2025年7月20日日曜日

八幡のルーツはイスラエルのユダ族 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

八幡のルーツはイスラエルのユダ族 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

レビ族の「バニ」は、ヘブライ語でבני(bani、バニ) と書きます。「バニ」は、エルサレムの城壁を修復し(ネヘミヤ3章17節)、神の律法を翻訳して民衆に説明するレビ人(ネヘミヤ8章7節)として聖書に登場します。その「バニ」というレビ族の名前が黒鰐、「ワニ」族の正体ではないかと考えられます。

「バニ」は、ほかの南ユダ王国の部族やレビ族の兄弟らに先行して日本列島に渡来し、各地に拠点を設け、そこに「鰐」という地名を残したのでしょう。例えば、対馬の北方、朝鮮半島に最も近い鰐浦もその一例です。こうしてレビ族は列島各地に「鰐族」の拠点を設け、「鰐」の地名をもってその存在が知られるようになったと推測されます。つまり、日本に先行して渡来したイスラエルの王系一族であるユダ族が八幡(ヤフダ)であり、祭祀を司る権威を授かっていたレビ族の熊鰐(バニ)も同行してきたと考えられます。記紀の記述を振り返るだけで、このようなイスラエル民族のコラボレーションを、古代史の流れの中に垣間見ることができます。

https://www.historyjp.com/article/52971/

八幡のルーツはイスラエルのユダ族

豊山八幡神社の由緒に潜む熊鰐の正体

 宗教心に結び付く八幡の地名

八幡は応神天皇を祀る八幡神の略称であり、古代、大陸より渡来した秦氏が建立した八幡神社で祀られている御祭神です。また、神社の名称だけでなく、地名としても知られています。それらを代表する町が、北九州八幡、および京都の八幡市です。

京都八幡周辺の地名を地図で見ると、神々への信仰を彷彿させるさまざまな名称が目に付きます。八幡の北東には天神、南西には幸神、南には神山町、そして東には山王と諏訪、西には東王子、西王子、南王子町など、宗教心に纏わる地名が盛りだくさんです。そして町の中心には祇園と天神町があります。古くから八幡は、日本人の宗教心に結び付いていたのです。

「ヤハタ」の語源はヘブライ語

八幡の名称は、イスラエルの南ユダ王国に繋がっていると考えられます。古代、アジア大陸より渡来してきたイスラエルの民の中にはユダ族が存在しました。その部族の名称が八幡の語源になったと考えられます。

「八幡」(ヤハタ、ヤワタ) とほぼ同じ読みのヘブライ語が、イスラエルのユダ族を意味するיהודה(yefuda、イェフダ) です。その語源は「ユダヤ人」を意味するיהודי(yehudi、イェフディー) というヘブライ語です。「イェフダ」という発音は、「ヤフダ」「ヤハタ」とほぼ同じに聞こえます。つまり八幡「ヤハタ」とは、「ユダ族」または「南ユダ王国の民」を意味するヘブライ語であり、イスラエル王系一族のユダ族を指していたのです。

古代、大陸から日本に移住してきた大勢の渡来者の中には、イスラエルのユダ族を出自に持つグループが存在しました。その一例が秦氏です。全国各地で秦氏は、ユダ族の神、ヤハタの神を祀ることに努め、それらの社はいつしか八幡神社と呼ばれました。ユダ族の神を祀るため、大陸を横断してきたイスラエルの南ユダ王国系の民は、それぞれの拠点において八幡神社を造営し、いつしか倭国という新天地においても神を祀ることを大切な文化として継承したのです。イスラエルの王系一族が倭国へ渡来した軌跡を、列島内に建立された八幡神社から知ることができます。

北九州豊山八幡神社の由緒

日本全国にある八幡神社の総本山は九州の宇佐神宮です。大陸より渡来した秦氏の一行は朝鮮半島から対馬、壱岐を経由し、最初に九州に渡来しました。よって、八幡神社は九州地域から建立され、宇佐が最初の地として選ばれたのです。そして間もなく、北九州八幡にも社が建立され、後世においては豊山八幡神社と呼ばれました。

豊山八幡神社の由緒には神功皇后に纏わる歴史が残されています。神功皇后が北九州を訪ねて来られた際、九州の八幡に本拠地を構えていた岡県主熊鰐が、宮にて真榊と呼ばれる祭壇の左右に立てる祭具の枝に鏡、剣、瓊の3つの宝を掛けて皇后をお迎えしました。そして神功皇后が三韓征伐の戦いを終えて後、応神天皇を出産された際に、熊鰐が応神天皇に御衣を献上したことを喜ばれた皇后が、天下豊成らんことを祈念され、豊山と名付けたという伝承が残されています。その後、飛鳥時代より八幡大神が祀られるようになり、平安時代になると豊山八幡神社は現在の豊山の地に移されたのです。

このような歴史的な背景をもつ大切な場所であったからこそ、邪馬台国の時代では、そこに伊都国が小国家として台頭したと考えられます。

熊鰐はイスラエル「バニ」族か?

ここで注目したいことは、鰐が生息することのない地域であるにも関わらず、八幡の岡県主の祖が「熊鰐」(ワニ)と呼ばれるだけでなく、「鰐」と同様に獰猛な「熊」という漢字を並べて、それを「ワニ」と当てて呼ぶことです。この奇妙な当て字の理由は何でしょうか。その答えはイスラエルにて祭司の務めを取り仕切っていたレビ族の民にあるようです。

古代、日本列島に到来した南ユダ王国の民には、神殿にて仕えていたレビ族の子孫が数多く同行してきました。レビ族には神殿に関するあらゆる任務が割り振られていたことから、民が移動する場合は必ず一緒に旅をしたのです。旧約聖書の歴代誌上6章には、神の「契約の箱」が安置されてから、ソロモンがエルサレムに神殿を造営するまでの間、幕屋と呼ばれた神殿において詠唱者の任務に就いた聖職者と、その子孫が列記されています。その詠唱者として就任したのが前述したケハトとその子孫であり、その中に「バニ」の家系が含まれているのです。

レビ族の「バニ」は、ヘブライ語でבני(bani、バニ) と書きます。「バニ」は、エルサレムの城壁を修復し(ネヘミヤ3章17節)、神の律法を翻訳して民衆に説明するレビ人(ネヘミヤ8章7節)として聖書に登場します。その「バニ」というレビ族の名前が黒鰐、「ワニ」族の正体ではないかと考えられます。

「バニ」は、ほかの南ユダ王国の部族やレビ族の兄弟らに先行して日本列島に渡来し、各地に拠点を設け、そこに「鰐」という地名を残したのでしょう。例えば、対馬の北方、朝鮮半島に最も近い鰐浦もその一例です。こうしてレビ族は列島各地に「鰐族」の拠点を設け、「鰐」の地名をもってその存在が知られるようになったと推測されます。つまり、日本に先行して渡来したイスラエルの王系一族であるユダ族が八幡(ヤフダ)であり、祭祀を司る権威を授かっていたレビ族の熊鰐(バニ)も同行してきたと考えられます。記紀の記述を振り返るだけで、このようなイスラエル民族のコラボレーションを、古代史の流れの中に垣間見ることができます。

住吉大社と海の守護神、伊勢との関係を元伊勢のレイラインから推察 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

住吉大社と海の守護神、伊勢との関係を元伊勢のレイラインから推察 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

住吉大社と海の守護神、伊勢との関係を元伊勢のレイラインから推察

住吉大社 正面門

伊吹山と住吉大社に直結する八幡山

伊吹山のレイラインには、もう1本の重大な線が含まれています。それが伊吹山と住吉大社を結ぶレイラインです。由緒ある住吉大社の背景について、今一度振り返ってみましょう。摂津国一の宮、住吉大社と言えば、海の神を祀る神社として有名です。伊耶那岐命が穢れから身を清めるために海に入って禊をされた時に生まれたのが住吉大神の三神です。住吉大神は海より出現されたと言い伝えられてきたことから、海の神として古くから崇められ、特に漁民や航海関係者から篤く崇拝されてきました。元伊勢直後の時代では、その住吉大神の御加護を受けて、神功皇后が海を渡る熾烈な戦いを制して新羅の平定を実現しています。

レイラインという視点から住吉大社と他の聖地との関わりを考察すると、意外な事実が浮かび上がってきます。海の神を祀る住吉大社は、富士山と宇佐神宮を繋ぐ1本のレイライン上に位置しています。しかもその同一線上に、香川の金刀比羅宮と淡路島の伊弉諾神宮も並び、どれもが歴史上海人族との繋がりがあるという共通点を持っているのです。
  住吉大社とレイラインで繋がる宇佐神宮は、朝鮮半島を経由して渡来した秦氏が建立した八幡宮の総本山です。北九州の豪族である地元の宇佐氏は海人族であるという説もあり、宇佐周辺には秦氏の拠点が数多く存在します。また、二の鳥居近くの黒男神社では、住吉大神と海人族とに深く関わる武内宿禰が祀られていることも注目に値します。宇佐の地は、宗像海人が対馬、壱岐を含む北九州から瀬戸内へと行き来を繰り返す途中にあることから、古代より渡来系の海人豪族が地域一帯を統括していたのです。

「こんぴらさん」で知られる金刀比羅宮も、海上交通の守り神として篤く信仰され、その創始は海人豪族に由来しています。また、伊弉諾神宮ではその名のとおり、伊耶那岐神が祀られています。神代の神々はアジア大陸より海を渡って渡来してきたからこそ、記紀の記述には海に関連する神話が多く含まれ、多くの神々のイメージが海人族の様相を呈しているのではないでしょうか。よって神代の神々こそ、海人の元祖であり、大陸より海人族の文化を伝播させた先駆者だった可能性があります。いずれにしても、住吉大社とレイラインで繋がる神社は、「海」というモチーフを共有し、意図的に同一線上に並ぶようにそれらの場所が特定されたと考えられるのです。

住吉大社のレイライン
住吉大社のレイライン

その他、住吉大社を通るレイラインの中には、元伊勢の中でも著名な籠神社の奥宮である真名井神社と紀伊半島の最南端、紀伊大島の東側にある樫野崎を結ぶ線や、宗像大社と淡路島舟木の石上神社を結ぶレイライン等があります。特に船木氏が建立したと考えられる石上神社は、三輪山や斎宮と同緯度に存在するだけでなく、そこに巨石が運ばれて聖地化された痕跡が残されていることから、元伊勢の結末について後世に何かしら、重大なメッセージが残されているのかもしれません。

その住吉大社と伊吹山を結ぶレイライン上に、近江八幡の八幡山が存在します。八幡山は琵琶湖東南の沿岸にある日牟禮八幡宮に隣接する標高283mの小高い山です。後世においては豊臣秀吉が山の中腹に八幡城を造営しただけでなく、麓の城下町には八幡堀と呼ばれる運河を整備し、琵琶湖を往来する荷船は全て八幡を通るという政策を執り行ったことでも有名です。その結果、近江の商業は急速に発展してその名を全国に轟かせ、「近江を制するものは天下を制す」とまで言われたほどです。これほどまでに近江八幡が劇的な発展を遂げた背景には、八幡山が伊吹山と住吉大社とに紐付けられ、海の神と山の神の力を継承する重大な聖地であることに秀吉公自身が気づいていたからかもしれません。
  八幡山が重要な地点である理由は、周辺地域の歴史的背景からも察することができます。まず、豊鍬入姫命と倭姫命が長い年月をかけて元伊勢の御巡幸と呼ばれる旅をしていた紀元1世紀頃、渡来系豪族の移民の流れが地域一帯に加速し、特に琵琶湖の東岸への流入が顕著となり、強い影響力を持つようになったことに注目です。その結果、優れた大陸の文化が短期間に定着しただけでなく、鉄工や造船技術までも矢継ぎ早に導入されたのです。次に、琵琶湖周辺が水路や陸路のアクセスにとても優れた場所であったことが挙げられます。琵琶湖は東西を行き来する際の要所であるだけでなく、実際に船木関などが随所に設けられ、神社造営や造船用の木材が頻繁に運搬されていました。その中心地が八幡山だったのです。
  2世紀半ば、成務天皇の時代では、八幡山の麓にて武内宿禰が日牟禮八幡宮を建立しました。多くの渡来者が流入し、地域一帯が急速に発展を遂げたことから、その中心地において神を祀り、地域の安泰と国家の平安を祈ることが不可欠な時代でした。そこで、住吉大社と伊吹山を結ぶレイライン上にある山が見出され、八幡山と名付けられたのではないでしょうか。八幡と名がつく聖地の背景には秦氏の働きがあり、八幡神社の総本山である宇佐神宮でも祀られている武内宿禰により、琵琶湖畔の八幡山でも社が建立され、神が祀られたのです。秦氏こそ、渡来系豪族の中でもイスラエルのユダヤ系一族であり、優れた大陸の文化を日本に移植した名門一族です。その生粋の渡来系豪族が近江の発展にも関わっていたからこそ、地域の発展が加速したと考えられるのです。

それから5世紀を経た飛鳥時代、これらの社会的インフラの重要性と地域の聖地化に目を留めた天智天皇は、近江への遷都という勇断をもって国家の統治に臨みました。そして天皇は頻繁に蒲生野行幸を行い、国家の繁栄のために身を投じたのです。元伊勢の御巡幸を機に高まる近江への期待は、その後、国家の中心地としての役割を担うまでに発展し、その思いは武内宿禰から天智天皇、そして豊臣秀吉公へと引き継がれていくことになります。

応神天皇を祝した大陸からの渡来者 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

応神天皇を祝した大陸からの渡来者 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

応神天皇を祝した大陸からの渡来者

ヘブライ語で読み解く八幡神の真相

日本列島を目指した多くの渡来者

弥生時代後期、日本列島には既に多くの渡来者が大陸から朝鮮半島を経由し、列島内各地に集落を築いて居住していました。その背景には、紀元前722年に北イスラエル王国が崩壊した後、アジア大陸を東方へ向けて離散した民の存在がありました。中には長い年月をかけて大陸を横断し、日本列島まで到達した民も存在したと考えられます。

また、北イスラエル王国が崩壊する直前、南のユダ王国も直に占領されることを察知したイザヤも、日本列島を目指して旅をしたと推測されます。何故なら、旧約聖書のイザヤ書に綴られているとおり、太陽の昇る東方に浮かぶ「海の島々」に新天地があると神がイザヤに告げられたからです(イザヤ24章15節)。その言葉を信じたイザヤは、王系一族や祭司、そして自分の家族と共に船に乗り、アジア大陸の南岸を東方へ向けて出発することを決意したのです。時は、北イスラエル王国が滅びてから既に20年あまり経っていました。

既に膨大な数に上る北イスラエル王国の民が大陸に向けて離散している最中、ひたすらアジア大陸の先に浮かぶ島々を目指し、船に乗って日本列島に渡来してきたイザヤの集団は、東南アジアから台湾、八重山諸島を経由し、1年足らずで琉球、沖縄に到達したと推測されます。船に乗ってきただけに、大陸を徒歩で移動した人々よりも先に、南方から日本列島に到達することになります。しかしながら、20年程先行して離散した北イスラエル王国の民の中には、そのイザヤよりも先に日本列島に到達していた民も少なからず存在しました。それらの人々は、朝鮮半島を経由して九州の北部や山陰地方へ到達し、先んじて各地に集落を築いたと考えられます。

この渡来者の流れは、大陸で秦始皇帝による統治が崩壊し、膨大な数にのぼる難民が各地に逃避し始めた直後から、一気に加速することになります。大陸各地は戦禍の坩堝となり、多くの人々は東方や朝鮮半島の方向に逃げるしか術がありませんでした。その中で、イスラエルにルーツを持つ人々の間に、大陸の東方には神から祝福された長寿の国があるという噂が伝承されていたのではないでしょうか。また、先行して日本へ渡航した人々からの噂の便りで、日本列島の住みやすさ、素晴らしさが大陸の人々にも伝えられていたのかもしれません。中国の史書を見ても、東方の彼方には長寿の国があるという言い伝えが信じられていたことがわかります。

その結果、日本列島へ旅する人の波は急激に増加し、イスラエル系の民を中心とする大勢の民が、大陸より渡来することになります。そして最終的には弥生時代後期の数世紀の間に、日本列島に渡来した民は膨大な数に膨れ上がったのです。大陸より渡来した人々の数は歴史人口学の見地からしても、少なからず150万人にはなると推測されています。日本列島は、まさにアジア大陸からの渡来者によって、徐々に開拓されていく途上にあったのです。

邪馬台国の後を担う応神天皇の建国精神

邪馬台国が崩壊した直後の3世紀末、遂に歴史が動き始めます。当時、既に多くの渡来者が大陸から海を渡って日本列島の随所で集落を開拓していました。特に都の再建築を夢見てきたイスラエル系の人々にとっては、イザヤが預言書に綴った東方にある「海の島々」こそ日本列島であると信じてきたが故、そこに新しい都を造営することは急務でした。

魏志倭人伝などの中国史書によると、3世紀ごろの日本は既に統治国家なる邪馬台国として知られ、列島内にはその強国以外にも多くの小国が連なっていたことが記録されています。その一大勢力を誇示した邪馬台国が突如として崩壊したことにより、一時、日本の政情は大変不安定になったと推測されます。そして新しい国家体制の構築が望まれた矢先、満を持して声をあげ立ち上がったのが応神天皇だったのです。息長足姫(おきながたらしひめ)神功皇后を母とする応神天皇の即位により、日本の歴史が大きく動き始めます。

応神天皇が八幡神と呼ばれた理由

応神天皇は後世において八幡神としても知られるようになりました。八幡神は古代より、国家の守護神として信仰されていたことから、平安時代以降、いつしか応神天皇の功績が神格化され、八幡神として崇拝されたというのが定説です。八幡神を祀る総本山は、秦氏が建立した大分県の宇佐神宮として知られています。よって、応神天皇は秦氏と繋がっていたことがわかります。

その後、八幡神は仏教と神道が融合する「神仏習合」の影響を受け、「八幡大菩薩」としても崇拝されるようになります。それ故、武士が台頭して謳歌した鎌倉時代にかけては、国の統治に関わる武士たちが八幡神を崇拝するようになります。源頼朝や源義家が、源氏の祖先は八幡神を信仰していたという言い伝えを元に八幡神を信仰し、武士の間でも八幡神が守護神として崇められるようになったのです。こうして八幡神は神仏習合の影響を受けて、広く信仰されるようになります。

しかしながら、定説ではなぜ、応神天皇が八幡神と結び付いたのか、その理由が説明できていません。国のために尽力された天皇は、他にも大勢存在するにも関わらず、何故、応神天皇だけが国家に貢献した天皇として八幡神となり、崇められるようになったのでしょうか。その理由は「八幡」という言葉の語源を理解することにより、明らかになります。

「八幡」の意味をヘブライ語で解明する

「八幡」、「ヤハタ」の発音に良く似ているヘブライ語にהודה(yahuda、ヤフダ)があり、イスラエル12部族のひとつである「ユダ族」を指します。また、「ヤフダ」を語源とするיהודי (yahudhi、ヤフディ)という言葉もあり、 「ユダヤ人」を意味します。どちらも「ヤハタ」の発音に類似していることから、ヘブライ語でユダ族、ユダヤ人を意味する「ヤフダ」「ヤフディ」が多少訛り、「ヤハタ」と読むようになり、そこに八幡という漢字があてられたと推測されます。

イスラエル12部族の中で、国王はユダ族から出ることが定められていました。それ故、もし日本の天皇がイスラエルの出自と結び付いていると想定するならば、国王に等しい天皇のルーツはユダ族になるはずです。つまり天皇は「ヤフダ」一族であり、天皇の神とは「ヤフダ」の神を指すことになります。そして天皇の神は「ユダ族の神」でもあることから、一族の神を総じて「八幡神」と語り継がれるようになったと考えられます。

応神天皇が「ホムタワケ」と呼ばれた所以

応神天皇の諡号は、日本書紀では「誉田別」「ホムタワケ」、また古事記では「品陀和気」「ホムダワケ」とも記載されていますが、その由来がわかっていません。大和地方にて応神天皇が崇敬され、その地域に誉田(ほむた)という場所があったとか、神聖な天皇であるということから聖別され、「分け」た役割を担うお方として、人々と神とを結ぶ仲介者の意味で「ホムタワケ」と言われるようになったとも語り継がれています。また、天皇は「誉(ほまれ)高い」ことから、「ホムタワケ」という言葉になったという説もあります。その場合「ワケ」は、何等かの役割を果たす位を指すような意味合いにとられますが、定かではありません。

「ホムタワケ」の真相も、ヘブライ語で理解することができます。まず、「ホムタワケ」の「ホムタ」は、「壁」を意味するחומה(khoma、ホマ) の語尾が可変したחומתה(khomta、ホムタ) と考えられます。この言葉は「神殿の壁」を意味することもありました。

「ワケ」は「最初にできる」、「初子」、「長子」を意味するביכור(bikor、ビコー) が語源と考えられます。頭の子音「ב」の発音は、「ヴ」に近いことから「ワ」に似たような響きがあります。そして「コ」が訛り「ケ」に近づいた発音とすれば、「ビコー」が訛って「ヴァケー」「ワケ」になったと理解できます。すると「誉田別」という名前には、ヘブライ語で「最初にできた壁」、「初めての神殿の壁」、すなわち神殿復興の意味が込められていることになります。

また、「ワケ」を準備ができたことを表す言葉であるבהכן(bahken、バケ)と解釈することも可能です。その場合、「ホムタワケ」は、「神殿の壁の準備ができた」という意味になります。後者の方が「ホムタワケ」により近い「ホムタバケ」「ホムタヴァケ」の発音になるため、語源としての可能性が高いと言えます。

いずれの解釈にしても、応神天皇が東方に浮かぶ海の島々で、神殿の城壁を立ち上げる責務を担っていたことを象徴する呼称が「ホムタワケ」だったのです。そして、神の宮が日本列島に立ち上げられることが応神天皇によって宣言されたことから、「ホムタワケ」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

国家再建の責任を担う応神天皇

応神天皇が即位した頃の歴史的背景と名前の意味から察するに、天皇は国家再建の象徴となる神殿の壁、すなわち神宮を建立し、イスラエルの伝統を守るべく、日本においても神を祀る役割を授かっていたと推測されます。よって時が満ちたある日、応神天皇は国家のリーダーとして、新天地である「東の島々」、日本列島にて神を祀る神社を造営すべく立ち上がったのです。その熱い思いが、応神天皇、自らの名前に込められていました。

応神天皇が即位すると、日本から遠く離れたアジア大陸においても、神殿が再建される噂を聞きつけたイスラエル系の民がいたのではないでしょうか。その中には日本へ向かうために決起し、渡来者となった人々も少なくはなかったはずです。そして応神天皇による国家の統治が始まると共に、アジア大陸の各地に離散していたイスラエル系の人々の中には、ヘブライ語で「神の民」を意味する「ヤマト」政権の誕生を祝して、アジア大陸より日本列島に向けて旅することを願った人々が大勢いました。

渡来者の原動力となったユダヤ系秦氏の存在

大陸より渡来してきた最大の集団が秦氏でした。膨大な数に膨れ上がった渡来者の数は、日本書紀等の古文書に記載されている通りです。秦氏の名前もイスラエルのユダ族、「ヤフダ」「ヤワタ」に由来し、ユダヤ系一族と考えられます。そして大陸においても秦始皇帝との血縁関係が取り沙汰される秦氏は、多大なる資産を保有していただけでなく、その教養や学問知識においても、一族が抜きん出て優れていることが知られていました。それら知識人や有力者が多い秦氏一族が、自らの資産を携えながら京都方面へと向かい、最終的にそこを一族の拠点としたのです。

秦氏はその資産運用だけでなく、政治経済力においても長けていたが故、日本に渡来した直後から、すぐに天皇家に仕え始めることとなります。そのような連携プレーを可能にしたのは、秦氏が天皇家との血縁関係にあったからと推測されます。その結果、アジア大陸に残された大勢のイスラエル系同胞らを、朝鮮半島から日本列島へと船を用いて迎え入れる原動力となり、日本の歴史が大きく動くことになります。

応神天皇を祝した大陸からの渡来者 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

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応神天皇を祝した大陸からの渡来者

ヘブライ語で読み解く八幡神の真相

日本列島を目指した多くの渡来者

弥生時代後期、日本列島には既に多くの渡来者が大陸から朝鮮半島を経由し、列島内各地に集落を築いて居住していました。その背景には、紀元前722年に北イスラエル王国が崩壊した後、アジア大陸を東方へ向けて離散した民の存在がありました。中には長い年月をかけて大陸を横断し、日本列島まで到達した民も存在したと考えられます。

また、北イスラエル王国が崩壊する直前、南のユダ王国も直に占領されることを察知したイザヤも、日本列島を目指して旅をしたと推測されます。何故なら、旧約聖書のイザヤ書に綴られているとおり、太陽の昇る東方に浮かぶ「海の島々」に新天地があると神がイザヤに告げられたからです(イザヤ24章15節)。その言葉を信じたイザヤは、王系一族や祭司、そして自分の家族と共に船に乗り、アジア大陸の南岸を東方へ向けて出発することを決意したのです。時は、北イスラエル王国が滅びてから既に20年あまり経っていました。

既に膨大な数に上る北イスラエル王国の民が大陸に向けて離散している最中、ひたすらアジア大陸の先に浮かぶ島々を目指し、船に乗って日本列島に渡来してきたイザヤの集団は、東南アジアから台湾、八重山諸島を経由し、1年足らずで琉球、沖縄に到達したと推測されます。船に乗ってきただけに、大陸を徒歩で移動した人々よりも先に、南方から日本列島に到達することになります。しかしながら、20年程先行して離散した北イスラエル王国の民の中には、そのイザヤよりも先に日本列島に到達していた民も少なからず存在しました。それらの人々は、朝鮮半島を経由して九州の北部や山陰地方へ到達し、先んじて各地に集落を築いたと考えられます。

この渡来者の流れは、大陸で秦始皇帝による統治が崩壊し、膨大な数にのぼる難民が各地に逃避し始めた直後から、一気に加速することになります。大陸各地は戦禍の坩堝となり、多くの人々は東方や朝鮮半島の方向に逃げるしか術がありませんでした。その中で、イスラエルにルーツを持つ人々の間に、大陸の東方には神から祝福された長寿の国があるという噂が伝承されていたのではないでしょうか。また、先行して日本へ渡航した人々からの噂の便りで、日本列島の住みやすさ、素晴らしさが大陸の人々にも伝えられていたのかもしれません。中国の史書を見ても、東方の彼方には長寿の国があるという言い伝えが信じられていたことがわかります。

その結果、日本列島へ旅する人の波は急激に増加し、イスラエル系の民を中心とする大勢の民が、大陸より渡来することになります。そして最終的には弥生時代後期の数世紀の間に、日本列島に渡来した民は膨大な数に膨れ上がったのです。大陸より渡来した人々の数は歴史人口学の見地からしても、少なからず150万人にはなると推測されています。日本列島は、まさにアジア大陸からの渡来者によって、徐々に開拓されていく途上にあったのです。

邪馬台国の後を担う応神天皇の建国精神

邪馬台国が崩壊した直後の3世紀末、遂に歴史が動き始めます。当時、既に多くの渡来者が大陸から海を渡って日本列島の随所で集落を開拓していました。特に都の再建築を夢見てきたイスラエル系の人々にとっては、イザヤが預言書に綴った東方にある「海の島々」こそ日本列島であると信じてきたが故、そこに新しい都を造営することは急務でした。

魏志倭人伝などの中国史書によると、3世紀ごろの日本は既に統治国家なる邪馬台国として知られ、列島内にはその強国以外にも多くの小国が連なっていたことが記録されています。その一大勢力を誇示した邪馬台国が突如として崩壊したことにより、一時、日本の政情は大変不安定になったと推測されます。そして新しい国家体制の構築が望まれた矢先、満を持して声をあげ立ち上がったのが応神天皇だったのです。息長足姫(おきながたらしひめ)神功皇后を母とする応神天皇の即位により、日本の歴史が大きく動き始めます。

応神天皇が八幡神と呼ばれた理由

応神天皇は後世において八幡神としても知られるようになりました。八幡神は古代より、国家の守護神として信仰されていたことから、平安時代以降、いつしか応神天皇の功績が神格化され、八幡神として崇拝されたというのが定説です。八幡神を祀る総本山は、秦氏が建立した大分県の宇佐神宮として知られています。よって、応神天皇は秦氏と繋がっていたことがわかります。

その後、八幡神は仏教と神道が融合する「神仏習合」の影響を受け、「八幡大菩薩」としても崇拝されるようになります。それ故、武士が台頭して謳歌した鎌倉時代にかけては、国の統治に関わる武士たちが八幡神を崇拝するようになります。源頼朝や源義家が、源氏の祖先は八幡神を信仰していたという言い伝えを元に八幡神を信仰し、武士の間でも八幡神が守護神として崇められるようになったのです。こうして八幡神は神仏習合の影響を受けて、広く信仰されるようになります。

しかしながら、定説ではなぜ、応神天皇が八幡神と結び付いたのか、その理由が説明できていません。国のために尽力された天皇は、他にも大勢存在するにも関わらず、何故、応神天皇だけが国家に貢献した天皇として八幡神となり、崇められるようになったのでしょうか。その理由は「八幡」という言葉の語源を理解することにより、明らかになります。

「八幡」の意味をヘブライ語で解明する

「八幡」、「ヤハタ」の発音に良く似ているヘブライ語にהודה(yahuda、ヤフダ)があり、イスラエル12部族のひとつである「ユダ族」を指します。また、「ヤフダ」を語源とするיהודי (yahudhi、ヤフディ)という言葉もあり、 「ユダヤ人」を意味します。どちらも「ヤハタ」の発音に類似していることから、ヘブライ語でユダ族、ユダヤ人を意味する「ヤフダ」「ヤフディ」が多少訛り、「ヤハタ」と読むようになり、そこに八幡という漢字があてられたと推測されます。

イスラエル12部族の中で、国王はユダ族から出ることが定められていました。それ故、もし日本の天皇がイスラエルの出自と結び付いていると想定するならば、国王に等しい天皇のルーツはユダ族になるはずです。つまり天皇は「ヤフダ」一族であり、天皇の神とは「ヤフダ」の神を指すことになります。そして天皇の神は「ユダ族の神」でもあることから、一族の神を総じて「八幡神」と語り継がれるようになったと考えられます。

応神天皇が「ホムタワケ」と呼ばれた所以

応神天皇の諡号は、日本書紀では「誉田別」「ホムタワケ」、また古事記では「品陀和気」「ホムダワケ」とも記載されていますが、その由来がわかっていません。大和地方にて応神天皇が崇敬され、その地域に誉田(ほむた)という場所があったとか、神聖な天皇であるということから聖別され、「分け」た役割を担うお方として、人々と神とを結ぶ仲介者の意味で「ホムタワケ」と言われるようになったとも語り継がれています。また、天皇は「誉(ほまれ)高い」ことから、「ホムタワケ」という言葉になったという説もあります。その場合「ワケ」は、何等かの役割を果たす位を指すような意味合いにとられますが、定かではありません。

「ホムタワケ」の真相も、ヘブライ語で理解することができます。まず、「ホムタワケ」の「ホムタ」は、「壁」を意味するחומה(khoma、ホマ) の語尾が可変したחומתה(khomta、ホムタ) と考えられます。この言葉は「神殿の壁」を意味することもありました。

「ワケ」は「最初にできる」、「初子」、「長子」を意味するביכור(bikor、ビコー) が語源と考えられます。頭の子音「ב」の発音は、「ヴ」に近いことから「ワ」に似たような響きがあります。そして「コ」が訛り「ケ」に近づいた発音とすれば、「ビコー」が訛って「ヴァケー」「ワケ」になったと理解できます。すると「誉田別」という名前には、ヘブライ語で「最初にできた壁」、「初めての神殿の壁」、すなわち神殿復興の意味が込められていることになります。

また、「ワケ」を準備ができたことを表す言葉であるבהכן(bahken、バケ)と解釈することも可能です。その場合、「ホムタワケ」は、「神殿の壁の準備ができた」という意味になります。後者の方が「ホムタワケ」により近い「ホムタバケ」「ホムタヴァケ」の発音になるため、語源としての可能性が高いと言えます。

いずれの解釈にしても、応神天皇が東方に浮かぶ海の島々で、神殿の城壁を立ち上げる責務を担っていたことを象徴する呼称が「ホムタワケ」だったのです。そして、神の宮が日本列島に立ち上げられることが応神天皇によって宣言されたことから、「ホムタワケ」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

国家再建の責任を担う応神天皇

応神天皇が即位した頃の歴史的背景と名前の意味から察するに、天皇は国家再建の象徴となる神殿の壁、すなわち神宮を建立し、イスラエルの伝統を守るべく、日本においても神を祀る役割を授かっていたと推測されます。よって時が満ちたある日、応神天皇は国家のリーダーとして、新天地である「東の島々」、日本列島にて神を祀る神社を造営すべく立ち上がったのです。その熱い思いが、応神天皇、自らの名前に込められていました。

応神天皇が即位すると、日本から遠く離れたアジア大陸においても、神殿が再建される噂を聞きつけたイスラエル系の民がいたのではないでしょうか。その中には日本へ向かうために決起し、渡来者となった人々も少なくはなかったはずです。そして応神天皇による国家の統治が始まると共に、アジア大陸の各地に離散していたイスラエル系の人々の中には、ヘブライ語で「神の民」を意味する「ヤマト」政権の誕生を祝して、アジア大陸より日本列島に向けて旅することを願った人々が大勢いました。

渡来者の原動力となったユダヤ系秦氏の存在

大陸より渡来してきた最大の集団が秦氏でした。膨大な数に膨れ上がった渡来者の数は、日本書紀等の古文書に記載されている通りです。秦氏の名前もイスラエルのユダ族、「ヤフダ」「ヤワタ」に由来し、ユダヤ系一族と考えられます。そして大陸においても秦始皇帝との血縁関係が取り沙汰される秦氏は、多大なる資産を保有していただけでなく、その教養や学問知識においても、一族が抜きん出て優れていることが知られていました。それら知識人や有力者が多い秦氏一族が、自らの資産を携えながら京都方面へと向かい、最終的にそこを一族の拠点としたのです。

秦氏はその資産運用だけでなく、政治経済力においても長けていたが故、日本に渡来した直後から、すぐに天皇家に仕え始めることとなります。そのような連携プレーを可能にしたのは、秦氏が天皇家との血縁関係にあったからと推測されます。その結果、アジア大陸に残された大勢のイスラエル系同胞らを、朝鮮半島から日本列島へと船を用いて迎え入れる原動力となり、日本の歴史が大きく動くことになります。

剣山と石鎚山のレイライン – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

剣山と石鎚山のレイライン – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

剣山と石鎚山のレイライン

西日本最高峰の石鎚山とヒラバイ山を通り抜けるレイライン上には高千穂神社が存在します。また、富士山のレイライン上には鹿島神宮や出雲大社、宇佐神宮等を見出すことができます。古代社会では標高の高い山がレイラインの指標として用いられることが多く、特に西日本においては、四国の石鎚山と剣山が、レイラインを構成する指標として重要視されたと考えられます。特に剣山は西日本で石鎚山に次いで2番目に高い標高を誇るだけでなく、列島の中心的な役割を果たした淡路島から直接眺めることができることからしても極めて重要です。これらの聖山がどのようにレイラインと絡んでいたか、早速検証してみましょう。

剣山のレイラインが示す金刀比羅宮の聖地

出雲大社の地は古代より、富士山と同緯度上に並ぶ日本海側の拠点として祭祀活動が活発に執り行われ、重要な位置付けを占めていました。その出雲の地と、そこから南西方向に聳え立つ四国剣山とを結ぶレイラインが存在し、その直線上には出雲大社に並ぶ重要な神社として著名な金刀比羅宮が建立されています。それだけでしたら単に偶然の一致ということで片付けることもできたでしょう。ところが金刀比羅宮が存在する場所は、出雲大社と剣山のレイライン上にあるだけでなく、淡路の神籬石と大分の宇佐神宮を結ぶレイラインが、そのレイラインと交差する地点の真上に造営されているのです。つまり、2つの重要なレイラインが四国香川県で重なる場所が、金刀比羅宮の聖地なのです。これはもはや単なる偶然ではなく、神籬石や、出雲、宇佐、剣山の指標を用いたレイラインが交差する場所を、古代の識者が当時の地勢観を元に検証し、計算尽くめでその場所をピンポイントで特定した証ではないでしょうか。

その結果、金刀比羅宮の場所は香川県に在りながらも、出雲大社と宇佐神宮という古代の著名な神の社だけでなく、富士山と剣山という聖山の地の力までも統合した場所であり、その聖地の上に建立された神社だったのです。そこでは古くから祭祀活動が行われ、いつしか海の安全を祈願する金刀比羅宮として、庶民から愛される宮となり、今日まで至っています。

重要港と結ぶ石鎚山と剣山のレイライン

出雲大社と剣山を結ぶレイライン上には金刀比羅宮だけでなく、その延長線上には四国徳島の沿岸に、古代の重要な港として由緒ある海部が存在します。太平洋に面する海部は、南方から舟で旅をして四国沿岸を航海する際に、必ずしや寄港する貴重な港町として、古くから栄えました。出雲と剣山に紐付けられた重要港で、しかも太平洋に面し、淡路島と紀伊半島からほぼ同距離にあっただけに、四国の拠点として重要な位置付けを保ちながら発展したのです。

また、剣山方面に四国東南側から登る際、川沿いの長い山道が始まる剣山への玄関口が海部周辺にあったことも見逃せません。剣山周辺にあった集落へのアクセスは重要であったと考えられることから、海部周辺の地理的な位置付けは古代より注目されていたに違いありません。海部の集落が存在したと考えられる今日の海部郡海陽町周辺では、その近郊にある芝遺跡から多くの土器が出土し、その数や内容から察しても、優れた文化的背景を持つ多くの民が海部に居住していた史実を知ることができます。

また、出雲大社と海部を結ぶレイラインを剣山の頂上周辺にて交差するもう1つのレイラインが存在することにも注目です。それが宇佐神宮と石鎚山を結ぶレイラインです。この線からは古代の重要港が更に2つ定められました。およそ東西を横切るこのレイライン上には、徳島の阿南、そして紀伊半島では三重の尾鷲が存在します。どちらも今日、地域の重要港として知られていますが、その歴史は古代まで遡っていたのです。

南方より舟で訪れる民は、高知県の南岸を経由して、海部から阿南へと北上し、そこから淡路や近畿方面、もしくは瀬戸内海を西方へと航海を続けました。また、本州を東方に向かう際は紀伊半島を海岸沿いに巡り周り、和歌山のみなべ町、鹿島神社等に寄港し、それから伊勢と熊野の中間に位置する地の利に恵まれた尾鷲の港に立ち寄ったのではないでしょうか。その後、沿岸を北上して伊雑ノ浦に佇む伊雑宮にも寄港して、神を参拝したことでしょう。古代社会において港の存在は、集落が造成される地域を特定するだけでなく、その近郊にて祭祀活動が行われることも意味していたのです。

こうして富士山と石鎚山、そして剣山という3つの名山を基点とし、それらと結び付けられるレイラインから見出された日本列島内の古代の港は、海を渡る旅人にとっては不可欠な重要港として、古くから発展を遂げたのです。そして、これらの指標や、それらに紐付けられた拠点は、列島の山々や岬、聖地の指標に連結する力の象徴となるべく、その周辺には著名な神社が建立されることも少なくありませんでした。かくして、日本列島の随所には短期間で多くの神社が建立されることになります。

対馬と宗像を結ぶ宇佐神宮のレイライン

富士山と宇佐神宮がレイライン上で結ばれて聖地化した結果、宇佐の北西方向に浮かぶ対馬が注視されるようになりました。宇佐神宮から夏至の太陽が沈む方向、およそ28度58分の方向には、対馬の西海岸沿い、保利山の麓に当たる個所に海神神社の存在が浮かび上がります。和多都美神社の北、およそ9.7kmの位置に建立された海神神社は仁井の和多都美神社の論社として同様にワタヅミと読まれ、東の島々の西の玄関として貴重な存在です。また、後世においては淡路島の伊弉諾神宮と同緯度上に存在する神社として、伊勢神宮共に「陽の道しるべ」と呼ばれる東西の一大レイラインを描く指標として知られるようになります。

宇佐神宮のレイラインが引かれた結果、対馬の海神神社が対馬の中央、西海岸沿いに見出されただけでなく、和多都美神社と宇佐神宮を結ぶ線上の北九州沿岸には、鐘崎港が発展することとなりました。すなわち、鐘崎港は2つの聖地を結ぶレイライン上にある港として、必然的に発展する宿命を持っていたとも言えます。そして鐘崎港の内陸には、宗像と呼ばれる集落が発展し、その後、日本の宗教史にも大きな貢献をすることとなります。

また、海神神社の南方には、伊雑宮と同じ北緯34度22分の緯度線上に、和多都美神社が建立されました。和多都美神社は、海神神社のお膝元に建立された神社として、その元宮と考えられています。その背景には宇佐神宮が淡路島の神籬石や富士山ともレイライン上で繋がりを持ち、それらの指標を通る複数のレイラインが伊雑宮、しいては海神神社とも紐付けられていることが挙げられます。こうして宇佐神宮との日の出、日の入りの線に連なる鐘崎港、及び海神神社は、和多都美神社や、更に東方遠くには神籬石や富士山、伊雑宮など多くの聖地と紐付き、必然的に古代、海人一族の貴重な本拠地として発展を遂げることになります。

石鎚山と剣山のレイライン -神を礼拝する聖地と港を選別-
石鎚山と剣山のレイライン -神を礼拝する聖地と港を選別-

建国の神、スサノオはイザヤの子か?! – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

建国の神、スサノオはイザヤの子か?! – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

建国の神、スサノオはイザヤの子か?!

ヘブライ語から解明するスサノオと「ゴズ(牛頭)」の関係

「ゴズ」の由来とスサノオの関係

ゴジラと言えば、誰もが知っている映画に登場する巨大な怪獣の名前です。この名付け親は映画制作の担当者であり、ゴリラとクジラを合体させて「ゴジラ」という名前にするという奇抜なアイデアが、ふと生まれたそうです。興味深いことに、ヘブライ語でもゴジラと同じGZLの子音を持つ גזל(gazal、ガザル、ゴゼル)という言葉があります。ヘブライ語の意味は「略奪」「強奪」です。その発音は実際には「ガザ」、もしくは「ゴゼ」とも聞こえます。

この「ガザ」「ゴゼ」というヘブライ語の言葉は、祇園精舎の守護神として知られる牛頭天王の「ゴズ」という発音によく似ています。牛頭は蘇民将来の説話に登場する天道神ともいわれ、いつしか国生みの歴史に登場するスサノオと同一視されるようになりました。その結果、スサノオの名前は「ゴズ」とも呼ばれるようになったのです。「ゴズ」という名前は日本語に似つかず、不可思議な響きがあります。

もしかして、ヘブライ語で「略奪」を意味する「ゴゼ」が、スサノオの名前の語源になったとは考えられないでしょうか。もし、スサノオの「ゴズ」という名前がヘブライ語に由来しているならば、旧約聖書においても「略奪」を意味する名前を持つ人物が登場しても不思議ではありません。また、牛頭天王と同一視されてきたスサノオの背景にも、「略奪」を意味するヘブライ語の「ゴゼ」に結び付く何らかの出来事が存在するはずです。

イスラエルの歴史が記載されている旧約聖書のイザヤ書に目を留めると、そこには確かに「略奪」を意味する言葉が含まれる名前の人物が登場します。それが預言者イザヤの子どもの名前だったのです。イザヤの子が生まれた歴史的背景を紐解くことにより、スサノオが「ゴズ(牛頭)」と呼ばれるようになった由来が、イスラエルの歴史に結びついている可能性を理解する手掛かりとなるかもしれません。

イザヤと共に東の島々へ向かう民

古代イスラエル史を振り返ってみましょう。前8世紀、イスラエル北王国は滅亡する寸前であり、南ユダ王国も崩壊の危機に直面していました。当時、南ユダ王国ではヒゼキヤ王の元、預言者イザヤが国家に仕えていました。ある日、祈りのうちにイザヤにはビジョンが示されたのです。それは滅びゆく国家の有様とともに、東方の島々では神の民が残存し、そこで神が崇められるという新世界の姿でした。その思いをイザヤは綴り続け、後に預言書として編纂されました。

そのビジョンと神から与えられた言葉を確信したイザヤは、イスラエル国家が先祖代々大切にしてきた神宝とともに、王族や神の民を守るため、密かに国を脱出したと想定されます。命よりも大切な神宝が、外敵によって踏みにじられることなど、イザヤには考えられなかったことでしょう。そしてイザヤに導かれた先遣隊は船に乗り込み、アジア大陸の南岸沿いに海上を経由して東方へ航海を続け、東の島々を目指して旅したのです。

イスラエルの民の多くは、徒歩で大陸を横断し、東の方へと向かいました。長旅の途中、アジア大陸の各地にて留まり、現地に土着する者も大勢いたことでしょう。徒歩で大陸を横断することは危険極まりなく、壮絶な試練が待ち構えていたのです。それでも中には、イザヤが語り告げた神からの約束の言葉となる東方の光、海の島々の存在を信じ、アジア大陸を横断し続けて、さらには海を渡り、日本列島まで到達した民も少なくなかったのです。

略奪と破滅を意味する子とは?

イスラエルの民が祖国を脱出し、神が約束された新しい地に向かうにあたり、いくつかのサインがイスラエルに対して与えられることが旧約聖書に記されています。そのうちのひとつが、イザヤ書の8章に記載されている男の子の存在です。イザヤと女預言者の間に生まれた男の子が成長して言葉を語るようになる前に、北イスラエル王国が滅びることが、イザヤによって預言されたのです。その言葉のとおり、紀元前722年、北イスラエル王国が侵略され、首都サマリアは壊滅しました。その現実を目の当たりにしたイザヤと側近らは、神の言葉が確かに実現することを知らしめられたのです。それ故、南ユダ王国の破滅も時間の問題であることを悟りました。

イザヤに与えられた男の子の名は、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と呼ばれました。その奇妙な名前は、ヘブライ語で「急いで略奪し、速やかに捕獲する者」を意味します。それは当時、イスラエルの北方で勢力を振るっていたアッシリアの大軍によって、瞬く間に北イスラエル王国が滅ぼされるということを意味する象徴的な名前だったのです。さらには、南ユダ王国の破滅も間近に迫っているという最終警告でもありました。自国が外敵によって踏みにじられ、大切な宝物までもが略奪されることが強く印象づけられる名前を自らの子どもに命名することが示されたことに、イザヤは強い危機感を抱いたに違いありません。

男の子は救いを象徴する救世主!

一見、乱暴なニュアンスを秘めた「略奪」という意味を含む子どもの名前ではありますが、イザヤの子は単に北イスラエル王国の崩壊を象徴する名前を受け継いだだけではありませんでした。同時にイザヤの子は国民を救うために、救世主となることもイザヤは預言したのです。そして男の子には、「神が共におられる」という意味の「インマヌエル」という別の名前も与えられたのです(イザヤ7章14節)。

自らの子、インマヌエルが成長して活躍することに、イザヤは大きな期待を寄せたことでしょう。例え南北イスラエルが滅びようとも、神の導きと恵みにより、いつか必ず息子のインマヌエルが救世主となり、新天地に神の御国を造り、新しい国家が安泰する日が来ることが信じられたのです。イザヤ書の9章6節に記載された言葉には、その思いが込められているようです。

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。」

イザヤの子はスサノオか?

このイスラエルの救世主、イザヤの子、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」とも呼ばれる「インマヌエル」が、実はスサノオではないかと考えられるのです。双方のイメージを比較すると、その類似点がいくつも浮かび上がってきます。

まず、スサノオは伊耶那岐神(いざなぎのみこと)の子であり、イスラエルの救世主、インマヌエルはイザヤの子です。スサノオの父は「いざなぎ」であり、インマヌエルの父は「イザヤ」です。「いざなぎ」の発音が「イザヤ」に似ていることも注目に値します。「いざなぎ」の語源は、ヘブライ語で「イザヤ君主」を意味する「イザヤ・ナギッ」である可能性が高いと考えられます。「イザヤ・ナギッ」を口ずさめば、自然と「イザナギ」に聞こえるからです。もしそうだとするならば、伊耶那岐神が預言者イザヤであることになります。この点については、別章で解説します。

また、「急いで略奪する者」というイザヤの子の名前には、「略奪」という意味合いが含まれていることにも注視する必要があります。同様に、スサノオも「牛頭」「ゴズ」と呼ばれていることから、ヘブライ語で理解するならば「略奪」に関連していることがわかります。ヘブライ語には略奪の意味を持つ言葉が複数あります。イザヤの子の名前に用いられた「シャラル」や「バズ」だけでなく、その他、「ゴゼル」「ゴゼ」という同義語もあります。このうち「ゴゼ」が多少訛って「ゴズ」と発音されるようになった可能性があります。そして後世にて「牛頭」という漢字が当てられたと考えられるのです。

日本書紀や古事記に記されているスサノオのイメージは、まさに、イスラエルの救世主「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」ではないでしょうか。その名前に含まれる「略奪」という言葉が象徴するように、スサノオは力と権力の象徴でありながら、乱暴な人でもありました。そして侵略する敵に対しても屈することなく勝利し続けながら、相手から草薙剣のような聖剣を略奪してまで、国家を救うために戦われたのです。イザヤの子と、イザナギの子の類似点から目が離せません。

イザナギからスサノオへ

神から東の島々に救いの道が残されていることを示された預言者イザヤは、自分に与えられた男の子が神から約束された救世主となることを信じたことでしょう。その結果、祖国を脱出して日本列島を目指したことが、イザヤの預言書から推測されます。そして国家のリーダー格であり、霊的指導者であったイザヤは、ヘブライ語で、君主イザヤを意味する「イザヤ・ナギッ」、「イザナギ」と呼ばれるようになり、日本列島を見出した後も、国生みの神、偉大なる指導者として活躍したのです。

イザヤの子は「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と呼ばれ、その名前に含まれた文字には、「略奪」というメッセージが込められていました。ヘブライ語では同じ意味をもつ「ゴゼ」「ゴズ」という言葉があることから、いつしか日本では、イザヤの子、すなわちスサノオが「ゴズ」と呼ばれるようになったとは考えられないでしょうか。そして「ゴズ」という名前に「牛頭」の漢字があてられたのです。略奪を意味する「ゴズ」は、「力をもって奪う」という意味において、イスラエルの民が国家再建のために不可欠な新天地を得ることを象徴する言葉ともなります。イザナギに与えられた天命が、その子孫であるスサノオに託されたと考えられます。

こうしてスサノオはイザヤ一族の血をひく偉大な指導者の一人として、イザヤの後を継いで日本列島に到来して国家の樹立に貢献した後、日本の島々を外的から救うために「牛頭」という肩書きを担って救世主の働きをなし、日本建国の土台を築き上げるために戦い続けました。それが記紀神話に登場する諸々の神々から一線を画して、スサノオが日本建国の神として崇拝されることになった所以と考えると、歴史の流れが紐解かれてきます。

応神天皇と八幡神社 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

応神天皇と八幡神社 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

応神天皇と八幡神社

ヘブライ語で読み解く八幡神の真相

宇佐神宮が祀る八幡神とは

全国約11万社ほどある神社の中で、八幡神(ヤハタノカミ)は最も多く祀られています。その数は4万社を超え、古くから多くの人々が八幡神社を参拝しています。八幡神社では一般的に応神天皇が主座として祀られ、神功皇后、仲哀天皇を合わせた三神が崇められています。

「八幡」という言葉のルーツを探ると、「続日本紀」に記載されている「広幡乃八幡大神」が、現存する古文書の中で使われている「八幡」という文字の中でも、最も古い事例であることがわかります。その八幡神を祀る八幡神社の総本社が、宇佐八幡宮とも呼ばれる宇佐神宮です。

宇佐神宮は6世紀、欽明天皇の時代に現在の九州の大分県宇佐市に建立されました。社伝によると紀元571年に八幡神が現れ「誉田天皇広幡八幡麿」、つまり「我、誉田天皇(ホムタノスメラミコト)は広幡八幡麻呂なり」と告げたそうです。誉田天皇とは、応神天皇の死後に贈られた諡号(しごう、贈り名)であることから、八幡神のルーツは3世紀後半の応神天皇まで遡ることになります。そして、八幡神の宣言もあり、いつしか応神天皇は八幡神と同一視され、天皇が神として祀られるようになったのです。

八幡の語源

第15代の応神天皇は、実在した天皇であることがわかっていますが、その出自については諸説があります。その謎を解明する鍵が、八幡神社と秦氏の関係に秘められています。

まず、八幡神「ヤハタノカミ」の「ヤハタ」という名前に注目です。「八幡」は元来「矢羽田」と書き、それを「ヤハダ」と発音していました。その発音に酷似した言葉がヘブライ語に存在します。イスラエル12部族のひとつであるユダ族を、ヘブライ語ではיהודה(yahudah、ヤフダ) と言い、「ヤハダ」の発音に酷似しています。すると、「八幡神社」とは元来、「ユダヤ神社」、もしくは「ユダ族の神社」という意味の名称であったことになります。ヘブライ語の「ヤフダ」を語源とし、「ヤフダ」から「ハダ」「ハタ」という名称になったと推測できます。

同様に、古代豪族の秦氏の「ハタ・ハダ」という名称も、その語源は同じくユダ族を意味する「ヤフダ」「ヤハタ」であり、そこからヘブライ語で神を意味する「ヤ」が脱落して、「ハタ」と呼ばれるようになったと考えられます。つまり八幡神とは秦氏のルーツとなるユダ族の神であることから、古代、多くの八幡神社は秦氏の働きにより建立されたのです。

それ故、八幡神として秦氏に崇められた応神天皇も、同じユダ族の出自であると考えることができます。旧約聖書にはイスラエルのユダ族から王が輩出されることが明記されています。古文書には、応神天皇の時代に秦氏が大挙して日本に渡来したことが記載されていますが、それは正に、秦氏と応神天皇が同族であることの裏付けであり、ユダ族を中心としたイスラエル系の渡来者が日本を訪れたことを象徴しています。すると日本の天皇家も、王系ユダ族の血統を引き継いでいるかもしれません。

また、聖書にはユダ族の象徴となる動物が「獅子」であると明記されています。その「獅子」の様相を反映したと思えるのが狛犬 (こまいぬ) です。多くの八幡神社では、境内に石で造られた狛犬の像が安置されています。狛犬は、古くから秦氏の手がけた神社に散見され、秦河勝 (はたのかわかつ) が祀られている大避神社の社殿前にも左右に一対置かれています。その後、狛犬は徐々に広まり、平安時代には多くの神社に定着しました。今日、狛犬は日本全国各地の寺社で見かけることができます。

この「狛犬」こそ、ユダ族の象徴である「獅子」の名残ではないでしょうか。つまり秦氏が創設に関わった神社においては、ユダ族のシンボルでもあった獅子を安置することにより、ユダ族である秦氏の存在を密かにアピールしていたと考えられます。そしてあからさまに「獅子」と呼んでしまうと、ユダ族の出自を誇張することになりかねないことから、あえて「狛犬」と呼ぶようになったと推測されます。

応神天皇が「ホムタワケ」と称された所以

日本書紀において誉田天皇と称され、八幡神として祀られている応神天皇の諡号には、「誉田別」(ホムタワケ) や、「誉田天皇広幡八幡麿」(ホムタノスメラミコト・ヒロハタ・ヤハタマロ) が知られています。前者は古事記において、同じ「ホムタワケ」という発音に「品陀和気」という異なる漢字が当てられています。これは「ホムタワケ」が外来語であり、漢字が任意に当てられていることを意味しています。一見、日本語として不可解な「ホムタワケ」という発音ですが、ヘブライ語で読むことにより、その意味が明確になるだけでなく、応神天皇の使命と、そこに潜むイスラエルとの繋がりを見出すことができます。

まず、「誉田別」ですが、「ホムタ」はヘブライ語のחומה(homah、ホマッ) が語源と考えられ、「壁」や「城壁」を意味し、「神殿を囲む城壁」、「神殿を守る壁」という表現をする際にも使われました。その形容詞形がחומת(homah、ホマッ) であり、ほぼ同等の発音です。またחומתה (homatah、ホムタ) とすると「彼女の壁」という意味になります。

また、ヘブライ語には「初子を生む」、「最初にできる」という意味のבכר(biker、ビケー) という言葉があります。その語源から派出したבכור(bikor、ビコー) という「初子」、「長子」という言葉も聖書では使われています。この「ビコー」「バケー」が「ホムタワケ」の「ワケ」にあたる語源と推測されます。

国家を失った古代イスラエルの民にとって、神が住まわれる神殿の城壁を再建することは永遠のテーマでした。その取組が、遂に日本列島で立ち上げられようとしていたのではないでしょうか。よって、新天地において最初に神殿の壁を立ち上げることに着手したとされる王、すなわち、応神天皇を「ホムタワケ」と称したのです。それはヘブライ語で「城壁の初子」、つまり「最初の壁が生まれた」ことを意味していたと考えられます。

「スメラミコト」をヘブライ語で読む

応神天皇のもう1つの諡号である「誉田天皇」(ホムタノスメラミコト) には、天皇の称号として用いられる「スメラミコト」の読みが含まれています。スメラはヘブライ語でשם אל(sum el、スメル) と書くことができます。「スム」「シェム」は置く、もしくは「名」を意味します。「エル」は「神」を指す言葉です。よって「スムェル」「スメル」とは、「神の名」もしくは「神を置く」、「神を掲げる」という意味になります。

続く「ノ」は「乃」とも書かれ、ヘブライ語ではנו(na、な!) と書きます。この言葉は、「さあ、行こう!」、「来たれ!」という励ましの掛け声にもなります。よって、「ホムタ(ノ)スメラミコト」の意味はヘブライ語で、「最初の壁が立ち上がり、神を掲げる、来たれ!」という号令だったと考えられます。

「広幡八幡麿」の意味とは

次に「広幡八幡麿」の「広幡」(ヒロハタ)ですが、これはヘブライ語で「ユダ族の丘陵」「ユダ王国の丘」を意味するהריהודה(hirifudah、ヒリフダ) と発音する言葉が訛って「ヒロハタ」になったと考えられます。「麿」もしくは「麻呂」(マロ)の語源はמלא(male、マレ) であり、ヘブライ語では「満ちる」「完全な」「達成する」を意味します。そしてユダ族を意味する「八幡」 (ヤハタ) と合わせて八幡麿(ヤハタマロ)とすると、「ユダ族が満ち溢れる」「ユダ族が完結する」という意味になります。

「誉田天皇広幡八幡麿」(ホムタノスメラミコト・ヒロハタ・ヤハタマロ)の意味が、通しで見えてきました。この名前には、「初代の壁が立ち上がり、神を掲げる、来たれ!王国の地でユダ族が完結する」というメッセージがヘブライ語で込められていたのです。これは日本へ渡来したイスラエル人の中でもユダ族を中心とした信仰のメッセージであり、人々を激励する言葉でもあったのです。この号令により、日本の古代史が大きく動き始めます。

見えてきた古代大和朝廷

応神天皇は3世紀後半から4世紀初めに在位した天皇です。時期を同じくして、大和朝廷が奈良の盆地を中心に大きく発展しました。特に奈良の桜井市にある三輪山近郊に大和朝廷の本拠地が構えられた頃から、その発展は確かなものとなりました。大和(ヤマト)という言葉は単なる地名としてだけではなく、日本そのものを言い表す時にも使われ、また、ヘブライ語では「神の民」を意味する言葉でもあります。

大和朝廷の成立には諸説がありますが、いずれにしても3世紀後半より近畿地方において天皇を中心とした政治勢力が台頭した背景には、イスラエルの文化を携えてきた古代の原日本人、及び、「誉田天皇広幡八幡麿」という号令を頼りに朝鮮半島より海を渡った膨大な数の秦氏を始めとする大勢の渡来人の働きがあったことに違いありません。そのイスラエルの民は遅くとも紀元前6~7世紀頃から日本に渡り始めたと推定され、応神天皇以降の時代には秦氏を中心とする多くの渡来人が押し寄せ、日本各地に拠点を構えるようになったと考えられます。

その秦氏については「新撰姓氏録」や「秦氏本系帳」に記載されているとおり、応神天皇より一世代前の仲哀天皇の時代においても、秦氏である功満王が日本に渡来したという記述があります。これらの記述は氷山の一角に過ぎず、実際にはそれ以前より、大勢のイスラエルの民が長い年月を経て海を渡り、日本にやって来たと考えられます。そして秦氏もその名前から察するに、出自はユダ族であると推測されます。

ユダ族には、先祖代々より語り継がれてきた旧約聖書の教えがありました。それは新天地において、失われたエルサレムの都を再建し、そこで神の降臨を待つことです。そしてユダ族の王に代表される大勢のイスラエルの民は、遥かアジア大陸の東端の大海に浮かぶ日本という新しい約束の地に辿り着き、そこで先祖代々の言い伝えどおり、エルサレム神殿の再建を待ち望むことになったのではないでしょうか。

大和朝廷はじまりに貢献した秦氏

そして時が満ちた3世紀後半、ユダ族の王の血筋を引く応神天皇は、神殿の再建を手がけるという天命を悟り、「誉田天皇広幡八幡麿」という号令をもって、大勢のイスラエルの民を大和に結集する合図としたと考えられます。その時、朝鮮半島の秦韓において大きな勢力となっていた同じユダ族の末裔である秦氏は、満を持して日本列島へ移住を開始し、海を渡ったあかつきには資金や技術面で、天皇の働きを後押しすることになります。そして秦氏らと行動を共にしてきた祭司の役目を司るイスラエルのレビ族の末裔は、引き続き祭祀として、日本列島各地に神を祀る社を建立し、国家の創設に貢献してきたのです。古代大和朝廷が誕生した背景には、秦氏に代表されるユダ族を中心とする大勢のイスラエル人の貢献があったのです。

奈良県桜井市にある纒向遺跡から昨今、発掘された巨大な建物跡の調査においては、纒向遺跡は単なる住居ではなく、祭祀殿である可能性が極めて高いことがわかりました。つまり生活するには不便な為、住居としては考えにくいが、時折、大勢の民が集まるには都合のよい建物(祭祀殿)であると推定されたのです。また、纒向近郊は前方後円墳の発祥の地でもあり、遺跡から発掘された出土品には、木製の仮面や鳥形、導水施設跡など、祭祀に関する各種遺物や遺構が見つかっています。特筆すべきは、出土した土器の中には、関東から北九州が原産地であると考えられる物が多数含まれていたことです。もしかすると、これらの遺物の多くは、大陸より渡来して日本全国に拠点を構えていた秦氏らを中心とするイスラエルの民が、大和朝廷の誕生を祝して全国各地から天皇の元に持ち込んだ物かもしれません。それ故、発掘される遺物の多くは秦氏の拠点であった新羅系のものや、北アジア系のものが多く見られるのではないでしょうか。これらの遺跡調査の結果も、今後、目を離すことができません。

古代史解説 第16回 ~アマテラス・スサノオの誓(うけ)いの御子神(五柱)~



【杣 浩二 氏 特別講義】古代ユダヤと日本:日本人の大切な使命とは。

宇佐神宮 - Wikipedia uz עוז 避難する ענת üth 助ける עוש ush 集まる

宇佐神宮 - Wikipedia
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避難する


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33,af3*
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שש 
עוז
 üz
hiph. ithsha
せる, 避難する
。。。


ush: To hasten, to be eager, to be swift

Original Word: עוּשׁ
Part of Speech: Verb
Transliteration: `uwsh
Pronunciation: oosh
Phonetic Spelling: (oosh)
KJV: assemble self 
NASB: hasten
Word Origin: [a primitive root]


Joel 3:11
HEB: ע֣וּשׁוּ וָבֹ֧אוּ כָֽל־
NAS: Hasten and come, all
KJV: Assemble yourselves, and come,
INT: Hasten and come all

1 Occurrence

ヨエル書

oosh

オーシ

終える

。。。。


A primitive root; to be strong; causatively, to stregthen, ie (figuratively) to save (by flight) -- gather (self, self to flee), retire.


https://biblehub.com/hebrew/5756.htm


Lexical Summary
uz: To take refuge, seek protection, find shelter

Original Word: עוּז
Part of Speech: Verb
Transliteration: `uwz
Pronunciation: ooz
Phonetic Spelling: (ooz)
KJV: gather (self, self to flee), retire 
NASB: bring, flee for safety, safety, seek refuge, sought refuge, take refuge
Word Origin: [a primitive root]

1. to be strong
2. causatively, to stregthen, i.e. (figuratively) to save (by flight)


Exodus 9:19
HEB: וְעַתָּ֗ה שְׁלַ֤ח הָעֵז֙ אֶֽת־ מִקְנְךָ֔
NAS: therefore send, bring your livestock
KJV: Send therefore now, [and] gatherthy cattle,
INT: Now send bring your livestock Every

ウーズ
勇気
。。。。

Definition and Core Idea. עֵזֶר denotes assistance rendered at a point of real need, whether by God or by a fellow human being.


発音はエゼル


https://biblehub.com/hebrew/5828.htm


Lexical Summary
ezer: help, helper, helpers

Original Word: עֵזֶר
Part of Speech: Noun Masculine
Transliteration: `ezer
Pronunciation: AY-zer
Phonetic Spelling: (ay'-zer)
KJV: help 
NASB: help, helper, helpers
Word Origin: [from H5826 (עָזַר - help)]


Englishman's Concordance

Genesis 2:18
HEB: אֶֽעֱשֶׂהּ־ לּ֥וֹ עֵ֖זֶר כְּנֶגְדּֽוֹ׃ 
NAS: I will make him a helper suitable
KJV: alone; I will make him an help meetfor him.
INT: to be alone will make A helpersuitable

Genesis 2:20
HEB: לֹֽא־ מָצָ֥א עֵ֖זֶר כְּנֶגְדּֽוֹ׃ 
NAS: there was not found a helpersuitable
KJV: there was not found an help meetfor him.
INT: not found A helper suitable

Exodus 18:4
HEB: אֱלֹהֵ֤י אָבִי֙ בְּעֶזְרִ֔י וַיַּצִּלֵ֖נִי מֵחֶ֥רֶב
NAS: of my father was my help, and delivered
KJV: of my father, [said he, was] mine help, and delivered
INT: the God of my father was my helpand delivered the sword

Deuteronomy 33:7
HEB: רָ֣ב ל֔וֹ וְעֵ֥זֶר מִצָּרָ֖יו תִּהְיֶֽה׃
NAS: he contended for them, And may You be a help against
KJV: be sufficient for him; and be thou an help [to him] from his enemies.
INT: his hands be sufficient help his adversaries become

Deuteronomy 33:26
HEB: רֹכֵ֤ב שָׁמַ֙יִם֙ בְעֶזְרֶ֔ךָ וּבְגַאֲוָת֖וֹ שְׁחָקִֽים׃
NAS: the heavens to your help, And through the skies
KJV: upon the heaven in thy help, and in his excellency
INT: rides the heavens to your help his majesty the skies

Deuteronomy 33:29
HEB: בַּֽיהוָ֔ה מָגֵ֣ן עֶזְרֶ֔ךָ וַאֲשֶׁר־ חֶ֖רֶב
NAS: Who is the shield of your help And the sword
KJV: the shield of thy help, and who [is] the sword
INT: the LORD is the shield of your helpand sword

。。。。。。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%A5%9E%E5%AE%AE

宇佐神宮

曖昧さ回避 宇佐八幡宮」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「宇佐八幡宮 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
曖昧さ回避 宇佐神社」はこの項目へ転送されています。東京都世田谷区にある神社については「宇佐神社 (世田谷区)」をご覧ください。

宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社式内社名神大社3社)、豊前国一宮勅祭社旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

全国最多の約44,000社ある八幡宮の総本社とされる。通称として宇佐八幡とも呼ばれ、石清水八幡宮筥崎宮(または鶴岡八幡宮)と共に日本三大八幡宮の一つで、古代においては伊勢神宮と共に二所宗廟として扱われた[1]

概要

大分県北部、国東半島付け根に立つ御許山(標高647メートル)山麓に鎮座する。本殿は小高い丘陵の小椋山(亀山)山頂に鎮座する上宮とその山麓に鎮座する下宮とからなり、その周りに社殿が広がっている。境内は国の史跡に指定され、本殿3棟は国宝に指定されている。

延喜式神名帳にはそれぞれ「八幡大菩薩宇佐ノ宮」「比売神ヒメカミ」「大帯姫オホタラシヒメノ廟神社」と記されており[2]八幡宇佐宮などとも呼ばれた。また、神仏分離以前には神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。

八幡宮の総本社とされ古くから皇室の崇敬を受けているほか、称徳天皇時代の宇佐八幡宮神託事件でも知られる。参拝は一般と異なり、二拝拍手一拝を作法としている。

  • 表参道

    表参道

祭神

主祭神は以下の3柱。

主神は、一之御殿に祀られている八幡大神応神天皇であるが、ただ実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神であり、なぜそうなっているのかは謎とされている。また下宮でも主祭神は同じであるが、一之神殿の相殿には大神祖神社として大神比義命(おおがのひぎのみこと)が祀られる。

歴史

創建

宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮御託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)であるとする説や、大分県中津市薦神社(こもじんじゃ)も元宮として有力視されている。

また、社伝等によれば、欽明天皇32年(571年?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある[3]。宇佐神宮をはじめとする八幡宮の大部分が応神天皇(誉田天皇)を祭神とするのはそのためと考えられる。

当社南に立つ御許山山頂には奥宮として3つの巨石を祀る大元神社があり、豪族宇佐氏磐座信仰が当初の形態であろうともいわれている。そこに、辛嶋氏[注 1]比売大神信仰を持ち込んだと考えられるが、古来からのヒメヒコ文化も考えあわせればヒメガミ信仰は当時には当然のことであったと考えられる。辛嶋氏は後に宇佐辛嶋郷に住み、辛嶋郷周辺に稲積六神社(いなずみろく、稲積神社とも)、乙咩神社(おとめ)、さらに酒井泉神社、郡瀬神社(ごうぜ。昔は瀬社とも)と社殿を建築した。

崇峻天皇年間(588年? - 592年?)に鷹居社(たかいしゃ)が建てられた[注 2]

飛鳥時代

大化6年(650年)前後、須佐之男命大国主命天穂日命)らが開拓したとする出雲国に八幡宮の建立を勧請した(松崎八幡宮須佐神社[4]

奈良時代

社殿は、宇佐亀山に神亀2年(725年)に一之殿が造営された。以後、天平元年(729年)に二之殿、弘仁14年(823年)に三之殿が造営されて現在の形式の本殿が完成したと伝えられている。

天平12年(740年)の藤原広嗣の乱の際には、官軍の大将軍の大野東人が決戦前に戦勝を祈願した。また、天平15年(743年)の東大寺造営の際に宮司等が託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強めた。

神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮託宣事件道鏡事件)では皇位の継承まで関与するなど、伊勢神宮に次ぐほどの皇室宗廟として崇拝の対象となり繁栄し、信仰を集めた。

平安時代

平安時代中期の『延喜式神名帳』には、3神が「豊前国宇佐郡 八幡大菩薩宇佐宮」、「豊前国宇佐郡 比売神社」、「豊前国宇佐郡 大帯姫廟神社」として記載され、いずれも名神大社に列している。

また、平安時代に大宮司の大神氏(おおがし)が武家などに分かれていったため、空位になった大宮司に、宇佐氏がつき宇佐神宮は神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の荘園領主となった。また神職家や坊官家は武士としても活動しており[注 3]、このため近郊の(特に豊後国の)有力武士としばしば敵対している。

源平争乱期には平清盛の娘を妻とする大宮司・宇佐公通平氏方につく。屋島の戦いから敗走する総大将・平宗盛平家一門は宇佐神宮を頼って束の間安徳天皇と共に公通の舘に滞在していたが、豊後緒方惟義源氏方について叛逆したこともあり庇護しきれなかった(このとき悲嘆した平清経が自殺したという場所に、小松塚と呼ばれる石碑と五輪塔がある)。またこのとき緒方氏によって神宮が焼討ちにあったという。この焼討ちの時、神体(金の延べ棒との説もある)が強奪された。この後発見されるが、朝廷の裁定により石清水八幡宮が管理することになった[注 4]

中世以降

鎌倉時代元寇でも当時の他の社寺同様に加持祈祷を行っている。この際に活躍した宇佐公世(公通の玄孫)は、社領回復に成功して中興の祖と仰がれた。その子・宇佐(到津)公連鎌倉幕府倒幕においても活躍して、後に懐良親王擁立に参加している。

戦国時代には豊後の守護戦国大名大友氏と、豊前国に手を伸ばしていた中国地方の覇者大内氏(のちには毛利氏)との間で板挟みになり、大内氏の庇護下に入り大友氏と対立した。特に大内盛見大内義隆の代には手厚く保護され、消失した社殿の造営や復興が行われた。また、宇佐神宮には大内氏から贈られた神宝もいくつか残されている。しかし、大寧寺の変により大内義隆が滅びると後ろ盾を失い、大友宗麟の手で再び焼き討ちされ、このときは大宮司宮成公建らは北九州市到津八幡まで逃げ延びることとなった。

豊臣秀吉の九州平定後、豊前には毛利氏、ついで黒田氏と相次いで有力大名が進駐した。

江戸時代には、宇佐一帯は中津藩佐賀藩飛び地・天領などが複雑に入り組む土地となった。その中に、幕府から寄進された宇佐神宮の神領も存続することになった。

1871年明治4年)には近代社格制度において、「宇佐神社」として官幣大社に列格された。

神職

宇佐神宮の神職を束ねる大宮司は、大神氏が務めた。

平安時代中頃までは大神氏が務めたが、宮司職を子孫の祝氏小山田氏へ譲り、その後全く名を見なくなっていた菟沙津彦 (ウサツヒコ) らの子孫・宇佐氏が出てから歴代祝職となり、宇佐氏である宮成家到津家岩根家安心院家が世襲して一族で大宮司を争うことになる。

鎌倉時代末期の宇佐公世の代から宇佐氏は2家に分かれ、兄の公成が宮成家、弟の公連が到津家を称した。以後この2家が交互に大宮司職を継ぎ明治に至っている。なお、一時宇佐氏一族の出光家も大宮司となっている。

戦後、祝家宮成家が男爵を返上し宇佐氏に復して祭祀を離れ、以後は到津家が継承し祭祀を行っていた。平成16年(2004年)ごろより到津宮司に代わって代務者が置かれるようになった。

宮司の継承を巡る騒動

2006年平成18年)、中津市薦神社宮司(始祖は宇佐春海権大宮司)が79代宇佐神宮宮司に就任した。夕刊フジによると、神職になって間もない世襲家の女性(78代宮司の長女)の代役だったという[5]。79代宮司が2008年平成20年)8月に病死すると、宇佐神宮の責任役員会は、権宮司となっていた世襲家の女性を後任の宮司として神社本庁に推薦したが、神社本庁側は女性が経験不足であるとして承認せず、宮司職は空席になった[5]

2009年平成21年)に神社本庁が大分県神社庁の穴井伸久庁長を特任宮司に選出する[6][7]と、宇佐神宮の責任役員会と氏子総代会はこれに反対して、女性権宮司の80代宮司就任を決め、神社本庁へ離脱届を提出した[7][8][9]

女性権宮司は2010年平成22年)3月に神社本庁を相手取り宮司職の地位保全を求めて大分地裁中津支部に提訴するものの、請求棄却となり敗訴、2011年平成23年)11月29日には福岡高裁でも控訴棄却で敗訴[10]。最高裁にて2013年平成25年)5月9日、女性側の上告が退けられ、敗訴が確定した[11]

2013年平成25年)、宮司の地位が認められなかった女性権宮司が、職場環境や業務内容に不満を抱き改善を要求し裁判を起こしたが、それに対し、神宮側は女性権宮司の勤務態度に問題があるとして給与を大幅カットした。対立から社務所で小競り合いがあり、女性権宮司が全治3週間のけがを負わされたとして男性権宮司を告訴した[12]

2014年平成26年)5月15日、神社本庁は女性を権宮司から免職し、宇佐神宮は女性を解雇した[13]

2015年平成27年)12月、宇佐神宮の氏子総代と大分県神社庁宇佐支部の役員が、穴井宮司には職務遂行能力が欠如しているとして、解任を求める嘆願書を神社本庁へ提出した[14]。翌2016年平成28年)、穴井宮司は神社本庁統理の北白川道久宛に2月2日付で退職願を提出[15]し、同月19日に受理された[16]

同月、神社本庁前総務部長で大分県大分市にある早吸日女神社宮司の長男が後任の宮司に就任したが[16]2017年平成29年)5月には大分県神社庁宇佐支部が、新宮司は高圧的・独善的で、関係修復をする心は皆無であるとして、宇佐神宮の祭典への協力や寄付要請を拒否することを決議するとともに、支部事務局を宇佐神宮内から宇佐市内の桜岡神社に移し、両者は絶縁状態になった[17][18]

神階

八幡大菩薩宇佐宮
比売神社

境内

建造物
  • 上宮本殿 (一之御殿、国宝) 様式は「八幡造」といわれ、2棟の切妻造平入の建物が前後につながった形をとる。奥殿は「内院」・前殿は「外院」といわれる。内院には御帳台(祭神の夜の座所)があり、外院には御椅子(昼の座所)が置かれている。一之御殿は万延元年(1860年)、二之御殿は安政6年(1859年)、三之御殿は文久元年(1861年)の建立で、いずれも国宝。
    上宮本殿 (一之御殿、国宝)
    様式は「八幡造」といわれ、2棟の切妻造平入の建物が前後につながった形をとる。奥殿は「内院」・前殿は「外院」といわれる。内院には御帳台(祭神の夜の座所)があり、外院には御椅子(昼の座所)が置かれている。一之御殿は万延元年(1860年)、二之御殿は安政6年(1859年)、三之御殿は文久元年(1861年)の建立で、いずれも国宝。
  • 下宮(御炊宮(みやけみや) )

    下宮御炊宮みやけみや

  • 西大門 (さいだいもん) 文禄(1592年 - 1596年)頃の建造とされ、安土桃山時代の様式。
    西大門 さいだいもん
    文禄1592年 - 1596年)頃の建造とされ、安土桃山時代の様式。
  • 呉橋(くれはし) 西参道途中、屋根のついた神橋。鎌倉時代以前からあるとされ、呉の国の人が掛けたという伝承がある。県指定文化財。
    呉橋くれはし
    西参道途中、屋根のついた神橋。鎌倉時代以前からあるとされ、の国の人が掛けたという伝承がある。県指定文化財。
  • 南中楼門 (勅使門)
入母屋造檜皮葺。神宮内郭の南正門で、通常は開かない。県指定文化財。
  • 宇佐鳥居
西大門前に立つ木造鳥居。宇佐古来の形式をもち、額束はなく台輪を柱上に置く。県指定文化財。
  • 高倉 (たかくら)
寄棟造檜皮葺。県指定文化財。
  • 頓宮 (とんぐう)
御旅所に相当する。神幸祭の際に祭神が一時滞在する。
その他
  • 菱形池 - 神池
  • 初澤池
  • 寄藻川 - 御許山に源を発して当社神域を流れる川

なお、古くは弥勒寺という神宮寺(正確には石清水八幡宮に属する)があったが、廃仏毀釈により取り壊され、礎石のみが残っている。かつて同寺があった場所の北側には、社務所に相当する神宮庁と神宝を収める宝物館が存在する。

摂末社

摂社

境内社
  • 若宮神社
    • 祭神:若宮五神(仁徳天皇以下5柱の通称)[注 5]
    • 下宮から上宮への参道途中に鎮座。
  • 住吉神社
    • 祭神:住吉三神
    • 上宮楼門内に鎮座。神功皇后の脇殿。
  • 黒男神社
  • 春宮神社 (とうぐうじんじゃ)
  • 宇佐祖神社
境外社
  • 大尾神社 (おおじんじゃ)
    • 祭神:八幡大神
    • 境内東方に立つ大尾山頂に鎮座。八幡大神が奈良への行幸ののち、上宮に移るまで鎮座したとされる。
  • 大元神社 (おもとじんじゃ) - 奥宮
    • 境内南方に立つ御許山(おもとさん)山頂に鎮座。御許山は、比売大神が地上に最初に降り立った地とされている。3つの巨石を比売大神(宗像三女神)の顕現として祀る。日本書紀第六段第三の一書には宇佐島に降り立ちその後宗像に遷座とあり、神社では宇佐島を当地に比定する。
行幸会八社(境外社)
当社と関係が深い境外8摂社で、かつては数年ごとに巡行する行幸会が行われていた。
  • 大根川神社 (宇佐市佐野)
  • 乙咩神社 (宇佐市下乙女)
  • 泉神社 (宇佐市辛島泉)
  • 郡瀬神社 (宇佐市樋田)
  • 鷹居神社 (宇佐市東上田)
  • 田笛神社 (豊後高田市界)
  • 妻垣神社 (宇佐市安心院町妻垣大門)
  • 小山田神社 (宇佐市北宇佐)

末社

境内社
  • 春日神社 - 祭神:天児屋根命。上宮楼門内に鎮座。八幡大神の脇殿。祭神の天児屋根命は、神功皇后を助けたとされる
  • 八子神社 (やこじんじゃ) - 祭神:八幡大神の八王子。上宮回廊の楠の木に鎮座(社殿はない)
  • 亀山神社 - 祭神:大山積尊。亀山中腹に鎮座。祭神は亀山(上宮が鎮座する山の名前)の神
  • 八坂神社 - 祭神:須佐之男命。下宮近くに鎮座
  • 木匠祖神社 (もくしょうそじんじゃ) - 祭神:手置帆負命、比古狭知命。菱形池近くに鎮座。祭神は職人の守護神
  • 水分神社 (みくまりじんじゃ) - 祭神:高龗神天水分神国水分神天汲匏持神国汲匏持神。境内の菱形池の小島に鎮座
  • 天満神社 - 祭神:菅原道真
  • 護皇神社 - 祭神:和気清麻呂。大尾山中腹に鎮座
  • 北辰神社 - 祭神:本宮の地主神と伝えられる造化三神。上宮楼門内に鎮座。比売大神の脇殿といわれる。社殿は県指定文化財

など、末社は他にも多数鎮座する。

祭事

式年祭

  • 臨時奉幣祭(勅使祭)
10年に1度行われる(前回は平成27年10月6日)。
奈良時代の天平年間から平安時代まで、天皇の代替わりなど重要時には宇佐使(うさづかい)という勅使が朝廷から派遣されていた。宇佐八幡宮神託事件にちなみ、宇佐使は和気清麻呂の子孫である和気氏が務めるのが通例であった(ただし菅原道真が左遷された際などには藤原氏から人選されている)。なお宇佐使は建武期に復活したが、再び停止された。
延享元年(1744年)に復活し、大正時代から皇室から侍従職あるいは掌典職などの勅使が10年おきに派遣される勅使祭となって現在も続いている。

年間祭事

宇佐神宮 年間祭事一覧[表示]

文化財

当宮の建築様式は八幡造と呼ばれ、本殿は国宝に指定されている。また、宝物館には国宝・孔雀文磬(くじゃくもんけい)ほか多数の文化財を収めている。

国宝

  • 本殿 (第一殿から第三殿に至る3棟)
  • 孔雀文磬 (くじゃくもん けい) - 個人所有(宇佐神宮が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている[注 6])。鎌倉時代、承元3年(1209年)銘。宇佐神宮の神宮寺の弥勒寺に伝来したもの。

重要文化財(国指定)

  • 木造神像5躯(若宮神体)
    • 大鷦鷯命(おおさざきのみこと)坐像
    • 大葉枝皇子(おおばえのみこ)坐像
    • 小葉枝皇子(こばえのみこ)坐像
    • 雌鳥皇女(めどりのみこ)坐像
    • 隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)坐像(若宮鎮座)
  • 銅鐘(朝鮮鐘) - 天復四年(904年)云々の左文銘あり。日本にある朝鮮鐘の中では2番目に古い
  • 白鞘入剣(しらさやいり けん) - 長さ93.5cm、両鎬造り。正平13年(1358年懐良親王征西大将軍として活躍している際に、武運長久を祈願して奉納した剣
  • 豊前国宇佐宮絵図[注 7]
  • 宇佐神宮造営図 3幅
  • 宇佐宮神領大鏡 - 個人所有(宇佐神宮が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている[注 8]

出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

史跡(国指定)

  • 宇佐神宮境内

天然記念物(国指定)

  • 宇佐神宮社叢

大分県指定文化財

宇佐神宮 大分県指定文化財一覧[表示]

現地情報

所在地
上宮参拝時間
  • 4月から9月:5時30分から21時
  • 10月から3月:6時から21時
  • 祈祷の受付は9時から16時
交通アクセス

バス

補足事項

  • 高齢者・車椅子参拝者の便宜を図るため、スロープカーが2013年(平成25年)10月、上宮参拝用に設置された。
  • 1965年までは、日豊本線宇佐駅からこの地までのアクセスを担った大分交通宇佐参宮線が存在した。当時の蒸気機関車が境内近くに保存されている。

脚注

注釈

  1. スサノオの子・五十猛命が始祖とされる氏族で、当初は香春岳山麓に住み、その後現在の中津市大貞薦神社で神官もしくは巫女を務めていたとされている。
  2. 稲積六神社・稲積神社は、宇佐市宇中561。乙咩神社は同下乙女宮本1343。酒井泉神社は、同辛島泉1。郡瀬神社は、同樋田字瀬社187-1。鷹居社は、同上田字1435。
  3. 例えば豊臣政権期に黒田氏が中津に赴任してきた際、大宮司家のひとつ宮成氏や坊官家の時枝氏が黒田氏の配下に入ったことが知られている。
  4. なお、神社としての石清水八幡宮はもともと宇佐神宮から八幡神を分霊したものであり、宇佐神宮のほうが本社である。しかし寺院としては宇佐八幡宮弥勒寺が石清水八幡宮護国寺の末寺という関係にあり(いずれも天台宗)、石清水八幡宮のほうが京に近く朝廷から直接崇敬されたこともあり、その後も「どちらが格上か」については宇佐神宮と石清水八幡宮の間で意見の相違があった。
  5. 摂社に関しては、公式サイトのほか、宇佐八幡摂末社(国東半島かぜ発信[個人サイト])、宇佐神宮(玄松子[個人サイト])を参考に記載。
  6. 管理団体指定告示は昭和58年6月17日文化庁告示第12号
  7. 平成25年6月19日文部科学省告示第113号
  8. 管理団体指定告示は昭和58年6月17日文化庁告示第12号

出典

  1. "宇佐市について". 宇佐市観光協会. 2012年1月1日閲覧。 "古代より栄え-、神仏習合の八幡神が誕生し-、内なる伊勢、外なる八幡の二所宗廟として発展-"normal
  2. "延喜式神名帳註". 国書データベース. 国文学研究資料館. 2025年3月26日閲覧。normal
  3. 扶桑略記』(『東大寺要録』、『宮寺禄事抄』)。
  4. 松崎八幡宮」(山口県萩市須佐)。須佐神社(島根県出雲市佐田町須佐)は『出雲国風土記』に須佐社として掲載。
  5. ^ a b ""神義"なき戦い!? 世襲家vs神社本庁の深い対立". ZAKZAK (夕刊フジ). (2009年3月16日). オリジナルの2016年9月20日時点におけるアーカイブ。 2024年1月17日閲覧。normal 
  6. ^ 宇佐神宮:80代宮司に穴井さん[リンク切れ]毎日新聞、2009年3月4日
  7. ^ a b 宇佐神宮の宮司職 法廷闘争へ【大分のニュース】 大分合同新聞[リンク切れ]
  8. ^ 宇佐神宮:宮司が2人 神社本庁VS氏子総代会 法廷闘争も[リンク切れ]毎日新聞、2009年3月9日
  9. ^ 宇佐神宮:後継争い、訴訟も検討 新宮司選出に世襲側反発[リンク切れ]毎日新聞、2009年3月8日
  10. ^ 読売新聞、2011年11月29日
  11. ^ 大分・宇佐神宮宮司訴訟:世襲家側の敗訴が確定毎日新聞、2013年5月10日
  12. ^ 宇佐神宮また火種 市民「早く正常化を」大分合同新聞社、2013年10月1日
  13. ^ "宇佐神宮の世襲家を権宮司から免職 神社本庁、異例の措置に「やむを得ず」". 産経ニュース (産経新聞). (2014年5月27日). オリジナルの2014年5月27日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/bz6cR 2016年5月3日閲覧。 
  14. ^ "宮司が辞任意向 宇佐神宮". 大分合同新聞. (2016年2月11日). https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2016/02/11/002801536 2016年7月23日閲覧。 
  15. ^ "宇佐神宮:穴井宮司が退職願 神社本庁に後継要請も 県支部など反対表明 /大分". 毎日新聞. (2016年2月12日). https://web.archive.org/web/20170828230351/http://mainichi.jp/articles/20160212/ddl/k44/040/186000c 2016年7月23日閲覧。 
  16. ^ a b "宇佐神宮:穴井宮司の退職願受理 後任に小野氏". 毎日新聞. (2016年2月19日). https://mainichi.jp/articles/20160220/k00/00m/040/060000c 2016年7月23日閲覧。 
  17. ^ 神社本庁「恐怖政治」の実態、地方の大神社で全面戦争も ダイヤモンド・オンライン、2017年7月5日
  18. ^ 絶縁状態 宇佐神宮と県神社庁支部、宮司就任を機に 支部側「祭り協力しない」/神宮側、歩み寄る気配なし /大分 毎日新聞、2016年6月7日


関連文献

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  • 『神道辞典』安津素彦・梅田義彦編・監修、神社新報社、1968年、新版1990年ほか、13頁
  • 『神社辞典』白井永二・土岐昌訓編、東京堂出版、1979年、新版1997年、53-54頁
  • 『日本「神社」総覧』上山春平ほか、新人物往来社、1992年、276-277頁
  • 『神道の本』学研 ブックス・エソテリカ、1992年、201頁
  • 『神道事典』國學院大學日本文化研究所、弘文堂、1994年、326頁「八幡信仰

関連項目

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外部リンク

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