2026年1月28日水曜日

高知城の見所まとめ。映えスポットや高知城ならではの特徴をシンプルにまとめました。高知城訪問前にぜひ見てほしい動画です。

【戦国こぼれ話】高知城三の丸に桐の紋章の瓦が使われていた。その謎について考えてみよう(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース

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【戦国こぼれ話】高知城三の丸に桐の紋章の瓦が使われていた。その謎について考えてみよう

高知城追手門。三の丸の石垣から桐の紋章が刻まれた瓦が発見された。写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 平成12年(2000)、高知城三の丸の発掘調査が行われた際、長宗我部時代の石垣から桐の紋章が刻まれた瓦が発見された。先日、瓦に桐の紋章が用いられた理由について、研究者が諸説を提示していると報道された。桐の紋章は天皇家をはじめ、足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉らが用いた高貴な紋章だった。その理由を少し考えてみよう。

■高知城とは

 高知城は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に山内一豊が築いたことにはじまる。一豊は高知平野の中央に位置する大高坂山を選び、築城を開始した。実は、天正13年(1585)の段階で、すでに大高坂山には長宗我部氏が城を築いていた。

 工事は慶長8年(1603)に本丸と二の丸が完成し、慶長16年(1611)に三の丸が竣工した。当初、鏡川と江ノ口川を外堀として利用していたので、河中山城と称していたが、のちに2代藩主の忠義が高智山城と改名し、さらに高知城と改めた。

 高知城は標高約40mの大高坂山の山頂を塀や石垣で囲み、南に本丸、北に二の丸、北東に三の丸を配置した。しかし、享保12年(1727)の大火により、高知城の建築物は大半が焼失。再建は、宝暦3年(1753)までかかった。

 4重6階の天守は、一豊の前任地だった掛川城(静岡県掛川市)を模したといわれ、南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけている。

 現存する天守、本丸御殿、黒鉄門、詰門、廊下門、西多聞櫓、東多聞櫓、追手門など15の建築物は、国の重要文化財に指定されている。全国でも、天守と本丸御殿の両方が残っているのは高知城だけで、現在は高知公園として整備されている。

■豊臣秀吉と桐紋

 次に、豊臣秀吉と桐紋について考えてみよう。一説によると、秀吉が長宗我部氏、山内氏に桐紋を与えたといわれているからだ。

 天正13年(1585)に秀吉が関白に就任すると、後陽成天皇は豊臣姓とともに「五七桐」の家紋を与えた。五七と呼ぶのは、「五七桐」の家紋の上部の花の数が左から五、七、五に並んでいるからである。

 「五七桐」の家紋を下賜されたことにより、秀吉の権威は大いに高まったが、決して満足しなかった。秀吉は新たに「太閤桐」なる家紋を作り上げたのである。

 秀吉はなぜ、新たに「太閤桐」なる家紋を作り上げたのだろうか。天皇や主君たる戦国大名が自らの家紋を配下の者に与えることは、決して珍しいことではなかった。秀吉も「沢瀉(おもだか)」の家紋を与えていた。

 しかし、「五七桐」の家をそのまま与えてしまうと、軽々しくなってしまう。多くの人がそれらの家紋を使えば、相対的に価値が下がってしまうのである。秀吉は、そのことを恐れた。

 そこで、秀吉は桐という最高の家紋を生かしながら、自ら新たにデザイン化したものを作り上げ、配下の武将たちに与えることにした。これならば、使う人の数が増え、軽々しくなるという問題が解消される。

 秀吉は「太閤桐」を新たに作成することによって、自身が使用している「五三桐」や「五七桐」の家紋の価値の相対的な低下を防ごうとしたのである。ここで一つ、桐紋にまつわるエピソードを挙げておこう。

 天正19年(1591)6月7日、秀吉は桐紋や菊紋を無断で使うことを禁じる旨を奈良中に触れた(『多聞院日記』)。この事実は、秀吉が桐紋などの使用にかなり神経質になっていたことを示している。

 秀吉は、桐紋を非常に好んでいた。京都市伏見区にある醍醐寺の唐門には、三方院の門扉に秀吉の面影がしっかりと残っている。門扉の中央二枚には秀吉の「五七桐」があり、左右には菊の紋が施されている。この門は、「勅使門」と称されており、朝廷から派遣された使者のみが通る門だったのである。

 近年、秀吉は四天王寺(大阪市天王寺区)に対して、仏像などを安置する厨子を寄進したことが明らかになった。その厨子には金箔もふんだんに使われ、豊臣家の家紋である桐花が描かれていた。

■なぜ桐紋を

 長宗我部氏の家紋は、「七つ酢漿草(かたばみ)」である。山内氏の家紋としては、「丸三葉柏紋」「白一黒一紋」「立波紋」「鉈紋」が知られている。ほかには、県立高知城歴史博物館渡部淳館長が指摘するように、秀吉が山内氏に桐紋(「花桐紋」)を下賜したといわれている。

 秀吉が山内氏に桐紋を授けたということは、史料で確認できないが、十分にあり得る話である。山内氏は秀吉の「五七桐」と重なることを避けるため、あえて「花桐紋」を作ったのではないだろうか。とても、無断で瓦に桐紋を使用したとは思えない。今後、さらに調査・研究が進むことを期待したい。

遺跡情報「高知城跡」 | 公益財団法人 高知県立埋蔵文化財センター

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遺跡情報

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こうちじょうあと

高知城跡

 高知城跡は、高知市内中央部に位置し、標高45mの大高坂山に築かれています。市内を東流する鏡川と江の口川に挟まれた孤立丘陵上に立地し、双方の川を外堀とし、山麓には内堀を配しています。城跡の基礎は南北朝期に遡り大高坂氏の頃とされています。その頃の遺構と遺物は城内の西部にある「御台所跡」で確認されています。天正16年(1588)には長宗我部氏が大高坂城(高知城)に進出してきます。その後、慶長三年(1601)に山内氏が土佐に入国し、現在の本丸、二の丸が完成した後に入城します。現在の高知城の姿に近い形に完成するのは慶長16年(1611)二代藩主忠義の時代で「三の丸」が完成します。近年、本丸の南石垣と三の丸の東面、南面の改修工事が行われ、発掘調査が行われました。三の丸石垣の背面には長宗我部氏の段階に築かれた高さ3mほどの石垣が発見され、桐文瓦が出土しました。また、江戸時代の三ノ丸御殿に関連する排水施設である石組み暗渠も確認されました。これらは、現在の三ノ丸で整備後、露出展示されており見学できます。

基本情報

所在地
高知県高知市丸ノ内 GoogleMAPで表示
主な時代
江戸時代
主な遺構
石垣(長宗我部期)・石組み排水施設(石樋)・ピット・土坑
主な遺物
土師質土器・備前焼・近世陶磁器・瓦 他

備 考

その他の遺跡

むこうやませんそういせき

向山戦争遺跡

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 向山戦争遺跡は、南国市の伊達野と稲生の間を東西に延びる通称向山と呼ばれている山の尾根や斜面部に広がっています。高知平野には、太平洋戦争末期の「本土決戦」陣地が多数作られましたが、向山もその一郭を占めています。平成20年度に高知南国道路建設に伴い発掘調査を実施しました。その結果、標高65mの尾根部を中心に大小10基の陣地が構築され、これらは北斜面に掘り巡らされた交通壕で結ばれています。また、山腹を貫通する坑道は幅1.8m、高さ2m、延長72mで北斜面から南斜面に貫通するものと、中程で幅2.6mの「コ」字状に掘られた坑道からなっています。床面には90㎝の間隔で枕木が置かれ、壁には坑木痕跡が残っています。
 1945年春以降、沖縄での地上戦闘が開始された4月には四国防衛の部隊として第55軍(偕部隊)が編成され、隷下の3個師団(11・155・205師団)を中心に約12万人の兵力が配備されますが、その大半が高知平野に展開していました。海岸部には特攻基地、平野部や近隣の山には陣地が数多く構築されました。当時、大本営が作成した資料によると、1㎢あたりの戦力密度は「高知正面」が最大の数値を示しており、このことからも高知平野が重視されていたのか知ることができます。戦後70年を経過し、戦争の記憶は次第に消え去ろうとしています。そのような中にあって戦争遺跡は、戦争の実相を私たちに語りかけてくれる資料として意義深いものがあると思います。

基本情報

所在地
高知県南国市伊達野 GoogleMAPで表示
主な時代
近代
主な遺構
交通壕・観測用竪穴・横穴・坑道・砲床
主な遺物
カスガイ・釘・ガイシ・銅線・薬莢

備 考

その他の遺跡

戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる

戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる

戦国武将、長宗我部元親が居城とした岡豊城

高知県を代表する城といえば、誰もが高知城を連想するだろう。しかしその一角に、別の城の片鱗がひっそりと佇んでいるのをご存知だろうか。三の丸で発見されている、石垣の一部がそれだ。

高知城内の壮大な石垣と比べると、いかにも古めかしく、築造時期の違いは一目瞭然。石材は小さく、高さは3メートルにも満たない。これは、山内一豊が高知城を築く前、長宗我部元親が築いた大高坂城の石垣だ。高知市から東へ約10キロほど離れた岡豊城を本拠としていた元親は、1588(天正16)年頃にこの城を築き、居城を移している。

1575(天正3)年に土佐統一を果たし、四国平定の道を突き進んだ元親。1585(天正13)年に四国全土の統一をほぼ果たしたものの、同年には、豊臣秀吉による四国攻めを受けて降伏した。秀吉の支配下に入ると土佐一国のみを安堵され、秀吉のもとで戦いに明け暮れる日々を過ごすこととなった。大高坂城への移転も、朝鮮出兵を睨んだ秀吉による命だったのだろう。

戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる

高知城三の丸で確認された、長宗我部元親が築いた大高坂城の石垣。秀吉政権との密接な関わりを示す桐紋瓦も発掘されている

遡れば、戦国時代の土佐は、応仁・文明の乱により支配力を弱めた細川氏に替わり、一条氏、津野氏、大平氏、吉良氏、本山氏、山田氏、香宗我部氏などの国人たちが覇権を争っていた。群雄割拠の世で勝ち上がったのが、長宗我部氏だった。長宗我部氏の岡豊城は、1508(永正5)年頃に本山氏らに攻め込まれて一度は落城している。しかし、元親の父である国親が1516(永正13)年頃に再興。その後、小勢力ながら着実に支配圏を広げていった。そして、その跡を継いで飛躍したのが元親というわけである。

幼い頃の元親が「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されるほど、おとなしい性格だったことはよく語られる。しかし、初陣では勇猛ぶりを見せつけると、「鬼若子」と賞讃された。第21代当主となり土佐一国を統一すると、「土佐の出来人」と呼ばれるほどになった。岡豊城は、そんな元親の飛躍の舞台でもある。

戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる

高知県立歴史民俗資料館に建つ長宗我部元親の銅像

さて、岡豊城へと向かおう。城は、香長平野に点在する丘陵のひとつ、標高97メートルの岡豊山に築かれている。中腹に建つ高知県立歴史民俗資料館を目指せばよいから、とても訪れやすい。築城年は定かではないが、おそらくは15世紀後半~16世紀初頭とみられる。この地は土佐国衙(こくが)や土佐国分寺に近く、古代から土佐の中心地だった。

高知県立歴史民俗資料館で長宗我部氏の歴史や岡豊城の構造をなんとなく頭に入れたら、いよいよ登城スタートだ。登城道は、歴史民俗資料館の裏手、長宗我部元親像の背後が入口として整備されている。2~3分も登れば、あっという間に二ノ段だ。

戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる

高知県立歴史民俗資料館の裏手にある登城口から、岡豊城へと登っていく

岡豊城は、山頂に主郭部を置き、主郭部には詰、二ノ段、三ノ段、四ノ段などが階段状に並ぶ構造だ。東西に長い丘陵にあり、西の伝厩跡曲輪、南の伝家老屋敷曲輪までが城域となる。中枢の区画を「詰」と呼ぶのは珍しいのだが、この地域では一般的なのだという。二ノ段ではさっそく絶景が出迎えてくれ、東には土佐国衙や土佐国分寺が見下ろせる。

戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる

二ノ段からの眺め。土佐国分寺跡、土佐国衙跡、比江廃寺跡が望める

空堀を越えて2段上がったところが、本丸にあたる詰だ。中央部には礎石建物が建っていたことが判明していて、現在は櫓が建てられ展望台になっている。ここからの眺望もすばらしい。南には香長平野、西には高知市街地が見下ろせ、南斜面下には国分川が流れている。西から南にかけては当時から湿地帯だったようで、自然の要害となっていたことが実感できる。

戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる

詰に建てられた櫓。2階からは遠くには介良城、大津天竺城も見える。眼下に国分川が流れているのも確認できる

見忘れてはならない遺構が、詰の北西側にのびる丘陵で見られる「畝状竪堀群」だ。斜面と並行に掘られた竪堀が連続したもので、放射状ではなく、どちらかというと変則的に設けられている。土佐で長宗我部氏が侵攻した城を歩いていると、畝状竪堀群によく出会う。どうやら、長宗我部氏の城の特徴といえるのだろう。こうした城の変化や類似性を考察するのも、戦国時代の城を歩くときの楽しみである。

戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる

詰の北西にのびる丘陵には、長宗我部氏が城に用いた畝状竪堀群がよく残る。伝厩跡曲輪も、北西の二重の堀切と畝状竪堀群で守りが固められている

城内のいたるところに、発掘調査の解説版が置かれている。専門的で少し難しいのだが、要約すると、ポイントは3つ。詰下段や三ノ段から礎石建物が発掘されていること、三ノ段の土塁の内側に高さ1メートルほどの石垣が積まれていること、詰からは1585年に和泉の瓦工が動員されたことを示す「瓦工泉州」「天正三年」と書かれた瓦が見つかっていることだ。

これらはつまり、元親が織田信長と結びつき、城づくりの要素を取り入れた可能性を示唆する。いずれも、信長や秀吉の城に見られる特徴だからだ。三ノ段から四ノ段への出入口(虎口)も、信長・秀吉の城に類似する折れをともなうもの。通路や壁面など、シルエットのはしばしに2人の影を感じずにいられない。

戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる

折れをともなう枡形虎口

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三ノ段南部の切岸と土塁

戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる

三ノ段からは高さ1メートルほどの石垣、西部の北半分に礎石建物が見つかった

四国のなかでも、高知は本州に背を向ける位置にある。そのため、政治・経済・文化などの面において地理的に不利だ。そこで元親は、様々な手で上方との結びつきを強化した。そのひとつが、縁戚関係だ。元親の母は美濃斎藤氏の娘といわれ、正室も美濃から迎えている。つまり、明智光秀と深い関わりがあることになる。信長に近しい光秀との結びつきが、元親にとって優位にはたらいていたのだろう。

秀吉とは有効な人脈を築けなかったために外交戦で遅れをとり、四国征伐のきっかけを与えてしまったようだ。その後は九州攻めで嫡男の信親を失うなど、運に見放されることが少なくなかった元親。岡豊城は、四国の英雄である元親の栄華と衰退に思いを馳せられる城でもある。

岡豊城では発掘調査に加え、近年はレーザー測量も行われている。知られざる一面が顔を出し、なかなかに興味深い。戦国時代の典型的な山城と思いきや、信長政権と関わり、新時代の城の顔も見え隠れする、目が離せない城なのだ。

交通・問い合わせ・参考サイト

岡豊城(高知県立歴史民俗資料館)
JR「高知」駅から車で約20分
088-862-2211
岡豊城(高知県立歴史民俗資料館)のページはこちら

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2026年1月27日火曜日

鈴村智久 Tomohisa SuzumuraさんによるXでのポスト

 
 
鈴村智久 Tomohisa Suzumura
⁦‪@SUZUMURA_Inc‬⁩
20世紀英米圏を代表する神秘主義者マンリー・P・ホールは『カバラと薔薇十字団』の中で、現代の教会や秘密結社に共通して求められている重要な理念について、以下のような考えを紹介しています。 pic.x.com/LYCAFyFyVB
 
2024/09/30 23:10
 
 
20世紀英米圏を代表する神秘主義者マンリー・P・ホールは『カバラと薔薇十字団』の中で、現代の教会や秘密結社に共通して求められている重要な理念について、以下のような考えを紹介しています。

「ある人を薔薇十字団員と呼んだところで、その人が薔薇十字団員になるのでもなければ、ある人をキリスト教徒と呼んだところで、その人がキリスト教徒になるわけでもない。真の薔薇十字団員やフリーメーソンは作られることはない。彼は、みずからの心の内部にある神的な力を拡大し、展開することによって、初めてそういう人になるのである。このことを知らないために、多くの教会や秘密結社は、その名前が示すものとは別のものになっている」フランツ・ハルトマン『薔薇十字団の秘密象徴』(p.158)

#読了
#読書好きな人と繋がりたい

高知城の見所まとめ。映えスポットや高知城ならではの特徴をシンプルにまとめました。高知城訪問前にぜひ見てほしい動画です。

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