2025年7月7日月曜日

第三章 淀屋常安と个庵













第三章 淀屋常安と个庵
一 淀屋常安のこと
第三章 淀屋常安と个庵
江戸時代前期の大阪町人を代表するものに淀屋があった。 淀屋の豪富とその闕所とはあまり
にも有名であるが、その真相は必ずしも明白だとはいえぬ。
淀屋は本姓を岡本氏、通称を三郎右衛門といった。その元祖は岡本常安、 与三郎であったと
いう。彼は城州岡本の荘 岡本荘司の男で、姓は藤原、幼弱にして織田氏のために滅され、同
国鳥羽小林ノ荘司忠房に頼ることあり、その女を娶ったが、小林氏もまた織田氏に滅される
に及び、岡本氏夫妻は忠房の孫忠重を抜けて大和に隠れた。豊臣氏天下を取るに及んで大阪に
で、十三人町 (今の大川町)にト居し、淀屋と称し、材木を商い、官の用を弁じたという。
これより先、豊公伏見城の折、何人も手を着けなかった淀の築堤工事を請負って致富をな
大阪の北浜十三人町に出て、材木渡世をしたのだともいう。
大阪の陣に際しては与三郎は優秀な関東軍に通じて、家康の茶臼山 秀忠の岡山に本陣を建
献上したりしている。 「元正間記」によれば『元来材木屋にて大阪御陣の切り、御忠信に天
王寺茶臼山にて夏冬御陣小屋をつくり上げ、権現様御感に預り、其時御褒美として八幡にて山
林田地に三百石下し置かれ、御朱印を頂戴仕り、且亦帯刀御免のため八幡侍格、夫のみなら
らず、彼の願所より大阪・堺へ来る干鰯の運上を下し置かれ』 云々とある。大阪落城後は打ち
すてられていた鎧兜 刀剣その他の武具馬具を整理して、その処分にて巨富を得たともい
うし、大阪陣に陣小屋を献上した功によって、 家康から苗字帯刀を許され、山城八幡にて山林
三百石を得た外、当時諸国から大阪に入津する干鰯の運上銀を得たのであるから、それの利益
は莫大であったろう。その上与三郎は自分一手で米の相場をたてたいと思った。従来は百姓の
苦心による米問屋にたたかれ、良質米も悪質米となり、悪質米も良きものになって、問屋の
腹をこやす。この弊をのぞくため、自ら総取締になって大阪に集中する諸国の米の相場の標準
を立てたいと願って許可されたのである。このような特許によって、非常な独占的利益を得た
のである。このようにして得た財力をもつて、彼は中之島開発の願人となったのである。ある
書は与三郎は始め大川岸に住み、春秋の出水時に、流れ材木を拾い取る稼業をなして富をつく
つたというが、根本的には以上の如き特権によって致富したのである。
当時はまだ堂島川の名前さえない流れに葦芦が茂って、あちこちに砂洲をなしていた。 与三
郎はこれに着目し、開拓を願出、『常安請地』として開拓に従事したのである。彼は如上の方
法で財力ある信用の厚い町人であったにちがいないし、その資力を投資することによって、中
之島が開かれたのであるから、彼こそは中之島をして今日あらしめた一大功績者といってよ
い、天和五年これを竣功せしめた。 常安橋、 常安町の名がいまに残るのはその功績を物語るも
のである。つまり淀屋は関東方の御用商人として、いわば慶元二役の戦時成金である。 常安は
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第三章 淀屋常安と个庵
次男の言当に跡目を譲ってから、この常安請地の開拓をなしたものであるが、投機と質素と特
権とで得た富をもつて土地獲得に進出するのは、この後も大阪町人活動の定石になっている。
常安は総年寄の役をも勤めていたが、元和八年壬戌七月二十八日に歿した。諡日養源院以心
安居士 谷町大仙寺に葬られた。 妻女は寛永四年十卯正月八日に残した。
二 淀屋の系譜
常安には三男二女があった。長男は善右衛門、尼崎木村氏よりの婿養子であった。 それに二
子あり、長子を善入善右衛門と云い、 これは常安町及び斎藤町家の祖をなし、 五代迄続いた。
次子常有五郎左衛門は大川町家の初代となり、この大川町家は常有五郎左衛門、言直(又は宗
直)三右衛門、言継七郎兵衛、信与三右衛門を経て七代迄続き、文化年代の初めに廃絶した。
しかし、大川町家二代目言直の三男常相八左衛門の家系は最も永く継続し、常相以下五代迄続
いた。明治三十八年頃にはその跡岡本啓太郎氏が東区船越町骨屋町筋東にいたという。
常安の次男は言当三郎衛門であって、これは常安の実子であった。 この系統を淀屋橋系とい
う。 常安の三男は五郎右衛門で、その子箇斎は言当三郎右衛門の婿養子となり、淀屋橋系をつ
ぐことになった。以上の関係を「岡本家系図」によって示すと左の如くであった。
(常安町家) (善入)
善右衛門
(養子)
善右衛門
(自証善入居土)
(知覚浄了居士)
凄い (家女)
(大川町家) (常有)
-五郎左衛門
(独直有居士)
又右衛門(伊丹屋又右衛門、善右衛門の死後入る)
(K)
(三郎右衛門号玄个庵)
言当
女子妙意
(玄个庵祖源道列居士(二代)
(初代)
淀屋常安
(与三郎)
-五郎右衛門
(江街道雲禅定門)(言当養子となる) (三代)
(他源介斎居)
女子(早世、一説嫁小林忠重)
重当
~常閑(善右衛門)
(一峯常閑居士)
斎藤町家
常隆
(心岩常隆居士)
(言直?宗直?)
三右衛門
(右衛門太郎
後三郎右衛門号个庵)
-三郎右衛
土) (五代)
(清味軒直室个庵居士) (四代) (潜竜軒咄哉个庵居
以上によると三郎右衛門と称したものは言当、重当及びその子の三郎衛門の三人でこれは淀
屋橋系の名称であった。又三人ともに个庵と号したようである。言当は善右衛門が養子である
から、実子としては常安の長男であったが故に、十三人町(大川町)の家を嗣ぎ、 常安が官より
給与され、その晩年を過した中之島の常安屋敷には養子善右衛門、その死後にはその子善入善
右衛門及びその孫の常閑が住したのである。
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第三章 淀屋常安と个庵
三 淀屋言当のこと
当は父に劣らぬ才物であって、玄庵と号し、略して个庵と称した。言当个庵は元和八年
に靱、天満両町の塩魚商人の代表として、鳥羽屋彦七と二名を以て、津村の田畑葭島を開発した
いと出願して、塩魚商人に下附してほしいと請うた。 町奉行所はこれを許した。かくて彼等は
新開地に移住することとなり、新町、新天満町 海部堀町の三町を成し、旧地の町名を改
めて本町、本天満町とした。寛永元年運河開鑿を願い出で、 海部堀川を開いて永代浜をつく
つた。それ以来雑喉場魚市場は个庵が率先開拓したの地に発展することになったのである。
また青物市場は元和統一後、もとの京橋南詰即ち当時个庵の所有せる土地において開かれて
いた。この市場敷地が公收せられ、京橋片原町に移るのは慶安四年であるから、言当个庵の在
世中は後日天満青物市場に発展すべき青物市場が淀屋所有地に存在していたわけである。 元和
八年津村の田畑葭島を新地に開発するについて淀屋常安、鳥羽屋彦七が『身元も造成町人に候
故』を誌して願出している所から見ると上記の如く、当時淀屋は既に典型的な大商人であった
らしい。その大川町の店舗は盛大を極め、店頭には常に米商人が群集し、町人の蔵元として諸
侯蔵米の販売を一手に引請けていた。 「堂島旧記」 巻一に『然るに其頃淀屋与右衛門(今の淀
屋橋南川岸)という有福の者有りて、寛永正保の頃より、西国諸侯方積登せし米穀を引請売捌、
代銀を取立、国へ送り、江戸屋敷への仕向等の世話を以てとす。 則右に言う町人の蔵元也』
とある。与右衛門なる人物は果して何人たるや不明なるも、恐らく言当个庵であろう。言当个
庵の時、既に所謂淀屋米市が立っていたことが判る。 天満、雑喉場、堂島の三大市場の起源が
ことごとく皆屋に負うているのである。江戸時代に堂島米市場の初相場(正月四日)を必ず
淀屋橋の南詰に於て立てるのが慣例になっていたが、これはこの淀屋の盛時にあたり、その店
先に多数の米商人が集って盛んに米の売買をやっていたのを記念にしているものである。
諸侯が廻送してくる蔵米の売捌に任じ、有数なる蔵元となると共に淀屋はまた用金の調達を
もした。門前に市をなす淀屋米市のため自費で土佐堀川に橋を架けて諸人の便をはかった。
初めは橋名なく『淀屋が架けた橋』と唱えていたが、後『淀屋橋』となり、遂に淀屋橋と略
称するに至った。 手代三十余人、惣家内百七十人という経営となつたので、 常安当時の家構え
はせまくなったので改築をなした。 淀屋の宅地は心斉橋筋の辺より西肥後橋までの中かと推定
される。しかし堂島の初相場をたてたのは淀屋橋南詰の西の地であるからはつきりしない。 古
書に米仲仕が肥後橋辺にあつまるとあるから肥後橋より東であろう。 また淀屋小路の地名がの
こつているが、これは淀屋の裏口らしい、それはともかくとして、「元正間記」には『家富み繁
して、自分屋敷前に橋を掛け、淀屋橋と名をつけ、四十八戸まへのいろは蔵あらゆる宝を買い
あつめ長者号をろく』 とある。伝うる所によるとその表は北浜 (今の大川町) 裏は梶木町 (今の
北浜四丁目) 東は心斎橋筋から西は御霊筋に至り、惣構え百間四方、二万坪に亘ったという。
个庵(言当)は海運事業にも関係した。即ち寛永年間加州藩は二百五十石乃至三百石積の廻
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第三章 淀屋常安と个魔

淀量个庵重当筆竹雀之
船をもつて米一万石を大阪に廻送し、淀屋个庵にこれが売捌を依
頼した。これは北国と大阪との交通の開けた初めで、个庵と昵懇
であった兵庫の北風彦太郎が渡海を支配したのである。 北前船で
あつて、以来これの発達を見た。この説の出所は元和より享保ま
での兵庫のことを説ける「船法御定并諸方聞書」である。 住田正
一氏の「海事史料叢書」 第一巻におさまっている。 これによると
『大阪淀屋こあん』とある。この北風彦太郎は西遊彦太郎ともい
い、『渡海取支配』というのは全航路の渡海を支配したのではな
くて、兵庫において渡海船と称する船に荷物の一部を移し、本船
の船足を軽くして、大阪川口への入港を容易にせるものである。
个庵は寛永九年に大阪に糸割符を得せしめた。外国船にて長崎へ輸入せる白糸は堺、京都、
長崎三カ所の町人若干名にて購入販売にあたっていた。 これを糸割符人といい、糸割符人を取
る者を糸年寄という。寛永八年新たに江戸に糸割符を許可し、京都百丸 堺百廿丸、長崎百
丸江戸十丸の標準を以て、白糸を割賦購入せしめたから、大阪の町人はこれを羨み、 この意
見を代表して淀屋个庵は惣年寄であった川崎屋宗言と共に長崎奉行竹中重次に依頼し、その好
意を得て、四カ所題糸三百七十丸より二十丸の配賦を得、翌年改めて幕府に出願し、題糸三十
丸を許可され、同十年再び増額して江戸百丸、大阪五十丸となった。 これを五ヵ所割符とい
庵は風流を解し、茶事を嗜み、殊に連歌を能くし、茶の古今伝授を源光寺祐心にうけ、
小堀遠州 松花堂昭乗と深交あり、又戯画に長じて、人物花鳥画を描いたという。 常に風流
と交遊し、当時の名士石川丈山、佐川田昌俊、僧沢庵とも交遊があったという。
寛文五年高津の生日銅行風が古今夷曲集十巻をつくり、後又選夷曲集十巻を選び、大阪の作
者を採録している中に、住友友信、 浄久寺一歩等と共に淀屋个庵の名が挙げられている。
个庵は天正五年に生れ、寛永二十年癸未十二月五日歿、享年六十七才、諡は玄庵祖源道列
居士 谷町大仙寺に碑がある。 又城州八幡神応寺に碑及び石燈二基がある由。 生前山城八幡を
信仰し、その神人を兼しによるものであろう。 妻は明暦四年四月二十一日歿。同じく大仙寺に葬られた。

淀屋个庵の墓
四 淀屋闕所のこと
庵には実子がなかったから、弟五郎
右衛門の長男箇斎を嗣子として迎えた。
屋箇斎また三郎右衛門と称し、慶安元年七
月十二日に残した。 大仙寺及び神応寺に
碑がある。なお同人は住吉村に臨済宗竜
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第三章 淀屋常安と个庵
源院なるものを正保三年に建立したが、明和九年焼失。 後無住七十余年に及び、明治二十一年兵
庫県但馬に移転した。 箇斎の死後、子重当これをつぎ、元禄十年丁丑四月歿 (大仙寺に碑あり)、重
当の子三郎右衛門が相続し、宝永二年五月驕のため所に処せられたという。五代目とも見る
べき重当の子三郎右衛門の所謂辰五郎に至り、さしもの淀屋も一朝にして闕所となったという
のである。推算すれば个庵死後一代平均二十年の割となつている。宝永二年の闕所が確かなも
のである以上、諸書にあるような七代目又は九代目辰五郎に至り所となったとすると、与三郎
常安を元祖とする計算では年代的に不合理になる。七代説とせば个庵死後平均十二年となり、九
代説とせば一代平均九年の割合となるから、矢張五代目三郎右衛門の所説が合理的となる。
个庵、箇斎、重当とつたわって来た淀屋橋系は代々十三人町(大川町)にあり、町人蔵元とし
て営業していた。蔵元は元来武士の務めるものであるが、 淀屋より町人がこれをなしたため町
人蔵元といつた。 「堂島旧記」 巻一には 『寛文年間に至りては此蔵元を勤る者数軒に及ぶ。 尤
も淀屋を第一とす。是に依て市中米商する者、多分此淀屋に集り買得せしより、自然と米価高
下を争い是より相場の事起れり』とあり、『寛永正保の頃より西国諸侯積登せし米穀を引請、
売捌代銀を取立、国へ送り、江戸屋敷への仕向等の世話』をする程手広に営業したが、また
当時の大商人の常として大名貸を行い、その額は『西国九州の諸大名屋金しやく用無きは壱
人もなし』(元正間記) 『大名衆へ貸し銀凡そ壱億貫目』『権現様へ銀八貫目』(反古籠)とい
われ、誇張を割引いても、莫大な額であったと思われる。 また巨額の動産以外に京畿諸都市に
家屋敷を、近隣諸国に広大な田地を買得し、寄生地主としても生長していた。 淀屋一統もそれ
それに蔵元・掛屋・問屋を営業していた。
淀屋橋系の淀屋は重当个庵の代には、豪奢を極め、放慢に大名貸を行ったと思われる。 「元
正間記」には次の如くある。『彼の古安の代にをどりやしきを四方に構へ、家作りの美しき事
はたとふべきようもなし、 大書院・小書院惣体金張付、 金ぶすま、桂田記知能がさいしきの四
季の草絵也にはには泉水立はし、唐大和の樹木を植え、夏座敷と号してびいどろの障子を立
て、天上縁も同じびいどろにて張りつめ、清水をたたえ金魚を放ち、天帝天下の御深所でも是
れにはいかでまさるべき、右之外数寄屋のかまへ、金銀を延べたるごとく、大座敷には欄間に
四季の草花を彫らせ、両えん高欄は朱ぬりに塗立て、大名高家のれん中方もいかでおよぶべ
き、表の廻り、 手代座敷料理間台所大きなる事言語たえ、夫々役人を定めて家内は常に市を立
つ。是によって西三十三ヶ所の国の大名衆の御用を承はり、西国九州の諸大名屋金しやく用
無きは一人もなしといへり、金銀の威勢には諸大名より御附届け家老用人のれきれきにも手を
つかせ、高位大禄の御方共ひざを組みて居る事有り』とある。
 
 このような有様は近世初期商業資本の典型的な事例であつて、このことのために元禄宝永
期には領主経済とこれに寄生する初期商業資本とが相剋し、激化していた。その極端な寄生的
性格の故に初期の特権的御用商人は当時勃興して来た商品流通に転ずる術を知らず、領主経済
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の逼迫とともに行きづまりつつあった。 「町人考見録」に見られる豪商の没落は大部分大名貸
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第三章 淀屋常安と个庵

の回収不能と奢侈によるものであるが、大尽としての豪商はこの頃一つの限界に来ていたので
ある。又領主経済の方はその負債の激増、財政破綻に応ずべく、しばしば奢侈禁止令を出し、
その著しいものには闕所の処分をもつてのぞんだ。 正徳四年(一七一四)の大阪銀座年寄中村
内蔵助闕所処分なども淀屋のそれにつづく一連のものと考えてよい。
有名な淀屋の処分は宝永二年(一七〇五年) 五月に町人の身分に過ぎた驕奢のゆえに、幕府
忌諱にふれ、闕所・所払になったものである。 そもそも闕所とは字義からいうと領主のかけ
た土地の謂であつて、室町から戦国にかけて用いられ、鎌倉時代には没官領といわれた。罪科
として幕府に没収された土地は皆闕所であつて、これが江戸時代になると士庶を通じて、死
刑・遠島・追放の附加刑となった。 淀屋の場合追放の追加刑であると考えられる。
世に闕所になった者を辰五郎とする。 「元正間記」によると重当个庵の子に四人あり、三人
は死し、末子を辰五郎といい、この時に闕所になったとしている。辰五郎は十九才の年少であ
つたという。しかも辰五郎と新町の吾妻との関係を示し、金子借用証偽造の罪に坐したことを
書き、 宝金、あるいは重宝黄金の鶏にかかわるともいう。 闕所の理由、闕所道具の目類等も
「淀屋三郎右衛門闕所之事」「棠大門屋敷」「一話一言」 等諸書異同があって悉く信をおきがた
い。蜀山人の「一話一言」には三郎右衛門闕所道具を多数に示し、『右淀屋三郎右衛門九代相
続如斯大名弘め代々候外に印子の雞七今度拵立、其外借金御用金と名付自由働申候段、闕所被
仰付候』とし、三郎右衛門遠島、御叱置手代十人としている。 しかも重当の子三郎右衛門を
五郎といったかどうか不明である。しかし三郎右衛門が闕所になったことは明らかである。 大
仙寺過去帳には浄慧大姉の条に三郎右衛門祖母とあり、 神応寺の過去帳には岡本三郎右衛門と
ある。闕所後他人名儀で、 山城八幡近辺にあった田地田畑を目当とし、これに退隠したとい
う。あるいは言当个庵が八幡神人であったためかとも想像される。享保二年丁酉十二月二十一
日没。潜竜軒咄哉个庵居士、神応寺に碑がある。この人には三人の子供があり、第三子の五百
女は八幡神人の仲介にて、 下村佐仲を婿養子にしたと伝える。
 淀屋闕所の理由は半ば小説的であつて、考証にたえる資料が乏しい。 異説も多い。
一は辰五郎十七才にして新町の遊里で豪奢を極め、ついに茨木屋吾妻太夫の身代金二千両に
つまり、 手代のはからいで、伏見町の薬師屋小西源右衛門の名義を騙り、 天王寺屋五兵衛から
借り出し、身受けした。 後に事あらわれ、諜判の罪にて辰五郎は追放、家屋敷は闕所になった
という。
二は分家淀屋秋庵が本家横領の野心があったので、辰五郎の身持放埓を咎めず、却って自己
の都合のよい事としていた所が、ある親切な老医者が辰五郎の不身持を諌めた。これを辰五郎
の母が喜び、その謝礼として黄金の茶壺を贈ったことが、公儀の忌避に触れ、辰五郎は城州八
幡に追放され、家は断絶した。
その他いろいろの説が行われているし、闕所道具の目録等も諸書により異同がある。また黄
金の鶏についても世上では黄金にてつくつたと思われているが、その玄孫にあたる八幡屋某の
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第三章 淀屋常安と个庵
説によるとその実体は宗の宗皇帝の宸筆になる鶏の絵で古錦欄で、表装された横軸であった
という。
しかし個々の理由は何にてもあれ、つまり淀屋によって集中的に掌握せられていた財用の実
権は、淀屋闕所後、分散的になり、寧ろ多数に簇生した両替屋の間に分業的に行われるように
なり、又堂島の米仲買の手に渡ったのである、もつと地道な問屋や両替屋が出来て、専業的に
するようになったのである。
 資財没収、家屋敷闕所は元禄浮華の風にそまった世人をして自粛の念を生ぜしめた。綱吉、
柳沢吉保の好学・崇仏は遂に府庫の窮乏を来たし、その対策として宝永元年二月には質素倹約
令をすら出している。看板及び店頭装飾を制限し、野菜類売買の期限をも限ったりしている。
淀屋の所もつまりはこの質素倹約令の一表現だったのである。 淀屋の豪奢増長が目にあまつ
たからであろう。一部の歴史家はこの所一件をもつて、幕府が諸侯の財政をすくい、諸士の
窮乏をすくうための借金棒引きで、徳政類似の政策であるというが、これは少しうがちすぎてい
る。元禄人は比較的冷然と淀屋闕所をながめたというが、内心の恐れおののきは相当であった
のである。 淀屋以後大阪町人のあり方が異ったものとなったのもうべなるかなである。思うに
大尽としての商人は江戸初期特に元禄期までの商人の代表的性格であったろう。 大尽の本質は
豪富と浪費である。その内容は極めてリアルで、ロマンチックの要素に乏しいが、その寛・
豪奢・伊達は本来大名風のもので、利を求め算用を旨とする商人本来のものではないのであ
る。 袖長商人 羽二重商人たる御用商人・立入商人に対し、勤勉・律気を旨とする本町人が理
想となってくる。算用こまかなる本町人に大阪商人の中心が移って来たといつてよかろう。

五 淀屋辰五郎は誰れか
然らば所謂辰五郎は果してたれを云うか。 淀屋系譜には辰五郎の名は見えぬ。 「大阪市史」
は言当三郎右衛門を辰五郎と称したという。これも理由なきことではない。寛永十一年三月三
代将軍に召された淀屋辰五郎は恐らくは善右衛門でなかったろうか。
由緒書
淀屋常閑
常安(和泉清禅定尼) 善右衛門(是は幼少より常安養子に付娘と夫婦に仕候) 子善右衛門、 子常
一、 常安養子善右衛門幼少之子共数多御座候に付伊丹屋又右衛門を入婿に取、則淀屋又右衛門と申、惣
年寄相勤、後は法体仕、道寿と申候事
一、 常安娘相果又二代目善右衛門相果、子常閑幼少に御座候付道寿先腹の子伊丹屋又右衛門惣年寄讓
上道寿私曲候故淀屋一家と不和に罷成申候事
一、 中之島常安町と申所は淀屋常安取立之地に而御座候に付代々惣年寄之筋目にて千今常安譲の屋敷に
常閑住宅仕町之年寄相勤罷在候事』

 これによって見るに惣年寄としての淀屋辰五郎は常安の養子の善右衛門に移り、その死後は
更に家女きいへ、後ぞいとしての入婿の伊丹屋又右衛門(淀屋又右衛門道寿)に移り、更にその
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第三章 淀屋常安と个庵
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子の常閑にいくべき所、常閑幼少のため道寿の先腹の子伊丹屋又右衛門に惣年寄職を譲ったの
である。このため淀屋一家と確執を生じたのである。 そして惣年寄の筋目なるにかかわらず常
安の孫の常閑には惣年寄職が行かず、 常安町の屋敷で住居、町年寄をつとめたにすぎぬ。
しかしながら惣年寄としての淀屋辰五郎の名称の外に、営業上の通称としての淀屋辰五郎が
あつて、この方は言当三郎右衛門个庵に伝わり、箇斎、重当につたわり、更にその子三郎右衛
門に及んだかも知れぬ。 即ち淀屋橋系に営業上の呼称である淀屋辰五郎が伝わったかとも考え
られる。そうすると重当の子の三郎右衛門もまた辰五郎を通称としたかも知れぬのである。
しかも淀屋橋系は巨富を擁しても、果して掛屋または問屋としてどれほど活躍していたか判
らない。 というのは「国華万葉記」の内「大日本米襄摂津難波丸」中に次の如くある。
『上卷四十七葉
小笠原遠江守四州長直殿
十五万石豐肥小倉大阪豊前座
掛屋 よどや右衛門
同卷四十九葉
大久保加賀守忠朝殿
(註) 常閑居士は天和元年歿去であるからこの人何たるや不詳、或は常隆居士か
(十一万三千石相州小田原中之島常安裏町)
蔵本、改、白子町
同卷六十四葉
長崎割符人数付
よどや常
大川町 淀屋三右衛門 (宗直)
同卷七十五葉
備中間屋
同卷九十五葉
生蠟問屋
(参考文献)
斎藤町 淀屋次郎右衛門 (常隆養子)
大川町 淀屋五郎左衛門(宗直の養子慧深の俗称)
中大川町 よどや三右衛門(宗直)
即ち大川町家、 常安町家、斎藤町家のことは見ゆるも、三郎右衛門淀屋橋系の事は少しも見
えない。このことは果して何を意味するか、 淀屋の闕所は宝永二年五月のことであるから、「難
波丸」の版行(初版元祿十年、改版元祿十五年及至宝永元年十月迄)には、淀屋橋系も闕所となら
ず存立していた筈である。
しゅせのたきのぼり
淀屋の所は世の関心を引いたから、巣林子はこれに取材して「淀鯉出世滝徳」を上演し
た。上場の年月には諸説があるが、恐らく宝永五、六年であろう。その主人公八幡の富豪江戸
屋勝二郎は恐らく辰五郎をもじったものであろう。
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岡本家由緒書(写本)。
岡本家系図(写本)。 
大阪市史。元正間記。  
一話一言。
広文庫、第十九冊。
東区史、第五巻。
堂島旧記(写本)。
拙著 あきないと商人。
拙稿、徳川時代・大阪商工先覚者列伝、上方、第三五号 。
高梨光司、淀屋一家に就て、上方、第一〇五号、拙稿。
淀屋三郎右衛門考、経済史研究 第二五巻五号。
中之島誌。
古田良一 東廻海運及び西廻海運の研究。





第四章 安井道と九兵衛
一 道頓堀の着手

第四章 安井道頓と九兵衛
秀吉は北国征伐から帰ってから非常な勢で、大阪城及び市街の建築に従事した。耶蘇会教師
ルイス・フロイス (Louis Foroez) の報告によると秀吉は天正十一年から日夜三万の人夫を使役
工事の進むに従い、これを二倍にし、三年以上を費して完成したとある。それから城外につ
いていうと諸国城持の衆・大名・小名悉く大阪に集り、人家のきを連ね、 門戸を双べ、南の方
天王寺・住吉・堺に至るまで三里余皆町屋となったと大村由己の「柴田退治記」に見えてい
る。そうして同書の奥書に「于時天正十一年十一月吉辰」とあるので、 大阪城は勿論城下の町
町まで、天正十一年十一月に成就したように見えるが、如何に秀吉が神機妙算を運らしても、
大阪を領してから僅か半年位で、本城は勿論町々まで出来上る訳ではない。 フロイスの報告に
ある方が事実だろうと考える。なお「柴田退治記」によると大阪城は五畿内を以て外構とな
し、彼の地の城主を以て警固するものなりといい、大和には筒井順慶、和泉には中村孫平次
何処には誰、彼処には誰と場所と名前とを挙げている。
大阪城は本丸・二ノ丸・三ノ丸の三つに分れ、三ノ丸の周囲は東は大和川、北は大川、西は
東横堀川、南は空堀即ち今の空堀通である。大和川は当時は大阪城の北を流れて大川に注いで
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第三章 淀屋常安と个庵

第三章 淀屋常安と个庵 一 淀屋常安のこと 第三章 淀屋常安と个庵 江戸時代前期の大阪町人を代表するものに淀屋があった。 淀屋の豪富とその闕所とはあまり にも有名であるが、その真相は必ずしも明白だとはいえぬ。 淀屋は本姓を岡本氏、通称を三郎右衛門といっ...