2025年5月3日土曜日

川守田英二


川守田英二
第6章 日本ヘブル語の諸問題
第二節 文字入縄紋土器の発見とその意義

一、発見の事情

 最近日本のある方面では古代文字の有無論が再燃している。公平なベースボールのアンバイャーになった積りで、その有無論を批判すれば、どうも無いという方が論拠が強いようだ。ところが、今より十八年前、私は東北民謡現地踏査中、はしなくもカルデャ文字 「アーレフ」「ヨード」二字を浮彫させ縄紋土器を発見したのである。同地方に行わるる「ナニアド ナサレ アエノ ナニアドレャー」(彼方へわれらアエノ族を追払わんとす、前方へエホバ神進み給え)という簡単な歌詞を追究して行ったら、段々複雑になって、遂には紀元前一四四六年(三四〇〇年の昔)に起った、イスラエル民族の出埃及の軍旅の歌にまで遡ってしまった。学究の責任上、現地踏査のため帰朝したが、己が郷土岩手県一戸町へ帰ったら、少年の頃、矢の根石を拾い漁った桑畑の中から、ザクザクと縄紋土器が出土し、その大部分は久慈という素封家に保存してあるとの事だ。行って見せて頂き、その検分中、「ア、大変なものがある」と私は叫んだ。立会の人々は、巧妙無比な土偶のことでもあろうかと目を見張っている際、私は片隅に無雑作に放り出してあった、蓋様のカワラケを拾い上げた。皆んなが呆気にとられているところで「この蓋はやがて国宝となる時が来る」と預言した。
案の如く、次回、今一度この土器を見せて貰いに行った時には、黄色の布につつまれ桐の箱に納められ、当に国宝待遇を受けていた。後に高松宮殿下にもお目見得したという。


二、何と読むべきか

 三四〇〇年前イスラエルの民族が雲の柱、火の柱に導かれながら歌った古謡の保存せらるる地帯で、カルデャ文字入の縄紋土器を発見したのだから、たったそれだけでも外部的証拠を挙げた喜びで満足すべきである。 所がこの二字を何とよむべきかということは一層興味深いことであらねばならない。

①最初この二字を、そのままゲゼニアスの辞書で索引し、その二項に従って「オイ」と読んだ。その意味は「嗚呼」または「禍なる哉」の語義なので、納骨棺の蓋でもあろうかと思った。

②ところが、地中海のパレスチナに再建されたイスラエル国の郵便切手にこの二字が印刷され、「エーレッツ 「イスラエル」と読ませ、「イスラエル国」の略字に用いられている。

③ しかしこれは「エーレッツ ャウーダ」と読んで「ユダャの国」の略字にもなる。日本は北朝イスラエル(失われた十族)よりも南朝ユダャ (失われざる二族)と関連しているからである。 

④更にこれは日本で発見された以上、「エーレッツ ャアマド」と読んで 「ヤマド(天壊無窮の意の国」とも解される。 「ヤマド」の解説は別に一論文に価するからここに省く。

⑤更に「ヤマト」の国の主権者の名を借りて、「エーレッツ イワレ」即ち「磐余(伊波礼)日子の国」とも読まれる。日本ヘブル詩歌の大半は神武天皇に関連しているからだ。

⑥ 何れにしても、少なくも「エーレッツ ャーエ」即ち「エホバ(神)の国」と解すれば、右の一切を包容する釈明を得るのである。神功皇后の新羅征伐の時、日本は外国に神の国として知られていた。「吾聞く、東に神の国あり、ヤマトという。またヒヂリのキミあり、天皇という、必ずその国の神兵ならん」云々。

⑦こうなると、この二字を「イ・ヨ」(伊予の地名を連想せしむる)と読んで、英語で「アイランド・オブ・ヤーエ」 (N)と訳し、日本語の「エホバの島国」という解釈もつく。この島国という語の複数形「イイム」はイザヤ書に頻々と出て来て、大抵日本列島を指示している。即ち二四章一五節、四一章一節、四二章一〇節『海にうかぶもの海の中に充つる者、もろもろの島およびその民よ、エホバに向いて新しき歌をうたい、地の果よりほまれをたたえまつれ』 『この故に汝ら東にてエホバを崇め、海の島々にてイスラエルの神のみ名を崇むべし、われら地の極より歌をきけり』。

三、土器の重大性
この土器の持つ重大性は多々ある。

①縄紋土器はアイヌ土器に非ず、如何となればそれはアイヌ民族掃盪の歌を高唱した固有日本人祖先の遺物なればなり、と結論されるからだ。従来の考古学では、縄紋土器をアイヌ土器と見做し、彌生式土器のみを固有日本人々祖の遺物と鑑定して来た。しかるに、 右の土器が出土したことによって、縄紋土器も彌生式土器も共に固有日本人祖先の異なる文化過程の遺物であることが明示されたからである。

② 日本に先住した諸民種を統合せる天孫民族は文字の知識を包含していたが、文字の普及よりも諸民種に通用する大和言葉の大成の方が当時刻下の急務であった。「言霊の幸はう国」というのは、文字の国に対する自慢の種ではなく、 事情止むを得なかったのである。通用する言葉さえ出来ていない国では、文字の普及は意味をなさない。

③模様化されたる文字 私がこの文字入縄紋土器について発表するに至らしめた一つの刺戟
は、秋田県北秋田郡沢口村出土の縄紋土器にも、鮮やかに「アーレフ」 「ヨード」の二字が花文字で浮彫にされてあるからである。一般に普及の出来なかった文字は、象徴化され、模様化されて、装飾の役目を果す外に途がなくなった経路を思わしめる。神社の護符などにある記号なども同一轍の経路を経て、次第に原型から遠ざかったものであろう。

④古代文献古代天孫民族はヘブル語で書いた文献を持っていたに相違ない。
しかし、それは皮や紙に書いた巻物であったに相違ないから、湿気の多い日本の国土では長く保存せられなかった

2025年5月2日金曜日

#18 阿波国、徳島藩と蜂須賀家|kanakana@とくしま御朱印なび

#18 阿波国、徳島藩と蜂須賀家|kanakana@とくしま御朱印なび

#18 阿波国、徳島藩と蜂須賀家

見出し画像
ブログを始めたときから気になっていたことが新聞記事にあったので、ものすごく久しぶりに長文で更新。

先日、徳島新聞電子版でたまたま見たこの記事なんですが。

⇩⇩⇩

【阿波藩はなかった?】「徳島藩」が呼称としては適切

時代劇とか、歴史的な話でよく見る「○○藩」という呼称。徳島の場合はなぜか「徳島藩」と「阿波藩」と2種類の呼称があるんですよね。

でも、正式名称はひとつしかないはずなので、どちらかが間違いなわけです🤔

神社仏閣のご由緒だったり歴史的な話をいろいろ調べていると、紙媒体・インターネット問わず、びっくりするほどここの表記がバラバラでした。

歴史は好きな方ですがめちゃめちゃ詳しい!というほどではないので、ブログを始める頃に悩んだ記憶があります。

この

「阿波藩」
「徳島藩」

ど っ ち や ね ん 問 題。

▼▼▼▼▼

実は、幕藩体制まっただ中の江戸時代には「藩」という表現はほとんど使われていなかったそうです(「幕藩体制」という言葉も後からできたもの)。

意外ですね!

明治時代になってから【藩主の居所の地名】+【藩】という呼称が行政区分として正式に定義されたとか。

とすると、徳島の場合は蜂須賀の殿様は徳島城表御殿に住んでたので、【徳島藩】が正解のはず…。

そもそも「藩」と「国」は別のもので、

藩=大名の領地のこと、幕末にはおよそ300の藩があった
国=令制国(りょうせいこく)、現在の都道府県的な行政区分で68か国があった

こういう違いがあります。

300と68。

数がぜんぜん違うのでひとつの国に複数の藩があることがほとんどですが、複数の国がひとつの藩になっているパターンもありました。

徳島藩は後者で、阿波国と淡路国(淡路島)の2つの国で構成されています。

じゃあ、「阿波藩」ってやっぱりしっくりこないよね…淡路はどこ行った。

"当時はなかった呼称だからどっちでもええわ"という意見もあると思いますが、せっかく定義づけされてるなら正しい呼称を使いたいですよね🤔

ブログやインスタグラムで徳島の御朱印情報や神社仏閣のこと、歴史、うんちくなどをかれこれ2年ほど書き散らかしてますが、一番気をつけているのが情報の正確性です。

とか言いながら、最近もインスタで「四国霊場に臨済宗妙心寺派のお寺はひとつしかない(ドヤァ)」って書いて、フォロワーさんにこっそり教えてもらいました。ひとつしかないのは曹洞宗のお寺でした(テヘペロ☆)。

どんなにご大層なことを言ってても、誤字脱字とかあると一気に信憑性がなくなるというか。

簡単な誤字脱字に気づかないということは、おそらく自分で書いた文章を読み返しもしないうっかり屋さんでしょう。

あんまり信用できなくないですか😂

それはさておき、自分で情報発信するうえでは「徳島藩」が正しいものとして統一してたんですが、本当にこれで合ってるのか実はずっと不安でした。

冷静に考えれば新聞記事内にもあるとおり、

"阿波"とは国の名前であり、藩としては阿波と淡路(淡路島)両国で徳島藩である

これがジャスティス。

そう解釈しているんですが、なぜか文献などでは正しいはずの「徳島藩」表記のほうが劣勢なんですよね。。。

でも、これでようやく自信を持って「徳島藩」って言えるYO!

ただし、藩主のことを指す場合は「阿波(の国の)藩主」的な解釈もできるので、文脈次第な気もしますが。

ニホンゴ ムズカシイデスネー🤷

「家祖」と「藩祖」と「初代藩主」

画像1

画像は史料館の映像資料からですが、これも「阿波藩主」表記なんですわ。

阿波藩・徳島藩問題に続き、藩主のカウントもルールがあります。

領地替えなんかで藩主が途中で変わっている国も多いですが、阿波国は江戸から明治まで一貫して蜂須賀家が藩主でした。

蜂須賀家はもともと尾張国(愛知県)出身の一族。

豊臣秀吉に仕えていた蜂須賀正勝が阿波国を与えられましたが、高齢を理由に嫡男の家政が代わりに阿波へ入国。

最初は現在の徳島城がある場所から10km ほど内陸にある一宮(いちのみや)城を居城としていました。

画像2

一宮城天守跡より眉山を臨む。眉山ふもとのあたりが現在の徳島市中心部で徳島城はJR徳島駅のすぐ北側です。

その頃の徳島城周辺は今とは違って海で、小さな島がたくさん浮かんでいるような状態だったとか。

今でも市内中心部は川が多く、当時の名残があります。

蜂須賀家政の阿波入国は天正14年(1586年)のことです。

そう、これは天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い(1600年)」前の話。

父の代から豊臣の忠臣である家政は関ヶ原には出陣せず、息子の至鎮(よししげ)が徳川方として戦い、武功を上げました。

これにより阿波国18万石は蜂須賀家に所領安堵され、家政は出家して至鎮に家督を譲ります。

\関ヶ原後の所領安堵/

これを徳島藩主蜂須賀家の始まりとするのが正確なんだって。

へぇー😗

なので、

蜂須賀家を大名家として大きくした正勝が「家祖」
蜂須賀家として最初に阿波に入国した家政が「藩祖」
徳川の世になり正式に徳島藩主となった至鎮が「初代藩主」

とするのが正式。

画像4

徳島城公園にある家政の銅像は「藩祖」表記ですが、やっぱり「"阿波藩"祖 」。

たまに家政から「初代藩主」としてカウントしているものもあり、私も最初このへんがあいまいだったのでブログの初期では間違ってたりします💦

今でも全部は直しきれてないので、もし間違ってたら脳内補完してください。

ここは読者の皆さまに丸投げしますので、よろしくお願い申し上げます🙇‍♀️

<城、その「美しさ」の背景>第59回 徳島城 青く輝く石垣に独特の味わい 蜂須賀氏とともに豊かな歴史刻む – 美術展ナビ

<城、その「美しさ」の背景>第59回 徳島城 青く輝く石垣に独特の味わい 蜂須賀氏とともに豊かな歴史刻む – 美術展ナビ

<城、その「美しさ」の背景>第59回 徳島城 青く輝く石垣に独特の味わい 蜂須賀氏とともに豊かな歴史刻む

右手前の石垣上に月見櫓が建っていた。奥の橋は黒門(大手門)に架かる下乗橋

蜂須賀氏が築き守り抜いた城

 

羽柴秀吉の股肱の家臣だった蜂須賀小六こと正勝。徳島城を築いたのは、その嫡男の家政だった。天正13年(1585)の四国攻めの戦功を評価して、秀吉は阿波(徳島県)一国を正勝にあたえようとしたが、還暦に届こうとしていた正勝は辞退し、家政にあたえてほしいと希望したと伝わる。

 

こうして阿波186000石の領主になった家政が築いたのが徳島城だった。城地は吉野川河口にデルタ地帯を形成する寺島川と助任川にはさまれた標高61メートルの渭山(城山)と、その周囲。とりわけ軟弱地盤の平地は難工事だったが、主要部は600余日で完成したという。敵が攻めにくい要害であるとともに、紀伊水道を臨む海上交通の要衝だった。

家政は朝鮮出兵した際、戦線縮小案を上申して秀吉の逆鱗に触れ、蔵入地(家臣にあたえる知行地に対する直轄地)を没収のうえ蟄居を命じられもした。しかし、秀吉の死後は徳川家康に近づき、息子の至鎮は大坂冬の陣および夏の陣の戦功を評価されて、淡路71000石が加増。石高は257000石になった。

 

以来、徳島城は明治維新を迎えるまで、蜂須賀家の居城であり続けた。秀吉の手で大名に取り立てられ、関ヶ原合戦後も同じ領土が維持され、明治まで転封されることもなかった。すなわち、城主は最初から最後まで蜂須賀氏だった。これはきわめて珍しい例である。

徳島城博物館にある徳島城の復元模型。手前が鷲之門。橋の先が黒門(大手門)。 それをはさんで右の櫓が月見櫓、左の櫓が太鼓櫓

城山山頂部は本丸、東二の丸、西二の丸、西三の丸が階段状に下がって並び、山麓の平野部に居館が築かれた二元的な構造で、とくに山城部分は中世山城によくある縄張りだ。しかし、築かれた当初は先進的な城だった。秀吉の命で建てられた多くの城と同様、総石垣で天守も建てられたのだ。

 

そして、同じ総石垣の城でも徳島城が特徴的なのは、五輪塔などを転用した一部の石を除き、石垣にはすべて、地元で産出する結晶片岩と呼ばれる青い石が用いられていることである。

文禄~慶長年間にもうけられたと思われる本丸北側の搦手口

青く美しい結晶片岩の石垣

 

家政の時代に構築された山城部分も総石垣づくりで、とくに本丸東端には、天正時代に築かれた当初の、自然石を積んだ野面積みの石垣が残る。本丸を囲む石垣でも北側は、文禄から慶長年間(15921615)のもので、粗く加工した割石が力強く積まれ、隅角部は石材の長辺と短辺を交互に組み合わせて強度を増した算木積みが完成されつつある。

天正年間に築かれた本丸東側の石垣。城内最古

山上の虎口がすべて枡形を構成しているのも特筆される。大手筋から本丸に向かう最初の虎口である西三の丸門など、文禄から慶長年間の石垣で構成され、小規模ながら迫力がある。

 

また、築城当初は本丸に天守が築かれたようだが、元和年間(161524)に解体され、一段低い標高約40メートルの東二の丸にあたらしく三重三階の天守が、天守台は築かず東三の丸の平面に直接建てられた(呼び名は御三階櫓だった)。ここ東二の丸にも文禄から慶長年間の石垣がよく残っている。

天守台をもうけずに天守が立っていた東三の丸

平野部の石垣は文禄から慶長年間以降に築かれ、寛永年間(162445)から幕末までに改修された部分もふくめ、さまざまな時期に積まれた石垣が残る。それらもみな結晶片岩が積まれている。

 

結晶片岩には「片理」という縞模様が見られ、とくに雨に濡れると青色が際立ち、その色が縞模様と相まってとりわけ美しい。このため、昔から庭石として重用されているが、徳島城の石垣はすべて、そんな特別な石で構成されているから、見れば見るほど独特の味わいが感じられる。

加工された結晶片岩がすき間なく積まれた黒門(大手門)枡形の石垣

たとえば、黒門(大手門)の枡形の石垣は結晶片岩の切り石がすき間なく積まれ、隅角部は算木積みになっている。ちなみに、この門の西側にあった太鼓櫓は、最上階に廻縁のついた望楼型の、天守相当というべき三重四階の櫓で、徳島城には事実上、ふたつの天守があったともいえる。

この石垣上に三重四階の太鼓櫓が建っていた

クロダイが泳ぐ堀と青い石垣のコンビネーション

 

明治6年(1873)の廃城令で廃城処分となると、残念ながら明治8年(1875)に、大手門のさらに外にあった表門の鷲之門を除き、すべての建造物が撤去された。鷲之門だけは昭和20年(1945)まで現存していたが、その年の74日に徳島市を襲った大空襲で焼失してしまった。

 

鷲之門は両側に番所を従えた脇戸つきの薬医門(2本の本柱の背後に2本の控柱を立て強度を増した門)で、文禄から慶長年間に建てられたと考えられている。平成元年(1989)、徳島市市制100年を記念して木造で復元された。

戦災で焼失し、復元された表門の鷲之門

戦前から国の名勝に指定されている表御殿庭園も見応えがある。南側は大きな石を大胆に使用した枯山水、北側は築山泉水庭で、いずれにも結晶片岩が大胆に配置され、石垣に積まれた石が庭石としていかに映えるかを確認できる。表御殿跡には市立徳島城博物館が建つが、外観は御殿を模しているので、庭園の景観はたもたれている。

表御殿庭園の枯山水庭。結晶片岩が大胆に配される

大手門から御殿を囲むように設けられた内堀は、いまも助任川の汽水域から導水されており、クロダイやボラが泳ぐ。そんな堀から立ち上がる結晶片岩の石垣は、何度見ても美しい。

城の鬼門に位置し、普段は閉められていた数寄屋門(不明門)跡と数寄屋橋。堀には海水魚が

明治初期に撮られた古写真には鷲之門の北側に、大手門の東に建っていた二重三階で廻縁がつく月見櫓と、それに連なる多門櫓が写っている。月見櫓は一重目の屋根を飾る千鳥破風と唐破風も印象的で、さらに多門櫓ともども古風に下見板が張られ、秀吉時代の城郭の雰囲気が濃厚である。青い石垣のうえにこれらの建造物が存在していたら、どれほど美しかったことだろうか。

 

そんな姿を想像しつつ、それを同じ蜂須賀家が築き、維持してきたことを考えると、徳島城が特別の城に思えてくる。

表御殿庭園の築山泉水庭。奥に徳島城博物館

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『教養としての日本の城』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等、近著に『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(同)がある。

とくしまヒストリー ~第20回~:徳島市公式ウェブサイト

とくしまヒストリー ~第20回~:徳島市公式ウェブサイト

とくしまヒストリー ~第20回~

「沖洲(おきのす)」 -城下町徳島の地名8-

 沖洲といえば今日では名産のネギを連想される方も多いのではないだろうか。しかし、江戸時代には城下町徳島の最も東端に位置し、藩船の漕ぎ手、水主(かこ)の屋敷地として有名だ。
「忠英(ただてる)様御代御山下画図」(国文学研究資料館蔵)は城下町徳島の全体を描いた最古の図。沖洲は同図には「沖のす」と記され、漁村のような小集落が見えるだけだ。南北の細長い地形で、新町川と別宮川(吉野川)により形成された、まさに沖に浮かぶ洲のような場所だった。恐らく、地名はそこから生まれたのであろう。
 沖洲の開発が始まるのは江戸時代前期のこと。大坂の陣の直後、元和3年(1617)に紀伊国和歌山から家来16世帯とともに元浦に移住してきた太田太郎次郎という人物が沖洲の草分けとされる(『わが町沖洲』)。
『名東郡史・続編』によると、「太田次郎儀、紀州に罷在候処、御呼被為成阿波国へ罷越候、其節御知行高五百石可被為下置趣被為仰出候へ共、御請不奉仕へは、何にても相望申上候様」とある。太田次郎と記されているが太田太郎次郎であろう。武士であった太郎次郎は徳島藩主蜂須賀家の命令で阿波に来国した。蜂須賀家では重臣に登用しようとしたが、同人は武士の道を拒み、帰農し沖洲の開発に従事した。
 藩主の日記「万日帳」(国文学研究資料館蔵)を見ると、寛永13年(1636)6月2日の項に、「沖ノ洲太郎次郎伺公、大生鯛二上ル」と記されている。2代藩主蜂須賀忠英に拝謁し、生の大きな鯛を献上している。帰農したとはいえ藩主との良好な関係は続いていたことがうかがえる。
太郎次郎の子孫は代々、沖洲浦の庄屋を務めたという。沖洲は、江戸時代の前期には開発途上の場所だったのだ。
 沖洲の転機は、寛永17年(1640)に行われた水軍基地の移転だ。それまで常三島にあった徳島藩水軍の基地が福島東部の安宅に移された。江戸時代、水軍を「安宅」と呼んだが、これ以降、福島の東が安宅と呼ばれることになった。この水軍基地の移転に伴って、藩船の漕ぎ手である水主たちの屋敷も住吉島から安宅と沖洲に移された。これによって、北沖洲は水主たちの屋敷地として整備されていくことになった。後に約170軒もの水主屋敷等が整然と立ち並んだが、現代でいえば北沖洲は新興住宅地であった(南沖洲は漁村集落として展開)。
 水主屋敷地は間口5間・奥行15間の長方形で、短冊型をしていたので「短冊屋敷」と呼ばれたという(『阿波蜂須賀藩之水軍』)。町人屋敷は間口の広さに応じて税金や負担金が課されたので、間口は狭く奥行が長い形をとったが、足軽・武家屋敷でこんな形をとるのは珍しい。
 屋敷は、道路に面して平屋造の母屋が建ち、その奥は菜園が広がっていた。玄関はいずれも南向きで格子戸が入れてあり、半分が土間で半分は畳三枚敷きで、障子で仕切られていた。道路に面して炊事場があり、井戸と竃が設けられていた。来客応接用の表の間、家族が生活した奥の間、箪笥等が置かれた寝室の大奥の間があり、家の中心に仏壇が祀られていた。二階建てはなかったが、中二階を物置にしていた。沖洲の水主屋敷は、この規格で統一されていたというから興味深い。
 水主は藩船を漕ぐのが職務なので日常的に鍛錬を怠らなかったという。配偶者も体格の立派な方を選んだという(『阿波蜂須賀藩之水軍』)から、自分たちの職務によほど自信と誇りを持っていたのだろう。
 現代では沖洲は開発が進み、往時の名残を留めていないが、こんな水主の世界があったのは実に興味深い。

京極高知 - Wikipedia

京極高知 - Wikipedia

京極高知

詳細
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 (2018年12月)

京極 高知(きょうごく たかとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名丹後国宮津藩宮津城)初代藩主。高知流京極家の祖。

京極 高知

丸亀市立資料館所蔵

時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 元亀3年(1572年
死没 元和8年8月12日1622年9月17日
別名 羽柴伊奈侍従
官位 従四位下侍従丹後守
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
丹後宮津藩
氏族 京極氏
父母 父:京極高吉
母:京極マリア
兄弟 高次高知竜子、松雲院(氏家行広室)、マグダレナ(朽木宣綱室)
正室津田信澄
継室毛利秀頼
側室:惣持院、竹原氏
高広高三田中満吉八条宮智仁親王妃常子、多賀大膳(家臣)某室のち可児政友室、浅井長好(家臣)室、京極高通正室、羽柴長吉某室、落合守重(家臣)室、氏家行久室、有馬左門某室、石束出雲某(家臣)室、京極高三養女、沢良政室ら
養子高通
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生涯

室町幕府の侍所の長官に成れる家柄で出雲飛騨守護を務める名門京極氏京極高吉の次男として近江北部に生まれた。早くから豊臣秀吉に仕え、その功により羽柴姓を許された。

信濃の戦国大名

文禄2年(1593年)、義父毛利秀頼の遺領を(秀頼の実子秀秋を差し置いて)任され、信濃飯田城主として6万石を領し、従四位下・侍従に任ぜられた。また、領内にキリスト教の布教を許可し、のちに自身もキリシタンとなっている。

文禄3年(1594年)、戦功により10万石に加増される。

秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)には岐阜城攻めに参戦し、関ヶ原の戦いでは平塚為広大谷吉継隊に対して藤堂高虎と共に戦うなどの戦功を挙げた。

丹後国主

戦後は丹後一国12万3000石を与えられ、国持大名として京極丹後守を称し丹後藩初代藩主となった。田辺城に入城後、宮津城に拠点を移す。

その後、丹後藩の領地は嫡男・高広、三男・高三、甥で婿養子の高通の3人に分封し、宮津藩・田辺藩峰山藩の3つに分割された。嫡流は宮津7万8200石の領主となったが、3代で改易となる。その後、嫡流子孫は江戸幕府の高家として取り立てられ、幕末まで続く。

田辺藩京極家は3代で丹後田辺から但馬国豊岡へ転封となった。峰山藩京極家は幕末まで転封もなく高知以来の丹後の領地を守り抜き、幾人もの若年寄を出すなど譜代格の大名として処遇され幕政にも参画する重要な家となった。

系譜

  • 関ヶ原の戦いの藤堂高虎・京極高知陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

登場作品

テレビドラマ

脚注

  1. 不明。豊臣秀吉の小姓に同名あり。

外部リンク

ルイス・フロイス - Wikipedia

ルイス・フロイス - Wikipedia

ルイス・フロイス

ルイス・フロイス: Luís Fróis [luˈiʃ frɔjʃ]1532年 - 1597年7月8日慶長2年5月24日))は、ポルトガルカトリック司祭宣教師イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。

ルイス・フロイス
イエズス会司祭
教会 カトリック教会
個人情報
出生 1532年
ポルトガル王国
リスボン
死去 1597年7月8日(満65歳没)
豊臣政権
大村領長崎
職業 宣教師
著作日本史
署名
ルイス・フロイスの署名
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日本史』目次
日本二十六聖人記念館の隣接する長崎市・西坂公園内にあるルイス・フロイス記念碑

生涯

1532年リスボンに生まれる。1541年、9歳でポルトガルの宮廷に仕え、1548年、16歳でイエズス会に入会した。同年、10月に当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。このことがその後の彼の人生を運命付けることになる。1561年にゴアで司祭叙階され、語学と文筆の才能を高く評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事に従事した。

1563年永禄6年)、31歳で肥前国彼杵郡横瀬浦(当時大村領、大村家の貿易港、現在の長崎県西海市北部の港)に上陸し、大村純忠のもと、念願だった日本での布教活動を開始。その後、純忠と後藤貴明の争いにより、横瀬浦が破壊されたので平戸に近い度島に避難し、ここで10ヶ月、病魔と闘いながら同僚のフェルナンデス修道士から難解な日本語および日本の風習を学び、1564年(永禄7年)にトルレスの命により、度島に向かったアルメイダ修道士はフロイスに上洛の伝達を告げた。そしてフロイスは平戸から京都に向かった。1565年1月31日(永禄7年12月29日)に京都入りを果たし、ガスパル・ヴィレラや日本人修道士ロレンソ了斎らとともに布教活動を行った。しかし保護を恃んだ将軍足利義輝永禄の変で殺害されると、三好党らによって京都を追われ、摂津国に避難した。翌1566年にヴィレラが九州に行ってからは、京都地区の布教責任者となった。

1569年(永禄12年)、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長二条御所の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信頼を獲得して畿内での布教を許可され、ニェッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている。フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、戦国期研究における重要な資料の一つになっている。

その後は九州において活躍していたが、1580年天正8年)の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。1583年(天正11年)、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後に『日本史』とよばれることになる。

当初、豊臣秀吉は信長の対イエズス会政策を継承していたが、やがてキリシタン勢力が拡大すると、それに伴う仏教や神道への攻撃や、日本人の奴隷売買などに危機感を抱くようになり、1587年7月24日(天正15年6月19日)には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち大村領長崎に落ち着いた[1]

1590年(天正18年)、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見した。1592年文禄元年)、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年(文禄4年)に長崎に戻る。 1597年慶長2年)には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日5月24日)大村領長崎のコレジオにて没した。65歳。フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになった。

著作

早くから文筆の才を注目されていたフロイスは、毎年の『イエズス会日本通信』[2]や『日欧文化比較ヨーロッパ文化と日本文化)』を含め、多くの著作を残しており、特に有名なのは『日本史 (Historia de Iapam)』である。この本の記述は、1549年のサビエルの来日に始まり、1593年で終わっている[注釈 1]

当時の日本人とは異なった西洋のキリスト教徒としての視点から見た歴史上の事件の数々に関する記述は、重要な研究史料となっている。また、表音文字アルファベットで書かれた書物のため、仮名や漢字だけでは不完全な、当時の人物や文物の発音なども読み取ることが出来ることから、中世期の日本語[3]言語学歴史言語学などの史料としても重要である。『日欧文化比較』(岩波書店大航海時代叢書 第Ⅰ期 第11巻〉、p.629)には「ヨーロッパでは言葉の明瞭であることを求め、曖昧な言葉は避ける。日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉で、もっとも重んぜられている」と書いている。

以下は主なフロイスの著作の翻訳[注釈 2]

参考文献

  • 川崎桃太『フロイスの見た戦国日本』中央公論新社、2003年、中公文庫、2006年。ISBN 4-12-204655-6
  • 松田毅一エンゲルベルト・ヨリッセン共著『フロイスの日本覚書 日本とヨーロッパの風習の違い』中公新書、1983年
  • 松田毅一『秀吉の南蛮外交―サン・フェリーペ号事件』新人物往来社、1972年
    • 改題『豊臣秀吉と南蛮人』朝文社、新版2001年
  • 松田毅一『南蛮史料の発見 よみがえる信長時代』中公新書、1964年
  • 松田毅一・川崎桃太 共編訳『完訳 フロイス日本史1』中公文庫、2000年

評伝

テレビドラマ

舞台

  • 『ガーネットオペラ』(2010年、シアタークリエにて公演 演:ダレアレ悟)
  • 『フロイスーその死、書き残さずー』(2025年、こまつ座、 演:風間俊介)

小説

漫画

ゲーム

脚注

注釈

  1. フロイス日本史は写本しか見つかっておらず、しかもそれは様々な場所から見つかっているため、厳密には「いまのところは1593年までの原稿が見つかっている」ということになる。
  2. 最初期の研究訳書に、木下杢太郎訳『ルイス・フロイス日本書翰』新版・慧文社、2015年。元版は戦前の刊行
  3. 元版は岩波書店「大航海時代叢書
  4. ただし、同作の語りは劇中でフロイス役を務めるフランク・ニールではなく、ランシュー・クリストフである(二人一役)。

出典

  1. "「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断 | リーダーシップ・教養・資格・スキル". 東洋経済オンライン (2021年6月8日). 2021年10月16日閲覧。normal
  2. 松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』(同朋舎 全15巻、1987‐1998年)がある。
  3. 山東功『日本語の観察者たち』(岩波書店、2013年、pp.23-39)。
  4. 大濱徹也 (2009年7月). "ルイス・フロイスが見た日本". 日本文教出版. 2012年2月11日閲覧。normal
  5. 荒俣, 宏 (1996-11-01). 幻想皇帝 第1巻: アレクサンドロス戦記. 角川春樹事務所. ISBN 978-4-89456-062-8. https://www.amazon.co.jp/%E5%B9%BB%E6%83%B3%E7%9A%87%E5%B8%9D%E2%80%95%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B9%E6%88%A6%E8%A8%98%E3%80%88%E7%AC%AC1%E5%B7%BB%E3%80%89-%E8%8D%92%E4%BF%A3-%E5%AE%8F/dp/4894560623normal 

関連項目

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外部リンク

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