2025年7月1日火曜日

賀立神社(かだちじんじゃ) | Resurrection Of Awa

賀立神社(かだちじんじゃ) | Resurrection Of Awa

Resurrection Of Awa

賀立神社(かだちじんじゃ)

    賀立02

 徳島県阿南市椿町蒲生田に波の上を跳ぶ兎をみごとに彫っている彫刻のある賀立神社(かだちじんじゃ)が御座います。

 「大穴牟遲神に袋を負せ、從者として率て往きき。ここに氣多(けた)の前(さき)に到りし時、裸(あかはだ)の兎伏せりき。」と古事記に書かれるように、大国主命(大穴牟遲神)は、「氣多の前」で兎に会います。

 「氣多の前」とは、"橋げたのような岬"と連想され、徳島県阿南市蒲生田岬から沖の伊島の間には「橋杭の瀬」と呼ばれる岩礁群が連なっています。
 
 そしてその蒲生田には、「岬の橋杭」伝説が残っており、「燈下録」という江戸時代(文化九年・1812)の書物に書かれ、阿波の民話集「お亀千軒」飯原一夫著にも収録されています。

 『伊島と蒲生田間に連なる、橋杭の瀬と呼ばれる岩礁は、昔、神様が伊島まで橋を架けようと思い、山から大岩を運んできて、海の中に橋の杭を立て始めた。
 そこに通りかかった天邪鬼(あまのじゃく)に「倒れんように番をしとれ」と言って、また、山に大岩を運びに行った。
 天邪鬼は、神様がいない間に大岩でできた橋の杭を海の中に倒してしまった。
 帰ってきた神様は、今度は倒れないようにと頑丈に作ったが、天邪鬼は、神様がいない間に端から倒していった。
 とうとう神様は、根負けして橋を架けるのをやめ、何処かに行ってしまった。
 それで残った伊島と蒲生田間に連なる岩礁群を橋杭の瀬と呼ぶようになった。』
 とあります。

 蒲生田岬から伊島へと続く岩礁群の図

              賀立11

 実は椿町周辺の神社には、「波の上を跳ぶ兎の彫刻」が彫られており、一つは、阿南市椿泊町にある佐田神社の拝殿の柱の礎石に彫られた二羽の兎。前の兎が、後の兎を導いているように彫られています。

                     佐田神社 椿泊町

 もう一つは、阿南市福井町土佐谷の金刀比羅神社の境内の後世山遙拝所の拝殿に彫られた「波の上を跳ぶ兎」。後ろ足を跳ねて波の上を跳んでいます。

                     金比羅神社 福井町

 そして、蒲生田岬突端の浜にある賀立神社本殿内にある波兎ですが、兎の後ろ側に彫られた大波などもみごとに彫られています。

                 賀立10
 
 他にも兎の彫刻を彫った神社は時々見ることがありますが、「この地区のように波の上を跳ぶ兎をみごとに彫っている彫刻を他の神社では見たことがない。とあり、蒲生田岬周辺は、稲羽の素兎の話を彷彿とさせる所である。」(阿波古事記研究会)としています。

 ちなみに、上板町神宅に鎮座する「葦稲葉(あしいなば)神社」(祭神:倉稲魂命、創祀年代不詳)があり、あの有名な伏見稲荷大社の元社と思わしき神社があります。

 この「いなば」も阿波にあったのです。

 柿本人麻呂曰く、阿波は隠国「言挙げせぬ国」、ルーツが阿波にあったとしてもそういわなかったという地なのです。
 また、古事記原文には 「稻羽之素菟」 と記載されておりますが、通説では、稲羽は鳥取県の旧因幡国とされています。

 さらに、「蒲生田」という地名ですが、大国主神がうさぎに「真水で体を洗い"蒲(ガマ)"の花粉の上で寝転がるといい」と言ったとされたとあり、やはりこの地がそうだったのでは!?…などと想像が膨らみますなぁ~。

    賀立12

 少し写真では読みにくいのですが、湿地植物群落として、蒲生田大池の北東部一帯にヒメガマ、アンペライが生茂り、いわゆる蒲生田の地名の由来となっている。とあります。


 ここからはほぼ写真日記です(笑) 

 蒲生田岬付近到着、賀立神社の標識発見!
 そういや小さい頃は蒲生田のことを「がもうだ」ってずっと言っていたし思ってました。
 周りの人にもそれで普通に通じました(笑)
 実は「かもだ」のようです(´・ω・`)

    賀立01

 扁額

    賀立03

 地神塔(通称おぢがみさん)、五角形の石柱で、正面に天照大神、左周りで大己貴命、少彦名命、埴安姫命、倉稲魂命となっている徳島独特の祭礼ですね(´ω`)

    賀立04

 ここにも阿波古事記研究会の看板発見。
 コアな古事記ファンからすれば、若干場の雰囲気から察するにチープ感が否めませんが、ライト層にはよいかも…(´▽`A``

    賀立05

 「撫でうさぎ」: 撫でると、良縁、健康長寿、病気平癒、いじめ封じのご利益。

    賀立06

 賀立神社の狛犬

    賀立07

 若干ダウンタウンの浜ちゃんっぽいチョット独特な狛犬ですなー。

    賀立08

 本殿です。中の木彫りに兎が彫られているらしい。

    賀立09

 そこから徒歩で400m程海岸沿いを行くとかもだ岬に到着。

    kamoda01.jpg

 何かオブジェがあったのでそこから覗く伊島とパシャリ。

    kamoda02.jpg

 快晴だったため、伊島と更に奥に薄っすらと見える和歌山県が確認できました!

    kamoda03.jpg

 かもだ岬灯台上から伊島―和歌山方面を眺望。
 すごくいい眺めですなー。素兎も飛んできそうです(笑)

    kamoda04.jpg

 ふと横のジャングルに見えるのは…

    kamoda05.jpg

 朱塗りが綺麗な鳥居が…
 しかしどうやって行くんだろうな…
 気になりましたが、体力が尽きていたので今回調査できず。。。

    kamoda06.jpg

 以上、「稲葉の素兎in阿波」の舞台でした!

Copyright (c) Resurrection Of Awa

Powered by FC2 Blog

神名考察 大宜都比賣

        l_531707939fcd0[1]

 古事記の国産みに書かれた神々の中で、古事記に何度も現れるのは、実は阿波国の大宜都比賣(おおげつひめ)のみです。

 ここでは国産みにおける大八島の国名及び神名から考察したいと思います。

 ⦿ 産まれた順番

 ① 淡路島:(淡道之穂之狭島(あはぢのほのさわけのしま))
 ② 四国:伊予之二名島(いよのふたなのしま):(愛比売(えひめ)・飯比古(いよりひこ)・大宜都比売(おおげつひめ)・建(たけよりわけ))
 ③ 隠岐島:隠伎之三子島(おきのみつごのしま):(天之忍許呂(あめのおしころわけ))
 ④ 九州:筑紫島(つくしのしま):(白日(しらひわけ)・豊日(とよひわけ)・建日向日豊久士比泥(たけひむかひとよじひねわけ)・建日(たけひわけ))
 ⑤ 壱岐:伊伎島(いきのしま):(天比登都柱(あめひとつばしら))
 ⑥ 対馬:津島(つしま):(天之狭手比売(あめのさでよりひめ))
 ⑦ 佐渡:佐度島(さどのしま):なし
 ⑧ 近畿:大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):(天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ))

 漢字に注目してください。漢字には意味があります。
 「依」:頼りにする
 「別」:一緒にいたものから離れ離れになる
 という意味です。

 まず淡路島は、淡道之穂之狭別島であり、この場合、穀物の「穂」の狭い島の別れた国ということで、記紀では一番先に産まれたのも関わらず、その実は何かから別れた国ということです。
 よってこれは古事記という物語を作るにあたり、国産みするときに施した構成上のネタであると考察ができます。

 また、隠岐島、筑紫島なども神名は全て「別」が付くのです。

 次に壱岐島は、魏志倭人伝で紹介されている「一大国」であり、天比登都柱は、天一柱と解釈できます。
 この地が当時外交の重要拠点であったことがわかります。
 何故ならこの島は「別」ではないのです。

 天之狭手「依」比売である津島こと対馬国は、狭手の島であり、一柱の国に依っているからであると解釈できます。
 ただ単に面積でいえば対馬の方が大きいのですが、壱岐島の方が九州側から近く、九州側の国を治めていた国主からすれば九州側国→壱岐→対馬(限界範囲)だったのでしょう。
  それは魏志倭人伝記述の副官卑奴母離(ひなもり)の管轄地(對馬國(対馬)・奴國・不彌國(福岡県))からもわかります。

 佐渡島に関しては当時の支配範囲の限界境であると推測され、神の名前すらまだ与えられていません。

 そして最後の近畿ですが、天御虚空豊秋津根別とあり、「豊秋」は穀物の穂のなる豊かな秋であり、「根別」は根から別かれた国ということなのです。
 こちらも「別」の国であり、更にいうと根元から別れた国ゆえに「根別」なのです。

 ここであえて順をすっ飛ばした四国に注目してください。

 阿波・伊予の二国の神名は「別」「依」がないのです。

 以前にも紹介しました、伊予之二名島の「二名島」は四国を大きく西側(予)と東側(伊)に分けて「伊」「予」之二名島とし、西側が、愛比売(麗しい女性の意味)と、建依別(雄々しい男性の意味)でその容姿を表しているのに対し、東側が、飯依比古(飯を産する男性の意味)大宜都比賣(五穀を産する女性の意味)穀物から産する食の神々であることに気付くのです。
 そして更に東に移動すると淡路島に至り、穂のなる狭い「別」の島になり、また更に東に移動して、秋に豊かに実る穀物の穂のなる「根」から「別」れた国(天御虚空豊秋津根別)に至るのです。

 このことは、本来は四国から始まる物語であると考察でき、またメッセージとして稲作が東に伝播し、大和(奈良)に至ったということです。

 これは以前にご紹介した銅鐸文化の発展経路と同じコースを意味します。
 要するに稲作の分布域の移動を意味し、より良い地に波及し、移動していったのです。

 古事記では、淡路島を物語で最初に出現させることにより、起源の中心地であった四国を見事にカムフラージュさせたのです。
 
 また、土佐の神である建依別は「依」「別」であり、隣国から「別」れたが「依」っていることです。
 そして飯依比古も「依」ですから飯(米)に「依」比古(男の名)なのです。

 これも五穀の女神である、阿波の神「大宜都比賣」に依存しているのです。

 このことにより古事記の話は実は、何も「別」のない伊予国(愛媛)側の「予」と阿波国(徳島)側「伊」をルーツとしたネタだったのです。

 そして国産みで出現した他の神々がその後全く出現しないのに対し、阿波の大宜都比賣は須佐之男命とのやり取りから、蚕と五穀(稲、粟、小豆、麦、大豆)が生まれた話を含め何度も登場します。

 阿波国の神である大宜都比賣(おおげつひめ)の「ケ」は、古語で食のことを「ケ」といい、後に、生きていく上で不可欠な「衣・食・住」のすべてを「ケ」で表現し、今日、「気」という言葉が、元気・勇気・やる気・気にする・気がない・気が早い・けがれ(気が枯れる)等々、日常にも使われ、物質的なものにとどまらず本源的エネルギーも含め「気」が使われています。

 日本書紀では、ツクヨミがウケモチを斬り殺す話にかわります。
 ちなみに神名のウケも豊受大神の「ウケ」、宇迦之御魂神の「ウカ」と同源で、食物の意味なのです。

 古事記の話は、阿波を意図的に隠しているというネタであり、その実は阿波中心の話と考察できるでしょう。

 大和(根別)のルーツは、阿波(元)からなのです。

Copyright (c) Resurrection Of Awa

Powered by FC2 Blog

阿波の波蹴りうさぎ - やくもとうずしおをがっつりと

阿波の波蹴りうさぎ - やくもとうずしおをがっつりと

阿波の波蹴りうさぎ

 2023年1月1日ということで、一部の方は私の年賀状を受け取っているはずです。

 このたび年賀状に使った画像について説明します。神社に飾られている木彫りなのですが、その神社を今回の記事で巡っていきます。

↑まずはこちら、徳島県東端の蒲生田岬にある灯台です。最東端となると、岬の沖合に伊島という島があります。蒲生田岬は、私を含めた徳島県民の多くが「がもうだ」と読んでいますが、実際は「かもだ」と読むそうです。知らんかったです。だけど、天気予報でも「がもうだ」と言ってる気がするんですけどねえ。

↑蒲生田岬の浜辺に落ちていたらダメなものを見つけました。船のレーダーじゃないですか。事故ってませんかね。

↑賀立神社。蒲生田岬にあります。

↑賀立神社の境内に飾られている撫で兎。

↑ふーん、かわいいじゃん。

↑撫でるといいらしいですよ。

 このうさぎの由来ですが、因幡の白兎伝説と同じお話です。大国主命が蒲の穂を敷いて、皮をはがれて赤膚になったうさぎが蒲の穂の上に寝転んで体を癒した、さらに大国主命がそのうさぎを撫でたというお話です。

 この兎を撫でるとご利益がありますよ、ってことです。皆さん、ぜひいらっしゃいませ。ところで、蒲生田岬は、蒲が生えている田と読み替えることもできますが、由来は岬にある湿地帯の蒲ではない別の植物から来ているようです。

 さて、賀立神社のうさぎはこの撫で兎だけではありません。

↑こちらが賀立神社本殿の中にある波蹴り兎です。左から見ています。

↑右から見ています。

 なぜこんなものが彫られているのか、わかりません。

 蒲生田岬の賀立神社は徳島県阿南市にありますが、同じ阿南市の別の神社にもうさぎがいますのでそちらも見ましょう。

阿南市椿泊にある佐田神社。椿泊は漁港でして、水産物を運ぶ大型車もいますが、普通車ですら通過困難な両側に軒先が迫る道路を進んでいくとこの神社へ着きます。私は椿泊郵便局前のL字カーブで見事にこすりました。地元の方はどうやって通過しているのでしょうか。不思議です。おまえが下手なだけだろうって思うでしょう? ぜひ自分の車で行ってみてください。郵便局のL字をこすらずに通過してみてください。かなりキレてます。

佐田神社の階段を上がっていくとこんな看板がありました。白ヘビがいるということですか? 文字がよくわかりませんが、「在宅」という文字が見えます。

↑こちらが佐田神社の正面です。ここにうさぎがいます。両側に柱がありますよね。その柱の根元をよくご覧ください。

↑柱の根元を拡大してみました。一匹のうさぎが棒でもう一匹のうさぎを引っ張っているような?

↑もう一方の柱の根本もほぼ同じ絵です。

佐田神社の裏へ回るとモンキッキがいました。

↑見事な彫刻です。

↑網がかけられているのでよくわかりませんが、見事な彫刻があります。

↑金がかかっている神社です。さすがは椿泊です。漁業で栄えているだけのことはあります。

佐田神社を離れて、同じく阿南市金刀比羅神社へやってきました。ここにもうさぎがいます。金比羅というだけあって、徳島県内の船主さんが安全祈願に訪れている神社です。貨物船の写真などが飾られています。

↑こちらが金刀比羅神社の波蹴りうさぎです。私が年賀状に使ったのはこちらです。

 なぜこんなうさぎが彫られているのか、やっぱりよくわかりません。海が少し荒れているときに白波が見えますよね。あの白波が波を蹴る白兎に見えるのですが、そういう関係なのでしょうか。

金刀比羅神社には三本足の博学狸、松雲斎が祀られています。

↑神社といえば絵馬です。神社で絵馬を見学するのも醍醐味です。この絵馬については、「怒られてしまえ」とだけ言っておきます。

 というわけで、年賀状の画像についての解説でした。ぜひ徳島県阿南市へいらっしゃいませ。

 ちなみに、徳島県西部の美馬市にも波蹴りうさぎがあるらしいです。どこにでもあるのかよ。山形にも白兎という地名と駅名がありまして、修験者を兎が道案内したという伝説が残っているようです。全国に兎の伝説がありますね。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?
邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?
https://awawa.app/pages/article_detail.php?report_no=8586&app_no=51&tab_no=0#example_02


島勝伸一氏の説/邪馬台国は阿波にあったのか?場所の特定


歴史の研究とは、文献、遺跡遺物、伝承、考古学、分子生物学など、多岐にわたる資料の中から①いつ(年代)②誰が③どこで④何を⑤どうした、を特定することですが、日本の歴史資料にはなぜか③の資料が抜けています。その原因についても言及しようと思います。 今回1000文字という制約の中で連載物として執筆を行うのですが、その前に、日本人がいつ日本列島に定住したのか?をY.N.ハラリ著サピエンス全史等から読み解きます。20万年前、アフリカ東海岸で発生した新人類(ホモサピエンス:現在地球上の人類は一種類。20万年という長期間に地球上各地の異なる環境下で、黒人、黄色人、白人、大きい人、小さい人、言語の違いなどで変化した)は10万年前、アフリカから全世界へ拡散した。新人類は他の人類や動物と違い、群れとして共同作業ができる意思疎通ができる特徴があり、群れは発展・膨張し、その行動範囲で食料が不足すると、新しい群れは食を求め北へ西へ、草木に覆われた大地を移動していった。北へ進んだ群れは約7万年前、西アジアで、西、北、東方へ別れて進み、東進したものは、海を渡る舟を発明し、北への群れは草木から衣服を発明したことでしょう。海を進んだ群れは、約4.5万年前には日本列島に着き、海山川で区切られた列島各地定住し、一部はまた北上し、アメリカ大陸に渡り、今度は南下し大陸の最南端迄1~2万年かけて広がっていきました。 初めて日本列島と日本人を世界史の中へ紹介したのが、中国の史書三国志(魏・呉・蜀)のうちの魏書第30巻烏丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷伝(とういでん)倭人(わじん)条(魏志倭人伝)です。漢字で約2000字という膨大な量で驚きと称賛の念をもって書かれており、表記の距離(直線距離・短里)、方角を曲解せず解読します。(拙書:魏志倭人伝を最新科学で読み解いた「女王卑弥呼は阿波女」参照) ①邪馬台(壹)国は阿波にあったのか? 今迄の歴史家は魏志倭人伝の会稽東治を、呉の国の「会稽」とし、邪馬壹国が太平洋上なるので、この書は信用できない、と言われた。しかし魏の史書に記された魏国が朝鮮半島等東方を治める役所である「会稽東治」(BC223年秦の始皇帝が楚国を滅ぼし下相県現在の宿遷市宿城区古城街道一帯。旧黄河河道に置いた下相城跡(北緯33.9度)が2006年発掘された。そこに邪馬壹国は会稽東治(北緯33.9度)の真東にあると書いてある。なおその少し前BC232年、のち西楚の覇王となる英雄項羽の生誕地です(項羽故里と呼ばれています)。また次号でお会いしましょう。


【執筆/島勝伸一(しまかつしんいち)】
NPO法人吉野川に生きる会代表理事。阿波ヤマト財団評議員。NPO法人吉野川に生きる会 その事業の一つに、歴史を通じた街おこしに取り組むNPO法人「吉野川に生きる会」として卑弥呼サミット等を開催。郷土史家として島勝理事長や愛媛大学の越智正昭・客員教授らが、出土品や地質学、気候などの観点から阿波説について解説し阿波古代史を広くPRしている。

[問い合わせ先080-3533-5146(島勝)


島勝伸一氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・

▶▶島勝伸一解説 岡元雄作監督作品 ドキュメント映画『ルーツ オブ ザ エンペラー』令和6年6月27日 四国古代史サミット東京(YouTube)


邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?

2025/07/01 02:34

あわわ編集部

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?

小学生の社会の授業で習う、あの「邪馬台国」が阿波徳島にあったかもしれない説が盛り上がっている。魏志倭人伝など各歴史書からも符号する事象が多くあり、邪馬台国阿波説に関する書籍やWEB記事、YouTubeなどで各執筆者が自分の説を論じている。ただ、阿波説は完全一致していなくて(そこがまた歴史ロマンにあふれている!)、それぞれ積み上げてきた研究で自身の説を発信しているのが現状。1800年も前の出来事を完全一致させることはほぼ不可能ということで・・・。それならば!それぞれの論者の説を一同に掲載することで、各説の微妙な違いや逆に一致している点などを比較できるようにしようと、まとめ記事を企画しました。この無謀かつ挑戦的な企画にもかかわらず、快諾していただいた執筆者はなんと8名も!毎回のテーマごとにエントリーして執筆してもらうスタイルでまとめていきます(エントリーしないテーマのときもあります)。それぞれが論じる内容を読み比べ、納得する説をお好みでチョイスしていってください。なお、当企画は阿波の古代史を通して徳島の魅力を再発見するというのがミッションなので、邪馬台国以外のテーマも登場予定です。

※注※
この連載コーナーは、各執筆者の考え・主張をまとめたもので、あわわWEB編集部として特定の説を支持する立場でないことをご理解ください。内容に関する問い合わせなどにつきましては、各執筆者に直接連絡してください。
また、
本記事の内容は著作権法により保護されています。無断での転載、複製、改変、及び二次利用は固く禁じております。記事自体のシェアは大歓迎です。

邪馬台国は阿波だった!? テーマ①/「邪馬台国は阿波にあったのか?」


通説
邪馬台国場所論争(通説)。 邪馬台国の場所は明確には判明していませんが、主に「畿内説」と「九州説」が有力な候補とされています。畿内説では、邪馬台国は大和地方にあったとされ、古墳や大規模集落の存在が根拠とされています。
九州説では、邪馬台国は福岡県の北部から中部に位置していたとされ、伊都国や奴国などの国々との関係が考慮されています。 邪馬台国の位置に関する記述は、中国の歴史書『魏志倭人伝』に基づいており、解釈が分かれるため、江戸時代から始まり300年もの長きにわたり論争が続いています。 このように、邪馬台国の正確な場所は未だに議論の余地があり、考古学的な発見や歴史的な文献に基づいて様々な解釈がなされています。あなたはどこだと思いますか。

<目次>

●三村隆範氏の説
●島勝伸一氏の説
●藤井榮氏の説
●オキタリュウイチ氏の説
●恋塚健生氏の説
●ANYA氏の説
●コラク氏の説
●ヤマモトタケルノミコト氏の説

三村隆範氏の説/「やまと」を探さなければ邪馬台国は見つからない」


 「あるでないで・・・」。阿波特有の言葉である。「ある」ものを見ながら話し合う事だ。「見えないから・・・」をいい事に、無いもの作り出して話し合っても一致するはずがない。面白ければよい方は、それでいいと思うが、それでは現実の社会は混乱が増すばかりだ。「真実は一つ」。「説」を論じ合うのではなく、真実の中で真実を追求することだ。①【 邪馬台国は無かった 】。まず、「邪馬台国は無かった。一般は邪馬台国を探しているが、そんな国は、日本に無かったし、「中国史書」に「邪馬台国(やまたいこく)」と書いたものは無い。「中国史書」に書かれる「邪馬壹国・邪馬臺国」等を「邪馬台国」に書き換え、「卑弥呼(ひみこ)」の後を継ぐ宗女の「台与(とよ)臺与(とよ)」を「台与(たいよ)」と読まずに「台(と)与」と読む。ならば「邪馬壹国(やまとくに)・邪馬臺国(やまとこく)」と読むはずだ。古代から日本の国名は「やまと国」で、「邪馬台国」と言い始めたのは、江戸時代以降である。「日本書紀」を見ても「日本此耶麻謄国(これやまとこく)」と日本国は「やまと」を示している。「やまと国」を基準に話し合えば自ずからわかる事である。②【 式内社が示す「やまと」】。平安時代から伝わる式内社は、阿波の美馬市に倭大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)が鎮座し、淡路島に大和大國魂神社、奈良に大和坐(います)大國魂神社が鎮座している。阿波に「倭(やまと)」があり、なぜ淡路島から「大和(やまと)」になり、奈良の大和に「坐(います)」つくのか?大阪梅田に「阿波座(あわざ)」がある。「座(ざ)」は移したという意味で、奈良の式内社の48社に「坐」が付いている。首都「大和」となり各地から神社を移してきた。つまり阿波の「やまと」が移って事を示してる。③【「やまと」を示す麁服調進(あらたえちょうしん)の儀式】。徳島県民の知る「麁服調進(あらたえちょうしん)の儀式」。新しく天皇に即位される天皇の元に、阿波から「麁服(あらたえ)」が届き天皇に即位される。「延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)」にも記録されるが、伊勢神宮など他の地域から何も運ばれない。日本国の天皇陛下は「やまと」から続く「大和の天皇」である。その「やまと」を示すために、阿波の山間部[木屋平・美馬市]から「麁服(あらたえ)」が運ばれる。大和(日本国)の天皇が続くことを知らす儀式である。これは、阿波に邪馬壹国(やまとこく)があった証拠である。④【魏志倭人伝】。「三国志[魏志倭人伝]」に、「女王国[卑弥呼]は、帯方郡から一万二千里余りにある」と書いてある。測れば徳島県神山町になる。奈良も九州も距離が合わない。距離が測れないと思うかもしれないが。対馬~壱岐の間は「千里」。測ると「76.5km」であるから「一里は。76.5m」。76.5m×12000里=918kmであるから徳島県名西郡神山町に女王、卑弥呼は居た。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか? 邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?

【執筆/三村隆範(みむらたかのり)】
阿波古事記研究会副会長。1994年頃より青汁スタンド店内の展示イベントコーナーで「邪馬壹国は阿波だった」が開催されそれから阿波古代史に興味を持ち始め、調べれば調べる程、日本の文化は、阿波から広がって行った事に確信を持つようになった。平成13年(2001)「天照大御神生誕の地 阿波岐原をゆく」をビデオ製作 阿波古事記研究会を発足させ、今も活動を続けている。

[問い合わせ先]連絡先090-8282-0328(三村

三村隆範氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶東阿波ケーブルテレビ出演 ~阿波に広がる古事記の世界~ 阿波古代史プロジェクト6回シリーズ 第1回 高天原から伊耶那美眠る高越山(YouTube)
▶▶阿波古事記研究会(Instagram)
▶▶阿波古事記研究会 グループ(Facebook



島勝伸一氏の説/邪馬台国は阿波にあったのか?場所の特定


歴史の研究とは、文献、遺跡遺物、伝承、考古学、分子生物学など、多岐にわたる資料の中から①いつ(年代)②誰が③どこで④何を⑤どうした、を特定することですが、日本の歴史資料にはなぜか③の資料が抜けています。その原因についても言及しようと思います。 今回1000文字という制約の中で連載物として執筆を行うのですが、その前に、日本人がいつ日本列島に定住したのか?をY.N.ハラリ著サピエンス全史等から読み解きます。20万年前、アフリカ東海岸で発生した新人類(ホモサピエンス:現在地球上の人類は一種類。20万年という長期間に地球上各地の異なる環境下で、黒人、黄色人、白人、大きい人、小さい人、言語の違いなどで変化した)は10万年前、アフリカから全世界へ拡散した。新人類は他の人類や動物と違い、群れとして共同作業ができる意思疎通ができる特徴があり、群れは発展・膨張し、その行動範囲で食料が不足すると、新しい群れは食を求め北へ西へ、草木に覆われた大地を移動していった。北へ進んだ群れは約7万年前、西アジアで、西、北、東方へ別れて進み、東進したものは、海を渡る舟を発明し、北への群れは草木から衣服を発明したことでしょう。海を進んだ群れは、約4.5万年前には日本列島に着き、海山川で区切られた列島各地定住し、一部はまた北上し、アメリカ大陸に渡り、今度は南下し大陸の最南端迄1~2万年かけて広がっていきました。 初めて日本列島と日本人を世界史の中へ紹介したのが、中国の史書三国志(魏・呉・蜀)のうちの魏書第30巻烏丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷伝(とういでん)倭人(わじん)条(魏志倭人伝)です。漢字で約2000字という膨大な量で驚きと称賛の念をもって書かれており、表記の距離(直線距離・短里)、方角を曲解せず解読します。(拙書:魏志倭人伝を最新科学で読み解いた「女王卑弥呼は阿波女」参照) ①邪馬台(壹)国は阿波にあったのか? 今迄の歴史家は魏志倭人伝の会稽東治を、呉の国の「会稽」とし、邪馬壹国が太平洋上なるので、この書は信用できない、と言われた。しかし魏の史書に記された魏国が朝鮮半島等東方を治める役所である「会稽東治」(BC223年秦の始皇帝が楚国を滅ぼし下相県現在の宿遷市宿城区古城街道一帯。旧黄河河道に置いた下相城跡(北緯33.9度)が2006年発掘された。そこに邪馬壹国は会稽東治(北緯33.9度)の真東にあると書いてある。なおその少し前BC232年、のち西楚の覇王となる英雄項羽の生誕地です(項羽故里と呼ばれています)。また次号でお会いしましょう。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?


【執筆/島勝伸一(しまかつしんいち)】
NPO法人吉野川に生きる会代表理事。阿波ヤマト財団評議員。NPO法人吉野川に生きる会 その事業の一つに、歴史を通じた街おこしに取り組むNPO法人「吉野川に生きる会」として卑弥呼サミット等を開催。郷土史家として島勝理事長や愛媛大学の越智正昭・客員教授らが、出土品や地質学、気候などの観点から阿波説について解説し阿波古代史を広くPRしている。

[問い合わせ先080-3533-5146(島勝)

島勝伸一氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・

▶▶島勝伸一解説 岡元雄作監督作品 ドキュメント映画『ルーツ オブ ザ エンペラー』令和6年6月27日 四国古代史サミット東京(YouTube)



藤井榮氏の説/「邪馬台国(やまたいこく)」は「邪馬臺国(やまとこく)」で「倭(やまと)」の国


◆皆さんがよく見聞きされる「邪馬台国(やまたいこく)」という文字は、本来中国の魏志倭人伝(ぎしわじんでん)では「邪馬臺国」と書き、その読みは3世紀卑弥呼の時代から「ヤマトコク」と呼ばれており、一方我が国ヤマトでは「倭(やまと)」と呼ばれていたことが分かっています。◆日本最古の国家正史「日本書紀(にほんしょき)」第10代崇神(すじん)天皇6年のくだりには次のような趣旨の記述があります。「‥天照大神と倭大国魂(やまとおおくにたま)の二神を同じように天皇の御殿の内にお祭りしていたが、二神の神威(しんい)を恐れて二神と共に住まわれることに不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめみこと)に託して倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭り堅固な神域(しんいき)を立てた。また日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を淳名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に託して祭らせた‥」。◆この記述の日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を祀るのが徳島県美馬市美馬町字東宮上に鎮座する「倭大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)」です。全国で唯一阿波で祀られているこの神社の存在は阿波が「倭」であったことを示す何よりの証拠ではないかと思います。 これを裏付けるように「倭大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)」鎮座地南、吉野川南岸つるぎ町半田の河岸段丘には崇神天皇の宮"師木(しき)の水垣宮(みづがきのみや)"跡が「天皇」という地名でその痕跡を留めています。◆「邪馬臺国」は、魏志倭人伝の次の記述からも阿波ではないかと考えられます。◆①「7万余戸ばかりあり」。◆3世紀卑弥呼の時代、日本列島の総人口は約60万人といわれ、この「7万余戸」という数字は4、5倍に誇張されていると考えられるので、これを4、5分の1の7万人と考えれば、「矢野遺跡」を中心とする蔵本庄遺跡から石井城ノ内遺跡までの東西8km、南北4km (約3,200ha、約64,000人居住可能)以外に全国どこを探しても他に候補地を見つけることは困難ではないかと思います。◆②「其の山に丹あり」。◆3世紀弥生終末期の卑弥呼の時代、「丹(たん)」(辰砂(しんしや)・水銀朱・硫化水銀HgS)採掘遺跡は、昭和40年代の早稲田大学考古学教室による全国360数カ所の調査結果から全国でただ1カ所、徳島県阿南市水井(すいい)町の「若杉山(わかすぎやま)遺跡」だけなのです。◆③「その死には棺(かん)あれど槨(かく)なし」。◆これは、邪馬臺国の葬法が「棺(ひつぎ)」に土を被せただけの"盛土墳"であり、棺を保護する石囲いなどの「槨」がないことを示していますが、これに当てはまるのは阿波のいわゆる"阿波式石棺"(青石を組み合わせた箱式石棺)だけではないでしょうか。◆以上をお読みいただいて皆さんも邪馬臺国の所在地についてお考えいただければと思います。

*YouTubeチャンネル「古代史塾」(「阿波古代史講座 第6回」 ・ 「倭大國魂神社」) を参照。
*小著『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ8(34~38頁) ・ テーマ29(123~129頁)、 『古代史入門』3~34頁 ・ 108~112頁(Amazon電子書籍・印刷本)を参照。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか? 邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?

【執筆/藤井榮(ふじいさかえ)】
昭和24年美波町(旧日和佐町)生。平成22年徳島県庁退職。平成26年本格的に阿波古代史の勉強を開始、平成27年「邪馬台国阿波説入門講座」(現「阿波古代史講座」)を開講、令和4年2月古代史塾を起こしHPを開設してYouTube動画配信を開始、同年4月『古代史入門』、同6年2月『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』をそれぞれAmazon電子書籍・印刷本出版、現在に至る。

[問い合わせ先]sakae-f-1949@ma.pikara.ne.jp

藤井榮氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶古代史塾(公式HP)
▶▶古代史塾(YouTube)



オキタリュウイチ氏の説/【最終結論】邪馬台国は、阿波にあった ― 日本のはじまりを、もう一度たどる ―


淡路島が「オノコロ島」と呼ばれていたことはみんな知ってるよね?日本神話において、最初に生まれたこの島。いまは兵庫県だけど、江戸時代まで、徳島の領地だったの知ってる? 「淡路」の名は「阿波への路」に由来するので、阿波に行く道、という意味からして、阿波の重要度がわかると思う。【神話の神々との関係】/ 日本神話で最も有名な神の、イザナギ(夫)とイザナミ(妻)。この神さまは知ってるよね? 千年前に朝廷が記した『延喜式神名帳』は、夫のイザナギを祀る神社は淡路島に7社ある。一方で、イザナミの名を冠した延喜式内社は、全国でただ1つなんだ。徳島県美馬市の「伊射奈美神社」だけ!こう考えると、当然でしょ? 国産み神話は、阿波で起こった出来事だって。シンプルだよね。【なぜ、九州が神話の地になったのか?】/「神話の舞台=高千穂(宮崎)」というイメージが根付いてると思うけど、実は、あれ明治政府が仕掛けたプロパガンダなんだ。そもそも当時、「明治政府」なんて誰も呼んでなかった。三菱の創業者、岩崎弥太郎の日記を読んでも、「薩長政府が〜」と書いてる。歴代首相を含め政府関係者も全て、薩摩と長州出身者で固めた。そこで、九州が「神話のスポット」「神聖な地」である必要があった。じゃないと、「なんであいつらだけ権力握っとんねん!」となるから。『延喜式神名帳(972年)』によれば、日向(宮崎県)の式内社は4社。対して、阿波(徳島県)には50社が記載されている。 という事は、宮崎は千年前は、神話上、何も無かった土地だという事になる。では、畿内説はどうか?例えば奈良県の橿原(かしはら)神宮。神武天皇を祀る重要な神社なんだけど。 ホームページを見ると、「ようこそ、日本のはじまりへ。」と書かれている。ここがヤマトです!ジャーン!みたいな。で、創建年代を調べると、明治23年に創建されている!その前は、その土地は、オオカミが住む単なる原っぱだった。そこに、政府が「橿原神宮」をゼロから作って、「橿原市」を作って、駅まで作った。じゃあ、その前は、神武天皇はいったい何処で祀られてたの?それは、徳島県土成町にある「樫原(かしはら)神社」。神武天皇を祀る古社としての記録が残っており、奈良に橿原神宮が出来た直後、何者かに爆破されてる。誰かがここに神武天皇が祀られていたのを隠そうとしたことは間違いない。【元社と古墳】/ 徳島の神社は、古墳と神社がワンセットになっている。これは、ピラミッド研究で名高い考古学者の吉村作治教授も「ピラミッドと神社の構造は酷似している」と指摘している。 古墳と神社がワンセットになっているのは、阿波特有の構造だ。加えて、徳島では昭和54年に「日本最古の前方後円墳」も発見されている。阿波で大量の小振りの前方後円墳が造られていった後に、ある時代にピタッと造られなくなる。その後、奈良に大振りの前方後円墳が出来始めるのだ。【おわりに】/阿波に邪馬台国があったのか。阿波に「日本のはじまり」を思わせる痕跡が数多く眠っている。教科書には載らないもうひとつの歴史が、確実に存在するのだ。真実の歴史の世界へ、ようこそ。これから、一緒に紐解いていこう。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?

【執筆/オキタリュウイチ】
オキタリュウイチ ディープ・ブランディング株式会社代表  元真言宗・僧侶 徳島県生まれ。早稲田大学中退。行動経済学に基づく経済心理学を独自の手法でマーケティングに応用し、数々の老舗企業再生等を行う。京都の老舗米屋を2400万円から20億円の売上にするなど、驚異的な成果を生み出す傍ら、同時に社会活動家として、自殺者撲滅や日本財団と共催し障害者の起業支援を行うなど、社会的課題の解決に取り組む。近年は、社団法人「日本神社再生機構」を立ち上げ、滅びゆく日本の神社の再生に従事する。 

[問い合わせ先]office@deepbranding.jp

オキタリュウイチ氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶公式ホームページ


恋塚健生氏の説/邪馬壹(台)国は100%まちがいなく、阿波・徳島にあった


私が所属する歴史でまちづくり推進協議会では「魏志倭人伝」に書かれている内容を、新技術である"グーグルアース"を用い、原文のままに正確に読み解くと、記載されている「邪馬壹国」の中心の位置が「徳島県名西郡神山町神領(かみやまちょうじんりょう)」となる事を、10年前に証明しました。 「書かれている距離は全て正確な直線距離」、「単位は魏の時代の短里(1里=76~77m)」(注1)であると仮定し、2006年に特定された項羽の生まれた下相城が「会稽東治の真東」(注2)と言う情報を組み合わせると、その交点は「神山町神領」となります。また、後漢書の記述「去其西北界拘邪韓國七千餘里」をたして参考にすると、三線の交点となり、それらの証明を決定づけるものとなっています。(注3)簡単に言うと、B4用紙に書いた極東地図において、マジックペンの先の点(神山町神領)が三線の交点となるということで、「たまたまそうなった」などという言葉(確率)では、絶対片付けられないものとなっています。 他の「魏志倭人伝」に書かれている距離や方角、地名も全て矛盾無く説明できており、その内容については、8年前に東阿波ケーブルTVによって映像化された、「新春特番魏志倭人伝を最新技術で読み解いた」(注4)でも詳しく説明されています。 また当時の徳島県で「辰砂が採掘されていた事実」や、「記載されている地名と現存する地名の一致」など、全ての情報に関して整合が取れています。 魏志倭人伝の内容は極めて正確であり、古代の人々がこれだけの科学的な知識や技術を使いこなし、日本と大陸間を行き来していた事実に接し、純粋に尊敬の念を抱かされます。 インターネットと言う技術を、歴史研究にも応用し、歴史地理学的アプローチなどが従来の文献・考古学的な研究と組み合わす事で、今まで謎であった、日本の古代史を解明していきたいと、考えています。

(注1)数学者の半沢英一氏、自然科学者の谷本茂氏が古代中国の1里は(76m~77m)であることを発見しています。
(注2)下相城と、会稽東治の真東の関係については、春秋戦国時代からの説明になり情報量が膨大になるため、わかりやすく項羽の里(項王故里)として単純に説明しています。
(注3)三線の交点図。
(注4)作成・東阿波ケーブルテレビ 樫原氏、原本編集・恋塚建夫(梨目正)他。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか? 邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?

【執筆/恋塚健生(こいづかたけう)】
阿波の古代史、ひいては日本の古代史は、神社や考古学だけでは説明が付きません。私達は数年前に「邪馬壹国」は数学とITで、「古事記」は漢字の読み解きとITを使って、阿波・徳島が「邪馬壹国」であり「古事記の舞台」であることを説明できるようになりました。理系の考え方は全てエビデンスに基づくロジカルシンキングであり、場当たり的な我田引水の説明とは全く異なります。小学生にも分かる丁寧な説明を心掛けています。

[問い合わせ先]ogenkisama0@gmail.com

恋塚健生氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶魏志倭人伝を最新技術で読み解いた!(YouTube)



ANYA氏の説/ベールを脱いだ邪馬台国阿波説に、九州説、畿内説は沈黙必至・・・


中国の歴史書、俗に言う「魏志倭人伝」に、邪馬台国と女王卑弥呼が登場します。「魏志倭人伝」とは、時の中国周辺の有様を後世に残す為に編纂された中国の歴史正史で有る事から邪馬台国という国が我が国に存在したことは間違いないでしょう。その場所を特定する為に300年あまりの昔から、時の学者がそれぞれの解釈で紐解こうとしています。現在、邪馬台国論争は、奈良説派と北部九州説派に、ほぼ二分されています。奈良説派の学者は奈良に在った根拠を、北部九州説派の学者は北部九州に在った根拠をひたすら探していますが、 江戸時代ならいざ知らず、考古学や文献史学が発達した現在でも邪馬台国の答えが見いだせないという事が、なにを意味しているのか皆様よく考えてみてください。例えば、東京や大阪で平安京(京都)の跡地を300年間探したとしても、平安京の跡地は東京や大阪からは絶対に見つかりません。当たり前です、平安京は京都であって東京や大阪には、歴史事実として存在しないからです。つまり、膨大な研究や発掘を重ね、300年間何一つ確証が取れないという事は、奈良や北部九州は邪馬台国ではないという事が答えではないでしょうか?では、邪馬台国はどこに存在していたのでしょうか?「魏志倭人伝」には、邪馬台国までの行程(道順)と、その風俗や特産物などが書かれています。邪馬台国までの行程(道順)は、それぞれの方が色々な解釈をされてていますが、私の解釈では間違いなく阿波に行きつきます(YouTube「ANYAチャンネル」もしくは、ANYA著「決定版 阿波の古代史 邪馬台国は阿波だった」をご覧ください)。風俗や特産物では「朱・丹(赤い顔料)を体に塗る。」「倭の地は、真珠・青玉を産する。山には丹が出る」と有りますが、この時代、丹(水銀朱)の人工的な採掘跡は阿波にしか存在せず、阿波若杉山水銀朱採掘遺跡は、水銀朱採掘遺跡として唯一の国史跡にも指定されています。また、「女王国の東、海を渡ること千余里で、国々があり、すべて倭種の国である。」と記されています。この一文からは、邪馬台国の東に海が有り、その数十キロ先には倭人が住んでいる陸地が有ると書かれていますが、 阿波の東には紀伊水道が有り、その東数十キロ先には紀伊半島も存在しています。阿波はこの条件にも当てはまる、数少ない場所なのです。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?

【執筆/ANYA(アンヤ)】
人気の大阪在住の古代史YouTuber。書籍「決定版 阿波の古代史 邪馬台国は阿波だった」。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 阿波(徳島)から日本が始まった。日本の起源も邪馬台国も四国にあった。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 歴史から消されてきた阿波の古代史が明らかになる。ヤマト政権から天皇家の起源などに関して独自の見解を述べる。 

[問い合わせ先]anyautb@gmail.com

ANYA氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶ANYAチャンネル(YouTube)



コラク氏の説/魏志倭人伝は邪馬台国の場所を伝えようとしている


3世紀末に陳寿によって書かれた中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国。これまでの研究によれば、その比定地は北部九州説や畿内説を推す声が大半だ。ただし双方ともその所在を特定する決定打には至らず未だに決着はついていない。理由はそれぞれが魏志倭人伝に記録されてある文章を都合よく抜粋し、恣意的に解釈されているが故に互いに矛盾する点を無視しているのが原因であるといわれている。これがいわゆる邪馬台国論争である。そんな中、近年一石を投じ俄かに注目されつつあるのが九州と畿内との中間点に位置する四国。取り分け最も有力視されているのが阿波説である。では本題の邪馬台国は阿波にあったのか?についてだが、"普遍"(どこにでも当てはまる)のものではなく"不変"(変化しない)のものを頼りに所在したであろう場所を限定的に絞ることが可能だ。これまでに記録された中国の記録書の中から日本のどこにでもあるようなものを淘汰し、不変不動な地理や特筆すべき産物、女王が居する都とある邪馬台国までに至った道程や距離・方角等から絞り込みをする。以下に魏志倭人伝を代表とする中国の歴史書から抜粋し概括する。●「魏志倭人伝」には「出真珠青玉 其山有丹」「真珠や青玉を産する 山には丹がある」や「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」「女王国の東、海を渡ること千余里 また国有り みな倭種なり」とある。つまり女王国の東側は海と面しており、渡海先には同種の人が住む地理であること。また真珠や青玉石、山から辰砂を産出する特長を記す。*里数は短里を採用する。●「隋書倭国伝」には「樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」「楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに一万二千里」の距離にあり、「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」「邪靡堆に都する 則ち魏志いうところの邪馬台なり」とある。楽浪郡(現在の平壌周辺)から12000里の距離に存在し、また隋(581年-618年)の時代においても都とする邪馬台国の所在場所の地理的位置に変わりがなかったことが確認できる。●「後漢書倭伝」には、「去其西北界狗邪韓國七千餘里」「その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里なり」とあり、言い換えれば狗邪韓国(旧の伽耶)から東南の方角7000里余りの場所に邪馬台国が存在していることもわかる。これら記されるすべての情報が一致する場所。何の先入観も無い現代人に上記の条件で答えを求めたとすれば、大半が四国徳島県というはずである。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?

【執筆/コラク】
日本の特に徳島県(阿波)の古代史を中心に研究をしております。古代の阿波の人たちが日本の国家形成にあたりどのような形で関わって来たのか。また、魏志倭人伝や古事記等の歴史書や古墳・遺構遺物、寺社のご由緒に地域の昔話等々...様々な角度観点から独自の解釈をもって古代を考察しております。

[問い合わせ先]なし

コラク氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶公式ブログ


ヤマモトタケルノミコト氏の説/邪馬台国の中心は阿波以外には考えられません


魏志倭人伝から素直に読み解くと里行程・方向・風俗の紹介文面で、阿波を中心とした讃岐と愛媛を含んだ場所と考えており、岡山吉備とも深い関係があったと推測しています。①帯方郡治(沙里院市)から一万二千里にある。【神山町神領】②其山丹有:水銀丹(朱)が出る【若杉山辰砂採掘遺跡】③東の極南海:海を挟んで100里東にも倭人の国がある【徳島から紀伊水道を挟んで和歌山がある】④倭の地を周遊すると五千里余り【宗像市(末盧国)から四国の東果てまでの距離】⑤徳島の宅宮神社には千年以上続く神踊りがあり、その中の「いずも踊り」には【伯母御の宋女、御年十三、名前は臺與(とよ)とおたしなむ】と卑弥呼の後を継いだ臺與を歌ったものが伝えられています。⑥天石門別八倉比売神社:『八倉比売御本記』に「東の峰」にあった墳墓について「神陵の径108歩」【卑弥呼の墓・直径百余歩】とまた(赭土印璽)【金印・中国からもらったとされる】が埋められているとも記されています。⑦『余談』徳島新聞1952年(昭和27年)8月26日に剣山発掘調査時にミイラ土100体を 山本英輔という元海軍大将が発見したと?【卑弥呼殉葬100人】。また、邪馬台国(やまとこく)と読めば、古事記・日本書紀に(やまと)との記載があり、日本の国が、倭(やまと)→大倭(おおやまと)→大和朝廷(奈良)と阿波から始まり、奈良、京都へ移っていったことが分かります。『延喜式神名帳(927年)に朝廷が大事な全国の神社一覧を作成』そして本当に大事な神社が阿波にたくさんあります。①倭大国魂神社―倭の国の魂を祀る神社 ②豊玉比売神社―初代神武天皇のおばあさんの神社③伊射奈美神社―神代七代の国生みの伊邪那美の神社。①の倭(やまと)の国の魂を祀る神社が阿波にしかない。もともと邪馬台国(やまたいこく)と現在は読んでいるが、数十年前まで邪馬壹国(やまと)と呼ばれていた。・江戸時代の政治家・朱子学者、新井白石が日本で初めて本格的に邪馬壹国の位置を論じたとされ、当初は畿内と主張し晩年に九州説に転じた。一説には天皇家の先祖卑弥呼(天照大神)が中国に朝貢していたことを老中に責められて九州に別の国を造って転じたとも?言われています。ここから300年以上も畿内(京都大学)と九州(東京大学)で論争が続いている。この生真面目な日本人が研究を続けて結論が出ないのは両方違うのではとついつい私は思ってしまいます。皆さんはどこだと思いますか?

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか? 邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?

【執筆/ヤマモトタケルノミコト】
阿波古代の素晴らしさを広く伝えるために日々走り回っている阿波古代伝道師。とくしまクチコミ大使!(徳島商工会議所)。邪馬台国は阿波だった!ラジオMC(エフエムびざん)。アワテラスラボ 理事長。阿波ヤマト財団事務局長。徳島県 観光審議員。徳島YEG:卑弥呼フェス開催。映画「少女H」撮影上映。徳島JC:映画「佳歩」撮影上映。口ずさめとくしまの歌!開催。

[問い合わせ先]heartfull80@gmail.com

ヤマモトタケルノミコト氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶邪馬台国は阿波だった!(YouTube)
▶▶アワテラス歴史研究所アワラボ(Facebook)
▶▶一般財団法人阿波ヤマト財団(公式HP)





テーマ①【完】。

次回のテーマは・・・

【卑弥呼は天照大御神だったのか?】
掲載日は2025年7月15日(水)。乞うご期待

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?

賀立神社(かだちじんじゃ) | Resurrection Of Awa

賀立神社(かだちじんじゃ) | Resurrection Of Awa http://korakusan.blog.fc2.com/blog-entry-7.html?sp Resurrection Of Awa 2016/03/24 01:33 ...