2026年7月12日日曜日

四大文字世界から五大文字圏へ。 (参照:鈴木董『文字世界で読む文明論』講談社現代新書、P16)

 https://x.com/honnoinosisi555/status/2076286688499032303?s=61


こういう図は眺めているだけで、心躍る。


四大文字世界から五大文字圏へ。

(参照:鈴木董『文字世界で読む文明論』講談社現代新書、P16)


「楔形文字の場合は、死文字となり子孫を残さなかったのに対し、ヒエログリフは、シナイ半島でごく簡略化されたシナイ文字となり、これが表意文字としてではなく表音文字として、セム系のフェニキア人に受容されてフェニキア文字となった」(『文字世界で読む文明論』P61)


2026年7月11日土曜日

長宗我部元親書状(ちょうそかべ もとちか しょじょう):徳島市公式ウェブサイト

長宗我部元親書状(ちょうそかべ もとちか しょじょう):徳島市公式ウェブサイト

長宗我部元親書状(ちょうそかべ もとちか しょじょう)

更新日:2019年5月29日

 四国出兵の後、長宗我部元親から蜂須賀正勝に送られた書状。文中において元親は、秀吉の赦免が得られたことについて、正勝の取りなしによるものと丁重な謝辞を述べる。また、秀次から使者があったことについても触れられ、この書状の伝達役も秀次家臣の白江定成となっているため、秀次に対しても正勝による口利きがあったことがうかがい知れる。そして元親は、今後においてより一層の「指南」を、正勝に望んでいるのである。四国に覇を唱えた大名が平身低頭して懇願するほどに、「秀吉の片腕」としての正勝の影響力は絶大なものがあったのだろう。

大田田根子 - Wikipedia

大田田根子 - Wikipedia

大田田根子

記録

日本書紀』巻第五によると、崇神天皇5年、

国内(くにうち)に、疾疫(えのやまひ)(おほ)くして、民(おほみたから)死亡(まか)れる者(もの)(あ)りて、且大半(なかばす)ぎなむとす。 (国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった)-訳・宇治谷孟[10]

6年には、「百姓」(おおみたから)は流離してしまい、或いは叛逆するものもあった。その勢いは徳で治めるのが難しかった。朝夕神祇祈り祭った。これよりも前に、天照大神倭大国魂神を天皇の「大殿」(みあらか)に並んで祭ったが、神の勢いを畏怖し、一緒に生活することができなかった。そこで、天皇が皇女、豊鍬入姫命(とよすきいりびめ の みこと)・渟名城入姫命(ぬなきのいりびめ の みこと)に2つの神をそれぞれ祭らせることにした。天照大神は倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭り、豊鍬入姫には磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立てた。淳名城入姫は倭大国魂神を祭らせたが、髪が抜けて体が痩せて、お祀りすることができなかった[11]

事態を憂慮した天皇は、占いによって、災いの起こる理由を究明しようとした。ここで、占いをすることを「命神亀」と記しているが、亀卜のことを指している。

そこで、神浅茅原(かんあさじはら)へ行幸し、八十万(やそよろず)の神々を集えて、占いをした。すると、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に神がのりうつり、自分を敬えば自然に疫病は平らぐと言った神がいた。不思議に思った天皇が名前を尋ねると、「私は倭国の域(さかい)の内にいる神で、名前は大物主神という」と自己紹介をした。この神のお告げにしたがってお祀りをしたが、効果はなく、そこで、天皇は斎戒沐浴し、「殿」(みあらか)のうちを清めて、「自分の信心が不十分なのでしょうか、夢の中で教えてください」と頼んだ。すると、その日の夢に貴人の姿をした大物主神が現れて、

「天皇(すめらみこと)、復(また)な愁(うれ)へましそ。国(くに)の治(をさま)らざるは、是(これ)(わ)が意(こころ)ぞ。若(も)し吾(わ)が児(こ)大田田根子(おほたたねこ)を以て、吾(われ)を令祭(まつ)りたまはば、立(たちどころ)に平(たひら)ぎなむ。亦(また)海外(わたのほか)の国(くに)(あ)りて、自(おの)づからに帰伏(まうしたが)ひなむ」 (天皇よ、そんなに憂えなさるな。国の治まらないのは、吾が意(こころ)によるものだ。もしわが子大田田根子に、吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう)-訳・宇治谷孟[12]

とおっしゃった。

その後、倭迹速神浅茅原目妙姫(やまとと はやかんあさじはら まくわしひめ=倭迹迹日百襲姫命)や、臣下の穂積臣の祖先である大水口宿禰(おおぬなくち の すくね)らの夢にも貴人が現れて、大田田根子(おおたたねこ)と市磯長尾市(いちし の ながおち)をそれぞれ大物主神と倭大国魂の祭主にすれば、天下太平になるという内容であった。天皇はこの夢の言葉を得て、天下に告げて大田田根子を捜したところ、茅渟県の陶邑で大田田根子が発見された。彼は、父親は大物主大神で、母親は陶津耳(すえつみみ)の娘の活玉依媛(いくたまよりびめ)であると答えた。また奇日方(くしひかた)天日方(あまつひかた)武茅渟祇(たけちぬつみ)の娘ともいう[注 3]。そこで、卜占で、物部連の祖先である伊香色雄(いかがしこお)を「神班物者」(かみのものあかつひと=神に捧げる物を分かつ人)に任命した[13]

それから、伊香色雄に沢山の平瓮(ひらか=平らな土器。平たい皿様の器)を神祭の供物とし、大田田根子を大物主大神の祭主、市磯長尾市を倭大国魂神の祭主にした、という。これにより、疫病は収まり、国内も鎮まり、五穀が実って、百姓は賑わった、という[14]

崇神天皇8年12月に天皇は、大田田根子に「大神」(おおみわのかみ)を祀らせた、という。この大田田根子が三輪君の始まりだという[15]

古事記』にある物語は、これほど煩雜ではないが、大筋は同じで、崇神天皇の時、疫病が流行で人民が多く死に、天皇の夢枕に大物主大神が現れ「意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になるであろう」と神託を述べた。天皇はその人物を捜し出し、意富多々泥古命に三輪山の神を祭らせ、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に天(あめ)の八十(やそ)びらかを作らせて、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を定め祭らせた、という話は同じである。ただ、こちらは「神の血を引く子」で、大物主大神と、陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘の活玉依毘売(いくたまよりびめ)の玄孫である。さらに、活玉依毘売がどうして神の子を産んだのか、という物語も語られている[3]

大田田根子が登場するのはここまでであるが、このことから、崇神天皇が大和国三輪山の神を祭ることで、祭政一致の政策を行い、さらに、海外も含めた周辺の諸国の統一に着手していることも分かる。

オオタタネコ

 https://vt.tiktok.com/ZSX8erWc9/


昔藤原氏が女性天皇から女系へ誘導しようとしたからそれを警戒してだと思います。

2026年7月9日木曜日

ロザリオの歴史 エジプトのコプト様式のロザリオで、追加のコプト十字架が描かれています 結び目の祈りのロープは初期キリスト教で使用されており、砂漠の父たちが最初のロープを作ったとされ、結び目でイエスの祈りを唱える回数を記録したとされています。[36]または150の詩篇。[37]

 


https://1200irori.jp/content/learn/detail/case29


数珠の起源と歴史

数珠の起源には諸説あるようですが、3500年以上も前にあった古代インドのバラモン教の聖典に「連珠」という記述があり、これが数珠の原型というのが有力だそうです。また、ヒンドゥー教の信者も祈りの回数を数珠の珠を使って数える習慣があり、その習慣をお釈迦様が仏教にも取り入れ、念仏を唱える際に使うようになったといわれています。数珠は念珠とも呼ばれることから、念(お経)の数を数える道具、いわゆる数取器カウンターのようなものだったのですね。



https://www.reddit.com/r/TrueChristian/comments/1u3f8zq/i_prayed_the_rosary/?chainedPosts=t3_1g1ycsd


 u/JohnnySpace2191 さんのアバター。 JohnnySpace2191 • 2 年前 オリジナルのロザリオは、200年代にキリスト教の修道士たちによって初期教会で見つかりました。基本的には、修道士が一日に150回詩篇を唱える際に数えるためのビーズでした。これが徐々に、祈りを唱えるための道具としてカウントを取るのを助けたり、絶え間ない祈りの状態を保つためのリマインダーとして使うための結びついたロープに進化しました。 しかし、カトリックの「ロザリオ」は一般的にマリアへの奉納のために reserved されており、一方で正教会の「ロザリオ」(一般的に祈りのロープと呼ばれる)は、通常イエスの祈りに向けられていますが、聖母への献身にも使用されることがあります。もっと情報が必要なら、気軽に聞いてください。祝福された一日をお過ごしください! 4 u/songbookz さんのアバター。 songbookz • 2 年前 使徒たちは、詩篇(時間)を祈るために神殿に行く習慣を続け、後の祭司たちもそうしました。彼らは、詩篇を祈った回数を数えるために、150の結び目のあるロープを使いました(正教会のバージョンでは、150の小石を使って一つのバスケットから別のバスケットに移すとされています)。一般の人々も祈りたかったのですが、詩篇を読むことができず、書籍(書籍は手作りで非常に高価でした)を買う余裕もありませんでしたので、150回の主の祈りを祈っていました。最終的に、現在の形へと進化しました。 正教会のバージョンでは、彼らはパウロの「絶えず祈るように」という指示に従いたいと考えたため、イエスの祈りを祈った回数を数えていました。次第に、彼らはロープに結び目を作り始めましたが、聖アントニオは昼間に結び目を作り、悪魔は夜にその結び目をほどいてしまいました。最終的に、天使が聖アントニオに7つの十字架のある結び目の作り方を教え、悪魔がほどけない結び目となり、これが現在使われているチョトキまたはコンボスキニ結びとなりました。


https://x.com/mipoko611/status/2074739252932513826?s=61


こちらの投稿から、ムスリム、仏教徒、クリスチャンそれぞれが、数珠状の祈りの道具について「うちらも使うよ」と解説し合ってて、どうもルーツは繋がってるらしいとなってて、すごくいい。日本人も大抵一人一つは持ってますよ。そんなに信心深くない人でも。


メイン記事:ロザリオの歴史


https://en.wikipedia.org/wiki/Rosary

エジプトのコプト様式のロザリオで、追加のコプト十字架が描かれています

結び目の祈りのロープは初期キリスト教で使用されており、砂漠父たちが最初のロープを作ったとされ、結び目でイエス祈りを唱える回数を記録したとされています。[36]または150の詩篇[37]