2025年10月15日水曜日

山鹿素行 胸像 碑文 山鹿素行銅像台座銘文@赤穂城


山鹿素行[やまがそこう](1622~1685)



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高弥山隠


赤穂城跡は恐ろしく広く立派に整備されていた


姫路城もそうだが、海洋民族の記憶が武士に堀を作らせる。
氷川女体神社でも北に宗像や城を作らせている。
太陽信仰と星信仰の両立はピラミッド以来、人類の課題。

『山鹿素行の士道論』(赤穂義士会)H26より

(付録2)

山鹿素行銅像台座銘文

 現在、赤穂城跡二之丸門跡付近にある山鹿素行銅像の台座正面には、大正十年(一九二) 当時の素行会会長松浦厚[まつらあつし](平戸藩主松浦詮[あきら]の長子。伯爵。貴族院議員。茶道家、漢詩人)の撰文による銅製銘板がはめ込まれています。 銘文の上に書かれている篆額[てんがく]「隠山弥高」は浅野長勲[ながこと](明治初期の広島藩主。侯爵。宮内省華族局長官。貴族院議員)の筆です。「隠山弥高」は「隠山[いんざん]いよいよ高し」と読みます。「隠山」は素行が用いた号のひとつですが、これを山が高くそびえるのにたとえて、素行の人と教えは(今の世にあっても)ますます崇高である、という意味です。

 以下に、この銘文の内容をご紹介します。  



(原文)

贈正四位山鹿素行先生銅像記

先生文武全才為一世所推服、将軍家光公将大用

之而公薨不果、赤穂侯長直聞其賢聘為賓師、赴赤

穂七月而還江戸、慨然著聖教要録、以此獲譴謫于

赤穂殆十年、侯遇之如旧、又著中朝事実以見其志、

及長友襲封父子共師事焉、長友嗣子長矩坐事国

除、所謂四十七士能復君讐者、蓋先生遺訓之所及

也、我祖鎮信亦待以優礼子孫遂仕我家、 近世吉田

松陰乃木大将皆私淑先生、其学将大行于天下頃

者同志胥謀建先生銅像于謫居之址、就余求文乞

浅野長勲侯題額、乃記其梗概使後人有矜式焉

大正十年十一月上浣素行会長正三位伯爵松浦厚撰并書



(読み下し)

贈正四位山鹿素行先生銅像記

先生文武全才[ぜんさい]にして一世の推服[すいふく]する所たり。将軍家光公将[まさ]にこれを大用せんとするに

公薨(へい)じて果たさず。赤穂侯長直其の賢なるを聞き聘[へい]して賓師[ひんし]となし、赤穂に赴[おもむ]

七月にして江戸に還る。慨然[がいぜん]として聖教要録を著し、これを以てトガメ[とがめ=言偏に遣]を獲て赤穂に謫[たく]すること殆ど十年。 侯これを遇すること旧の如し。 また中朝事実を著し以て其の志を見る。

長友襲封[しゅうほう]に及ぶや父子共に師事す。長友の嗣子長矩国除[こくじょ]に坐事[ざじ]するや、所謂[いわゆる]四十七士能く君の讎[あだ]を復するは、蓋(けだ)し先生の遺訓[いくん]の及ぶ所なり。

我が祖鎮信[しずのぶ]も亦[また]優礼[ゆうれい]を以て侍し子孫遂に我が家に仕う。近世吉田松陰・乃木大将皆先生に私淑[ししゅく]す。其の学まさに天下に大行し頃者[けいしゃ]同志胥謀[あいはか]りて先生の銅像を謫居の址に建てんとすべし。 就いては余に文を求め浅野長勲[ながこと]侯に題額を乞う。乃[すなわ]ち其の梗概[こうがい]を記し後人をして矜式[きょうしょく]あらしめん。

大正十年十一月上浣 素行会長 正三位 伯爵 松浦厚撰并びに書

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