『日本誕生』(1959)予告篇 /【東宝名画座】で本編配信中
https://youtu.be/rAYKNmMUDeo?si=0FHoqNKPMtmKsuMa
https://dl.ndl.go.jp/pid/2966686/1/3
https://x.com/ayanakajima3/status/2058485621476192581?s=61
静岡県出身。旧姓木村、幼名政次。前名木村祖教。1930年国学院大学卒。大倉精神文化研究所所員、国民精神文化研究所嘱託、神社本庁教学部長・同常任講師、母校教授歴任[1]。
論証の方針 確実な事実/有力な推測/推測の三段階を常に区別する。使用する証拠はすべて「阿波説」とは無関係に書かれた主流研究者の論文・報告書・公的機関の資料に基づく。結論を先に持つのではなく、証拠が向かう方向を素直に読む試みである。
キーワード:邪馬台国 どこ/邪馬台国 阿波説/邪馬台国 四国説/纒向遺跡 謎/卑弥呼 祭祀/卑弥呼 墓/小型丸底鉢/東阿波型土器/萩原墳墓群/東瀬戸内 弥生時代
阿波に語り継がれてきた言葉がある。
「阿波で千年、京で千年」
この伝承を採録した岩利大閑(『道は阿波より始まる』1985年)は、そのあとがきで由来を明かしている——徳島藩士系の複数の家々から聞き取った口伝として記録したと(確実)。ただし伝承がいつから語り継がれてきたかは確認できていない(留保)。
伝承の真偽を問うことは本稿の目的ではない。問いはこうだ——なぜこのような伝承が生まれたのか。
考古学的物証・文献・制度記録を積み重ねると、この伝承が指し示す方向と、証拠群が向かう方向が一致していることがわかる。本稿はその収束を示す試みである。
栗林誠治(論集徳島の考古学)は「阿波における前方後円墳の廃絶」を論じた論文の末尾で、自らの研究傾向を振り返りこう述べた——「古墳時代を理解する上で畿内との関係のみに目が奪われたり、畿内からの影響を重視しすぎる傾向がある。今回検討したのは反省するよい機会となった」(確実)。「阿波説」とは無関係に書かれた主流研究者自身が、畿内中心という枠組みの過剰依存を認識した——この記録は、本稿が「証拠が向かう方向を素直に読む」という方針を採用する根拠でもある。
646年(大化2年)、孝徳天皇は「薄葬令」を発布した。古墳の規模を身分に応じて制限し、豪族が競って巨大な古墳を築いてきた慣習に初めて法的な歯止めをかけた法令だ(確実)。
殉死・馬の殉葬・副葬品——権力者が死後に権威を誇示するためのあらゆる手段が、この法令によって禁じられた。古墳時代は事実上、ここで終わりを告げる。
一つの問いを立てたい。豪族の過剰な権威付けを禁じるだけの政治的権威は、どこから来たのか。通説は「孝徳天皇が難波宮で発布した」で終わる。しかし「なぜその権威が成立したのか」「その精神的基盤はどこにあったのか」という問いに、通説は答えていない。
この問いへの答えが、考古学の発掘成果の中にある。
栗林誠治(論集徳島の考古学)は阿波の古墳時代の特徴として二点を明記している。
第一に、「古墳時代中期後半〜後期前半にかけての所謂『首長墳』の存在自体が空白といえよう」——権威を誇示する大型首長墓がこの時期に事実上存在しない(確実)。第二に、「他地域に比べて前方後円墳の廃絶が時期的に早いというのが阿波における古墳時代の特徴である」(確実)。
なぜ廃絶が早いのか。栗林はその理由を次のように説明する——「新たに前方後円墳を築造してまで地域内の調整行為を行う必要がないほど安定した地域では、最大規模の前方後円墳(広域首長墳)を最後に廃絶する。こうした地域の一つに阿波が該当する」(確実)。
さらに栗林は廃絶の機制を「各地域内における調整行為の安定的状況から在地首長層間で『自主規制』が働いたと捉える事が出来る」と述べ、外部からの強制だけでなく内発的な安定の結果として解釈している(確実)。「大王権」による「古墳築造規制」と在地首長層の「自主規制」という二重構造——その「自主規制」の側の代表例として阿波が位置づけられている。
646年の薄葬令は外からの制度化だが、その精神的基盤は阿波の在地首長層間ですでに「自主規制」として機能していた——この解釈を、「阿波説」とは無関係に書かれた主流研究者の言葉が支持する(有力)。
早渕隆人(論集徳島の考古学)は観音寺遺跡(徳島県)の分析で重要な事実を明らかにした。律令制(701年)が始まるより前の7世紀中頃、阿波の在地祭祀の中にすでに律令的な祭祀と同系譜のものが存在していた。著者自身が「律令的祭祀遺物が、その導入以前に在地の祭祀形態の中に求められることが明らかになった」と明言している(確実)。
人面墨書土器と大和型土馬は、律令制の普及とともに全国の遺跡から出土する祭祀具だ。しかしこれらが阿波では「全く出土していない」(早渕・確実)。全国に普及した祭祀体制を、阿波だけが構造的に受け入れなかった——これは「権威の過剰な可視化を必要としない」という古墳時代からの在地的価値観の延長として読める(有力)。
薄葬令(646年)と平城京遷都(710年)の間——7世紀後半——を見ると、阿波が制度と技術の両面で先行していたことがわかる。
650年頃、香川県三豊市の宗吉瓦窯が自律的に操業を開始した。694年、日本最初の本格的宮殿とされる藤原宮の建設に、約200kmという最遠距離から国内最大規模で供給している(確実)。中央が地方に技術を伝えたのではなく、逆だった。
689年には、阿波で評制が機能していたことを示す木簡が出土している。大宝律令(701年)より12年前——日本の律令制が始まるより先に、阿波はすでに新しい行政制度を実施していた(木原克司・論集徳島の考古学・確実)。
阿波の白鳳期の先進性が浮かび上がったところで、もう一つの問いを立てたい。藤原宮は本当に奈良にあったのか。
『藤原宮ー半世紀にわたる調査と研究ー』飛鳥資料館図録第13冊(1984年)が示す比定の根拠は三点だ。
根拠① 万葉集「藤原宮御井の歌」の情景に似ている——しかし「清水の湧き出すような井戸」は特定されていない。そもそも「藤原」という地名は奈良に存在しない。「藤原京」という名称自体が大正〜昭和初期の命名だ(確実)。
根拠② 出土瓦が白鳳期——しかし橿原市・奈良県立橿原考古学研究所著『藤原京100のなぞ』(2012年)が認める。「官衙地区(官庁街)、内裏ではほとんど瓦が出土せず、礎石建築も確認されていない」(確実)。同書はさらに「都市民が根付いた形跡が無い」「薬師寺論争——本薬師寺はあったのか」という問いを未解決として記録し、「藤原京の時代の戸籍がまったく残っていない」という事実も認めている(確実)。
根拠③ 年紀銘木簡の出土——「己亥年十月上捄国阿波評松里」(699年)の「上捄国」を安房国と読む通説への疑義が指摘されている(推測として提示)。
飛鳥時代(592〜710年)の宮の移動は頻繁で、118年間に主要な宮だけで10回以上移動している(確実)。天武天皇は683年、「都城宮室は一ヶ所だけということなく、必ず二、三ヶ所あるべきである」と詔している(日本書紀・確実)。複数の宮が同時並行で存在することを制度として想定していた。
万葉集最初期の歌——舒明天皇(飛鳥時代・629〜641年在位)の国見歌に「海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」という描写がある(万葉集 巻1・2番歌・確実)。奈良盆地の内陸から「海原に鴎」は見えない。飛鳥時代の「大和の国」という認識の中に海が含まれていた(有力)。
日本書紀を年表形式で読むと重要な事実が浮かぶ。
690年(持統4年)高市皇子、「藤原宮」地を観察
691年(持統5年)使者を遣わし「新益京」を鎮祭
692年(持統6年)天皇、「新益京」路を観察
692年 同年 難波王らを遣わし「藤原宮」地を鎮祭
692年 同年 天皇、「藤原宮」地を観察
694年(持統8年)「藤原宮」に遷居
「藤原宮」と「新益京」が、692年という同じ年に別の場所として同時進行で記録されている(確実)。天武天皇の「複数宮並存」の詔と合わせれば、両者が別の場所だった可能性は十分ある(有力)。
さらに704年の続日本紀には「始めて藤原宮の地を定む」という記述がある——意味不明として主流学界も認識している(確実)。
日本書紀・続日本紀という一次資料を比較すると、もう一つの重要な変化が見える。
書紀(飛鳥時代)は一貫して「吉野宮」と記す。しかし平城京遷都(710年)を境に、続日本紀では「芳野宮」「芳野離宮」「芳野監」へと完全に転換する(確実)。
「芳野監」は吉野郡を大和国から分立させた特別行政機関で、平城京遷都直後に設置され数十年で廃止された過渡期の機関だ(確実)。律令国家が飛鳥時代の「吉野」という祭祀的空間を制度的に再編した痕跡として読める(有力)。
通説の「吉野宮」比定地・宮滝遺跡(奈良県)の考古学的事実も注目される。持統天皇が31回行幸したⅠ期(天武・持統朝)の遺構は掘立柱建物2棟のみ。一方、聖武朝(Ⅱ期)には本格的宮殿建築・軒丸瓦・石敷き溝が集中する(確実)。31回行幸した場所の遺構が建物2棟に過ぎないという非対称性は、通説の比定に内在する未解決問題だ。
万葉集 巻1-36(柿本人麻呂)の「舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る」「水激る 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも」という描写——宮滝周辺に名勝としての滝は存在しない(確実)。一方、阿波・三好市三野町加茂野宮には龍頭の滝(20m)・金剛の滝(40m)が連なり「とくしま88景」に選定されている(確実)。ただし加茂野宮では飛鳥時代の宮殿遺構が考古学的に確認されていない(留保)。
否定的論証だけでなく、積極的な証拠もある。
2026年3月、奈良文化財研究所の公式報告書(清野孝之)の「藤原宮生産地一覧」に明確な記載がある(確実)。
グループK「讃岐宗吉瓦窯」——軒丸瓦・軒平瓦の複数型式
グループF「推定讃岐東部 or 阿波産」——軒丸瓦・軒平瓦の複数型式
日本最初の本格的都城とされる藤原宮の所用瓦が、讃岐・阿波から供給されていたことを奈文研が公式に認定した。グループFの「讃岐東部か阿波か」は現時点で確定していない(留保)。
さらに阿波説が藤原宮の比定地とする河辺寺跡(吉野川市鴨島町)には、藤氏神社・藤井寺(四国霊場第11番)・敷島神社が隣接し、藤原宮式瓦が出土している(確実)。同地域からは最古形式(III型)の蕨手刀も出土し、奈良・畿内からの出土はゼロだ(石井昌国1966年・確実)。「藤原」という地名が奈良に存在しない一方、鴨島町周辺には藤氏神社・藤井寺という「藤」を冠する地名・寺社が集中している(確実)。
なぜ阿波なのか。時代を遡って、その条件を確認しておきたい。
「阿波」という国名の前身は「粟国」だ。古代の徳島県北部は粟の産地だったために粟国と呼ばれ、713年の好字令で「阿波」に改められた(確実)。国名が穀物名に由来するということは、粟の生産がこの地の最大の特徴として古代国家に認識されていたことを意味する。
『古語拾遺』(807年)によれば、天富命が阿波の肥沃な土地に穀・麻の種を植え、阿波から移り住んだ人々が関東を開拓したことから安房国と名付けられたという(確実)。
吉野川は四国最大の河川で、上流まで勾配がなだらかで水上交通に使いやすい。河口部には広大な沖積平野が広がり、大規模農耕を可能にする。
吉野川流域(阿波)と讃岐平野は阿讃山脈を挟んで南北に隣接しており、縄文時代からサヌカイト(讃岐産の石器素材)が阿讃山脈を越えて流通していた(確実)。そして鳴門海峡・小鳴門海峡——瀬戸内海と太平洋を結ぶこの海峡は、古代において最も重要な航路の結節点の一つだった。
大祓詞の浄化経路を地形に重ねると、瀬織津比咩が住む「高山の頂から落下する速い川の瀬」は剣山から流れ下る吉野川と対応し(有力)、速開都比咩が住む「潮の八百道が一所に集まる場所」は鳴門海峡の渦潮と対応する(有力)。
加茂宮ノ前遺跡(那賀町)は縄文後期〜弥生前期の国内最大最古級の水銀朱(辰砂)生産・精製拠点だ(確実)。「阿波で千年」の起点は、この縄文後期にある。
三波川変成帯という地質構造が、愛媛県の別子銅山に連なる鉱山帯を徳島にも形成している(確実)。銅鐸の旧国別出土数で阿波は全国2位(42点)だ(確実)。吉野川流域産の結晶片岩(青石)は古代の建築・祭祀石材として広く使われた。4世紀初頭の大阪府高槻市・闘鶏山古墳の石室など複数の畿内古墳に阿波の青石が使われていたことが確認されている(確実)。
クスノキ巨木(幹周500cm以上)は徳島に110本・全国4位・四国断然最多(環境省データベース・確実)。奈良県の11本の10倍にあたるこの数字は、古代船材資源の豊富さを示す。
辰砂・銅・鉄・結晶片岩・麻・粟・クスノキ——これだけの資源が一地域に重なる。これが「資源大国」としての阿波の物質的基盤だ。
木島甚久(『日本漁業史論考』1944年)は「阿波・安曇族の勢力地であった」と記録している(確実)。安曇族は北部九州を発祥地とする古代最大の海人氏族で、その拡散ルートは「阿波→淡路→播磨→摂津→河内→近江」と複数文献が確認している(確実)。
このルートは東阿波型土器の搬出動線と同じ方向を向いている(有力)。延喜式(927年)が由加物の製作者として明記した「那賀郡の潜女(海人)十人」——律令制という制度の中に、古代から続く阿波の海人集団の存在が「化石」として刻まれている(確実)。
既出noteでは、阿讃の関与する記紀の広域ネットワークについて論考した。
卑弥呼の時代と阿波の関係については、既出のnote論考(記紀の広域ネットワークと考古学・各章)に詳しい。本稿では論点を絞って示す。
卑弥呼の時代(3世紀前半)に使われた最新の中国鏡——漢鏡7期——が板野郡に卓越して分布している(確実)。古墳時代前期には三角縁神獣鏡が奈良を中心に畿内に多数分布するが(奈良99面・確実)、畿内が鏡の中心となるその時代より先に、阿讃はすでに同時代最高の中国鏡を独自に入手していた。
森下章司(2023年)は「畿内からの配布ではない」と明言する。橋本達也(論集徳島の考古学)は「弥生終末期〜古墳前期の一時期に徳島の首長達が朝鮮半島との独自交流のルートをもっていた可能性が高い」と明言する(有力)。
萩原墳墓群(鳴門市)の積石木槨。調査者・菅原康夫自身が明言している——「ホケノ山古墳の石囲いは萩原墳墓の積石槨から発展した」「直接的関係をもつ地域は阿讃地域」(確実)。大和のホケノ山(纒向の最古層の古墳)は、阿波・讃岐の積石木槨の系譜から生まれた。
栗林誠治(論集徳島の考古学)は北條芳隆提唱の「讃岐型前方後円墳」の諸要素について明確に記録している——「これらの諸要素は萩原1号墓構築時を起点として採用され、香川県鶴尾神社4号墳の構築時点で基本形(埋葬様式)が確定した」(確実)。さらに「東四国における埋葬儀礼様式刷新の自立性を強調し」と述べており、前方後円墳様式の成立において東四国が主体的な役割を果たしたことを明示している(確実)。
山本三郎(論集徳島の考古学)は長大型竪穴式石室の最古例が西山谷2号墳(阿波)にあることを示し、調査者・菅原康夫がその編年上の位置づけを弥生終末から古墳最古期へ修正したと記録する(確実)。さらに讃岐の鶴尾神社4号墳石室が奈良・中山大塚古墳と「同じ技術手法」で築かれたことを山本自身が明言している(確実)。
積石木槨・長大型石室・石室技術・前方後円墳様式——複数の独立した系列が「阿讃から大和へ」という方向を示している。栗林がいう「相互作用」は確かに存在するが、その起点が阿讃にあったことを調査者自身の言葉が裏付けている。
栗林誠治(論集徳島の考古学)が作成した阿波の古墳分布と地域群の図(図4)を見ると、古墳の分布が吉野川という東西軸に沿って展開し、その東端——吉野川河口域北岸群・鳴門海峡群——が瀬戸内海への出口として機能していた地理的構造が視覚的に確認できる(確実)。
栗林は阿波の地域群を12に区分しており、その中核となるのが鮎喰川流域群と吉野川下流域南岸群——弥生後期〜古墳前期の中枢機能を果たしてきた地域だ(確実)。この分布は漢鏡7期の板野郡への集中・東阿波型土器の鮎喰川流域起点という弥生期の証拠と同一地域に重なる(確実)。
国指定史跡・鳴門板野古墳群の公式解説は「前方後円墳の成立に阿波地域が大きく関わっていることが明らかになった」と明記している(確実)。讃岐では大久保徹也(徳島文理大教授)の分析によれば古墳造営最初期の前方後円墳が約70基存在し、「多数の首長が横並びで水平的連合体を形成していた様子がうかがえる」という(確実)。
ただし留保を明示する。徳島県立博物館の整理によれば「徳島県の古墳は香川・畿内両方からの影響を受けて前方後円墳を造営した」(確実)。栗林も「東四国と畿内地域の古墳は相互作用による『融合』とも呼ぶべき変化過程上に存在した」と述べており(確実)、一方向的な「阿波から畿内へ」という単純な図式は正確ではない。阿讃が起点を担いながら相互作用の中で前方後円墳様式が成立したというのが現時点での最も正確な評価だ。
栗林論文(表2)の阿波古墳編年を見ると、前期に宮谷古墳・八人塚古墳等の首長墓を擁していた鮎喰川流域群と吉野川下流域南岸群が、中期5段階(渋野丸山古墳の時期)以降に首長墓が完全に空白となることが確認できる(確実)。
栗林はこの現象を「6世紀初頭の摂津(三島野古墳群)王権に関する政治的変動の影響を阿波では認める事は出来ない」と述べており(確実)、阿波の消長が摂津の政治変動と連動しない独自の動態であることを主流研究者が認識している。
橋本達也(論集徳島の考古学)は徳島の前期古墳における鉄鉾の高頻度副葬を分析し、「徳島の首長層が近畿中央部の大型古墳を中心とする古墳祭祀の道具立てとは異なる鉄製品を導入しえた古墳祭祀における主体性がうかがえる」と結論する(確実)。
古墳時代中期前半の革綴短甲の集中配布地域に徳島が入っている——近畿地方中央部を除くと、滋賀県湖南地域・静岡県遠江地域・長野県善光寺平地域・宮崎県延岡地域、そして徳島(橋本・確実)。一方、中期後半に広く普及する横矧板鋲留短甲は、徳島では「まったく確認されていない」(橋本・確実)。
さらに重要な事実がある。栗林誠治(論集徳島の考古学)は武器・武具の分布を分析し、「小松島湾群、津田浦群、吉野川河口域北岸群に属する古墳が圧倒的に多く、鮎喰川流域群や吉野川下流域南岸群には分布しない」と明記している(確実)。菅原2001を引用しつつ「和泉・河内政権が意図的に鮎喰川流域群を避けて、外縁部の各地域群の水系首長層や更に下位の首長層に甲冑を供給した結果と考えられる」と述べる(確実)。
旧中枢(鮎喰川流域)が政治的に抑制され、沿岸部・河口域北岸という海洋交流に適した外縁部が台頭した——これが古墳中期後半の阿波の構造変化として読める(有力)。
蔵本晋司(論集徳島の考古学)は段の塚穴型石室の祖型が肥後南部(熊本県)にあることを明らかにした——大和経由ではない(確実)。古墳後期においても、阿讃は大和とは独立した技術系譜を持っていた。
天羽利夫(1973・1977・1983)は吉野川流域の横穴式石室を「段ノ塚穴型石室」「忌部山型石室」として類型化し、忌部山型石室について「被葬者は阿波忌部氏である可能性が高い」と指摘した(確実)。忌部山型石室が集中する麻植郡は、後の732年に忌部為麻呂が調黄絁を正倉院に納め、延喜式の麁服供進制度を担い続けた阿波忌部の本拠地と一致する(確実)。
栗林誠治(論集徳島の考古学)はさらに「矢野型石室と栗凡直との関係を検討する上では観音寺遺跡の成果が重要になろう」と明記している(確実)。栗凡直は阿波国造の氏族名であり、早渕隆人(論集徳島の考古学)が「新国造(栗凡直)の居宅を推定させる」として観音寺遺跡の遺物群を評価したことと一致する(確実)。
古墳後期の横穴式石室(忌部山型・矢野型)——7世紀の評制先行(観音寺遺跡)——732年の忌部為麻呂の調黄絁——延喜式の麁服特権という縦軸が、複数の独立した研究者の言葉で裏付けられる。
689年、観音寺遺跡から持統3年の年記木簡・麻殖評木簡が出土した。大宝律令(701年)より12年前に阿波ではすでに評制が機能していた(木原克司・確実)。
7世紀後半、板野郡頭駅〜国府を結ぶ南北駅路が律令制以前にすでに整備されていた(確実)。中央の制度を待たず、阿波は先に道を作っていた。また阿波の国府は奈良型の格子状街区ではなく、駅路沿いに官衙が線状に配置された独自の構造を持つ(確実)。より古い在地的な統治インフラの上に構築された証拠だ(有力)。
徳島県美馬市の郡里廃寺跡(国指定史跡)は7世紀中期創建だ。この廃寺の瓦・伽藍配置・心礎の工法を見ると、現存法隆寺(西院伽藍)より古い技術系譜を持つことが確認される(確実)。
単弁十二葉蓮華文(現存法隆寺は複弁の新しい様式)
法起寺式伽藍配置(現存法隆寺より一世代前の形式)
地下式根巻板構造(最古層の工法)
讃岐3廃寺と瓦の型が同じであることも確認されており(美馬市「史跡郡里廃寺跡整備基本計画書」・確実)、阿讃間を超えた技術の共有を示す物証だ。
阿波の鬼瓦は国分寺から周辺寺院へ有機的に展開しているが、讃岐では国分寺以外には展開しない(岡本治代・古代瓦研究XII・確実)。阿波には律令制以前から自律的な瓦生産の基盤があった。天武天皇が680年に発願した薬師寺の所在地が確定していないという問題(「薬師寺論争」・橿原市公式・確実)に対して、郡里廃寺の創建が天武・持統朝と重なるという事実は傍証として注目される(有力)。
710年、元明天皇が平城京に遷都した。しかし平城京の大極殿は遷都から5年後の715年に落成した(出土木簡から確認・確実)。未完成の都への移転——「京で千年」はこうして始まった。
遷都から22年後の732年(天平4年)、阿波国麻殖郡の戸主・忌部為麻呂が黄色の絹織物一匹を正倉院に納めた。この実物が正倉院南倉に現存している(正倉院紀要・杉本一樹・確実)。
阿波國麻殖郡川嶋少楮里戸主忌部為麻呂戸調黄絁壹匹天平四年十月(南倉145ノ7)
戸主は忌部為麻呂——延喜式(927年)の麁服を担う忌部氏の直接の先祖だ。忌部山型石室(古墳後期・麻植郡)から忌部為麻呂(732年)まで、同一地域・同一氏族の継続性が考古学と文献の両面から確認できる(有力)。延喜式より195年前に、忌部氏による繊維の貢進が制度として機能していたことを現物が証明している。
四国すべてからの調絁も正倉院紀要が記録している——讃岐・伊予・土佐。四国全体が正倉院への繊維供給者として機能していた(確実)。
正倉院文書・正集七三として現存する阿波国計帳は天平5年(733年)の作成だ(確実)。課丁・著老・著疾・著妻・小子など律令制が規定する戸口の分類が完備した形で記録されており、皇學館大學史料編纂所報第97号(1988年)の研究がこれを「戸別詳細記録型の代表事例」として位置づけている(確実)。
689年の評制先行から733年の精確な計帳作成まで——阿波は律令国家の行政において受け身ではなく能動的な担い手だった(有力)。
758年、現存する日本最古級の荘園絵図が2点、阿波国名方郡のものとして正倉院に残された(確実)。同時代の奈良時代荘園絵図は阿波2点・摂津1点・越前1〜2点のみで、奈良県には現存しない(確実)。東大寺という国家的宗教機関が土地を確保した場所が奈良ではなく阿波だった。
927年に編纂された延喜式は、阿波に他に類を見ない三つの規定を置いている。
麁服の非代替的特権——大嘗祭の神衣「麁服」は阿波国の忌部氏が織って調進しなければならない(確実)。他のいかなる地域・氏族もこれに代わることができない。
由加物三国の道路掃き清め命令——「紀伊・淡路・阿波三国の由加物使が京に向かう日、路次の国々は道路を掃き清めて祗承せよ」(確実)。この三国限定の特権規定は延喜式全体の中で他に類を見ない。阿波の由加物が忌部(陸の祭祀)と那賀の潜女(海人)十人の両者によって製作される——山と海の統合(確実)。
三木家の28代継続——大嘗祭の麁服供進は現在まで28代にわたって続いている(確実)。
鎌倉時代の万葉集注釈書「仙覚抄」に、阿波国風土記の逸文が引用されている(確実)。「天から降ってきた大きな山は、阿波国に降り立った。それを天のもと山という。その山が砕けて大和国に降り着いたものを、天の香具山という」——起源と派生という構造がここに刻まれている(推測として提示)。
縄文後期から平城京遷都まで、約2000年にわたって阿波が果たした役割は三層に整理できる。
第一層・資源の供給者:辰砂・銅・鉄・結晶片岩・麻・粟・クスノキ・絹。732年に忌部為麻呂が納めた調黄絁が正倉院南倉に現存することは、この供給者としての役割が現物によって証明されていることを意味する。
第二層・技術と祭祀の発信者:積石木槨(萩原→ホケノ山)・前方後円墳様式(萩原1号墓→鶴尾神社4号墳)・東阿波型土器(大和川水系へ)・宗吉瓦(藤原宮へ)・郡里廃寺(現存法隆寺より古い系譜)。
第三層・海路の掌握者:安曇族という海人集団が阿波に定着し、朝鮮半島・九州・吉備・畿内をつなぐ独自ルートを動かした。鳴門の渦潮を知り、クスノキの大木を船に変えた海人たちがこのネットワークを支えた。
古墳後期の忌部山型石室(麻植郡・天羽利夫「被葬者は阿波忌部氏の可能性が高い」)——7世紀の観音寺遺跡(「新国造(栗凡直)の居宅」・早渕)——689年の麻殖評木簡——732年の忌部為麻呂の調黄絁(正倉院南倉現存)——927年の延喜式麁服特権——現在まで続く三木家28代。
この縦軸は考古学・行政文書・正倉院現物・律令典籍という独立した四種類の証拠系列によって裏付けられる。
従属地域は独自の技術を発信しない。従属地域は律令制に先行して評制・駅路を整備しない。従属地域は中央政府の宮殿に瓦を「供給する」側には立たない。従属地域は2000年にわたって麁服という非代替的な祭祀権威を保持しない。
栗林誠治(論集徳島の考古学)は「各地域内においてどの段階まで王権が直接的に関与し再分配したかは疑問が残った」「どの程度まで王権が直接関与したかは地域毎に状況が異なる」という考察を示している(確実)。阿波については「王権の直接関与」という枠組み自体が疑問として残った——これは「大和王権が阿波を支配した」という通説的解釈への内在的批判として機能する。
「阿波千年」——縄文後期の水銀朱から持統朝(7世紀末)まで。朱・漢鏡・積石木槨・前方後円墳起源・東阿波型土器・宗吉窯・郡里廃寺・蕨手刀・藤原宮式瓦。証拠は一貫して阿波から外へ向かっている。
「京に千年」——710年の平城京遷都以降。しかし麁服の供進は三木家28代を通じて現在も続く。正倉院南倉には732年の忌部為麻呂の調黄絁が現存する。758年の阿波荘園絵図が残る。延喜式は阿波の特権を法として固定した。
それは「支配が終わった」のではなく、役割が制度として固定されたのだ。律令制という新しい制度の中に、阿波の2000年の役割が「化石」として刻まれた。
序章で問うた——なぜこのような伝承が生まれたのか。
証拠群はその問いに静かに答えている。縄文後期から延喜式まで2000年にわたって、阿波は日本の祭祀と権威を支える資源・技術・海路の起点だった。その記憶が、徳島藩士系の複数の家々の口伝として岩利大閑によって記録された——それがこの言葉の来歴だ(有力)。
最優先:十六面・薬王寺遺跡(奈良県田原本町)の東阿波系土器の胎土分析が未実施
藤原宮の比定地:阿波鴨島比定は現時点では仮説であり証明されていない
グループFの産地:奈文研の「推定讃岐東部 or 阿波産」はどちらか現時点で確定していない
「吉野宮」比定:加茂野宮の考古学的発掘調査が行われていない
「阿波千年」伝承の遡及:伝承がいつから語り継がれてきたかは文献的に確認できていない
相互作用の評価:栗林が指摘するように「畿内との相互作用」は確実であり、阿讃の一方的な発信という単純化は正確ではない
菅原康夫「萩原2号墓」徳島県教育委員会、2010年
蔵本晋司「段の塚穴型石室の基礎的研究Ⅱ」論集徳島の考古学
木原克司「吉野川下流域の条里施行期と阿波国府の構造」論集徳島の考古学
早渕隆人「古代阿波における官衙と祭祀」論集徳島の考古学
栗林誠治「阿波における前方後円墳の廃絶」論集徳島の考古学
橋本達也「四国における古墳時代前・中期の鉄製品」論集徳島の考古学
山本三郎「阿讃地域の長大型竪穴式石室の出現について」論集徳島の考古学
天羽利夫「徳島の横穴式石室」(1973・1977・1983)
橿原市・奈良県立橿原考古学研究所『藤原京100のなぞ』2012年
飛鳥資料館図録第13冊『藤原宮——半世紀にわたる調査と研究』1984年
美馬市教育委員会「史跡郡里廃寺跡整備基本計画書」
清野孝之「蛍光X線分析と鉱物組成分析による大和の古代寺院・宮都出土瓦の生産・供給体制の研究」奈良文化財研究所、2026年3月
岡本治代「四国地方の鬼瓦」古代瓦研究XII、奈良文化財研究所、2024年
鳴門板野古墳群(国指定史跡)公式解説
菅原康夫「弥生時代」論集徳島の考古学
菅原康夫「吉備型祭式の波及と変容」『真朱』第2号、1993年
菅原康夫2001(武器・武具の偏在分布について、栗林論文引用)
森下章司「阿波・讃岐出土の漢鏡7期鏡」2023年
桐井理揮「木津川水運と東四国」『京都府埋蔵文化財情報』143号、2022年
石井昌国『蕨手刀』雄山閣、1966年
木島甚久『日本漁業史論考』誠美書閣、1944年
杉本一樹「正倉院の繊維製品と調庸関係銘文」『正倉院紀要』第41号、宮内庁正倉院事務所
皇學館大學史料編纂所報第97号、1988年
福永伸哉「鳴門・板野古墳群を考える」徳島新聞、2006年10月
大久保徹也「四国北東部地域における首長層の政治的結集」古代学協会四国支部、2000年
延喜式(927年)第7巻30条
古語拾遺(807年)
仙覚抄(鎌倉時代):阿波国風土記逸文
日本書紀:舒明天皇国見歌・藤原宮・新益京の別記載・天武天皇の詔(683年)
続日本紀:芳野宮・芳野監関連記録
万葉集 巻1-2(舒明天皇「海原は 鴎立ち立つ」)
万葉集 巻1-36(柿本人麻呂「水激る 瀧の宮処」)
大日本古文書(正倉院文書):阿波国計帳(正集七三・天平5年)
岩利大閑『道は阿波より始まる』京屋社会福祉事業団、1985年
本稿における確実な事実はすべて発掘調査報告書・国立機関の研究成果・一次文献に基づく。有力な推測・推測については本文中に明示した。「阿波説」の正否を主張するものではなく、証拠群が向かう方向を素直に読む試みとして書かれている。
それぞれの論点についての深堀は、既出noteや今後のnoteにおいて肉付けを行っていきたい。
『日本誕生』(1959)予告篇 /【東宝名画座】で本編配信中 https://youtu.be/rAYKNmMUDeo?si=0FHoqNKPMtmKsuMa