2026年3月29日日曜日

藤戸石 醍醐寺 城の再発見! 天守が建てられた本当の理由 – ページ 303 – 歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ ! !

城の再発見! 天守が建てられた本当の理由 – ページ 303 – 歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ ! !

城の再発見! 天守が建てられた本当の理由

歴史の奥底に封印された「凶暴なる実像」をサルベージ ! !

お知らせと記事 <信長廟のナゾの石が「神霊の鎮め石」だとすると…>

城の再発見! 天守が建てられた本当の理由

お知らせと記事 <信長廟のナゾの石が「神霊の鎮め石」だとすると…>

まず初めに、昨年と同様、2011年度リポートの完成も年をまたぐことになりまして、現在も鋭意、作業を続行中ですので、何とぞご容赦のほどをお願い申し上げます。

安土城 伝二ノ丸の信長廟

さて、前回の記事では、ご覧の伝二ノ丸が、織田信長の時代はどんな使われ方をしていたのか? という件をお話しましたが、そこで出た「後宮や空中庭園」という仮説と、有名な "信長廟の謎の石" は何か関連があるのか… という点について、少々補足させていただきたく思います。

信長廟を西側(上写真の左側)から接近して見ると…/奥に見えるのは天主台跡

墓所の最上部にある丸い石が、ひょっとすると、信長が自らの化身とした「盆山(ぼんさん)」かもしれない… と歴史ファンの間で噂されて来た謎の石です。

ただしご覧のとおり、見た印象は(こう横から見ると尚更のこと)ありふれた自然石でしかないため、どの研究者の方々も判断を留保されて来たものです。

その点では、伝二ノ丸に「空中庭園」があったという前回の仮説ならば、この石はもしかすると、庭園のポイントになった "信長遺愛の庭石" だったのでは? などという考え方も成り立つのかもしれません。……

例えば、豊臣秀吉遺愛の藤戸石(ふじといし/醍醐寺三宝院)

しかし事はそう簡単ではないようでして、その辺りの事情を『織田信長と安土城』の秋田裕毅先生はこう紹介しておられます。

(秋田裕毅『織田信長と安土城』1990年より)

信長の廟所の築造について、『蒲生郡志』は、これを秀吉の築造であるとしている。
 天正十一年二月、信長の骨片並に佩用(はいよう)の太刀烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)等を安土山中に護送し、二の丸城跡に之を埋蔵し 一個の石を表とし信長の霊を鎮め宮を造り 六月二日正當一周年祭を修す。
しかし、この記述のように、安土城二の丸の信長廟が秀吉によって築造されたとする史料は、管見の知る限りどこにも見当らず、どこからこのような結論を導き出してきたのかは、現時点では明らかでない。

 
 
つまり秋田先生は、信長廟じたいが謎に覆われた存在であり、しかも墓所の形は「当時の一般的な武将の墓である五輪石塔(ごりんせきとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)とはまったく様相の異なるきわめて特異な形態」だとおっしゃったのです。

確かに墓所の形は異様にも見えますが、ああいう基壇がヤケに大きい墓と言えば、私などの記憶では、例えば平戸城の近くにある松浦鎮信(まつら しげのぶ)の墓も似たような印象がありました。

松浦鎮信の墓(最教寺)

(※自前の写真が見当らず「平戸・生月島旅行クチコミガイド」様より引用)

このように基壇(一段目)のサイズは信長廟と殆ど変わらないもので、要するに問題は、信長廟の二段目から上の違いにあることが判ります。

そこで大変に興味深いのは、江戸時代の安土山摠見寺(そうけんじ)を描いた「近江名所図会」では、「信長公墓」がなんと、ごく普通の五輪石塔のように描かれていることなのです。

近江名所図会 「信長公墓」の部分

そして特にご注目いただきたいのは、基壇(一段目)だけは現状と同じ形かもしれない… という点です。

これは一体どういうことなのか、と申しますと、また秋田先生の著書が答えのヒントを与えてくれるようで、やや長文ですがご一読下さい。

(秋田裕毅『織田信長と安土城』1990年より)

現在の廟所は、二の丸入口に建てられている「護国駄都塔(ごこくだととう)」の裏面に記されている天保十三年四月一日の銘文から、天保年間に改修されたものと考えられる。
それは、石塀や墓石に切石が使用され、その切石を隙間なく合わせるといった構築法からも推測される。
この改修が、どの程度の規模で行われたのかは明らかでないが、この改修より百年ほど前の享保十八年(一七三三)四月十六日に、織田下野守信方が、安土山に登山し信長廟に参拝した折の『織田下野守殿登山記』には、
 御廟前(おんびょうのまえ)花花 水鉢前机香炉(みずばちのまえにつくえとこうろ) 拝席
 石橋之際(きわ) 手水桶(てみずおけ) 手拭(てぬぐい)手拭ハ箱ニ入(いれ)手水桶蓋ノ上ニ置
と、現在と同じく廟の前に花筒が左右に二本しつらえられ、その前に水鉢が置かれ、さらに入口の空堀には石橋がかけられていたことが知られるので、石塀や石塁・墓石などの石を積み替えただけで、基本的な形態までは変えなかったと考えてもよいであろう。

秋田先生の結論は「基本的な形態までは変えなかった」というものですが、文中の史料でも、その百年後の天保年間の改修において、二段目から上だけその時に造り変えた(!)可能性は残されているのではないでしょうか?

そして、もしこの異様な墓所が、幕末に改変された結果だ、ということになりますと、改めて最上部の「石」は何なのか、新たな視点から謎解きできるようにも思われるのです。

高千穂神社の「鎮石(しずめいし)」…御神霊を鎮め祭った石

(※写真は「高千穂周辺旅行クチコミガイド」様より引用)

写真は宮崎県の高千穂神社にある「鎮め石」で、これは神社の説明によりますと、第十一代 垂仁天皇の勅命で伊勢神宮と高千穂宮が創建された際に、御神霊をこの地に鎮めるために用いられたそうです。

一方、信長廟の石は "盆山" か否かと世情にぎやかですが、その丸い形からして、私などはこうした「鎮め石」の類に違いないと感じて来ました。

つまり信長廟の石は、ひょっとすると二段目の石櫃(いしびつ)状の部分に、何か相当に重要なものが納められ、それを鎮め祭るために "据え直された" 石のようにも思われるのです。

―――その様子は奇しくも、秋田先生の「神になった信長」がここに鎮められたかのように。

そして今回の記事のとおり、このように石が据え直されたのは幕末だ、と仮定した場合、そこには新たな問題も浮上して来そうです。

すなわち、信長を神として奉る社会風潮、という現代的な問題であり、今さら申すまでもなく、明治・大正・昭和(戦前)にかけて信長は勤皇家(天皇中心主義者)とも見られて来ました。

それは戦後の自由闊達な "体制破壊者" としての信長観とはまるで別人で、(そのことに司馬遼太郎の『国盗り物語』が少なからず影響を与えたそうですが…)いずれにしても、この石は、たとえ盆山ではなかったとしても、すでに相当な秘史を背負っているように思われてならないのです。  

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安土城とモン・サン・ミシェル 海を背景にした「空中庭園」

安土城とモン・サン・ミシェル 海を背景にした「空中庭園」

<織田信長が家臣らから受け取った礼銭を、自らの背後に投げた>という
『信長公記』の逸話から推理した、安土城主郭部の使い分け

ご覧の図は1年ほど前の記事(ご参考)でお見せしたものです。

ご承知のように、信長は岐阜城の頃から、山頂に私的な屋敷(城砦)を構え、山麓に公的な御殿を造営して、厳格にハレ(公)とケ(私)の領域を使い分けたと言われます。

上図はそうした信長の規範は安土城ではどうなったのか? という疑問からスタートして、『信長公記』の<礼銭を背後に投げた>という逸話をもとに、主郭部の「ハレ」と「ケ」の領域を仮定してみたものです。
 
 
―――で、何故、再びこれをお目にかけたかと申しますと、現在、2011年度リポートの準備を進めるなかで、その前提として、安土城の件がかなり重要であるように思われ、昨年の記事のままではやや尻切れトンボの状態で、ここでもう一歩、お話を進めておきたいと感じたからです。

なおリポートは予告どおりに…

そして天守は海を越えた
東アジア制海権「城郭ネットワーク」の野望
~豊臣大名衆は海辺の天守群から何を見ていたか~

というタイトルで作業中です。

このタイトルの中身がどうして安土城に関わるのか、想像がつきにくいとは思いますが、その辺りは是非、リポートの完成をお待ちいただくとして、今回はその「伏線」とも言うべきお話を申し上げたく思います。
 
 
 
<昨年、信長廟が建つ安土城「伝二ノ丸」を再見して深まった疑念>
 
 
さて、周囲の木々が切り払われて、様相が一変したという天主台跡を、是非とも見ておきたいと出掛けたおりに、見晴らしの良くなった台上から、下の写真のような角度で見下ろしたとき、以前から感じていた疑念が(確信に近いものに)強まりました。

それは、信長廟の手前の四角いスペース(「伝二ノ丸東溜り」)から、伝二ノ丸に直接上がることは、やはり出来なかったのではないか(!)という強い疑念なのです。

上の図や写真にある信長廟への「石段」は、調査の結果、本能寺の変の後に新設された部分とされています。

したがって問題の四角いスペースは、本来の石垣の形だけで考えれば、そこから伝二ノ丸に上がることは出来ない構造のはずです。

しかしそれでは不便だったろう、ということからか、歴代の先生方の考証においては、何らかの方法で上がれたはずだとして、特段の指摘もない状態がずっと続き、ようやく三浦正幸先生が「当時、日本最大の木造階段(階/きざはし)」があったという復元を提示されて、今日に至っています。
 
 
ただしこの「階」については、まことに僭越ながら、何故わざわざ天主台にもたれ掛かるような構造(「寄掛け柱」)で密着させなければならなかったのか、私などにはよく理解できません。

(※そこで当ブログは、問題となっている礎石列を、逆に天主側から張り出した「懸造り舞台」のものではなかったか、と申し上げています。→ご参考

そして昨年、見通しの良い現地を再訪して強く感じたのは、やはり「ここから伝二ノ丸には上がれなかったのだ」(!)という、吹っ切れたような印象だったのです。

ご覧のとおり、図の「ケ」の領域には「虎口が二ヶ所」しか無かった、という意外な姿は、昨年の仮説「信長が礼銭を投げた二ヶ所」にぴたりと一致します。

そして問題の四角いスペースは、狭間塀や櫓門、懸造り舞台(当サイト仮説)に取り囲まれて、さながら桝形(ますがた)虎口の内部のようであったのかもしれません。

ただしこの場合、櫓門が桝形の外側にあって、通常の桝形虎口とは正反対の位置になるため、本来とは違った機能を考える必要がありそうです。

ひょっとしますと、ここは「御白洲」だという見方もあるようですから、例えば登城者や随行の者がここで控えたり、また家来や伝令の者に、はるか舞台の上から信長本人が命令を下したり、といったシチュエーションも考えられるのではないでしょうか。……

いずれにしても、今回の仮説でいちばん影響がでるのは、まるで奥ノ院のような位置付けに変わってしまった「伝二ノ丸」の実像だと思うのです。
 
 
 
<伝二ノ丸には「後宮」と琵琶湖を背景にした「空中庭園」が!?>    

信長廟(冒頭の写真①と同じ位置から見た様子)



ここは一説に「表御殿」の跡とも言われましたが…

ここまで申し上げて来たように、伝二ノ丸が、自前の虎口を持たない、「ケ」の領域の最も奥まった曲輪だったとしますと、それに相応しい用途は、まず「後宮」(大奥の原形)と考えるのが自然な見方ではないでしょうか。

もしくは、数寄の空間(山里の原形)と考えるのも、安土城の場合は天主じたいが信長の住居だったようですから、一つの考え方かもしれませんが、いずれにしても「表御殿」などの "接見の場" ではありえなかったように思われるのです。
 
 
例えばフロイスは、天主の間近に「多種の潅木がある庭園の美しさと新鮮な緑、その中の高く評価されるべき自然のままの岩塊、魚のため、また鳥のための池」があったように書き残しているものの、今日までの調査で、安土城の主郭部から(伝二ノ丸を除いて)そうした庭園の跡は見つかっていません。

「魚」「鳥(水鳥)」というのですから、枯山水ではなく、本物の池と庭石と草木を配した庭園だったはずですが、それには相応の面積が必要でしょう。

それほどの面積が残るのは、もはや、信長廟のため調査対象外であった伝二ノ丸のほかに、候補地は見当たらない状況です。
 
 
そしてもしここに本物の池を備えた庭園があったとしたら、それは背後の琵琶湖とダブルイメージになって、まさに「空中庭園」に見えたのではないか… と思われてならないのです。

と申しますのは…

モン・サン・ミシェル(フランス/ノルマンディー地方)


中層階の屋上に回廊に囲まれた庭があって、その奥の窓が…


右の赤い人物が見える窓であり、さながら空中庭園のようである

日本でもその後、信長の後継者・豊臣秀吉が築いた伏見城に、「月見の機械(からくり)」と呼ばれた仕掛けが造られて、水面に浮かぶ名月のダブルイメージを秀吉らが楽しんだことはよく知られています。

このような勝手気ままな仮説ながらも、もし本当に、安土城の伝二ノ丸が本格的な「ケ」の領域だったとすると、残った「伝本丸」はやはり…………

ということで、2011年度リポートの中身につながっていくわけです。  

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水軍大将・菅達長は黄金天守を仰ぎ見すぎたのか

水軍大将・菅達長(かん みちなが)は黄金天守を仰ぎ見すぎたのか

今回は、当ブログが累計40万アクセスを越えました御礼を申し上げるとともに、2011年度リポートの準備を進めるなかで初めて気づいた一件をお話させていただこうと思います。

と申しますのは、豊臣秀吉の黄金天守の姿が、ある武将の心に深く根をおろしたために、老齢にも関わらず彼を決死の行動に駆り立てたのではないか… と思われる節を見つけたからです。
 
 
 
<菅流水軍の祖・菅達長の城「岩屋城」とは>
 
 
 
ふつう「岩屋城」と言いますと、歴史ファンの多くが北九州の岩屋城… かの猛将・高橋紹運(じょううん)が島津の大軍に抵抗して玉砕した城を思われるでしょうが、今回の話題の城は、淡路島の北端にあった岩屋城です。

この城は、戦国末期の淡路島に割拠した「淡路十人衆」の一人で、島の北岸から東岸の水軍を率いていた菅平右衛門達長(かん へいえもん みちなが)の拠点の一つでした。
 
 
そして大坂湾一帯で織田信長と毛利輝元の覇権争いが激化すると、達長は十人衆の中でただ一人、毛利方について奮戦したそうです。
が、そんな淡路島の攻防も、天正九年、織田方の羽柴秀吉と池田之助の軍勢が上陸すると、たった一日で島内は掃討されてしまいます。

達長は逃亡し、その後も城を奪回すべく、長宗我部元親の弟(香宗我部親康)の与力になるなどして戦を続けたものの、再び豊臣秀吉の四国攻めが起こると、ついに長宗我部氏と共に秀吉の軍門に下りました。
 
 
しかしそれ以降は、秀吉麾下の水軍として一隊を率い、九州攻め、小田原攻め、朝鮮出兵と出陣し、朝鮮出兵では舟奉行の一人に加えられたと云います。

岩屋で1万石(後に四国伊予で1万5千石)を領することを許され、達長が創始した水軍の術は「菅流」と称して後世に伝えられました。

豊臣大名の居城(天守)配置/慶長3年 1598年当時…秀吉死去の年

(※新人物往来社『日本史総覧』所収「豊臣時代大名表」を参考に作成)

さて、そんな達長の岩屋城ですが、ご覧のとおり大坂湾をグルリと取り囲んだ豊臣大名の居城(天守)群の中にあって、小城ながらも、淡路島から明石海峡を監視するという重要な役目を担っていたことが分かります。

この時期はおそらく近世の岩屋城ではなく、戦国期以来の岩屋城を使っていたものと思われますが、この岩屋城あたりからも海の向こうの豊臣大坂城はよく見えたことでしょう。
 
 
フロイスは「とりわけ天守閣は遠くから望見できる建物で大いなる華麗さと宏壮さを誇示していた」(『完訳フロイス日本史』)と書いていますから、ひょっとすると晴れた日の夕刻には、西陽を照り返して強烈に輝く天守が臨めたのかもしれません。

いずれにせよ、これは達長に対する秀吉の全幅の信頼をうかがわせる居城配置だったと思うのですが、慶長3年、秀吉が死去すると、達長は秀吉の遺品として名刀「長光の太刀」を受け取ったとされています。

そして天下分け目の関ヶ原合戦では、達長はやはり西軍に属したため、所領は没収。辛くも朝鮮出兵の時に同じ船手の将だった藤堂高虎の嘆願で救われ、高虎の城下で蟄居し、破格の五千石で仕える身となったそうです。
 
 
やがて運命の大坂の陣―――。達長はすでに相当な老齢に達していたようですが、冬の陣が終わり、有名な「外堀・内堀の埋め立て」工事の現場で、ひとつの事件が起きました。

達長らは藤堂高虎の埋め立て分の作業を担当したものの、「内堀まで埋めてしまおう」という徳川幕府の謀略に嫌気がさしたのか(はたまた豊臣方に肩入れしたのか)作業をボイコットして現場に出ず、見回りにきた高虎を激怒させました。

この時、高虎は達長を「腰抜け」と罵倒したようです。
それに対して、達長は「悪言を吐きてこたへり、あまつさえ既に公(高虎)に切り掛からんとの風情なり」(『公室年譜略』高山公巻之七)との行動に出たのでした。

達長の悪言とは「私の腰の抜けたるをいつ御覧ありし」だったとも伝わっていて、達長としては "どちらが腰抜けなのか" という鬱憤(うっぷん)もあったのかもしれませんが、達長はこの件で即座に切腹を命じられました。

(※事件の経緯はサイト「辛酉夜話」様がたいへん詳しく、参考にさせて戴きました)

切腹は、埋め立てが終了した三日後だったと云います。

今日では、達長の行動は古武士の気骨を示したもの、などと語られるようですが、ついに達長に「悪言」を吐かせたのは、岩屋城から日々眺め続けた、金色の城への憧憬だったように思われてならないのです。

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拡充版!の新イラストと共に見る天守台構造

拡充版!の新イラストと共に見る天守台構造

ご覧のイラストは、前々回の記事でお届けした新イラストを、さらに広い範囲に拡大して、そこに想定される狭間塀(さまべい)や走長屋などを描き加えたものです。

こうしてご覧いただきますと、当サイトの復元案では、豊臣大坂城の天守台周辺はかなり複雑な構造になっていることがお分かりでしょう。

で、今回は、何故こんな形になるのかを、特に天守台の中の石蔵(穴倉)を中心に図解付きでご覧いただこうと思います。
まずは復元の基本的な考え方としまして…
 
 
 
Ⅰ.<中井家蔵『本丸図』の朱線はやはり無視できない、という基本スタンス>    

通称「黄堀図」部分          「青堀図」部分

(※当図は上が南)

お馴染みの中井家蔵『本丸図』には通称「黄堀図」「青堀図」と呼ばれる2枚があり、そのいずれもが、天守の南西隅(図では天守の右上の角)のあたりを墨線でなく「朱線」で描いています。

『本丸図』の他の箇所では「朱線」は土塀や狭間塀を示しているため、この天守の「朱線」をどう解釈するかについては色々な見解がありました。

前回記事でご紹介した櫻井成廣案は「天守台上の空き地を囲う土塀」と考え、また宮上茂隆案は「(この部分の天守壁面が)本丸地面から直接建ち上がっていた」と考証し、三浦正幸案・佐藤大規案はかなり限定的にとらえて石蔵(穴倉)の入口だけ復元するなど様々でしたが、この部分はやはり、何か"特殊な状態"であったことを示しているように思われてなりません。

そしてもう一つ、ここには気になる「朱線」が引かれています。

天守台の南側(写真では上側)に、御殿(「御納戸」)との境界を区切るかのように引かれた「朱線」があり、その中央付近からは天守側に伸びる「朱線」がT字形に枝分かれしています。

このように天守台の間際を細かく仕切った「塀」というのは、現存天守や城絵図の天守にもまるで例が無いため、諸先生方の復元案では、この塀の用途(ねらい)をはっきり言及したものはありませんでした。
 
 
ただ唯一、大竹正芳先生が、『本丸図』は築城開始早々の様子だという前提で、
「この時点ではまだ天守の建物が築かれていなかったに違いない。天守台のまわりを塀で囲ったのは工事の安全確保と機密保持のためではなかろうか」(『秀吉の城』1996年所収)
と指摘されたのが、合理的な解釈として印象に残っているのみです。

大竹先生の解釈は、例えば尾張名古屋城の天守台を加藤家(清正)が独力で築いた際に、石垣技術の「機密保持」のために幕で覆った… 云々という伝承を想起させるもので、かなり魅力的です。

しかし加藤家のケースは、築城が徳川幕府の監視下であり、諸大名の分担箇所が複雑に入り組んだ「天下普請」の場であったからで、豊臣大坂城の天守台築造のときも、そのような機密保持は本当に必要だったのでしょうか。
 
 
さらに当サイトでは『本丸図』の作成時期は「秀吉の最晩年」だったのではないかと申し上げています。(「2010年度リポート」)

その場合、大竹先生の指摘を参考にしますと、なんと、慶長地震で秀吉の天守が大破したあと、秀頼の再建天守(当サイト仮説)が建つまでの "空白期間" に当たる(!)という可能性が出て来ます。

しかしこれについても、果たしてその状態の「機密保持」は本当に必要だったか?という疑問はぬぐえず、この複雑な塀(朱線)はやはり、何かしら別の役割を担っていたように思われるのです。

   
Ⅱ.<いま確認できる秀吉の天守台には「浅い穴倉しかない」という、厳然たる事実>    

発掘された秀吉時代の姫路城と肥前名護屋城の天守台跡


(※上写真は加藤得二『姫路城の建築と構造』1981年に掲載の写真をもとに作成)
(※下写真の肥前名護屋城跡の礎石等は、穴倉の埋め戻し後の模擬石ですのでご注意を)

さて、豊臣大名の天守台には、大規模な石蔵(穴倉)の有るものと無いものが混在しておりまして、その違いを分けた判断基準は何なのか、定かでありません。

例えば秀吉直臣だった浅野長政の甲府城、加藤清正の熊本城、黒田長政の福岡城などの天守台にはそれが有ったのに、いわゆる五大老の毛利輝元の広島城や萩城、前田利家の金沢城(推定)、小早川隆景の三原城、宇喜多秀家の岡山城などは一様に「無かった」と言えそうだからです。
 
 
―――では秀吉自身の居城はどうだったか?とダイレクトに問えば、上写真でご覧のとおり、いま確認できる秀吉の天守台遺構は、姫路城も、肥前名護屋城も、深さ5尺ほどの浅い穴倉しか存在しなかった(!)という厳然たる事実があります。
 
 
さらにもしも石垣山城や山崎城の天守台跡にも発掘調査が入れば、事態はずっとクリアになるはずだと思うのですが、私の勝手な印象を申しますと、やはりそれらも大規模な石蔵(穴倉)は想像しにくく、たとえ有ったとしても、同様の浅い穴倉の跡が見つかるのではないかと感じられてなりません。

ですから豊臣大坂城についても、気宇壮大な天守台がそびえながら、その上に、わずか「深さ5尺」という浅い穴倉を"いかに復元できるか"が、現下のマニア冥利(みょうり)につきると思うのです。
 
 
で、以上のⅠ.Ⅱ.の考え方を両立できる復元が、ご覧のとおりの複雑な天守台だと考えられるわけです。

(※上図の「高さ5尺の石塁」は『本丸図』の書き込みの数値にぴったり合致するものです)

  (※なお当イラスト左隅の走長屋の窓は、突き上げ戸であった可能性も高いと思われます)
(※また前々回の繰り返しで恐縮ですが、こうした景観の手前には、実際は奥御殿の殿舎群が建ち並んでいて、当イラストはそれらを "透明化" した描写になります)

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豊臣大坂城天守の造形の肝…「付櫓」の話

豊臣大坂城天守の造形の肝(キモ)…「付櫓」の話

かつて著名イラストレーターの香川元太郎先生が「安土城天主は研究者の数だけ復元案がある」と発言されましたが、豊臣秀吉の大坂城天守にも、これまで多くの復元案が登場して来ました。

前回のブログでお見せした新イラストも、そうした系譜の上にアツかましくも参戦させていただこう、との意気込みで作成したものです。

で、改めて歴代の復元案を見直してみますと、「付櫓(つけやぐら)」の復元方法が、それぞれに千差万別の手法(特に天守台の解釈や屋根の突き合わせ方など)を示していて、これがまたマニアックな興味を引きつけてやまないのです。
 
 
<櫻井成廣(さくらい なりひろ)案>
(※櫻井成廣『豊臣秀吉の居城 大阪城編』1970年に掲載の図より作成)

まずは城郭研究のパイオニアの一人・櫻井先生の復元ですが、これは天守台に大規模な石蔵(穴倉)は無かった(!)という大前提から出発しています。

そのため「付櫓」は、天守本体と同じ高さから二階建てで付設され、そこに天守南面では唯一の(!)出入口がある、という構造です。

しかも屋根は天守二重目の屋根から一続きで葺き降ろし、そこに大きな千鳥破風を設けています。
 
 
<宮上茂隆(みやかみ しげたか)案>
(※『歴史群像 名城シリーズ① 大坂城』1994年に掲載の図より作成)

さて次の宮上案は、お馴染み『大坂夏の陣図屏風』の描写と、中井家蔵『本丸図』で天守台南面に引かれた「朱線」に着目した結果、天守の南西部分は本丸地面から直接建ち上がっていた、と解釈したものです。

その影響なのか「付櫓」も、天守台上より一階分低い位置から建てられ、二階建てであるものの、上の櫻井案ほどは屋根の突き合わせに苦労をしていません。
 
 
<三浦正幸(みうら まさゆき)案>
(※三浦正幸 監・編修『CG復元 よみがえる天守』2001年に掲載の図より作成)

この三浦先生の復元案もまた、『大坂夏の陣図屏風』の描写に基づく場合を考察したものですが、新たに熊本城天守との類似性に着目したため、上の宮上案に比べれば、天守の中層以下の破風がすべて90度回転した配置になっています。

その結果、「付櫓」については、天守の(二つ並んだ)比翼千鳥破風の復元を優先せざるをえず、平屋建てとなり、それでも屋根どうしが上下に密着した状態です。

また天守台は明確に、大規模な石蔵(穴倉)が存在したとしています。
 
 
<佐藤大規(さとう たいき)案>
(※三浦正幸監修『図説・天守のすべて』2007年に掲載の図より作成)

ご覧の佐藤案は、天守台については、上の三浦先生のもう一つの復元案…『大坂冬の陣図屏風』に基づく案と同一のものだと思われます。

そして「付櫓」についても、建物の高さと壁面の意匠以外は同じ構造のようであり、屋根の突き合わせはまったく無理のない自然な処理になっています。

こうして各案を見比べますとそれぞれ特徴があり、それと言うのも、この「付櫓」は中井家蔵『本丸図』等に漠然とした平面形が示された以外は、何も文献上に情報が無いため、言わば"どうにでも復元できる"フリーゾーンなのです。

―――ということは、逆を申しますと、この部分の復元は、研究者の個々の発想や資質がもろに表出した箇所でもありそうなのです。

そこで当ブログの新イラストを再度ご覧いただき、この「付櫓」はどんな発想から出たものか?と問われれば、「福山城天守」の構造に大きなヒントを得たことを白状いたします。
 
 
 
<何故か多くの共通点をもつ、福山城天守の不思議さ>    

福山城天守(アメリカ軍の空爆で焼失/昭和41年に外観復元)

大坂の陣で豊臣家が滅亡した後、元和年間に徳川幕府の肝いりで、水野勝成(みずの かつなり)が現在の広島県の福山に新築した近世城郭が、福山城です。

築城時には現存の伏見櫓をはじめ、徳川再築の伏見城から多くの建物が移築され、「伏見城」との関係が深いものの、天守については水野氏による新築と言われています。

ところが、この天守、どうにも豊臣大坂城との共通点が多いように思われてならないのです。
 
 
【共通点1】 付櫓と付庇(つけびさし)、その下にある唯一の出入口

上の写真でも明らかなように、この天守は、正面向かって右手前側に「付櫓」と「付庇」が一体化して張り出していて、このデザインは冒頭からご覧の大坂城天守の復元像にそっくりです。(張り出しはともに南東側!)

それは細部においても、天守の屋根から一続きで葺き降ろしている点や、大きな千鳥破風で屋根の造形をまとめている点、その下に唯一の出入口がある点など、<櫻井成廣(さくらい なりひろ)案>を介した共通点が満載です。
 
 
【共通点2】 半地下構造の天守台石蔵(穴倉)

さらに内部の構造でも、付櫓・付庇・天守本体ともに、初階が浅い石蔵(穴倉)を伴っていて、半地下構造になっていました。

これは秀吉の姫路城天守や肥前名護屋城天守が、ともに深さ5尺という、浅い穴倉を伴っていたことを連想させますし、同様の仕組みはやはり <櫻井成廣案> に採用されています。

以上の事柄を踏まえますと、歴代復元案の中でも古い <櫻井成廣案> というのは、なかなか捨てがたい貴重な示唆を含んだ案であると分かり、新イラストでも多くを参考にさせていただいた次第です。

ただし、そうなりますと……

―――ならば、福山城天守で印象的な「付櫓」の望楼部分はどう解釈すればいいのか? ひょっとして豊臣大坂城まで遡(さかのぼ)るのか?

この点では、ご承知のとおり、秀吉が自ら縄張り(設計)した豊臣時代の和歌山城にも「小天守」が築かれ、大小連立天守だった、との伝承があります。(『南紀徳川史』)

また現在の大阪城天守閣(復興)を設計した古川重春(ふるかわ しげはる)先生も、豊臣時代の大坂城は「二層の小天守を伴った所謂複合式の天守で」と著書に記すなど、「小天守」の可能性には寛容な立場でした。(『日本城郭考』1974年)

マニア心理として、思わず新イラストにあらぬものを描き込んでしまいそうな "誘惑" に襲われ、それを振り払うのに精一杯の心境です。  

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