2025年4月3日木曜日

西周斉地出土青銅器銘文 - 博客 金烏工房

西周斉地出土青銅器銘文 - 博客 金烏工房
西周斉地出土青銅器銘文 - 博客 金烏工房
https://blog.goo.ne.jp/xizhou257/e/79725e1187eab6c163e08caaa9699d17

西周斉地出土青銅器銘文

入院中は当然のことながら『文物』『考古』などの中文専門誌を見ることが出来ない状態でした。それで退院する少し前に指導教授と電話で「最近何か新しい遺跡とか金文とか出ました?」「いやあ、そんなに大したの出てないな」というような話をしていたのですが、本日nagaichiさんの『枕流亭ブログ』を見ると以下のような記事が……

「太公望の墓……?」

要するに最近山東省淄博市高青県陳荘村にて西周期の墓葬やら車馬坑やらが発見され、おまけに「斉公」の銘がある青銅器まで出土したもんだから現地では「ここが太公望の墓だ!」という説まで出て来て大騒ぎという話です。「斉公」の銘のある青銅器については次の記事を参照。

「山東省首次発現"斉公"銘文和西周刻辞卜甲」(中国新聞網)

記事中では銘文の字釈を微妙に間違えてますが、「豊肇作厥祖甲斉公宝尊彝」、すなわち豊という人物が初めて祖先の祖甲斉公を祀る青銅器を作ったとありますね。ただ、上の記事の画像だと肝心の「斉」の字がどうもはっきりしないのですが……

で、nagaichiさんの記事によると、今月に入ってこの遺跡から出た70余字の銘文を持つ青銅器が発表されたとのこと。次の記事は銘文の比較的はっきりした写真が掲載されているものです。

「山東陳荘西周遺址発現站立殉馬 重要性或超曹操墓」(新華網山東頻道)

ただ、肝心の銘文の写真が上下逆さまの状態なので、これをひっくり返してみました。



これを文字におこしたのが以下の文。後ろに(?)が着いているのは不確かな文字、□の部分は読み取れなかった文字です。(「これはこの字じゃね?」という意見がありましたら御教示下さいませ。)また、「女」字を直接「汝」字に置き換えるなど、通仮字に関しては寛式で表記してあります。

隹正月壬申王各于周(?)龏大室王若曰引余既命汝更乃祖(?)□司斉師余唯申命□賜汝彤弓一(?)彤矢百馬四匹□乃□毋敗□引拝稽首対揚□□同□追俘兵用作□公宝簋子子孫孫宝用

下はその書き下し文。

隹れ正月壬申、王、周の龏大室に各(いた)る。王若(かくのごと)く曰はく、「引、余既に汝に命じて乃の祖を更(つ)がしめ、斉師を□司せしむ。余唯れ命を申(かさ)ぬ。□汝に賜彤弓一・彤矢百・馬四匹を賜う。□乃□、毋敗□。」引拝稽首し、□□に対揚す。同□追して兵を俘し、用て□公の宝簋を作る。子子孫孫宝用せよ。

新華網の記事中の銘文の大意を参照して分からない所を適当に補って訳すと、こんな感じ。

正月壬申の日、周王は周の共王を祀る宮室に到来した。(そこで引という人物に対して)このように言われた。「引よ、余は以前に汝に先祖を継いで斉の軍隊を管理するよう命じた。余は再び同じ命令を与える。汝に赤色の弓一・赤色の矢百・馬四匹を与える。慎んで汝の職に勤め、戦いに敗れないようにせよ。」引は拝礼叩頭し、王の恩寵に感謝の意を示した。……敵軍を追撃して得られた兵器を用いて、ここに□公を祀る簋を作る。子々孫々これを宝物として用いよ。

形式としては西周金文によくある周王による官職任命を記したもので、冊命金文に類するものです。この銘文自体は太公望とは直接関係のないものですね。銘文に出て来る引という人物が斉侯の子孫・一族なのかどうかもよく分かりません。当然陳荘の墓葬が太公望のもの云々という話も眉に唾付けて見る必要があるでしょう。これについては新華網の記事でも後ろの方に「ただ、現在の状況では、出土した城址の面積は比較的小さく、かつその中に墓葬があるだけで、生活区が発見されていないので、斉国の都城であるはずはなく、また斉国国君の墓葬であるはずもない」とあり、慎重ですね。銘文の年代は「龏大室」すなわち共王の宮室という言葉からすると、西周6代目共王より後、西周中期後半以後ということになるでしょう。

この銘文で興味深いのは、「斉師」すなわち斉の軍隊が斉国ではなく王朝の管轄下にあったということですね。師[宀袁]簋や史密簋といった他の銘文を参照しても、やはり周王に直属する貴族が斉師を率いて淮夷やら山東方面の現地勢力を討伐したりしてます。ここから斉国と王朝の関係がどんなもんだったのかとか、(『史記』斉世家を見ると、斉の哀公が周に煮殺されてたりして、周と斉の関係が穏やかではなかったことが窺われるのですが)そもそも軍隊の管轄権が王朝に握られている時点で斉が諸侯国としての体を成していたのかとか様々な疑問があふれてきます。しかし何にせよこの銘文が論文のネタにしやすいことは確かなのであります(^^;)

古代中国 よみがえる英雄伝説 紂王と太公望~王朝交代 古代最大の決戦~ 2013 制作番組 | テレビマンユニオン | TV MAN UNION





長江文明を担ったハニ族,イ族は日本にきたか?【日本人のルーツシリーズ】 https://youtu.be/g4MEHMEHYVQ?si=kThcwE8Pet6Ck7Na @YouTubeより


チャン族(羌族)は日本に来たか【日本人のルーツシリーズ】 https://youtu.be/0N4biKTcfK0?si=n4HiFJxc1Fv5y40O @YouTubeより
みどりTV

羌族とイ族
縄文人の正体

【口外禁止】これが最後です。 https://youtu.be/8BbtcudZzmE?si=YVXq48_n9Bd6HXoz @YouTubeより

【日本人の起源】ルーツは古代中国!?羌族と日本人の関係とは【ゆっくり解説】 https://youtu.be/jVVjIpG_Ra8?si=qxqBud5hCwDVOOB2

【中国が隠したい歴史】秦は漢民族ではない羌族と始皇帝による王朝!?  【秦氏と月読命⑥】進撃 https://youtu.be/VdzWQv0AXhI?si=-Jj0GHKil70nKMRJ

【日ユ同祖論】羌族と日本人の関係…遺伝子と共通点による考察 https://youtu.be/1a4f4VsK6E0?si=aZCRCkQfqAexqHLO @YouTubeよりハテナ

羌の滅亡 最後まで残った異民族 https://youtu.be/Qe2bTuJ3Tpg?si=qycimDNvCtBZr_ng @YouTubeよりhttps://youtu.be/Qe2bTuJ3Tpg?si=qycimDNvCtBZr_ng

羌の滅亡 最後まで残った異民族 https://youtu.be/Qe2bTuJ3Tpg?si=7NiJaXknGZFdUsnv @YouTubeより

【キングダム羌瘣のモデル】羌族は縄文人と同族で中華の伝説の民族だった https://youtu.be/c3bP_Yxqs10?si=vexPIwzRFbVq-6a6 @YouTubeより















https://www.tvu.co.jp/program/201301_chugokurekishi/
 再放送のお知らせ
2017年
12月30日(土) 7:30~ 9:00
1月17日(火)16:30~18:00
9月 7日(木)15:00~16:40
NHK BSプレミアム

去年の暮れからほぼ1年間取材したNHKスペシャル「中国文明の謎」。Nスペの「漢字」という視点ではなく、殷と周の時代を2人の主人公の物語に仕立て直してお届けします。
主人公1人目は史上最悪の王と呼ばれる殷の紂王(ちゅうおう)。美女・姐己(だっき)に現を抜かし、酒池肉林の狂乱を繰り広げ、諌める家臣は心臓を抉り出す、という欲望全開の王。
対するもう1人の主人公は、天才軍師・太公望。妻に捨てられる等の苦節の末に小国・周を導き遠謀智略をもって大国・殷を倒す、とされる人物。まさに対極の2人というのが巷説の談。でも歴史の真実は果たしてそうなのか!?
中井貴一さんをナビゲーターに、コテコテの「勧善懲悪」の裏に潜む、人間の弱さと、したたかさを浮彫りにする90分です。
阿部修英

ナビゲーター 中井貴一









2009年山東省で韻を倒した直後の青銅器発見
文祖斉公
開祖太公望





2008年から2010年にかけて、山東省高青県陳荘村で西周斉国の貴族の墓群が発掘されたが、18号墓からは「祖甲斉公」という銘文が記された青銅器が発見されている。この銘文は、十干諡号を用いているのが注目される。『史記』斉太公世家によると、斉の国君は2代目の丁公から4代目の癸公まで十干諡号を用いており、佐藤信弥は、これを初代斉侯の号であると主張した[26]

  1. ^ 佐藤信弥 「周―理想化された古代王朝」(中央公論新社、2016年)


周―理想化された古代王朝 (中公新書) Kindle版 


 立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員  佐藤 信弥

『史記』などの伝世文献では、文王・武王の師として殷王朝の打倒を助け、斉に封じられたとされる太公望だが、同時代史料の西周金文などでは、周公や召公に関する記録が比較的豊富に存在するのに対し、太公望に関しては明確な記録が発見されていなかった。

近年山東省高青県陳荘村西周斉国遺址より、「文祖甲斉公」の銘文を持つ西周早期の青銅器が発見され、これが初代の斉侯、すなわち太公望に相当する人物であると見なされるようになった。しかしこの「文祖甲斉公」が文王・武王の師として伝世文献に見えるような功業を立てたかどうかはわからず、かつ清華簡『封許之命』を参照すると、彼は姜姓呂氏のワンオブゼムでしかなかったのではないかと推測される。

春秋早期には、新出金文の復封壺によって太公望が「太王」と王号でもって呼称されていたことが確認される。太公望が周王と対等の同盟者であったという「歴史認識」が当時存在したことを示すものであろうが、この王号は早い段階で放棄されたと見られ、『左伝』『国語』では一貫して「太公」と呼称され、「周室の股肱」「王の舅」と位置づけられている。これはおそらく斉の桓公の覇権が周王朝によって追認されたことに伴う措置である。





 西周斉地出土青銅器銘文 - 博客 金烏工房

西周斉地出土青銅器銘文

入院中は当然のことながら『文物』『考古』などの中文専門誌を見ることが出来ない状態でした。それで退院する少し前に指導教授と電話で「最近何か新しい遺跡とか金文とか出ました?」「いやあ、そんなに大したの出てないな」というような話をしていたのですが、本日nagaichiさんの『枕流亭ブログ』を見ると以下のような記事が……

「太公望の墓……?」

要するに最近山東省淄博市高青県陳荘村にて西周期の墓葬やら車馬坑やらが発見され、おまけに「斉公」の銘がある青銅器まで出土したもんだから現地では「ここが太公望の墓だ!」という説まで出て来て大騒ぎという話です。「斉公」の銘のある青銅器については次の記事を参照。

「山東省首次発現“斉公”銘文和西周刻辞卜甲」(中国新聞網)

記事中では銘文の字釈を微妙に間違えてますが、「豊肇作厥祖甲斉公宝尊彝」、すなわち豊という人物が初めて祖先の祖甲斉公を祀る青銅器を作ったとありますね。ただ、上の記事の画像だと肝心の「斉」の字がどうもはっきりしないのですが……

で、nagaichiさんの記事によると、今月に入ってこの遺跡から出た70余字の銘文を持つ青銅器が発表されたとのこと。次の記事は銘文の比較的はっきりした写真が掲載されているものです。

「山東陳荘西周遺址発現站立殉馬 重要性或超曹操墓」(新華網山東頻道)

ただ、肝心の銘文の写真が上下逆さまの状態なので、これをひっくり返してみました。


これを文字におこしたのが以下の文。後ろに(?)が着いているのは不確かな文字、□の部分は読み取れなかった文字です。(「これはこの字じゃね?」という意見がありましたら御教示下さいませ。)また、「女」字を直接「汝」字に置き換えるなど、通仮字に関しては寛式で表記してあります。

隹正月壬申王各于周(?)龏大室王若曰引余既命汝更乃祖(?)□司斉師余唯申命□賜汝彤弓一(?)彤矢百馬四匹□乃□毋敗□引拝稽首対揚□□同□追俘兵用作□公宝簋子子孫孫宝用

下はその書き下し文。

隹れ正月壬申、王、周の龏大室に各(いた)る。王若(かくのごと)く曰はく、「引、余既に汝に命じて乃の祖を更(つ)がしめ、斉師を□司せしむ。余唯れ命を申(かさ)ぬ。□汝に賜彤弓一・彤矢百・馬四匹を賜う。□乃□、毋敗□。」引拝稽首し、□□に対揚す。同□追して兵を俘し、用て□公の宝簋を作る。子子孫孫宝用せよ。

新華網の記事中の銘文の大意を参照して分からない所を適当に補って訳すと、こんな感じ。

正月壬申の日、周王は周の共王を祀る宮室に到来した。(そこで引という人物に対して)このように言われた。「引よ、余は以前に汝に先祖を継いで斉の軍隊を管理するよう命じた。余は再び同じ命令を与える。汝に赤色の弓一・赤色の矢百・馬四匹を与える。慎んで汝の職に勤め、戦いに敗れないようにせよ。」引は拝礼叩頭し、王の恩寵に感謝の意を示した。……敵軍を追撃して得られた兵器を用いて、ここに□公を祀る簋を作る。子々孫々これを宝物として用いよ。

形式としては西周金文によくある周王による官職任命を記したもので、冊命金文に類するものです。この銘文自体は太公望とは直接関係のないものですね。銘文に出て来る引という人物が斉侯の子孫・一族なのかどうかもよく分かりません。当然陳荘の墓葬が太公望のもの云々という話も眉に唾付けて見る必要があるでしょう。これについては新華網の記事でも後ろの方に「ただ、現在の状況では、出土した城址の面積は比較的小さく、かつその中に墓葬があるだけで、生活区が発見されていないので、斉国の都城であるはずはなく、また斉国国君の墓葬であるはずもない」とあり、慎重ですね。銘文の年代は「龏大室」すなわち共王の宮室という言葉からすると、西周6代目共王より後、西周中期後半以後ということになるでしょう。

この銘文で興味深いのは、「斉師」すなわち斉の軍隊が斉国ではなく王朝の管轄下にあったということですね。師[宀袁]簋や史密簋といった他の銘文を参照しても、やはり周王に直属する貴族が斉師を率いて淮夷やら山東方面の現地勢力を討伐したりしてます。ここから斉国と王朝の関係がどんなもんだったのかとか、(『史記』斉世家を見ると、斉の哀公が周に煮殺されてたりして、周と斉の関係が穏やかではなかったことが窺われるのですが)そもそも軍隊の管轄権が王朝に握られている時点で斉が諸侯国としての体を成していたのかとか様々な疑問があふれてきます。しかし何にせよこの銘文が論文のネタにしやすいことは確かなのであります(^^;)















史記1
本紀4

周本紀第四  周の后稷は名を弃といい、母は有邰氏の女で姜原(姜は姓、原は名)といった。姜原は帝嚳の元妃(正后)であったが、ある日、野原に出ると巨人の足跡があり、それを見ると心がうきうきして践んでみたい気になった。それで践んでみると身中が動くように感じ、みごもったようであった。一年たつと子供が生まれたので、不吉なこととし、狭い小路に棄てたが、そこを通る馬や牛は、みな子供をよけてふまなかった。そこでうつして林の中に置いたところ、たまたま山林に人出が多かったので、さらにうつして溝の中の氷の上に棄てたが、飛鳥が来て翼でおおい暖めた。それで姜原は、この子供を神の童と思い、ついに収養して育てた。はじめ棄てようとしたので、名を弃(棄の字と同じ)とつけた。弃は小児の時からきりっとして成人のようで、その志も大人のようであった。遊びにも麻(昔は麻の実を食べた。五穀の一種)を植えたり菽(五穀の一種)を植えたりすることが好きで、その麻や菽がまたりっぱに実った。成人すると農耕が好きで、土地のよいところを見ては、穀物として食べられるものを植え、その実を取り入れたので、民はみな弃にのっとって稼穡(穀物を植えたり取り入れること)をつとめた。帝舜は、これを聞き、弃を挙げて農師(官名)としたので、天下の者は大いに恩恵を受け功労が大きかった。帝舜は、「弃よ、おまえは人民がはじめて飢えた時、后稷(農耕を司る長官。農師に同じ)となって百穀を播いて民を救った」とほめ、弃を邰(陝西・武功)に封じて后稷と号した。別姓は姫氏である。  后稷が興ったのは陶唐(帝尭)・虞(帝舜)・夏(大禹)の折で、これら三代の王に仕えて世々名声が高かった。后稷が卒すると、子の不が立った。不の末年に、夏后氏(夏朝)の政治が衰え、稷官(農官)をやめて農耕に務めなかったので、不は職を失い、逃げて戎狄の間に入った。不が卒して子の鞠が立ち、鞠が卒して子の公劉が立った。公劉は戎狄の間に生活していたが、また后稷の業を修めて耕種をつとめ、また各地をめぐって漆・沮(ともに川の名)から渭水を渡り、材木を取り出して用に当てた。このため民は富んで、行く者は資財をもち、居る者は貯蓄があり、百姓は徳になついて、他国からうつって来るものも多かった。周朝が興ったのは、実にここから始まるのであって、詩人が公劉の徳を思い、うたい楽しんで頌讃したのもこのためである(詩経・大雅の篤公劉を指す)。  公劉が卒して、子の慶節が立ち、豳(陝西・)に国を立てた。慶節が卒すると、子の皇僕が立ち、皇僕が卒すると、子の差弗が立ち、差弗が卒すると、子の毀が立ち、毀が卒すると、子の公非が立ち、公非が卒すると、子の高圉が立ち、高圉が卒すると、子の亜圉が立ち、亜圉が卒すると、子の公叔祖類が立ち、公叔祖類が卒すると、子の古公亶父が立った。古公亶父は、また后稷・公劉の業を修め、徳を積み義をおこなったので、国人がみな君として愛戴した。時に戎狄の薫育(葷粥・獯鬻などとも書かれのちの秦漢時代の匈奴と同種か)が侵入し、財物をかすめようとしたので、古公がこれを与えると、また侵入して、こんどは土地と人民を奪おうとした。民はみな怒って、戦おうとすると、古公は、「民が君を立てるのは、それで民の利益をはかろうがためである。いま戎狄が攻めて来るのは、わが土地と民を手に入れるためだが、戎狄でも民の利益をはかるなら、民がわが下にあると彼の下にあると、なんのちがいがあろう。それをわしのために民が戦うというなら、人の父子を殺して、われわれはどうして君になっておれよう」と言い、自分の一族と豳を去って、漆・沮を譲り、梁山を越え、岐山の麓に止まった。すると豳人は国を挙げて、老人を扶け子供を携え、またことごとく古公を慕って岐山の麓にやって来た。そればかりかほかの隣国の者も、古公の仁慈を聞いて、出かけて来る者が多かった。  そこで古公は戎狄の風俗を卑しいとしてしりぞけ、はじめて城郭や家屋を築き、邑を区画して人民をおらせ、五官有司を設けて人民を治めさせた。それで人民は、みなうたい楽しんで古公の徳を頌揚した(詩経の魯頌閟宮篇、周頌天作篇、大雅・緜篇に見える)。古公の長子を太伯、次子を虞仲といい、ついで太姜(古公の妃で、太伯・虞仲の母)が末子の季歴を生んだ。季歴は太任をめとったが、太姜・太任ともに賢婦人であった。太任が昌を生んだとき、聖瑞(聖人の瑞祥。赤い雀が丹書をくわえて昌の産屋に止まった)があったので、古公は、「わが子孫に、きっと興隆する者があり、おそらく昌の時だろうか」と言った。太伯と虞仲は、古公があとつぎとして季歴を立て、ついで昌に伝えたい心があるのを知り、二人でにげて荊蛮の地にゆき、身に入墨をし髪を切り、世継ぎの順を季歴に譲った。古公が卒して季歴が立った。これが公季である。公季は古公の遺した道を修め、義をおこなうことが篤かったので、諸侯が服従した。公季が卒すると、子の昌が立った。これが西伯文王である。文王は后稷・公劉の業にしたがい、古公・公季の法にのっとり、仁に篤く、老を敬い、少を慈しみ、賢者を礼し、日中(太陽が中天に来る正午)まで食事のいとまもないほどよく士を遇したので、士は多く文王に帰服した。  伯夷と叔斉は孤竹国(神農の子孫が建てた国で、今の河北・東北部地方か)にあったが、西伯がよく老人をいたわると聞き、そのもとにいって帰服しようとし、太顚・閎夭・散宜生・鬻子・辛甲大夫の徒も、みないって帰服した。崇侯虎は西伯を殷の紂王に讒言して言うよう、「西伯は善を積み徳をかさね、諸侯はみな彼に心を向けています。これでは、そのうち帝にそむくようになりましょう」と。  紂王は、そこで西伯を羑里にとらえた。閎夭らが心配して、有莘氏(禹の子孫の建てた国で、今の陝西西部地方か)の美女や驪戎(戎狄の国名で今の陝西・臨潼地方にあったといわれるが不詳)の文馬(駿馬で、たてがみが赤く体が縞で目が黄金のような馬と伝う)、有熊(国名、河南・新鄭地方)産の九駟(三十六匹の馬)その他の珍奇な物を求め、殷王の寵臣の費仲の手をとおして紂王に献じた。  紂王は大いに喜び、「この一つでも西伯をゆるすに十分なのに、まして、こんなにたくさんあっては──」と言って西伯をゆるし、弓・矢・斧・鉞を賜うて、西伯に征伐の権を与え、「西伯を讒言したのは崇侯虎だ」と言った。そこで西伯は洛西の地を献じ、紂王に炮烙の刑を廃するよう請うと、紂王はこれを許した。かくて西伯はひそかに善行を施したので、諸侯は争い事があると、みな西伯に訴えて曲直を決した。虞・芮(ともに山西・河東にあった国)二国の国人に争訟があり、是非が決しなかった。西伯に訴えるため周に行ったところ、周の国境を入ると、田を耕す者はみな畔を譲り合い、民の風習はみな長者に譲り合っていた。虞・芮の人は、まだ西伯に会わないのに自ら恥じ、たがいに、「われわれの争うところは、周人の恥とするところである。どうして訴えにゆくことができよう。ゆけば、ただ恥をかくだけである」と言い、ついに帰って共に譲りあった。  諸侯はこれを聞いて、「西伯こそ受命(天命を受けた天子)の君である」と言った。翌年、西伯は犬戎(戎狄の一種)を伐ち、その翌年密須(国名。陝西・涇州地方)を伐ち、そのまた翌年に耆国(既述の飢の国で山西・黎城地方にあったといわれる)を破った。殷の祖伊が、これを聞きおそれて紂王に告げると、紂王は、「天命はわれにあるのだから、西伯に何ができよう」と言った。その翌年(国名。今の河南・河内地方にあったという説もあるが不詳)を伐ち、そのまた翌年に崇侯虎(崇は今の西安の近く地方か)を伐って、豊邑(陝西・の豊水の西)をつくり、岐山の麓からうつって、ここを都とした。  その翌年西伯が崩じ、太子の発が立った。これが武王であって、西伯の在位は、およそ五十年であった。羑里にとらわれている時、易の八卦を敷衍して六十四卦としたもののようである。また詩人は西伯が受命の年に王を称し、虞・芮の訟を断じたようにいう。その後七年で崩じ、文王と諡した。在位中は、殷の法律制度と暦を改めて周の制度暦法を作り、古公を追尊して太王とし、公季を王季とした。思うに、周が王を称する発端が太王の時に興ったからであろう。  武王が即位すると、太公望が師となり、周公旦が輔となり、召公・畢公らが王の軍を司り、文王の政治を継いだ。即位の九年、武王は畢(文王の墓のある地名。兵を司る畢という星の名とする説もある)で文王の墓前にお祭をし、東に兵を率いて盟津(河南・孟津渡)に行き、文王の位牌を作って中軍に置き、武王自ら太子発と称し、文王の命を奉ずるもので、自分の専断で討伐するのでないことを示した。司馬・司徒・司空など符節を受ける有司らに、「静粛謹厳にわがことばを聴き、信じて疑うなかれ。われは無徳の小子ながら、先公の徳によってその後をうけ、ここに賞罰を明らかにしてその功を定める」と誓言を告げ、ついに師を興した。  太公望は、「おまえらの部下の衆と、舟を早く整えよ。おくれる者は斬り捨てよう」と号令した。武王が黄河を渡ると、中流で白魚が王の舟中に躍り入った。武王は俯して、白魚を取って祭った。渡り終わると下流から火が上って来、また下流にかえろうと武王のいるところに来たとき、変じて鳥となった。色が赤く、「ハック」と鳴いた。

  この時、期日も約束しないのに、盟津に会同した諸侯が八百人あった。そして、みな、「紂を伐たねばならない」と言った。武王は、「おまえらは、まだ天命が殷を去らないのを知らないのだ。まだ時機ではない」と言い、師を帰らせ、自分も帰った。二年して紂王の昏乱暴虐は、いよいよひどく、王子の比干を殺し、箕子をとらえ、太師の疵や少師の疆は、祭儀の楽器を抱いて、周に逃げ出したと聞き、武王はあまねく諸侯に、「殷王の罪は重い。伐たねばならない」と告げた。そこで文王の位牌を奉じ、ついに兵車三百乗と勇士三百人および兵四万五千人を率いて東のかた紂王を伐った。

この時、期日も約束しないのに、盟津に会同した諸侯が八百人あった。そして、みな、「紂を伐たねばならない」と言った。武王は、「おまえらは、まだ天命が殷を去らないのを知らないのだ。まだ時機ではない」と言い、師を帰らせ、自分も帰った。二年して紂王の昏乱暴虐は、いよいよひどく、王子の比干を殺し、箕子をとらえ、太師の疵や少師の疆は、祭儀の楽器を抱いて、周に逃げ出したと聞き、武王はあまねく諸侯に、「殷王の罪は重い。伐たねばならない」と告げた。そこで文王の位牌を奉じ、ついに兵車三百乗と勇士三百人および兵四万五千人を率いて東のかた紂王を伐った。  武王即位の十一年十二月戊午の日、全軍が盟津を渡り、諸侯もことごとく会した。武王は「孜々として怠るな」といい、大誓を作って、みなに告げた。「殷王紂は、婦人の言を用いて、自ら天命を失い、天地人の正道を壊し、王父母弟(祖父母の族)を遠ざけ、祖先の楽(音楽)を棄てて淫楽をつくり、正音を乱して婦女をよろこばした。それゆえ、今われ発(武王)は、ここに敬んで天の罰をおこなう。将士らつとめよ。ただ一度の機会、二度となきこと、三度となきこと」と。  正月甲子の日、早朝、武王は商郊(殷の都朝歌の郊外)牧野にいって誓いを立てた。この日武王は、左手に黄金で飾った鉞を杖つき、右手に犛牛の白毛をつけた旗をもち、将士をさしまねいて、「遠く西土の将士ら、ご苦労であった」とねぎらい、「ああ、わが有国の大君(諸侯)はじめ、司徒・司馬・司空・次卿・衆大夫・師氏(大夫の官で兵を率い門を守る)・千夫の長・百夫の長、および庸(揚子江・漢水の南部)・蜀(四川)・羌(西蜀)・(巴蜀)・微(巴蜀)・纑(西北地方)・彭(西北地方)・濮(揚子江・漢水の南部)の八国蛮夷の人々よ、なんじらの干をならべ矛を立てよ。わしはいま誓いを立てよう」と言い、誓言を告げた。「古人は言えり。牝雞(めんどり)は晨を告げず、晨を告げるは家の滅びるしるしと。いま殷王紂は、ただ婦言を聴いて祖先の祭祀を報ぜず、暗愚にして家国を棄て、王父母弟をすてて用いず、四方の罪多く逃亡せる者を崇んで長とし、信じて用い、百姓を暴虐し高国(殷国)を残害す。ゆえに今われ発は、ここに敬んで天の罰をおこなう。今日のこと、ただ六歩七歩にしてとどまり、止まって軍を整えよ。つとめよ将士ら。敵を撃ち刺すも四度五度、多くも六度七度にとどめ、止まって軍を整えよ。つとめよや将士ら。こいねがわくは威武桓々、虎のごとく羆のごとく豺のごとく離(虎に似た怪獣)のごとく、商郊の牧野に武勇をあらわせ。逃れる敵はみだりに殺さず、これを西土の役(人夫)とせよ。つとめよや将士ら。なんじらもしつとめずば、なんじらの身戮せられん」と。  誓いが終わると、集まった諸侯は兵車四千乗をもって、軍を牧野につらねた。紂王は、武王が来ると聞いて、また兵七十万を繰り出して武王をふせいだ。武王は太公望に命じ、百夫(百人の兵)と共に、決戦の志を示して全軍の意気をあおり、大卒(戎車三百五十乗、士卒二万六千二百五十人、虎賁〔勇士〕三千人をいう)を率いて、馳せて紂王の軍に向かった。紂王の軍は数こそ多かったが、みな戦意がなく、心中はやく武王の入るのを願っていたので、みな武器をさかさまにして戦い、武王のために道を開いた。武王がその間を駆けると、紂の兵は総崩れとなって紂王にそむいた。紂王は走って引き返し、鹿台の上に登って、珠玉を身につけて自ら火に焼けて死んだ。  武王が大きな白旗を持って、諸侯をさしまねくと、諸侯はみな武王を拝した。武王も諸侯に会釈をし、諸侯はことごとく武王に従って、商の国都朝歌に入った。商の百姓は、みな郊外に出迎えていた。そこで武王は群臣に命じ、商の百姓に、「上天は商民に幸いを降した」と告げさせると、商民はみな再拝して頭を下げた。武王も答拝した。ついに紂王が死んだ場所へ行き、武王は自ら弓を引いて、三発射ると車を降り、軽呂(名剣の名。もとペルシャ方面の剣の意味の発音から来たとも言われる)の剣で屍を撃ち、黄鉞で紂の頭を斬り、大白の旗の先にかけた。ついで紂王の愛妾二人のところへ行くと、二女はくびくくって自殺した。武王はまた三発の矢を放ち、剣で撃ち、玄鉞で斬り、その首を小白の旗に懸けた。こうして武王は宮を出て軍営に引き返した。  翌日、道路を除い社を修め、紂王の宮殿も清めた。期日になり百人の兵が罕旗(のぼりのように細長い一種の旗)を荷うて先駆し、武王の弟の叔振鐸が儀仗車をつらね、周公旦が大鉞、召公が小鉞をとって、武王を中に左右につきそい、散宜生・太顚・閎夭らは、みな剣をとって武王をまもった。社に入ると、南側に立ち、中軍および群臣がことごとく従った。毛叔鄭が明水(鏡をもって月から取った水。祭祀に用う)を奉じ、康叔封が蓐席を布き、召公奭が采幣を賛け、太公望が犠牲を牽いた。史佚は筴書(ふだに書いた)の祝文を読んで寿詞を述べた。「殷の末孫季紂は、先王の名徳を荒廃し、神祇を侮辱して祀らず、商邑の百姓を暴逆す。それあきらかにあらわれて昊天上帝に聞こゆ」と。  ここで武王が再拝すると、史佚は続けて、「大命を膺更(引き受けて改める)して殷をあらため、天の明命を受けよ」と述べ、武王はまた再拝し、稽首して社を出で、商紂の子禄父を封じて殷の余民を与えた。しかし、殷が平定したばかりなので、武王の弟の管叔鮮と蔡叔度に禄父をたすけて殷を治めさせることとした。ついで召公に命じて、とらわれている箕子を釈放し、畢公に命じて、とらわれている群臣を釈放し、商容の郷里の里門を飾って表彰し、閎夭に命じて比干の墓を封じた。また南宮括に命じて、鹿台の銭を散じ、鉅橋の粟を発して貧民や弱者をにぎわし、南宮伯達と史佚に命じて九鼎宝玉をうつし、宗祝に命じて軍中に祭らせ、兵を率いて西に帰った。道々地方を巡狩し、政事を記して「武成(書経に見える)」を作り、諸侯を封じ、宗彜(宗廟に用いる酒器)を班賜し、分器(王の命を記す器物)を作った。  武王は先聖王の事績を追慕し、神農の子孫を焦(河南・陝)に、黄帝の子孫を祝(東海の祝其か)に、帝尭の子孫を薊(今の北京付近)に、帝舜の子孫を陳(河南・宛丘)に、大禹の子孫を杞(河南・杞)に封じた。また功臣謀士を封じ、その中で太公望が首封(封侯第一)であったが、営丘(山東・臨淄)に封じて斉といい、弟の周公旦を曲阜(山東・曲阜)に封じて魯といい、召公奭を燕(河北)に、弟叔鮮を管(河南・管城)に、弟叔度を蔡(河南・上蔡)に封じ、その他それぞれ功によって封を受けた。  武王は周に帰ってから、夜になっても寝なかった。周公旦が王のところへ行って、「どうして寝られないのか」と問うと、王が「おまえに打ち明けて言うが、天が殷の祭を饗けないようになったのは、わしがまだ生まれない時からのことで、今に六十年になる。その間、麋鹿(しか)は田を荒らし、蜚鴻(かつお虫)は野にみちて農事がすたれた。天が殷の祭を享けないので、いま周が王業を成しとげたが、はじめ天が殷を建てた時、賢人が三百六十人いた。しかし重用もしなければ礼遇もせず、そのまま滅んで今にいたっている。わしは今、殷を滅ぼしたが、はたして天佑を保有できるかどうか。だから心配でねむられないのだ」と言い、かさねて言った。「わしは天佑を定め、天室(天の皇室の徳)に頼って、ことごとく周に従わぬ悪人を求め、殷王紂の罪にしたがわせたい。そして日夜民をいたわり、西土を安んじ、政事を修明して、徳が四方におこなわれるようになればねむれるだろう。」  洛水の曲りから、伊水の曲りにかけた地方は、陽に位し平らな土地であって、夏の国の都したところである。武王は九牧(九州の長官)を召し、汾(河北)の阜にのぼって商邑を望み、また南三塗(河南・陸渾)を望み、北嶽鄙(太行山と近嶽の邑)を望んだが、つまびらかに洛・伊二水を見るとまったく天与の都の地であったので、周の都を雒邑に造営し、東都として西に帰った。そして馬を華山の南に放ち、牛を桃林(華山の東)の墟に放ち、干戈を偃せ、兵をやめ旅をといて、天下にふたたび兵車・軍隊を用いないことを示した。  武王が殷に勝って二年ののち、箕子に殷の滅んだわけを問うた。箕子は殷を悪く言うのに忍びず、ただ古来国が存亡したあとと、国を治める者のつとめを説いた。それを聞くと、武王も心に恥ずるところがあり、くわしく天道についてたずねた。  武王が病気になった。天下はまだ安定したわけではないので、群公は万一をおそれ、敬んで占いをした。周公は祓い清めて、自分の身を贄(供え物、礼物)とし、武王の身代りになろうと祈った。そのため武王は一度癒ったが、その後ついに崩じた。  太子の誦が代って立った。これが成王である。成王は年が若く、また周が天下を定めたばかりの時なので、周公は諸侯のそむくのを恐れ、自ら政を摂行して国事に当たった。管叔や蔡叔などの群弟は周公を疑い、武庚と乱を起こして周にそむいた。周公は成王の命を奉じ、乱を伐って武庚を誅し、管叔を殺し、蔡叔を放逐し、微子開を殷の後継者として宋に国を立てさせた。また多くの殷の余民を集めて衛(河南・汲)にうつし、武王の末弟の封を衛に封じて康叔と呼んだ。晋の唐叔が吉祥の穀(二つの苗が一穂になって実った穀)を得たので、成王に献じた。成王は、これを周公の軍営におくると、周公は東土で受け、天子の命を宣べた。  初め管・蔡(管叔・蔡叔)がそむいたとき、周公がこれを討ち、三年でことごとく平定したので、初めて「太誥(天子の教書)」を作り、ついで「微子之命」を作り、つぎに「帰禾」、つぎに「嘉禾」、さらについで「康誥」・「酒誥」・「梓材」(以上みな書経に見える)を作った。このことは周公の篇に記されている。周公は政をおこなうこと七年、成王が成長したので、政を成王にかえし、北面して群臣の地位についた。成王は豊邑におり、召公にまた洛邑を営ませること、武王の意思のようであった。周公はまた占って、かさねて土地を見、ついに洛邑に営築して、そこに九鼎を奉安し、「ここは天下の中央で、四方からの入貢に里程がひとしい」と言い、「召誥」と「洛誥」を作った。成王が殷の遺民をうつすと、周公はまた王命をもってこれを告げ、「多士」・「無佚」を作った(多士は殷氏のために告げたものであるが、無佚は成王のために作ったもので矛盾するという説がある)。ついで成王は召公を保(輔佐の役)とし、周公を師とし、東のかた淮夷を伐ち、奄国(山東・曲阜の北方。殷の一族の国)を滅ぼし、その君を薄姑(不明)にうつした。成王が奄から宗周(都の豊邑)に帰ると、「多方」を作った。  かくて殷の天命をしりぞけ、淮夷を襲うて天下が安定すると、豊邑において「周官(周の官制を記した書。書経に見える)」を作り、殷の礼楽を正して周の礼楽を興し、制度を改めたので、人民は和睦し、太平をたたえうたう声がおこった。成王が東夷を伐つと、息慎(粛慎。東方面の夷族の国)も来朝して慶賀を述べたので、栄伯(名誉諸侯の位。周と同じ姓を与え卿大夫とする)を賜い、「賄息慎之命」を作った。  成王は崩御に当たり、太子の釗が天子の任に堪えないのをおそれ、召公と畢公に命じ諸侯を統率して太子をたすけ、天子の位に立てるようにした。それで成王が崩ずると、二公は諸侯を率い太子釗を奉じて先王の廟に詣り、文王・武王が王業を成したのは容易なことでなく、たいせつなのは節倹につとめ、多欲を棄て、誠をもって民に対することであることを述べ、「顧命(臨終の命。書経に見える)を作った。こうして太子釗が立った。これが康王である。  康王は即位すると、あまねく諸侯に、文・武(文王と武王)の遺業を継ぐことを宣告し、「康王之誥」を作った。だから、成・康(成王と康王)の時代は天下安寧で、刑罰を用いないこと四十余年間に及んだ。康王は命じて冊書を作り、畢公に民の善悪によって住居を区別し、郊外の境界を明らかにさせようと、「畢命」を作った。康王が崩じ、子の昭王瑕が立った。昭王の時、王道がやや衰え、昭王は南方に巡狩して返らず、揚子江上で卒した。その卒したことを諸侯に知らせなかったのは、その死を諱んだためである(漢水を渡る時、船頭が膠ではった舟を進め、舟が中流にゆくと膠が解けて蔡公と共に水中に没したことを忌む)。ついで昭王の子の満が立った。これが穆王である。  穆王が位に即いた時は、年がすでに五十であった。王道が衰微し、文・武の道が継がれないのをあわれみ、伯を太僕(穆王がはじめて置いた衆官の長)に任じて国政を委ね、「命」を作ったので、やや安定した。穆王が犬戎を征しようとすると、祭公謀父が諫めて言った。「それはいけません。先王は徳をかがやかされたが、武威をしめすことはされなかった。兵は平時はおさめて動かさぬもの、動かすからには威がなければならず、みだりに動かせばなれておそれなくなります。周の文公(周公旦の諡)の頌にも、『すなわち干戈をおさめ、すなわち弓矢をつつむ。われ懿徳を求めて時の夏に肆く。まことなるかな王これを保つ(天下が治まっては、干戈を収め弓矢をしまって、また用いず、武王は常に美徳を求めて、これを天下に布こうとつとめ、まことに武王はよくこの美を保った)』とあるのです。先王は民に対しては、つとめて徳を正し、生を厚うし、財をゆたかにし、器物を便にし、利害を明らかにし、文をもってこれを修め、利を務めて害をさけ、徳に懐いて威を畏れさすようにされました。だから長く世を保って栄えたのです。むかし、わが先王は代々、后稷(農耕を司る官)を勤めて虞・夏に仕えられました。夏が衰えると稷官をやめて農事をつとめず、そのため先王不は官を失って、自ら戎狄の間にかくれたのですが、なお業を怠ろうとはされませんでした。爾来、諸先生は時に徳を序べて事に従い、教法を修めて朝夕勤め、敦篤に守り誠実に奉じ、累世徳を立てて前人(后稷)の徳を辱しめられなかった。文王・武王にいたっては、先王の光明をあきらかにされたばかりでなく、さらに慈と和を加え、神につかえ民をやすんじられたので、民は誰ひとり喜ばないものはありませんでした。商の帝辛(紂王)は大いに民をしいたげましたので、庶民は暴逆に堪えず、よろこんで武王を王に戴こうとしたため、ついに軍を商郊の牧野に出すようになったのです。だから先王は武事を務めたのではなく、民の苦痛をあわれんで、その害を除いたのです。かの先王の制では、邦内は甸服、邦外は侯服、侯衛(侯服の外、衛服の地方)は賓服、夷蛮は要服、その外の戎翟は荒服で、甸服の者は祭(甸服の中に領地をもつ君は日ごとにお祭の供物を貢ぐ)し、侯服の者は祀(月々お祭の供物を貢ぐ)し、賓服の者は享(四時のお祭に供物を貢ぐ)し、要服の夷蛮の君は貢(年々に貢す)し、荒服の戎翟の君は王(一王を終え継立の王が来貢する)したのです。日に祭し、月に祀し、時に享し、歳に貢し、終りに王するのは先王の訓であります。祭しない者があれば、天子は意を修めて自責し、祀しない者があれば言(命令)を改め、享しない者があれば文(法典)を改め、貢しない者があれば名(尊卑職貢の名目)を改め、王しない者があれば徳を修めるのです。意・言・文・名・徳の次序ができて、なお来ない者があれば、はじめて刑罰を加えます。すなわち、祭しない者は刑し、祀しない者は伐ち、享しない者は征し、貢しない者は譲め、王しない者は告げ戒めるのです。したがって刑罰には辟があり、攻伐には兵があり、征討には備えがあり、威譲(威力で責める)には命があり、文告には辞がありまして、令を布き辞を告げて、なお来朝しなくとも、天子はいよいよ徳を修めるだけで、軍をおこし、民を遠地に労するようなことはいたしません。かくてこそ近くは王命を聴かない者がなく、遠くは王命に服しない者がなくなるのです。いま大畢・伯士の死後、犬戎氏は常に貢ぎ物を持ち、来たって王しています。それだのに、天子が『享しないから、われはかならずこれを征し、兵をしめそう』と言われるのは、先王の訓をすてるもので、失敗するのではないでしょうか。わたしは犬戎の樹敦(犬戎の性情敦樸とするのが通説であるが、おそらくは君名と思わる)は、先王(大畢・伯士)の旧徳にしたがい、専一に守っていると聞いていますので、かならずや固くわが軍をふせぐことと思います。」しかし王は、ついに犬戎を征し、四つの白狼と四つの白鹿を得て帰った。これ以後、荒服の者は来ず、諸侯のうちでも不和がおこった。  甫侯が王に告げて刑罰をつくった。すると王は、これを天下の諸侯に告げて言った。「ああ来たれ。有国有土の諸侯らよ。今なんじらによく用刑の法を教えよう。なんじらが百姓を安んずるに、何をえらぶか。人を措いてほかになかろう。何を敬むか。刑を措いてほかになかろう。いかに処置するか。軽重よろしきを得るほかなかろう。原告・被告が至って用意が具われば、獄官らは誰に罪があるのか、よく聴き分けよ。聴いてたしかに罪験があるなら、五刑に当てはめて罪を正せ。五刑を適用するのに疑わしくば、五罰(五刑よりも一段軽い刑)に当てはめて罪を正せ。五罰にてらしても当たらないときは、五過(五罰よりも、さらに軽い罪)に照らして赦免せよ。ただ五過によって赦免するとき、官獄(高官、権勢あるものの獄)や内獄(身分のある女性の獄)には情実がはいりやすく、よく罪過を調べ、名実が伴うようにせよ。もし情実で罪を出入する者は、罪人と同罪にせよ。五刑・五罰に照らして疑わしいものには赦免の法があり、十分つまびらかに調べよ。罪跡確実で、衆人が有罪を認めても、なお間違いのないよう罪人の容貌態度を参考にせよ。確証のないものは嫌疑をかけず、天威を畏れて軽々に刑を用いてはならない。黥刑(いれずみの刑)の疑わしいものは赦して、百率(率は鍰ともいい、一率〔一鍰〕は黄鉄六両である)の罰金とし、名実の伴うようにせよ。劓刑(はなきりの刑)の疑わしいものは赦して、劓刑の二倍の罰金とし、名実の伴うようにせよ。臏刑(あしきりの刑)の疑わしいものは赦して、劓刑の二倍前後の罰金とし、名実の伴うようにせよ。宮刑(陰茎をきる刑)の疑わしいものは赦して、五百率の罰金とし、名実の伴うようにせよ。大辟(斬罪)の疑わしいものは赦して千率の罰金とし、名実の伴うようにせよ。黥刑の種類(赦免して罰金を課する各種の場合を数える。以下同じ)千、劓刑の種類千、臏刑の種類五百、宮刑の種類三百、大辟の種類二百、合計五刑の種類三千で、これを甫刑(甫侯が作ったため。また甫侯は初め呂に封ぜられたので呂刑ともいう)と名づける。」  穆王は即位五十五年で崩じ、ついで子の共王扈が立った。共王が涇水(陝西)のほとりに遊幸した時、密(国名。陝西)の康公が、お伴をしてゆくと、土地の者が三人の女を康公にたてまつった。康公の母が、「王に献上なさい。獣三匹を群といい、人三人を衆といい、女三人を粲といいます。王が狩りをされても群をみな取らず、諸侯が出遊しても衆をみなわずらわさず、王が婦官を容れられても、一族の参(一族の三人の意味で粲に同じ)をみなは容れられません。粲は美物です。地方の者が美物をおまえにたてまつったとて、どこに受ける資格があろう。王でさえいけないのです。ましておまえのような小者のこと。小者が美物を備えれば、終いにはきっと滅びます」と言ったが、康公は王に献じなかった。その後一年すると、はたして共王は密を滅ぼした。共王が崩じて、子の懿王が立った。懿王の時、王室はついに衰え、詩人が初めて諷刺の詩をつくった。懿王が崩ずると、共王の弟の辟方が立った。これが孝王である。孝王が崩ずると、諸侯はまた懿王の太子燮を立てた。これが夷王である。夷王が崩ずると、子の厲王胡が立った。厲王の即位三十年、利を好んで栄の夷公を近づけた。大夫の芮良夫が厲王を諫め、「これでは、王室が卑しくなりましょう。かの栄公は利を独り占めにするのが好きで、それからくる大難を知りません。利は百物の生ずるところで、天地の上に支えられるもの、これを独り占めにすれば、かならず害が多いのです。天地の支える百物は、みなが得ようとするもの、どうして独り占めしてよいものでしょう。それを独り占めにするのは、ただ恨み怒る者を多くするだけで、しかもそれから起こる大難に備えないのです。こんなことを王にお教えすれば、どうして長く王位を保てましょう。人の王たる者は、利を導いて上下に布き、神人百物が中和を得ないことのないようにしても、なお日に兢々として、恨みを受けるのを恐れねばならないものです。だから頌(詩経・頌)に、『ここに文なる后稷、よくかの天に配して、わが蒸民を立つ。なんじの極にあらざるなし(ここに文徳を具えた后稷は、よくかの天の徳に副うてわが万民を生かした。まことに后稷の中和の徳によらないものはない)』といい、大雅(詩経・大雅)に、『陳き錫うて周を載す(文王がよく民に利を施して周の道をなした)』とあるのです。これこそ利を上下に布いて、なお難を恐れるものではないでしょうか。だから周の政道がよく今日に至っているのです。いま王が利を独り占めにすることを学ばれて、それでよいものでしょうか。匹夫で利を独り占めにしても、なお盗といいます。王の身でそれをなされば、帰服する者がなくなりましょう。もしも栄公が用いられるなら、周はかならず滅びます」と言った。しかし厲王は耳を傾けず、ついに栄公を卿士として、政治にたずさわらせた。  王は暴虐で、驕り高ぶり、国人は王をそしった。召公が、「これでは人民はご命令に堪えません」と諫めると、王は怒って衛国出身の巫をかかえ、そしる者を告げさした。そして、告げれば殺したので、そしる者が少なくなった。諸侯は入朝しないようになった。即位の三十四年、王はますます監告を厳重にしたので、国人は誰もものいう者がなく、道路で会っても目くばせするだけであった。厲王は喜んで召公に、「わしはよくそしりをやめた。誰も言う者がない」と言うと、召公が、「それは防ぐのであってやんだのではありません。民の口を防ぐのは水を防ぐより危険です。水がふさがって潰えれば人を傷つけることが多いのですが、民の口を防ぐのも同じことです。だから水を治める者は、はけ口を開けて水を導き、民を治める者は、民に思うことを言わせるのです。天子の政では、公卿から列士まで、みなに思いのままの詩を献じさせ、瞽(薬師)には楽曲を、史官には書を、師には王を誡める箴言を献じさせます。(眸のない者)には公卿列士の献じた詩をうたわせ、矇(眸があって見えない者)には弦歌に合わせて箴諫の語をうたわせ、百工の諫言も聴き、庶人の伝語も許します。また近臣は時の得失を進め、親戚は王の過失を補い是非を察し、瞽・史(大夫)は教誨し、王の師傅はこれらを理めて上聞するのです。王はこれらを斟酌して、採るものは採り捨てるものは捨てるので、事が順調におこなわれ道理にもとるところがありません。民に口があるのは、土に山川があって財用がそこから出で、原野があって衣食がそこから生ずるようなものです。思うことを言えるか言えないかで、善政と悪政が分かれるのです。善政をおこなって悪政を避けるのが、財用衣食の豊かなもとで、民は心配があれば、これを口にのべ、よいようにしようとするもの、その口をふさいでもいつまで続くことでしょう」と諫めた。しかし王は聴かなかったので、国じゅう誰もあえて口を出す者がなくなった。三年すると、みなそむいて厲王を襲い、厲王は彘(山西・霍)に出奔した。厲王の太子静が召公の家に隠れたのを聞くと、国人は召公の家を囲んだ。召公は、「従前、わたしはしばしば王をお諫めしたが、王はお聴きいれにならなかったからこのようなご難にあわれたのであるが、いま王の太子をお殺ししたら、王はわたしを恨んでお怒りになろう。君につかえる者は、身が危くとも恨まず、恨んでも怒るものではない。まして王につかえる者にとっては」と言い、自分の子を太子の身代りとしたので、太子は難をのがれることができた。  その後、召公と周公の二相が政治をおこない、号して共和といった。共和十四年に、厲王が彘に死んだ。太子の静は召公の家に育てられていたが、二相で静を立てて王とした。これが宣王である。宣王が即位すると、二相は宣王をたすけて政治をおこない、文・武・成・康の遺風にのっとったので、諸侯はまた周を宗として入朝した。十二年には魯の武公が来朝した。  宣王は千畝に親耕する籍田の礼(古来天子は籍田を親耕して民の範を示し、周代では籍田千畝で、都の近郊にあり、その地をまた千畝と言ったものか)をおこなわなかった。罅の文公が、「それではいけません」と諫めたが、王は聴かなかった。三十九年、千畝で戦い、王軍は姜・氐(ともに西戎の一種)の戎に敗北した。このため南国(江漢地方)の兵をうしなったので、宣王は民をかぞえて新兵を太原から募集しようとした。仲山甫が、「民をかぞえてはいけません」と諫めたが、宣王は聴かず、ついに新兵を募集した。四十六年、宣王が崩じ、子の幽王が立った。幽王の二年に、都の成周から三川(涇・渭・洛の三水)地方に地震があった。伯陽甫が言った。「周は滅びようとしている。天地の気が正常なら秩序が失われない。秩序の失われるのは人が乱すからである。陽気が下に伏し陰気が迫って上にのぼらないと、地震がおこる。いま三川に地震があったのは、陽気が所を失って陰気にふさがれたからである。陽気が失われて陰気の下にあれば、かならず水源がふさがれ、水源がふさがれれば国はかならず滅びる。水土の気が通ずれば、うるおうて作物を生じ、民の用となるが、土にうるおうところがなければ、民の財用が乏しく、国の滅びることは疑いない。むかし伊(伊水)・洛(洛水)の水がつきて夏が滅び、黄河が涸れて商が滅んだ。いま周の徳は夏・商二代の末期に似ており、川原もふさがれた。ふさがればかならず水がつきる。国の存立はかならず山川の力によるもので、山が崩れ川がつきるのは亡国の徴候である。川がつきればかならず山が崩れる。もし国が滅びるなら十年のうちだろう。十は数の終りで、天の棄てるところ、十年を過ぎることはあるまい。」この年、はたして、三川が涸れ岐山が崩れた。  三年、幽王は褒姒(褒は国名、姒は褒国の姓で褒姒は褒国の女の意。これが名前に通用したのである)を寵愛した。褒姒が子の伯服を生んだので、幽王は太子を廃そうとした。太子の母は申侯の女で、幽王の正后であったが、その後、幽王が褒姒を愛して申后を廃し、あわせて太子の宜臼をすて、褒姒を后とし伯服を太子としようとしたのである。周の太史の伯陽は史記(史官の記した書)を読んで、「周は滅びるだろう」と言った。その史記には次のように書かれていた。 「むかし夏后氏(夏朝)が衰えると、二匹の神龍が現われ、夏帝の庭に止まって、『われは褒の二君(二人の先君)である』と言った。夏帝が、これを殺そうか、すてようか、止めておこうか占ったところ、不吉と出たので、さらに龍の(龍の吐く精気)を請うて貯蔵しようと占ったところ吉と出た。そこで供物を具え、簡策の書をつくって龍に告げ、を請うと、龍がいなくなってだけが残り、これを器物に容れて所蔵した。夏が滅んだとき、この器が殷に伝わり、殷

https://x.com/slowslow2772/status/1792155770362183777?s=61



 
 
slowslow2772
⁦‪@slowslow2772‬⁩
長江文明を担ったハニ族,イ族は日本にきたか?【日本人のルーツシリーズ】 youtu.be/g4MEHMEHYVQ?si… pic.twitter.com/WXy1pIbYdD
 
2024/05/19 20:30
 
 

ハプログループC系統がハニ族に17%いるというのが興味深い。18:00
これはCが北方民族に限定できないということだ。
原アジア人としてのCが南北に駆逐された可能性を意味する。
データ的にアジアへ来たのはDの方が先と言われるがCも無視できない。

 


《最近「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」という資料を見た》

張雲方サイト「羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国」より

久保有政「ムー」2024/01参照。

《つまり呂尚は「姜族」出身だったわけだが、じつは姜族と羌族は同族なのである。中国国務院発展研究センターの張雲方は、人民中国インターネット版の「羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里」に、「古字の「羌』と『姜」は同 じ字だった」と記している。 》

久保有政「ムー」2024/01

張雲方サイト《羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国》参照


チャン人の問題を提起するのは、最近「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」という資料を見たからである。わたしは、この可能性はかなり大きいと思う。なぜかといえば、当時、東部は何年も戦争が続き、加えて万里の長城と阿房宮など壮麗な御殿の修築によって、戸籍が凋落し、人口も危うい状態で、幼い子供は言うに及ばなかった。まして、始皇帝の性格から見れば、自分と血縁関係がある部落から人を選ぶのは理の当然である。


羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-11/09/content_228967.htm


https://x.com/slowslow2772/status/1763269464030941292?s=61


https://www.blogger.com/blog/post/edit/756445346920566665/3668298580435833588?hl=ja







広大な大陸を初めて統一した、

古代中国の英雄 =秦始皇帝。 

彼の生涯において

エネルギー源となったもの。 

それは遠い昔に故郷を追われた 

古代イスラエル人の血だったのだ! 

●特別企画 文=久保有政 イラストレーション=坂之王道 ユダヤ人だった!! 秦始皇帝は 渡来人「秦氏」の謎 漫画「キングダム」では描かれない中国裏面史と 一秦始皇帝と羌族、  



 『キングダム』のモデル 始皇帝にまつわる謎 



  若き日の秦始皇帝 (嬴政または政)と、その周囲の人物像を描く漫画、実 写映画の『キングダム』が人気だ。 

 始皇帝は、古代中国の戦国時代の秦(紀元前905~前206年)の第3 代君主である。 彼は勢力を拡大し、 周辺諸国を次々に攻め滅ぼし、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした。 

 秦は「支那=China」 の語源となった国でもある。 中国の初代皇帝となっ た彼は強大な権力をふるい、万里の長城も造らせた。 始皇帝はまた、死を恐 不老不死の妙薬を求めたが、 それはなんと毒性の強い水銀化合物だった。 それがかえって彼の寿命を縮め、4歳の若さで世を去ってしまう。 

 この秦始皇帝について、 「イスラエル人だった」という説が研究者の間にある。 にわかには信じがたいだろう。しかし古代中国というのは、われわれの想像を超えて東西民族の入り混じる大地だった。 

 この説の主な根拠は、以下のとおり である。 りょふい

 「始皇帝の実の父親と目される呂不韋は、趙の商人だったとされているが、 じつは羌族(彼らの言葉ではチャン族)であり、その羌族は古代イスラエルの 失われた10支族だったことが知られている」 本稿では、その真偽を探ってみたいと思う。 



古代イスラエル人のアッシリア帝国への降伏を描いたレリーフ。 彼らは捕囚され、 その後に離散した。 

古代イスラエルの失われた10支族 調査機関であるアミシャーブの所長 ラビアビハイル。 

盤古一太元聖母 燧人氏 風姓 趙氏贏姓 秦王家系図 伝説時代 (古国時代) 東 申の乱 非子 国立 秦国王室 洛 黄帝 秦候 公白 昌意 白思 泰仲 古代中国の秦第31代皇帝、始皇帝。 

恵文王 参昭襄王 


周辺諸国を次々に攻め滅 武王 氏 ぼし 中国史上初めて天下統一を果たした人物だ。 公 世父 襄公 注 

彼らの多くはおもにシルクロードを経てアフガニスタン、パキスタン、また東方の中国や、中央アジア、インド、ミャンマーなどへ向かった。今もそれらの地域には彼らの 子孫が住んでいる


=非漢 呂不韋 大雪面目保 衣冠村 成 女脩 原姓 名 きょうぞく 竹市今 夏王朝 ―― W 公 公 太子竫公 衍會 徳公出公 玄仲 若木 大 白 宜公 成公穆公 武公 BC221 天下統一 衍父 中衍 / 始皇帝政 扶蘇 秦国帝室 子羊 殷王朝 子( 嬴谢 公 桓公 景公 胡友の兄とも 扶蘇の弟、 渡来人の弓月君は この後裔を称する 父 民族


イスラエル由来の民族 羌族に残された風習 

 今日の中国は、人口の94パーセント が漢民族で、他は558の少数民族から成っている。 だがかつては、その少数民族によって築かれた強大な 王朝も存在していた。 そして秦もまた非漢民族の王朝だったのだ。 

 同様の非漢民族として、羌族の人々がいる。 羌族は現在、中国南西部の四 川省に住んでいる。 そこは紀元前316年以降、秦の版図に編入されていた 場所だ。 だから羌族と秦は、もとから関係が深かった。 歴史学者の翦伯賛は 「秦は、東遷した羌族と、 中原の人の末裔である」としている。 せんは ちゅうげん 

 羌族は、古代においては広く平地にも住み、とくに中国北西部に広がって いた。そこは西域にも近いところだった。 羌族は、始皇帝のあと 「五胡十六 国時代」(304~439年)に「五胡」(五大異民族)のひとつ、「羌」の 国を作っていたこともある。 

 しかしその後、国を失い、他民族に迫害されたため、 山岳地帯に逃げこん だ。 羌族には今では周辺民族の影響でアニミズム(精霊崇拝)も見られる が、その一方で古代イスラエル人由来の多くの風習・文化も多く残されている。 



 彼らは、エルサレムのアミシャーブ (古代イスラエルの失われた10支族の調査機関)によって、 「失われた100支族の出身」と認められている。 

 古代イスラエルの10 支族とは、紀元前72 1年にアッシリ ア帝国に捕囚さ れ、そ の後に 離散した人々である。 

 ラビ・トケイヤー著 『日本ユダヤ封印の古代史』によると、羌族のいい伝 えでは、彼らの先祖は西方の彼方の国から3年3か月の長旅を経てこの地域 にやってきたという。彼らは唯一神教を信じていた。 

 18世紀以降は周辺民族との同化が起こり、雑婚、宗教的混合等も進んだが、 それでもいくつかの伝統や宗教的慣習は残っている。伝承によれば彼らはア ブラハムの子孫であり、また父祖(ヤコブ) には12人の息子がいた。 

 羌族にはイスラエルの律法を守る風習があり、イスラエル人由来の明らかな 多くの特徴を持っている。彼らは悩みの日には神を「ヤハウェ」と呼ぶ。

 昔、羌族の人々は羊皮紙の聖なる巻き物を持っていたが、迫害された時代 に失ってしまったという。 今は口伝があるだけで、毎週祈りの言葉を唱える が、古代語であるために自分たちでも意味がわからない。


 蜚廉 趙の商人とされているが、じつ始皇帝の実の父親と目される呂不 は羌族の人であり、古代イスラエルの失われた10支族の末裔だった。 股周交代 惡來 牧野の戦い 西周時代 勇翠 太ル 大路 女防 季勝 王家 恵公 出子 簡公 太子夷公 恵公 悼公 共公 太子昭子 霊公 献 公 公 孝介 2 東周時代 始皇帝に至る、 正式な 中国王統の系図 (「秦朝 帝室系図」より)。 



门 () 高盟 (看) 《史记・秦始皇本紀》 34 三十二年, 始皇之偈石, 使燕人生求美 门、高盟。 刻石门。 0 出文 07200 ra'ah [ra:1 07200 ‎שמ0808508085 shama (sha-ma'] 字型: TWOT-2095;字型: TWOT-2412.2412a 代イ の宣教師たち- 古代イスラエル人』


  羌族の間でキリスト教 の宣教活動を行ったトーマス・トランスは、1937年に『中国に来た最初 という本を出版している。 彼によれば、羌族の伝統や風習は明らかに、古スラエルの失われた10支族出身を示すものだという。 


 筆者のもとにはまた、羌族について研究した中国の研究者エステル・チェ ンの論文もある。 それを読むと、羌族が古代イスラエルの失われた支族の子 孫であることは疑いようがない。

 始皇帝の本当の父親は羌族の呂不韋だった? 

 ただ、羌族自体は、中国において非常に古くから存在したといわれる民族 である。だからその古い時代の羌族が、やがて押し寄せたイスラエルの支族と の合体、混血、同化を経て、次第に「イスラエル的な羌族」になっていったと 考えたほうがいいだろう。 ちょううんぼう 

 中国の研究者ウ・ダミンによると、とくに中国北西部の羌族は、すでに秦 の時代にはイスラエルの失われた民で占められていたという。 

 では、この羌族と秦始皇帝はどのように関係するのだろうか。 そこには呂 不韋という人物の存在がある。 

 呂不韋は、類いまれなる頭脳を武器に、表向きは「趙の商人」として巨万の 富を作り、やがて秦の王族に取り入って、始皇帝の元で宰相にまでなった傑 物である。 この呂不韋は羌族だった。

 同じ「呂」の氏を持つ人として、 そ の昔、周の軍師呂尚(太公望)がいたが、彼の姓は「姜」、氏は「呂」と いった。中国において姓は民族を、 氏は氏族を表す。 りょしょう 

 つまり呂尚は「姜族」出身だったわけだが、じつは姜族と羌族は同族なの である。中国国務院発展研究センターの張雲方は、人民中国インターネッ ト版の「羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里」に、「古字の「羌』と『姜」は同 じ字だった」と記している。 また司馬 遷『史 記』にも「呂尚 は 本来の姓は『羌』であり….....」 とある。 


 この羌族=姜族は、居住した地域の 「ひとつに「呂」という地名をつけた。 「呂」はその地名由来の氏族名である。 また「呂」は古代楽器「篤」 (長い笛)の古名でもあり、これは 「羌笛」(羌 族の笛)から来ている。 このように呂氏は羌族である。 

 呂不韋も羌族で、彼は始皇帝のもとで宰相をつとめた。 始皇帝は一般には、 秦の第 30代の 始生作 以旦故 皇於趙政 趙氏 い事実である。 故生 ★自分の姿で あることを隠 し、呂不韋が 襄王に差し だした趙姫。 始皇帝の母で ある。 呂 紀」には、「始 皇帝は襄王 の子」と書か それは表向き れているが、 のことだった。 そうじょうおう 襄王と、 趙姫の間 に生まれ た子とさ れる。だがそれは表向き、 系図上のことで、趙姫は呂不韋の妾だった。 

 呂不韋は、趙姫が自分の妾であることを隠し、荘襄王に趙姫を差しだした。 司馬遷が編纂した 『史記』 「呂不韋列伝」によると、差しだされたとき、趙 姫は妊娠していたという。 つまり始皇帝は荘襄王と趙姫の子ではなく、呂不 韋と趙姫の子だというのだ。 はんこ 

 後漢時代の班固も、 『漢書』にて、始皇帝を「呂不韋の子」と書いている。 呂不韋は野望に満ちた人だったから、自分の血筋の子をひそかに皇帝にした いと思って、そうしたのかもしれない。 羨門を捜させた」と だが、バレればもちろん死罪だ。 


書かれているが、こ 69 1440 E しば 集めたのは、羌族出身である始皇帝が、同族の信頼できる人々を求めたからではないのか?

 「始皇帝の性格から見れば、自分と血縁関係がある地区から人を選ぶのは、 理の当然である」

と張雲方はいう。さらに、徐福はまた「神仙文化」に通じた人だったが、 その文化の源も山岳地帯の「羌族の文化だ」とも。 

 つまり秦始皇帝と羌族は、切っても切れない仲にあった。そしてもし徐福 が日本に来ていて、徐福の一団に羌族が多かったのであれば、日本にも、徐 


史記六 秦荘襄王子 東口院 この 「始皇帝は呂不韋の 「子である」という 『史記』や『漢書』の記述を、否定する見方もある。 『史記』「秦始皇本紀」には「始皇 口 帝は荘襄王の子」と記されているからだ。 の「羨門」がイスラエルの人名「シモン」の中国表記と思われるのだ。 だと すればこれは、当時の中国におけるイスラエル人の存在を示すものとなる。 


春秋』を翻訳したジョン・ ノブロック、ジェフリー・ リーゲルなどは、呂不韋=実父説は「始皇帝に対する 始皇帝の容貌は、西方諸国やイスラ 中傷であり」「作り話だ」としている。 『十批判書』を著した郭沫若)かくまつじゃく]も、他の書物との矛盾点をあげて否定している。 




イスラエルにつながる「秦始皇本紀』の記述 

 だが 『史記』 「秦始皇本紀」では、「始皇帝は荘襄王の子」と書かれてい る一方、始皇帝のことを「呂政」 と呼んでいる部分もある。 これは、始皇帝 が呂不韋の子という意味ではないのか。 

 さらに研究家ウ・ダミンによると、「秦始皇本紀」には「古代ヘブル (ヘ ブライ語の音を漢字で記録している部分がある」という。 そこには「始皇帝は3000人は羌族と戎族から集められた。 羌族から きょうてき 手於 羌族の人々。 彼らが古代イ スラエルの子 孫であること は、疑いのな 秦始皇本紀第六 名 おいて、古代 ヘブル語の音 を漢字で記録 ↑ 「史記」 「秦 始皇本記」 に している部分。 正格 「秦始皇本 

 また「秦始皇本紀」には、始皇帝がそれまでの秦の王とは異なる容貌の持 ち主だった、と思わせる記述がある。 兵法家の尉繚がこう記している。 

「秦王の人となりは、鼻が高くて、 蜂 のような恰好、切れ長の目、猛禽のよ うに突きでた胸、豹のような声だ」 

 始皇帝の容貌は、西方諸国やイスラエル人に近いものだったわけで、 日本国史学会の田中英道教授も、 「秦始皇帝がユダヤ人だったという説を支持する」と述べている。 

 一方、始皇帝といえば「徐福」が有名である。 始皇帝は不老不死の仙薬を 捜させるために、「徐福」とその一団を東方に遣わした。 これについてこん な資料があると、張雲方は書いている。 「徐福の東渡時に連れていった3000の童男童女は、羌戎から集めた」 

にゅう 

2008 皇帝になったユダヤ人 

し   


せきろく 

福とともに多くのイスラエル人が来ていたことになる。 もちろん、始皇帝自 身がイスラエル人の血筋をひいていた可能性は高い。 

 ところで、呂不韋の読みが「レヴィ」に近いことから、彼がイスラエルのレ ビ族出身だったという説も一部にある。 しかし、中国語では 「Lu Buwei」 と発音されるので、これはちょっと無理だろうと思う。


小韋姫 取之 うつりょう 生始皇以泰昭王四十八年正月生於郎 そうしたことから「呂氏 政姓趙氏勝廣 音 年十三歳 政代立



始皇帝の命により、不老不死の仙薬を求止めて大海に出た徐福。 へいばよう 秦始皇 帝 「織田信長を結ぶ糸 

↓預言者モルデカイ (右)とエステル (左)。 ペルシアには紀元前 6世紀以降、多くの ユダヤ人がいたと 『聖書』には書かれ ている。 


 世界のどこに行っても ユダヤ人の集団がいた 

 ともかく、秦始皇帝の周囲には、 中東人も西洋人も多く来ていたのだ。 た とえば有名な始皇帝の兵馬桶も、指導したのはギリシア人であったことがわかっている。 


したのはギリシア人であったことがわかっている。また、始皇帝が不老不死 を求めたのは、ギリシア神話の「黄金のりんご」(不死の源)に憧れたから かもしれない。あるいはイスラエル人の「生命の樹の実」(永遠の命の源) の話なのだろう。 

 兵馬俑の近くからは、ペルシア人やソグド人の人骨も見つかっている。 始 皇帝の支配体制は、 アケメネス朝ペルシアとまったく同じである。 そのペル シアには紀元前6世紀以降、モルデカイやエステル、 その他多くのユダヤ人 がいたと 『聖書』にある。 と石勒皇帝、 


けつ Y → 「石」 という名はユダヤ人にはよくある。アインシシュタインもままた、そんな名のひとつであった。 ↑奴隷の身分から後趙の皇帝にまで上りつめた石勒皇帝。 彼もまたユダヤ離散民の子孫だ 石功皇帝 胡人之 かいふう その後、彼らの多くはシルクロードの商人になった。紀元前の時代から、 シルクロードの商人の大半はユダヤ人だった。実際、中国 開封では、紀元 前3世紀のヘブル語の碑が発見されている。つまり始皇帝の時代のものだ。 紀元前2世紀のギリシアの地理学者シビルは、世界中どこへ行ってもユダ ヤ人の集団に出会ったと述べている。 商人だった呂不韋も、彼らユダヤ人と通じていたはずである。 呂不韋と始皇 帝が、イスラエル系の人々とつながっていた可能性は高い。 

 しかも、中国には秦始皇帝以外にも、ユダヤ人が皇帝になった歴史がある。 始皇帝から約550年後のことだ。 五胡十六国時代に羌族と同じ五胡(五大異民族)のひとつ、羯族が、後趙[こうちょう](319~351年)を建てた。 その建国者=石靴は、明らかにユダヤ人だった。 そして石勒と彼の周辺を見てみると、秦始皇帝について驚くべきことが わかってくる。 次章ではにそれをじっくり見ていこう。



石勤皇帝とその子孫 

 石勒(274~333年)は、当初奴隷の身分だったが、 ついには後趙の 皇帝にまで上りつめた人である。石勒皇帝は、西暦70年のエルサレム滅亡後 に中国にやってきたユダヤ離散民の子孫であった。 「石」という氏はユダヤ人にはよくある。たとえばアインシュタインも、 ア イン (一) + シュタイン(石)である。 

 じつは筆者のもとには『石勒皇帝と羯胡人の謎』 という中国語の本がある。 石勒皇帝の直系子孫である石旭昊(シ・シハオ) 氏の著書で、 彼がサイン 入りで下さったものだ。その本によると、石氏はある日、祖父から呼ばれてこう告げられた。

 「これから大切なことを話す。わが家系は石勒皇帝の 子孫で、ユダヤ人なのだ」 

 実際にさまざ まな 調 査をしていくなかでわかったのは、先祖の石皇帝は本当にユダヤ人だという事実 だった。だから彼の家系には、今もユダヤ人的な風習が色濃く残っている。 

 石勒皇帝の先祖のユダヤ人は、エルサレムから中国への旅の途上で、あと から来るユダヤ人が同胞の通った道とわかるような地名や遺物を残しながら、 中国に到達したという。 

 石勒皇帝は、中国人から「羯」と呼ばれた民族の出身である。 掲も羌も、 漢字に「羊」が含まれていることからもわかるように、遊牧 民族だった。 羯族は、 「目が窪み、鼻が高く、髭の濃い顔立ちだった」という古代記録がある。 こ のユダヤ人的な容貌は、先に述べた秦始皇帝の姿にもよく似ている。


 始皇帝の側近には ユダヤ人のラビがいた 

 さて、石氏は非常に重要な情報を下 さった 。 

   「石勒の先祖シモン族(シモン族は中国で石氏を名乗った)の伝承によると、秦始皇帝はユダヤ人のラビ・ユダ(傑徳所繇) の影響を受けた人で、1人の父祖を敬い、神を信 じ、五徳を奉じていた」つまり始皇帝の側近にはユダヤ人、しかもラビがいたというのだ! ユダはラビの本名だったが、発音が中国でなじまなかったため、 始皇帝は 天下統一後に、ユダの名をユリャオ(尉繚)に変えさせた。 

 また、始皇帝は40数人の父祖を敬ったとされるが、秦王朝以外の人が1人 いて、石氏によればそれはヤコブ (イスラエル)の12人の息子だったという。 



 始皇帝が信じた「神」は、中国伝来の至高神「上帝」である。 しかし 「上 帝」は唯一神、創造神、 全能の慈しみ深い神であり、 東北石氏の事 石勒皇帝がユダヤ人だったことを検証した書籍、 帝と掲胡人の謎」。 「石勒皇 E 『聖書』と同じ神、同じ信仰的起源を持つ神だ。一方の「五徳」は、中国の 「五徳終始思想」の五徳であろう。 秦始皇帝はまた、漢字体系を定めた人でもある。漢字には『聖書』の思想 がたくさん入っていることが知られている。たとえば「船」は、「8つの口」 (人口が8人)の「舟」と書き、これは8人が乗ったノアの箱舟を指している。 一方「田」は、中央から4つの線が出ているが、これは中央の泉から4つ の川が形成されていたエデンの園を指す。 こうした例は無数にあり、漢字と『聖書』の関係だけで一冊の本になっているくらいだ。 


漢字に秘められた聖書物語 単行本 – 1994/2/1 

漢字にたどる聖書の世界 改訂版

福原秀憲著、伝道出版社 フクイン社、2007.6

158p 19cm

978-4-901415-23-1


https://file003.shop-pro.jp/PA01465/151/trial-reading/158012521.pdf


あ 皇帝 新造 本源荒皇帝 宮 ・豊富 不 0 下 ひと 

へいばよう 

 先に、始皇帝の兵馬俑について述べたが、兵馬俑の奥には始皇帝自身の墓 がある。 ところが兵馬俑は発掘されたのに、始皇帝の墓は発掘されていない。 今も手つかずのままである。 「墓を発掘して始皇帝のDNAを調べたらいいのに」と思うが、 理由あって で きないという。 

 というのは考古学者の頭には、13世紀のトロイの発掘の大失敗があるから だ。 ずさんな発掘を性急に進めたために、貴重な痕跡をほとんど破壊してし まう結果になってしまった。以来彼らは慎重になっている。 

 もうひとつの理由は、「始皇帝の墓には、侵入者が皆あの世へ行くよう設 計された、数多くの恐ろしい罠がある」という司馬遷の記述である。 「侵入者を射貫く石弓や弓矢」があり、 「川のように大量の水銀が機械的に流れるようになっている」というのだ。 

 2000年前の仕掛けがうまく作動しなくても、有毒な水銀の洪水が襲い かかるようなことがあれば、すべてがパーになってしまう。 実際に墓周辺の 水銀濃度を調べると、 非常に数値が高いことがわかっている。 だから考古学者は、墓を壊さず、 まただれも死なずに発掘を成功させる技 術の発展を待っている状態だ。 


 古代中国には『旧約聖書』と同じような燭祭の儀式もあった。 これらのこ とを思えば、始皇帝自身にイスラエル人の血が流れていたとしても、決して 不思議ではない。

戦国の英雄・信長も イスラエル系だった? 

 ところで筆者は、石勒や秦始皇帝の人生を思うとき、日本の戦国時代の武 将・織田信長の激烈な生涯と、 どこか重なるところがあるように感じる。 

 以前、本誌にも書いたが (2017年8月号)、織田信長の先祖は、古代神道を受け継ぐ忌部氏の神社の神官で、忌部氏にはイスラエル系出身の多くの証拠が残されている。 忌部氏が徳島県につくった磐境神明神社は、イスラエルの 「高き所」と呼 ばれる礼拝所にそっくりである。 その本宮 白人神社は昔から伝統的に万人の宮人によって守られてきたが、古代イスラエル人が中国の開封に作っシナゴーグも、万人の宮人によって守られてきた。 15は、古代イスラエルの失われた10支族が特に大切にしてきた数字なのだ。 

 織田信長は鼻が高く、背も高かった。信長は、古代日本に渡来したイスラエル人の子孫だったと思われる。彼の豪壮な性格、天下統一へのすさまじい意欲は、秦始皇帝にも似ている。 

 石勒にしても秦始皇帝にしても、あるいは織田信長にしても、イスラエル人は他国において壮烈な生涯を送った人が多いようだ。 

 ともかく古代中国は非常に国際的なところだったのである。 



みょうど 剣山の麓にある磐境神明神社。 古代イスラエルの高き所=礼拝所 (下)。 一見しただけでおわかりのように、ふたつはとてもよく似ている。 岩田 ↑ 「始皇帝詔版銘」。 秦によって統一された文字だ。 ◆織田信長。彼のもとにいた西洋人が実際の姿を見て 描いたものとされ、鼻が高いのがわかる (三宝寺蔵)。 



始皇帝の墓はなぜ発掘されないのか? 


また 

現代科学に基づいて始皇帝のDNAを検証 

 ここで始皇帝のDNAAに関して、わかっていることを述べておこう。  

 石勒皇帝の子孫、 石旭昊氏にメールで尋ねたところ、秦の初代君主のY染色体ハプログループ (系統)はOであるという (23Mofang)。 このOは典型的なアジア系DNAであって、イスラエル人系ではない。  

 始皇帝がこの遺伝子を継いでいたなら、彼もOだったことになる。 「有名人のハプログループ」というサイトにも、「秦始皇帝のY染色体は、ハプロ・グループ (02a1b1a2a1ala)であると推定される (これは嵐姓趙氏のY染色体の解析結果に基づく)」とある。  

 だが 「始皇帝の実父が呂不韋であった」とすると、彼のDNAはO以外となる可能性がある。 

 西安の西北大学で、 「発掘された始皇帝の息子の頭蓋骨からAI技術で顔を再現する試み」がなされたときにわかったのは、始皇帝の息子は漢族よりも極端に鼻が高いということだった。 目も青かったかもしれないという。 


 



 だとすればこれはまさに、西域の人々の顔だ。始皇帝の妃の顔も調べら れたが、同様に鼻が高かった。しかし鼻の高さ云々以上に、始皇帝の息子た ちのDNA情報を出してほしいところだ。それがわかれば、 この問題にも決 着がつくかもしれないからだ。ところが、なかなか出てこない。 保存状態が 悪くてDNA検査ができないのか、それとも隠されているのか。 

 ともあれ、 ユダヤ人DNAについて、ここで改めて見ておこう。 現代ユダヤ 人Y染色体DNAには、3つの主要ハプログループ (系統)がある。J、E、 Rである。 これはスファラディとアシュケナージに共通だ。

  また全世界のユダヤ人グループには、必ずEが見られる。 サマリアに住むレ ビ族系祭司もEである。 シルクロード各地の古代イスラエル人の子孫も、 E ないしはD (Eと近縁同祖)を持っていることが多い。 EとDは、同じ先祖由来の「YAP系遺伝子」である。 両者は中近東にお いてハプログループDEから分かれた。 日本人の約40パーセント近くもこのDに属している。 

 今日では、古代イスラエル人の元のハプログループはJだったのではない か、という議論がある。確かにヤコブ一家のエジプト寄留の際、ハプログル ープはひとつだったのだろう。だが出エジプト以降、彼らは複数のハプログ ループを持つようになった。 このとき「多くの外国人」 が加わり、イスラエ ル人の集団に加わったからである。 

 モーセは彼らを「在留異国人」と呼び、 「自分と同じように彼らを愛する よう」 イスラエル人に教えた。 神の律法に従うなら彼らは帰化し、イスラエ ル人として生きることができた。 始皇帝の息子の骨から再現された顔。 明らかに西城出身的な特徴をしている。 秦始皇帝から弓月君を経て、 秦氏へと至る系図。 秦伊統・惟宗・朝原 これむね 韓国寺創建 を持つようになったと考えられる (R 6はヨーロッパ系で、紀元後の離散時代 にユダヤ人に入ったものだろう)。 

 今日の世界中のユダヤ人や、古代イスラエルの失われた10支族の子孫がE ないしDを持っているのは、 DEから来たものである。 

 さて、呂不韋の出身民族とされる羌族も、約20パーセントがDだ。 これは 羌族が、遺伝子の面からもイスラエル人の子孫であることを物語っている。 

 始皇帝の息子のDNAがわかれば、それがDである可能性もあるが、仮に 0だったとしても、 始皇帝はイスラエル人でないと確定されるわけではない。 

 というのは、たとえば石氏によれば、ロシアやフィンランド、オーストリア のユダヤ人には、 Oの人もいる。これは家系のどこかで 「母親のみがユダヤ 「人」だった場合、 また 「改宗でユダヤ人になった」場合などがあるからだ。 遺伝子は、思いのほか複雑なのである。 


神寺月、酒 岐命(再 津蔵 正四年四月一〇六八年) 中 (元)とあり、大酒神ともいう。 「恋する天八年(五 **** *** ***soras 300+ (* な が生まれた。 M MANDARD ➤*****+> 41+ (in MED して祀られていた 十四年( ていって。 ておく、と言う をし にありが す。 のみでなく大半の TAPA 4* Danes となれり。 によって辛に含む。 0422 てあったのである。 されられる。 われる 京都であり、以前 ROUNDONE A0 3 *******044 104) ***** Aage (1) HONT NAN ました。 みならず全 酒神社の由緒書。秦氏の祖先が秦始皇帝であることが述べられている。 したのである。 昭和五十九年五 

渡来人・秦氏は本当に始皇帝の なのか? 

 最後に、古代日本への渡来人として有名な秦氏について見てみよう。 

 『日本書紀』や『新撰姓氏録』によると、秦氏は弓月(現・新疆ウイグル自 治区の中央アジア寄り、 イリ川のほとり) の地から中国大陸を東へ進み、朝 鮮半島を経て、応神天皇の時代に大挙渡来してきた人々だった。 

 彼らはもともとイスラエル人で、弓月で古代東方キリスト教に改宗したと 考えられている。 つまりイスラエル系の古代東方キリスト教徒である。 

 秦氏一族は日本に来たとき、「秦始皇帝の「子孫」を自称していた。 これは 格付けをあげるためにそう語ったのだともいわれている。だが、 「秦始皇帝は自分たちと 同じくイスラエル系の人だ」と知っていたからこそ、そう語ったという可能性もある。  

 ヘブル語で「一団」を意味する「ハタ」に「秦」の字を当てはめたのは、 「秦のイスラエル人の一団」を意味するためだったのかもしれない。  

 始皇帝がイスラエル人であったか否か」は別にしても、さらに興味深いこ とがある。 羌族と秦氏は、元は同族だったと考えられるのだ。 羌族は、中国人に迫害されたために今は山岳地帯に住んでいるが、 もとは 中国北西部を中心に広がっていた。 迫害されたとき、部族はバラバラになり、 ある者は中国南西部の山岳地帯に逃げ、ある者は東へ逃げて、朝鮮半島を通っ て日本で秦氏となったと考えられる。 秦氏は応神天皇の時代に大挙渡来してきた。かつてそれは、2世紀の終わりごろとされていたが、現在では3~4世紀だったとも、あるいは5世紀だともいわれている。  

 若干の誤差はあるかもしれないが、これはちょうど中国では三国時代 (220~280年)から五胡十六国時代 (304~439年) で、戦乱の時期だった。 そのような時期に、中国の羌族と秦氏が分かれたのではないかと考えられるのだ。  

 実際、羌族にY染色体ハプログループDが多いように、 筆者の知る限りでは秦氏の子孫にはDが多い。筆者と同じ研究者で、秦氏の子孫である畠田秀生氏もDである。 また秦河勝の子孫とされる人もDである(ただしの人もいる)。こうした研究がさらに盛んになって、 謎が解明されることを祈るものである。




 ◾️ 伊號安 三宗麻呂 大地 市 元慶7 朴市桑田米津押分 宗朝 浅井郡今 惟宗蓮宗 村戦死 公方 明博士 物主 春足浄万侶 福当磨文成 生得業生 井正秦朝元|喜成 元慶 宗朝政 7月 私に2 ・惟宗水星 具範 広孝 朝原寸 政野堀家宝 三上 「下野介文章博士 医師 諸坂良道 貴重 孝近孝吉基る 左大文 文章博士 大丈 日向守 大丈 はたのかわかつ を祈るものである。  今日のユダヤ人におけるY染 色体DNAの系統 (ハプログル ープ)。 天武 軟 ・住宗・ 秦始皇帝功満君弓月- 応神 波多公 -石勝 化 (ハプログループ) ―和賀牛麻呂 内満 国際 足 大牟良 物連 料 大学 こうしてイスラエル 人は、JとDE を祈るものである。 初期諸流 真徳君 市上古 「浦来君 秦酒公意美 天平島 牛麻呂太秦嶋麻呂 伊波気 野郡大領 ―国 黄島大百足 葛野斯擬大領 大領 広庭 哀守 一日向守 井手磨 大魚 武名 国万呂豊人 鹿野磨 人君 婚前棟介 アシュケーナージ・ユダヤ人 本 養老寸 W 今日のユダヤ人における Y染色体DNAの系禁 スファラディ・ユダヤ人 | 約28パーセント |約19パーセント |約33パーセント 約12パーセント |約8パーセント 太公 K系統 他 J系統 約38パーセント E系統 約20パーセント R系統 約19パーセント 系統 約10パーセント |約4パーセント 他 約5パーセント |約2パーセント 約2パーセント (Wikipedia "Y-DNA haplogroups by ethnic groups" および Doron M. Behar 博士等の論 統 統 J系 E系統 統 系 R系 G系統 Q系統 「下野 相寺 大沢 臭成 神嶋足長 竹 少領 宇志 大蔵本公 ・大賞泰志豚大津父 共用 豊介 冷 民健 正 文より/http://www.familytreedna.com/pdf/Behar_contrasting.pdf) 『古代氏族系 原宿備知 伏見宮家 森足&智奈理 主計頭 越俊介 公足伊勢方呂 主社 史生 大蔵 少 ・・・・・・・・・・・・ の 伊朝臣姓 博士 しんきょう EN S.



チャン人の問題を提起するのは、最近「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」という資料を見たからである。わたしは、この可能性はかなり大きいと思う。なぜかといえば、当時、東部は何年も戦争が続き、加えて万里の長城と阿房宮など壮麗な御殿の修築によって、戸籍が凋落し、人口も危うい状態で、幼い子供は言うに及ばなかった。まして、始皇帝の性格から見れば、自分と血縁関係がある部落から人を選ぶのは理の当然である。


羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-11/09/content_228967.htm

羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国

2008年の「5・12」大地震で、被害を被る前の四川省理県の桃坪チャン族村(写真・劉世昭)

チャン人、秦人は中華の源の一つ

唐代の詩人王之渙(688~742年)は、「羌笛何須怨楊柳、春風不度玉門関」(羌笛何ぞ須ゐん楊柳を怨むを、春風渡らず玉門関)と詠んでいる。本文で言う羌(チャン)人は、まさに羌笛を吹く人の先祖である。もちろん、2008年、大地震に襲われた阿壩チベット族チャン族自治州のチャン人の先祖でもある。

チャン族は、歴史の極めて長い山地民族であり、紛れもなく華夏族すなわち中華民族の重要な源のひとつであろう。『説文解字』の解釈では、「羌は、西戎の牧羊人で、人と羊からなる」とあり、羌の字は人と羊の組み合わせと説く。

チャン族は、長く移動する間に、2大系統に分かれた。1系統は東へ向かい、東部の先住民と融合し、漢民族文化を開く先駆けとなった。『帝王世紀』には「伏蒙は成紀に生まれる」とある。「伏蒙」は三皇(中国最古の三人の皇帝。ほかの2人は神農と黄帝)の1人目で、「成紀」は今日の甘粛省南部天水地区、古くは「方羌の地」とされる。

『史記・補三皇本紀』では、炎帝は「姜水で育つ」という。姜水は甘粛省定西市渭源県の方渭河、その支流の歧水で、今日では渭河という。渭河の源はすなわちチャン人の本拠地である。『国語・晋語四』の解釈では、「昔少典は有嬌氏を娶り、黄帝と炎帝を生んだ。黄帝は姫水で育ち、炎帝は姜水で育つ。育った場所を異にするため、黄帝を姫、炎帝を姜と呼ぶ」。つまり、黄帝と炎帝は兄弟で(一説には異母兄弟)、2人とも間違いなくチャン族部落の人である。これは、なぜ古字の「羌」と「姜」が同じ文字であるかを説明している。ここから今日我々がいう炎黄子孫は、実はチャン人の末裔であると分かる。

『史記・六国年表』には「禹は西羌に興る」とあり、また『孟子・離婁下』には「文王は歧周に生まれ、畢郢で没す、西夷の人である」とある。西夷は間違いなく西羌のことである。そこで歴史学者の翦伯賛氏は「炎帝の姓は姜……西戎チャン族の一系統で、西から遊牧して先に中部に入る」という。彼は秦人の源を論証して、秦は東遷したチャン人と中原の人の末裔であると説く。「秦の祖先は戎である」という言い方もここから来ている。

イ族・ダイ族・ハニ族などもチャン族の末裔

来年の五穀豊穣と気候の安穏を祈る雲南省弥勒県紅万村のイ族のたいまつ祭り(写真・劉世昭)

チャン族のもう1系統は、西南へ移動した。今日の中国西南部のイ族(彜族)、ダイ族(傣族)、ぺー族(白族)、ハニ族(哈尼族)などは、歴史の記載と風習からみて、チャン族の末裔であろう。

イ族は「羅羅」と自称するが、『山海経・海外北経』に「羅羅」の記載がある。『漢書・地理志・張掖郡・番和』ではチャン人を「羅虜」と呼び、『大明一統志』では四川省のイ族を「羅蛮」、雲南省西部のイ族を「羅羅」と呼ぶ。『華陽国志』も『後出師表』も雲南省、四川省、貴州省のイ族を「青羌」と呼ぶ。『蛮書』ではイ族の先祖は「羌虜」であるとさらにはっきりと指摘している。典籍を調べれば、「羌戎」と「羅羅」は実際には同一であることが分かる。

風習から見れば、イ族の火葬やたいまつ祭り、儺の仮面や儺祭りで踊る大鑼笙舞やヒョウの舞、トラの舞、ぺー族の多神教の習俗、万物に霊魂があるという信仰など、すべて古代チャン人の習俗と一脈通じる。今日まで伝えられている『哈尼阿培聡坡坡』という古い歌曲は、祖先の引越しの歌である。遡って追跡すれば、茶馬古道は実は古代チャン人の西遷の神秘な道であると思っている。

とくに指摘しておきたいのは、最近大騒ぎになったイ族が発明したといわれる『十月太陽暦』は、実は古代チャン人の聡明な知恵の産物であり、秦の時代に実施された『十月太陽暦』の源はここにあると考えている。

倭人の源流とチャン人

雲南楚雄双柏県雨竜郷の羅婺人の「大鑼笙祭り」(写真・楊振生)

1979年、大阪教育大学の鳥越憲三郎教授が、日本人の源流は中国の雲南であると発表した。考察と研究によると、雲南のイ族とダイ族の赤ちゃんの蒙古斑は、日本人の赤ちゃんとまったく同じである。つまりこれが日本人の源流の証拠であり、雲南が日本人の源流であることを実証するものだという。彼は同時に信仰や風俗などの面から、イ族、ダイ族と日本を比較することによって、自分の見方が正しいとしている。その後、また別の日本の学者も「倭人(日本人)の源流は雲南」という見方を発表している。

わたしの個人的な考えでは、中国の倭人は古代チャン人と中国西南地域の先住民との末裔であると思っている。チャン人の優秀な文化を受け継ぎ、発展させた。日本民族の源流が雲南であるかどうかは、わたしは研究したことがないので、勝手な結論を下せない。ただ、チャン文化は東方の民族に無視できない貢献をしたのは確かだと思う。文化の共通性は、各民族がたえず文化を融合させることによって、歴史を動かし文明社会に向かって発展してきたのである。この点から見れば、中華文化だけではなく、日本文化にもチャン人の知恵が浸透していったと考えている。

徐福と吉野ヶ里とチャン文化

チャン人の問題を提起するのは、最近「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」という資料を見たからである。わたしは、この可能性はかなり大きいと思う。なぜかといえば、当時、東部は何年も戦争が続き、加えて万里の長城と阿房宮など壮麗な御殿の修築によって、戸籍が凋落し、人口も危うい状態で、幼い子供は言うに及ばなかった。まして、始皇帝の性格から見れば、自分と血縁関係がある部落から人を選ぶのは理の当然である。

ここにはもうひとつ問題がある。徐福の方士(神仙)文化と古代チャン人文化とはかかわりがあるかどうかである。『倭人・倭文化・東渡文化と徐福』の文中で、かつてわたしは神仙文化は倭文化から来たと述べたことがある。今も、そう思う。したがって、神仙文化の源は間違いなくチャン文化であろう。

それでは、日本の吉野ヶ里と、チャン人あるいはチャン文化とは何らかのかかわりがあるのだろうか。つまり徐福は日本の九州の吉野ヶ里に果たして着いたであろうか。

吉野ヶ里文化とチャン文化は一脈相通じることは疑いない。問題はこの文化の伝来が間接的だったか、直接的だったかということである。

吉野ヶ里の発掘は2つの重要な意義がある。1つは、弥生時代の日本についてさらに全面的な解釈が施されたことである。というのは日本の他の弥生時代の遺跡は、弥生の600年間のある1つの時間帯を証明するだけで時代の全貌を展示することができないが、吉野ヶ里遺跡は弥生時代の前期、中期と後期にわたって全てを含んでいる。2つ目は、日本という国家の形を初めて明示したことである。『魏志・倭人伝』と『漢書地理志』の記述が正確であることを裏付けた。

お酒でお客を迎える、雲南紅河ハニ族の風習(写真・魯忠民)

想像空間を与えてくれる徐福と吉野ヶ里

吉野ヶ里から青銅器工場ではないかと推測できる遺跡が見つかり、高度な染織技術を持つ絹織物が出土した。そして、規模の非常に大きな市場とかなり高い規格の祭祀場も見つかった。単にこれらの設備と実物から見れば、外来文化が直接日本に影響したことは疑う余地がないが、縄文時代人がすぐにこれらの先進技術を身につけるはずはなく、ましてや複雑な系統だった管理を行うことなどできるわけがない。こうした社会の突然の変革は、外来文化が直接ぶつかることによって初めて実現可能である。しかし、外来文化は中原からだけではなく、朝鮮半島から来るものもある。出土した絹製品からみれば、三眠蚕(3回の脱皮で糸を吐き始める)の製品は多く楽浪の影響を受けている。季節と気候の影響で朝鮮半島では三眠蚕であり、中国の江南地方では四眠蚕である。日本の九州の気候と中国の江南地方の気候とは極めて似ているので、もし直接中国文化の影響を受けたとすれば、なぜ良質の四眠蚕を放棄して、質の劣った三眠蚕を育てるのか。そして、住宅は半地下竪穴式もあるし高床式建築もあることも、朝鮮半島の古い風格の影響であろう。とりわけ考えてもらいたいのは、吉野ヶ里遺跡からは今まで文字記載があるものは1つも出土していない。もし、徐福らが吉野ヶ里に着いたとしたら、間違いなく秦が統一した文字を持って行っているはずである。

文献によると、中国文字はのちに朝鮮半島から日本へ伝わったという。徐福ではなく韓国の王仁が『論語』などの書籍を日本へ持って行ったのである。というわけで、今の段階では吉野ヶ里文化は徐福らが自らつくったとは断定できない。しかし、われわれに尽きることのない美しい想像空間を残してくれた。と同時に、さらに新しい次元の探索をすることによって、中日世代の友好を発展させるよういつも励ましてくれている。(国務院発展研究センター 張雲方)

人民中国インターネット版 2009年11月


西周斉地出土青銅器銘文 - 博客 金烏工房

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