2026年3月22日日曜日

三笠宮崇仁親王 - Wikipedia

三笠宮崇仁親王 - Wikipedia

三笠宮崇仁親王

戦後

3人の兄たち(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)とは年齢も離れた四男であり(大正天皇の4人の皇男子のうち唯一の大正時代生まれ)、皇位継承の可能性が低かったことから、かなり自由な立場で行動した。

1945年(昭和20年)11月29日、昭和天皇から歴代山陵への代拝を命じられる。目的は、歴代各陵に対し戦争の終熄へのお詫びと日本の復興に対する御加護を祈るためであり、同年12月1日に東京を出発して鹿児島県下の神代3陵および安徳天皇陵に参向。同年12月6日に帰京して、翌12月7日に昭和天皇に復命した[10]

1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職[11]。1947年(昭和22年)4月に東京大学文学部(旧制東京帝国大学)の研究生となり[12]歴史学を学修した(専攻はオリエント史)。同年11月28日に公職追放の仮指定を受ける[13]

1946年(昭和21年)1月、第1男子寬仁親王が誕生。1947年(昭和22年)、東京都品川区上大崎長者丸の邸宅を三笠宮家が購入し転居、以後13年間御仮寓所とする。この地は1985年にプラトーの分譲(清水建設施工)よってマンションになり、館名は崇仁親王の「お印」にちなんで「若杉ホームズ」とされた。

1950年(昭和25年)9月、ジェーン台風により大きな被害を受けた大阪府和歌山県兵庫県京都府を視察した[14]

1955年(昭和30年)に東京女子大学講師に就任したほか、青山学院大学専修大学天理大学拓殖大学でも講義を行い、日本オリエント学会の会長も務めた[15]。1956年(昭和31年)にはセイロン(スリランカ)、イランイラクなどを訪問し、古代遺跡の視察も行った[16]

1957年(昭和32年)、スカンジナビア航空北極圏航路の航空機運航を開始した記念に親王と同妃の搭乗を要望。これを受け入れることで同年中にデンマークスウェーデンノルウェーへの訪問が実現した[17]

1968年(昭和43年)には翻訳した『聖書年代学』(ジャック・フィネガン著、岩波書店)が第4回日本翻訳文化賞を受賞している。

1979年(昭和54年)、出光佐三出光興産創立者)の協力を得て、東京都三鷹市に「中近東文化センター」を設立し、同センター総裁を長く務めた。また出光が中心となってすすめた福岡県宗像市に鎮座する宗像大社沖ノ島祭祀遺跡の調査が行われた際には立ち会っている。この時に宗像大社沖津宮の前に、槙の木を植樹している。

1994年7月、本人も廃却されたものと思っていた、戦時中の講話をもとにした文書が発見される。1944年1月、支那派遣軍総司令官参謀として若杉参謀の名で書かれたもので、中国からの帰国直前に支那派遣軍将校らへ行った講話を基に書かれた「支那事変に対する日本人としての内省」とその付録として中国人との交際心得を示した「綿鉄集」である。軍の中国侵略や残虐行為に対する率直な批判にわたる部分もあり、話題をまいた。当時、危険文書として軍で廃棄され、三笠宮も終戦時に自身用の控えも焼却したというが、経緯は不明ながら阿部信行のところにあったものが、遺族から東大法学部近代日本法制史料センターに寄贈され、国会図書館の阿部信行陸軍大将関係文書のマイクロフィルムに写されていたものが発見されている[18]。この文書の内容は、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』でも取上げられることになる[19]

2006年(平成18年)に中近東文化センター図書室がリニューアルオープンした際には、その功績を記念して「三笠宮記念図書館」と命名された。1991年(平成3年)にはフランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に就任、また1994年(平成6年)6月にはロンドン大学東洋アフリカ研究学院の名誉会員に就任した。

1950年代後半から「紀元節」(神武天皇即位紀元(皇紀)に基づき、三笠宮自身の父系祖先と伝承される初代天皇・神武天皇が即位したとされる西暦紀元前660年2月11日を「日本建国の日」とするもの)の復活への動きが具体的なものになってくると、考古学者及び歴史学者としての立場から「神武天皇の即位は神話であり史実ではない」として、「『神話』と『史実』は切り離して研究されるべき」と強く批判し、皇族の身分でありながらも積極的に「紀元節復活反対」の論陣を張った。編著『日本のあけぼの』は、このときに刊行されたものである。このため「赤い宮様」とあだ名された。

当然、紀元節復活を推進する人々は三笠宮を激しく非難し、なかでも里見岸雄野依秀市は、三笠宮を「無責任」「非常識」「左翼」と罵倒し、皇族の身分を離れることを要求する著作を公表している。右翼団体の構成員が宮邸に押しかけて、面会を強要した事件も起きている[20]。最終的に「紀元節」という旧来の呼称は使用されなかったものの、国民の祝日のひとつとして、2月11日を建国記念の日とすることになり、三笠宮らの反対運動は成功しなかった。

90歳前後から、心臓僧帽弁に異常が見つかり、度々僧帽弁閉鎖不全で入退院することがあった。

2012年(平成24年)6月14日、長男の寬仁親王斂葬の儀(葬儀)に出席した翌日の6月15日に体調を崩し、聖路加国際病院に入院した。当初は過労によるものと診断され、1週間の入院の予定だったが、僧帽弁閉鎖不全のため心機能と血圧が低下し、改めて鬱血性心不全と診断された。7月2日には集中治療室に入り、7月11日に川副浩平による手術を受けた。その後再び集中治療室で治療を受け、8月31日に退院した[21]。11月21日には、高円宮邸で行われた三男の高円宮憲仁親王十年式年祭霊舎祭に出席し、退院後はじめて公の場に姿を現した。

2014年(平成26年)6月17日に行われた二男の桂宮宜仁親王の斂葬の儀では、孫である寬仁親王第一女子の彬子女王が喪主代理となり、自身は車椅子で参列し拝礼した[22]

2015年(平成27年)12月2日、百寿(満100歳)を迎え[23]、同時に確かな記録の残る皇族としては初めて100歳となった[23][注釈 1]

薨去

2016年(平成28年)10月27日8時34分、東京都中央区の聖路加国際病院心不全のため薨去[24][25][26][27]。享年102(満100歳没)。皇位継承順位は第5位であった[27]。11月4日、葬儀にあたる斂葬の儀豊島岡墓地で行われた[28]。喪主は百合子妃が務め、司祭長は自身が名誉総裁を務めた日本・トルコ協会の東園基政常任理事が務めた。当時の天皇皇后は「皇族であっても自身らより目下の者の葬儀には参列しない」という皇室の慣例により参列せず、使者として河相周夫侍従長が拝礼した[29]。告別式にあたる葬場の儀には600人が、当日行われた一般参拝には、1335人が参列した[30][31]。午後、新宿区内の落合斎場火葬され、豊島岡墓地[28]にある寛仁親王、桂宮宜仁親王、高円宮憲仁親王の墓の近くに埋葬された。

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