2026年3月29日日曜日

ドナトゥス派 - Wikipedia

ドナトゥス派 - Wikipedia
ドナティスト派AI回答

ドナティスト派は、4世紀から5世紀にかけて北アフリカで勢力を持ったキリスト教の分派で、一度棄教した者の行うサクラメント(秘蹟)は無効であると主張しました。この主張は主流派教会(後のカトリック教会や東方教会)から異端とされ、アウグスティヌスとの論争を通じて教会の統一が図られました。

ドナティスト派の概要

ドナティスト派は、キリスト教の教義である三位一体論などでは主流派と対立していませんでした。彼らの主な相違点は、迫害時に信仰を捨てた者(背教者)が施す洗礼や聖餐などのサクラメントの有効性に関する見解でした。

発祥と背景

311年、カルタゴの司教に任命されたカエキリアヌスを叙任した司教の一人が、ディオクレティアヌス帝の迫害時に聖書や聖物を官憲に渡して棄教した人物であったことが発端です。ヌミディアの司教たちはこの任命を認めず、ドナトゥスをカルタゴ司教に立てたことから、この派はドナトゥスの名にちなんで「ドナティスト派」と呼ばれるようになりました。

主張内容

  • サクラメントの有効性: 一度棄教・背教した者が行うサクラメントは無効であると主張しました。
  • 再洗礼の必要性: ドナティスト派に改宗する者は、再び洗礼を受けなければならないとしました。
  • 教会の聖性: 教会は常に聖なるものでなければならず、そのメンバーも聖でなければならないと考えました。

ドナティスト論争

ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は教会の統一を望み、313年にローマで教会会議を開催しましたが、ドナティスト派はこれに従わず弾圧されました。411年のカルタゴ会議では、アウグスティヌスがドナティスト派への反駁の先頭に立ち、この論争を通じてアウグスティヌスの教会論が確立されました。アウグスティヌスは、神の恩寵は人の過ちに左右されないと主張し、教会は聖徒だけでなく罪人も含む「麦と毒麦が混ざった」場所であると説きました。

各教会からの評価

  • 正教会: ドナティスト派を「西方に発生した分離派(異端)」と位置づけています。
  • カトリック教会: ドナティスト派の著作が現代のカトリック教会から完全に否定されているわけではなく、内容によっては部分的に評価されるケースもあります。
  • プロテスタント教会: 16世紀の宗教改革以降に登場したプロテスタントは、カトリック教会の秘跡の概念そのものに疑問を呈しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E6%B4%BE

ドナトゥス派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ドナトゥス派イタリア語: Donatismo)は、4世紀から5世紀にかけて北アフリカで勢力を得たキリスト教の分派。主流派(のちのカトリック教会東方教会の両方)から異端とされる。英語表記(Donatists)からドナティストとも転写される。

思想潮流としてはドナトゥス主義、もしくは英語から転写してドナティズムとも表記される。これを巡る論争については「ドナティスト論争」等と呼ばれる。

主張内容の概要

アリウス派ネストリウス派と異なり、三位一体論(至聖三者論)や神の母といった、教義上では主流派と対立していない。相違点は、一度棄教した者のサクラメントの有効性を巡る見解である[1]

ドナトゥス派は、聖徒教会は常に聖でなければならないと主張。一度棄教・背教した者の行うサクラメント(機密秘蹟聖奠礼典)は無効であり、ドナトゥス派に改宗する者は洗礼を再び受けなければならないとした[1]

発祥と反駁の内容

きっかけとなったのは、311年カルタゴ助祭であったカエキリアヌス英語版が同地の司教主教)に任職された際、彼を叙品した司教の一人であるフェリックスが過去、ディオクレティアヌスの弾圧時に聖書・聖物を官憲に渡し棄教した者であったため、ヌミディアの司教達がこの任職を承認せず、別にマヨリヌスをカルタゴ司教に任じ、マヨリヌス死後には学識と実行力に優れたドナトゥスがカルタゴ司教に立てられたことにあった。この指導者である司教ドナトゥスが、この派の名称「ドナトゥス派」「ドナティスト」の名の由来である[1]

ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は教会の統一を望んで313年ローマ教会会議を開き、ここでカエキリアヌスの地位の正当性が承認されたが、ドナトゥス派はこれに従わなかったため弾圧された[1]

411年に3日間にわたって行われたカルタゴ会議では、アウグスティヌスがドナトゥス派への反駁の先頭に立った[2]。ドナトゥス派との論争を通じてアウグスティヌスの教会論は確立された[1]

この論争のテーマは、人の罪がサクラメントの有効性に影響するのかどうかにあった。結局、主流派となった教会においては、神の恩寵は人の道徳面の状態からは影響を受けないこと、罪の無い人間はいないことを根拠として、サクラメントは一度棄教した者によるものであっても有効である事が確認された[3]

ただしこの確認については、棄教・背教・道徳的退廃をそのまま容認するものではない。教会・信徒の無過失を主張したドナティストに対して、論陣を張ったアウグスティヌスの主張においては、信徒と言えども罪が無い訳では無いこと、そしてそうした罪が悔い改めによって赦されることの重要性が前提として強調される[4]

カルタゴ会議でも論争に決着が着かなかったのち、皇帝ホノリウスにより統一令が発布され、ドナトゥス派は単なる分派ではなく異端と宣告された[1](この際に異端と宣告されたことについての評価は教派によって異なる)。414年にはドナトゥス派は全ての市民権を剥奪されている[2]

ドナトゥス派は異端宣告の後にも、急速に衰退したものの、ヴァンダル人の支配下や東ローマ帝国の支配下にあった時代にまでもなお存続していた[1]。しかしイスラームの北アフリカへの侵入とともに、7世紀頃には消滅した[2][5]

ドナトゥス派を巡る論争は、一度離教した者のサクラメントの有効性についてのものであるが、サクラメントの概念自体に疑問符を付けるものではない。カトリック教会秘跡の概念そのものに疑問符をつけるプロテスタントの登場は、16世紀宗教改革以降の事である。

正教会からの評価

正教会からは、ドナトゥス派は「西方に発生した分離派(異端)」(раскол в Западной церкви)と位置づけられる。カトリック教会と同様に正教会も、至福者アウグスティヌスがドナトゥス派に対し、教会の価値を擁護し恩寵の働きについて主張したことにつき、アウグスティヌスは正教を強力に擁護したと捉える[6]

カトリック教会からの評価

カトリック教会も、ドナトゥス派に対して反駁したアウグスティヌスを評価する[7]

カトリック教会では、ドナトティスト論争の教理上の意義として、教会の聖性と秘跡授与の有効性が信徒・授洗者の聖性に制約されるとするドナトゥス派の主張に対し、アウグスティヌスによる「勝利の状態にある教会」「途上の状態にある教会(『籾殻と小麦の並存』混ぜ合わさった真の主の体:corpus Domini rectum atque permixtum)」との区別する論が勝ったことが挙げられる。教会の聖性には、効果ある救霊手段、愛の精神、可視的形態が必要であるとされる[8]

ドナトゥス派に属していた者の著作であるからといって必ずしも現代のカトリック教会から全否定されている訳ではなく、著者・著作内容によっては、部分的にカトリック教会から評価されているケースもある[9]

プロテスタント教会からの評価

宗教改革者は神の恵みについて、アウグスティヌスの主張を受け入れたが、教会論を無視した。 アリスター・マクグラスは宗教改革の論議の背景にドナティスト論争があると指摘し、改革派神学者ウォーフィールドを引用して、宗教改革はアウグスティヌスの教会論に対する恩恵論の勝利であるとしている[10]キプリアヌス、アウグスティヌスにとっては背教よりも教会の分裂がより罪深いことなのであったのだとマクグラスは捉える[11]。 キプリアヌスらの毒麦のたとえの用い方に対し、クラス・ルーニアらは毒麦を世に適用し、あらゆる分離を断罪しようとする試みは聖書に根拠がなく、すでに教会は分断状態にあるので、その関係を断ち切って歴史的キリスト教信仰に立つ者の一致を実現するのは分派ではないとしている[12]

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『キリスト教大事典 改訂新版』755頁、教文館、昭和52年 改訂新版第四版
  2. ^ a b c DONATISTS - Online Information article about DONATISTS (英語)
  3. Donatism | Christian Apologetics and Research Ministry (英語)
  4. 同志社大学神学部大学院神学研究科博士課程前期 講義 キリスト教史研究Ⅰ 講師:土肥昭夫『アウグスティヌスの神学思想』レポート:川上純平「アウグスティヌスの教会論研究」 1995・ 1・24
  5. Donatism - OrthodoxWiki (英語)
  6. Донатизм (Энциклопедический Словарь)
  7. CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Donatists (英語)
  8. 『カトリック大辞典 III』(753頁右、上智大学編纂、冨山房、昭和42年第七刷)
  9. 教皇ベネディクト十六世の175回目の一般謁見演説
  10. 『宗教改革の思想』10章教会論「宗教改革論議の背景-ドナトゥス派論争」
  11. 『宗教改革の思想』p.252
  12. 『現代の宗教改革』「分離の問題」

参考文献

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ドナトゥス派に関連するカテゴリがあります。

ネストリウス派 - Wikipedia

ネストリウス派 - Wikipedia

ネストリウス派英語Nestorianismギリシア語Νεστοριανισμός)、または東シリア教会は、古代キリスト教教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオス[注釈 1]により説かれたキリスト教の一派で、東方教会東方諸教会)に含まれる。431年エフェソス公会議において異端認定され、排斥された。これにより、ネストリウス派はサーサーン朝ペルシア帝国へ亡命し、7世紀ごろには中央アジアモンゴル中国へと伝わった[1]唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちにはイラクを拠点とする一派アッシリア東方教会などが継承した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE

ネストリウス派

その教義においては、三位一体説およびイエス・キリスト両性説は認めるものの、キリストの位格は1つではなく、神格人格との2つの位格に分離されるとし、さらに、イエスの神性は受肉によって人性に統合されたと考える。このため、人性においてイエスを生んだマリアを「神の母」(テオトコス Θεοτοκος)と呼ぶことを否定し、「キリストの母」(クリストトコス Χριστοτόκος)と呼んだ。これは、マリアはイエス・キリストの人格においてのみの産み主であるという教理に基づくものであり、マリア神学というよりはキリスト論が根幹である。このネストリオスの教説は、431年エフェソス公会議において異端とされた。

アレクサンドリア学派出身のアレクサンドリア総主教キュリロスアンティオキア学派出身のネストリウスの間での対立から始まる。ネストリウスは、それまでの古代教父らが使用していた聖母マリアに対する称号「神の母 Θεοτοκος(神 θεος を生む者 τοκος)」を否定し、マリアは「クリストトコス Χριστοτόκος(キリスト Χριστος を生む者 τοκος)」であると説いた。その理由は、キリストは神性と人性において2つ位格(ヒュポスタシス υποστασις)であり、マリアはあくまで人間的位格(人格)を生んだに過ぎないとした。一方、キュリロスは、キリストの本性(ピュシス φυσις)は神性と人性とに区別されるが、位格としては唯一である(位格的結合:hypostatic union, ένωσις καθ΄ υπόστασιν)と唱えて反論した。ネストリウスはエフェソス公会議への出席を拒否している。

ペラギウス主義 - Wikipedia

ペラギウス主義 - Wikipedia

ペラギウス主義

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(2010年5月)

ペラギウス主義とは、5世紀キリスト教神学の歴史上に現われた教説で、広く支持者を持ったが、正統のキリスト教から異端とされた。

ローマ修道士ペラギウス(350?-425年?)が提唱したことからこの名が付く。実際に、この教説を広めたのは、弟子ケレスティウスである。

ペラギウスに関してはほとんどの事が分かってはいない。修道士であったとしばしば言及されるが、本当にそうだったかも定かではない。アウグスティヌスによれば、彼はブリタンニアあるいはカレドニアの出自でローマに長い間住んでいたと言う。彼はその禁欲苦行の過激さと演説の雄弁さですでにローマの属州ではよく知られており、彼の教説の本質が明るみに出るまでキリスト教の重鎮、アウグスティヌスでさえも、彼を行動が聖人のように清らかな人と捉えていた。

教説

実際のペラギウスが説いた教えはどのようなものかは分かってはいない。彼の教えは弟子ケレスティウスによって伝えられたものである。

それによると、ペラギウスの説とは神は人間を善なるものとして創造したのであり、人間の原罪は神が善のものとして創りたもうた人間の本質を汚すものではないとする。故に神からの聖寵を必要とはせず、自分の自由意志によって功徳を積むことで救霊に至ることが可能であるとするものと考えた。その人間の救霊に至るまでの道としてアダムを悪しき例とし、イエズス・キリストをよき例とした。また人間個人は自ら救霊に神の救いを必要としないので、イエズスの受難は人間全般の罪をあがなったものではないと考えた。 また幼児洗礼を否定していたとされる。

彼の説は、その多くが、ケルト人である彼の出自ないし彼の学んだギリシア語からギリシア哲学の影響を受けている。すなわち人間各人が己の責任を持って行動を行うという人間の独立性を掲げ、また人間の意志とは超自然的な存在−彼はそれを原罪と呼んだのかもしれないが−に対峙して打ち勝つものとして強調した。このようにペラギウス主義にはギリシア哲学、とくにストア派の影響が見受けられたが、彼の説は当時の教父たちが説く教えとは大きく異なっていた。

経緯

このように人間の意志は神の救いを必要としないというペラギウス主義は、人間は選択の自由はあるが究極的には救いは神の栄光から至るというアウグスティヌスの主張とは対立した。またアウグスティヌスは人間の選択の自由の中にも実は神意の采配が宿っているとしており、人間単身の選択では救いの道は開けず、神の恩寵と結びついた選択により道が開けるとしていた。

この点でアウグスティヌスヒエロニムスはペラギウス主義を批判し、418年カルタゴ会議英語版などで異端として排斥され、さほどな重要な問題とは思われてはいなかったが431年エフェソス公会議で異端である事が再確認された。

関連項目

325年のニケーア公会議で異端とされたアリウス派は、431年のエフェソス公会議でローマ帝国を追放されたネストリウス派より、先行して日本に渡来した秦氏のグループと思われます。 社長ブログ | 株式会社昭和技研工業

社長ブログ | 株式会社昭和技研工業
325年のニケーア公会議で異端とされたアリウス派は、431年のエフェソス公会議でローマ帝国を追放されたネストリウス派より、先行して日本に渡来した秦氏のグループと思われます。
https://www.sgk-p.co.jp/blog/12406/

社長はこう読む、古事記・日本書紀⑩

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。325年のニケーア公会議で異端とされたアリウス派は、431年のエフェソス公会議でローマ帝国を追放されたネストリウス派より、先行して日本に渡来した秦氏のグループと思われます。仏教との役割分担により、居場所を失った『月読命(ツクヨミノミコト)』を引き取って、例外的に『宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)』として祀っていますが、原則としては「神は唯一にして、御形なし」、『稲荷大明神=ヤハウェ』を信仰し、偶像崇拝を嫌う一神教のグループです。なお、八幡神と同様に『稲荷大明神』は記紀に登場しません。

奈良時代に入ると、一介の預言者であった筈の宇佐八幡が、ヤハウェの権威を笠に着て やりたい放題。ここまで静観して来たアリウス派も我慢の限界といったところでしょう、『空海』という "刺客" を用意します。密教の『曼荼羅』は宇宙の真理そのもので、中心に位置する『大日如来』は唯一神のイメージにピッタリです。『稲荷大明神=ヤハウェ=大日如来』とすることにより、『八幡神=イエス=八幡大菩薩』との序列を明確化、羅城門の東西には護国寺を配置して、都に於ける主導権をネストリウス派から奪い取った訳ですね。奈良の大仏が『大日如来』と同一視され、南都勢力は気分が悪い筈がありません。彼等が『空海』にすり寄った一方で、生涯 反りの合わなかった『最澄』は、北東の門番役に遠ざけられています(笑)。

伏見アリウス派の "騙し討ち" により、中央権力から切り離された宇佐陣営も黙っていません。八幡神を『阿弥陀如来』に再度 格上げ。『末法思想』を拡散し平安貴族の恐怖を煽り、『極楽往生』を究極の目的とする『阿弥陀信仰』で形勢逆転を狙いました。両者にとって予想外だったのは、武士階級の台頭でしょう。『南無八幡大菩薩』、石清水八幡宮から各地に勧請された、八幡神のダークサイド(=ヨシュア)が大人気。中世を代表する "軍神" へと変貌を遂げ、東国を中心に新たな巨大マーケットを開拓するのでありました。

と言う訳で、記紀をより深く理解する為に、暫く "寄り道" をさせて頂きましたが、次回からは いよいよ日本古代史 最大のミステリー、邪馬台国の女王『卑弥呼の謎』に迫りたいと思います。「卑弥呼は記紀に登場しないのでは?」と、突っ込まれそうです(苦笑)。さあ、どうでしょうか?お楽しみに。

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