アッシリア=シリア??
#5
旧約聖書(「列王記 下」一七章六節)は、シャルマネセル(五世)のサマリア侵攻の記事に続いて、「アッシリアの王」がサマリアの住民を、シリアのハブル川三角地帯のグザナ、アッシリア中心地域のハラフ、そしてはるか東方のメディアに大量に捕囚したことを記しており、このいわゆるイスラエルの「失われた一〇部族」の捕囚を実行した「アッシリアの王」がシャルマネセル五世を指すのか、サルゴンを指すのかが議論されてきた。 旧約聖書がどのように事実を反映しているかという問題はさておき、シャルマネセル五世がサマリアを征服した後、サルゴン二世はサマリアの反乱を鎮圧して、さらに住民を捕囚として連行したものと思われる。また、地中海岸南部のペリシテ地域でも、属国であったガザが、エジプトと結んでアッシリアに対して反旗を翻したが、反乱軍はガザの南にあるラフィアで打ち破られ、エジプト軍は敗走した。
#6
旧約聖書の記事(「列王記 下」一八章一三節─一九章三六節、「イザヤ書」三六章一─三七章三八節、「歴代誌 下」三二章一─二三節)は、ヒゼキヤ王がユダ王国南部の拠点ラキシュに陣取るアッシリア王に使者を送って降伏する意思を告げ、大量の金銀を貢物として差し出したと語る。それに続けて、センナケリブの王碑文にはない詳細に触れ、「アッシリア王」は、「軍の長」(タルタン)、「宦官長」(ラブ・サリス)、「主任献酌官」(ラブ・シャケ)が率いる大軍をラキシュからユダ王国の首都エルサレムに送りこれを包囲させたとして、その後のエルサレム包囲を描写する。そこでアッシリア軍を率いるラブ・シャケが、包囲されたエルサレムの城外からセンナケリブのメッセージを伝え、エジプトは「折れた葦」であり頼っても無益であること、アッシリア軍はイスラエルの神(ヤハウェ)の命によって軍事作戦を行っていること、反アッシリア主義者であるユダ王ヒゼキヤに従うことなく降伏すれば、ユダの人民は他の地域に連れてはいかれるが死ぬことはないことを、「ユダの言葉」(ヘブライ語)で語りかけて説得したという。 それに対しヒゼキヤ王は、この窮地を預言者イザヤに告げ、預言者は、神ヤハウェはエルサレムを守り、アッシリア軍はエルサレムを攻略することはないという神のお告げをヒゼキヤ王に語って聞かせた。そして、その夜、「主」(神ヤハウェ)の使いが現れて、アッシリアの陣営で一八万五〇〇〇人を殺し、センナケリブはニネヴェに帰国して礼拝中に自らの息子アドラメレクらによって殺されたという。
この聖都エルサレム不滅を主張する旧約聖書のストーリーは、センナケリブの王碑文と突き合わされて様々に議論された。現状で研究者がおおむね同意しているのは、両者は明らかに一つの事件を扱っていること、また、旧約聖書の編者たちは、ヤハウェ一神教とエルサレムの神聖性を強調するユダ王国の神学的関心に動機づけられており、多くの部分で正確に事件を描きながらも、この遠征の結果をかなり脚色して語っているということである。 一方で、旧約聖書が記す事柄には、エルサレム包囲の際のラブ・シャケのスピーチやセンナケリブのラキシュ布陣など、センナケリブの王碑文には描かれないが、その信憑性を評価すべきとされてきた部分もある。センナケリブの主要な王碑文は、アッシリア軍が攻略したユダの「四六の要塞都市」の名前を記していないが、ニネヴェのセンナケリブの王宮(南西宮)のレリーフの一つは、説明の銘文つきでラキシュの包囲と征服の様子を描いており、実際にラキシュの遺跡の発掘によって、アッシリア軍の攻撃を受けた痕跡が確認されている(図6‐1、6‐2)。
#終章
†帝国の記憶
アッシリアの記憶は、すでに述べてきたように旧約聖書と西洋古典に書き残され、現代まで伝承されている。旧約聖書は、アッシリアによる北イスラエル王国の滅亡とユダ王国の首都エルサレムの包囲、そしてその後のアッシリアの滅亡について記しており、ティグラト・ピレセル(三世)、シャルマネセル(五世)、サルゴン(二世)、センナケリブ、エサルハドンといった王たちに言及している。西洋古典の著作では、ヘロドトスが、ペルシア帝国に先立ち繁栄した帝国としてアッシリアについて叙述し、クテシアスは、ニノス、サルダナパロスといった現実には存在しない王たちの名前を挙げ、王妃サムラマトを女王セミラミスに仕立てて、奔放に創作された伝説を記している。セミラミスについてはすでに述べた通りだが、ニノスは都市名ニネヴェに由来しており、サルダナパロスはアッシュルバニパルをモデルにした人物と考えられる。 また、「アッシリア」は地域名として「シリア」と関係があるのではないかと考えられてきた。多くの間接的証拠に基づいて論じられてきたこの学説には反対者もあるが、トルコ南東部のアダナ近郊で一九九七年に発見されたチネキョイ二言語碑文(紀元前八世紀)において、フェニキア語の「アッシュル/アッシリア人」(/)がルヴィ語象形文字で「スリウィ」(su+ra/i-wa/i-)と書かれていることは、「アッシリア」=「シリア」説の信憑性をさらに高めたといえる(図10‐1)。そうであるなら、「アッシリア/シリア」の名は、アッシリア帝国の西方領域を指す語として今もなお生き残っていることになる。
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