2026年8月2日日曜日

いま、発掘の真っ最中でした──徳島の南で見た「教科書に載る前の古代」|きーの歴史沼チャンネル

いま、発掘の真っ最中でした──徳島の南で見た「教科書に載る前の古代」|きーの歴史沼チャンネル

江戸時代の文化14年(1817年)、幕府が全国に『諸国風俗問状』という調査票を配りました。各地の風習を書いて出せ、という国の調査です。阿波から返ってきた答書に、こう書かれています。

当所之儀は八月朔日に雛祭仕、三月には祭不申候
(この土地では八月一日に雛祭りをします。三月には祭りをしません)

三月に、雛祭りをしない土地。

理由は、須佐之男命への配慮ではないか――という説があるそうです。男の節句が終わってから、と。

伝承が話として残っているだけじゃなくて、200年前の国の調査に「うちは違います」と答えている。この手触りが、きーちゃんはたまらなかったです。


https://note.com/key_history_ch/n/ne58e9ca161ab

いま、発掘の真っ最中でした──徳島の南で見た「教科書に載る前の古代」

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お元気様です🫡 きーちゃんです。

7月25日と26日の2日間、徳島の南――みなみ阿波を歩いてきました。

先に、いちばん言いたいことを書きます。

島根も畿内だけじゃない。次の一歩は、阿波かもしれません。

出雲を歩いた。奈良も、京都も歩いた。そういう方にこそ見てほしいものが、ここにはありました。

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空海が「空海になった」山に、ロープウェイで登る

初日、太龍寺(たいりゅうじ)へ向かうロープウェイに乗りました。山を越えると、深い谷と、その向こうに山並みが広がる。あの下り、しばらく声が出なかったです。

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この太龍寺のある山が、今回の旅でいちばん「史料の固い」場所でした。

どのくらい固いかというと、国が編纂した正史に載っています。

『続日本後紀』の承和2年(835年)、空海が亡くなったときの記事にこうあります。

攀躋阿波國大瀧之嶽 観念土左國室戸之崎
(阿波国の大瀧の嶽によじ登り、土佐国の室戸の崎で観念した)

空海本人が24歳で書いた『三教指帰(さんごうしいき)』にも、同じ場所が出てきます。ここで空海が修めたのが虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)――真言を百万遍唱えるという荒行です。

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この「大瀧嶽」が、いまの太龍寺山と考えられている。エリートコースを捨てた無名の青年が、都から遠く離れたこの山で、限界まで自分を追い込んだ。

そして山号の「舎心(しゃしん)」は、その修行の場所から。寺の名前の「太龍」は、修行中の空海を岩の上で守ったという龍神から来ています。

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大師堂・御廟の橋・拝殿・御廟という並びが高野山の奥の院と同じで、だから「西の高野」と呼ばれる。四国八十八ヶ所の中でも「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と言われる難所です。

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そして、この寺の縁起に「国生み」が書いてあった

ここからが、きーちゃんが本当に驚いたところです。

太龍寺には『舎心山太龍寺縁起』という古い縁起が伝わっていて、江戸時代の一大叢書『群書類従』にも収められています。天長2年(825年)の日付が入っている文書です。

で、その中身を読むと――国生み神話が書いてあるんです。

つぎに伊与産む二名州あり、一身四面あり、一に愛比売と言い、これ与州なり、二に飯依比古と言い、これ讃岐国なり、三に大宜都比売と言い これ阿波国なり、四に建依別と言い、これ土佐州なり

『古事記』を読んだことのある方なら、見覚えがあると思います。伊予之二名島(=四国)は、ひとつの体に四つの顔を持っていたという、あの箇所です。

お寺の縁起に、記紀の国生みが。しかも「阿波は大宜都比売」と、はっきり。

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正直に書くと、この縁起がいつ、誰の手で今の形になったのかまでは、きーちゃんにはまだ言えません。縁起というのは、そのお寺が自分を語るために書かれるものなので、そのまま史実として読むわけにはいかない。

でも――お寺が自分の由来を語るときに、記紀の国生みを持ち出したという事実そのものが、もう十分に面白いと思いませんか。

ちなみにこの縁起には、もっと踏み込んだ記述もあります。それは、当日に。

青いシートと、測量ポールと、まん丸の石

2日目、ある場所で足が止まりました。

多良古墳群の発掘現場です。青いシートがかけられて、測量ポールが立っていて、まさに掘っている真っ最中でした。

ここ、いま何が起きているかというと――

海陽町の高速道路の建設予定地で、海部郡内では初となる前方後円墳が1基、そして円墳が4基見つかったんです。

町の職員さんが立体地図を見ていて気づいたのが去年の9月。県などが去年12月から今年4月にかけて試掘調査をして、県は「前方後円墳の空白地域に発見された、国史跡の指定を検討すべき重要な遺跡」と判断しました。

数字も出ています。

・1号墳(前方後円墳)は全長50メートル。前方部は1段、後円部は2段築成
・2〜5号墳の円墳は直径12〜16メートル
・築造は古墳時代前期、4世紀の中頃から後期とみられる
・徳島県内で確認された前方後円墳としては16例目
・時期はヤマト王権の勢力拡大期にあたり、地方豪族など有力者の墓の可能性そして、きーちゃんが現地で足を止めた理由が、これです。

副葬品はまだ出ていない。でも、葺石(ふきいし)がゴロゴロしている。

葺石というのは、古墳の表面を覆っていた石のこと。それをよく見たら――まん丸なんです。

角のとれた、つるっとした石。山から剥がしてきた石なら、角ばっています。丸くなるのは、水に長いこと転がされた石。つまり川原の石です。

県の発表にもこう書かれていました。1号墳と2号墳の葺石は同じ種類の川原石が使われていて、施工方法も似ており、密接な関係がうかがえる、と。

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出土品はゼロ。文字も何もない。それでも、石ころひとつが「誰かがここまで運んだ」と語っている。

調査に協力した徳島文理大の大久保徹也教授(考古学)は、こうコメントしています。

紀伊水道を中心とする太平洋側の交易ルートについて考えるための重要な材料になる

海の道。そう考えると、川原の丸い石が海辺の古墳を覆っている光景の意味も、少し変わってきます。

そして、ここからが少し切ない話です。

県は高速道路事業の事務所に1号墳と2号墳の保存を要請し、事務所は道路計画を一部見直すそうです。

でも、3〜5号墳は、調査をして記録を残したうえで取り壊す見通しなんです。

古代って、本の中で完成しているものだと思っていました。でもここでは、まだ地面の下にあって、いままさに出てきている途中で――そして一部は、記録だけを残して消えていく。

教科書に載る前の古代が、目の前にありました。

「ここまでは言える。ここからは言い過ぎ」

今回の2日間、案内してくださったのが、ぐーたらさんという方です。

阿波の古代史を、それはもう膨大に調べておられる方なんですが、2日間ずっと、こう言い続けていました。

「ここまでは言える。ここからは言い過ぎ」

これ、きーちゃんはすごいことだと思っていて。

阿波の古代史って、話が大きくなりやすいジャンルなんです。
だからこそ「言えること」と「言い過ぎ」の線を、その場で引いてくれる人と歩けるのは、ものすごく安心なんですよね。

盛らない。でも、面白いところはちゃんと面白い。このバランスで案内してくれる人、そういないと思います。

ちなみにぐーたらさんは、ネット上に顔をいっさい出していません。つまり――現地でしか会えない人です。
宍喰の八坂神社は「日本三祇園」のひとつだった

神社もいくつも回りました。

なかでも驚いたのが、宍喰(ししくい)の八坂神社です。

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八坂神社といえば、蘇民将来(そみんしょうらい)。茅の輪くぐりの由来として語られる、あの話です。原典は『備後国風土記』の逸文(『釈日本紀』に引かれています)。

貧しい兄の蘇民将来が、旅の神を泊めてもてなした。数年後に神が戻ってきて言う――「茅の輪をもって、腰の上に着けしめよ」。その通りにした者だけが助かり、神はこう名乗ります。「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり」と。

で、ここからが本題です。

京都の祇園社、備後・鞆の祇園社、そして宍喰の八坂神社。この三つを「日本三祇園」と呼ぶんだそうです。

京都と、備後と、徳島の南の海辺の町。この並びだけで、ちょっと座り直しませんか。

さらに驚いたのが、こんな記録が残っていること。

江戸時代の文化14年(1817年)、幕府が全国に『諸国風俗問状』という調査票を配りました。各地の風習を書いて出せ、という国の調査です。阿波から返ってきた答書に、こう書かれています。

当所之儀は八月朔日に雛祭仕、三月には祭不申候
(この土地では八月一日に雛祭りをします。三月には祭りをしません)

三月に、雛祭りをしない土地。

理由は、須佐之男命への配慮ではないか――という説があるそうです。男の節句が終わってから、と。

伝承が話として残っているだけじゃなくて、200年前の国の調査に「うちは違います」と答えている。この手触りが、きーちゃんはたまらなかったです。

海を統べた王と、奈良時代の史料に出てくる海辺

この宍喰のあたりには、鷲住王(わしずみおう)という人物の話も伝わっています。

系譜をたどると、景行天皇――神櫛別命――と続いて、鷲住王。讃岐国造の祖とされる人で、海部(あまべ)を統括したと伝わります。

「海部」というのは、まさにこのあたりの郡の名前(海部郡)でもあります。

そしてもうひとつ。この一帯の地名は、奈良時代の史料に出てきます。

『播磨国風土記』――和銅6年(713年)ごろの成立です。その美嚢郡の条に、履中天皇が「阿波国の和那散(わなさ)」で食べたしじみ貝の話が載っている。天皇が「この貝は阿波国の和那散で我が食した貝である」と言った、と。

さらに『阿波国風土記』の逸文には、こんな地名の由来が。

奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部は波をば奈と云ふ

波の音が止まない浦だから、奈佐。海の民は、波のことを「ナ」と呼んだから。

……1300年前の本に、いま自分が立っている海辺の名前が載っている。しかもその由来が「波の音」。

こういうのに弱いんです、きーちゃんは。

ごはんが、ずるい

これは書かないと不公平なので書きます。

ごはんが、ずるいくらい美味しかったです。

会席のお膳と、鯛のあら煮。古代史の話をしにきたはずなのに、いちばん写真を撮っていたのが料理でした。

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すだちのサイダーも美味しかった。夏にちょうど良い甘さと爽やかで汗だくの体に沁みました!

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最後に立った山と、持ち帰った宿題

最終日、津峯山(つのみねさん)の上に立ちました。標高284メートル。日峰山・中津峰山とともに阿波三峰のひとつに数えられる山です。眼下に橘湾と、島がいくつも浮かんでいる。

ここに津峯神社があります。

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で、この神社の祭神を聞いて、きーちゃんは固まりました。

賀志波比売(かしわひめ)。

……聞いたこと、ありますか?

きーちゃんは無かったです。それもそのはずで、この神さま、『古事記』にも『日本書紀』にも出てこないんです。

でも――『延喜式神名帳』には、載っている。

延喜式というのは、平安時代の延長5年(927年)にまとめられた、国の法典です。その中に全国の神社リストがあって、そこに「賀志波比売神社 阿波国 那賀郡」と、はっきり記されている。

つまりこの神さまは、国が公式に把握していた神さまなんです。記紀には名前がないのに。

由緒書によると、創立は神亀元年(724年)。聖武天皇の御代に、神託によって祀られたとあります。ご神徳は延命長寿。そして、こんな一文が書かれていました。

賀志波比売大神は延命長寿を司り、一日に一人の生命をお助け下さる

一日に、一人。

なんでしょうね、この静かな数え方。

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誰が、いつ、どういう思いでこの神さまをここに置いたのか。なぜ記紀は、この神さまの名を書かなかったのか。

まだ答えは出ていません。というより、いま調べている最中です。

ただ――ひとつだけ、白状します。

この神さまの正体について、近くのある神社の由緒書に、はっとする一行が書かれていました。読んだとき、声が出ました。

それが何かは、10月に、現地で。

そこに立って、海を見ながら聞いてほしいからです。

みなみ阿波、知られてないのがもったいない

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

正史に載る空海の山。国生みを語るお寺の縁起。まだ掘っている途中の古墳と、運ばれてきた川原の丸い石。日本三祇園のひとつと、三月に雛祭りをしない土地。1300年前の本に出てくる海辺。そして、記紀にいない神さま。

2日間で見たものを並べてみると、ひとつひとつは、地味なんです。派手な金印が出たわけでもないし、教科書が書き換わったわけでもない。

でも、点として見ると地味な場所が、2日かけて線でつないでいくと、まったく違う顔になる。

日本の神話は、記紀に書かれたぶんだけじゃない。

書かれなかった神さまが、まだ山の上に立っている。それを見に行ける場所が、この国にはまだ残っている。

みなみ阿波、知られてないのがもったいないです。

最後にひとつだけ。

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10月31日(土)と11月1日(日)の2日間、このみなみ阿波を、ぐーたらさんと一緒に歩くツアーをやります。

募集は9月から。詳しいことは、そのときにあらためてお知らせします。

「ここまでは言える。ここからは言い過ぎ」を教えてくれる人と歩く2日間。

賀志波比売の答え合わせも、そこで。

気になった方は、9月まで少しだけ待っていてください。

弥栄!

2026年8月1日土曜日

モーリタニアに富をもたらした男!中村氏とタコが結んだ感動の絆https://youtu.be/pjs5osjFD3M?si=GgqyTvd7ekAiUN0H

【スーツvsどこにでも行くドスコイ】日本三大暴れ川!四国の経済を支えた大動脈・吉野川【奥徳島】 自分は最近徳島にハマっていてここ2年で3回徳島に行きました。徳島線は何度もお世話になりました。 本数が少ないとプレミアム感はありますがスケジュールに余裕がないときは焦りますね。 ところで邪馬台国阿波説はご存知ですか?youtubeでも一部で盛り上がっています。 古事記の舞台、皇室の起源も徳島という説があります。壬申の乱の舞台も徳島の吉野川と考えると腑に落ちる点が多々あります。 高校野球の池田高校、剣山、ラーメン、各時代いろいろ魅力的なものがあります。今祖谷は外人に人気らしいです。ちなみに祖谷は元々渡来系の人が多く美人が多いそうです。縄文人だけで日本が成り立っているわけはないのだから当たり前の話ですが。実はシーツさんの祖先も高貴な生まれなのではないでしょうか?

古代ギリシャの紋章と鎧は『イリアス』で全面に展示されています。ナショナルジオグラフィック

古代ギリシャの紋章と鎧は『イリアス』で全面に展示されています。ナショナルジオグラフィック

古代ギリシャの紋章と鎧は『イリアス』で全面に展示されています。ナショナルジオグラフィック

男性が別の男性を刺す絵画

アテナに導かれ、アキレスはヘクターに致命的な一撃を加え、彼の槍をトロイの喉に突き刺した。ペーター・ポール・ルーベンス作、約1630年、フランス・ポー美術館

ブリッジマン /ACI

武器と鎧 

最良の推定によれば、イリアスは紀元前750年から700年頃に編纂されたとされていますが、この最終作はホメロス以前の世代の詩人による少なくとも5世紀にわたる口承の物語に続いて行われました。詩へと頂点に達した叙事的伝統は、青銅器時代に深く根ざしており、当時の社会が銅錫合金で作られた物品を製作したり取引したりしていたため、青銅器時代に深く根ざしていました。これは、農業用および作業用具、家庭用品、宝飾品、祭祀用品、そして戦争用武器の生産を革命的に変えた大規模な技術的進歩でした。

青銅は銅よりも硬く、実際に鉄よりも硬く、木製の軸に刺された青銅製の槍、青銅製の先端の矢、そして青銅の斬撃剣や突き出す剣は、計り知れないほどの有用性、威信、価値を有する対象でした。同様に、青銅の鎧――頭部用のヘルメット、体用の盾と胸当て、すね用の帯――は、戦場で遭遇する青銅製の硬い武器に対する防御の最良の機会であった。(この3,500年もの青銅製の手は、ヨーロッパで最も古い金属製の本体部品です。)

小さな四角形を結んだヘルメット

トロイの王子ヘクターは『イリアス』にいくつかの呼称があり、その中には彼の「輝く兜」を表すものも含まれています。ミュケナイ...

DEA/アルバム

紀元前16世紀の2つの精巧な金細工ミュケナイの短剣は、左側にライオン狩りと海洋モチーフ(ri...)を示しています。

DEA/SCALA, フィレンツェ

その主題を考えると、『イリアス』において他のいかなる対象物よりも、武器や武装の記述がより詳細であることは驚くべきことではありません。記述されたすべての武器の中で、叙事詩において二組の鎧を持つアキレスの鎧に匹敵するものはありません。それぞれが比類なき存在であり、彼の戦争への関与の二つの明確な段階に対応しています。まず、ギリシャ人にとって最も恐ろしいほど効果的な戦闘員として、次に、彼が戦闘から撤退し、戦闘の戦利品を没収した最高司令官アガメムノンに対し、ブリセイスという名の女性を退くとき、アキレスは彼女を愛していると主張している。

女神テティスと人間の王ペレウスの子であるアキレスは、神を宿す半神であり、神の血やイコルが流れない他の英雄たちよりも上位に位置する存在です。しかし、彼らと同様に、彼は死すべき存在です。それにもかかわらず、彼のオリンピアの神々との親しい関係は、彼に利点をもたらします。彼の母親は神々の王ゼウスに直接接することができ、息子のために彼に恩恵を求めることができ、祈りを捧げる通常の手段を回避できます。

戦場において、アキレスは他に類を見ない装備を備えています。神の神ポセイドンから父親への結婚の贈り物である彼の神聖な戦馬は、西風によって誕生しました。彼のトレードマークであるアッシュウッドの槍は、他のどの英雄も十分に強くは持ちこないが、ケンタウロス・シロンから父親への結婚祝いの贈り物でした。彼は「驚くべき鎧、見事の驚異、/ 美しさのもの;神々がペレウスに与えた鎧」を所有しています(Il.)18.83-84)、また別の結婚祝いの贈り物です。

最も注目すべきは、アキレスが運命の選択を持っているようで、その運命は仲間が彼の宿舎にやって来て、戦闘に戻るよう懇願したときに明らかになるということです。アキレスは拒否し、重要な演説で、帰還すれば命を失うことになると知っていると宣言した:

母が言うには、女神テティスです。
銀の足の 
二つの運命が私を死の最後まで運ぶ;
もし私がここに残って、街の周りで戦うのであれば 
トロイ人
私の帰路は失われましたが、私の栄光は 
不滅;
しかし、もし私が父の愛する土地へ帰るなら、 
卓越した栄光は私にとって失われますが、私の
人生は長くなるでしょう。(Il.9.410-45)

したがって、ペレウスがアキレスに与えた鎧は放置されており、彼の不在のために、戦闘の潮流はホムラーがアカイア人と呼ぶギリシャ人に向けられます。やがて、パトロクロスはアキレスに対し、特有の鎧を借りようと必死かつ致命的な要請をします――「あなたを自分に例に例うトロイ人が戦闘を控え、アカイア人の戦士の息子たちが息を吸い込む」ことを望んだ(Il.)16.40-43)アキレスは渋々、親しい友人の嘆願に応じます。アキレスの象徴的な鎧を身に着け、パトロクロスはトロイと戦いに出発します。(ホメロスの『イリアス』は、戦争に関する永遠の教訓を含んでいます。

パトロクロスの英雄的行為は、アカイア人にとって望ましい安息をもたらすと同時に、彼自身の死ももたらし、これはトロイ人の不屈のチャンピオンである神アポロによって大いに助長された。

濃い霧の中で漂うアポロは彼に出会った。 
それから後ろに立ち、背中を叩き、 
パトロクロスの広い肩 
手の平らな手で、目が回転するほどに。 
彼の頭から、フィーバス・アポロがヘルメットを叩きました。 
そして、馬の蹄の下で転がりながら、それが鳴り響く 
響き渡る 
四本角で、空洞の目の馬毛 
紋章が汚されました 
血と塵とともに以前は 
それは禁じられています 
馬毛の冠を持つヘルメットは...によって汚される 
ほこり, 
それはハンサムな頭部を保護したからです 
神のような男の眉 
アキレス;しかし、今、ゼウスはそれをヘクトルに渡しました。 
彼の頭に身に着けること;しかし彼自身の死は 
非常に近いです。 
パトロクロスの手の中で、長く影が覆う槍は完全に 
粉砕された 
重く、巨大で、力強く、青銅で尖っている; 
彼の肩から 
彼の縁取りされた盾とベルトは...に落ちました 
地面; 
それから、ゼウスの息子であるアポロ様は、胸当てをはがしました。 
混乱が彼の機転を奪い、光り輝く四肢を奪った 
彼の下で解放された
パトロクロスは呆然として立っていた。彼の後ろで、彼の 
背中、肩の間、
トロイの男が鋭い槍で打たれた 
近距離で(Il.16.790-807)

ある男性が別の男性の傷を結びつけている絵

紀元前6世紀の飲料カップで、アキレスがパトロクロスの傷を縛る様子を描いた。ベルリン州立博物館

スカラ、フィレンツェ

まず神に、次にトロイの男に打たれたパトロイ人に襲われ、完全に無防備な状態となったパトロクロスは撤退を試みますが、ヘクターに捕らえられ殺されます。ヘクターは死者を横取り、鎧をはぎ取ります。この偉大な賞を巡ってアカイア人とトロイ人の間で激しい争いが繰り広げられ、やがてトロイ人が勝利した。ヘクターはアキレスの鎧を自分の鎧とすぐに交換します――それは傲慢な行為であり、オリンポスの高みから見守っているゼウスが不承認の頭を振る原因となります。

新しい鎧のセット 

アカイアンのキャンプに戻り、アキレスはパトロクロスの死を知ります。瞬時に彼のアガメムノンに対する怒りは消え去り、彼は亡くなった友人への悲しみとヘクターへの怒りに満たされます。復讐に燃え、彼は戦闘に戻ると宣言し、女神の母に新しい鎧を入手するようお願いした。この要請により、アキレスはかつて避けようとしていた運命――早死へと不可避的に導く道へ、決定的な一歩を踏み出す。

戦場での戦闘は止まり、叙事詩は母テティスが神々のための鍛冶師ヘファイストスの神聖な工房へとたどります。賑やかな魔法の工房で、偉大なる鐘楼と巧妙な機械の従者たちがいる中で、ヘファイストスはアキレスの華麗な新しい鎧を鍛えております。歴史上最も勤勉な母親10名をご紹介します。

男性が別の男性に盾を渡す絵

アキレスの第二の鎧は、左のヘファエストス神によって彼のために作られました。ヘファイストスは、戦士の母である女神テティス(右)に盾、兜、護身、胸当てを贈呈しました。ポンペイのフレスコ画、紀元1世紀頃国立考古学...

エリック・レッシング/アルバム

その創造により、アキレスは自らの人生において画期的な境界線を越える。彼の母親が彼の保護のために懇願した鎧は、実は彼の死が近づくことの証です。これらすべてはヘパイストスに知られています。彼は、凡人がこれまでに身に着けた中で最も華麗な鎧を創り出すでしょう。しかし、アキレスの母に語るように、それは彼女の息子の命を救うものではありません。

私が彼を確実に隠すことができたら
死から離れ、
それは厳しい悲しみです。
恐ろしい運命が彼に降りかかるとき、
彼は、たとえば、素晴らしい鎧を持つことになるでしょう
多くの男性
来るであろう多くの人々の中で、驚嘆の的でしょう。
見る人は誰でも。(Il.18.464-467)

ヘファイストスは、すべての技術を仕事に注ぎ込み、壮麗な兜、胸当て、そしてグリーブを創り出しますが、彼の傑作は盾です:

[A]そしてそれについて
彼は多くの天才を知っていることで多くのことをしました
精巧なデザイン。
それの上に、彼は大地と天を創造した。
そして海、
そして、衰えない太陽と衰える月、
そして、それにはすべての驚異がありました
天国は鳴っている(Il.18.482-485)

それにも、シテとその中の生活、結婚式、助言、羊飼いとその群れ、農場、そしてブドウ畑の描写が描かれています。要するに、アキレスが戦争に携わる盾は、彼がすぐに失うことになるさまざまな命をすべて覆っています。

金色の精巧な盾

イリアス書第18巻では、神ヘフェウストスが母テティスの要請によりアキレスのために壮麗な盾を作った方法が語られています。それは、詩が詳細に描写している多数のシーンで装飾されていました。この詩の一節は、lat...の基礎となりました。

ブリッジマン/ACI

再びトロイの平原に足を踏み入れたアキレスは、戦闘の激しい一帯を切り裂き、運命によりパトロクロスから脱がした鎧を身に着けたヘクターと対面するまで。ヘクターがアキレスが近づくのを見守ると、勇気が砕け、彼は一瞬だけ鎧を脇に置き、裸のままでアキレスに条件を申し出ようと考えますが、この空想は過ぎ去り、兄に変装したアテナに後をかされ、ヘクターは戦うために立ち向かいます。

2026年7月31日金曜日

James Stagg - ウィキペディア

James Stagg - ウィキペディア

D-Day の天気

1944年6月のノルマンディー上陸計画者は、まず潮汐、時刻、月相の特定の重なりに焦点を当てました――これらの条件は、各月の数日だけで満足できるものでした。満月は望ましいものの必須ではありませんが、航空機のパイロットや空中隊員にとって最適な照明を提供し、最高の潮位をもたらすでしょう。プランナーは、潮が満ちる中間、潮が満ちる時間帯に、夜明け直前の着陸地点を配置しました。これにより、ビーチ上の障害物の視認性が向上し、男性が露出した状態で過ごす時間を最小限に抑えることができます。[12]アイゼンハワーは、襲撃の日付として暫定的に6月5日を選びました。[13]しかし、6月3日13時に、21歳のモーリーン・フラヴィン・スウィーニーは、大西洋を越えてヨーロッパに接近する激しい嵐を最初に予測しました。第二次世界大戦中のアイルランドの公式な中立にもかかわらず、アイルランド気象局が収集した情報は連合国と共有されました。スウィーニー夫人は、スタッグ事務所から、再度測定値を確認するよう依頼する電話を受けました。彼女はテストを再実施し、結果を確認しました。[14]

スタッグは6月4日の夕方にアイゼンハワーと会いました。スウィーニーの予報データを用いて、彼と気象チームは天候が6月6日に侵攻が進行するのに十分に改善すると予測しました。[15]必要な潮汐条件(ただし望ましい満月がない)が満たされた次の利用可能な日程は、2週間後の6月18日から20日までとなります。侵攻の延期は、すでに海峡を横断できる位置にある兵士や船舶を呼び戻す必要があり、また、枢軸国の情報機関が侵略計画を検知する可能性が高まるだろう。[16]他の上級指揮官たちと多くの協議を行った結果、アイゼンハワーは侵攻を6日に進めることに決めました。[17]6月19日から22日にかけて、ノルマンディー海岸で大規模な嵐が襲い、ビーチ上陸は不可能になるであろう。[13]

連合国の大西洋支配は、北大西洋気象戦争において、連合国の気象学者に嵐予測において優位性を与えました。[18]パリにあるルフトヴァッフェ気象センターが2週間の嵐を予測したように、多くのドイツ軍司令官はレンヌでの戦闘競技に参加するために職務を離れ、多くの部隊の兵士は休暇を与えられました。[19]ドイツの司令官エルヴィン・ロンメル元帥は、妻の誕生日を祝うと同時に、ヒトラーと会うために、より多くの装甲車を入手しようとドイツへ帰国した。[20]

D-Day期間における彼の計り知れない奉仕に対し、スタッグは1945年10月に米国功労軍団の将校に任命されました。[21]

2026年7月30日木曜日

アキレウス - Wikipedia

ギリシャ青銅器時代の伝説の防具、叙事詩に描かれた物語 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト

ギリシャ青銅器時代の伝説の防具、叙事詩に描かれた物語 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
 アキレウスは、並外れた装備に恵まれていた。神ポセイドンから贈られた軍馬、ケンタウロスのケイローンから贈られたトネリコの槍、そして「神々がペレウスに与えた防具」(『イーリアス』第18巻84行目)を持っていた。(参考記事:「怪物ミノタウロスが古代の人々を魅了したのはなぜ?」
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/21/022400090/

ギリシャ青銅器時代の伝説の防具、叙事詩に描かれた物語

ホメロスが叙事詩『イーリアス』に込めたメッセージを読み解く

「コリント式」と呼ばれる古代ギリシャの兜。紀元前5世紀。独ミュンヘン、州立古代美術博物館。(PETER HORREE/ALAMY)

「コリント式」と呼ばれる古代ギリシャの兜。紀元前5世紀。独ミュンヘン、州立古代美術博物館。(PETER HORREE/ALAMY)

 トロイア戦争を描いた古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』。数々の戦闘シーンが登場するが、クライマックスはギリシャのアキレウス、トロイアのヘクトールによる壮絶な一騎打ちだ。

 この二人は性格こそまるで違うものの、共通点もいくつかある。まずはどちらも王族の生まれだ。アキレウスは女神テティスとテッサリアの王ペレウスの息子であり、ヘクトールはトロイアの王と王妃の間に生まれた。そしてどちらも若く優れた戦士であり、それぞれに異なる意味において高潔だった。

 最後の決闘はまた、双方にとって個人的な戦いともなった。アキレウスはトロイア側に壊滅的な打撃を与え、ヘクトールの兄弟や義理の兄弟の命を奪った。一方のヘクトールは、アキレウスのいちばんの友であるパトロクロスを殺している。

 そして意外な共通点は、決闘時、二人はともにアキレウスの傑出した防具一式を身につけていたことだ。ヘクトールがどんななりゆきからこの防具を身につけたのか、その結果どうなったのかは、『イーリアス』全編の中でもとりわけドラマチックな物語となっている。

アテナに導かれ、ヘクトールののどに槍を突き刺して致命傷を与えるアキレウス。ピーテル・パウル・ルーベンス作。1630年頃。仏ポー、ポー美術館。(BRIDGEMAN /ACI)

アテナに導かれ、ヘクトールののどに槍を突き刺して致命傷を与えるアキレウス。ピーテル・パウル・ルーベンス作。1630年頃。仏ポー、ポー美術館。(BRIDGEMAN /ACI)

アキレウスの防具と親友の死

 トロイア戦争の原因は、ギリシャの都市スパルタの美しい女王ヘレネーと、現在のトルコにあったとされる王国トロイアの王子で、ヘクトールの弟であるパリスが駆け落ちしたことだ。叙事詩『イーリアス』は、二人の結婚からすでに10年がたった時点から始まる。『イーリアス』で焦点があてられるのは、戦争そのものだ。

『イーリアス』は、紀元前750〜700年頃にホメロスが最終的な形に整えたものと考えられているが、そこに至るまで、500年以上にわたり何世代もの詩人たちが口伝してきた。つまりこの詩にうたわれている壮大な伝説は、青銅器時代にルーツを持つことになる。

 青銅器は、当時の社会にとって大きな技術的進歩であり、農機具、家庭用品、宝飾品、宗教関係の品々、そして戦争のための武器に革命をもたらした。青銅の穂先をつけた槍、青銅の矢じりをつけた矢、青銅製の剣といった武器が価値を高めるとともに、青銅製の防具(兜や鎧)は、敵から身を守る最良の手段となった。

トルコ北西部にあるトロイアの遺跡。長年の間にこの場所にはいくつかの都市が建設されており、写真の建造物は古代ギリシャ・ローマの時代に建てられたもの。(IMAGES & STORIES/ALAMY/ACI)

トルコ北西部にあるトロイアの遺跡。長年の間にこの場所にはいくつかの都市が建設されており、写真の建造物は古代ギリシャ・ローマの時代に建てられたもの。(IMAGES & STORIES/ALAMY/ACI)

 戦争を主題とした『イーリアス』に、兵器や武器についての詳細な記述が多いのは当然だろう。ここで描写されているさまざまな武器の中でも、特筆すべきはアキレウスの防具だ。

 アキレウスはこの叙事詩のなかでふた揃いの防具を手にしており、それぞれこの戦争の二つの局面で登場する。

 戦場で活躍していたアキレウスは、ある時、ブリセイスという名の女性を奪った司令官アガメムノンに激怒して、戦場に出ることをやめてしまった。

 アキレウスは、並外れた装備に恵まれていた。神ポセイドンから贈られた軍馬、ケンタウロスのケイローンから贈られたトネリコの槍、そして「神々がペレウスに与えた防具」(『イーリアス』第18巻84行目)を持っていた。(参考記事:「怪物ミノタウロスが古代の人々を魅了したのはなぜ?」

トロイアの王子ヘクトールは叙事詩『イーリアス』の中でいくつかの異名で呼ばれており、そのうちの一つが「きらめく兜」というもの。写真は紀元前16世紀のミケーネ人(アカイア人)の兜。アテネ国立考古学博物館。(DEA/ALBUM)

トロイアの王子ヘクトールは叙事詩『イーリアス』の中でいくつかの異名で呼ばれており、そのうちの一つが「きらめく兜」というもの。写真は紀元前16世紀のミケーネ人(アカイア人)の兜。アテネ国立考古学博物館。(DEA/ALBUM)

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