2025年2月19日水曜日

世界の文字 沖縄

世界の文字

琉球列島の文字 英 Writing systems in Ryukyu Islands


琉球列島における文字使用

琉球列島で文字が使用されるようになったのは,14,5 世紀の頃と推定される。その時期は,中山南山北山と呼ばれる 3 つの勢力がそれぞれ明への朝貢を行っていた。三山対立の時代を経て,浦添の,ついで首里の丘陵のうえに城をかまえた中山の王が沖縄島を統一し,その支配を奄美諸島,そして宮古,八重山諸島へとのばして琉球列島全体を支配する王国に成長した時期である。琉球列島に文字は中国および本土の両方からもたらされたが,国家の誕生が文字の必要を生み出すという社会の発展の一般的な原理がここでも貫かれている。

《琉球国王之印》は, 1662 年(尚質 15.康煕 1)国王尚質が中国清朝から授かった「琉球国中山王之印」のこと。『中山信伝録』によると〈順冶十年(1653,国王来リテ前朝ノ故印ヲ繳シ,封シテ重ネテ給センコトヲ請フ。康煕元年,冊封始メテ国ニ至リ,王ニ此印ヲ賜フ。印文六文字は琉球国王之印,左ハ満・右ハ篆,中山ト称セス〉とある。

琉球の名称については,15,16 世紀の琉球語・中国漢字音表記対訳辞典である琉球館語訳では琉球国王を「倭及那敖那」<コマ番号 17> と,また『中山伝信録』では,同様に「倭的拿敖那」 <コマ番号 46> と記述している。倭及那,倭的拿は沖縄本島の住民呼称「うちなー」を漢字に当てたものだと言われる [レファレンス共同データベース]。

琉球列島における文字使用を見ると,漢字・片仮名・平仮名,文字はあくまでも支配階級の独占物であり,平民にはほぼ無縁のものであった。薩摩の琉球入り(1609)以降,小さい古代的な国家に組織されたばかりの村落共同体であるにもかかわらず,検地によって重い公租を負担させられ高度に管理されるにいたった村落共同体を運営するために,文字は必要であった。

琉球列島固有の文字と言われる「スーチューマ」「カイダー字」「石刻絵文字」とは,そのような琉球列島の事情によって文字の読めない平民の便利のために使用されたものであり,首里から離れた地方の農村,離島に多いことがそれを物語っている。とくに,宮古八重山方言地域に目立つのは,首里に従属するにいたった宮古,八重山が首里王府にとって重い公租を課して収奪する対象でしかなかったことと無縁ではなく,それは文字で表わされるものが人々の納付する生産物の種類,数量,年月など,また農家の屋号,田畑,そして,労役に従事する人の数などの表示に集中していることによっても明らかである。[上村]

漢字・片仮名・平仮名の使用

漢字・片仮名・平仮名について,琉球王府が 1713 年に編纂した『琉球国由来記』の〈片仮名〉の項には「当国,用片仮名事,自何代乎,不能考,〈仮名〉の項でも「当国,仮名ヲ要事,従往古為有之歟,時代不能考」として,どの時代から用い始めたか不明であるとしている。〈伊呂波〉(平仮名)にも同様の記述がある。

中山伝信録

琉球に冊封使節としてやってきた徐葆光の『中山伝信録(康煕 60,1721)には琉球の字母は 47 あって,伊魯花と呼び,舜天が王であった時(1187~1229)に初めて制定した,とある。しかし,確かな証拠はない。

『中山伝信録』第 6 <コマ番号 40> [©琉球大学附属図書館 CC BY-SA 4.0 / 出典]

『中山伝信録』では,伊魯花という文字があったことに加え,さらに「表䟽文」について次のように記している。「元の時代に琉球が支那に通じたことがあつて,其時奉つた表䟽文が高サ八寸許厚サ三分濶サ五分の木を列ねたものの上に科斗のやうな横文字の刻んだものであつたといふことである。おまけに蒙古字のやうに縦に書く日本字とは自ずから別物であるといふことまで記してゐる」→ 伊波 なお,「科斗文」とは〈おたまじゃくし〉のような文字を指し,ジャワ,スマトラ,フィリピン等で使用されていた文字ではないかという説もある。[しるびあ たるたりーに p. 42}
参 照 沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ 中山伝信録六 <コマ番号 41>

英祖王の在位中の咸淳年間(1265~1274)に禅鑑という僧が那覇に来た。英祖王はこの僧に帰依し,居城である浦添城の西に補陀羅山極楽寺を創建した。これが沖縄における寺についての最初の記録である。この時,仏教とともに,漢字・仮名文字の書籍ももたらされた。明確に,かつ公的に琉球に漢字・仮名が伝わったと推測できるのはこの時ということになる。1415 年に将軍義時から中山王尚思紹に仮名書きの書簡が送られているが,沖縄側から将軍へ出した書簡も仮名書きであったであろうと推測されている。

田名家文書

麻氏宗家田名氏に伝わる文書のうち,首里王府から代々賜った辞令書をいう。全 3 巻。琉球の古文書のうち最も古く,嘉靖カセイ 2 年(1523)から道光 30 年(1850)までの 32 通(1 号~32 号)がある。37.5 × 27.5 cm の 唐紙に毛筆書きし,首里之印を押す。那覇市出身の民俗学者・言語学者であり,沖縄学の父として知られる伊波普猷が『古琉球(後述)で最初に紹介した。1973 年(昭和 48)6月,国指定重要文化財。田名家文書はそれぞれの時代を反映しているので,これによって,官位・官職とその変遷の研究や,『歴代宝案』と照合して海外渡航の史実を明らかにすることも可能である。参 照 田名家文書

『おもろさうし』

王府の編纂になる『おもろさうし(第 1 巻 1521 年以降全 22 巻)は,奄美沖縄方言群の歌謡共通語としての純粋に伝統的な琉球語が文字によって記録された最初の,言語史的に見ても文学史的に見ても非常に貴重な文献であるが,これも少数の漢字を含む平仮名書きで記録された『おもろさうし』の表記の大半が仮名によって行われ,わずかな語が漢字で記されていることから,漢字仮名交じり文の範疇には入らず,仮名文であるといえよう [しるびあ たるたりーに p.45]。

おもろさうし 仲吉本 &<コマ番号 6> [©琉球大学附属図書館 CC BY-SA 4.0 / 出典]

琉歌

和歌にたいする語で,琉球文学のなかで,主として奄美・沖縄諸島に伝承される抒情的な短詩形歌謡の総称。

琉歌集 春の部 <コマ番号 4> [©琉球大学附属図書館 CC BY-SA 4.0 / 出典]

沖縄列島固有の文字

伊波普猷は,著書『古琉球』のなかで「琉球に固有の文字ありしや」という題して沖縄列島固有の文字について論じている『遺老説伝(1713 頃『琉球神道記(1605『中山伝信録(1721)新井白石『南島志(1719,に記されている〈琉球に固有の文字があったらしい〉という記録を引照しながらも,その存在にやや否定的であり,次のように述べている。

他日浦添邊の地中からロセツタストーンのやうな金石文でも發掘されたら,琉球神道記や遺老說傳の記事は事實となるであらうが,何しろ今日の所では所謂神代文字の有無をかれこれ言ふのと等しく雲をつかむやうなものである。(明治 37 年 5 月 25 日)
伊波普猷『著古琉球』郷土研究社, 1922 3 版 NDL インターネット公開 <コマ番号 192-196>

参 照

『遺老説傳』 (1713) 遺老説伝 巻之一沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ琉球大学附属図書館 <コマ番号 5>
『琉球国由来記』 (1713) 伊波普猷, 東恩納寛惇, 横山重 編琉球史料叢書 第1 卷三 事始乾 <コマ番号 99>(巻 3「文教門」<コマ番号 115> )井上書房, 1962

『琉球神道記』 (1605)

琉球における文字起源譚の最初のものは,本土からやってきた僧袋中(たおちゅう)の表わした『琉球神道記』(慶長 10,1605,全 5 巻)があり,17 種類の琉球古字を挙げている。上から十干(五行)と十二支を表わしている。この十二支文字について『琉球神道記』はつぎのように伝えている。

『琉球神道記』下 <コマ番号 37> [©琉球大学附属図書館 CC BY-SA 4.0 / 出典]
又昔此國ニ天人下リ文字ヲ敎コトアリ。其字數百。其處ハ中城ノ近里ナリ。其後城間ニシテ惡日ニ屋ヲ作ル人アリ,天人現ジテ所の占者 呼デ云。何ゾ惡日ヲ示サ"ル。占者云。我ニ尋ズ。天云。尋ズ共行テ教ベキヲト。テ其文字ノ書ヲ半分分裂テ天ニ上ル。故ニ月日ノ撰定今ハ半アリ。残分ニシテ物ヲ占ニ正キナリト云。其字少々云。良定 著, 明治聖徳記念学会研究所 編 琉球神道記 琉球神道記 明世堂書店昭 和18 国立国会図書館 インターネット公開 <コマ番号 50-51>

琉球神道記以前の文字の存在

数量を表す手段として,縄を結んで数量を表す結縄「バラザン」と,記号で表す「スーチューマー」「カイダ^ディー」「ダーハン」が用いられた。外間は,それらを文字文化にたどり着くまでの全段階的な「非文字の文字」として絵文字,結縄文字として捉えたいと述べている。[外間 p.109]

結縄文字 バラザン

スーチューマやカイダ文字は比較的上層の人々が用いたのに対して、一般庶民は、藁あるいはイグサの結び方によって数量を表す方法を用いたのである。これには人数を表すもの、貢納額を表すもの、材木の大きさを表すもの、祈願用のものがあった。[結縄]

藁算 [Daderot / CC0 / 出典]

記標文字

沖縄本島の一部,宮古・八重山の庶民の間で,明治中頃まで用いられた数量を表わす文字のことである。広義には,屋号の記号を含むこともある。沖縄本島の国頭中頭の海岸沿いの村でスーチューマとワラザン(結縄記標)を兼用する傾向があり,島尻地方ではもっぱらスーチューマを用い,那覇港近辺ではスーチューマを多く用いつつもなおワラザンを用い,宮古・八重山地方ではワラザンをもっぱらとし,かたわらスーチューマを用いた。

スーチューマ

スーチューマは,金銭・物品の数量と屋号を,木炭や手近にある物で,フェーパンという板に書かれた。板の長さは,短いもので約 30 cm,長いもので約 80 cm あり,幅は約 4 cm,厚さは約 1 cm ぐらいのもので,大小各種ある。厚さが薄い場合は 2 面用いて,厚さが十分ある場合は 4 面用いた。 数字の表し方の特徴は,各桁とも,1 ~ 4 まではその数だけ描き,5 ではその上の桁の文字の半分を描き,6 ~ 9 までは 5 の記号と 1 ~ 4 までの記号を合わせることを基本とする 5 進法であるとされる。

[Chamberlain 1898]

参 照田代安定「沖縄県諸島記標文字説明『東京人類学会雑誌』7 巻 78 号<コマ番号 4-7>,同:「沖縄県記標文字説『東京人類学会雑誌』8 巻 82 号 <コマ番号 4>,8 巻 83 号 <コマ番号 3-5>

カイダーディー

カイダー字という象形文字が使用されたのは,主に沖縄の与那国島と竹富島であった。言語を完全に表すのではなく,主に数量や所有関係を表すために,人頭税の時代に記録として使われたものである。数量記号の中に明らかな漢数字の混入も見られる。1910 年代にはまだ使われていたと思われるが,1930 年代にはすでにまれであった。現在,カイダー字が使われていた時代を覚えている人は老人に限られ,その数はきわめて少ないし,書かれたものは籠の蓋や板札と紙数枚ずつしか残っていない。カイダー字の種類は, ① 家紋のように屋号を示すダーハン(家判,② スーチューマに基づいた数量を示す文字,そして ③ 島民が独自に作った象形文字である。

河村只雄が『南方文化の探求』の中で「与那国の珍しい文字」として紹介しているカイダー字。[河村]

与那国の珍しい文字 <コマ番号259 > [国立国会図書館 インターネット公開 /出典]

参 照 萩尾俊章 (2009)「与那国島のカイダー字をめぐる一考察『与那国島総合調査報告書』沖縄県立博物館・美術館

参 照 ROSA, Mark Paper Records Containing Okinawan Kaida Characters UTokyo Repository

ダーハン

与那国島では,日常生活に便宜を与える絵文字と記号の用途を広げ,家の姓を書くかわりに使用されたのがダーハン(家判)である。ダーハンは家号であり家紋でもあるのでカイダー字の一種とみなされる(下図中央は,左から,本家・分家のダーハンの例である)。竹富島では,ヤーバンの名で伝えられており,文字を知らない島の百姓に役人が与えたもののようで,島人は役人からヤーバンをもらうために,米や粟その他の贈り物をしたという。石垣島の川平では,ヤーバンだけではなく,放牧された牛の所有者を明示するためのフシヌパンガタ(牛の判型,家畜耳印)が使用されている。

参 照 須藤 利一 (1937)「與那國島の{バラザン} {カイダー字(デイ)} 家判{ダーハン}『民族学研究』1937 年 3 巻 1 号, p. 132-152J-Stage <コマ番号 13 ff>

『時双紙』ときそうし

『時双紙』は,1927 年(昭和 2)年頃,沖縄本島の中城村で見つかったもので,原本は失われて,現在は鎌倉芳太郎が模写したものが沖縄県立博物館に 2 冊残っている。これと前出の『琉球国由来記』の「文字」の項に出てくる『時双紙』とどのような関係にあるか,不明である。

『時双紙』は,トキ(覡,時,日を選ぶ男)が,吉凶占いの技術上の準拠物として利用した書物。トキは,吉凶占,祭事や祝事の日取りを定める職能者で,トキ・ユタと同一の概念で捉えられていた傾向もあり,民間レベルの物知りであった。

参 照 萩尾俊章 (1998)「「時双紙」の記載形式と内容をめぐっ」『沖縄県立博物館紀要』24. <コマ番号 5-6>
砂川双紙集 那覇市歴史博物館

絵文字 石刻絵文字

昭和 49 年 6 月,沖縄本島の座喜味ザキミ城址から,絵文字の刻まれた石片が発見され,前述の「琉球ロゼッタストーン」が発見されたのでは,地元紙に大きく報じられた。ところが,絵文字がどういう意味を表しているのか,その用途などは不明のままである。この発見より早く,昭和 8 年に嘉手納の野国総管之墓碑付近で発見されている。こちらも解読されないまま謎の絵文字となっている。[外間 2000; pp. 123-124.]
参 照 仲原善忠「野国総管墓碑について(―近世農具資料―『仲原善忠選集 下巻』沖縄タイムス社, 1969. <コマ番号 182-186> (閲覧には,国立国会図書館の「利用者登録(本登録」が必要)

  • 伊波普猷「琉球に固有の文字りしや『古琉球』初版:沖繩公論社. NDL インタネット公開 <134 コマ以降>
  • 上村幸雄 (2001)「琉球列島の文字 I. 総論」河野六郎 [ほか] 編著『言語学大辞典 別巻 (世界文字辞典)』三省堂
  • 河村只雄 (1939)『南方文化の探究』創元社. 国立国会図書館インターネット公開
  • しるびあ たるたりーに(Tartarini Silvia)(2009)「古琉球における文字の導入・使用について『桜美林論集 36』
  • 外間守善 (2000)『沖縄の言葉と歴史』(中公文庫 中央公論新社.
  • Chamberlain, Basil Hall (1898) 'A Quinary System of Notation Employed in Luchu on the Wooden Tallies Termed Sho-Chu-Ma'. The Journal of the Anthropological Institute of Great Britain and Ireland, vol. 27. pp. 383-395.

参考文献

  • 伊波普猷『ユタの歴史的研究』青空文庫 (初出:「琉球新報」1913 大正2)
  • 大山仁快 (1973)「沖縄の古書--新発見の蔡鐸本〈中山世譜〉など『月刊文化財 (通号 121)
  • 沖縄県立博物館 編 (1993)『刻まれた歴史-沖縄の石碑と拓本 : 企画展』沖縄県立博物館.
  • 沖縄大百科事典刊行事務局 編 (1983)『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社.
  • 国立国会図書館レファレンス事例詳細「カイダー文字」について書かれた文献はあるか。
  • 国立国会図書館レファレンス事例詳細砂川双紙(うるかそうし,時(とき)双紙について知りたい。
  • 東恩納千鶴子 (1973)『琉球における仮名文字の研究』球陽堂書房.
  • 外間守善, 波照間永吉 編著 (1997)『定本琉球国由来記』角川書店.
  • 外間守善 (2000)「沖縄の文字文化『沖縄の言葉と歴史』中央公論新社.
  • 与那国町教育委員会 編 (1992)『与那国町の家畜耳印・家判・カイダー字・水田名』与那国町教育委員会.
  • 琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ
  • Rosa, Mark (2007) Kaida Character Dictionary 『東京大学言語学論集 26』
  • マーク・ローザ (2011)「知られざる沖縄のカイダー字」町田和彦編『世界の文字を楽しむ小事典』大修館書店.

[最終更新 2023/11/18]

2025年2月18日火曜日

DJ プラパンチャさんによるXでのポスト 日ユ同祖論批判

 
 
DJ プラパンチャ
⁦‪@prapanca_snares‬⁩
追記しておくと、かつては「葦嶽山は日本のピラミッドだ」という酒井勝軍の主張が必ずしも異様ではない文脈が存在していたように、現在から見れば荒唐無稽に見える日ユ同祖論にも、その背景には人類学的な文脈が存在していました。長くなりますが、この問題についても述べてみたいと思います。… pic.x.com/KuIKbGqNyW
 
2025/02/02 18:15
 
 
追記しておくと、かつては「葦嶽山は日本のピラミッドだ」という酒井勝軍の主張が必ずしも異様ではない文脈が存在していたように、現在から見れば荒唐無稽に見える日ユ同祖論にも、その背景には人類学的な文脈が存在していました。長くなりますが、この問題についても述べてみたいと思います。

近代の日本で日ユ同祖論を唱えた人物の一人に、小谷部全一郎(1868-1941)がいます。小谷部は1924年に『成吉思汗ハ源義経也』という本を出して、モンゴル帝国の初代皇帝のチンギス・カンと源義経は同一人物だと主張しました。1929年には『日本及日本国民之起原』という本を出して、日ユ同祖論を主張しました。この本は、以降の多くの日ユ同祖論者たちに影響を与えていくことになります。それ以前にも日ユ同祖論はあったのですが、小谷部の影響力は甚大でした。

小谷部によれば、古代の日本には、以下の3つの異なる民族が存在していたそうです。

①土蜘蛛・国栖・夷(エビス)
②出雲民族
③天皇を戴く天孫民族

小谷部によれば、3つの民族はこの順番で日本にやってきたそうです。①のエビスはコロボックル(アイヌの伝承に登場する小人)と同じであり、②の出雲民族はアイヌのことであり、いずれもカナンの地から日本にやってきたそうです。両者は、③の天孫民族の日本侵入以降に、次第に北へと追われていったのだそうです。そして天孫民族は、元々ヘブライ人(マナセ族およびガド族)だったというのです。つまり天孫民族の起源は、イスラエルの失われた10支族(旧約聖書に記されたイスラエルの12部族のうち、行方が知られていないルベン族・シメオン族・ダン族・ナフタリ族・ガド族・アシェル族・イッサカル族・ゼブルン族・マナセ族・エフライム族の10部族)だということになります。

こうした小谷部の主張は、現在の目から見れば荒唐無稽な珍説に見えます。このようなものがどういう背景から出てきたのかをたどってみましょう。

日本列島に住む人々の起源について論じた説は、江戸時代にはすでに存在していたのですが、それが「科学的」に研究されるようになるのは明治に入ってからのことです。この動きをリードしたのは、明治維新前後に日本にやってきた欧米の学者たちでした。

彼らは、日本の先住民族はアイヌであり、あとからやってきた日本民族が、アイヌを駆逐して北方に追いやっていったのだという学説を唱えていました。『古事記』や『日本書紀』に見られる神武天皇の東征や、ヤマトタケルノミコトの東国平定などの神話は、日本民族がアイヌを駆逐していった過程を記したものだというわけです。こうした「アイヌ学説」は、19世紀前半に日本にやってきたシーボルト(1796‐1866)がすでに唱えていたものであり、彼の次男のハインリッヒ・シーボルトなどによって受け継がれて、欧米の学界では当時の「常識」のようになっていました。この学説は、西洋の人々による北米大陸への侵入や、インディアンの征服と重ねあわせて構想されていった面がある点に注意が必要です。

「アイヌ学説」は、黎明期の日本の人類学者のあいだでも主流になったのですが、ほどなくして、それに異を唱える人物も登場します。その代表が、坪井正五郎(1863-1913)です。坪井は、エドワード・モースによる大森貝塚の発掘に刺激を受けて人類学を志して、明治期の人類学をリードした人物です。

坪井は、アイヌは先住民族ではないというモースの説を受け継いで、「コロボックル説」を唱えました。日本の先住民族はアイヌではなく、アイヌの口碑に伝わるコロボックルだというのです。明治期には、坪井らが唱えたコロボックル説と、小金井良精らが唱えたアイヌ説とのあいだで激しい論争が起きています。

ここで注意しなければならないのは、この2つの学説は鋭く対立しながらも、「日本人はあとから日本にやってきた人々であり、先住民族は別に存在していた」という前提を共有しており、その点では欧米の人類学者の見解に忠実に従っていたということです。

もっと重要なのは、どちらの説をとっても、日本人があとからやってきたというのであれば、『古事記』や『日本書紀』に描かれているエピソードは、日本ではなく外国で起きたことだという結論が導かれても何らおかしくないということです。

もうお気づきの方もおられるかもしれません。そう。小谷部全一郎が唱えた日ユ同祖論は、こうした学説と実はそこまで距離はないのです。というのも、先ほど見たように、小谷部が言う①夷(エビス)・②出雲民族・③天孫民族は、コロボックル・アイヌ・日本人にきれいに対応しています。この点では、小谷部が明治期の人類学者の学説から逸脱したのは、その起源を中近東に求めただけのことだとすら言えるわけです。

ちなみに小谷部は、1888年にアメリカに留学してハワード大学やエール大学で神学や哲学や人類学を学んだ人物であり、現地でプロテスタントの一派である会衆派の牧師になっています。帰国後に横浜で牧師を務めてから、1900年に北海道土人救育会を設立し、幹事になっています。小谷部は一家で北海道の虻田に移住して、尋常小学校や実業学校などを設立し、アイヌの教育や救済に情熱的に取り組んでいます。

そして小谷部は、コロボックル説を唱えた坪井正五郎とも親交を結んでいます。実際に、北海道土人救育会には坪井も幹事として名を連ねています。そういうわけで、小谷部の日ユ同祖論は現在の目から見れば荒唐無稽なものに見えますが、当時の西欧の人類学を根拠にして、日本人の起源を「科学的」に考察しようとするところから出てきたものだと言えるわけです。

さて、小谷部の日ユ同祖論は、別の面でも西洋の言説から大きな影響を受けていました。彼は、イギリスの「英ユ同祖論」の影響を受けつつ日ユ同祖論を構築していきました。

「英ユ同祖論」というのは、イスラエルの失われた10支族がイギリス人の祖先だという説です。こうした説の支持者は、The British Israelities(ブリテンのイスラエルびと)と呼ばれています。英ユ同祖論が明確に形成されるのは近代以降ですが、これにまつわる伝承はかなり古い時代から流布していました。

すでに6世紀に、イギリス最初の歴史家とも言われるギルダスが、ブリテン人を「神のイスラエルびと」と呼んでいます。これは単なる比喩だったのかもしれませんが、後世には、これを文字どおりに受けとめる人々が出現します。

狭い意味での英ユ同祖論が確立されていくうえで大きな役割を果たしたのが、ヴィクトリア朝の時代に活躍したエドワード・ハイン(1825-1891)です。ハインによれば、英国人だけが失われた支族の末裔であり、英国人はパレスチナに入植して、ユダ族およびレヴィ族(つまり現在のユダヤ人)と再び合体して、キリストの再臨を実現すべきなのだそうです。

小谷部は、こうした英ユ同祖論の影響のもとに、『日本及日本国民之起原』を書いたわけです。実際にこの本の「総説」では、ハインなどの英ユ同祖論者の名前が列挙されており、小谷部がその影響下にあったことは明らかです。

さて、ここで考えなければならないのは、なぜこのような説が大きな力を持つのかということです。この問題について考えるうえでとりあげてみたいのが、ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)です。高校で歴史の時間なんかに覚えさせられたという方も多いかもしれませんが、ケンペルは17世紀の終わりごろに長崎にやってきた人物です。

彼は2年ほど日本に滞在し、日本の地理や動植物や社会や政治や歴史などのいろんな分野にわたって調査研究を行い、資料を収集して、帰国後に『日本誌』を執筆しました(生前は活字にならず、1727年にイギリスで英訳刊行された)。この本は反響を呼んで各国語に訳され、その後100年以上にわたって日本に関する基本文献として読まれ、典拠として引用され続けることになりました。

この『日本誌』のなかでケンペルは、日本人の起源についても論じています。彼によれば、『創世記』に記されたバベルの塔の建設の際に言語の混乱が生じたことが、日本人の起源なのだそうです。つまり、バベルの塔の建設によって言語が乱れ、ギリシャ人やゴート人やスラブ人やケルト人はヨーロッパに向かい、その他はアジアを通って分散し、なかにはアメリカまで足をのばした民族もいる。日本人もそうした人々のなかの一民族であり、彼らはおそらく長い年月にわたってさまよった果てに、世界の最果ての東の隅っこにたどり着いたのだ、と。

驚く方もおられるかもしれませんが、こうした考察は当時は奇妙なものではありませんでした。当時は、聖書に基づいていろんな「民族」の起源であるとか、「人類」の起源を考察するのは全くおかしなことではなかったのです。進化論が表舞台に登場するのは19世紀のことですし、当時はまだ、神学と科学は分離してはいなかったのです。

とはいえ、神学と科学とのあいだには徐々に亀裂が生じつつありました。例えば、南北アメリカ大陸が「発見」されると、キリスト教神学に基づいた人種起源論には大きな亀裂が生じました。この亀裂をどうにかこうにか埋めようとした結果、アメリカ・インディアンこそが失われた支族の末裔だ(!?)などという主張も登場します。

また、17世紀にイギリスで清教徒革命が起きたころには、一部の過激な清教徒のあいだに、英国民こそが精神的・霊的な意味でイスラエルびとの末裔であり、神に選ばれた民であるという思想が登場しています。例えば、17世紀の半ばに、英国からアムステルダムに逃れた過激な清教徒たちによって英訳出版された『イスラエルの希望』という本があります(著者はマナセ・ベン・イスラエルというユダヤ人ラビです)。

この本は、マナセの友人のアーロン・レヴィという旅行家が、南アメリカの辺境で、ヘブライ語を話す白い肌をした人々のコミュニティに遭遇した(!?)などと語っています。レヴィによれば、ユダヤ人はアジアを経由して南アメリカまで到達したのだというのです。この本は、失われた支族がついに「発見」されたと語ったものであり、大いに売れて版を重ねました。英ユ同祖論は、巨視的に見ればこうした文脈を汲んで出てきたものです。聖書に記された失われた支族という「物語」を手放したくない、世界のどこかに失われた支族を見い出したいという強迫観念から出てくるわけです。

つまり、こういうことになります。ケンペルが語った日本人起源論が如実に物語っているように、かつては「歴史」と「物語」(あるいは「歴史」と「神話」)はどうにか仲良く融合していた。西欧世界で両者が明確に分離されることになるのは、せいぜい19世紀以降のことにすぎません。

現代人は、「歴史」と「物語」(あるいは「歴史」と「神話」)を分離して考えるよう学校などで教えられていますし、少なくとも意識のうえではそうしています。つまり、「歴史」は事実であり、「物語」はフィクションであると教えられているし、そのように意識のうえでは考えている。

しかし、かつて「歴史」とは我々の起源について「物語る」ものでした。かつては「現実」とやらは厳密な事実の集まりから構成されるのではなく、「物語」によって構成されるものであった。近代は、「歴史」と「物語」とが引き裂かれることを余儀なくされた特異な時代なわけです。

もはや、「歴史」は我々の起源について答えてはくれない。しかし、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という問いに答えてくれる「物語」を、我々は欲してやまない。実証的な事実の集まりとしての近代的な「歴史」を否定し、「歴史」を「物語」の世界に奪還しようとする試みは、ここに始まる。

話を小谷部全一郎に戻しましょう。小谷部は、当時の人類学と英ユ同祖論という2つのイデオロギーに影響を受けた人物でした。両者は、一見すると全く一致しないイデオロギーに見えます。しかし、これまでに見てきたように、両者は近代以前の西欧世界においてはどうにか一致していたものであり、両者が分離されていくのは近代以降の話なわけです。両者が分離された結果、人類学の方は「科学的」で「正統的」な「知」だということになり、失われた支族を見い出したいという強迫観念は、「知」の表舞台からは排除されることになる。

しかし小谷部は、近代の西欧社会で分離すべく運命づけられていた両者を、近代の日本において「再統合」してしまったのです。彼は彼なりに大真面目に、当時の表舞台の公認された世界観と、そこからシャットアウトされることになった裏通りの世界観を、そのまま"きちんと"受け止めて忠実に「翻訳」しようとした。そういうことになるわけです。

我々は、決して小谷部や、彼の世界観に共鳴する人々を笑うことはできないのではないか。こうした世界観に共鳴する人々が現在に至るまで決して絶えることがないのは、"公認"された「歴史」が彼らの欲望を満たす「物語」を語ってくれないからである。彼らの世界観を荒唐無稽な妄想だと言うのは簡単である。しかし我々は無自覚のうちに、そうした「荒唐無稽な妄想」を欲しているし、近代に引き裂かれてしまった「歴史」と「物語」が一つであってほしいという欲望(無明と言うべきか)を抱いている。これは多かれ少なかれ我々のなかにある問題であり、彼らを嘲笑しておれば事足りるという話ではないし、彼らを「啓蒙」したり「治療」すればいいなどという問題ではないと私は思う。

初心者向けルート | 石鎚山・石鎚山系公式|石鎚山系連携事業協議会

初心者向けルート | 石鎚山・石鎚山系公式|石鎚山系連携事業協議会

石鎚山にはじめて登る方におすすめのルート

石鎚山に登るルートは複数ありますが、
ここでは石鎚山にはじめて登る方におすすめの「成就ルート」と「土小屋ルート」についてご紹介します。

石鎚山にはじめて登る方におすすめのルート

注意事項

※成就ルートと土小屋ルートは二の鎖の手前で合流します。下山時の分岐にお気をつけください。
※石鎚山では5月まで雪が残ることが珍しくありません。雪が完全に解けた5月下旬~10月下旬が登山に適した季節です。

石鎚登山のメインルート 成就ルート

石鎚登山ロープウェイ山頂成就駅 ⇒ 成就社 ⇒ 石鎚山(弥山)

距離
片道 約4.7km
時間
上り:約3時間30分 下り:約3時間

このルートのポイント

  • 石鎚登山のメインルートで、古くから参道として使われています。
  • 石鎚登山ロープウェイを利用して山頂を目指すのが一般的です。
  • 全国的にも珍しい鎖場が4箇所あり、修験道の修行場としての石鎚山を体感できます。(※迂回路があるので鎖が不安な方も安心です)
  • 夜明峠から望む雄大な石鎚山など、見どころが多いルートです。
  • しっかりと整備されているため、ルート案内に従うことで迷わず登山を楽しむことが出来ます。

見どころハイライト

石鎚登山ロープウェイ
標高455mの山麓下谷駅から標高1,300mの山頂成就駅まで、約8分間の空の旅。

石鎚登山ロープウェイHP

石鎚神社 中宮 成就社
山頂成就駅から約25分。
標高1,450mにある成就社は、開山の祖・役小角(えんのおづぬ)の開山の願いが叶った故事から、諸願成就の宮として広く尊崇を集めています。
参道には宿泊施設や休憩所があり、登山の重要な拠点となっています。
神門
神門をくぐって登山道へ入ります。
※登山届はここで提出。
遥拝所
神門から約15分。年配の方など頂上まで行けない方はここで祈願します。
鎖場(迂回路あり)
石鎚山といえば鎖場です。成就ルートには 4 箇所の鎖場があり、修験道の修行場としての石鎚山を体感できます。
・試しの鎖 (上り48m、下り19m)
・一の鎖(33m)
・二の鎖(65m)
・三の鎖(68m)
※注意:鎖場はほぼ垂直に切り立った岩場にあり、安易な挑戦は非常に危険です。不安な方は無理して登らず、迂回路を利用しましょう。
夜明峠
昔、まだ石鎚登山が容易でなかった頃は、ここで夜が明けるのを待ってから先に進んでいたそうです。
正面には石鎚山がそびえ立ちます。
弥山/石鎚神社 奥宮 頂上社
標高1,972m、石鎚山の山頂です。
西日本最高点の天狗岳(標高1,982m)を目の前に望むことができ、晴れた日には瀬戸内海や四国の山々を遠望できます。
弥山から望む天狗岳
天狗岳の標高1,982mは西日本最高点です。弥山から眺める反り返った天狗岳は圧巻で、特に紅葉の季節は岩肌が赤く染まり絶景となります。
※注意:弥山~天狗岳は狭い岩場になっており熟達者向けです。
石鎚登山のメインルート 成就ルート

山頂までの最速ルート 土小屋ルート

土小屋 ⇒ 石鎚山(弥山)

距離
片道 約4.6km
時間
上り:約2時間30分 下り:約2時間

このルートのポイント

  • 標高1,492mにある土小屋登山口から山頂を目指すルートで、山頂まで最短時間で登ることができます。
  • 尾根伝いに歩くため成就ルートより比較的登りやすく、登山初心者にもおすすめのルートです。
  • しっかりと整備されているため、ルート案内に従うことで迷わず登山を楽しむことが出来ます。
  • 二の鎖の手前で成就ルートと合流し、以降2か所の鎖場があります。(※迂回路があるので不安な方も安心です)
  • 土小屋登山口へ行くにはUFOラインや 石鎚スカイラインを通るため、ドライブとともに楽しむことができます。
石鎚神社 土小屋遥拝殿
標高1,492m、土小屋遙拝殿がある土小屋登山口は、周辺にカフェや宿泊施設があり、登山の重要な拠点となっています。
土小屋terrace
登山口の近くにある土小屋terraceは、カフェ、売店、モンベルコーナーを併設しており、土小屋限定商品を購入できます。また、インフォメーションコーナーも設置されており、登山情報を入手できます。
※登山届はここで提出。
土小屋ルートはなだらかな登山道が続きます。しっかりと整備されているため、ルート案内に従うことで迷わず登山を楽しむことが出来ます。
尾根沿いの登山道は眺望も良好です。
鎖場(迂回路あり)
石鎚山といえば鎖場です。土小屋ルートは道中に2箇所の鎖場があり、修験道の修行場としての石鎚山を体感できます。
・二の鎖 (65m)
・三の鎖 (68m)
※注意:鎖場はほぼ垂直に切り立った岩場にあり、安易な挑戦は非常に危険です。不安な方は無理して登らず、迂回路を利用しましょう。
弥山/石鎚神社 奥宮 頂上社
標高1,972m、石鎚山の山頂です。
西日本最高点の天狗岳(標高1,982m)を目の前に望むことができ、晴れた日には瀬戸内海や四国の山々を遠望できます。
弥山から望む天狗岳
天狗岳の標高 1,982mは西日本最高点です。弥山から眺める反り返った天狗岳は圧巻で、特に紅葉の季節は岩肌が赤く染まり絶景となります。
※注意:弥山~天狗岳は狭い岩場になっており熟達者向けです。
土小屋登山口へ行くには UFO ラインや石鎚スカイラインを通るため、ドライブとともに楽しむことができます。
※UFOライン:11月末日~4月中旬まで冬期通行止め
※石鎚スカイライン:夜間通行止め・12月1日~3月31日まで冬期通行止め

詳しくはこちら

山頂までの最速ルート 土小屋ルート

石鎚山 (予讃本線) -  



駅舎。神社仏閣でよく採用される錣(しころ)屋根が珍しい。場所が場所なので石鎚神社に由来するのではないかと思うが正確なところは不明。


隣りの駅
伊予氷見 (予讃本線・下り)
伊予西条 (予讃本線・上り)

中国のサイエンスレベルがわかれば、邪馬壹國は徳島だ! 歴史に数学を持ち込むその9

17:10
参考:
天之忍許呂別(あめのおしころわけ) とは「隠伎之三子嶋(おきのみつごのしま)」の別名。
もしかしたら天之忍許呂とは愛媛県・石鎚(いしづち)山のことで、以下のサイトにあるように、
その遥拝所が野忽那島(のぐつなじま)にあるということではないでしょうか?

参考:
2018年8月 愛媛県 野忽那島 石鎚神社野忽那遥拝所
旅する石鎚信仰者
url省略
《…石鎚神社[野忽那島宇佐八幡神社内]の向く先には霊峰石鎚山がある》

兜の錣(しころ)は通常は山型に裾が広がった形状をしています…

「君子の国」なる日本 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

「君子の国」なる日本 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

「君子の国」なる日本

道義を重んじる国が邪馬台国のルーツか!

弥生時代に誕生した「君子の国」

邪馬台国の背景とルーツを紐解くにあたり、魏志倭人伝など日本の民族や風土、地理などについての記述だけでなく、中国史書に記載されている「君子国」「君子の国」についても理解を深めることが重要な鍵となります。礼儀と道義を重んじた文化を誇る理想郷のような国、すなわち「君子の国」の末裔が、邪馬台国の創生に関わっていると考えられるからです。

中国史書の記述から察するに、アジア大陸の東方にある「君子の国」とは、中国の戦国時代、そして孔子の時代以前から存在し、それが日本を指していたことは間違いないようです。「君子の国」が誕生したのは弥生時代前期と推測されます。日本は大陸から離れた離島であることから、その時代は基本的に原始的な文明しか存在しなかったと想定されてきました。一見して「君子の国」のイメージとは、なかなか相入れないものがあります。しかしながら昨今のDNA研究による成果により、例えば大陸の稲作文化も紀元前8世紀頃には日本列島に流入していたことがわかってきました。それ故、孔子が活躍した紀元前5~6世紀、日本列島では既に大陸の文化に匹敵する文明が一部の地域で栄えていたと想定できるようになりました。

すなわち「君子の国」が、古代より日本列島にて栄えていたと想定しても、何ら矛盾はなく、むしろその前提で歴史を見直すことにより、「君子の国」によって築かれた国家の礎から邪馬台国が発展するという時代の流れが見えてきます。そこで今一度、邪馬台国の前哨となる「君子の国」の人々の在り方を振り返ってみます。

「君子の国」の文化を証する中国史書

元来、「君子国」(くんしこく)とも呼ばれる「君子の国」は、古代、中国において語り継がれてきた伝説上の国であり、礼儀や道義を重んじる東方の国を指します。「君子」という言葉自体は、優れた才能と品位、人格を兼ね備えた偉人を意味します。そのような知恵と尊厳に満ち溢れた人の国が存在する、という風評が流布されていた時代があったことからしても、中国において「君子の国」とは、ある意味理想郷のように思われていたようです。

中国の伝説によると、その国に住む人々は「君子人」とも呼ばれる人種であり、アジア大陸の東方に位置する国に居住していたと信じられていました。「君子人」については中国の地理書として知られる「山海経」(せんがいきょう)の記述が有名です。最古の地理書としても有名な「山海経」の年代は定かではありませんが、おそらく戦国時代から秦朝の時代にかけて加筆されながら編纂されたものと考えられます。

「山海経」によれば、「君子国」は大人国(たいじんこく)の北に存在し、「君子人」は人と争わず、譲り合いの心を持ち、衣冠で身をまとうと記載されています。また、剣を持つ習慣があり、獣の肉を食することも記されています。この「君子の国」こそ、古代日本の姿を象徴していると考えられます。

「君子の国」が古代日本である理由

前6世紀、中国では既に孔子が、東夷に纏わる儒教的楽土が、遠い東の彼方に存在することを認識しており、それを「君子の国」「不死の国」と呼称しました。また「山海経」には、「君子国も不死国もともに東方にある」と記載されています。古代の中国では、おぼろげながらも国家らしき「君子の国」がアジア大陸の東方、海を越えた彼方に存在することが信じられていたようです。それ故、「君子の国」とはアジア大陸の東方に浮かぶ島々である日本と同一視されることもあり、日本列島の存在が広く知れ渡るようになるにつれて、さまざまな憶測を呼ぶようになります。

また、「山海経」の「外国図」には、「君子の国」は琅邪(山東省臨沂市付近)から3万里離れた所にあるという記述もあります。短里を70mと仮定するならば、中国から約2100km離れていた所に存在していたことになります。古代中国の史書に記録されている数値は、驚くほど正確であるものが多いことで知られています。中国の大陸沿岸から2100㎞離れた所には日本列島しか存在しないことから、その距離感を記載された数字どおりに受け入れるならば、「君子の国」とは日本を指していたことになります。つまり中国山東省から2100㎞前後離れている日本のどこかに「君子の国」に該当する場所があったことになります。

「山海経」が執筆された拠点と考えられる山東省臨沂市から2100㎞の位置を地図上で検証すると、青森県の十和田湖周辺までが約2100km、茨城県鹿島までが2000km、長野県諏訪湖までは約1800km、徳島県の剣山まではおよそ1500kmとなります。そしてこれらの数値から察するに、「君子国」の中心は古代、青森県にあった可能性も見えてきます。いずれにしても、「君子の国」は、日本列島以外にあり得ないことがわかります。

古代アジアに由来する青森県の遺跡

青森では今日までユダヤに纏わる伝説が数多く語り継がれてきています。そして十和田湖周辺の新郷村にはキリストの墓やモーゼの墓など、西アジアにルーツを持つと考えられる遺跡が残されています。それらの根拠には疑問が残るものの、遠い昔から周辺地域の民謡で歌われてきた囃子詞の多くがヘブライ語で解釈できることからしても、イスラエル移民の影響を多分に受けた地域であることは否めません。

また、十和田湖の東方、太平洋の沿岸にある港町は今日、八戸「はちのへ」と呼ばれています。その漢字の綴りは「ヤヘ」とも読めることから、ヘブライ語で「神」を意味する「ヤーヘー」という言葉に「八戸」が当てられ、それが「はちのへ」と読まれるようになったと考えられます。アジア大陸から渡来した人々の影響下になければ、「八戸」、「ヤへ」を「はちのへ」と呼ぶこともなかったはずです。よって青森の十和田湖界隈は、古代からイスラエル文化の影響を受けていたと推測されます。

いずれにしても、青森の地域は古代より何かしら大陸との関わりがあり、渡来者が拠点としていた場所であることに違いはなく、「君子の国」に関わる存在であった可能性も否定できません。

「君子の国」の本拠地は守屋山?

守屋神社奥宮
守屋山山頂の 守屋神社奥宮
守屋神社 拝殿
守屋神社 拝殿

「君子の国」の比定地として、もう一つの可能性として考えられるのが、長野県諏訪湖周辺と、その南側にある守屋山です。「君子の国」と言われる場所は、どこか一か所を想定するのではなく、長野県諏訪湖から青森県十和田湖までの広い地域を指していたのかもしれません。また、山東省臨沂市から十和田湖までの距離はおよそ1800㎞であり、2100㎞には満たないですが、短里の距離には幅があることからして、解釈が可能な範疇の距離です。

その諏訪湖に隣接して建立された諏訪大社に注目です。そこでは縄文文化の遺跡が多く発掘され、古代から神社背後に聳え立つ守屋山を御神体とする祭祀が執り行われているだけでなく、動物犠牲の伝承までもが引き継がれてきています。動物を捧げる燔祭の儀式は、西アジアルーツにある可能性が極めて高いと言われています。さらに御神体となる守屋山の「モリヤ」という名称が、旧約聖書の中に記されている古代イスラエルの族長時代、アブラハムが子供イサクを神の命に従い、犠牲として捧げようとした山の名前、「モリヤ」とまったく一緒です。果たしてこれは偶然の一致でしょうか。今日、イスラエルからの駐日大使やユダヤ系ラビ(ユダヤ教の宗教指導者)らが多数、諏訪大社を訪れて参拝していることからしても、諏訪大社及び守屋山の背景にイスラエルが絡んでいることは、疑う余地がないと言えます。

さらに注目すべきは、諏訪湖のそば、守屋山(モリヤ)の緯度であり、太平洋岸からの玄関である鹿島神宮とまったく同じ35度58分です。しかも日本の国生み神話である「おのころ島」との関わりが指摘されている淡路島の伊弉諾神宮から東北に向けて、夏至の日の出の方向である30度の一直線上に諏訪大社があることは、伊弉諾神宮でも石碑に記されている公認の事実です。その夏至の線と鹿島神宮から真西に向けた同緯度の線が交差する場所に諏訪大社、および守屋山が存在し、古代より重要な聖地となるべく、多くの地の利を兼ね備えた場所だったと言えます。

よって「山海経」が編纂された当時、中国で考えられていた「君子の国」の民とは、諏訪湖周辺に集落を形成していた古代イスラエル人のことを指していた可能性があります。また、その「国」とは、諏訪湖から十和田湖界隈まで広い地域を指していたかもしれません。いずれにしても、「君主の国」は古代の日本に存在し、その背景には大陸から渡来した人々の貢献があったと考えられます。

東方へ向かうアジアの民

「君子の国」としての理想郷が太陽が昇る東方にあると信じられたからこそ、アジア大陸において迫害や民族同士の衝突、地域戦争など、さまざまな困難に直面していた民の多くは、国難から逃れるために東の方へと向かったことでしょう。その結果、シルクロードも発展し続け、その終点は日本列島の奈良となったのです。こうして日本列島の人口は弥生時代後期から突如として急増し始め、渡来者が日本列島になだれ込むようになります。

その背景には、日本が古代より「君子の国」として知られ、その東方にある理想郷に行けば、運命が切り開かれていくという思いが秘められていたと考えられます。こうして古代社会では、いつしか日本列島はアジア大陸に住む人々にとって東方へ旅する目的地となり、時には楽土のシンボルとまで思われるようになりました。そして何世紀にも渡り、多くの移民がアジア大陸より渡来することとなります。

「君子の国」で培われた古代文明の行く末

「君子の国」が東方に存在すると伝承された孔子の時代から700年ほど経った2世紀後半、日本では邪馬台国が台頭します。倭国で大乱が起きた後、卑弥呼によって地域の混乱が収まり、邪馬台国が成立したのです。その名声は中国大陸にまで伝えわたり、魏志倭人伝を含む数々の中国史書に、邪馬台国の有様が記録されることになります。

「君子の国」で培われた古代文明の背景には、アジア大陸から渡来してきた文明人の姿があったと推測されます。それら先人の存在があったからこそ、邪馬台国が成立する以前より大陸では、日本は東方の「理想郷」「長寿の国」として羨ましがられたのです。そして長い年月を経て、その末裔が邪馬台国の創始に関わり、邪馬台国の礎を築き上げていったのではないでしょうか。邪馬台国という大規模な国家となる原点が、「君子の国」のベールに包まれながら出来上がってくるのです。

ドルイド - Wikipedia

ドルイド - Wikipedia

ドルイド

曖昧さ回避 ドゥルイド」はこの項目へ転送されています。バンドについては「ドゥルイド (バンド)」をご覧ください。

ドルイド(Druid)は、古代社会における祭司のことだとされてきた。日本語ではドゥルイドとも表記する。女性形ドルイダス(Druidas)。

ドルイドは宗教的指導のほか、政治的指導、公私の争い事の調停と、古代の社会に重要な役割を果たしていたとされていたが、実際、彼らがどのようなことを行っていたのか、よくわかっていない。ドルイトに関するほとんどのことが近世に作られたものであり、19世紀にはウエールズにそれを実践する者たちもいたが、オカルト趣味とみなされている。

カエサルの『ガリア戦記』 (紀元前58年 - 51年) によれば、ドルイドの社会的影響力はかなり大きかったようである。争い事の調停あるいは裁決をし、必要があれば当事者に賠償や罰金を課した。ドルイドの裁決を不服とした者は、社会的地位や信用を失った。このほか、ドルイドは兵役や納税を免除される特権的地位にあった。

ドルイドの宗教上の特徴の一つは、森や木々との関係である。プリニウスの『博物誌』によると、ドルイドが珍重したのはヤドリギの中でもロブル(オーク)に寄生した物だけで、彼らはオークの森を聖なる地とした。彼らはヤドリギを飲み物にするとどんな動物も多産となり、あらゆる毒の解毒剤になると信じた[1][2]

近代になって発掘された古代ガリアの奉納物には、オークで作られた物が多い。また、ドルイドが四葉のクローバーなどの希少な植物を崇拝していたということが伝えられている。なお、神木の概念自体はケルト人に留まらず世界中に存在する。

比較宗教学においてドルイドは、古代ローマのフラミネス英語版や古代インドのブラーフマナ(婆羅門)と関連付けられている[3]

古典文献の取扱い

先住の人々の社会は本来無文字文化であったが、他文明との交流によって文字を獲得した。ガリアではラテン文字[4]ギリシア文字[5][6]を使用していた。またブリタンニアにおいて、ローマ帝国の入植以前にパピルスを輸入した記録があり、当時の知識層が文字を書き記していたことが窺える。アイルランドでは、4世紀末に独自のオガム文字を使用していたと思われる。[7]

しかし教義について、ドルイドは文字で記録せず口伝伝承を行った。そのため、ドルイドについての記録はギリシアやローマ帝国、修道士たちの「外からの目」によるものしか残されていない。歴史の一部としてドルイドを扱う場合、こうした文献の記述を無批判に受け入れることはできない。

語源

語源的には「ドルイド」はdru-vid-sと分解され、vidは「知る」「知恵」などを意味する[8][9]。druについてはオークの木を意味するという見解と強意の接頭辞とする見解とがある。前者は1世紀の博物誌にも記されている[10]ほど歴史のある見解であり、少なくとも1968年には主流派を成していた[11]。が、アイルランドにオーク崇拝が見られないこと[12][13]、ドルイドの職能はオークの木にまつわる祭祀に限らず広範に亘ったこと[14]などの指摘により、現在は後者が有力視されている[15]

ガリアのドルイド

ガリアの社会構成

ガリアの社会は他のインド・ヨーロッパの民族にも見られるような知識層(祭司)・騎士・民衆の三層構成を成していた(三機能仮説)。こうした階層分化は前七世紀頃(ハルシュタット後期)の古代社会で既に発生していた[16]。この知識層がドルイドである。『ガリア戦記』において民衆の身分は奴隷に例えられ、それほど知識層と騎士の特権は強かった。だがこの頃ドルイドの権勢は最盛期を過ぎ下り坂であったと考えられている。

ガリアの知識層を指す単語としてはドルイドのほかにもウァテス・バードサケルドス英語版[17]グトゥアテルフランス語版[18]・セムノテオイ[19]など様々なものが文献に登場する。このうちウァテスとバードについては古典文献の記述[20]から異名ではなく実際にドルイドと共に知識層を構成していた階級であると考えられている。だがこの三階級の職能は完全には分化しておらず、一部で重なり合っているためその関係には諸説がある。

ドルイド

ガリアの知識層の中で最高位を占めるとされる階層。職能としては祭司と政治的指導者を併せ持つ。このため、文献の中でサケルドス(祭司)ではなくドルイドという表現が使われた場合、書き手はその人物を政治的指導者だと強調している可能性がある。

ウァテス

占い師。先述の通りドルイドも占いを行っていたと考えられるため、ウァテスをドルイドの中で下位の序列を指すとする者もいる[21]。その一方で、同じ理由で彼らがドルイドと同等の権利を有したとする者もいる[22]。またポセイドニオスがドルイドの中で生贄に直接手を下す特別な集団にウァテスという別の名称をあたえることで、ドルイドを生贄の儀式から切り離したのではないかという意見もある[23]

バード

吟遊詩人。ドルイドとウァテス程ではないがその職能はドルイドと重なりあう部分がある[24]

ガリア人の神

→ガリアでドルイド達が奉じていた神については「ケルト神話 § 古代ケルトの神々」を参照

人身御供の儀式

複数の古典文献において、ドルイドが人身御供の儀式に関わっていたことが記されている。しかしドルイドが自身の教義を残さなかった以上、人身御供の儀式を裏付ける考古学的な根拠を発見するのは困難となる。一見当時の生贄と思われる遺体が発見されてもそれが本当に生贄なのか罪人への処罰だったのか判断するのは難しい。さらにいえば罪人の処罰を生贄の儀式に利用した可能性や、戦死などの理由で死亡した遺体を宗教的儀式に利用した可能性もある。

イギリスで発見された湿地遺体であるリンドウ・マンは、人身御供の犠牲者であるとする見方がある。「彼」は健康状態がよく、爪が整っており高い身分の人間だったと推測されている。リンドウ・マンの腸にはヤドリギの花粉が残されており[25]、これはプリニウスが記したヤドリギを珍重し薬として用いるドルイド像を連想させる。しかし彼がドルイドによる人身御供の儀式の犠牲者、あるいは自ら望んで生贄となったドルイドそのものであったとしても、ガリアで同様の儀式が行われていたかどうかは断定できない。

グンデストルップの大釜の内側のプレート Eでは巨大な人型に捕まえられた人間が大釜に浸されようとしており[26]、 これが残酷な人身御供の儀式を示していると捉える見解がある。しかしこれについては三重の死英語版の一部を指していると見る向きもあり、またそもそも大釜自体がトラキア起源であり、プレートに示されているのは儀式ではないとする説も有力である。

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、ドルイドに関連するカテゴリがあります。

脚注

  1. もっとも、こうしたドルイドの信仰をプリニウスは完全に迷信と見做していた。
  2. プリニウス 2009, p. 290.
  3. 中沢 1997, pp. 322–323.
  4. 「ワットモウによれば『それまで書字は一般的な行為ではなかったが、ラテン語の流入とともに、自由に使える技術となった。それゆえに曲りなりにも文字が書きはじめられたとき、ほとんど例外なしに、ラテン語とラテン文字が使われることになった』のである。」(ピゴット 2000, pp. 53–54)
  5. 「またガリア南部からは、ギリシア文字で書かれた多数の碑文が発見されている。」(ピゴット 2000, p. 54)
  6. 「スイスで出土した前1世紀の鉄の剣には『コリシオス』という人名がギリシア文字で刻印されていたし、カエサルも曖昧な記述ながらガリアの知識層がギリシアのアルファベットにある程度通じていたことを伝えている。」(ピゴット 2000, p. 99)
  7. 例えばコリニーの暦英語版はドルイドの手によるものとされている。
  8. サンスクリットvedaと同源である(鶴岡 1999, p. 79)
  9. ルドルフ・トゥールナイゼン英語版による(中沢 1997, p. 270)
  10. 「そのために(ロブルを表すドリュスという)ギリシア語の言い換えから、ドルイドと称されたのではないか、と推測できるほどである。」(プリニウス 2009, p. 290)
  11. 「現在(原著の発行された1968年)のところ、プリニウスなどの古典古代の識者が指摘したのと同様、ギリシア語の『樫』(drus)と関係があるとみなす傾向にある。」(ピゴット 2000, p. 182)
  12. ヤン・デ・フリースによる(中沢 1997, p. 301)
  13. アイルランドにおける樹木崇拝の対象はイチイナナカマドハシバミなどであった(中沢 1997, p. 301)。
  14. フランソワズ・ル・ルー英語版クリスチャン・J・ギョンバールフランス語版による(中沢 1997, p. 321)
  15. 「現在では強意の接頭辞とする説のほうが有力である。」(中央大学人文科学研究所 1991, p. 19)
    「現在では『多く』を意味する〈強意の接頭語〉と解釈する説が有力である。」(木村 2012, p. 132)
  16. 原 2007, p. 137.
  17. グリーンは『ガリア戦記』においてガリアの知識層を指してサケルドスという単語が使われたとしている(グリーン 2001, p. 67)が、鶴岡は「古典古代のドルイドの記述のうちにドルイドを神官や僧侶-ギリシア語でἱερενςあるいはラテン語でsaerdos-と定義しているものはない。」(中沢 1997, p. 16)としている
  18. 宗教にまつわる高官の称号でありガリアの四つの碑文に登場する。『ガリア戦記』8-38にカルヌテス族英語版のグトゥアテルが登場するがこれを人名として解釈するのは誤りである(マイヤー 2001, p. 78)。
    CIL XIII, 1577 adlector(?)] ferrariar(um) gutuater praefectus colon(iae) [3] / [3] qui antequam hic quiesco liberos meos [3] / [3] utrosq(ue) vidi Nonn(ium) Ferocem flam(inem) IIvirum bis [
    CIL XIII, 2585 C(ai) Sulp(ici) M(arci) fil(ii) Galli omnibus / honoribus apud suos func(ti) / IIvir(i) q(uinquennalis) flaminis Aug(usalis) P[3]OGEN(?) / dei Moltini gutuatri(?) Mart(is) / sevir cui ordo quod esset civ(is) / optimus et innocentissimus / statuas publ(icas) ponendas decrev(it) // ]DO[3]VSVA[3]/diorata Mato Antullus / Mutilus Combuocovati f(ilius) / ex v(oto) s(olvit) // Iovi et Aug(usto) / sacrum
    CIL XIII, 11225 Aug(usto) sacr(um) / deo Anvallo / Norbaneius Thallus gutuater / v(otum) s(olvit) l(ibens) m(erito)
    CIL XIII, 11226 Aug(usto) sacr(um) / deo Anvallo / C(aius) Secund(ius) Vi/talis Appa / gutuater / d(e) s(uo) p(osuit) ex voto
  19. "semnotheoi" 月川はその意味を「尊き神々」と解説している。(中沢 1997, p. 329)
    「そしてケルト人やガラタイ(ゴール)人たちのところにはドリュイデスないしはセノムテオスと呼ばれる人たちがいたのであり、」(ラエルティオス 1984, p. 13)
  20. 「あらゆるガリア人のうち格別に敬われている人々は、一般に三つの階級がある。バルドイと預言者とドリュイダイである」(ストラボン『地理誌』4.4)(中沢 1997, p. 342)
    「この地域一帯では、人々は次第に文明化され、高度な学問の探求が盛んだが、それはバルディ〔バード〕とエウハゲス〔預言者〕とドリュシダエ〔ドルイド〕が創始したものである。」(アンミアヌス・マルケリヌス『ローマ史』15.9.8)(中沢 1997, p. 345)
  21. マッカーナ 1991, p. 14.
  22. 「『ウァテス』は占いの担当者で,したがって非常な権力を持っていた.ドルイド僧と同様の宗教上の権限を有し,かつ『物理』に関する知識があるとみなす学者もいるくらいなので、その権勢の程がしのばれる.」(デュヴァル 2001, p. 627)
  23. 中央大学人文科学研究所 1991, p. 30。これを述べた月川は「思いつき」であると冒頭で断りを入れてはいる(中央大学人文科学研究所 1991, p. 19)
  24. 失われたポセイドニオスの著書に、ドルイドが行ったとされる戦の仲裁にバードが関わっていたとする記述があったと考えられる(中央大学人文科学研究所 1991, p. 30)
  25. グリーン 2000, p. 129.
  26. グリーンはストラボンの『地理学』を引用し、喉を切り裂いた人間の傷口から流れる血を大釜に集めようとしている場面であるという解釈も可能であることを示している(グリーン 2000, p. 118)。
  27. 『ブルターニュのパルドン祭り --日本民俗学のフランス調査』新谷尚紀 関沢まゆみ 悠書館 2008 p.284

参考文献

関連書籍

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  • ジェームズ, サイモン 著、井村君江 吉岡晶子 渡辺充子 訳『図説ケルト』東京書籍、2000年。ISBN 4-487-79411-0 

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