2026年5月2日土曜日

新府城 - Wikipedia

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新府城

地勢と構造

甲府盆地西部に位置する。八ヶ岳の岩屑流を釜無川塩川が侵食して形成された七里岩台地上に立地する平山城。西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。

石垣は使われない平山城で、本曲輪・二の曲輪・東の三の曲輪・西の三の曲輪・帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口などの防御施設を持つ。ちなみに本曲輪・二の曲輪は躑躅ヶ崎館の本曲輪・西の曲輪に相当し、規模も同程度であることから政庁機能を持つ施設と考えられる。

近年発掘作業や間伐など整備がなされ、甲州流築城術の特徴である丸馬出しや三日月堀、特徴的な鉄砲出構、その他土塁や堀跡、井戸や排水施設などの遺構が確認できるようになった。また、陶磁器類も出土している。支城として白山城能見城がある。

武田勝頼期の武田家の築城の特徴として、台地の突端部(側面・背後は断崖や川)を利用し戦闘正面を限定させ、なおかつ正面からの敵の圧力を側方に流すような構造が挙げられる。

具体的には、正面の丸馬出しより城側面に続く比較的深い堀を敵兵に歩かせる。横矢を掛け敵兵を攻撃すると、堀は断崖・川へと続いており、こちらへ追い落とすことにより敵兵を無力化できる。同様な構造の代表的な城に遠江では諏訪原城小山城信濃では大島城がある。ただし、新府城の場合は現在遺構とされる城跡ではなく、能見城を中心とする新府城北方の防塁跡にこの構造が見られ(浅野家文庫・諸国古城之図)、上に挙げた城に比べその規模の大きさは群を抜く。また能見城防塁は複雑に屈曲し、最大限横矢を掛けられるような構造となっており防塁が多数配置されている。

ただし諏訪原城は発掘調査から現在見られる縄張は徳川家が整備したことが判明しており、新府城の北側防塁も天正壬午の乱時に徳川家が構築したものとの説がある。

このような大規模な構造から、少なくとも数千から万単位の兵力による運用が前提となるようである。

実際、天正壬午の乱においては、徳川家康北条氏直の軍に対する本陣として使用されている。

有効であったかどうかは定かではなく意見の分かれるところだが、新府城北側に2箇所ある鉄砲出構は江戸時代に築かれた洋式城郭である五稜郭の設計思想と同様の、突出部分の敵と当たる面積を抑えつつ突出部及び出構間に強力な火力を投射するためのものであると考えられる。

使用された期間は短いが、七里岩突端部の南北7-8キロメートル、東西2キロメートルという周辺の自然地形全体が軍事的意味をもっていたことを考慮に入れれば非常に大規模な城であり、武田家を代表する甲州流築城術の集大成となる城である。

武田氏の領国拡大と本拠

戦国期に守護甲斐武田氏は本拠の石和(笛吹市石和町)から甲府へ進出して川田(甲府市川田町)に居館を移転した。

信虎期には甲斐国内を統一し戦国大名化し、古府中に居館である躑躅ヶ崎館が築かれ、家臣団を集住させて城下町(武田城下町)を形成した。

晴信(信玄)期には領国拡張と平行して城下の整備拡張がさらに進み、躑躅ヶ崎館は政庁の役割を持つ府中として重要な役割を果たすようになった。

続く武田勝頼時代にも整備は行われているが、後背に山を持つ府中は防御に適しているものの城下町の拡大には限界があり、信濃、西上野駿河へと拡大した武田氏の領国統治にとって不備であったため、府中の移転が企図されたと考えられている。

「新府城」が位置する韮崎は盆地北西端に位置しているが、戦国期に拡大した武田領国においては中枢に位置し、古府中よりも広大な城下町造営が可能であったと考えられている。また、七里岩は西側を釜無川、東側を塩川が流れ天然の堀となる要害であり、江戸時代に韮崎は甲州街道や駿州往還佐久往還諏訪往還などの諸道が交差し釜無川の水運(富士川水運)も利用できる交通要衝として機能していることも、新城築造の背景にあったと考えられている。

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