2025年9月6日土曜日

鞍馬天狗 (能) - Wikipedia

鞍馬天狗 (能) - Wikipedia

鞍馬天狗 (能)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鞍馬天狗」(くらまてんぐ)は、能の演目の一つ。五番目物、天狗物、太鼓物に分類される。牛若丸伝承に題を採った曲で、大天狗と牛若丸との間の少年愛的な仄かな愛情を、華やかな前場と、山中での兵法相伝を行う後場の対比の中に描く。

作者は「能本作者註文」が宮増とするが、宮増についてはその実像がはっきりとは解っておらず、不明な点も多い。「自家伝抄」は世阿弥作と記すが、考えにくい[1]

あらすじ

春の鞍馬山、僧(ワキ)が大勢の稚児を連れて花見にやってくるが、その席に怪しい山伏(前ジテ)が上がりこんでくる。山伏の不作法な振る舞いに、僧は憤慨する能力(アイ)をなだめつつも、花見は延期として稚児たちとともに去ってしまう。山伏は人々の心の狭さを嘆くが、しかし稚児の一人である牛若丸(子方)だけはその場に残っており、山伏と親しく語り合う。牛若丸の境遇に同情した山伏は、ともに桜の名所を巡り廻り、最後に自身が鞍馬山の大天狗であることを明かして姿を消す。

翌日、約束通り鉢巻・薙刀を携えて牛若丸が待ち受けていると、各地の天狗たちを引き連れた大天狗が登場する。牛若丸の自分を想う心のいじらしさに感じ入った大天狗は、黄石公張良の兵法奥義伝授の逸話を語り聞かせる。袖を取って別れを惜しむ牛若丸に、戦場での守護を約束して、大天狗は去る。

登場人物

  • 前ジテ:山伏 - 山伏出立
  • 後ジテ:天狗 - 天狗出立
  • 前子方:牛若丸 - 児袴出立
  • 後子方:牛若丸 - 鉢巻水衣大口出立
  • 子方(前):稚児(数人) - 児袴出立
  • ワキ(前):東谷の僧 - 大口僧出立、または着流僧出立
  • ワキヅレ(前):同伴の僧 - 大口僧出立、または着流僧出立
  • オモアイ(前):西谷の能力 - 能力出立
  • アドアイ:小天狗(数人) - 小天狗出立

典拠

源義経の幼少期を題材とした能であるが、他の同趣の能と同様『義経記』からの影響はほとんど見られない。一方で舞曲御伽草子説経節古浄瑠璃とは密接な関係があり、おそらくは能を含めこれらの作品が共通して題材とした「牛若の物語」と言うべきものが流布していたものと考えられる[2]。「鞍馬天狗」はそうした物語の影響下に作られたものだが、一方「花見」という場の設定、また大天狗と牛若丸の少年愛的な交情は作者による独創であろう[2]

解説

稚児が多数出る華やかな前場に疎外された山伏と牛若丸の寂しさを描きつつ、逆に闇夜の山中に豪快な大天狗を登場させ、背景の明と暗、内容の暗と明を対照的に配置した作風が特徴的である[3]。また、天狗という「外道の魔物」を、「強きを挫き弱きを助ける」役として好意的に描いた点にも独創性があり、『能本作者註文』が宮増作とする作品では最も優れた能の一つと目される[4]

室町期の演能記録としては、1465年(寛正6年)将軍院参の際に演じられたことが「親元日記」に見られ、前年の糺河原での勧進能でも音阿弥によって演じられたとする記録があるが(『異本糺河原勧進申楽』)、不明[2]

平易な親しみやすさから広く知られるようになったと見られ、『閑吟集』にその一節が採られるほか、三重県伊賀市島ヶ原村の雨乞踊「源氏踊」、同小里の雨乞踊歌「源氏踊」、また佐賀県宮野の小浮立「牛若丸」などの民間芸能にこの曲からの影響が見られる[1]

また登場時間も短く特に所作もない牛若丸以外の子方は、能役者の子息の初舞台としてしばしば演じられる[5]

小書

小書(特殊演出)に、五流共通の「白頭」、観世流の「白式」「素翔」「素働」、宝生流の「白頭 別習」、和泉流の「大勢」が存在する。「白頭」では後ジテが白頭(白髪の鬘)を着け、全体的に緩急のある演出となる。「別習」では、常の形では名前だけが出る大天狗配下の天狗たち数人(通常7人)が実際に舞台に出る。白頭別習は「稚児揃」とも呼ばれ、功化5年の勧進能では前場で子方9人が舞台に並んだ。

脚注

  1. ^ a b 石黒吉次郎「「鞍馬天狗」をめぐって」
  2. ^ a b c 『新潮日本古典集成 謡曲集』の伊藤正義による解説
  3. 横道萬里雄; 表章『岩波日本古典文学大系 謡曲集』下巻(岩波書店、1960年、ISBN 9784000600415)解説
  4. 竹本幹夫「能作者の宮増の作品と作風(上)」pp. 27-28
  5. 岩波講座 能・狂言VI

参考文献

関連項目

能・演目事典:鞍馬天狗:あらすじ・みどころ

能・演目事典:鞍馬天狗:あらすじ・みどころ

鞍馬天狗(くらまてんぐ)


『能之図(上)』より「能 鞍馬天狗」
国立能楽堂提供:『能之図(上)』より「能 鞍馬天狗」

あらすじ
春の京都、鞍馬山。ひとりの山伏が、花見の宴のあることを聞きつけ、見物に行きます。稚児を伴った鞍馬寺の僧たちが、花見の宴を楽しんでいると、その場に先の山伏が居合わせていたことがわかります。場違いな者の同席を嫌がった僧たちは、ひとりの稚児を残して去ります。

僧たちの狭量さを嘆く山伏に、その稚児が優しく声をかけてきました。華やかな稚児に恋心を抱いた山伏は、稚児が源義朝の子、沙那王[牛若丸]であると察します。ほかの稚児は皆、今を時めく平家一門で大事にされ、自分はないがしろにされているという牛若丸に、山伏は同情を禁じ得ません。近隣の花見の名所を見せるなどして、牛若丸を慰めます。その後、山伏は鞍馬山の大天狗であると正体を明かし、兵法を伝授するゆえ、驕る平家を滅ぼすよう勧め、再会を約束して、姿を消します。

大天狗のもと武芸に励む牛若丸は、師匠の許しがないからと、木の葉天狗との立ち合いを思い留まります。そこに大天狗が威厳に満ちた堂々たる姿を現します。大天狗は、牛若丸の態度を褒め、同じように師匠に誠心誠意仕え、兵法の奥義を伝授された、漢の張良(ちょうりょう)の故事を語り聞かせます。そして兵法の秘伝を残りなく伝えると、牛若丸に別れを告げます。袂に縋る牛若丸に、将来の平家一門との戦いで必ず力になろうと約束し、大天狗は、夕闇の鞍馬山を翔け、飛び去ります。

みどころ
源義経の幼少時代を題材にした物語です。花盛りの鞍馬山を背景に、威厳ある大天狗と華やかな牛若丸との師弟の絆を中心に、情趣に富んだ多彩な場面が展開されます。

前半では、大勢の可憐な稚児の登場あり、寺男の小舞あり、高僧のお高くとまった物言いありと、盛りだくさんの話を経て、大天狗の化身である武骨な山伏と、孤独な牛若丸との心の交流に至り、どこか詩情を誘う深山の、彩り深い雰囲気が醸し出されます。

後半には、大天狗のもと兵法を学ぶ牛若丸の、殊勝な心がけに焦点があてられます。牛若丸は師匠を大事にする、凛々しく素直な少年として描かれ、鞍馬の大天狗は、天狗たちの頭領とも目されるような、堂々たる威厳ある姿を現します。

さほど長くはありませんが、登場人物が多く、謡や所作も変化に富み、みどころに恵まれた作品です。


演目STORY PAPER:鞍馬天狗

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歴史の定説を覆す!重要文化財になったユダヤ人埴輪の正体と千葉にある芝山古墳群の謎

『日本書紀』の天武11(681)年4月に《今後、男女ともみな髪を結い上げることとし、十二月三十日までにあげ終わるようにせよ》(前掲書『全現代語訳 日本書紀』)という勅が出されています。これはミズラ廃止令と解釈されます。

旧約聖書レビ記19:27では、
《あなたがたの頭のもみあげを剃り落としてはならない。ひげの両隅を損なってはならない。》
とあります。

もみあげとミズラは違うという意見もありますが類似性は否定できません。

角髪 - Wikipedia

角髪 - Wikipedia
「今後、男も女もみな髪を結いあげることとし、十二月三十日までにあげおわるようにせよ。ただし、髪を結いあげる日はまた勅で示すから、それを待つように」
天武天皇
日本書紀


…『日本書紀』の天武11(681)年4月に《今後、男女ともみな髪を結い上げることとし、十二月三十日までにあげ終わるようにせよ》(前掲書『全現代語訳 日本書紀』)という勅を出されています。これはミズラ廃止令と解釈されます。

参考:
旧約聖書レビ記
19:27
あなたがたの頭のもみあげを剃り落としてはならない。ひげの両隅を損なってはならない。

もみあげとミズラは違うという意見もあるが類似性は否定できない。


『日本書紀』の天武11(681)年4月に《今後、男女ともみな髪を結い上げることとし、十二月三十日までにあげ終わるようにせよ》(前掲書『全現代語訳 日本書紀』)という勅が出されています。これはミズラ廃止令と解釈されます。

旧約聖書レビ記19:27では、
《あなたがたの頭のもみあげを剃り落としてはならない。ひげの両隅を損なってはならない。》
とあります。

もみあげとミズラは違うという意見もありますが類似性は否定できません。

角髪

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(2016年1月)

角髪(みずら)は、日本の上代におけるの成人男子の髪の結い方[1]美豆良(みずら)、総角(あげまき)とも。平安時代以後の子供の髪型もこの名で呼ぶことがあるが[1]、本項では上代のものについて述べる。

古墳時代の男性埴輪などに見られる。分類として、「上げ角髪」と「下げ角髪(お下げ)」があり[2]一般人に認知度が高いのは前者であり、後者は貴人(身分の高い者)の髪型である(結い方の項目に記されているのも上げ角髪の結い方である)。[要出典]

結い方

髪全体を中央で二つに分け、耳の横でそれぞれ括って垂らす。そのまま輪にするか、輪の中心に余った髪を巻きつけて8の字型に作る物とがある。総角はその変形で耳の上辺りで角型の髻を二つ作ったもので、これは少女にも結われた。

髪の輪が二つの形のもののほうが古いらしく埴輪などに見られるものはこの形が多いが、奈良時代に入ると輪が一つの形のものが主流となったことが聖徳太子像などに見える。輪が一つのものにも2種あって、毛先を納めるものとそのまま垂らすものに分かれる。

神話における記述

上代では男性でも角髪にを挿していたことが『古事記』のイザナギの黄泉下り、スサノオ大蛇退治の物語に見られるほか、アマテラスとスサノオの誓約の場面では女神のアマテラスが角髪を結う呪術的な異性装を思わせるくだりが登場する。

日本書紀』では、髻と表記されている。

角髪の由来に関して

「みずら」という言葉は、「耳に連なる」の意で、髪の形状を表した言葉とする説が有名であるが、全ての研究者が支持している訳ではなく、「美面」の意であり、ミは美称であるとする考え(筑波大学教授・増田精一説)もある[3]。増田の考察によれば、みずらとは「いい面(つら)」の意ではないかとする。その論拠として増田は、お下げ遊牧民であるモンゴル人が、おさげをクク、あるいはケクといったが、これは「いい面」の意味で、後代、中近世に広まった丁髷が大陸南方文化に多いのに対し、角髪のようなお下げ文化は大陸の北方文化にみられることと関連するものとみている[4]

備考

  • 1983年3月に、茨城県武者塚1号墳(7世紀後半)から左側の角髪(長さ約10cm)がほぼ完全な状態で出土した。出土後1年ほどたってカビが生えたため、滅菌処理の後冷凍保存された。

脚注

  1. ^ a b 「角髪」 - 精選版 日本国語大辞典、小学館。
  2. 『女性はにわ その装いとしぐさ』 埼玉県立博物館 1998年 p.67.[要検証ノート]貴人の特徴である「下げ角髪」に対し、労働に適した髪型が「上げ角髪」としている。[要出典]
  3. 『新・古代史発掘 1983 - 87年新遺跡カタログ』 1988年 朝日新聞社 p.19より参考[要検証ノート]
  4. 『新・古代史発掘 1983 - 87年新遺跡カタログ』 p.19.[要検証ノート]

関連項目

2025年9月5日金曜日

10/4 現地ロケ公開収録《埼玉》出雲神話と冬至レイラインをめぐる歴史探訪イベント | Peatix

10/4 現地ロケ公開収録《埼玉》出雲神話と冬至レイラインをめぐる歴史探訪イベント | Peatix

10/4 現地ロケ公開収録《埼玉》出雲神話と冬至レイラインをめぐる歴史探訪イベント

(土) 8:15 日本、埼玉県さいたま市大宮区吉敷町4丁目 氷川参道 By シン・きー歴史沼チャンネル

【現地参加型・公開収録イベント📸】  
茂木誠 × きーの歴史沼チャンネルコラボ企画!  
埼玉に伝わる出雲神話とレイライン信仰を、実際に現地を巡りながら深掘りしていくYouTubeロケを、公開収録スタイルで行います。  

午前の部・午後の部の2部制で、それぞれ異なる歴史テーマを設定。通し参加もOK✨  

今回は  
🔹 出雲族の関東進出  
🔹 氷川三社を貫く"冬至のレイライン"  
という2大テーマを、現地の神社や遺跡をめぐりながら、茂木先生と一緒に深掘りしていきます!

📍 当日の訪問予定地  
【午前の部】  
・鷲宮神社(境内に粟嶋神社あり)
・玉敷神社
・さきたま古墳群
・前玉神社

【午後の部】  
・中氷川神社  
・女體神社  
・氷川神社(本社)  

🗓 開催日:2025年10月4日(土)  
🕐 午前の部:8:15〜12:00 / 午後の部:13:30〜16:30  
📍 集合・解散:大宮駅「西口2階デッキ」  

🚐 移動手段:ハイエース1台で全員移動(運転協力割引あり)  
🍱 昼休憩:大宮駅周辺で自由解散(弁当支給あり/演者スタッフ分)  
🎥 収録動画:YouTube動画全6本(うち2本はメンバー限定)

⛅ 雨天決行(カッパ・雨靴など各自でご用意ください)  
※参加者も映り込む場合があります。顔出しNGの方は事前にご相談ください。

🔷注意事項・本イベントはYouTubeの公開収録を兼ねた現地ロケ企画です
・映り込みに同意いただける方のみご参加可能です(同意フォームをご記入いただきます)
・昼食は自由行動・各自調達となります(大宮駅周辺に飲食店・コンビニ多数)
・現地集合・現地解散型のイベントです(大宮駅集合・解散予定)
・雨天決行(荒天時は一部ルートを調整する可能性あり)
・運転協力いただく方には、事前に免許確認・同意書提出をお願いします

【卑弥呼と邪馬台国】その6 九州上陸・前編 高木彬光


推理作家高木彬光氏は壱岐から東に向かったと考えている。夏の風向きを考えるとそれが合理的らしい。ただし帆船があったという仮定をしている。ちなみに高木彬光氏は邪馬台国宇佐説。東への航路は邪馬台国四国説でも採用する人が多い。

宗像=末蘆説を固める材料として、神湊近くの福津市勝浦にある年毛神社に伝わる「永島文書」という古文書に「この辺りは昔は万津浦(まつうら)と呼ばれていた」という記述があったと、「ムー」の2001年11月号で取り上げられた件があります。


推理作家高木彬光氏は壱岐から東に向かったと考えています。夏の風向きを考えるとそれが合理的らしいです。ただし帆船があったという仮定をしています。ちなみに高木彬光氏は邪馬台国宇佐説です。東への航路は邪馬台国四国説でも採用する人が多いです。
宗像=末蘆説を固める材料として、神湊近くの福津市勝浦にある年毛神社に伝わる「永島文書」という古文書に「この辺りは昔は万津浦(まつうら)と呼ばれていた」という記述があったと、「ムー」の2001年11月号で取り上げられています。


高木彬光『邪馬台国推理行』(1975)に詳述

159
第二部 邪馬台国への新しい道
往々にあらわ
たしかに、造船のほうも突貫工事で進められたことだから、船そのものの構造にも若干の弱さがあっ
たのかも知れない。しかし、この時代の大型船舶だったなら、少なくとも三世紀の古代帆船よりは、造
船技術も進歩し、強度も増していたことだろう。
要するに、私のいいたいことは、この海域の航海は、たえずこのような不測の事故がおこる危険を秘
めているということである。
そして同時に、彼等が東松浦半島へいったん上陸して橋頭堡を作るというような、常識的な戦法に出
ず、直接博多湾へ向ったという事実にも御注意ねがいたい。
帆船航路にしたならば、壱岐から博多方面へ向う海路は、案外すなおな道なのである。
ここでいま一度、風向の問題を思いおこしていただきたい。
安全の上にも安全を求める航海なら、魏使たちは、八月に海を渡って来るしかない。
すいそうりゅう
とうぜん風は西または西南の方向から、対馬海流の表面に吹きつけて、いわゆる「吹送流」の現象を
おこし、海流の速度を倍にも三倍にも高めてくれる。
そして帆にはたはたと吹きよせる風は、ただでも船の速度をあげる。ほっておいても、船は自然に、
東へ東へと向うのだ。
彼等が東を目ざすかぎり、どうして中間の不要な港に上陸して、重い荷物を運搬しながらの「陸行」
で苦労する必要があるだろう。
彼等の利用した船は、とにかく朝鮮対馬間、 それに対馬 壱岐間を一気に走行できるだけの能力を
持っていたはずなのだ。
そして、現在の汽船航路を考えても、対馬 壱岐と壱岐―博多間は、ほとんど等距離、ほとんど同時
間の航行である。
目ざす目的地、邪馬台国が東にあるかぎり彼等は少なくとも博多湾まで一気に船を進めたろう。呼子

163
163
第二部 邪馬台国への新しい道
神湊と宗像神社
こうのみなと
さて、ここまで論証を進めて来れば、魏使の「神湊上陸」には、相当以上の公算があると断定して
よいだろう。
私個人としたならば、それこそ百パーセントといいたいくらい、絶対的な自信をいだいているのだ
18......0
しかし、これまでの「定説」に従うと、このあたりは、せいぜい不弥国だということになる。 末盧国、
伊都国、奴国――その中間の三つの国は消滅してしまうわけなのだ。
しかし、論理学的に見れば、この問題はなんでもない。
東松浦半島を末盧国、糸島半島を伊都国、福岡市付近を奴国と比定したのは、あくまでも後世、四百
年以上後につけられた地名の発音から生じた類推だったのである。
そして、いままでの研究は、あくまで魏使の上陸地点が、東松浦半島のどこかだという大前提の上に
成立していたといってもよい。そのために、こういう地名比定も「絶対に不動」のものと思われていた
のだった。
しかし、この上陸地点が変ったとすれば、この「大前提」も崩れてしまい、自然にこれまでの「定
「説」も瓦解してしまうのだ。
魏使たちが末盧国へ上陸した。そして、その上陸地点が宗像神湊だとなれば、宗像付近を末盧国と比
定するのは、論理的にとうぜんの帰結だし、したがって伊都国も、その東南の方向にあったと推定しな
ければならなくなる。奴国、不弥国にしたところで、さらにその東方に求めなければならないはずだ。
私はこの「神湊上陸説」を邪馬台国研究史の上で、コペルニクス的転換ではないかと思ったくらいで


と、案内役の倭人にたいして烈火のようにどなりつけるのではなかろうか?  これはとうぜんの怒りである。当時の倭国は臣礼をとってまで魏の国と親交を結ぼうとしていたのだ。その答礼使というべき使節たちに、こういう非礼非常識な道中をさせたということは、私にはとうてい考えられない。  しかも、この時代に糸島半島の北側は十ぐらいの島にわかれており、現在の唐津街道のあたりには、糸島水道とでも呼びたいような海峡があり、唐津湾と博多湾は直接この海峡を通って舟で水行できたはずである。  これについては、九大名誉教授、山崎光夫博士が作製された復元地図があり、宮崎康平氏の『まぼろしの邪馬台国』にも掲載されているから、興味のあるお方はそちらを参照していただきたい。  ということは、呼子―唐津―深江―博多と来るような沿岸ぞいの水行コースはとうぜん存在したはずだということになってくる。そしてこのときの魏使の旅行の最大唯一の目的は、邪馬台国を訪ねて、女王卑弥呼に詔書金印その他の下賜品をわたすことにあったはずだから、そのコースは出来るだけ安全でしかも便利な道だったろう。邪馬台国が現在の福岡市より東側に存在するとしたならば、この間の難路を「陸行」することは、ぜんぜん無意味というほかはない。  そこまで推理を進めれば、現在の糸島半島の北側を一路博多湾へ向かう直線コースもとうぜん考えられるのだ。現在の汽船航路を見ても、対馬の厳原と壱岐の郷の浦、そして郷の浦から博多港、このコースはほぼ同じ約八十キロの距離であり、所要時間も約二時間半と一致している。  だから、私は博多湾に当時の良港を探し求め、宗像神湊が彼等の上陸地点ではないかという大胆な推定を下したのだった。  もちろん、ここまで来るためには、玄界灘一帯の気象条件、潮流風向その他の自然地理的条件に対しても出来るだけの調査は行なっている。  そして、彼等が神湊へ上陸したとし、「倭人伝」に出て来る里程を七里=約一キロと考えたら、原文の方向や里程、日程の表示は一字も変えないで、道は必然的に宇佐市付近にたどりつくという推理が出来たのだった。  このあたりの詳しい説明は、たいへん長くなるから、いっさい省略するが、興味のあるお方は『邪馬台国推理行』を読んでいただきたい。  ただ、あえて一言するならば、神湊上陸とその後の「陸行」には必然性がある。この後も水行を続けて宇佐方面へ向かうとすれば、鐘の岬、響灘、関門海峡、周防灘――古代人にとってはたいへんな難所と思われるこの四つの水域を乗り切らなければならなくなるということをつけ加えておきたい。

末盧は?神湊?

邪馬台国の秘密 新装版 名探偵・神津恭介 (光文社文庫) Kindle版 

1972
1979


邪馬台国はどこにあったか? 君臨した女王・卑弥呼とは何者か? この日本史最大の謎に、入院加療中の名探偵・神津恭介と友人の推理作家・松下研三が挑戦する。一切の詭弁、妥協を許さず、二人が辿りつく「真の邪馬台国」とは? 発表当時、様々な論争を巻き起こした歴史推理の一大野心作。論拠を示したエッセイを併せて収録。

邪馬台国の秘密

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邪馬台国の秘密』(やまたいこくのひみつ)は、高木彬光推理小説

概要

高木彬光作品の中のベストセラー小説のひとつである。1972年(昭和47年)、光文社版「高木彬光長編推理小説全集」の刊行の中の第15巻の『都会の狼』と共に収録される『新作B』として書かれた。全集版は1974年1月の刊行で、改訂版が1976年9月に東京文藝社から刊行の後、1979年4月刊行で角川文庫に収録されている。カッパ・ノベルス版が半年間で35万部販売された。ジョセフィン・テイの探偵がベッドで推理するというベッド・ディテクティヴ・スタイル(『時の娘』)を真似ており、同じタイプの作品には先行する『成吉思汗の秘密』、後に書かれた『古代天皇の秘密』などがある。

この作品は高く評価され、荒正人大内茂男は“「歴史派」の推理小説として出色のものだと思う[1]”“推理小説の臨界を極めたもので「純粋推理文学」が実現された[2]”とそれぞれ評価している。

初版で方角の決定法において、初歩的なミスが見つかった。黄道修正説と作中でしめした、春分の日秋分の日に太陽が真東から昇ってこないと神津恭介は誤解し、魏使の考察した東西南北は現在のそれとずれているとした。発売後、読者の指摘でミスが作者に連絡され、カッパ・ノベルス版が増刷する中で訂正がなされた。他の邪馬台国研究者から様々な指摘もあり、結果的に先行する説と類似したが、これについて高木は神津に「既に発表されている候補地に辿り着いても、その論拠や推理過程が重要」と語らせ、批判を一蹴している。邪馬台国の論考を執筆している松本清張との間でも、「論争」がおこなわれた[3]。それらの指摘に対する反論は『邪馬壹国の陰謀』[注 1]日本文華社、1978年4月)と題して公刊されている。高木自身、「黄道修正説」に代わる新たな方位の指針を決定し、大幅に『邪馬台国の秘密』を加筆改稿した。その結果、初版では全18章だったものが、改稿新版では全22章になっている[4]

ストーリー

名探偵神津恭介急性肝炎で東大病院に入院する。友人の松下研三が「邪馬台国をテーマにして長編推理を書きたいのでこれが何処にあったのか推理してほしい」と頼み込んだ。大和か九州かの選択から『魏志倭人伝』の話になる。古くから候補地が挙がっているが、万人の説得できる説は出てこない。魏志の記述どおりになぞってゆくと、邪馬台国は海の中になってしまう……。

脚注

注釈

  1. 題名は「邪馬台国」ではなく「邪馬壹(壱)国」となっている。これは、古田武彦が『邪馬壹国の論理』(朝日新聞社、1975年)において、『邪馬台国の秘密』は自著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年)からその説の一部を盗用している、と主張したことに対する反論が中心となっているためである。古田は、『魏志倭人伝』に登場する女王国は「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」が正しいと主張していた。

出典

  1. (『小説推理』1974年2月号の月評)
  2. (「推理小説界展望」「日本推理作家協会会報」1974年2月号、のちに『1974年版推理小説年鑑』に収録)
  3. 松本清張との「論争」は『小説推理』(双葉社)1974年7・10月号(松本清張の指摘)、9・11月号(高木の反論)参照。経緯に関しては、佐野洋『ミステリーとの半世紀』(2009年、小学館)277-281頁も参照。
  4. 『邪馬台国の秘密』あとがき 「解題―明快な論理で神津恭介が日本史の謎にせまる」 山前譲(推理小説研究家)

参考文献

関連項目

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ーーーー


「そうですね……最初の『文永の役』のほうは、冬の侵攻作戦でした。台風のシーズンを外れていますから、いまでも冬の玄界灘に年何回か発生するという局地的な大暴風雨ではなかったでしょうか。二度目の『弘安の役』のほうは、夏の侵攻作戦ですから、こちらは完全に大型台風だと見ていいでしょうね」
 「そういう風に対するそなえまで考えると、博多湾方面に、良港は一つしか考えられないんだがなあ……たとえば、宮地嶽神社に近い津屋崎は、西風に対しては完全に無防備といっていいだろう。もっとも、卑弥呼時代の海岸線は、現在の地形とは相当にかわっているかも知れないけれど……。 
 宗像海岸、神湊――
  僕には、風に対して強い古代の港は、博多湾では、ここしかないように思われるんだ」
 「神湊……」 
「そうだよ。こうして地図をにらんでも、草崎という岬のかげに曲がりこんでいるから、西風、西南の風には強いはずだ。勝島、大島、地島など、こういう付近の島々も、北風に対しては、かなりの障壁になってくれるんじゃないのかな?」
 「………」 
「それに、僕は毎日こうして九州の地図とにらめっこしているあいだに、ふしぎなことに気がついた。九州の海岸や島に『神』という名前がついているところが三つある。一つはこの宗像の神湊、それから唐津湾の神集島、周防灘に面した苅田町沖の神の島――まあ、細かな地図を調べたら、ほかにも見つかるかも知れないがね」

邪馬台国の秘密

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邪馬台国の秘密』(やまたいこくのひみつ)は、高木彬光推理小説

概要

高木彬光作品の中のベストセラー小説のひとつである。1972年(昭和47年)、光文社版「高木彬光長編推理小説全集」の刊行の中の第15巻の『都会の狼』と共に収録される『新作B』として書かれた。全集版は1974年1月の刊行で、改訂版が1976年9月に東京文藝社から刊行の後、1979年4月刊行で角川文庫に収録されている。カッパ・ノベルス版が半年間で35万部販売された。ジョセフィン・テイの探偵がベッドで推理するというベッド・ディテクティヴ・スタイル(『時の娘』)を真似ており、同じタイプの作品には先行する『成吉思汗の秘密』、後に書かれた『古代天皇の秘密』などがある。

この作品は高く評価され、荒正人大内茂男は“「歴史派」の推理小説として出色のものだと思う[1]”“推理小説の臨界を極めたもので「純粋推理文学」が実現された[2]”とそれぞれ評価している。

初版で方角の決定法において、初歩的なミスが見つかった。黄道修正説と作中でしめした、春分の日秋分の日に太陽が真東から昇ってこないと神津恭介は誤解し、魏使の考察した東西南北は現在のそれとずれているとした。発売後、読者の指摘でミスが作者に連絡され、カッパ・ノベルス版が増刷する中で訂正がなされた。他の邪馬台国研究者から様々な指摘もあり、結果的に先行する説と類似したが、これについて高木は神津に「既に発表されている候補地に辿り着いても、その論拠や推理過程が重要」と語らせ、批判を一蹴している。邪馬台国の論考を執筆している松本清張との間でも、「論争」がおこなわれた[3]。それらの指摘に対する反論は『邪馬壹国の陰謀』[注 1]日本文華社、1978年4月)と題して公刊されている。高木自身、「黄道修正説」に代わる新たな方位の指針を決定し、大幅に『邪馬台国の秘密』を加筆改稿した。その結果、初版では全18章だったものが、改稿新版では全22章になっている[4]

ストーリー

名探偵神津恭介急性肝炎で東大病院に入院する。友人の松下研三が「邪馬台国をテーマにして長編推理を書きたいのでこれが何処にあったのか推理してほしい」と頼み込んだ。大和か九州かの選択から『魏志倭人伝』の話になる。古くから候補地が挙がっているが、万人の説得できる説は出てこない。魏志の記述どおりになぞってゆくと、邪馬台国は海の中になってしまう……。

脚注

注釈

  1. 題名は「邪馬台国」ではなく「邪馬壹(壱)国」となっている。これは、古田武彦が『邪馬壹国の論理』(朝日新聞社、1975年)において、『邪馬台国の秘密』は自著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年)からその説の一部を盗用している、と主張したことに対する反論が中心となっているためである。古田は、『魏志倭人伝』に登場する女王国は「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」が正しいと主張していた。

出典

  1. (『小説推理』1974年2月号の月評)
  2. (「推理小説界展望」「日本推理作家協会会報」1974年2月号、のちに『1974年版推理小説年鑑』に収録)
  3. 松本清張との「論争」は『小説推理』(双葉社)1974年7・10月号(松本清張の指摘)、9・11月号(高木の反論)参照。経緯に関しては、佐野洋『ミステリーとの半世紀』(2009年、小学館)277-281頁も参照。
  4. 『邪馬台国の秘密』あとがき 「解題―明快な論理で神津恭介が日本史の謎にせまる」 山前譲(推理小説研究家)

参考文献

関連項目

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