逆さづりになって踊る「橋がかり」に大歓声 千曲市「雨宮の御神事」 コロナ禍を経て、9年ぶり通常開催 https://youtu.be/GVRrgWtDQTw?si=9o8AuSZcmsstOHKu @YouTubeより
https://youtu.be/GVRrgWtDQTw?si=LXQRG45yhuXJ37TW
逆さづりになって踊る「橋がかり」に大歓声 千曲市「雨宮の御神事」 コロナ禍を経て、9年ぶり通常開催 https://youtu.be/GVRrgWtDQTw?si=9o8AuSZcmsstOHKu @YouTubeより
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人間は神の子である。肉においては無力であり、霊によって自由である。
われらの父よ。
イエスは、名も知られぬ父の子であった。自分の父を知らなかったため、幼いころから神を自分の父と呼んでいた。
そのころ、ユダヤには預言者ヨハネがいた。ヨハネは、神が地上に来ることを説いていた。ヨハネは、人々が自分の生き方を改め、すべての人を互いに等しい者として扱い、不正を行わず、互いに助け合うなら、神は地上に来て、その王国を地上に築くであろう、と語った。
イエスはこの説教を聞くと、人々から離れて荒野へ退いた。人間の生の意味と、神と呼ばれる無限の根源との関係を理解するためであった。イエスは自分の肉の父を知らなかったので、ヨハネが神と呼んだもの、すなわち無限の根源を、自分の父として認めた。
イエスは荒野で数日間、食べ物なしに過ごしたのち、空腹に苦しみ、心の中で考えた。私は全能の神の子である。ならば、私も神と同じように全能でなければならない。しかし今、私は食べたいと思っているのに、私の意志によってパンは現れない。ということは、私は全能ではない。
そこで彼は自分に言った。私は石からパンを作ることはできない。だが、パンを断つことはできる。だから、肉においては全能でなくても、霊において全能であるなら、私は肉に打ち勝つことができる。ゆえに私は、肉によって神の子なのではなく、霊によって神の子なのである。
さらに彼は自分に言った。もし私が霊の子であるなら、私は肉から離れ、肉を滅ぼすこともできる。すると彼は答えた。私は霊によって肉の中に生まれた。それが私の父の意志である。だから私は、その意志に逆らうことはできない。
さらに彼は自分に言った。もしおまえが肉の欲求を満たすこともできず、肉から離れることもできないなら、おまえは肉に仕え、肉が与えるすべての快楽を味わわなければならない。すると彼は答えた。私は肉の欲求を満たすことはできない。肉から離れることもできない。しかし私の生命は、父の霊において全能である。だから私は、肉の中にありながら、ただ霊に、父に仕え、そのために働かなければならない。
こうしてイエスは、人間の生命は父の霊の中にのみあると確信した。そして荒野から出て、人々に自分の教えを説き始めた。彼は語った。霊は私の中にある。今や天は開かれ、天上の力は人間の力と結びつく。人間には、無限で自由な生命が始まる。どれほど不幸な人間であっても、すべての人は幸福になりうる。
マタイ 1-18
イエス・キリストの誕生はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していた。しかし、2人が夫婦として暮らし始める前に、マリアは身ごもっていることが明らかになった。
マタイ 1-19
ヨセフは善良な人であり、マリアを辱めようとはしなかった。彼はマリアを妻として迎えたが、彼女が第1子を産むまでは関係を持たなかった。そしてその子をイエスと名づけた。
ルカ 2-40
その子は成長し、成熟し、年齢を超えた理解力を持つようになった。
ルカ 2-41, 2-42
イエスが12歳になったころ、マリアとヨセフは祭りのためにエルサレムへ行き、少年を連れていった。
ルカ 2-43
祭りが終わると、彼らは帰途についたが、少年のことを忘れていた。
ルカ 2-45
やがて彼らは少年のことを思い出し、ほかの子どもたちと一緒に先へ行ったのだろうと考え、道中で彼を探した。しかし少年はどこにもいなかった。そこで彼らは、少年を探してエルサレムへ引き返した。
ルカ 2-46
3日目になって、ようやく彼らは、少年が神殿で教師たちの間に座り、質問し、耳を傾けているのを見つけた。
ルカ 2-47
人々はみな、その理解力に驚いた。
ルカ 2-48
母は彼を見つけて言った。「なぜこんなことをしたのです。あなたの父と私は、悲しみながらあなたを探していました。」
ルカ 2-49
すると彼は言った。「なぜ私を探したのですか。子は父の家にいるものだと、知らなかったのですか。」
ルカ 2-50
しかし彼らは、その言葉を理解しなかった。彼が誰を自分の父と呼んでいるのか、理解しなかったのである。
ルカ 2-51
その後、イエスは母のもとで暮らし、すべてにおいて母に仕えた。
ルカ 2-52
そして背丈も理解力も増していった。
ルカ 3-23
人々はみな、イエスをヨセフの子だと思っていた。イエスは30歳までそのように暮らした。
マタイ 3-1
そのころ、ユダヤに預言者ヨハネが現れた。
マルコ 1-4
ヨハネは、ヨルダン川のほとりのユダヤの荒野に住んでいた。
マタイ 3-4
ヨハネの衣はラクダの毛でできており、彼は木の皮と草を食べていた。
マルコ 1-4~6
彼は民に、生き方を改め、不正から離れるよう求めた。そして生活を改めるしるしとして、民をヨルダン川で洗った。
ルカ 3-4
彼は言った。「声があなたがたに呼びかけている。荒野に神の道を備えよ。神のために道を平らにせよ。」
ルカ 3-5
すべてを平らにせよ。高い所も低い所もなくせ。
ルカ 3-6
そうすれば、神はあなたがたのただ中におられ、すべての人が救いを見いだすであろう。
ルカ 3-10
民は彼に尋ねた。「私たちは何をすればよいのですか。」
ルカ 3-11
彼は答えた。「衣を2枚持っている者は、持たない者に1枚を与えよ。食べ物を持っている者は、持たない者に分けよ。」
ルカ 3-12
徴税人たちも彼のもとに来て尋ねた。「私たちは何をすればよいのですか。」
ルカ 3-13
彼は彼らに言った。「取り決めに反して、何も取り立ててはならない。」
ルカ 3-14
兵士たちも尋ねた。「私たちはどう振る舞えばよいのですか。」彼は言った。「誰にも害を加えるな。人を脅すな。支払われるもので満足せよ。」
マタイ 3-5
エルサレムから来た人々、またヨルダン周辺のユダヤ人たちが、みな彼のもとに来た。
マタイ 3-6
彼らは自分たちの不正を告白し、生活を改めるしるしとして、ヨハネにヨルダン川で洗われた。
マタイ 3-7
ファリサイ派とサドカイ派の人々も、ひそかにヨハネのもとへ来た。ヨハネは彼らを見抜いて言った。「おまえたちは蛇の血筋だ。だが、おまえたちもまた、神の意志から逃れられないことを感じ始めたのか。ならば告白し、信仰を改めよ。」
マタイ 3-8
信仰を改めようとするなら、そのことは実によって明らかにならなければならない。おまえたちが何を思い直したのか、それが実によって見えなければならない。
マタイ 3-10
すでに斧は木の根元に置かれている。木が悪い実を結ぶなら、それは切り倒され、火に投げ込まれる。
マタイ 3-11
私は、あなたがたの改心のしるしとして、水であなたがたを清める。しかしこの洗いの後には、さらに霊によって清められなければならない。
マタイ 3-12
霊は、主人が脱穀場を清めるように、あなたがたを清める。小麦は集められ、藁は焼かれる。
マタイ 3-13
イエスは、ヨハネから洗いを受けるために、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとへ来た。そして洗いを受け、ヨハネの説教を聞いた。
マタイ 4-1
そしてヨルダン川から荒野へ行き、そこで霊の力を知った。
マタイ 4-2
イエスは40日40夜、飲み物も食べ物もなしに荒野にいた。
マタイ 4-3, ルカ 4-3
すると彼の肉の声が彼に言った。「もしおまえが全能の神の子であるなら、望むままに石からパンを作れるはずだ。だが、おまえにはそれができない。だからおまえは神の子ではない。」
ルカ 4-4
しかしイエスは自分に言った。もし私が石からパンを作れないなら、それは、私が肉なる神の子ではなく、霊なる神の子であるということを意味する。私はパンによって生きているのではない。霊によって生きているのだ。そして私の霊は肉を軽んじることができる。
しかし空腹はなお彼を苦しめた。肉の声はさらに彼に言った。もしおまえが霊によってのみ生きており、肉を軽んじることができるなら、肉から離れればよい。そうすれば、おまえの霊は生き続けるだろう。
ルカ 4-9
すると彼には、自分が神殿の屋根の上に立っており、肉の声がこう語りかけているように思われた。「おまえが霊なる神の子であるなら、神殿から身を投げよ。おまえは死なない。」
ルカ 4-10
見えない力がおまえを支え、守り、あらゆる悪から救うだろう。
ルカ 4-11
しかしイエスは自分に言った。私は肉を軽んじることはできる。だが、肉から離れることはできない。私は霊によって肉の中に生まれたからである。それが私の父、すなわち霊の意志であり、私はそれに逆らうことはできない。
すると肉の声は彼に言った。神殿から身を投げ、生命から離れることで父の意志に逆らえないというなら、空腹なのに食べようとしないことにおいても、同じように父に逆らうことはできないはずだ。肉の快楽を軽んじてはならない。それはおまえの中に置かれている。おまえはそれに仕えなければならない。
ルカ 4-5
するとイエスの前に、地上のすべての王国と、肉のために労苦し、肉から報いを期待して生きるすべての人々が現れた。
ルカ 4-6
肉の声は彼に言った。「見よ、彼らは私に仕えている。そして私は、彼らが望むすべてを与えている。」
ルカ 4-7
おまえも私に仕えるなら、彼らと同じものを得るだろう。
ルカ 4-8
しかしイエスは自分に言った。私の父は肉ではなく、霊である。私はその霊によって生きている。私はそれを常に自分の中に知っている。私はただその霊だけを敬い、その霊だけに仕え、その霊からだけ報いを待つ。
ルカ 4-13
そこで誘惑は終わり、イエスは霊の力を知った。
ルカ 4-14, ヨハネ 1-36
そして彼は霊の力を知ると、荒野から出て、再びヨハネのもとへ行き、彼のそばにとどまった。イエスがヨハネのもとを去るとき、ヨハネは彼について言った。「この人こそ、人々を救う者である。」
ヨハネ 1-37
ヨハネのこの言葉を聞いて、2人の弟子は以前の師ヨハネを離れ、イエスに従った。
ヨハネ 1-38
イエスは彼らがついて来るのを見て、立ち止まって言った。「あなたがたは何を望むのか。」彼らは言った。「先生、私たちはあなたのもとにとどまり、あなたの教えを知りたいのです。」
ヨハネ 1-39
彼は言った。「私と一緒に来なさい。そうすれば、すべてを話そう。」彼らはイエスと共に行き、彼のもとにとどまり、第10時まで彼の話を聞いた。
ヨハネ 1-40
この弟子たちの1人はアンデレといった。アンデレにはシメオンという兄弟がいた。
ヨハネ 1-41
アンデレはイエスの話を聞くと、兄弟シメオンのもとへ行って言った。「私たちは、預言者たちとモーセが書き記した人、私たちに救いを約束した人を見つけた。」
ヨハネ 1-42
アンデレはシメオンを連れて、彼をイエスのもとへ連れて行った。イエスはアンデレの兄弟をペトロ、すなわち石と名づけた。そしてこの2人の兄弟はイエスの弟子となった。
ヨハネ 1-43
ガリラヤへ入る前に、イエスはさらにフィリポに出会い、自分と一緒に来るよう命じた。
ヨハネ 1-44
フィリポはベトサイダの人で、ペトロとアンデレの同郷人であった。
ヨハネ 1-45
フィリポはイエスを知ると、自分の兄弟ナタナエルを探し出して言った。「私たちは、預言者たちとモーセが書き記した、神に選ばれた者を見つけた。それはナザレ出身、ヨセフの子イエスである。」
ヨハネ 1-46
ナタナエルは、預言者たちが書き記した人が隣村の出身であることを不思議に思って言った。「神の使者がナザレから出るとは奇妙だ。」フィリポは言った。「私と一緒に来なさい。そうすれば、自分で彼を見て、その言葉を聞くだろう。」
ヨハネ 1-47~49
ナタナエルは承知して兄弟と一緒に行った。彼とイエスは互いに会い、ナタナエルはイエスの言葉を聞くと、イエスに言った。「はい、今わかりました。あなたが神の子であり、イスラエルの民の支配者であることは真実です。」
ヨハネ 1-51
イエスは彼に言った。「それよりも重要なことを知りなさい。今から天は開かれ、人々は天上の力と交わることができる。今から神は、人間の外に離れて存在するのではなくなる。」
ルカ 4-16
イエスは故郷ナザレに来た。そして祭りの日、いつものように会堂へ行き、朗読した。
ルカ 4-17
人々は彼に預言者イザヤの書を渡した。彼はそれを開き、読み始めた。その書にはこう書かれていた。「主の霊が私の中にある。主は私を選び、不幸な者、打ち砕かれた心の者に救いを告げさせるために遣わした。捕らわれた者に自由を、盲いた者に光を、苦しめられた者に休息と救いを告げさせるために。すべての人に、神の恵みの時を告げさせるために。」
ルカ 4-20
彼はその書を閉じ、係の者に渡して座った。人々はみな、彼が何を語るのかを待っていた。
ルカ 4-21
すると彼は言った。「今、この聖書の言葉は、あなたがたの目の前で成就した。」
四福音書
新約聖書に収められたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書を指す。マタイ、マルコ、ルカは内容や構成が近いため共観福音書と呼ばれ、ヨハネは神学的表現や構成が大きく異なる。本文では複数の福音書の章節が並び、トルストイがそれらを一つの流れに編み直している。
章節表記
「ルカ 4-14」は、ルカによる福音書の第4章第14節を意味する。「4章と14章」ではなく、「章-節」の表記である。複数の箇所が並ぶ場合は、トルストイが別々の福音書の記述を接続して、一つの叙述にしていることを示している。
神の子
伝統的なキリスト教では、イエスの神性やキリスト論に関わる中心語である。だが、この本文では「神の子」は、超自然的身分の宣言というより、人間が肉ではなく霊によって父なる神に結びついているという実存的な意味で使われている。ここを教義用語としてだけ読むと、トルストイの再構成の意図を取り逃がす。
肉と霊
「肉」は身体、欲望、空腹、快楽、外的な生命を指し、「霊」は自由、内的生命、父の意志に従う力を指す。本文の誘惑場面では、肉が単なる悪として排除されるのではなく、人間が肉の中に生まれているという事実も同時に認められている。重要なのは肉体から逃げることではなく、肉体の中で霊に従って生きるという構図である。
洗礼者ヨハネ
イエスに先立って現れた預言者で、ヨルダン川の周辺で悔い改めと洗いを説いた人物である。キリスト教ではイエスの到来を準備する先駆者として位置づけられる。本文では、ヨハネの説教がイエスの内的転換を引き起こす導火線になっている。
ヨルダン川
パレスチナ地方を流れる川で、聖書では洗礼者ヨハネが人々に洗いを授けた場所として重要である。本文では、ヨルダン川は単なる地理ではなく、古い生き方から新しい生命理解へ移る境界として機能している。イエスがここでヨハネの説教を聞き、その後に荒野へ退く流れが、章全体の精神的転換を作っている。
洗い
本文で「洗う」と訳されている行為は、一般には洗礼に対応する。ここでは教会儀礼としての洗礼というより、生き方を改めるしるしとして描かれている。ヨハネの水による洗いのあとに、霊による清めが必要だと語られるため、外的儀礼から内的変化へ向かう構造がある。
荒野の誘惑
イエスが荒野で空腹、自己破壊、権力と快楽への服従という誘惑に直面する場面である。一般的な福音書では悪魔による誘惑として語られるが、この訳文では「肉の声」として内面化されている。これにより、神話的事件ではなく、人間の内部で起こる倫理的・霊的な試練として読める。
ファリサイ派とサドカイ派
いずれも第二神殿時代のユダヤ社会に存在した宗教的・社会的集団である。ファリサイ派は律法解釈や生活規範に重きを置き、サドカイ派は神殿祭司層に近い集団として知られる。本文では、ヨハネが彼らを批判することで、外面的な宗教権威ではなく、実として現れる生き方の変更が問われている。
徴税人
ローマ支配下のユダヤ社会では、徴税人は支配権力と結びついて民衆から税を取り立てる存在として嫌われやすかった。本文で徴税人が「私たちは何をすればよいのですか」と問う場面は、宗教的に清い人だけでなく、社会的に疑われる職業の者にも回心の道が開かれていることを示す。ヨハネの答えは、職業そのものよりも不正な取り立てを禁じる点に重心がある。
ナザレ
ガリラヤ地方の町で、イエスの出身地として語られる。本文の「神の使者がナザレから出るとは奇妙だ」という反応には、救い主が権威ある中心地からではなく、周縁的な土地から現れることへの違和感が出ている。ここでは、宗教的期待と現実のイエスとのずれが強調されている。
ペトロ
もとはシメオン、またはシモンと呼ばれる人物で、イエスの主要な弟子の一人である。「ペトロ」は岩、石を意味する名で、後のキリスト教伝統では使徒の中心人物として大きな意味を持つ。本文では、アンデレに導かれてイエスのもとへ来る最初期の弟子として登場する。
ナタナエル
ヨハネによる福音書に登場する人物で、フィリポに導かれてイエスに出会う。本文では、ナザレ出身のイエスに対する疑いから入り、言葉を聞いたあとでイエスを認める人物として描かれる。読者にとっては、先入観から理解へ移る過程を担う人物である。
第10時
ヨハネ 1-39に出る時間表現で、古代の時間の数え方によって解釈が分かれる。日の出を起点に数えるユダヤ式なら午後4時ごろ、真夜中を起点にするローマ式なら午前10時ごろと解されることがある。本文上は厳密な時刻よりも、弟子たちがイエスのもとにとどまり、教えを聞く時間を持ったことが重要である。
イザヤの書
旧約聖書の預言書の一つで、ルカによる福音書ではイエスが会堂で読み上げる書物として登場する。貧しい者、捕らわれた者、盲いた者、苦しめられた者への解放が語られるため、本文ではイエスの使命を社会的・霊的な解放として示す役割を持つ。ここでイエスは、自分の活動を古い預言の成就として位置づけている。
「父」
本文の「父」は、ヨセフのような肉親の父ではなく、神、あるいは生命の無限の根源を指す。イエスが父を探す場面や、父の意志に従うという表現は、家族関係ではなく、人間の生命が何に由来し、何に従うべきかという問いに接続している。章題「神の子」は、この「父」の理解と一体になっている。
【解題】 「兼愛」とは、「兼(ひろ)く愛(あい)する」、すなわち自他を区別せず、すべての人を公平に愛すること。 墨子は、天下の混乱の原因を「不相愛(互いに愛し合わないこと)」にあると診断する。 人は自分と他人を区別するからこそ、他人の家を盗んで自分の家を利し、他国を攻めて自国を利しようとする。もし、他人の身を自分の身のように、他国を自国のように思うことができれば、盗みも戦争も消滅するはずである。 儒教の「仁」が親族から始まる差別的な愛(別愛)であるのに対し、墨子の「兼愛」は無差別・平等の愛を説く、墨家思想の核心部分である。
【原文】
子墨子言曰、聖人以治天下為事者也、必知乱之所自起、焉能治之。不知乱之所自起、則不能治。 譬之如医之攻人之疾者然。必知疾之所自起、焉能攻之。不知疾之所自起、則弗能攻。 治乱者何独不然。必知乱之所自起、焉能治之。不知乱之所自起、則不能治。
聖人以治天下為事者也、不可不察乱之所自起。 当察乱何自起。起不相愛。 臣子之不孝君父、所謂乱也。子自愛不愛父、故虧父而自利。弟自愛不愛兄、故虧兄而自利。臣自愛不愛君、故虧君而自利。此所謂乱也。 雖父之不慈子、兄之不慈弟、君之不慈臣、此亦天下之乱也。 父自愛不愛子、故虧子而自利。兄自愛不愛弟、故虧弟而自利。君自愛不愛臣、故虧臣而自利。 是何也。皆起不相愛。
雖至天下之為盗賊者、亦然。 盗愛其室、不愛其異室、故窃異室以利其室。 賊愛其身、不愛人、故賊人以利其身。 此何也。皆起不相愛。
雖至大夫之相乱家、諸侯之相攻国者、亦然。 大夫各愛其家、不愛異家、故乱異家以利其家。 諸侯各愛其国、不愛異国、故攻異国以利其国。 天下の乱物、具此而已矣。 察此何自起。皆起不相愛。
若使天下兼相愛、愛人若愛其身、猶有不孝者乎。 視父兄与君若其身、悪施不孝。 猶有不慈者乎。 視子弟与臣若其身、悪施不慈。 故不孝不慈无有。 猶有盗賊乎。 視人之室若其室、誰窃。視人身若其身、誰賊。 故盗賊无有。 猶有大夫之相乱家、諸侯之相攻国者乎。 視人之家若其家、誰乱。視人之国若其国、誰攻。 故大夫之相乱家、諸侯之相攻国者无有。
若使天下兼相愛、国与国不相攻、家与家不相乱、盗賊无有、君臣父子皆能孝慈。 若此則天下治。
故聖人以治天下為事者、悪得不禁悪而勧愛。 故天下兼相愛則治、交相悪則乱。 故子墨子曰、不可以不勧愛人者、此也。
【書き下し文】
子墨子(しぼくし)言(い)いて曰(いわ)く、聖人(せいじん)は天下(てんか)を治(おさ)むるを以(もっ)て事(こと)と為(な)す者(もの)なり、必(かなら)ず乱(らん)の自(よ)りて起(お)こる所(ところ)を知(し)りて、焉(ここ)に能(よ)く之(これ)を治む。乱の自りて起こる所を知らざれば、則(すなわ)ち治むること能わず。 之を譬(たと)うれば医(い)の人(ひと)の疾(やまい)を攻(おさ)むる者のごときが然(しか)り。必ず疾の自りて起こる所を知りて、焉に能く之を攻む。疾の自りて起こる所を知らざれば、則ち攻むること能わず。 乱を治むる者、何(なん)ぞ独(ひと)り然らざらんや。必ず乱の自りて起こる所を知りて、焉に能く之を治む。乱の自りて起こる所を知らざれば、則ち治むること能わず。
聖人は天下を治むるを以て事と為す者なれば、乱の何(いずく)より自りて起こるかを察(さっ)せざるべからず。 当(まさ)に乱の何より自りて起こるかを察すべし。不相愛(ふそうあい)より起こる。 臣子(しんし)の君父(くんぷ)に孝(こう)ならざるは、所謂(いわゆる)乱なり。子(こ)は自(みずか)ら愛(あい)して父(ちち)を愛せず、故(ゆえ)に父を虧(そこ)ないて自ら利(り)す。弟(おとうと)は自ら愛して兄(あに)を愛せず、故に兄を虧ないて自ら利す。臣(しん)は自ら愛して君(きみ)を愛せず、故に君を虧ないて自ら利す。此(これ)所謂乱なり。 父の子に慈(じ)ならず、兄の弟に慈ならず、君の臣に慈ならざるも、此れ亦(ま)た天下の乱なりと雖(いえど)も。 父は自ら愛して子を愛せず、故に子を虧ないて自ら利す。兄は自ら愛して弟を愛せず、故に弟を虧ないて自ら利す。君は自ら愛して臣を愛せず、故に臣を虧ないて自ら利す。 是(これ)何(なん)ぞや。皆不相愛より起こる。
天下の盗賊(とうぞく)為(た)る者に至(いた)ると雖も、亦た然り。 盗(とう)は其(そ)の室(しつ)を愛して、其の異室(いしつ)を愛せず、故に異室を窃(ぬす)み以て其の室を利す。 賊(ぞく)は其の身(み)を愛して、人を愛せず、故に人を賊(そこ)ないて以て其の身を利す。 此れ何ぞや。皆不相愛より起こる。
大夫(たいふ)の相(あい)家(いえ)を乱し、諸侯(しょこう)の相国(くに)を攻(せ)むる者に及ぶと雖も、亦た然り。 大夫は各(おのおの)其の家を愛して、異家(いか)を愛せず、故に異家を乱して以て其の家を利す。 諸侯は各其の国を愛して、異国(いこく)を愛せず、故に異国を攻めて以て其の国を利す。 天下の乱物(らんぶつ)、具(つぶさ)に此のみ。 此れ何より自りて起こるかを察するに、皆不相愛より起こる。
若(も)し天下をして兼(か)ねて相愛(あい)し、人を愛すること其の身を愛するが若くせしめば、猶(な)お不孝(ふこう)なる者有らんや。 父兄と君を視(み)ること其の身の若くなれば、悪(いずく)んぞ不孝を施(ほどこ)さん。 猶お不慈(ふじ)なる者有らんや。 子弟(してい)と臣を視ること其の身の若くなれば、悪んぞ不慈を施さん。 故に不孝不慈有ること無し。 猶お盗賊有らんや。 人の室を視ること其の室の若くなれば、誰(たれ)か窃(ぬす)まん。人の身を視ること其の身の若くなれば、誰か賊(そこ)なん。 故に盗賊有ること無し。 猶お大夫の相家を乱し、諸侯の相国を攻むる者有らんや。 人の家を視ること其の家の若くなれば、誰か乱さん。人の国を視ること其の国の若くなれば、誰か攻めん。 故に大夫の相家を乱し、諸侯の相国を攻むる者有ること無し。
若し天下をして兼ねて相愛せしめば、国と国と相攻めず、家と家と相乱さず、盗賊有ること無く、君臣父子皆能(よ)く孝慈ならん。 此くの若くんば則ち天下治まる。
故に聖人の天下を治むるを事と為す者は、悪得(あにとく)んぞ悪(あく)を禁(きん)じて愛を勧(すす)めざらんや。 故に天下兼ねて相愛すれば則ち治まり、交(こも)ごも相悪(にく)めば則ち乱る。 故に子墨子曰く、以て人を愛することを勧めざるべからざるは、此れなり、と。
【現代語訳】
墨子先生は言われた。 「聖人が天下を治めることを仕事とするならば、必ず『混乱がどこから起きているのか』という原因を知らなければならない。原因を知って初めて、それを治めることができる。原因を知らなければ、治めることはできない。 これは、医者が人の病気を治療するのと同じである。必ず病気がどこから起きたのか(原因)を知って、初めて治療できる。原因を知らなければ治療できない。 社会の混乱を治めるのも、これと全く同じである。必ず混乱の原因を知らなければならない。
聖人は天下を治める者であるから、混乱の発生源を観察しないわけにはいかない。 では、混乱は何から起きているのか。それは『互いに愛し合わない(不相愛)』ことから起きている。 臣下や子が、君主や父に孝行しないこと、これがいわゆる『乱』である。 子は自分を愛するが父を愛さない。だから父に損害を与えて自分の利益とする。弟は自分を愛するが兄を愛さない。だから兄に損害を与えて自分の利益とする。臣下は自分を愛するが君主を愛さない。だから君主に損害を与えて自分の利益とする。これが『乱』である。 逆に、父が子に慈愛を持たず、兄が弟に慈愛を持たず、君主が臣下に慈愛を持たないのも、また天下の『乱』である。 父は自分を愛するが子を愛さない。だから子に損害を与えて自分の利益とする。(以下同文)。 これらはなぜ起きるのか。すべて『互いに愛し合わない』ことから起きている。
天下の盗賊に至っても同じである。 空き巣(盗)は、自分の家を愛するが、他人の家(異室)を愛さない。だから他人の家から盗んで、自分の家を豊かにする。 強盗(賊)は、自分の身を愛するが、他人の身を愛さない。だから他人を傷つけて、自分の身を利する。 これらはなぜ起きるのか。すべて『互いに愛し合わない』ことから起きている。
さらに、大夫(貴族)が互いに家を乱し合い、諸侯(国王)が互いに国を攻め合うに至っても、やはり同じである。 大夫はそれぞれの自分の家領を愛するが、他人の家領(異家)を愛さない。だから他人の家を乱して、自分の家を利する。 諸侯はそれぞれの自国を愛するが、他国(異国)を愛さない。だから他国を攻めて、自国を利する。 天下の混乱というものは、すべてこれに尽きる。 これらがどこから起きているか観察すると、すべて『互いに愛し合わない』ことから起きているのだ。
もし仮に、天下の人々が互いに等しく愛し合い(兼相愛)、他人を愛することを自分の身を愛するようにさせたなら、まだ不孝な者はいるだろうか。 父や兄や君主を、自分の身と同じように見なすのだから、どうして不孝を働くことがあろうか(いや、しない)。 まだ慈愛のない者はいるだろうか。 子や弟や臣下を、自分の身と同じように見なすのだから、どうして慈愛をかけないことがあろうか。 したがって、不孝や不慈は消滅する。
まだ盗賊はいるだろうか。 人の家を自分の家と同じように見なせば、誰が盗むだろうか(自分の家から盗むようなものだ)。人の身を自分の身と同じように見なせば、誰が人を傷つけるだろうか。 したがって、盗賊は消滅する。
まだ大夫が家を乱し、諸侯が国を攻めることはあるだろうか。 人の家を自分の家と同じように見なせば、誰が乱すだろうか。人の国を自国と同じように見なせば、誰が攻めるだろうか。 したがって、争いは消滅する。
もし天下の人々が互いに等しく愛し合えば、国と国は攻め合わず、家と家は乱し合わず、盗賊はいなくなり、君臣父子はみな孝行と慈愛を持つようになる。 このようになれば、天下は治まる。
だから、天下を治める聖人は、どうして『憎しみ』を禁止して『愛』を勧めないことがあろうか(いや、必ず勧める)。 天下が互いに愛し合えば(兼相愛)平和になり、互いに憎み合えば(交相悪)混乱する。 ゆえに墨子先生は言われた。 『人を愛することを勧めないわけにはいかない理由は、ここにあるのだ』」
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