2025年11月28日金曜日

誰も行かない? 四国の南果てにある"謎の島"に行ってきた!衝撃の光景が… 沖ノ島

(176)『邪馬台国九州 ありえない!』ANYA







県名の由来 - 大分県ホームページ

県名の由来

 「日本書記」における景行天皇の九州巡幸の記事では、「冬十月に、碩田國に到りたまふ。其の地形広く大きにして亦(また)麗し。因りて碩田と名く。碩田、此れをば於保岐陀と云う」とあります。
 また、「豊後国風土記」では、同じく景行天皇の発言として「広大なる哉、この郡は。宜しく碩田国と名づくべし」との記載があり、この"碩田(おおきた)"がのちに"大分"と書かれるようになったとされています。(諸説あります)

※景行天皇・・・古墳時代の第12代天皇で「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の父とされています。

https://www.pref.oita.jp/soshiki/10400/symbol04.html

TOMITA_AkioさんによるXでのポスト アラブ、ユダヤの系譜

2025年11月27日木曜日

メシャ碑文 - Wikipedia

メシャ碑文 - Wikipedia

メシャ碑文

メシャ碑文(メシャひぶん、19世紀には「モアブ碑」として知られた)は黒い玄武岩の石碑で、紀元前9世紀モアブメシャ王によって作成され、1868年に発見された。34行から成るこの碑文は、フェニキア文字で記述されたものとしては、古代イスラエルから回収されたもののうち最大のものである。それはメシャによって、紀元前850年ごろ、彼のイスラエルに対する反乱における勝利とモアブの独立を記録し記念するものとして、彼の元主君であったアハブの死後に作成された。

石は、高さ124cm、幅71cmで厚みもあり、上部は丸くなっている。それは古代のディボン、現在のヨルダンマダバ県ディバン英語版において、1868年8月にエルサレムのイギリス人宣教師、フレデリック・オーガスタス・クライン英語版によって発見された。しかし翌年、所有権をめぐる争いで、地元住民によって石碑は破壊されてしまった。しかしながら、シャルル・シモン・クレルモン=ガノー英語版によって破片の多くは回収され、また既に得られていた拓本によって欠損部を補って碑文は復元された。拓本(未公開)及び復元された石碑(多くの出版物や百科事典で公表されている)は、現在ルーヴル美術館に存在する。

内容

碑文の記述

  1. ケモシュの怒りの故に、いかにしてモアブがイスラエル王オムリに征服されたか。メシャの勝利はオムリの息子(名前への言及は無い)に臨み、ガドのアタロト、ネボ、ヤハツの人々に臨む。
  2. 彼の公共事業。要衝の地にある要塞を修復し、宮殿と貯水池を造営する。そして、
  3. 彼のホロナイムに対する戦争。

この碑文は、列王記下 3:4-27 に記録されているメシャ王の記述を補い裏付けるものであるとの解釈が可能であり、そのことによって聖書考古学資料群の中でもひときわ顕著な地位を獲得する。しかしながら、それらに対する大きな意見の相違もある。聖書ではモアブを征服したのはオムリの子アハブであり、反乱はアハブの子ヨラムに対するものである。さらに聖書では、ケモシュがメシャに勝利を与えるのではなく、ヤハウェがヨラムに勝利を与える。列王記によれば、メシャが自分の息子を(神への)生贄とし、それを見て動揺したイスラエルが撤退する。

複数形を示す語尾 -im が -in となる等のわずかな相違を例外として、碑文のモアブ語は、初期ヘブライ語の書式と同一である。そこに用いられているモアブ語文字は、セム系言語のうち最も古いフェニキア系の文字である。この文字形態の意味する事柄は、アルファベット形成の歴史や、当時のモアブの地における文化水準に関する、とても重要で興味深い情報を提供する。このメシャ、オムリとアハブとの間で繰り広げられた英雄的な戦いを記録した古代の記念碑は、紀元前850年ごろ建てられた。そう、「我々は、彼ら古代世界の労働者自身が時を刻んだ歴史、彼らの同時代人が読み、彼ら自身が目撃者であった何千年も前の出来事を記した同一の石板を手にしている」。

1994年、ルーヴル美術館にあるメシャ碑文と the paper squeeze of it 双方を調べた後、フランス人学者アンドレ・ルメールは、メシャ碑文の31行目に「ダビデの家」とのフレーズが認められることを報告した(in Biblical Archaeology Review [May/June 1994], pp. 30-37)。ルメールは破壊された1文字、"[D]avid," 冒頭の "D" を補填して語句を解読しなければならなかった。31行目後方に位置するその完成文は、「Horonen のために、彼ら[ダ]ビデの家に住む、」"As for Horonen, there lived in it the house of [D]avid," וחורננ. ישב. בה. בת[ד]וד.(注:角括弧[]で囲まれた文字や単語は補填された文字、破壊されたか、あるいは失われた破片上のもの)。たいていの学者は、他のどの文字を補填しても意味を成す解釈がもたらされないことに気づく。バルク・マルガリットはそこに異なる文字 "m," を補填しようと試み、その後さらに幾つかの文字で試した。その結果生じた読みが、「今、Horoneyn は占領され、[我が前]任の[エド]ム人の[支配]は終[焉]を迎えた。」"Now Horoneyn was occupied at the en[d] of [my pre]decessor['s reign] by [Edom]ites."(Baruch Margalit, "Studies in NWSemitic Inscriptions," Ugarit-Forschungen 26, p. 275).しかしながらマルガリットの解釈は、学術的な出版物において大きな支持を集めることは無かった。

2001年、別のフランス人学者ピエール・ボルドルイユ(fr:Pierre Bordreuil)は、彼と他の少数の学者達が、ルメールの「ダビデの家」という読みを碑文の31行目から確認することが出来なかったと(フランス語の小論文の中で)報告した。(Pierre Bordreuil, "A propos de l'inscription de Mesha': deux notes," in P. M. Michele Daviau, John W. Wevers and Michael Weigl [Eds.], The World of the Aramaeans III, pp. 158-167, especially pp. 162-163 [Sheffield, England: Sheffield Academic Press, 2001]).

ただし、さらに後の時期に「ダビデの家」へ言及がテル・ダン石碑断片上に、アラム人である敵国の王によって記述された。この献辞(メシャ碑文)はイスラエルの敵モアブ人の手からなり、同様に勝利を自慢する。もしルメールが正しいならば、『タイム』誌 1995年12月8日号が述べたように、これらは今や、ダビデ王朝に関する2つの初期参考文献である。一つはメシャ碑文(前9世紀中ごろ)、他方はテル・ダン碑文(前9世紀中ごろから前8世紀中ごろ)。これら専門的議論の全貌については、Lawrence J. Mykytiuk, _Identifying Biblical Persons in Northwest Semitic Inscriptions of 1200–539 B.C.E._, Academia Biblica series, no. 12 (Atlanta: Society of Biblical Literature, 2004), pp. 265-277 を参照せよ。

1998年、他の学者アンソン・レイニーは、メシャ碑文12行目の2単語、אראל. דודה を "its Davidic altar-hearth"「これらダビデの家の祭壇の炉」という困らせる訳出をした。(Anson F. Rainey, "Mesha and Syntax," in _The Land That I Will Show You_, edited by J. Andrew Dearman and M. Patrick Graham, Supplement Series, no. 343 [Sheffield, England: Sheffield Academic Press, 2001], pp. 300-306).

聖書のモアブ王メシャ、および聖書の北イスラエル王国の王オムリと、メシャ碑文内の人物の同一性については、とりわけメシャ碑文の説話が、聖書の列王記・歴代誌の説話とうまく合致することから、学術的なコミュニティーで一般に受け入れられている。

しかしながら、メシャ碑文内のダビデの同一性については物議を醸したままである。この論争には、メシャ碑文31行目が断片的な状態であることから生じる側面と、1990年代から主としてヨーロッパの学者達の間にある、ヘブライ語聖書(旧約聖書)の歴史的信頼性を問題にしたり退けたりする傾向から生じる側面とがある。ヨーロッパにおいて、P・R・デイヴィス、トマス・L・トンプソン(en:Thomas L. Thompson)、ニールス・P・レムシュらは聖書の史実性を拒絶する強い傾向を見せるが、対するアンドレ・ルメール、K・A・キチン(en:Kenneth Kitchen)、イェンス・ブルーン・コフォードや他のヨーロッパの学者達はこの傾向とは無縁である。多くの学者達が、1つ、あるいは他の傾向に傾くが、実際には中立的立場を示す。概して、北アメリカとイスラエルの学者達が、メシャ碑文内の聖書のダビデ王との同一性を信じることをいとわない傾向がある。この論争以外にも、聖書中で言及されたダビデ王の存在を確証する古代の碑文において、通常、メシャ碑文にはより少なく、テル・ダン石碑にはより多くの焦点が集まる。

本文

本文はモアブ語で、文字を現代ヘブライ語に置き換えた。

1. אנכ. משע. בנ. כמש.. . מלכ. מאב. הד  2. יבני | אבי. מלכ. על. מאב. שלשנ. שת. ואנכ. מלכ  3. תי. אחר. אבי | ואעש. הבמת. זאת. לכמש. בקרחה | ב[נס. י]  4. שע. כי. השעני. מכל. המלכנ. וכי. הראני. בכל. שנאי | עמר  5. י. מלכ. ישראל. ויענו. את. מאב. ימנ. רבן. כי. יאנפ. כמש. באר  6. צה | ויחלפה. בנה. ויאמר. גמ. הא. אענו. את. מאב | בימי. אמר. כ[...]  7. וארא. בה. ובבתה | וישראל. אבד. אבד. עלמ. וירש. עמרי. את א[ר]  8. צ. מהדבא | וישב. בה. ימה. וחצי. ימי. בנה. ארבענ. שת. ויש  9. בה. כמש. בימי | ואבנ. את. בעלמענ. ואעש. בה. האשוח. ואבנ  10. את. קריתנ | ואש. גד. ישב. בארצ. עטרת. מעלמ. ויבנ. לה. מלכ. י  11. שראל. את. עטרת | ואלתחמ. בקר. ואחזה | ואהרג. את. כל. העמ. [מ]  12. הקר. רית. לכמש. ולמאב | ואשב. משמ. את. אראל. דודה. ואס  13. חבה. לפני. כמש. בקרית | ואשב. בה. את. אש. שרנ. ואת. אש  14. מחרת | ויאמר. לי. כמש. לכ. אחז. את. נבה. על. ישראל | וא  15. הלכ. הללה. ואלתחמ. בה. מבקע. השחרת. עד. הצהרמ | ואח  16. זה. ואהרג. כלה. שבעת. אלפנ. גברנ. ו[גר]נ | וגברת. וגר  17. ת. ורחמת | כי. לעשתר. כמש. החרמתה | ואקח. משמ. א[ת. כ]  18. לי. יהוה. ואסחב. המ. לפני. כמש | ומלכ. ישראל. בנה. את  19. יהצ. וישב. בה. בהלתחמה. בי | ויגרשה. כמש. מפני | ו  20. אקח. ממאב. מאתנ. אש. כל. רשה | ואשאה. ביהצ. ואחזה.  21. לספת. על. דיבנ | אנכ. בנתי. קרחה. חמת. היערנ. וחמת  22. העפל | ואנכ. בנתי. שעריה. ואנכ. בנתי. מגדלתה | וא  23. נכ. בנתי. בת. מלכ. ואנכ. עשתי. כלאי. האש[וח למי]נ. בקרב  24. הקר | ובר. אנ. בקרב. הקר. בקרחה. ואמר. לכל. העמ. עשו. ל  25. כמ. אש. בר. בביתה | ואנכ. כרתי. המכרתת. לקרחה. באסר  26. [י]. ישראל | אנכ. בנתי. ערער. ואנכ. עשתי. המסלת. בארננ.  27. אנכ. בנתי. בת. במת. כי. הרס. הא | אנכ. בנתי. בצר. כי. עינ  28. ----- ש. דיבנ. חמשנ. כי. כל. דיבנ. משמעת | ואנכ. מלכ  29. ת[י] ----- מאת. בקרנ. אשר. יספתי. על. הארצ | ואנכ. בנת  30. [י. את. מה]דבא. ובת. דבלתנ | ובת. בעלמענ. ואשא. שמ. את. [...]  31. --------- צאנ. הארצ | וחורננ. ישב. בה. ב  32. --------- אמר. לי. כמש. רד. הלתחמ. בחורננ | וארד  33. ---------[ויש]בה. כמש. בימי. ועל[...]. משמ. עש  34. -------------- שת. שדק | וא  

私はメシャ、カモシ[アト](Kemosh[-yatti])の息子、ディボンのモアブの王である。私の父はモアブの王であった-

30年間、私は私の父の後に王となった。そして私はこの高き所[1]ケモシュ(Kemosh)のため Qarcho(または Qeriho、聖域)内に作った

・・・なぜなら、彼はすべての王たちを私に与え、なぜなら、彼は-私が見下ろせるようにされたからである-私のすべての

敵たちを。オムリはイスラエルの王であり、彼は長年に渡ってモアブを虐げていたが、このためにケモシュは憤っていた-

彼の地に対して。そして彼の息子が彼の地位に君臨し、彼は同じく語った。「私はモアブを虐げるであろう!」。私の日々に

彼はそう語った。しかし私は彼と彼の家[2]を見下ろし、そしてイスラエルは敗北した。それは

永久に敗北した!。そしてオムリはメデバの地を奪い、彼はそこに居住した-

彼自身の日々と彼の息子の日々の半ばの期間:40年間。しかし、ケモシュは私の日々にそれを回復させた。そして私は築き- バアル・

メオンを、その中に貯水池を建造した。そして私は Qiryaten(キルヤタイム?) を築いた。そしてガドの人々が-住んでいた

アタロトの地-古の時から-;イスラエルの王が彼自身のために築いたアタロト、私は戦いを

仕掛け-この都市に対して-これを攻略した。そして私は都市の全ての人々を殺した-ケモシュへの犠牲として、

またモアブのために。そして私はそこから彼の叔父の炉床を持ち帰り、私はそれを-持ち帰った-

Qerioit(ケリヨト?)のケモシュの面前に。そして私はシャロンの人々をそこに定住させた。-人々についても同じ様に-

Maharit の。そしてケモシュは私に言われた。「行け、イスラエルからネボを奪え」。そして私は夜に出て行き、戦い-

夜明けから正午に至るまでこれと-、私はこれを手にし、そして私は全住民を殺した。七

千人の男達と外国人、女達、外国人、僕の少女達。私はそれに敢行した-

アシュタロト・ケモシュのために殺戮(the ban)を。そしてそこから私はヤハウェの祭器(the vessels)を奪い、私はそれらを捧げた-

ケモシュの面前に。そして、イスラエルの王が築いたヤハツ、彼が-期間中滞在したその場所-

私に対する軍事行動の;ケモシュが私の前から彼を追い払った。そして私は200人の男を選び出し

モアブの、その全師団、これを私が指揮してヤハツに攻め上った。私はこれをディボンに加えるために、これを攻略した。私は

Qarcho、その木の壁と要塞の壁を築き、私はその門を築き、

私はその塔を築いた。そして私は王宮を築き、そして私は作成した-二対の-

貯水池を-都市の最奥にある泉のための。さて、都市の最奥-

Qarcho の-には水槽が無かったが、私は全ての人々に語った。「あなた方一人ひとりが彼(ケモシュ)の-水槽を作るべきである-

家で」。そして私はイスラエル人奴隷を用い、Qarcho の堀を開削した。私はアロエルを築き、私は

アルノンで軍用道を整備した。私はベト・バモトを築いた、なぜならそれは破壊されていたからである。私は

ベツェルを築いた、なぜならそれは荒廃していたからである。そしてディボンの男は戦闘隊形を組んだ、なぜならディボン全土が

従属下にあったからである。そして私は、私がこの地に加えた町々の百人隊長の王である。そして

私は、ベト・メデバ、Beth-Diblaten(ベト・ディブラタイム?)、ベト・バアル・メオンを築き、私は連れてきた … 群れを-

この地に。そしてホロナイム、そこに住む

… ケモシュは私に言われた。「下って行け、ホロナイムに対し戦え!」。私は下って行き

… ケモシュは私の日々にそれを回復された …

脚注

  1. high-place(高き所):神殿や祭壇を表す慣用句。the Most High Place (いと高き所)と表現した場合には天を表す。
  2. ~の家:人名であれば国家や王朝を意味し、神名であれば神殿を表す慣用句となる。

参考文献

  • Franz Praetorius (1905-6), "Zur Inschrift des Meša`", in: Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft 59, pp. 33-35; 60, p. 402.
  • Dearman, J. Andrew (Ed.) (1989). Studies in the Mesha Inscription and Moab. Archaeology and Biblical Studies series, no. 2. Atlanta, Ga.: Scholars Press. ISBN 1-55540-357-3.
  • Davies, Philip R. (1992, 2nd edition 1995, reprinted 2004). In Search of 'Ancient Israel' Edinburgh: T. & T. Clark.
  • Horn, Siegfried H., "The Discovery of the Moabite Stone," in The Word of the Lord Shall Go Forth, Essays in Honor of David Noel Friedman in Celebration of His Sixtieth Birthday, (1983), Carol L. Meyers and M. O'Connor (eds.), pp. 488-505.
  • Lemaire, André (1994). "'House of David' Restored in Moabite Inscription." Biblical Archaeology Review 20 (3) May/June, pp. 30-37.
  • Margalit, Baruch ("1994"). "Studies in NWSemitic Inscriptions," Ugarit-Forschungen 26. Page 317 of this annual publication refers to "the recent publication (April, 1995) of two additional fragments" of another stele, therefore, the 1994 volume was actually published sometime after April 1995. On the Mesha stele inscription, see p. 275.
  • Parker, Simon B. (1997). Stories in Scripture and Inscriptions: Comparative Studies on Narratives in Northwest Semitic Inscriptions and the Hebrew Bible. New York: Oxford University Press. ISBN 0-19-511620-8. See pp. 44-46 for a clear, perceptive outline of the contents of the inscription on the Mesha stele.
  • Rainey, Anson F. (2001). "Mesha and Syntax." In J. Andrew Dearman and M. Patrick Graham (Eds.), The Land That I Will Show You, pp. 300-306. Supplement Series, no. 343. Sheffield, England: Sheffield Academic Press. ISBN 1-84127-257-4.
  • Mykytiuk, Lawrence J. (2004). Identifying Biblical Persons in Northwest Semitic Inscriptions of 1200–539 B.C.E. Academia Biblica series, no. 12. Atlanta, Ga.: Society of Biblical Literature. See pp. 95-110 and 265-277. ISBN 1-58983-062-8.

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、メシャ碑文に関連するカテゴリがあります。

外部リンク

 この記事には現在パブリックドメインになっている次の著作物の文章が含まれている: Easton, Matthew George (1897). Easton's Bible Dictionary (New and revised ed.). T. Nelson and Sons.normal {{cite encyclopedia}}: |title=は必須です。 (説明)

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月山神社 - Wikipedia

月山神社 - Wikipedia

月山神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

月山神社(がっさんじんじゃ)は山形県月山山頂(標高 1,984m)に鎮座する神社である。『延喜式神名帳』において名神大社とされた式内社で、明治近代社格制度では東北地方唯一の官幣大社であった。古来から修験道を中心とした山岳信仰の場とされ、現在も多くの修験者や参拝者を集めている。

祭神

神仏習合により月山神の本地仏阿弥陀如来であると考えられるようになったが、八幡神の本地仏である阿弥陀如来が、月読命になぞらえられた月山神の本地仏となったのは東北的な特性であると言え、浄土教の浸透が阿弥陀如来信仰を月山に導いたと思われる[1]室町時代まで月山の神は八幡大菩薩とされていた[2]

なお、月山の縁年は卯年とされ、卯年に参拝するとご利益が上がると言われている。

由緒

社伝によれば、崇峻天皇の第3皇子である蜂子皇子推古天皇元年(593年)に羽黒山を開山し、さらに同年、月山を開山して当社を建立したのだと言う。蜂子皇子は土地の人たちの面倒をよく見て、悩みや苦しみに耳をかたむけたことから「能除仙」[3]と呼ばれるようになったとされる。

しかしながら、史料から考察する限り、開祖である能除仙と蜂子皇子が同一人物であると言う根拠は無い[2]。また、磐舟柵が3度目に修理された文武天皇4年(700年[4]から出羽郡が建てられた和銅元年(708年[5]の間に越国以北の夷征が行われたが、出羽の蝦夷征討が開始される前に出羽三山へ登ることは出来なかったと思われる[6]

新抄格勅符抄』の宝亀4年(773年)10月符では月山神に神封2戸が寄せられているが、これが月山神の史上における初見である[1]

日本三代実録』には月山神の記事が度々登場し、神階の陞叙を受けるなどしている。以下は時系列的に並べた『日本三代実録』における月山神の記事である。

  • 貞観6年(864年)2月5日の条 : 出羽国正四位上勳六等月山神を従三位に陞叙する。
  • 貞観10年(868年)4月15日の条 : 出羽国からの報告。飽海郡の月山、大物忌の両神社前へ石鏃6枚が雨のように降った。
  • 貞観18年(876年)8月2日の条 : 出羽国の従三位勳六等月山神を正三位に陞叙する。
  • 元慶2年(878年)7月10日の条 : 出羽国の正三位勲五等大物忌神と正三位勲六等月山神に神封各二戸を増す。
  • 元慶2年(878年)8月4日の条 : 出羽国の正三位勲五等大物忌神を勲三等へ、正三位勲六等月山神を勲四等へ陞叙する。
  • 元慶4年(880年)2月27日の条 : 出羽国の正三位勲四等月山神と正三位勲三等大物忌神をいずれも従二位へ陞叙する。
  • 仁和元年(885年)11月21日の条 : 去る6月21日に出羽国秋田城中および飽海郡神宮寺西浜に石鏃の雨が降ったが、陰陽寮によれば陰謀兵乱の前兆だという。また神祇官によれば、飽海郡の大物忌神と月山神、田川郡由豆佐乃売神に不敬があり祟ったのだと言う。そこで国司に諸神を丁重に祀ると共に慎んで警固するよう勅を下した。

延長5年(927年)の『延喜式神名帳』により名神大社へ列格された。また同じ『延喜式』の「主税式」においては、月山神と大物忌神の祭祀料として2,000束を国家から受けている。

上記のように『日本三代実録』や『延喜式』では田川郡の山である月山の神が飽海郡の神とされているが、これは、この段階では鳥海山大物忌神社とともに国府近くの飽海郡において社殿が営まれ奉斎されていたからだと思われる[1]

詳しい時期は不明だが、おそらく平安時代中期[1]から明治の神仏分離まで、月山は出羽三山の一角として修験の道場となっていた。なお、奈良時代末期に至るまで開山を裏付ける資料は発見できないが、平安時代になって初めて考慮を要する資料を見ることが出来る[6]

この出羽三山の宗教勢力は次第に隆盛し、一大領国とも言うべき大勢力となって行った。このため戦国時代から安土桃山時代には、自勢力に取り込もうとする武藤氏上杉氏最上氏などの戦国武将達から干渉を受けた。特に最上義光庄内平野へ侵攻するにあたり、しばしば月山を越えたため、兵卒により御室が荒らされたり、仏像や神宝が略奪されるなどした。このため羽黒山では、月山の西の覗(のぞき)にある洞穴に仏像や神宝を隠し、その秘密を守るため妻帯修験の重陽坊に一子相伝で管理させた[2]。しかし、その一方で、関ヶ原の戦い以後、庄内由利を領有した最上義光は、出羽三山を懐柔するため羽黒山・月山の修理再建を行った[2]。その一つとして慶長6年(1601年)当社本宮の修復が行われている[2]

江戸時代に入っても出羽三山は修験道の場として人々の信仰を集めた。元禄2年(1689年)には俳聖松尾芭蕉が出羽三山を訪れ、同年6月6日に月山へ登拝[7]しており、紀行文『おくのほそ道』には月山を詠んだ 「雲の峯 いくつ崩れて 月の山」 の句が残されている。[8]

明治元年(1868年神仏分離令が出されると出羽三山は廃仏毀釈の激しい波に晒された。僧侶山伏には還俗して神官となるものもいたが、仏法の衰微を憂いて自殺を図るものも出た。また多くの貴重な仏像、仏具、経巻が破壊によって失われたり、売り払われて散逸したりした。明治5年(1872年)には修験宗廃止令が出され、出羽三山の修験は途絶えるかと思われたが、その後、生き残った山伏達の努力によりその命脈を保つことになる。

このような混乱の中で出羽三山の神仏分離は進められ、明治7年(1874年)8月31日に当社は近代社格制度により国幣中社へ列せられ、さらに明治18年(1885年)4月22日に官幣中社、大正3年(1914年)1月4日には官幣大社に昇格されている。その後、第2次世界大戦の終戦に伴い近代社格制度が廃止されると、昭和23年(1948年)当社は神社本庁が包括する別表神社となった。

昭和29年(1954年)当社と出羽神社湯殿山神社を併せた宗教法人として出羽三山神社三神合祭殿)が羽黒山に置かれている。

脚注

  1. ^ a b c d 谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』 (株)白水社 1984年6月
  2. ^ a b c d e 戸川安章 『出羽三山 -歴史と文化-』 (株)郁文堂書店 1973年8月
  3. 「能除太子」あるいは「能除大師」とも言われる。
  4. 続日本紀』 文武天皇4年(700年)2月19日の条の記述より。
  5. 『続日本紀』 和銅元年(708年)9月28日の条の記述より。
  6. ^ a b 山形県 編 『山形県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第11輯 出羽の三山』 名著出版 1974年6月 (昭和15年刊の複製)
  7. 『おくのほそ道』の記述では元禄2年(1689年)6月8日となっているが、松尾芭蕉に随伴し旅の様子を記録した河合曾良の『曾良旅日記』では6月6日となっており、こちらの方が正しいとされている。
  8. 現在、姥沢登山道の山頂近くにこの句碑が建てられている。

参考文献

  • 黒板勝美 國史大系編修会 編 『國史大系 第27巻 新抄格勅符抄法曹類林類聚符宣抄続左丞抄別聚符宣抄(株)吉川弘文館 1965年1月
  • 黒板勝美 國史大系編修会 編 『國史大系 第4巻 日本三代実録』 (株)吉川弘文館 1966年4月
  • 黒板勝美 國史大系編修会 編 『國史大系 第2巻 続日本紀』 (株)吉川弘文館 1966年9月
  • 戸川安章 『出羽三山 -歴史と文化-』 (株)郁文堂書店 1973年8月
  • 山形県 編 『山形県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第11輯 出羽の三山』 名著出版 1974年6月 (昭和15年刊の複製)
  • 山形県 編 『山形県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第12輯 出羽の三山』 名著出版 1974年6月 (昭和16年刊の複製)
  • 全国神社名鑑刊行会史学センター 編 『全国神社名鑑 上巻』 全国神社名鑑刊行会史学センター 1977年7月
  • 神道大系編纂会 編 『神道大系 神社編32 出羽三山』 神道大系編纂会 1982年8月
  • 谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』 (株)白水社 1984年6月
  • 萩原恭男 校注 『おくのほそ道 付 曾良旅日記 奥細道管菰抄』 (株)岩波書店 1991年12月

関連項目

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外部リンク

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