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第七部 漢詩の旅


A 現地に住んで深まる漢詩への理解 王維
昔、NHKのシリーズ番組『シルクロード』で、作家の陳瞬臣氏が、咸陽市(唐時代には「渭城」と呼ばれる)の渭水の畔に立ち王維の「送別の詩」を解説している場面があった。
送元二使安西 元二の安西に使するを送る 王維
渭城朝雨潤輕塵 渭城の朝雨輕塵をうるおし
客舎青青柳色新 客舎青青柳色新たなり
勧君更盡一杯酒 君に勧む更に尽くせよ一杯の酒
西出陽關無故人 西のかた陽関を出ずれば故人無からん
唐の時代、都人は西へ旅する親戚・友人と郊外の渭城(咸陽市)まで同行し、送別の宴を開いて別れる習慣になっていた。王維は友人の送別を上の詩で描いている。
ところで、日本の子供は太陽を真っ赤な色(日の丸のように)に描く。一方、沙漠民の子供なら、太陽を黄色に塗りつぶすそうである。これは、気象条件の違いによるもので、子供は見たとおりに描くか、あるいはその民族の太陽に対する固定観念の影響でそうするのだろう。
私が中国で最初の赴任地「西安市」に来て気付いたのは、晴天にも関わらず空がぼんやりと霞んでいて、太陽が黄色に見えることだった。それは、中国の他の都市でもあるような、公害による大気汚染によるものと初めは思った。
あるとき学生と公園を散歩した。雨上がりで霧がたちこめているような夜の静寂が支配している。街灯が点っているあたりだけ霧がくっきりと浮かび上がっているの見て、私は思わず叫んだ。
「ロマンチックだね」
「先生、あれはゴミですよ」
と、学生が無粋なことをいって、私の高揚感をつれなくぶちこわしてしまったのだ。
しばらく考えていた私はようやくその意味を理解した。日本語の語彙力不足の学生は、それが霧ではなくて『砂塵』が舞っているのだと言いたかったのだ。
西安市の生活に慣れてくるに従って、私はこの土地の気候風土への理解が深まった。西安市は黄土地帯の南東部に隣接しているので黄砂が舞っている。また、タクラマカン沙漠からはるばる砂塵が飛来しているのだ。だから、我が教師宿舎の窓辺にはいくら掃除しても一週間も経つと、うっすらと細かい砂塵が溜まる。

キャンパス内の樹々は砂塵に覆われて土気色になるので、ときどき散水車が水をかけて樹々の緑を蘇らさなければならないのだ。そして、風の強く吹く日には、晴れの日でも空は曇っており、太陽は黄色く見える。
西安市や咸陽市はこんな気候の土地なので、呼吸器系に欠陥のある人には住みにくいと言われている。
王維の詩は、送別の詩として日本にもよく知られているが、この詩の主題は第三、四句にある。第一、二句は単なる場の設定、情景描写に過ぎない、と私は日本にいるときには思っていた。が、第一、二句にこの土地の気候風土が見事に織り込まれていることが分かり、私はこの漢詩がますます好きになった。
このように、漢詩はそれ自体で日本人にとって十分鑑賞にたえられる内容を持つものであるが、創作の現場に立ち会うことによってますますその味わいが深まるものである。
B 土井晩翠 五丈原
上の詩の渭城(咸陽)から更にバスで数時間、渭水に沿って行くと五丈原に着く。
諸葛孔明が魏国(曹操)への北伐で、ついに志半ばで五丈原で陣没した。その無念な思いを土井晩翠が詩で描いている。孔明の死後、蜀は急速に衰えて滅亡した。
C 李白 静夜思
あまりにも有名なこの詩は、五言絶句(わずか20字)に万感の思いが込められており、谷崎潤一郎が「永遠の美しさがある」と絶賛している。
なお、「床」とは、ベッドが普通の理解だが、「井戸」という意味もあるらしく、それなら右図のイメージとなる。

江西師範大に赴任していたある年の春に武漢市を訪問した。長江流域の中で桜の名所としられる武漢大学では、桜が既に散っていたが、武漢市には是非訪れてみたい「黄鶴楼」と「武漢長江大橋」がある。
黄鶴楼の最上階から遠望すると長江は春霞に烟っていた。
次に「武漢長江大橋」へ行き、橋のたもとから対岸や下流を眺めた。李白が作詩したのは旧暦の3月だから、ちょうど今、私が訪れたときと同じだ。春霞にかすむ長江は、往時と変わりなく滔々と流れ、遙か下流が天空と一体となっている。
千数百年の時空を超えて、私は、詩作している李白の傍に立っているような気分だった。
E 湖南省の岳陽 登岳陽楼 杜甫
李白につづいて杜甫の詩を紹介したい。
旅に同行してくれた二人の学生に岳陽楼の最上階で、杜甫の「登岳陽楼」と劉禹錫の「望洞庭湖」を朗詠してもらったのは、最高の思い出となった。
登岳陽楼 岳陽楼に登る 杜甫
昔聞洞庭水 昔聞く 洞庭の水
今上岳陽楼 今上る 岳陽楼
呉楚東南坼 呉楚 東南に坼(さ)け
乾坤日夜浮 乾坤(けんこん) 日夜浮かぶ
親朋無一字 親朋 一字無く
老病有孤舟 老病 孤舟有り
戎馬関山北 戎馬(じゅうば) 関山の北
憑軒涕泗流 軒(けん)に憑(よ)って涕泗流る
杜甫はこれに先立つ数年を、友人のはからいで成都に庵を持ち安寧の日々を過ごした。しかし、友人の死により、また長江をくだる漂泊の旅に出る。
友人知人のいる中原に戻りたくとも、戦乱でかなわない。この数年後に長江下流の地で、病身の杜甫は亡くなった。
F 田園詩人「陶淵明」の故郷九江 飲酒五
九江は長江中流の河岸の町である。陶淵明は四十を超えたころに、小役人生活に見切りをつけて故郷に帰り、悠々自適の田園生活の中で詩をつくった。私は九江の「陶淵明記念館」を見学した。記念館の周辺には陶淵明の往時の生活ぶりを髣髴とさせるような田園風景は既になかった。中国の名所旧跡、記念館の類でも、いつも期待通りとはいかないものである。
彼の代表作「飲酒其五」は、心の平穏と自然との結びつきを歌い上げている。
その詩中の二句を右にしめした。図右背後にある南山とは「廬山」のことである。
G 言葉の響きの快さ 劉庭芝(希夷) 代悲白頭翁
洛陽は西安から東にバスで2,3時間にある古都である。「龍門石窟寺院」や関羽の首塚のある「関林廟」にくわえて、洛陽市民が牡丹を熱愛していることでも知られている。
漢詩は押韻・平仄などの組み合わせで独特の韻律美を生み出しているが、中国語を知らない我々日本人には、その韻律美が分からない。
しかし劉廷芝作「代悲白頭翁」では、それが分からなくても、詩中に「飛び来たり/飛び去る」や「年年歳歳/歳歳年年」などのように対句の妙があり、日本語書き下し文で朗詠しても快い響きを感じ取ることができる。
なお、散り去る花びらを見て「容色の衰え」を心配するのは、乙女ではなくて、「年増の女性」ではないだろうか?
H 李白 廬山瀑布
前の詩に出てきた南山、つまり「廬山」には李白の詩で有名な「廬山瀑布」がある。
私は同行してくれた学生黄さんと一緒に廬山瀑布を目指して登山した。
この日は早朝からかなり暑く、登山口にたどり着くまでに汗が噴き出た。黄さんは遠い昔、戦乱の中原から南方に逃れた正統な漢民族(客家はっか)の子孫であり、祖母が白酒を呑む酒豪の孫である。
「先生、暑いわね、登る前に冷えたビールを飲みましょう」
というので、驚いた。一方、もう一人の学生陳さんは一滴の酒ものめない(こちらの方が正常)。
さて、ビールで喉を潤してから登山に挑戦。急斜面と階段が交互にまじる坂道をひたすら歩き、途中で河原に下りて、冷たい水で汗をふいたりもした。
滝壺の一歩手前まで来たところで、時間切れのために引き返したが、滝を間近に見ることができたので満足することにした。
なお、李白が詠んだ「廬山瀑布」は、<現在消滅してもう存在しない>という有力な説を日本人学者が唱えている。では、私たちが見た滝は何だったのか、と疑問が残る! この件は「第4話3仏教寺院」に詳述した。
I 白居易 香炉峰&清少納言
白居易が「廬山の香炉峰のふもとに草庵を建てた」ときの詩で七言律詩の3、4句が清少納言の「枕草子」に出てくる逸話で知られている。
第3句 遺愛寺鐘欹枕聴 遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き
第4句 香炉峰雪撥簾看 香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る

J 日本人も愛好する張継の「楓橋夜泊」
唐時代、蘇州の寒山寺境内に鐘楼があり、たまたま詩人「張継」がこの地に舟旅でやって来た。楓橋という橋の辺りで舟中泊したときに、寒山寺の鐘の音を聞いて詠んだという。
楓橋夜泊 張継
月落烏啼霜満天 月落ち烏啼きて霜天に満つ
江楓漁火対愁眠 江楓漁火愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺 姑蘇城外の寒山寺
夜半鐘聲到客船 夜半の鐘声客船に到る
(「姑蘇こそ」とは、蘇州の古名)
日本でもよく知られている張継の「楓橋夜泊」が縁で、毎年、大晦日になると、この寒山寺で除夜の鐘をならすため、多くの日本人の観光客がやってくるそうだ。私も大晦日の日ではないが、3,4回訪れたことがある。

K 杜牧 江南春
私が中国で滞在した6都市の中で、無錫・南昌・上海は江南地方にあった。米作が盛んなために「江浙実れば天下足る」と言われるほど緑豊かで、湖沼や川の多い温暖な土地柄であった。
見渡す千里の平野に鶯が啼いて、若葉の緑に染まりながら、花の赤色が美しく彩っている、と、長江流域ののどかな春の情景を色彩豊かに描いている。
また南朝の都(現南京)の歴史と文化の深さも感じ取ることができる。

L 杜牧 清明 民族が心を一つにできる共有財産
江西師範大学には、クリスマス晩会とか新年会だとか、日本語科の教師や学生が一堂に集う演芸会があった。こんな時には、日本人教師は必ず何か芸を披露しなければならない。この大学赴任三年目には、安曇野の早春の情景を描いた「早春賦」を歌うことにした。
しかし、ただ歌うだけでは芸がなさすぎる。
そこで、一、二番を日本語の歌詞どおりに歌い、三番で、杜牧の「淸明」を中国語で歌うことにした。

III「清明」を中国語で歌ったのが好評を得た。
これに気をよくした私は、次に「清明」を吟唱しますと、はじめたところ、聴衆が大合唱で呼応してくれた。その後の感動的な場面は「第3話 7新年演芸会」で詳述しているのでそちらをご覧ください。
M 南宋末の愛国者文天祥 文天祥 生気の詩
どの民族にも救国に奔走した英雄はいるものだが、その末路は死で終わる。江西省南部の町「吉安」はかつて若者の教育に熱心な地で、科挙合格者を多数輩出したことで知られている。13世紀後半の南宋人、文天祥は20歳にして状元(皇帝の前<殿試>で最優秀の合格)となった秀才であった。しかし、南宋末に元(蒙古)軍の侵略により国家存亡の危機に際して、上級官僚の地位を投げだし、救国の義勇軍を組織して郷里「吉安」から決起した。

彼は、武運つたなく元軍に捕らえられて獄中にあったとき、フビライから「元王朝に仕えよ!」と求められたが拒否して、結局刑死した。獄中で愛国の熱情をしたためた「正気の歌」は、幕末の藤田東湖や吉田松陰にも思想的影響を与えたと言われている。
私は江西師範大に赴任していたとき、南昌市から列車で三時間ほどの吉安市にある文天祥記念館を訪れた。「生気(せいき)の歌」は五言六十句からなる長文で、記念館の壁に記してあるはじめの部分の写真を下に示す。
若くして科挙の「状元」になった文天祥は、己の立身出世のみを考えていれば上手な世渡りができていただろうに、救国の熱意に燃える彼にはそれができなかった。
昨今の日本の高級官僚の不祥事を見ていたら、文天祥との志の高さや品格の違い感じざるを得ない。
N 王翰 涼州詞(辺塞詩の傑作)
唐王朝の西のはずれは、「陽関」であった。その西にはタクラマカン砂漠が広がり異民族が住む西域である。
「涼州詞」はそこを舞台に王翰(おうかん)が詠んだ七言絶句。
ブドウ、夜光杯(ガラスの盃)、琵琶と西域の異国情緒に読者をひきずりこむ。
馬上で奏でる胡人の琵琶の音に誘われて、兵士たちの酒の勢いが増す。
だが、砂上に酔い潰れてしまった私を、友よ笑わないでくれ。
出征した兵士のうち、生きて帰れるのは何人いるだろうか…
と、やるせない兵士の悲哀が吐露されている。

O 日本の漢詩 乃木希典 203高地
最後に日本人による名作漢詩を紹介しよう。
日露戦争で最大の激戦地旅順203高地を巡って日露の戦いがあった。乃木大将は、ただひたすら兵卒に突撃させては、敵の砲撃・銃撃を受ける消耗戦術をもちいたために、累々たる屍の山がきずかれた。
が、ついに明治37年12月5日に、203高地を占領した。若くして散った英霊の中には乃木の次男保典の名もあった。それを嘆じて詠んだ漢詩が「爾霊山」であり、二〇三高地を語呂合わせした見事な当て字で、乃木大将の創作。

