2024年11月20日水曜日

20240202『日本とユダヤの古代史&世界史』田中英道 第五章 | PlanetWork五番町 BLOG

20240202『日本とユダヤの古代史&世界史』田中英道 第五章 | PlanetWork五番町 BLOG

p209
田中 ルネサンス美術は、メディチ家(ユダヤ人資本家)が教会に大金を出し、文化が生まれる。反対にユダヤ自身からは文化は生まれない。作家を助ける形。ユダヤ人の大芸術家はいない。※世阿弥と矛盾?
田中 否定や破壊が流行する近代以降に、ユダヤ人芸術家や言論人が。共産主義を編み出したマルクスも伝統や文化に否定的。
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20240202『日本とユダヤの古代史&世界史』田中英道 第五章

『日本とユダヤの古代史&世界史』田中英道2023.7.10発行

◇一、紀元前13世紀 
出エジプト│縄文時代・日高見国・スサノオ
◇二、紀元前722以降 
アッシリア捕囚と失われた10支族│日本建国
◇三、紀元前3~2世紀
秦の始皇帝・徐福と三千人│秦氏各地に渡来
◇四、3~4世紀
弓月国から秦氏二万人│応神天皇が受け入れ
◇五、431年以降 ※蘇我氏ゆえ5~6世紀か。
エフェソス公会議・ネストリウス派│蘇我氏

p192 
【5】蘇我氏とは何者だったのか(400年~)
【第5波】キリスト教ネストリウス派と蘇我氏
田中 313年ミラノ勅令(コンスタンティヌス帝)
395年ローマ帝国東西分裂
431年エフェソス公会議(エーゲ海沿い都市)
皇帝テオドシウス二世が招集
ネストリウス派異端。国を追われ、東へ
シルクロードまたは草原の道(ステップロード)~弓月国~支那~満州~朝鮮半島~日本
蘇我氏は「我(われ)蘇(よみがえ)り」と名を付けている。ネストリウス派を名乗っているようなもの。
p193
すでに政権に入り込んでいた葛城氏をはじめとする渡来系豪族の権力を奪った。天皇に接近。蘇我氏四代(稲目、馬子、蝦夷、入鹿)
茂木 ネストリウス派はキリスト教一派、ユダヤ教徒ではない。ユダヤ教徒は二世紀にユダヤ戦争ですでに離散。
田中 離散ユダヤ人の一部がキリスト教に改宗と考えられる。弓月君がネストリウス派とこの分野で権威の佐伯好郎(1871-1965)は述べた。しかし応神天皇の治世は四世紀後半なので、弓月君の一派は431年のエフェソス公会議以前に来日。だから彼らはネストリウス派以前の〈原始キリスト教〉。第二次ユダヤ戦争(135年)に敗れ、ハドリアヌス帝によってエルサレムを追われたユダヤの民。その後、弓月国を経て来日。BC3世紀の秦の始皇帝の子孫の秦氏もまた弓月国に逃れ、来日。 ※500年の時を経て、か。まあ移民はいつの世も存在するということかな。

p197
田中 蘇我氏は〈我、蘇り〉。聖徳太子は、イエスキリストを意味する「厩戸皇子」という名前をつけられ「キリスト」として祭り上げられようとしていた。蘇我氏は、仏教にキリスト教を上乗せしようとした。
p200
茂木 縄文時代の東日本に起源を持つ高天原(日高見国)系の皇族と中臣(藤原)氏。それに対して、ユダヤ起源と思われる渡来人①スサノオ系~②秦氏~③蘇我氏がいた。蘇我氏はネストリウス派だった。
田中 古墳時代から秦氏の力が強くなったが、彼らは皇族を脅かさず、完全に日本人に同化して、穏やかな八幡信仰や稲荷信仰を広めた。蘇我氏の馬子は、587穴穂部皇子を殺し、592崇峻天皇を殺し、662聖徳太子をおそらく殺し(急死。前日に妃も死んでいる)、入鹿は、643山城大兄王を一族で自死させた。
p201
蘇我氏がユダヤ的だとする理由
田中 日本人にはない暴力性と排他性。『旧約聖書』を読むとわかるが、ユダヤ人は非常に積極的に戦争支援する。そして遊牧民の必然だが、日本と比べると異質なほど暗殺が多い。
茂木 ユーラシア大陸メンタリティー。アラブ人や中国人の歴史を読むと、日本人とは異質な暴力性、残虐性。
田中 蘇我馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)を使って崇峻天皇を殺し、証拠隠滅で東漢駒は殺される。中国人も暴力的だが、ある意味使われている。ユダヤ的な暴力性は知性的です。国家転覆の思考は、中国人は基本的に持っていない。ユダヤ人は例えばマルクスを使って社会主義をつくり革命を起こす。それがユダヤの暴力性の特徴。ユダヤの戦争史を見ると常に負けているが、暴力的なものに臆さず戦う強い精神と組織力がある。そして、秦氏や土師氏のような商人の能力。石工たるフリーメーソンのような積極的な技術力やアイデア。こんな能力は、中国や朝鮮半島にはあまり見られない。蘇我氏は飛鳥寺をつくった。法隆寺も彼らが金を出しているはず。秦氏だけではなく蘇我氏も建築を率先してやる。そうしたことができるのは、まずユダヤ人以外には考えられない。ただ、蘇我氏は自らの一神教を押しつけることまでは必ずしもしていない。日本人には向かないことを計算してやっている。その判断力も中国や朝鮮半島には見られない。
茂木 秦河勝は聖徳太子を中心に蘇我馬子と活躍。彼は?
田中 赤穂へ逃げた。坂越の大避神社の祭神。
p203
蘇我氏なきあとの秦氏 土師氏と菅原道真
p205
茂木 古墳時代に大陸(※1)から日本列島へ大規模移民。
※1 金沢大学のグラフ(p204)から、東アジアからの移民の混血割合が、弥生時代0%から古墳時代60%に増加。
p206
田中 秦氏や蘇我氏は娘を天皇に嫁がせたりして国を変えようとしたが大きな変化にはならなかった。蘇我氏を滅ぼした中臣(藤原)氏が興隆。秦氏は徐々に表舞台から消えた。(略)菅原道真(時平によって太宰府左遷)は土師氏。祖先は天穂日命(あめのほひのみこと)、野見宿禰。スサノオ以来の古い系統の秦氏。※ユダヤ系。
田中 土師氏と秦氏は同族。
※ここから日本美術の話。
p208
田中 天狗と秦氏系、ユダヤ系渡来人との関係は見逃せない。義経。美貌の母の常磐御前は秦氏系では。芸能者にも秦氏系は多い。ノマド的。能の世阿弥。歌舞伎役者も秦氏系。信長は秦氏的。革新的で商才がある。
茂木 ヨーロッパでも、ユダヤ人がいなかったら、音楽・美術・学問が成り立たなかった。
p209
田中 ルネサンス美術は、メディチ家(ユダヤ人資本家)が教会に大金を出し、文化が生まれる。反対にユダヤ自身からは文化は生まれない。作家を助ける形。ユダヤ人の大芸術家はいない。※世阿弥と矛盾?
田中 否定や破壊が流行する近代以降に、ユダヤ人芸術家や言論人が。共産主義を編み出したマルクスも伝統や文化に否定的。
p210
田中 秦氏は言葉もよくできる。稗田阿礼や太安麻呂も秦氏系。
茂木 日本神話にギリシャ神話や旧約聖書が混ざっているのは、その影響。
p210
日本に帰化した秦氏は神社をつくった
p212
田中 ところが、あとから来た秦氏系渡来人は、山ごもりしたり、個人宗教になる。聖徳太子が目指した、街の中で一般人たちが緩やかな共同体をつくる(※共同宗教)のではなく、山伏や天狗、鬼などに発展。
茂木 ユダヤ教祭司と山伏の格好は瓜二つ。
p214
高天原系(神明)と秦氏系神社(明神[7~8世紀以降])
※鳥居
田中 全国約10万社の神社のうち、八幡神社は4万社、稲荷神社は3万社。
p215
稲荷神社とキリスト教「INRI」
p217
茂木 意味は「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」。伏見稲荷の祝詞「それ神は、唯一にして御形なし、虚にして霊あり」。旧約聖書「ヤハウェ神」と同じ。
田中 祇園祭の八坂神社はスサノオが祭神。「ノアの方舟」を模した祭。また広隆寺近くの木嶋神社(このしま。通称は蚕の社)の三柱鳥居は三位一体を表しているともいわれる。
茂木 三位一体はアタナシウス派の教義。秦氏はネストリウス派とアタナシウス派に分裂か。
p220
多胡羊太夫(群馬県高崎市)と和同開珎
p221
田中 多胡氏のルーツは秦氏系。秩父あたりに銅を発見。大納言藤原不比等に貨幣提案。
茂木 708年、和同開珎。天武天皇の富本銭が初。
田中 ある意味、ユダヤ的価値(※貨幣。交換商品)を認めないこと。※一考。
田中 ユダヤ人のハラリ『サピエンス全史』は、ユダヤから見たもの。日本から見た『サピエンス全史』を書いてみたい。
p223
日本人は金より土地を信じてきた
※疑問
p225
茂木 ユダヤ人は貨幣を推奨し、利息を取ってきた。「外国人から利息を取ってもよいが、同胞から取ってはならない。(申命記23-21)」
※あとはメモを取らない。もう十分。

サグレスティア・ヌオーヴァ - ウィキペディア


サグレスティア・ヌオーヴァ - ウィキペディア

サグレスティア・ヌオーヴァ - ウィキペディア

メディチ家の2人の血縁者、ネムール公爵ジュリアーノ・デ・メディチ(1516年)とウルビノ公爵ロレンツォ・デ・メディチ(1519年)の死は、ジュリアーノの兄弟でロレンツォの叔父である教皇レオ10世を深く憤慨させ、王子の埋葬を確実に得たいと考えていました。また、いとこのジュリオ・デ・メディチ枢機卿(後の教皇クレメンス7世)も提案し、ミケランジェロのサン・ロレンツォ大聖堂のファサードプロジェクトを依頼し、芸術家をバシリカの新しいプロジェクトに巻き込みました。教会は1世紀にわたってメディチ家の埋葬地でしたが、当時は新しい記念碑的な複合施設を作成するスペースがありませんでした。フィリッポ・ブルネレスキドナテッロによって設計された歴史的な家族の礼拝堂、旧聖餐式は、全体を損なうことなく追加できない、落ち着いたバランスの落ち着いたバランスの構成でした。何人かの家族が埋葬されている地下室は、素晴らしさとお祝いに対するクライアントの願いを満足させませんでした。ロレンツォ・デ・メディチと彼の兄弟ジュリアーノ・デ・メディチでさえ、価値のある埋葬は準備されていませんでした。2人の「公爵」(または「船長」)と2人の「マグニフィセント」の休息場所として新しい環境を作る必要がありました。[2]

メディチ家礼拝堂 - Wikipedia


メディチ家礼拝堂 - Wikipedia

メディチ家礼拝堂

メディチ家礼拝堂(メディチけれいはいどう、: Cappelle medicee)は、フィレンツェサン・ロレンツォ聖堂に付属する、「新聖具室」と「君主の礼拝堂」と呼ばれる2棟の建物の総称。

サン・ロレンツォ聖堂は、イタリア人建築家フィリッポ・ブルネレスキトスカーナ大公家で聖堂のパトロンでもあったメディチ家の依頼で15世紀に改築した教会である。メディチ家礼拝堂はこのサン・ロレンツォ聖堂の拡張建造物として、16世紀から17世紀にかけて建設された。聖堂内部の新聖具室(Sagrestia Nuova)は、ミケランジェロの設計による建物である。君主の礼拝堂(Cappella dei Principi)の建設計画は16世紀からあったが、メディチ家と建築家との協業で設計がなされた17世紀初めになるまで着工されることはなかった。

新聖具室

新聖具室は[1]、建築家および彫刻家としてのミケランジェロの最高傑作の一つに数えられる。ブルネレスキとドナテッロによる「旧聖具室」の対を成す形で計画された。

歴史

ヌムール公ジュリアーノロレンツォ・イル・マニフィコの三男)とジュリアーノの甥のウルビーノ公ロレンツォ(ジュリアーノの兄ピエロ・デ・メディチの息子、マニフィコの孫)は、各々1516年1519年に若くして没した。各々の兄であり叔父にあたるローマ教皇レオ10世は、彼らの死を悼んでミケランジェロに彼らの墓廟をサン・ロレンツォ聖堂に造営するよう依頼した。

旧聖具室に新たな装飾を加えることは難しく、地下聖堂(クリュプタ)は委嘱主の意図する豪華な墓廟にそぐわないと判断された。また、マニフィコとその弟ジュリアーノの墓廟も未だ建設されていなかった。このことから、新たな建造物を作る必要性が出てきた。

建築計画

ミケランジェロは、この建築計画以前にサン・ロレンツォ聖堂のファサード建設をレオ10世の従弟ジュリオ・デ・メディチ枢機卿(後の教皇クレメンス7世)から受けていたが、様々な要因により1520年3月にその契約を取り消していた。これと同じ月に新しい礼拝堂の建設計画は始まったようである。ブルネレスキによる旧聖具室と対を成す形で、同じ形状の建物を建設することが意図された。工事に移るまでにミケランジェロは様々な装飾計画を考え、最終的にヌムール公とウルビーノ公の墓廟を左右の壁面に設置し、マニフィコと弟ジュリアーノの共同墓廟を祭壇に対面する壁面に設置するという考えに落ち着いた。しかし、1521年にレオ10世が没したことで、計画は一旦中断された。

最初の建設

ジュリオ・デ・メディチ枢機卿が1523年にクレメンス7世として教皇に選出されると、その年の12月にミケランジェロはメディチ家の墓廟建設のためサン・ロレンツォ聖堂に再び召喚された。この墓廟にレオ10世とクレメンス7世の墓廟も含めることも考えられたが、結局2人はローマサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に葬られることとなる。

1524年の春にミケランジェロは模型を作り、秋には白大理石の産出地カッラーラから大理石を調達した。1525年から1527年の間に少なくとも4体の彫刻(その中には『英語版』と『英語版』が含まれる)を完成し、その他4体の模型も完成していた。

1526年、マニフィコの墓が最初に壁面にはめ込まれた。

建設中断と再開

ローマ劫掠(1527年)により教皇クレメンス7世は強烈な打撃を受けたうえ、この機会にフィレンツェ市民はメディチ家支配に反旗を翻し、クレメンス7世の庶子でフィレンツェ僭主アレッサンドロ・デ・メディチを町から追放した。ミケランジェロは若年期からメディチ家と強い結びつきを持っていたものの、フィレンツェ共和国支持者の側について要塞の責任者として1529年から1530年フィレンツェ包囲戦英語版を戦った。この戦いにフィレンツェ人は負け、ミケランジェロは町から逃亡したものの、重度の処罰を避けるため自主的に町に戻った。クレメンス7世はサン・ロレンツォ聖堂での礼拝堂建設を直ちに再開するという条件でミケランジェロを許した。

こうして1531年4月に新聖具室の建設は再開され、夏までに2体の彫像が完成した。ウルビーノ公の肖像は1531年から1534年の間に制作され、ヌムール公の肖像は1533年に仕上げのためジョヴァンニ・アンジェロ・モントルソリ英語版に託されたことが判明している。同時期にミケランジェロは2体の寓意像『天』と『地』を用意していたが、後にニッコロ・トリボーロ英語版が完成し、ジュリアーノの墓の両脇の壁龕(ニッチ)に設置されることになっていたが実現していない。1532年から1533年の間にジョヴァンニ・ダ・ウーディネ丸天井(クーポラ)にストゥッコ装飾を施したが1556年ジョルジョ・ヴァザーリにより消されている。

ミケランジェロは新聖具室の仕事への意欲を失っていたことに加え、フィレンツェの政治状況に耐えかねて、ローマで新しい仕事を獲得したことを機に1534年、遂にフィレンツェを去り、以来フィレンツェに戻ることは一度もなかった。

未だマニフィコとジュリアーノの墓に捧げられる壁面は全く手を付けられておらず、河の神々の像やその他の彫像、フレスコ画など契約書にあった仕事は終わっていなかったが、この時点で新聖具室の仕事は完了と見做された。彫刻群が新聖具室に安置されたのは1545年のことで、トリボーロの指揮によるものだった[2]。 メディチ家の守護聖人である聖コスマとダミアーノの彫像はミケランジェロの模型をもとにそれぞれモントルソリとラファエロ・ダ・モンテルーポ英語版の手で彫られた。1559年になってようやくメディチ家の初代トスカーナ大公コジモ1世の命で、芸術家ヴァザーリと建築家バルトロメオ・アンマナーティの指揮下で礼拝堂は整備され、おおよそ今日の姿となった[3]

彫刻群

ミケランジェロは新聖具室の設計と同時に、新聖具室に葬られるメディチ家の主要な一族の霊廟のために『夜』と『英語版』、『夕暮英語版』と『曙』の装飾彫刻も手がけていた[4]。この4体の彫刻は、後世の彫刻家たちの同デザインの彫刻作品に多大な影響を与えることになった。聖堂右翼廊の新聖具室の隅には聖堂内部に通じる目立たない入り口があるが、現在この入り口は閉鎖されている[注 1]

新聖具室には当初メディチ家4名の霊廟が設置されることになっていた。しかしながら計画通りに制作されたのはヌムール公とウルビーノ公の霊廟だけで、残るフィレンツェ君主のマニフィコとジュリアーノの霊廟の制作は着手されることはなかった。制作されたヌムール公とウルビーノ公の霊廟の構成はよく似ており、装飾彫刻はそれぞれ対をなした主題となっている。壁面にある聖母子像もミケランジェロの作品である。聖母子の両横に配されたメディチ家の守護聖人である聖コスマスと聖ダミアンは、モントルソリとモンテルーポの作品である[注 2]。また、1976年には聖具室の下に、壁にミケランジェロのドローイングがある隠し廊下が発見された[5][6]

君主の礼拝堂

八角形の君主の礼拝堂は、ドーム状の屋根を持つ高さ59mの建物である。遠くからでも目立つ特徴的な建造物で、後陣の礼拝堂という聖堂身廊のなかでも重要な場所に位置している。君主の礼拝堂にはマドンナ・デッリ・アルドブランディーニ広場に面した入り口があり[7]ベルナルド・ブオンタレンティ英語版が設計した円天井の地下聖堂へと続いている[注 3]

豪奢な君主の礼拝堂の設計原案は初代トスカーナ大公コジモ1世によるもので、第3代トスカーナ大公フェルディナンド1世がこの原案を引き継いだ。トスカーナ大公の原案を容れて君主の礼拝堂を設計したのは、建築家マッテオ・ニゲッティ英語版である。ニゲッティが選ばれたのはコジモ1世の息子ドン・ジョヴァンニが1602年に非公式に行ったコンペを経てのことで、すでに老齢に達していたブオンタレンティの設計をやり直す目的でニゲッティに設計が一任された[8]。 壁面を大量の彩色大理石と半貴石で飾り立てるために、トスカーナ大公家は専門の加工工房を設立している(現在のピエトレ・ドゥーレ博物館英語版。完成した君主の礼拝堂はフィレンツェでは「商売人(commessi)」の芸術品と呼ばれ、全ての壁面が大理石や半貴石が織りなす複雑な文様で埋め尽くされていた。18世紀、19世紀の訪問者たちからの評判は悪かったが、現在では当時好まれた様式の一例として再評価されている[9]。礼拝堂内部には6個の石棺が安置されているが中は空である。これは、礼拝殿完成後もメディチ一族が地下聖堂に埋葬され続けたためだった。16枚に区分けされた装飾羽目板 (en:Dado (architecture)) には、メディチ家支配下時のトスカーナの紋章が表現されている。壁龕にはメディチ一族の有力者たちを記念する肖像彫刻があり、そのうちフェルディナンド1世の彫刻とコジモ2世の彫刻はピエトロ・タッカ英語版の作品である。

脚注

注釈

  1. 現在メディチ家礼拝堂への入場は有料で、君主の礼拝堂にある入り口が入場者用のエントランスとして使用されている。
  2. メディチ家の祖は医師あるいは薬師だったといわれており、医師と薬剤師の守護聖人である聖コスマスは医療箱を手にした姿で表現されている。
  3. 聖堂身廊の地下聖堂にはコジモ・デ・メディチドナテッロの墓がある。

出典

  1. Charles de Tolnay, Michelangelo, vol. III "The Medici Chapel" (Princeton, 1948); James S. Ackerman, The Architecture of Michelangelo
  2. Avery, Charles (1970). Florentine Renaissance Sculpture. John Murray Publishing. p. 190normal 
  3. ^ Antonio Paolucci. The Museum of the Medici Chapels and the Church of San Lorenzo. Sillabe Publishing 1999.
  4. ^ Michelangelo left no note of his "allegories" as he called them; the identification as Night and Day, Dawn and Dusk was first offered by Benedetto Varchi, 1549
  5. ^ Peter Barenboim, Sergey Shiyan, Michelangelo: Mysteries of Medici Chapel, SLOVO, Moscow, 2006. ISBN 5-85050-825-2
  6. ^ Peter Barenboim, "Michelangelo Drawings – Key to the Medici Chapel Interpretation", Moscow, Letny Sad, 2006, ISBN 5-98856-016-4
  7. ^ A sequence of small spaces leads from the Sagrestia Nuova also.
  8. ^ Touring Club Italiano, Firenze e dintorni (Milan, 1964) p. 285f.
  9. ^ TCI, Firenze e dintorni 1964:286: "indeed, conceived according to the Baroque aim of arousing stupefaction" (concepita già secondo il fine barocco di destare stupore).

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]

ウィキメディア・コモンズには、Medici Chapel (Basilica of San Lorenzo)に関するメディアがあります。

座標: 北緯43度46分31秒 東経11度15分13秒 / 北緯43.7751444444度 東経11.2535722222度 / 43.7751444444; 11.2535722222

2024年11月19日火曜日

ユダヤ教徒最大の聖地、“嘆きの壁”。 | 一期一会で世界を周る

ユダヤ教徒最大の聖地、"嘆きの壁"。 | 一期一会で世界を周る

ユダヤ教徒最大の聖地、"嘆きの壁"。

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シャローム!(こんにちは)

エルサレム旧市街は、

ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の三大宗教の聖地。

イスラム教徒はムハンマドが昇天した岩のドームをイスラム第3の聖地に。

キリスト教徒は前回紹介した、

ヴィア・ドロローサの最終地点、イエスが磔刑に処せられた聖墳墓教会を聖地に。

そして今回紹介するのはユダヤ教の聖地、

ユダヤ民族の象徴である嘆きの壁

今日もどうぞ宜しく。



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イスラエル軍による厳重なセキュリティチェックを受け、

その敷地内に入ることが許される。

早速お祈りをしているユダヤ教との正統派の男性を見かけた。







嘆きの壁。

その昔、

ここにユダヤ教徒の神殿があったがローマの将校により破壊され、

神殿を囲む西側の外壁だけが残った。

それが嘆きの壁。

なのでこの壁は、Western Wall(西の壁)とも呼ばれている。







夜になると石の間にたまった夜露が壁に生えるヒソプの草を伝って落ちてくる、

それが涙を流すユダヤ人の姿を映しているようであったことから、

嘆きの壁と呼ばれるようになった。







この独特の黒服・黒帽子を着ているのは
「超正統派」といわれるユダヤ教の中でも最も厳格なグループのこと。

イスラエルでは女性を含め全国民に兵役が義務付けられているが、
彼らは例外的に兵役を免除されている。

また働くこともなければも納税もせず、
聖書の学びのみで暮らしている。

ではどうやって食ってるのかというと、
国からの生活保護を受けお金をもらっているとのこと。











壁の高さは現在21m。

下から7段目までは第二神殿(紀元前516年から紀元後70年)の時代、

8段目から11段目がウマイヤ朝(661年~749年)及びファティマ朝(969年~1071年)、

12段目以上の小さい石の部分はオスマン帝国時代のもの。











では歴史をかなりザックリと。


神殿は70年にローマ帝国の将校によってに破壊され、
その後ユダヤ人はエルサレムから追放される。
彼らはその後、年に一度しかお祈りのためにエルサレムに入れなくかった。


16世紀のオスマン帝国時代、第16代の皇帝が、
ユダヤ人に壁で祈りを捧げることをついに許可した。
それまでユダヤ人はシナゴーグ(ユダヤ教会)やオリーブ山など限られた場所でだけ祈っていた。


1852年、ユダヤ人は壁の祈りのスペースの独占権を得て、更に壁の所有権も主張しはじめる。


20世紀に入ると※シオニズム運動が盛んになり、

※ユダヤ人の独立国家を建設しようという運動

嘆きの壁を独占しようとするユダヤ人に、それまで住んでいたパレスチナ人達の怒りが
爆発し、パレスチナ全土での武力衝突に発展していく。


第三次中東戦争の後1967年にイスラエルが東エルサレムも制圧、
1900年にも及ぶユダヤ人の悲願が叶った。


イスラエルによって嘆きの壁周辺のパレスチナ人民家とモスクは取り壊され、
現在は周りにユダヤ人地区が広がっている。


色々と複雑な問題が山積みのようですね。















観光客や巡礼者も皆思い思いに祈っています。











ユダヤ人たちにとっての心の拠り所、

嘆きの壁の記事でした。

エルサレム観光のハイライトの一つなので必ず行ってみてね。

今日も読んで頂きありがとうございました。

ではっ。




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モーシェ・ベン=マイモーン - Wikipedia

モーシェ・ベン=マイモーン - Wikipedia

アイユーブ朝前後のアラビア語資料ではイブン・マイムーンの名前で表れるが、ラテン語でのマイモニデスという名前でも知られている。ラムバム RaMBaM (הרמב"ם) という ...

未指定:丸薬


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%B3

モーシェ・ベン=マイモーン

ラビ・モーシェ・ベン=マイモーンヘブライ語: רבי משה בן מיימון‎ Mōšéh ben Mayimōn, アラビア語 ابو عمران موسى ابن عبيد اللّه ميمون القرطبي الإسرائيلي‎ ​ Abū 'Imrān Mūsa ibn 'Ubayd Allāh Maymūn al-Qurṭubī al-Isrā'īlī, スペイン語:Moises Maimonides, ラテン語(本来はギリシア語):Moses Maimonides, 1135年3月30日 - 1204年12月13日[5])は、スペインユダヤ教徒ラビであり、哲学者医学天文学神学にも精通していた。アリストテレス主義者、新プラトン主義者。

その業績は「モーシェの前にモーシェなく、モーシェの後にモーシェなし」と称賛され[6]ルネサンス人文主義の先駆者と評価される[7]

アイユーブ朝前後のアラビア語資料ではイブン・マイムーンの名前で表れるが、ラテン語でのマイモニデスという名前でも知られている。ラムバム RaMBaM (הרמב"ם) という、「ラビ・モーシェ・ベン=マイモーン」の頭文字をとったヘブライ語的な略称でも知られる[8]

生涯

コルドバ出身[9][10]。代々続くラビの名門の出身で、一族は判事、学者、財政家を輩出した[11]。モーシェの父ヨセフは学者として有名であり、コルドバのユダヤ教徒社会の最高判事も務めた。母はモーシェを生んだ直後に亡くなった[12]

モーシェ自身も青少年時代を同地で過ごしユダヤ教学やアラビアの諸学問について研鑽に努める[13]。ヨセフからは数学と天文学の基礎のほかに、ユダヤ神学とラビ文学を教わった[14]。ヨセフの思いに反して幼いモーシェは学問に興味を示さず、父の厳格な教育に耐えかねて家出したことが伝えられている[15]。同郷人であったイブン・ルシュド(アヴェロエス)ともこの時代に知己を得ていたと伝えられる[16]

ムワッヒド朝によるユダヤ教キリスト教徒への迫害・虐殺を避けるためイスラームに偽装改宗するが、それでも危険と判断しアルメリア地方へ移住。ここも程なくムワッヒド朝軍の侵攻に晒され、モロッコフェズに移住した。放浪の旅の中での見聞は、モーシェの視野の成長に大きく寄与した[6]。モーシェは旅の合間にユダヤ暦を扱った論文を書き上げ、『ミシュナー註解』の編集に取り掛かった[6]

フェズ居住中、モーシェは隠れユダヤ教徒(棄教を強制されて表面上は改宗したように見せかけたユダヤ教徒)を攻撃する匿名の書簡に反論する文書をしたためた。これが公刊された最初の論文となった[17]。フェズでモーシェたちは強制的に改宗させられる危機に直面するが[18][19]、一家は信仰の放棄と殉教のどちらも選択せず、1165年4月にパレスチナ行きの船に乗って出立した[14]。翌5月にアッコンに到着、パレスチナでは十字軍に護衛されながらユダヤ教の聖地を訪問した。

1166年カイロ南部のフスタート(旧カイロ)に移住するが、同年に父ヨセフを亡くす[14]。ここでイスラーム教徒の友人の助けを借りてイスラーム法廷で、本来ならば非常に難しいイスラームへの改宗の無効化を勝ち取る。父の死後にラビ職に就くが、モーシェは報酬を受け取ろうとはしなかった[20]。そのため、弟のダビデが遺産を元手に宝石商を始め、モーシェの代わりに一家を支えた[21]。ヨセフの没後は宝石商を営む弟ダビデが生計を支えていたが、ダビデが海難事故で亡くなると一家は困窮し、モーシェは医業によって家計を支えることを決意する[14]。移住後、現地のユダヤ教徒社会の指導者として活躍し[10]、職務には無給で従事した[14]。ユダヤ人社会で起きた法的問題に当を得た回答をし、相談者たちはモーシェを称賛した[22]。しかし、健康を害して床に臥せることが多くなり、しばしばカライ派と対立した[18]。フスタート移住後、バビロニア派とパレスチナ派に分かれた、異なる宗教儀礼を行う現地のユダヤ人の統合を試みた[23]

移住後にかねてから編集していた『ミシュナー註解』を完成させ、1168年に発表した。1173年、モーシェはエジプトを支配するアイユーブ朝の君主サラーフッディーン(サラディン)の妃に仕えていた女性と結婚する[24]

モーシェはアイユーブ朝のカーディーアル=ファーディルと親交を結び、1185年[25](あるいは1187年ごろ[26])に宮廷医に指名される。ファーディルの信頼を得たことで医師としての名声が高まり、宮廷医としての名声は彼をカイロのユダヤ人共同体の指導者の地位に就けた[26]。また、1185年にはモーシェに息子が生まれ、彼は子にアブラハムと名付けた[26]

モーシェはサラディンおよびその子アル=アジーズの侍医となり、イスラムの王侯貴族達を診察した。イングランドリチャード1世からイングランド王室の侍医になるよう打診されたが、モーシェは「野蛮」なヨーロッパ世界よりも「文明的」なイスラム世界を好み、勧誘を断った[7][27]

1204年にフスタートで没する。遺体はモーセの辿った道を運ばれてガリラヤ湖畔ティベリアに葬られ、その墓は今なお巡礼者が絶えない。葬列はベドウィンに襲われたが参列者の中に動揺する者は無く、ベドウィンたちも葬列に加わった伝承が残る[28]。カイロのラッビー・モーシェ・ベン=マイモーンのシナゴーグの地下の一室は、病んで貧しいユダヤ教徒が夜を過して平癒を祈る所となった。

1953年イスラエルで国際科学史会議が開催された記念として、モーシェの切手が発行された[29]。また、モーシェの肖像画はイスラエルで発行された紙幣にも採用された[30]

著作

モーシェは講義を好まず、著述によって自身の思想を伝えることを好んだ[31]。著作はアラビア語で行われたが、それは直ちにヘブライ語に訳された。彼の死後数十年して、さらにラテン語に翻訳された。

ユダヤ法学

ミシュネー・トーラー』を合わせて、ベン・マイモンは可能な限り広範囲で、深みのあるユダヤ法法典を作り上げた。この仕事は、タルムードからはすべての拘束力のある法を収集し、ゲオーニームの立場を取り入れている。

のちのユダヤ法法典、たとえばラビ・ヤアコブ・ベン・アシェルによる『アルバア・トゥリーム』、ラビ・ヨセフ・カロによる『シュルハン・アルーフ』は『ミシュネー・トーラー』に大きく依存している。しかし、公開当時には多くの反対があった。それには主に二つの理由があった。最初、ベン・マイモンは著作を簡潔にするために原典への引照をつけなかった。第二に序論でユダヤ法を完結に至たらしめるためにタルムードの研究を「切り捨て」ようとしている印象を与えた。後に彼はそのような意図はなかったと書いている。彼の最も強力な反対者はプロヴァンスのラビたちであり、ラビ・アブラハム・ベン・ダヴィド(ラアヴァド3世)による批判は『ミシュネー・トーラー』のほぼすべての版に印刷されている。

それは依然ハラハー(ユダヤ法)の体系化のためにの記念的貢献だと認識されていた。何世紀にも渡って広く研究され、そのハラハー的決定は後の判決にも重く掛かってきた。ラビ・ヨセフ・カロは、『ミシュネー・トーラー』に従う人たちに、『シュルハン・アルーフ』や他の後の法典に従うよう強制しようとする者達に応えてこう書いている。「誰がラムバン(ベン・マイモン)に従うコミュニティに他の裁定者に従うことを強制するだろうか?......ラムバンは最高の裁定者であり、イスラエルの地とアラブの地、マグレブ諸国すべてのコミュニティは彼の言葉に従って実践しており、彼を彼らのラビとして受け入れている」

彼のよく引用される法的格言に「罪のない一人を死刑にするよりは、千人の犯罪者を無罪とする方がよい」がある。彼は絶対的な確実性に満たないもので被告の処刑を行うと、立証責任の減少へと落ち込んで行き、我々は気ままに有罪判決を下すようになるであろうと論じた。

ユダヤ神学、哲学

モーシェ・ベン=マイモーンが残した最大の成果は、従来の膨大なユダヤ法に関する諸資料を体系的に分類し、かつ法典化した『ミシュネー・トーラー』である[10]。同書はタルムード・アラム語ではなく、ミシュナの形式のヘブライ語で書かれている。『ミシュネー・トーラー』は『ミシュナー註解』と合わせて、ユダヤ人社会で高い評価を受けた[14]

また、哲学書『迷える人々の為の導き』は、信仰を失った哲学者たちに呼びかけた著作で、その目的は、アリストテレスとユダヤ教神学とを宥和させることにあった。トーラーの聖句に隠された意味についてアリストテレス派[10]と、ファーラービーイブン・スィーナーらアラブ哲学者の見解を用いて読み解こうと試み[13]、ユダヤ教神学を合理的に解釈した。アリストテレスは月下の世界に関する権威だが、啓示というものは天上の世界に関する権威である、と彼はいう。しかし神に関する知識において哲学と啓示とは合一するのであり、真理の追求は宗教的な義務であるという。イスラム世界では物議をかもし[13]、保守的な思想を持つユダヤ人の一派はモーシェの哲学書を焼却した[32]。その思想はあまりに合理的すぎると批判もされたが、聖書の哲学的解釈の先駆けとして後世に影響を与えた[10]

後に『迷える人々の為の導き』はラテン語に訳され、アルベルトゥス・マグヌストマス・アクィナスエックハルトらのキリスト教神学者達から高い評価を受ける[10][13]

モーシェは自身の思想は理解しがたい高度なものであると考えており、読者が一定の学識を有することを前提として著述を行った[33]。そこには無知な一般大衆を蔑視するモーシェの態度が表れているが[34]、それでも文章の表現は華美と評価されている[33]。もっとも、相手を嘲笑する文体はモーシェ自身も嫌悪しており、極力表現を抑えようと努力していた[35]

迷える者たちの導き

迷える者たちの導き(Arabic: دلالة الحائرين, dalālat al-ḥā'irīn, Hebrew: מורה נבוכים, Moreh Nevukhim)はマイモニデスによる三つの主著の一つである。この著作は多くの事例について合理的な説明を見出すことによって、ヘブライの聖書学とアリストテレス哲学の調和を探求している。ヘブライ文字で表記された古典アラビア語(ユダヤ・アラビア語)で書かれ、彼の弟子であるセウタのヨセフ・ベン・ユダに送った、三つの部分からなる書簡からなり、マイモニデスのユダヤ法に関する意見とは異なる、哲学的見解の主な情報源となっている。ごく少数の人によってこの著はマイモニデスの作品ではなく、匿名の異端者によって書かれたと信じられている。その中で注目されるのは18世紀の学者レブ・ヤアコブ・エムデンである。

彼の神学的見解や宗教と哲学の関係などの哲学的概念の多くは厳密なユダヤ教神学を超えて関連しているため、非ユダヤ世界において最もマイモニデスに関連づけられている著作であり、幾人かの主要な非ユダヤ人の学者たちにも影響を与えた。その公刊に続いて「中世の残りの時代のほぼ全ての哲学的作品はマイモニデスの見解を引用、注釈または批判した」。ユダヤ教内部においても『導き』は広く普及し、多くのコミュニティが写本を求めたが、同時に一部のコミュニティではその研究を制限したり禁止したりなどの論争を引き起こした。

構成

1190年頃書かれ、1204年に同時代人のサムエル・ベン・ユダ・イブン・ティッボンによってヘブライ語に翻訳された。マイモニデスは『導き』を以下のものとして書いた。

「吾々の聖なる律法の真理を信じるように訓練され、道徳と宗教的義務を誠実に果たし、同時に哲学的研究に熟達した宗教的な人を啓発するため」 「この書には第二の目的がある。預言者達に現れるある曖昧な異象を説明しようとするものであり、それらは異象として厳密に特徴づけられていない。無知で皮相的な読者はそれらを象徴的ではなく文字通りに解釈する。知識ある人であっても文字通りに理解する時は困惑してしまうが、我々がその象徴を説明したり、その語が単なる比喩であることを示唆すれば困惑から完全に解放される。故に私がこの書をして『迷える者たちのための導き』と題した所以である」

また彼は、ユダヤ神秘主義において聖書の主要な二つの神秘的テキストである創世記(ベレーシート)における創造の神学と、エゼキエル書から神の戦車(メルカバー)の神学に関する部分に体系的な注釈をした。これらの分析は第三巻で行われ、この観点から、最初の二巻で提起された諸問題は、前提・背景と、この深奥を考察するために要求される神秘的・哲学的知識における進歩を提供する。

第一巻

神人同形論に反対するマイモニデスの論からこの巻は始まる。聖書において、例えば「神の手」のように、人間を指す用語を神に転用する多くの表現を見出すことができる。マイモニデスは神が肉体的であると見なす異端に強く反対した。それが事実でないという彼の信念を説明するためにヘブライ語の単語の分析のために最初の20章用いた。各章は神を指すために使用される用語についてであり、いずれの場合もマイモニデスはそれらの単語が同名異義語であるというケースを提示した。そのため物質的なものを指す使用法と、神を指す場合の使用法とは意味が完全に異なるとする。これは神が完全に非肉体的であるという証明としてマイモニデスが見出したものを提示するために、聖書の用語の詳細な分析によって行われた。

「マイモニデスは神の非肉体性を教義として設定し、これを否定する人を偶像崇拝者のレベルに置いた。彼は『導き』の最初の部分の多くを聖書における神の擬人化の解釈に割き、それぞれの語の意味を定義し、超越的な形而上学的表現でそれを解釈するように努めた。それらのいくつかは完全な同名異義として彼によって説明されて、二つかそれ以上の絶対的な多義を示している」

これは神は肯定的な言葉では説明されず、むしろ否定的な概念のみで説明されるというマイモニデスの考えに繋がる。

また68章、69章では哲学者の説を紹介し、それを以て神を"思惟するものと思惟されるものとが同じである思惟"として説明し、形而上学を深く修めた者でなければ理解することができない教説としている。

医学

「真理の認識」には身体の健康と正しい生活様式が重要な役割を持つと、モーシェは考えていた[36]。「最も素晴らしい神を礼拝する行為の1つ」として、若いころから医学の研究に打ち込んでいた[36]

喘息、痔疾、性交、ヒポクラテスガレノスの箴言への注釈、養生論中毒学医療倫理学など、多岐にわたる分野の著書を残した。『医学至言集 al-Fuṣūl fil-Ṭibb』が医学関係著書のうちで最も有名。割礼法を改善し、痔疾は便秘より起るとし、その療法に野菜を主とする軽い食事を奨めた。著書はアラビア語で書かれ、後にヘブライ語、ラテン語に訳された[37]。さらに近代各国語にも訳され、死後にユダヤ人世界の医学聖人とされて尊敬を受ける[27]

思想

モーシェは過去のアラビア、ギリシャ、ユダヤの哲学者たちの思想を研究していたが、その中で師として認めていたのはアリストテレスだけだった[38]。また彼はアリストテレスに反対して、神は無から形相を創造したばかりでなく質料をも創造したのだ、と主張している。『ティマイオス』(このアラビア語訳を彼は知っていた)の概要をも述べていて、そのプラトンの対話篇を若干の点でアリストテレスより優れたものであるという。

同時代の人間が関心を持っていた歴史書、諸王の言行録、系譜図、歌謡集には興味を持たず、無為なものと考えていた[39]。同時代の低質な読み物と、その中で述べられている意見を冷たい目で見ていた[35]

モーシェ・ベン=マイモーンは占星衝を否定している。モーゼ五書はかならずしも文字通りにとるべきではなく、文字通りの意味が理性に反する場合には、比喩的な解釈を求めねばならないという。

さまざまな完全性を属性とする神の本質は知り得ないものである、とも彼はいう。ユダヤ人たちは彼を異端視し、キリスト教会の権威者たちを引きあいに出して、彼を論難するようなことまでやった。同胞から迫害されたところが、聖書を合理的に解釈してユダヤ教徒たちに破門されたスピノザと共通している。さらにスピノザの祖先がスペイン出身であったことなどから、モーシェからスピノザへの思想上の系譜を想定する学者もいるが、バートランド・ラッセルはそれは疑わしいとしている。

13の信仰箇条

キリスト教と異なりユダヤ教には信仰箇条・信条というものは存在しないが、歴史の中でそれらを作成する試みがされなかったわけではない。代表的なものがモーシェ・ベン=マイモーンによるものである。モーシェの信仰箇条は、多くのユダヤ人から権威ある指針と見なされた[25]

en:Jewish principles of faith も参照

  1. 神の存在/創造者である神 The existence of God
  2. 神は唯一である God's unity
  3. 神の精神性と非物質性(無形性) God's spirituality and incorporeality
  4. 神の永遠性 God's eternity
  5. 唯一神のみが礼拝の対象となりうる God alone should be the object of worship
  6. 神の預言者を通じての啓示の信頼性 Revelation through God's prophets
  7. モーセの預言者の中での傑出性 The preeminence of Moses among the prophets
  8. シナイ山で賜った神のトーラー God's law given on Mount Sinai
  9. 神のトーラーの不変性 The immutability of the Torah as God's Law
  10. 人間の活動に対しての神の全能性 God's foreknowledge of human actions
  11. 善行と邪悪なものへの報酬 Reward of good and retribution of evil
  12. メシアの到来 The coming of the Jewish Messiah
  13. 死者の復活 The resurrection of the dead

作品

脚註

  1. "H-Net". 1 January 2008閲覧。normal
  2. "Maimonides Islamic Influences". Plato. Stanford. 1 January 2008閲覧。normal
  3. Moses (1138-1204)[リンク切れ]
  4. "Isaac Newton: "Judaic monotheist of the school of Maimonides"". Achgut.com (2007年6月19日). 2010年3月13日閲覧。normal
  5. MOSES BEN MAIMON Jewish Encyclopedia
  6. ^ a b c ザハル『ユダヤ人の歴史』、305頁
  7. ^ a b ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、190頁
  8. 矢島祐利『アラビア科学史序説』(岩波書店, 1977年3月)、235頁
  9. "The Guide to the Perplexed". World Digital Library. 22 January 2013閲覧。normal
  10. ^ a b c d e f 小林「イブン・マイムーン」『岩波イスラーム辞典』、165-166頁
  11. ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、189頁
  12. ヘッシェル『マイモニデス伝』、27頁
  13. ^ a b c d 黒田「マイモニデス」『新イスラム事典』、446-447頁
  14. ^ a b c d e f コートネイ「イブン・マイムーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻、415-417頁
  15. ヘッシェル『マイモニデス伝』、28頁
  16. ヘッシェル『マイモニデス伝』、30頁
  17. ヘッシェル『マイモニデス伝』、52-58頁
  18. ^ a b ザハル『ユダヤ人の歴史』、306頁
  19. ヘッシェル『マイモニデス伝』、62頁
  20. ヘッシェル『マイモニデス伝』、80頁
  21. ヘッシェル『マイモニデス伝』、82頁
  22. ザハル『ユダヤ人の歴史』、308頁
  23. ヘッシェル『マイモニデス伝』、99-100頁
  24. ヘッシェル『マイモニデス伝』、340-341頁
  25. ^ a b ザハル『ユダヤ人の歴史』、307頁
  26. ^ a b c ヘッシェル『マイモニデス伝』、216頁
  27. ^ a b 梶田『医学の歴史』、149-150頁
  28. ザハル『ユダヤ人の歴史』、309頁
  29. 矢島祐利『アラビア科学の話』(岩波新書, 岩波書店, 1965年)、154頁
  30. 上田『ユダヤ人』、49頁
  31. ヘッシェル『マイモニデス伝』、94頁
  32. ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、190-191頁
  33. ^ a b ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、191頁
  34. 上田『ユダヤ人』、50-51頁
  35. ^ a b ヘッシェル『マイモニデス伝』、43頁
  36. ^ a b ヘッシェル『マイモニデス伝』、34頁
  37. カステーヨ、カポーン『図説ユダヤ人の2000年 歴史篇』、143頁
  38. ヘッシェル『マイモニデス伝』、37頁
  39. ヘッシェル『マイモニデス伝』、35頁

参考文献

  • 上田和夫『ユダヤ人』(講談社現代新書, 講談社, 1986年11月)、49-51頁
  • 梶田昭『医学の歴史』(講談社学術文庫, 講談社, 2003年9月)、149-150頁
  • 黒田壽郎「マイモニデス」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
  • 小林春夫「イブン・マイムーン」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
  • エレーナ・ロメーロ・カステーヨ、ウリエル・マシーアス・カポーン『図説ユダヤ人の2000年 歴史篇』(那岐一尭訳, 同朋舎出版, 1996年7月)、143頁
  • マックス.I.ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻(藤本和子訳, 朝日選書, 朝日新聞社, 1984年10月)
  • ウィリアム.J.コートネイ「イブン・マイムーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1980年12月)
  • A・J・ヘッシェル『マイモニデス伝』(森泉弘次訳, 教文館, 2006年7月)
  • アブラム・レオン・ザハル『ユダヤ人の歴史』(滝川義人訳, 世界歴史叢書, 明石書店, 2003年8月)
  • 中村小夜『昼も夜も彷徨え:マイモニデス物語』(中公文庫、2018年)

文献案内

  • Marvin Fox Interpreting Maimonides, Univ. of Chicago Press 1990.
  • ユリウス・グットマン Julius Guttman, Philosophies of Judaism Translated by David Silverman, JPS, 1964
  • Maimonides' Principles: The Fundamentals of Jewish Faith, in "The Aryeh Kaplan Anthology, Volume I", Mesorah Publications 1994
  • Dogma in Medieval Jewish Thought, Menachem Kellner, Oxford University press, 1986
  • Maimonides Thirteen Principles: The Last Word in Jewish Theology? Marc. B. Shapiro, The Torah U-Maddah Journal, Vol. 4, 1993, Yeshiva University
  • A History of Jewish Philosophy, Isaac Husik, Dover Publications, Inc., 2002. Originally published in 1941 by the Jewish Publication of America, Philadelphia, pp. 236-311
  • マンフレッド・ウルマン『イスラーム医学』橋爪烈・中島愛里奈訳、青土社、2022年

外部リンク

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、モーシェ・ベン=マイモーンに関連するカテゴリがあります。
ウィキクォートマイモニデスに関する引用句集があります。

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