信長の装置22~蘭奢待と合戦図屏風と
信長は、室町幕府が「信用」を与えた「東山御物(ひがしやまぎょもつ)」も手に入れます。
東山殿(室町幕府八代将軍・足利義政)以来、室町幕府が秘蔵した名品の数々です。
例えば茶器です。中国、朝鮮渡りの名物。
茶碗などは元をたどれば、ただの土くれでしかありません。それに「名物」という「信用」が与えらて、珍重されたのです。
信長が「信用」を与えた物は、皆が欲しがりました。家臣たちは、戦手柄として土地や金銀の代わりに、これらを望みました。
また、信長が「信用」を与えた者にしか、茶会さえ開くことができなくしたのです。
八代将軍・足利義政といえば、信長が利用したのが、東大寺正倉院の宝物である・・・
東大寺の名前を潜ませた香木・蘭奢待(らんじゃたい)です。
蘭奢待には切り取った跡が三カ所あります。②は明治天皇所望の部分。
そして、①がこれです。
足利義政が切り取った部分の横に、信長が切り取らせた部分があります。
よくある話では、強引に切り取らせたように書かれていますが、そうではありません。
きちんと、朝廷宛に許しを求め、許された上で切り取っています。
『信長記』には「志那から坂本へ渡海した際、初めて寄宿した相国寺から、東大寺の蘭奢待を頂きたい旨、帝王(天皇)へ奏問し、許された。」と書いてあります。
しかも、その切り取る手順は、きちんと義政の先例に習ったものでした。
勅許が下りたのち、信長は奈良へ向かいます。正倉院に置かれていた、蘭奢待の入った六尺の長持ちを、松永久秀から奪い取った、荘厳華麗な多聞山城へ運び出します。
しつらえた、御成りの間の舞台に置かれた蘭奢待は、大仏師の鋸切で東山殿と同じ寸法:一寸八分を切り取られます。切り屑もさえも大切に拾い集めました。
この様子は、近くにいた家臣や馬回り衆、堺の豪商衆などの人たちにも見学を許し、「末代までの語り種に拝見するがよい」と言ったとも書いてあります。
そして、切り取ったほとんどは、朝廷や貴族、公家、茶人、豪商人に分け与えて、残った物は贈答用として使っています。
信長の欲しかったものは、「蘭奢待」そのものではなく、「室町将軍に並んだ」という、目に見える事実でした。
きっと、この様子を見ていた、僧侶、武将、豪商、茶人など、多くの人々の口を通して、信長は「足利将軍家に並んだ」という話が、世間に広がったに違いありません。
今風に言えば、SNSで拡散させるためのパフォーマンスとして利用したのです。
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利用価値があれると思えば、何でも躊躇なく利用します。これらを良く表現しているのが『長篠合戦図屏風』です。
左側に白馬に乗った、信長。南蛮兜と鉄砲の入った赤い袋に加えて、永楽銭の幟とその先に、日蓮宗の題目・南妙法蓮華経の吹き流し。さらに、手前には六芒星を背負った陰陽師(おんみょうじ)。
悪く言えば、新旧ごちゃまぜです。
陰陽師と言えば、平安時代の安倍晴明の五芒星ですが、六芒星も陰陽思想に元付いていて、下向きの▽は「陽」 、上向きの△「陰」を形表しています。
続く・・・