2026年2月5日木曜日

【保存版】続100名城を10分で一気見!完全ガイド

200:

これが前方後円墳のルーツか!?【古墳の界隈001】

邪馬台国東遷説

邪馬台国東遷説

邪馬台国東遷説

西暦239年、中国の魏に日本からの使いがやってきた。そして邪馬台国という国があり、卑弥呼という人がいたと中国の文献に書いてあるわけです。これは日本の状況を述べているのです。
では、西暦239年は「古事記」「日本書紀」の伝えるところによれば、いったい何天皇の時代であったのか。どの天皇の時代なのかがわかるならば、「古事記」「日本書紀」のその天皇についての記事を読めば、どこに邪馬台国があるのかがわかるのではないかと、私は考えたわけです。

「日本書紀」にはひとりひとりの天皇について、たとえば神武天皇は西暦紀元前660年に即位したとかいろいろなことが書いてあります。ところが、これには非常に大きな年代の延長があるようです。
もともとの伝承は「古事記」の本文に書かれていますように、年代が入っていなかったと考えられます。神武天皇の次は綏靖天皇という天皇がいたというような順番だけが書いてある。これがもともとの伝承だったと思います。

さて「古事記」「日本書紀」には歴代の天皇名が書かれています。それでは239年という邪馬台国が存在した、あるいは卑弥呼が魏に使いを出した年というのは、何天皇の時代であったのか、まず[図1]をご覧ください。

風仙洞|甘木と桜井~地名比定

風仙洞|甘木と桜井~地名比定

甘木と桜井~地名比定

風仙洞

筑紫平野の朝倉市甘木地域と奈良盆地周辺の地名の間には対応関係が見られる。邪馬台国東遷説では、邪馬台国勢力が北九州から奈良盆地に東遷した証拠のひとつとして挙げられている。

確かに地名の対応関係が認められる。しかし、邪馬台国東遷説の旗手である安本美典氏が使用する地図(「邪馬台国の会」サイト掲載)に記載された地名の比定や位置については、いくつか納得がいかない点がある。また、簡略で平面的であることも私にとって不満である。

そこで最近いくつかのページで行ったように Google Maps Static API を使ってマーカー付の地形図を作成し、安本氏の地図と比較してみた。地名リスト右の方の数字は緯度と経度である。なお、山名については濃い灰色のマーカーを付けた。

「邪馬台国の会」Webサイト掲載の夜須町周辺地図
Google Maps Static API による
筑紫平野・甘木地域地形図
  • この地図は左右スクロール可能です。
  • A:甘木(朝倉市甘木) 33.421081,130.656002
  • B:朝倉(朝倉市宮野 日田往還鎌倉街道沿い) 33.387769,130.722419
  • C:久留米(久留米市 西鉄久留米駅) 33.312211,130.521300
  • D:三瀦(みづま)(久留米市三潴 三潴駅) 33.256762,130.469645
  • E:香山(朝倉市杷木志波) 33.360058,130.782846
  • F:鷹取山(八女市星野村 鷹取城) 33.302806,130.722718
  • G:天ヶ瀬(日田市天瀬 天ヶ瀬駅) 33.254775,131.023856
  • H:玖珠(玖珠町役場) 33.283106,131.151863
  • I:鳥屋山(朝倉市佐田 鳥屋山) 33.435518,130.801608
  • J:上山田(嘉麻市山田総合支所) 33.559187,130.764526
  • K:田原(田川郡川崎町田原) 33.604006,130.814566
  • L:笠置(かさぎ)山(飯塚市相田 笠置山) 33.686342,130.642131
  • M:春日(春日市春日 春日神社) 33.521807,130.469360
  • N:御笠山(=宝満山)(太宰府市北谷 宝満山山頂) 33.539907,130.569188
  • O:住吉(すみえ)神社(福岡市博多区住吉) 33.585901,130.413721
  • P:草香江(福岡市中央区草香江) 33.580232,130.374315
  • Q:野方(福岡市西区野方 野方遺跡) 33.555274,130.305961
  • R:平群郷(和名抄)(福岡市西区吉武 吉武高木遺跡) 33.537921,130.318581
  • S:御井(久留米市御井町 祇園山古墳) 33.303247,130.554324
  • T:小田(朝倉市小田 小田茶臼塚古墳) 33.388211,130.664843
  • U:三輪(筑前町(旧三輪町)新町 筑前町役場総合支所) 33.433912,130.636546
  • V:筑前高田(筑前町高田) 33.419139,130.632164
  • W:長谷山(朝倉市長谷山) 33.464572,130.682902
  • X:裂田の溝(うなで)(那珂川市 裂田神社) 33.491818,130.425641

比較するといくつも疑問点がある。

  • 田原(K)が遠賀川流域では田川郡川崎町でしか見つからなかった。
  • 笠置山(L)の位置が安本氏の地図では飯塚市の中心部になっている。
  • 平群郷(R)の位置が安本氏の地図ではかなりずれているのではないだろうか? 私がネット検索したところ、平群郷は吉武高木遺跡の周辺とわかったので、吉武高木遺跡にプロットした。
  • 私は春日(M)を春日市の春日神社あたりと思ったが、安本氏は粕屋郡粕屋町あたりに比定している。
  • 安本氏は野方=額田(Q)としているが、私は確信できない。
  • 安本氏は三井(S)を小郡市あたりに比定している。確かに小郡市は旧三井郡の一部であり、福岡県立三井高校が立地するが、旧御井町は筑後川の南側に存在し、現在は久留米市の一部になっている。
  • 長谷山(W)という地名は朝倉市にあるが、Google Map では山名としては検索できない。北西の尾根伝いのどこかが本来の長谷山なのだろうか?
  • 安本氏の地図では甘木の小石原川(夜須川)を挟んだ反対側に雲堤(X、うなで)が存在することになっているが、私は Google Map で見つけられなかった。代わりに那珂川市に「裂田の溝(うなで)」という場所を見つけた。
  • 私は Google Map で旧夜須町(現筑前町の一部)に「池田」という地名を見つけられなかった。
  • 安本氏の地図では長谷山の北東、秋月城のあたりに加美(上)という地名があることになっているが、私が Google Map で探しても見つけられなかった。

次は奈良盆地(特に桜井市)周辺である。

「邪馬台国の会」Webサイト掲載の
大和郷周辺地図
Google Maps Static API による
奈良盆地周辺地形図
  • この地図は左右スクロール可能です。
同上 奈良盆地南部を拡大
  • この地図は左右スクロール可能です。
  • A:上之庄(嘉美?)(桜井市上之庄) 34.520454,135.838577
  • B:朝倉(桜井市朝倉台 6号公園) 34.516531,135.878216
  • C:久米(橿原市久米町) 34.483359,135.791184
  • D:水間(大阪府貝塚市水間) 34.400318,135.385191
  • E:天香久山(橿原市南浦町) 34.495547,135.818479
  • F:高取山(高市郡高取町高取) 34.429229,135.827843
  • G:天ヶ瀬(奈良県上北山村 天ヶ瀬川) 34.200887,135.975821
  • H:国栖(吉野郡吉野町国栖) 34.385456,135.936064
  • I:鳥見山(宇陀市榛原萩原) 34.550152,135.940321
  • J:山田(天理市山田町 春日神社) 34.629876,135.941202
  • K:田原(奈良県磯城郡田原本町) 34.552769,135.792447
  • L:笠置山(京都府笠置町笠置) 34.754850,135.942291
  • M:春日(奈良市春日野町 春日大社) 34.681261,135.848343
  • N:三笠山(=若草山)(奈良市雑司町 若草山) 34.690935,135.854263
  • P:日下(東大阪市日下町 日下神社) 34.690809,135.654571
  • Q:額田(東大阪市額田町) 34.677158,135.649725
  • O:住吉大社(大阪市住吉区住吉) 34.612496,135.493062
  • R:平群郷(和名抄)(奈良県生駒郡平群町 平群町役場) 34.629151,135.700296
  • S:三井(奈良県生駒郡斑鳩町三井) 34.624180,135.735617
  • T:織田(現桜井市芝付近)(織田村道路元標) 34.534987,135.841538
  • U:三輪(桜井市三輪 大神神社) 34.528703,135.852761
  • V:大和高田(大和高田市内本町) 34.514025,135.742001
  • W:初瀬山(桜井市白河) 34.546680,135.894094
  • X:雲梯(うなで)(橿原市雲梯町 河俣神社) 34.502095,135.774773
  • Y:池田(奈良市池田町) 34.639195,135.819868

筑紫平野・甘木周辺よりも奈良盆地周辺の方が地名を探しやすかったが、それでも疑問点がいくつかあった。

  • こちらでも「嘉美/加美」を見つけられなかったので、桜井市上之庄(かみのしょう)をプロットしたが、安本氏の地図とは位置が少しずれてしまった。
  • 九州の「甘木」に相当する地名も見つけられなかったが、ひょっとすると「甘」→「甘味」→「かんみ」→「かみ」→「上」という変遷があったかも知れない。
  • 「田原」が笠置山のすぐ南に見つからなかったので、磯城郡田原本町にプロットした。

緯度・経度で位置を示したので、今後は検証しやすくなるであろう。もし、私の比定が町名・大字の範囲以上に間違っている場合は、メールにてご連絡頂ければ幸いである。

なお、奈良県南西部から南西に流れる吉野川~紀ノ川沿いに和歌山県の伊都郡那賀郡がある。魏志倭人伝が北九州にあったと伝える奴国(中国語上古音での「奴」の発音は「nag」)や伊都国を連想させる。記紀の神武東征記事には何も言及されていないが、その後の大和政権確立の過程で吉野川~紀ノ川が交通手段として活用されたのかも知れない。

奈良と福岡は相似形 ~地形地図から邪馬台国を探す~|小林範之

奈良と福岡は相似形 ~地形地図から邪馬台国を探す~|小林範之

奈良と福岡は相似形 ~地形地図から邪馬台国を探す~

見出し画像

地形の相似と「都城の向き」から邪馬台国の位置を絞れないか

新しい都を作るとき、過去に栄えた都の構造を参照し、意図的に"見立て"を行う例があります。江戸が京都をモデルにし、鬼門の上野を比叡山に見立て、寛永寺を配し、不忍池を琵琶湖に見立てた、という話はその典型です。 

ここから先は、歴史の「断定」ではなく、地理条件から仮説を立てて候補地を狭める試みです。手順は単純で、次の3つを順に重ねます。

  1. 地形の相似:筑紫平野(福岡・佐賀)と、大阪湾〜奈良盆地(近畿)に"反転相似"が見える

  2. 防御地形の条件:都は「攻め込まれにくい場所=狭隘部の奥、背後を山に守られる場所」へ置かれがち

  3. 都城の向き(座向):纏向の"向き"を手がかりに、筑紫側でも向きの条件を課す

結論を先に言うと、上の条件を(乱暴にでも)同時に満たしそうな地点として、私は現時点では 福岡県うきは市〜吉井町あたりを強く意識しています(もちろん暫定です)。 

1. 出発点:筑紫平野は「反転した近畿」に似ていないか

福岡県の地図を見ていて、左右反転すると"大阪湾+奈良盆地"の構造に酷似して見えることに気づきました。 

ここで注意が必要なのは順序です。もし筑紫に邪馬台国があり、纏向(大和政権初期の都とされる)が後なら、「近畿が筑紫に倣った」可能性のほうが論理としては自然になります。私はこの"順序の逆転"も含めて、地形の対応を一度まじめに眺めたい、という立場です。 

2. 前提の置き方:九州起点説(古田説・宝賀説)は「検証の導線」として扱う

古田武彦は、天孫降臨の地を一般に言われる宮崎ではなく、「筑紫の日向の襲の高千穂峰」という記述に従い、福岡(糸島市の日向=ひなた)側に上陸したと捉えます。そこから九州王朝説へつなげ、神武はその傍流だとしました。 

宝賀寿男も前段の読みはほぼ同じですが、九州王朝説ではなく、瓊瓊杵尊の降臨で成立した政権そのものを邪馬台国とみなし、神武東征の時期を2世紀初め頃に置きます。 

私はここで、どちらかの説を"採用宣言"するというより、「筑紫起点で大和へ波及した」可能性を検証する導線として参照します。つまり、地形を比べるための「問題設定」です。 

3. 私がやりたいこと:纏向の位置関係を筑紫に当てはめる

つまり、やりたいのはこれです。
大阪湾〜奈良盆地、そして纏向遺跡の位置関係を確かめ、筑紫の地形に当てはめたとき、邪馬台国の候補地を"地理条件"で絞れるのではないか。

以下、比較用の地図を置きます。上が筑紫平野、下が反転させた近畿です。 

画像
福岡・佐賀を中心とする筑紫平野(邪馬台国の推定地)

注釈(見方):ここでは「邪馬台国推定地」というより、筑紫平野という"器"(湾・平野・山地に囲まれた奥行き)を観察するために置いています。

画像
大阪湾から奈良盆地を含む近畿の反転地図

注釈(見方):こちらは大阪湾〜奈良盆地を含む近畿を左右反転した図。以降、「狭隘部(通路)→奥まった盆地端→背後の山」という"都城に向く地形の型"がどこに現れるかを見ます。

4. 防御地形の条件:「狭い通路の奥」に都が置かれる型

このままだと分かりにくいので、線や図形を入れて比較します。

私がここで見たいのは、次の構図です。 

  • 山に挟まれた狭い通路(侵入路)がある

  • その通路の奥(ドン突き側)に平地が開ける

  • さらにその最奥で、背後を山に守られる位置に拠点(都城)が置かれる

天孫族が朝鮮半島経由で上陸した、という神話的記述をそのまま史実化する意図はありませんが、少なくとも「渡来勢力が拠点を置くなら、攻め込まれにくい場所を選ぶ」という一般論は成り立ちます。纏向は、地形だけ見てもその傾向が強い。

この見立てが正しい(=大和が筑紫の何かを参照して拠点を構えた)なら、筑紫側でも同様に「奥まった端+背後の山」という条件に寄るはずで、私には うきは市〜吉井町あたりがまず目に入ります。

5. 纏向を"点"として入れる:対応の精度を一段上げる

次に、纏向を図上に置いてみます(赤の丸印)

画像
福岡・佐賀を中心とする筑紫平野(邪馬台国の推定地)

注釈(確認ポイント):筑紫側でも「最奥」「山裾」「背後の山」という条件に"点"を落とす準備です。

画像
大阪湾から奈良盆地を含む近畿の反転地図(纏向遺跡)

注釈(確認ポイント):丸(纏向)が「盆地の中心」ではなく、端(隅)側に寄っている点が重要です。都城が"真ん中"にあるとは限らない、という条件がここで入ります。

さらに面白いのは、図の左下に、九州は有明海、近畿は琵琶湖が現れる点です。博多湾側が筑前、有明海側が筑後。近畿側でも琵琶湖方面が山城(山背)で、前後関係が揃って見える。もちろん偶然の可能性はありますが、「偶然かもしれない」を言いながら観察しておく価値はあります。(星印の方向)

6. 追加の絞り込み①:都城の向き(座山・座向)

地形の"型"だけでは物足りないので、次は都城の向きです。風水では座山・座向という言葉を使います。纏向は三輪山を座山として、東西軸から5度南に向き、二上山に正対する形をとる。都が東を背に西へ向く、かなり特殊な形です。大阪湾側からの通路が二上山の麓を通るため、「大阪湾に正対している」と言ってもよい、という見方がここで成立します。

この条件を相似で持ち込むなら、筑紫側ではこうなります。

  • 都城は博多湾の方角=北西を向く

  • 逆に、背後(座山側)は南東で、山を背負う必要がある

この条件が入ると、いわゆる有力候補の久留米は(少なくともこの枠組みでは)弱くなります。背後に山を取りにくいからです。朝倉も、博多湾から見て平野のドン突きではない点、山を背負うと南西向きになりやすい点が気になってきます。

画像
久留米市・朝倉市における仮定

注釈(この図の役割):ここは「久留米・朝倉は違う」と断定する図ではなく、"向き(北西正面/南東背後)"という制約を入れると、候補地の優先順位が変わることを示す図として置きます。

7. 追加の絞り込み②:「やまと」「まほろば」は地理条件の言い換えではないか

次に、『古事記』の歌です。

倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし

『古事記』

私はまず、「やまと」という言葉が奈良固有の地名に限らず、一般名詞的に使われた可能性を疑いました。福岡・佐賀にも山門(やまと)など「やまと」が存在するからです。「やま」は山、「と」は平地を指すので、「山の平地」=言い換えれば 山のふもとの平地になりやすい。纏向は確かに三輪山のふもとです。

「まほろば」は一般に「素晴らしい場所」と説明されますが、古田武彦は原型を「まへらま」と見て、「へらま」を"脇"として解釈します。中心ではなく端。ここでも纏向が奈良盆地の隅にある、という観察とよく噛み合います。

纏向の都は、奈良盆地の端にある。重なりあった青い垣根の山々、それらに囲まれた都は、とても美しい

(筆者訳)

この読みが妥当なら、地理条件としてはこう言い換えられます。 

  • 都城は 平野の中心ではなく端(まへらま=脇) にあり

  • 山裾(やまと=山のふもとの平地) に置かれる

ここまでで、候補地は「筑紫平野の端」「山裾」という条件で、さらに狭まります。

8. 追加の絞り込み③:「ま・ほ・ろ」=磐座のヒント?

ただ、古田が写本年代を根拠に「まへらま→まほろば」を論じる一方、「まほろば」と書き換えた根拠も無視できません。そこで私は、語を分解して別の可能性も考えました。 

  • 「ほ」=突起

  • 「ろ」=岩・岩盤

  • 突起上の岩=磐座

  • 「ま」=接頭語として美称としつつ、大地・鉱物のニュアンスも連想できる

すると「まほろば」は、形容(素晴らしい)というより、地形・信仰に接続し、"磐座のある山のふもと"という探索条件を示している可能性が出てきます。

※「語の分解に関しては別記事を参照
https://note.com/ijourney/n/n88a11bbec7a1

9. 実際に検索してみる:巻向〜三輪山は磐座だらけ/筑紫側はどうか

まず、巻向〜三輪山地域を「磐座」で検索すると、見事に出ます。三輪山は磐座だらけです。

画像
巻向~三輪山地域を「磐座」で検索

注釈:纏向の座山(三輪山)を「磐座」という観点で見ると、条件が具体化します。つまり「山裾」だけでなく"磐座が集中する山裾"という、より細い探索軸が立つ。

考えてみれば、神武天皇の名に「磐余(いわれ)」が入ること自体、磐座信仰を強く連想させます。ならば筑紫側でも、磐座がある山裾を追えば都城の位置に近づけるかもしれない。 

次に、筑紫平野の東隅を「磐座」で検索してみます。

画像
筑紫平野の東隅を「磐座」で検索

注釈:この段階では「見つかった=都」ではありません。"都城のありそうな地形(端+山裾)"に、磐座という信仰地形が重なるかを見ています。

うきは市あたりにも「岩」が見えるので、その周辺を拡大し、「遺跡」で検索してみました。……どこを掘っても何か出てきそうな場所ですね(今回はここまで)。

画像
うきは市あたりの拡大地図。「遺跡」で検索

注釈:この図は「遺跡が多い→都」と言うためではなく、"候補地に対して、遺跡分布をさらに精査する入口"として置いています。

まとめ:現時点の「探索条件」と暫定候補

ここまでの話を、断定ではなく"探索条件"として整理します。

  • 地形:狭隘部の奥/平野の端/山裾

  • 向き:正面は北西(博多湾方向)、背後は南東の山(纏向の座向を相似で持ち込む)

  • 追加の探索軸:磐座がある山裾(語の再解釈+三輪山の観察から)

この条件で見たとき、私は現時点では うきは市〜吉井町あたりを第一に疑っています。もちろん、これが正しいなら、次は「地形が似ている」で止めず、遺構・遺跡の質(規模・年代・配置)で検証しなければなりません。

(今回は以上。お付き合いいただきありがとうございました) 

※固有名詞である「纏向遺跡」に合わせ、本稿では「纏向(まきむく)」という表記を使用しています。ただし、地図上の地名を指す場合は、地名・駅名である「巻向」を使用しています。

邪馬台国東遷説

邪馬台国東遷説

邪馬台国東遷説



つぎに[図6]のグラフをご覧ください。このグラフは「古事記」の神話にでてくる地名の統計をとったものです。そうすると九州の地名が一番たくさん出てきます。つぎにたくさん出てくるのが出雲の地名です。畿内の地名はごくわずかしか出てきません。そこで「古事記」神話の舞台は主に九州と出雲であるということになります。

津田左右吉さんのいわれるように「古事記」の神話は大和朝廷の役人たちが天皇家の権威をたかめるために、机の上で創作したとすれば、畿内大和の地名が一番たくさん出てきそうなものですが、事実はそうでない。九州の地名が一番たくさんでてくる。

 このことは何を意味するか?

大和朝廷の人たちは遠い祖先の人たちが九州にいたんだという伝承、おぼろげな記憶を持っていたのではないかということになります。

「古事記」神話には畿内の地名もいくつか出てきます。しかし、その地名をていねいに調べてみますと、本来の畿内の地名はひとつも出てきません。たとえば、「住吉」という地名が出てきます。
これは昔の「墨江」です。本居宣長は摂津の「住江」、つまり大阪府の「住吉」を考えています。したがって、[図6]のグラフでは「墨江」は畿内の地名としてカウントしました。

しかし、博多のあたりにも、宮崎県にも「住吉(墨江)」神社はあるのです。特にこの住吉神社の成立が、伊邪那伎の命の禊と関係するならば、むしろ宮崎県の地名とすべきでさえある。つまり地名の統計をとると、九州が日本神話の主な舞台になっているということがいえるわけです。

さらにこの神話の内容を見ますと、神話のなかには「天の安川」という川の名が記されており、この「天の安川」において神々が会議を開き、いろいろなことをおこなったと書いてあります。

「地名は言語の化石」といわれるように、古い地名が残りやすいといわれております。九州の地図を見ますと、北九州の中心部の甘木市の近くに、夜須町というところが現在でもあります。そうしてその夜須町あるいは甘木市の近くに小石原川という川が流れています。この川は別名「夜須川」とも呼ばれています。

ごく最近、ここから平塚川添遺跡という大規模な環濠遺跡が出てまいりました。これははたして神話を裏書きするものなのかどうか、検討に値する興味深い問題だと思います。

[図7][図8]の地図をご覧下さい.
  
[ 図7]の地図は畿内、大和の地名です。[図8]は北九州の夜須町の地図です。ご覧いただきますとおわかりのように、ほとんど同じ場所に同じような地名があります。

たとえば、北の方に「笠置山」という山があり、「春日」というところがあり、「三笠(御笠)山」というところがあります。あるいは「長谷」であるとか「朝倉」であるとか、ほとんど同じような位置に同じ地名があります。

これはいったい何を意味するのでしょうか?

図7 大和郷のまわりの地名

図8 夜須町のまわりの地名 図8 夜須町のまわりの地名

結論からいえば、これは北九州の邪馬台国勢力が東に移って大和朝廷をたてたさいに、もとの九州の地名を畿内に持っていったんだとわたくしは思います。

イギリスの人たちがアメリカに渡り、たとえば「ニューヨーク」とか「ニューハンプシャー」とかイギリスの地名をたくさん持っていった。それと同じような事情があっただろうと考えます。

畿内の奈良県もこの甘木、朝倉のあたりも、地形が非常に似ていて、大きな川の上流であり、ある程度盆地的になっている。こういうことから、わたくしは甘木、朝倉あたりが邪馬台国の中心地であったと考えます。



[図9]をご覧ください。

これは小山修三さんがつくられた九州地方の人口の分布ですが、筑後川流域の甘木、朝倉を含むあたりが人口の密集地帯であることがおわかりいただけると思います。また、南九州にも人口の密集地帯があることもご注目ください。




それからまた、[図10]に出雲の地図が書かれております。

いずものところに「稲左(伊那佐)の小浜」というところがあり、そこに建御雷(たけみづち)の神と天の鳥船の神という高天原勢力の二柱の神が上陸して、出雲の大国主の命と談判したと「古事記」「日本書紀」には書かれています。

天の鳥船の神は船の擬人化だと考えられます。高天原というのはどこにあったか。高天原が仮に畿内にあったとするならば、畿内から出雲では船では行きません。高天原が九州にあったとするならば、船で行かなければなりません。つまり高天原は九州地方にあったのだろうと考えられるわけです。
 

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