚えています。舞台は豊臣の世となり戦争の火が消えた、安土桃山時代の末期。なおかつ主人公は石垣を作る職人、「穴太衆」の石工です。静か動かで言えば静、地味か派手かでいうと、地味ですよね。ところが、全編読み終えた今はまったく異なる感情を抱いています。活劇としてもべらぼうに熱い、ある意味でど真ん中の「戦国小説」だったんです。まずはどのように新連載を立ち上げていったのか、詳しくお伺いできたらと思います。

 ここ数年の間に僕が書き始めた小説は、大きく二つのテーマに絞っています。一つは日本というものを見る枠をぐっと広げて、「世界の中の日本」をテーマにした作品。倭寇わこう長宗我部元親ちようそかべもとちかを描く『海鬼かいらぎの国』(「STORY BOX」二〇二〇年一月号~)や、元寇げんこうを題材にした『海を破る者』(「別冊文藝春秋」二〇二〇年三月号~)がそうです。もう一つが、日本の歴史の細部にギュッと寄っていったところに現れるものを書く作品。要は「引くか、寄るか」の二パターンですね。集英社では「寄り」でやってみようと思ったのが、『塞王の楯』の出発点でした。つまり、普通の戦国小説であれば完全に脇役というか、風景をなす一要素でしかない石工にギュッと寄ってみる。ただ、普通に石を積んで終わりでは、僕らしい躍動感が出せません。合戦が描け、その中で躍動する石工たちの姿を描けるとしたらどこだろうとなった時に、大津おおつ城の戦いのことがパッと思い浮かんだんです。

―― 近江国おうみのくに大津城を巡って行われた、関ヶ原の戦いの前哨戦としても知られる、史実に残る戦いですね。物語の後半部を占めています。

 僕は京都出身で、今は滋賀、かつて近江国と呼ばれていた地域に住んでいます。近江国って、不思議なんですよ。当時、甲賀こうがみたいな諜報の技術を売りにする人々もいれば、国友くにとも衆という鉄砲の技術の研鑽を積む集団もいて、穴太衆という石工の集団もいた。いわば「技術大国・近江」だったんです。そして国友衆と穴太衆が直接激突したのが、大津城の戦いだった。ここを舞台にすれば、職人がメインの戦いを描けるぞ、と。大津城城主でほたる大名とも呼ばれ戦国時代の「愚将」の代表格である京極高次きようごくたかつぐと、「四国無双」と名高い立花宗茂たちばなむねしげの顔合わせも非常に面白いんですけどね。でも、言ってみればこの作品は職人が主人公で、武将が脇役なんです。

―― 石垣の構造や石工という職業についての詳しい記述が出てきますが、もともと知識はおありだったんでしょうか?

 子供の頃から歴史が好きだったので、城やなんかを見に行って「この石垣は野面積のづらづみやな」とか「あの石の積み方は珍しい」とか、よくやっていましたね。戦国から江戸期まで通じ石積みの大半は穴太衆が関わっている、ということも知識としてはありました。ただ、実際に石を積む石工さん達についての知識というか情報は、ほぼ持っていなかった。資料も読みつつ集英社にお願いして、穴太衆の末裔の職人さんのところへ取材に行かせてもらいました。滋賀にある株式会社粟田建設の社長の、粟田純徳すみのりさん。二〇一六年の震災で崩れた熊本城の石垣の、再建作業に当たっている方です。

―― 取材で得たものとは?

 いっぱいありましたよ。例えば、職人さん達の手が異様に綺麗だったんですが、その理由は塩で手を洗うことで、手の感覚を研ぎ澄ましているからだとおっしゃっていました。石垣を作る時にはまず最初に、「栗石ぐりいし」と呼ばれる拳大の石を敷き詰めて地固めをするんですが、その作業ができるようになるまで一五年は修業が必要、とか。石積みは軍事機密だから資料を残すことができず、口伝くちづてで技術が受け継がれているというのも面白かった。その話を聞いて、剣術みたいな、論理よりも感覚を重要視する分野の「師匠と弟子」の関係に近いなと思ったんです。この作品が「師匠と弟子」の物語として始まり、「時代を超えて受け継いでいくもの」を描くことになったのは、取材させてもらったおかげです。

戦場に立つ石工の視線から
戦争のリアルを描く

―― 物語の主人公は、匡介きようすけ。序章では戦国時代ゆえの残酷な情景が現れ、彼は家族を失います。そんな少年の前に現れたのが、飛田源斎とびたげんさい。穴太衆千年の歴史の中でも「天才」との呼び声が高く、当代随一を意味する「塞王さいおう」の異名を持つ人物です。源斎は焦土のただ中で、匡介を穴太衆にスカウトする。匡介の言動から、「石の声を聞く」という異能の持ち主であることを見抜いたんですよね。今、つい異能と表現してしまいましたが、石積み職人にとってこの感覚はもしかしてあり得ないことではない?

 穴太衆の粟田さんは、「石の声が聞こえるようになって一人前だ」とおっしゃっていました。だって、ただ石を積んでいくだけで、堅牢な壁を作ってしまうわけですからね。実験によると、現代の科学で作ったコンクリートよりも、石積みで作った石垣の方が強度は高かったそうです。特に、粟田さんのおじいさまがものすごかったらしいんですよ。どの位置にどの石を置けばいいか、無数の石をパッと見るだけで全部ピタッと言い当てられたそうなんです。石にまつわる超能力のようなものを持っていた方が現実にいたんだからと、小説の中でもそのあたりは自信を持って書いていきましたね。

―― 本編では二二年後に時間がジャンプし、三〇歳になった匡介が登場します。飛田源斎により後継者に指名され、穴太衆随一の技能で知られる「飛田組」の副頭として働く姿がいきいきと綴られていく。その過程で、匡介は源斎に向かって強烈な一言を浴びせます。「俺はあんたを必ず超える。塞王になってみせる!」と。実は、『ONE PIECE』のルフィ(「"海賊王"に!!!おれはなるっ!!!!」)をちょっと思い出してしまいました。

 僕も思いましたよ、そのセリフを書いた時。ああいった自分の思いをさらけ出すようなセリフって、僕が言わせているというよりは、匡介が勝手に言っているんです。ちょっとルフィみたいだと思ったけど、匡介の言葉だからと思ってそのまま載せました(笑)。

―― 匡介は、少年漫画の主人公のような熱さがありますよね。かといって、熱いだけの人物像ではありません。本作の主人公像は、どのように探っていかれたのでしょうか。

 穴太衆は何をやっているかというと、敵襲から人々を「守る」ための石垣を築くこと。匡介は、少年時代に母や妹たちを「守れなかった」ということを常に傷として抱えています。つまり、自分にはかつて「守れなかった」という悔恨があるからこそ、石垣造りを通して「守るとは何か?」と考えて考えて、考え続けているんです。ぐだぐだ迷うしいつも悩んでいる匡介は、もしかしたら僕の小説の中で一番、一般人に近い男かもしれません。

―― 匡介が心を許す盟友は、石を運搬する「荷方にかた」の頭領の玲次れいじ。一方の宿敵は、国友衆始まって以来の鬼才・国友彦九郎げんくろうです。石垣という「楯」と、鉄砲という「矛」。世に言う「矛楯」の対決が、前半部で数度にわたって描かれていきます。

 最強の楯と最強の矛が対決したら、どちらかは必ず勝つんです。その勝敗をもとにお互いさらなる研鑽を積んで、最強たらんとする技術を磨き上げていく。職人たちのその様をきちんと見せたい、という思いは強くありました。だから大津城の戦いの前に、何戦かはさせなければならなかった。ただ、石垣の仕組みを生かして表現できるギミックって、限られているんですよ。「石垣でこんなことできるの!?」というエンタメ的にも視覚的にも派手なものはできる限り大津に取っておきたかったので、少ない資源で接戦を演出するのは苦労しました。

―― 合戦の中で躍動する石工たちの姿を象徴しているのが、「かかり」です。敵が進撃してくる状況において、戦場の真ん中で、全員総出の突貫工事で石垣を修復する行為です。

 そのあたりは僕が考えました。「懸」は造語ですね。穴太衆が戦争中も石垣を修復した史実はあるので、そこから着想を得て、という感じです。これは池波正太郎先生から学んでいることで、池波先生って造語を作るのがめっちゃ得意なんですよ。「それってフィクションじゃん」みたいに断じられるかもしれないですが、「戦地に入る石工の技術者集団」というのを読者に分かりやすく伝えるうえでは、言葉を作る必要がありました。

―― 太平の世が続いているためここ一四年間は、懸の号令が出ていない。しかし、秀吉が亡くなり豊臣家が弱体化し、徳川家康が覇権を握りつつあるなかで、近江国にも徐々に いくさの気配が漂ってくる。懸という字面じづらが現れるたびに、緊迫感が増していった気がします。

 一四年前の懸のシーンを書いていて思ったのは、こんな状況で石垣を作るのって本当に怖かったやろな、と。石垣を作る場所は当然、戦の最前線ですから、石工の居場所って足軽あしがると同じなんですよ。例えば目の前に銃弾が飛んでくるという描写って、ありそうであんまりない。それって、足軽視点で戦を書いた小説が少ないからだと思うんです。そこをしっかり描くことで、戦争のリアルを描きたいと思っていました。戦場ではいつ誰がどういうふうに死ぬかも分からない、死神がうろついているような世界を描きたかった。

戦争の歴史とは、
戦争を終わらせてきた歴史でもある

―― 物語の後半部は、大津城の戦いです。切磋琢磨してきた最強の「矛」と「楯」が、自らの力を出し切りますね。

 匡介たちは国友衆の猛攻に対抗し、荒唐無稽な方法ではなく、あくまでも今まであった石垣の積み方であったり工夫の仕方で、大津城を守っていく。それまで出し惜しみしておいたネタを全部、出し切りました(笑)。幸いにもと言うべきか、大津城は廃城となってしまったために城の形や大きさも分からなければ、戦の被害もよく分からないんです。だから、意外と書きやすかったですね。残された数少ない史実に寄りかかりながら、思い切って膨らましていきました。

―― 石垣という題材でこんなにも躍動感のある展開を次々生み出せるのか、と驚きました。と同時にこの躍動感は、カメラワークによるところもあるのではないかと感じたんです。戦場を俯瞰ふかんしたロングショット(引き)と、戦場に立つ者どもの細部を高解像で見つめるクローズアップ(寄り)のスイッチングが絶妙で、エモーションを搔き立てられます。

 僕の小説は「映像的」ってよく言われるんですけど、実際その通りで、僕は頭の中にはっきり映像があるんです。そして、確かに僕はカメラをよく動かす(笑)。例えば、匡介がめっちゃしんどそうに地面にへばりつているってなったら、その姿全体を引きで見せるよりも、匡介の口元を見せるほうが格好いいやろうなって思うんですよね。グッと寄っていってぜえぜえした息で砂がふーっと舞い上がるところを、僕は見てみたい。そのカットを思い浮かべて、それに見合った描写を書くという感じかもしれません。その逆に、あえてぼやかすというか細かく書き過ぎないことで、読者に自由に想像してもらうこともあります。常に考えているのは、読者の想像力を最大限引き出すような文章を書くことなんです。

―― 合戦描写は本当に大興奮でした。しかも、史実にもある通り、大津城の戦いは戦国時代にとどめを刺す「最後の戦」です。なぜ戦争が起こるのか、どうしたら戦争を止められるのか? 武器があるから戦争は始まるのか、武器があるから止められるのか? そうしたテーマ系が、戦の最中において一気に噴出していく。匡介たちの複雑な内面描写もまた、本作の大きな魅力だと思います。

 日本は今、一応の平和を謳歌していますが、七六年前は戦争をしていたわけですよね。アフガニスタンをはじめ世界中の至るところでたった今、戦争は実際に起きています。関ヶ原の戦いで戦国は終わったと言っても過言ではないですが、その道筋を決定付けた大津城の戦いを描くことによって、何かを考えるきっかけになるのではないかと思いました。戦争の歴史は、戦争を終わらせてきた歴史でもあるわけですよ。戦う勇気よりも終わらせる勇気に、人間の強さみたいなものを僕は感じるんです。戦争と言わずとも、例えば学校のクラスでの小さな争いでもいいんです。人間が生きていて、ダメだと分かっているのに絶対に起こる争いというものを、どうやったら止められるのか。僕自身は、この問題に答えはないと思っています。ただ、考えること自体を放棄している世の中にはなってはいけないということだけは分かるんですよね。僕も考えます、みんなも一緒に考えましょうよというメッセージを、この小説には込めたつもりなんです。

―― 間違いなく、今まで誰も読んだことのない「戦国小説」になっていると思います。

 僕は結構な量の歴史時代小説を読んできたほうだと思うんですが、司馬遼太郎先生が全盛であった時代、その前の海音寺潮五郎先生や吉川英治先生の時代、さらにその前……と過去から現代に続く流れを見ていったなかで、「いまだないものって何だろう?」と。誰もやっていないことをやりたい、というのは大前提としてあるんです。『塞王の楯』に着手した時から、これはうまいこといけば類例がない小説になるだろうとは思っていました。目標としては穴太衆の石垣のように二百年後、三百年後も読まれているものになっていたら嬉しいです。今後もそこは挑戦し続けたいですね。

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物部川 - Wikipedia

物部川 - Wikipedia

物部川

物部川(ものべがわ)は、高知県香美市白髪山を水源とし、大小の支流34の河川を合わせつつ土佐湾に注ぐ一級河川。高知県中部を流域として、南国市、香南市、香美市をまたぐ流域面積508平方キロメートルの河川であり、山地が流域の約88%を占める[1]。物部川の上流域は奥物部県立自然公園に指定されており、その北部は剣山国定公園に接している[2]。流域内では高知龍馬空港や高知市への国道等が整備されており、交通の要衝となっているほか、高知県最大の穀倉地帯である香長平野を含むため、野菜を中心とする施設園芸や稲作も盛んに行われている[1]。河川延長は幹河71km、支河219kmの290km、流域内人口は約4万人[1]

地理

高知県香美市物部町久保影の剣山地・白髪山(しらがやま、標高1769,7m)の東面に源を発し南流。香美市物部町別府で南西に向きを変え、高知平野東部を流れ香南市吉川町吉原で土佐湾に注ぐ。

名称の由来

古くは「鏡川」と言われたが、五代藩主山内豊房が現在の高知市を流れる川に鏡川を名付けたから、本川は「物部川」へ改められた。「鏡川」の由来となる「鏡野」は「香美郡」の別名で、土御門上皇流刑先の畑(幡多郡)から阿波国へ移った途中に、物部川を見て現地の人に「ここはどこか」と尋ねたら、「かがみの」と答えたからだと思われる[3]

「物部川」の「物部」は飛鳥時代物部氏の勢力の名残に由来すると言われる[4]。『和名類聚抄』によると、香美郡南部、物部川下流右岸の地には「物部郷」があり、旧三島村一帯(現南国市物部付近)が郷域であると見られる[5]

自然

地形

物部川は標高1,770mの白髪山をその源としており、永瀬ダムまでの上流地域は標高500mを超える急峻な起伏山地に囲まれているため、V字の渓谷を形成している[6]。永瀬ダムより下流は物部川の特長とも言える河岸段丘地形が続き、杉田ダムより下流は広い扇状地が形成され、香長平野と呼ばれる平野部広がっている[6]。特に右岸側は扇状地性低地が形成されているため、想定氾濫区域としては流域外にまで拡がっている[7]。また、全国有数の急流河川であるため、洪水時は短時間で急激に水の流出量が増加する傾向がある[7]。砂礫供給によって河口付近の海岸線では発達した浜堤が形成されている[6]

地質

物部川は本川上流部の流路に沿って仏像構造線が走っているため、地質特性は本川左岸側の四万十帯と本川右岸側の秩父帯に区分される[8]。四万十帯は中生代の砂岩がち互層から構成されているのに対し、秩父帯では古生代から中生代の泥岩、砂岩がち互層や凝灰岩層等が帯状に分布している[8]。また、下流部の扇状地では氾濫によって運ばれた砂礫が層を形成しており、河口付近ではかつて浜堤によって水流が遮断され、潟湖が形成されていたため、軟弱地盤となっている[8]

気候

太平洋岸式気候に属し、年間平均気温17度程度の温暖な気候となっている[9]。6月から9月にかけて集中して降雨するため、流域内の年間平均降水量は山間部で2,800mm、平野部で2,400mmを越える多雨地域でもある[9]

植生分布

上流から中流にかけてスギヒノキが分布し、最上流部には加えてブナシイノキが分布する[10]。源流部の白髪谷は清澄な水質が維持され、天然記念物であるニホンカモシカをはじめとした哺乳類やムカシトンボカワセミなどが豊かに生息している[11]。また、標高800m以上の渓流ではオオダイガハラサンショウウオハコネサンショウウオ等の生物が生息している[11]。永瀬ダムまでの上流区間では清水性種のアマゴタカハヤなどが確認されている[11]

永瀬ダムを下るとヒヨドリニホンザルオオムラサキ等が生息する落葉樹林地帯が広がり、河道沿いには棚田が広がっている[12]。吉野ダム、杉田ダムといったダム区間では水位変動の影響により水生生物の種類は少ない[12]。この区間では遊魚用にアユコイなどの放流が行われているほか、カワムツオイカワウグイ、アマゴなどが生息している[12]。下流域では土砂の堆積により自然裸地が減少し、ツルヨシ等の草地やアカメヤナギエノキ等の高木林が発達している[13]。林冠・林縁・林床などの多様な環境に多種の昆虫類がすみ分けて生息し、人目に触れにくいことからタヌキサギホオジロアオジ等の生物が確認されている[13]

交互砂州が形成されている地域ではヒバリスズメなどの小鳥が生息しており、特に戸板島橋の橋梁はイワツバメの集団繁殖地として県下でも知られている[14]。魚類ではアユやヌマチチブなどの両側回遊魚が遡上して生息している[15]。河口付近の砂礫地ではコアジサシコチドリ等の集団繁殖地が確認されている他、水域ではボラマハゼ等の汽水魚が生息する[15]

河川景観

急峻な地形が織り成す渓谷や江戸時代初期に野中兼山が築いた山田堰によって形成された平野部など、物部川は特徴的な河川景観が複数存在する。紅葉の名所としても知られる原流域に位置する清流と奇岩が連続する別府峡谷では屏風岩、アイノウ釜、紅香橋、ネジレ滝などが名所として知られている[16]。また、三嶺や白髪山登山の入り口となる上韮生川上流にある西熊渓谷は四季折々の渓谷を見ることが出来る[16]。日比原川の渓谷にある轟の滝は落差82mの三段に流れ落ちる瀑布で、紅葉の景勝地として知られており、県の天然記念物及び名勝指定がなされている他、「日本の滝100選」にも選ばれている[16]

その他、下流の6堰を統合して1966年に作られた町田堰は、夏場にバーベキューやキャンプ等で賑わいを見せ、土佐藩家老・野中兼山が開いた用水路である兼山の三又は、昔ながらの石積みを残しており、散歩やハイキングコースとして利用されている[17]。1995年に完成した桜づつみ公園は市民の憩いの場として開放され、隣接する吉川村天然色劇場は野外劇場としては四国一の規模を誇っている[17]

歴史

流域の遺構と歴史

物部川河口部に広がる高知県最大の平野である香長平野では弥生時代から人類が定住していたとみられる遺跡や古墳が各地に残されている[18]。中でも南国市の田村遺跡群は高知県を代表する遺跡のひとつであり、80基にのぼる古墳の他、弥生時代竪穴建物掘立柱建物、水田などが発掘された[18]。また飛鳥時代には物部氏の勢力圏下であったと考えられており、香美市内には同氏を祭る若一王子宮がある[4]。平安時代初期には国府が置かれ、紀貫之が国府として同地を治め、都への官道が開かれるなど、発展を見せた[18]。江戸時代に入ると、土佐藩家老の野中兼山が後免地区を中心に用水路を建設して農産業の振興を図り、今日の基礎を築いた[18]。用水路は舟運にも利用され、物部上流の槇山、韮生方面から木材・薪炭・穀物を運び、高知城下の商品を山間部へ運ぶ役割を果たした[18]。これにより下流部の神母ノ木は人の往来が活発化し、宿場町として繁栄を見せた[18]。また、兼山は治水対策にも着手しており、旧川に山田堰を築いたことで農作物の生産性を高めた[18]。山田堰は1973年に物部合同堰が完成するまで、堤防としてその役目を果たし、現在は跡地の一部が記念公園として整備されている[18]

水害史

1815年(文化12年)、「亥の大変」と呼ばれる大水害が発生。洪水流が浜堤を切って、直接海に流れ込んだ。現在の物部川橋付近では堤外地が流失し、十善寺の深渕神社が流出した。また1892年(明治25年)の水害では、右岸堤防327メートルが決壊して、死者1人、流失家屋3戸。決壊箇所から流れ出た濁流は、南から南東方向に流れて河口付近から海へ流出した[19]

流域の自治体

高知県
香美市香南市南国市

並行する交通

道路

  • 国道195号 - 高知・徳島両県を結ぶ。徳島県側では同じく四国地方整備局2006年水質調査で清流四国首位となった那賀川に平行。

利水施設

  • 永瀬ダム(高知県香美市香北町永瀬/香美市物部町柳瀬)

脚注

  1. ^ a b c 国土交通省 p.1
  2. "奥物部県立自然公園の概要と見所". 高知県. 2024年11月28日閲覧。normal
  3. "今明かされる香美の由来". 創刊号記念特集2 香美史探訪記 第59回. 香美市. pp. 24-25. 2019年9月7日閲覧。normal
  4. ^ a b 国土交通省 p.23
  5. "香美郡物部郷(高知県) - 千年村プロジェクト". mille-vill.org. 2019年9月7日閲覧。normal
  6. ^ a b c 国土交通省 p.3
  7. ^ a b 国土交通省 p.4
  8. ^ a b c 国土交通省 p.5
  9. ^ a b 国土交通省 p.6
  10. 国土交通省 p.9
  11. ^ a b c 国土交通省 p.10
  12. ^ a b c 国土交通省 p.12
  13. ^ a b 国土交通省 p.13
  14. 国土交通省 p.14
  15. ^ a b 国土交通省 p.15
  16. ^ a b c 国土交通省 p.21
  17. ^ a b 国土交通省 p.22
  18. ^ a b c d e f g h 国土交通省 p.23
  19. 北原糸子 編、松浦律子 編、木村玲欧 編『日本歴史災害事典』吉川弘文社、2012年6月11日、368頁。ISBN 9784642014687normal 

参考文献

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外部リンク

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絶対不便だと思っていたある縄文土器が、実はめちゃ優秀だった話 #27 Primitive Japan

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