2026年5月3日日曜日

トルストイ 要約福音書


キリスト教


トルストイの要約福音書は超自然的描写はカットしているが大審問官等で有名な悪魔とのやりとりは残している。トルストイは悪魔ではなく肉の声と記述している。

柄谷交換図、大審問官バージョン

3権威|2奇跡
__B|A___ 
  C
1パン|
   

悪魔:
1「石をパンに変えよ」C
2「塔から飛び降りて、奇跡を見せよ」A
3「私(悪魔)にひざまづけば、この地上の権威と栄光を差し上げましょう」B

キリスト:
1「人はパンのみにて生きるにあらず」
2「神を試みてはならない」
3「ただ神にのみ仕えよ」

トルストイ 要約福音書
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#1


第1章 神の子  人間は神の子であり、肉においては無力だが、霊においては自由である (我らの父よ)


 イエスはガリラヤからヨルダン川へ、ヨハネのもとで水浴するためにやって来ると、水浴し、ヨハネの説教に耳を傾けた。  

 そして、ヨルダン川から彼は荒野へ行き、そこで霊の力を知った。  

 イエスは飲み食いせず、四十日四十夜を荒野で過ごした。  

 すると、彼の肉の声が彼に言った。「もしお前が全能の神の子であったなら、お前は思いのままに石からパンを作ることができただろう。しかしお前にはそれができない。つまりお前は神の子ではないのだ。」  しかしイエスは自分に言った。「たとえ私が石からパンを作れないとしても、それは私が肉の神の子ではなく、霊の神の子であることを意味する。私はパンによってではなく、霊によって生きている。そして私の霊は肉を軽視することができる。」  

 しかし、空腹はやはり彼を苦しめた。肉の声がさらに彼に言った。「もしお前が霊によってのみ生きており、肉を軽視できるのなら、お前は肉から離脱することができ、お前の霊は生き続けるはずだ。」  彼には、自分が神殿の屋根の上に立っており、肉の声がこう言っているように思われた。「もしお前が霊の神の子なら、神殿から飛び降りてみろ。お前が打ち死ぬことはないだろう。見えない力が、お前を守り、支え、あらゆる悪から救う。」しかしイエスは自分に言った。「私は肉を軽視することはできるが、肉から離脱することはできない。なぜなら、私は霊によって肉の中に生まれたからだ。それが私の霊の父の意志であり、私は父に逆らうことはできない。」  

 すると肉の声が彼に言った。「もしお前が、神殿から飛び降りて肉から離脱するということにおいて父に逆らうことができないなら、お前はまた、食べたい時に飢えるということにおいても父に逆らうことはできないはずだ。お前は肉の情欲を軽視すべきではない。それらはお前の中に植え付けられたものであり、お前はそれらに仕えなければならない。」すると、地上のすべての王国とすべての人々の姿、いかにして彼らが肉のために生き、働き、肉からの報酬を期待しているかという有様が、イエスの前に現れた。肉の声が彼に言った。「ほら見ろ、彼らは私のために働いており、私は彼らに欲しいものをすべて与えている。もし私に働くなら、お前も同じようになるだろう。」  

 しかしイエスは自分に言った。「私の父は肉ではなく、霊だ。私は父によって生きており、自分の中に常に父を知っている。父だけを崇め、父だけに働き、父からだけ報酬を期待する。」  

 その時、誘惑は止み、イエスは霊の力を知った。  

 霊の力を知ったイエスは、荒野を出て再びヨハネのもとへ行き、彼と共にいた。

マタイ 3-13
イエスは、ヨハネから洗いを受けるために、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとへ来た。そして洗いを受け、ヨハネの説教を聞いた。

マタイ 4-1
そしてヨルダン川から荒野へ行き、そこで霊の力を知った。

マタイ 4-2
イエスは40日40夜、飲み物も食べ物もなしに荒野にいた。

マタイ 4-3, ルカ 4-3
すると彼の肉の声が彼に言った。「もしおまえが全能の神の子であるなら、望むままに石からパンを作れるはずだ。だが、おまえにはそれができない。だからおまえは神の子ではない。」

ルカ 4-4
しかしイエスは自分に言った。もし私が石からパンを作れないなら、それは、私が肉なる神の子ではなく、霊なる神の子であるということを意味する。私はパンによって生きているのではない。霊によって生きているのだ。そして私の霊は肉を軽んじることができる。

しかし空腹はなお彼を苦しめた。肉の声はさらに彼に言った。もしおまえが霊によってのみ生きており、肉を軽んじることができるなら、肉から離れればよい。そうすれば、おまえの霊は生き続けるだろう。

ルカ 4-9
すると彼には、自分が神殿の屋根の上に立っており、肉の声がこう語りかけているように思われた。「おまえが霊なる神の子であるなら、神殿から身を投げよ。おまえは死なない。」

ルカ 4-10
見えない力がおまえを支え、守り、あらゆる悪から救うだろう。

ルカ 4-11
しかしイエスは自分に言った。私は肉を軽んじることはできる。だが、肉から離れることはできない。私は霊によって肉の中に生まれたからである。それが私の父、すなわち霊の意志であり、私はそれに逆らうことはできない

すると肉の声は彼に言った。神殿から身を投げ、生命から離れることで父の意志に逆らえないというなら、空腹なのに食べようとしないことにおいても、同じように父に逆らうことはできないはずだ。肉の快楽を軽んじてはならない。それはおまえの中に置かれている。おまえはそれに仕えなければならない。

ルカ 4-5
するとイエスの前に、地上のすべての王国と、肉のために労苦し、肉から報いを期待して生きるすべての人々が現れた。

ルカ 4-6
肉の声は彼に言った。「見よ、彼らは私に仕えている。そして私は、彼らが望むすべてを与えている。」

ルカ 4-7
おまえも私に仕えるなら、彼らと同じものを得るだろう。

ルカ 4-8
しかしイエスは自分に言った。私の父は肉ではなく、霊である。私はその霊によって生きている。私はそれを常に自分の中に知っている。私はただその霊だけを敬い、その霊だけに仕え、その霊からだけ報いを待つ。

ルカ 4-13
そこで誘惑は終わり、イエスは霊の力を知った。



https://note.com/eitangono_akuma/n/n552be3a61b46

#2


マルコ4-26
神の国は、あなたがたが考えるようなものではない。神が支配者として私たちの上に来る、というものではない。神はただ霊をまいたのである。神の国は、その霊を保つ者たちの中にある。

神は人間を操らない。主人が種を地に投げ、その後はそれを気にかけないように、神もそうする。種は自ら芽を出し、葉となり、茎となり、穂となり、また実を落とす。そして熟したとき、主人は鎌を入れて畑を刈らせる。同じように、神は自分の子、すなわち霊を世界に与えた。そして霊は世界の中で自ら育つ。霊の子らこそが、神の国を形づくるのである。




柄谷行人


2022

1:3:⑥


6 イエス  

 以上のことは、基本的に、イエスにもあてはまる。ちなみに、〝キリスト教〟という名称は当初蔑称であって、それが自他ともに受け入れられるようになったのは二世紀ごろだといわれる。また、その時期には、イエスについての伝承がギリシア語で書かれていた。その最初は、「マルコによる福音書」とされている。それが書かれたのは、紀元後七〇年のエルサレム滅亡の前後、つまり、イエスの死後四〇年ほど経ったころだと推定されている。  

 今日主流の説では、「マルコによる福音書」と共通資料(Q資料)をもとにして、「マタイによる福音書」、さらに、「ルカによる福音書」が書かれた。それらは共観福音書(synoptic gospel)と呼ばれる。しかし、「マルコによる福音書」は、その後のものとは異質である。一言でいえば、その他の福音書ではイエスが神格化されているのに対して、そこでは、預言者としてのイエスの言動が浮き彫りにされている。 

 「マルコによる福音書」によれば、イエスを信じ、その奇跡にすがった群衆たちは、最後には「十字架につけろ」と罵声を浴びせた。また弟子たちが、イエスを誤解し裏切る姿は、ここに最も生々しく描き出されている。したがって、預言者としてのイエスを考えるのに、「マルコによる福音書」が最もふさわしい、と私も考える。対照的に、「マタイによる福音書」の場合、イエスは旧約聖書の予言を成就させる者として位置づけられている。たとえば、イエスの生誕は「イザヤ書」で予言されていたというような。しかし、「マルコ」の場合、イエスはみじめな生身の人間として描かれ、そのような背景や意味づけをほとんど与えられていない。そして、ここにこそ、普遍宗教をもたらすにふさわしい預言者の姿が描かれているといえる。  

 たしかに、イエスは人々に食べ物を与え、病を癒やした。これは人並み外れた力を示すことである。しかし、それはむしろ王の仕事であり、人々は、そのようなことができる王が到来し、ローマの支配から解放してくれることを期待していた。したがって、イエスも「王」として期待されたのだが、彼は一貫してそれを拒絶した。最後に、総督ピラトに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問されて、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えた(「マルコによる福音書」15: 2)。イエスはまた、弟子たちにこう告げた。  

 あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(「マルコによる福音書」10: 42-45)


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要約福音書: 集成 (アイクラシックス) Kindle版 

『要約福音書』

底本:『レフ・トルストイ全集(全90巻)』第24巻(1880—1884年作品)

ロシア語原題:『Краткое изложение Евангелия』

忠実な日本語訳:『福音書の簡潔な叙述』

 本書の制作過程は、トルストイ自身の序文に述べられている通りです。本書は、トルストイ晩年の非暴力思想を支える「原点」として位置づけられ、この流れはトルストイを師と仰いだガンディーへと受け継がれ、思想から実践へと押し広げられていきました。

 またウィトゲンシュタインも本書から大きな影響を受けた一人です。周囲から「福音書の男」と呼ばれるほど常に携え、極限状態の戦場を切り抜ける糧としました。「あなたはトルストイの『要約福音書』をご存じですか? 当時、この本はほとんど私を生き延びさせてくれたようなものでした。……もしあなたがこれをご存じないなら、それが人にどれほどの影響を与えうるか、想像できないでしょう。」(フィッカー宛書簡)

 『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』ほど広く知られた作品ではありませんが、後者とは別の仕方で、近代の思想と実践に大きな影響を及ぼした書物になりました。  原本は章ごとに、トルストイによる解説の後に福音書本文が続く構成となっているのですが、大半の内容が解説と本文で重複します。そのためか、ほとんどの翻訳では解説が割愛、もしくは巻末に収録となっているため、本書も解説は巻末にまとめました。



要約福音書・男と女 (新学選書) 図書  トルストイ [著][他] 新学社, 1975


https://dl.ndl.go.jp/pid/12214890/1/13




https://dl.ndl.go.jp/pid/12214890/1/23


https://dl.ndl.go.jp/pid/12214890/1/24




https://dl.ndl.go.jp/pid/12214890/1/11


https://dl.ndl.go.jp/pid/12214890/1/23


https://dl.ndl.go.jp/pid/12214890/1/160


トルストイ要約福音書 第2回 要約福音書への序文 by トルストイ|英単語の悪魔@英魔
https://note.com/eitangono_akuma/n/nd49ed43240ce

トルストイ要約福音書 第2回 要約福音書への序文 by トルストイ

見出し画像

要約福音書への序文

この「要約福音書」は、より大きな著作から抜き出したものである。その著作は原稿としては存在しているが、ロシアでは出版することが許されていない。

その著作は四つの部分から成っている。

第一部は、私自身の人生と思想の歩みについての叙述である。つまり、キリスト教の教えの中に真理を見いだせるという確信へ、私がどのように至ったかを述べたものである。

第二部は、教会一般、また使徒、宗教会議、いわゆる教父たちの解釈に従って、キリスト教の教えを説明する部分である。同時に、それらの解釈が誤っていることの証明も含んでいる。

第三部は、そうした解釈によってではなく、キリストの教えとして私たちに伝えられ、キリストの言葉とされ、福音書に記録されているものだけに基づいて、キリスト教の教えを検討する部分である。そこには、四つの福音書の翻訳と、それらを一つに統合する作業が含まれている。

第四部は、キリスト教の教えの本当の意味、その意味が歪められてきた理由、そしてその教えが説かれるならば必然的にもたらす結果についての説明である。

この「要約福音書」は、その第三部からの抜粋である。私は、四つの福音書を、その教えの精神に従って一つにまとめた。この統合作業において、私は福音書本来の配列からほとんど逸脱する必要がなかった。そのため、私の統合版では、私の知る多くの福音書調和本や、グライフスヴァルトの四福音書集よりも、福音書の節の入れ替えはむしろ少ない。

ヨハネ福音書については、私の統合版では節の入れ替えはまったくない。むしろ原文そのものの順序に従って、完全にそのまま配列されている。

福音書を十二章に分けること、あるいは二章ずつ合わせて六章にすることは、教えの意味そのものから自然に生じた。

その言葉の意味は、次のようなものである。

  1. 人間は、無限なる根源の子である。人間がこの父の子であるのは、肉によってではなく、霊によってである。

  2. だから人間は、霊によってこの根源に仕えなければならない。

  3. すべての人間の生命は、神的な根源に由来する。この生命だけが聖なるものである。

  4. だから人間は、すべての人間の生命のうちにあるこの根源に仕えなければならない。これが父の意志である。

  5. 生命の父の意志にのみ仕えることによって、真の、すなわち理性的な生命が生じる。

  6. だから、真の生命にとって、自分自身の意志を満たすことは必要ではない。

  7. 時間の中にある肉的な生命は、真の生命の糧であり、理性的な生命の材料である。

  8. だから真の生命は、時間の外にあり、ただ現在の中にある。

  9. 過去と未来という時間の中の生命の欺きが、現在にある真の生命を人間から隠している。

  10. だから人間は、時間的な生命、すなわち過去と未来の生命という欺きを壊そうと努めなければならない。

  11. 真の生命は、現在にある生命として時間の外にあるだけでなく、人格の外にもある。すなわち、すべての人間に共通する生命である。

  12. だから、現在にあり、すべての人間に共通する生命に生きる者は、父、すなわち生命の根源であり根拠であるものと一つになる。

二つずつの章は、それぞれ原因と結果の関係で結ばれている。

この十二章のほかに、説明には二つの部分を付け加えた。第一章ヨハネの序文、すなわち筆者が教え全体の意味について自分の立場から語っている部分と、同じ筆者による書簡の結末である。この書簡は、おそらく福音書より前に書かれたものであり、それまで述べられてきたこと全体の要約を含んでいる。

この序文と結末は、教えそのものの実質的な一部ではない。それらは、教え全体を見渡す一般的な視野を与えるだけである。したがって、教えの意味を示すうえでは、教え全体と同じく、この序文と結末もなくてもよかった。

しかも、この二つはイエスではなくヨハネに由来する。にもかかわらず私がこれらを残したのは、キリストの教えを単純かつ理性的に理解する際、この二つが互いに、また教え全体を支え合い、教会の奇妙な解釈とは反対に、この教えにどのような意味を与えるべきかについて、もっとも単純な手がかりを与えているからである。

各章の冒頭には、短い内容定義のほかに、イエスが弟子たちに祈るよう教えた祈りの言葉を、それぞれの章に対応する範囲で置いた。

仕事を終えたあと、私は驚きと喜びをもって気づいた。いわゆる「主の祈り」は、イエスの教え全体をもっとも圧縮した形で表したものにほかならず、しかも私が章を分けた配列そのものに対応していたのである。祈りの各句は、教えの意味と、その言葉の配列に対応している。

主の祈り | 対応する意味

・われらの父よ|人間は神の子である。
・天にいます方よ|神とは、生命の無限なる霊的根源である。
・御名が聖とされますように|この生命の根源が聖とされますように。
・御国が来ますように|その支配が、すべての人間のもとで実現しますように。
・御心が天で行われるように|この無限なる根源の意志が、その根源自身のうちで行われるように。
・地にも行われますように|肉においても、そうなりますように。
・われらに必要なパンをお与えください|時間の中の生命は、真の生命の糧である。
・今日|真の生命は、いまこの現在にある。
・われらの負い目をお赦しください。われらも負い目ある者を赦しましたように|過去の生命の過ちや迷いが、この真の生命を私たちから隠しませんように。
・われらを誘惑に導かないでください|それらが私たちを欺きに導きませんように。
・悪からお救いください|そうすれば悪は存在しなくなる。
・国と力と栄光はあなたのものです|支配と力と理性は、あなたのものとなる。

詳しい第三部の叙述、すなわち原稿として存在しているものでは、私は四つの福音書に従い、最小限の省略もせずに福音書を翻訳し、提示した。

しかし、この現在の「要約福音書」では、次の諸節を省いた。受胎、洗礼者ヨハネの誕生、その投獄と死、イエスの誕生、その系譜、母とともにエジプトへ逃れたこと、カナとカペナウムにおけるイエスの奇跡、悪霊の追放、湖の上を歩いたこと、いちじくの木を枯らしたこと、病人の癒やし、キリスト自身の復活、そしてキリストの生涯において預言が成就したとする記述である。

これらの節を現在の「要約福音書」から省いたのは、それらが教えを含んでおらず、イエスの説教の前後またはその期間に起こった出来事を描いているだけであり、説明を複雑にし、重くするだけだからである。

これらの節をどのように理解しようとも、それらは教えに反するものでもなければ、教えを裏づけるものでもない。キリスト教にとってそれらが持っていた唯一の意味は、イエスの神性を信じない者に対して、それを証明するという点にあった。しかし、奇跡譚の説得力を理解せず、しかもイエスの神性については、その教えだけに基づいて疑わない者にとっては、これらの節は自然に不要なものとして脱落する。

より大きな解説では、通常の翻訳からのすべての逸脱、すべての補足的説明、すべての省略について、福音書のさまざまな異本を全体の文脈の中で比較し、文献学的およびその他の考察によって説明し、証明している。

しかしこの要約版では、そうした証拠や、教会の誤った理解への反駁、根拠を伴う詳細な注釈はすべて省いた。なぜなら、個々の箇所についての考察は、しばしば非常に長くなるが、ある教えの意味をどう理解するかについて、その理解の真実性を証明する本質的な根拠にはならないからである。

教えの意味理解が真実であることの第一の証明は、その教えが一貫しており、明晰であり、単純であり、全体としてまとまっていること、そして真理を求めるすべての人の内的感覚と一致することである。

私の説明が教会の受け入れている本文から逸脱している点について、読者は次のことを忘れてはならない。私たちにあまりにもなじみ深い、四つの福音書のすべての節と文字が聖なる書物であるという考えは、一方では最大級の誤謬であり、他方では最大級の欺瞞である。

読者は心に留めておかなければならない。イエス自身は、プラトン、フィロン、マルクス・アウレリウスのように、自ら本を書いたことはない。またソクラテスのように、自分の教えを、読み書きができ、ある程度の教養を備えた人々に託したわけでもない。むしろイエスは、生きている中で出会った読み書きのできない人々に語ったのである。

イエスの死後かなり経ってから、人々はようやく、彼が語ったことは非常に重要であり、彼が語り、行ったことの一部を書き留めておくのも悪くないと思うようになった。ほぼ一世紀後になって、人々は彼について聞き伝えたことを書き記したのである。

読者は心に留めておかなければならない。そのような記録は非常に多く存在した。多くは失われ、多くはきわめて貧弱なものだった。キリスト教徒たちはそれらすべてを用い、そこから徐々に、自分たちにとってもっともよく、十分に見えるものを選び出していった。

教会が最良の福音書を選び出す際には、「小枝を選び取ろうとしても、節のないものは選べない」という諺のとおり、巨大なキリスト文献全体から選び分けたものの中に、多くの節目やこぶも一緒に取り込まざるを得なかった。正典福音書の中にも、退けられた外典と同じくらい貧弱な箇所が多くあるし、外典にもまた良いものは含まれている。

読者は心に留めておかなければならない。キリストの教えは聖なるものでありうる。しかし、ある一定数の節や文字が聖なるものであるわけでは決してない。人々がそれを聖なるものだと言ったからといって、その本が最初のページから最後のページまで聖なるものになるわけではない。

教養ある人々の中で、ロシアの検閲のおかげで、歴史批評の百年にわたる努力を無視し、マタイ、マルコ、ルカの福音書が、現存する形のまま、それぞれの福音記者によって完全に書き下ろされたなどと素朴に語ることができるのは、ロシアの読者だけである。

読者は、自分がそれを一八八〇年に語っているのだということを心に留めるべきである。その際、この分野で学問が築いてきたすべてを無視しているのであり、それは前世紀に、太陽が地球の周りを回っていると語っていたのとまったく同じである。

読者は心に留めておかなければならない。私たちに伝わった共観福音書は、写本、加筆、組み合わせによって、無数の人間の頭と手を通じて少しずつ成長してきた産物であって、福音記者に語りかけた聖霊の産物では決してない。

読者は心に留めておかなければならない。現在の形の福音書を使徒たちに帰するのは寓話である。それは批判に耐えないだけでなく、そうであってほしいという尊敬すべき人々の願望を除けば、まったく根拠を持たない寓話である。

何世代にもわたって、福音書は選ばれ、加筆され、解釈されてきた。私たちのもとに伝わった四世紀の福音書は、語の区切りも文の区切りも句読点もなく書かれている。したがって、四世紀、五世紀以降も、非常にさまざまな読み方を受けてきたのであり、福音書の異読は五万に及ぶとも数えられている。

読者はこれらすべてを心に留めておかなければならない。そうしなければ、現在私たちに普通に行き渡っている、福音書は私たちが今理解している形のまま聖霊によって伝えられた、という考えに迷い込んでしまう。

読者は、福音書から不要な箇所を取り除き、ある箇所を別の箇所によって照らし出すことが、非難されるべきではないばかりか、むしろそれをしないこと、一定数の節と文字を聖なるものだと宣言することこそ、非難されるべきであり、不敬虔なのだということを心に留めておかなければならない。

一方で、私は読者に次のことも心に留めてほしい。私が福音書を、上から、聖霊によって私たちに届いた聖なる本として見ていないとしても、単なる宗教文学史上の遺物として見ているわけでもない。私は福音書に対する神学的な見方も、歴史的な見方も理解している。しかし私は、それとは別の見方をしている。

だから私は読者に、私の解説を読む際、教会的な福音書観にも、近ごろ教養人の間で普通になっている歴史的な福音書観にも迷い込まないでほしいと願う。私はそのどちらにも同意しないし、どちらも同じように不十分だと考えている。

私はキリスト教を、もっぱら神的な啓示として見るのでもなく、歴史的現象として見るのでもない。私はキリスト教を、人生に意味を与える教えとして見る。

私がキリスト教へ導かれたのは、神学研究や歴史研究によってではなかった。五十歳のとき、私は自分自身と、自分の属する階層の賢者たちに、私とは何か、私の人生とは何を意味するのかを問うた。そして得た答えは、「君は偶然に結びついた粒子の連鎖であり、生命には意味などなく、生命それ自体が悪である」というものだった。そのとき私は絶望へ追い込まれ、自殺しようとした。

しかし私は思い出した。かつて幼いころ、信じていたときには、私にとって人生には意味があった。そして私の周囲にいる、信仰を持つ人々、すなわち多くは富によって歪められていない人々は、信じ、しかも現実の生命を生きている。

そこで私は、自分の属する階層の知恵が私に与えた答えの正しさを疑い、現実の生命を生きる人々にキリスト教が与えている答えを理解しようと努めた。

私はキリスト教を研究し始めた。人間の生命を導くものとして、キリスト教の教えの中にあるものを研究し始めた。私は、生活の中で実際に用いられているキリスト教を研究し、その実践を源泉と比べ始めた。キリスト教の教えの源泉は福音書であった。そして福音書の中に、私は、現実の生命を生きるすべての人々を導いている精神についての解明を見いだした。

しかしキリスト教を研究していくと、この清らかな生命の水の源泉のそばに、不当にそれと結びつけられた汚物と泥があることに気づいた。それらは私がその水を飲み、その清らかさを味わうことを妨げていた。高いキリスト教の教えのそばに、それと結びつけられた、異質で歪んだヘブライ的および教会的な教えを見いだしたのである。

私は、悪臭を放つ汚物でいっぱいの袋を受け取り、長い嫌悪と苦労の末に、その汚物で詰まった袋の中に、実は値のつけようもない真珠が入っていることを発見した人間のような状態にあった。

そしてその人間は、自分が悪臭ある汚物に嫌悪を覚えたことについて自分に罪はなく、またその真珠を汚物ごと集め保存した人々にも罪はなく、むしろ彼らは愛と尊敬に値すると理解した。しかしなお、その汚物と混ざって見つかった貴重なものをどう扱えばよいのか、彼にはわからなかった。

私は非常に苦しい状態にあった。だがある日、真珠は汚物と同一ではなく、清めることができるのだと確信するに至った。

私は光を知らず、生命の中に真理などないと信じていた。しかし、人々がこの光によってのみ生きていると確信してから、その源を探しに出た。そして教会の誤った解釈にもかかわらず、それを福音書の中に見いだした。

この光の源に至ったとき、私はその光に圧倒され、自分の人生と他者の人生の意味について、完全な答えを得た。その答えは、私の知るすべての民族の答えとまったく調和しており、私の見るかぎり、それらすべてに優っていた。

私が求めていたのは、生命が発する問いへの答えであって、神学上または歴史上の問いへの答えではなかった。だから、イエス・キリストが神であったか神でなかったか、聖霊がどこから発したか、福音書やある譬え話がいつ、誰によって書かれたか、それをキリストに帰することができるかどうか、そうしたことは私にとってまったくどうでもよかった。

私にとって重要だったのは、一八〇〇年にわたって世界を照らし、今も照らしているあの光であった。その光の源にどのような名を与えるべきか、その構成要素が何か、誰がそれに火を灯したのかは、私にはまったくどうでもよかった。

そして私は、この光を検討し、この光に反するものをすべて探し始めた。この道を進めば進むほど、真理と虚偽の違いは、私にとってますます疑いようのないものになっていった。

仕事を始めたころ、私はまだ疑いを抱き、技巧的な説明を試みていた。しかし進めば進むほど、すべてのことがより確かに、より明晰になり、真理はますます疑いようのないものとなった。

私は、砕けた像を組み立てている人間のような状態にあった。最初は、これは脚の一部なのか腕の一部なのか迷うこともある。だが脚が組み上がれば、その断片はもはや脚の一部ではないことが確実になる。さらにその断片が別の断片と側面でぴたりと合い、割れ目のすべての線が下の断片と一致するなら、もはや疑う余地はない。

私の仕事が進むにつれて、私はこのことを経験した。そして私が正気を失っていないかぎり、読者もまた、より大きな福音書解説を読むとき、同じ感覚を持つはずである。そこでは、各命題が、文献学的考察、異本、文脈、そして根本思想との一致によって同時に支えられている。

以上でこの序文を閉じることもできただろう。もし福音書がいま発見された書物であり、キリストの教えが一八〇〇年にわたる誤解釈にさらされていなかったならば。

しかし現実には、キリスト自身が理解したであろうキリストの教えを本当に理解するためには、その教えを歪めてきた誤解釈の密林と、その誤解釈の主要な手段を意識しなければならない。

キリストの教えをここまで歪め、その厚い層の下でほとんど見えなくした誤解釈の主な原因は、パウロの時代から、この教えがファリサイ派的伝承の教え、したがって旧約聖書のすべての教えと混ぜ合わされたことにある。パウロはキリストの教えを正しく理解しておらず、また後にマタイ福音書に表現されたような形では、その教えを知らなかった。

パウロは通常、異邦人の使徒、プロテスタント的な使徒と見なされている。たしかに外面的には、たとえば割礼の問題に関しては、そうであった。

しかし伝統の教え、新約と旧約との結合という教えは、パウロによってキリスト教の中に持ち込まれた。そしてこの伝統の教え、この伝統という原理こそが、キリスト教の教えを歪め、誤解させた主な原因であった。

パウロの時代から、教会教義と呼ばれるキリスト教のタルムードが始まる。そしてキリストの教えは、統一された神的で完全な教えではなく、世界の始まりから始まり、教会の中で今日まで続いている啓示の連鎖の一環とされてしまう。

この誤解釈者たちはイエスを神と呼ぶ。しかし彼らがイエスを神として認めていることは、彼らが神に帰している言葉と教えを、モーセ五書、詩篇、使徒言行録、書簡、黙示録、さらには教会会議の決定や教父たちの著作よりも重く扱う理由にはならない。

これらの誤解釈者たちは、イエス・キリストの教えについて、先行する、あるいは後続するすべての啓示と調和する理解以外を許さない。その目的は、キリストの説教の意味を明らかにすることではない。

むしろ、モーセ五書、詩篇、福音書、書簡、使徒言行録など、聖書とされるすべての書物、しかも相互に極度に矛盾する書物のために、できるだけ矛盾の少ない意味を探し出すことである。

このような見方をすれば、キリストの教えを理解することが不可能になるのは明らかである。そしてこの誤った見方から、福音書理解における無数の意見の相違が生まれる。

真理を目的とせず、旧約と新約という、本来一致させようのないものを一致させることを目的とする解釈は、明らかに無数に可能である。そして実際にそうなっている。だから、ある特定の調停的解釈を真なるものとして認めさせるためには、奇跡、聖霊の降臨、その他の外的手段だけが残される。

誰もが自分のやり方で調和させる。そして誰もが、自分の調和こそ聖霊の継続的啓示であると主張する。パウロの教会会議的決定や、公会議の命令が「われらと聖霊はよしとした」という定式で始まるのと同じように、教皇の命令、教会会議の命令、アリウス派、パウロ派、その他すべての誤解釈者たちの命令もまた、聖霊が自分たちの口を通して語っていると主張する。

彼らは皆、自分たちの調和の真理性を承認させるために、同じ粗雑な手段を用いる。自分たちの調和を、自分たちの思考の産物ではなく、聖霊の証言だとするのである。

それぞれが真理を名乗るこれらの信仰教義を検討するまでもなく、明らかなことがある。いわゆる旧約聖書と新約聖書の膨大な数の書物を、すべて同じく聖なるものとして承認するという、彼らすべてに共通するやり方の中には、キリストの教えを理解するための越えがたい障壁がある。また、この迷妄から、無限に多様で互いに敵対する教派が生じる可能性、いや必然性すら生じる。

無数の啓示を調和させる作業だけが、無限に多様でありうる。一方、神と見なされる人物の教えを解釈することは、教派を生むはずがない。地上に降りた神の教えが、さまざまに理解されることはありえない。

もし神が人間に真理を啓示するために地上へ来たのなら、神がなしうる最小限のことは、すべての人に理解できるように真理を啓示することだったはずである。もし神がそれをしなかったのなら、それは神ではない。もし神的真理が、神でさえ人間に理解させることができないようなものなら、人間がそれを理解させることなど、なおさらできるはずがない。

もしイエスが神ではなく、偉大な人間であったとしても、その教えはなおさら教派を生むことはできない。偉大な人間の教えが偉大なのは、他の人々が明確にも理解可能にも語れなかったことを、理解可能かつ明確に語るからである。

偉大な人物の教えのうち、理解できないものは偉大ではない。そして偉大な人物の教えは、教派を生むことはできない。偉大な人物の教えが偉大なのは、それがすべての人を、すべての人にとって一つの真理へと結びつけるからである。

ただ一つ、教派を生むものがある。それは、自分こそ聖霊の啓示であり、自分だけが真理であり、他のすべては虚偽であると主張する解釈である。あらゆる信仰告白の教派者たちが、自分たちは他の信仰告白を断罪していない、それとの一致を祈っている、それに対して憎しみを抱いていない、とどれほど言おうとも、彼らは誤っている。

アリウス以来、いかなる教義の主張も、相手の教義を虚偽として告発すること以外から生じたことはない。しかも、そのような教義の表現を神的発言、聖霊の発言だと宣言することは、最高度の傲慢であり、最高度の愚かさである。

傲慢であるのは、神が私の語った言葉を、私を通して語ったのだ、と言うこと以上に傲慢なことはないからである。愚かであるのは、ある者が、神は自分の口を通して語っていると主張しているのに対し、「違う。神はお前の口ではなく、私の口を通して語っている。そして私の神は、お前の神が語ることとまったく反対のことを語っている」と言うこと以上に愚かなことはないからである。

すべての公会議、すべての信条、すべての教会が、まさにこれを言っている。そして信仰の名において世界で行われてきた、また今も行われているすべての悪は、そこから流れ出てきた。

しかし教派には、この外的な害悪のほかに、すべての教派に付着し、それらを曖昧で、不定で、治癒しがたいものにしている、もう一つ重要な内的欠陥がある。

その欠陥とは、こうである。どの教派も、使徒たちの上に降り、その後、選ばれた者たちへと移り、さらに移り続けるとされる聖霊の啓示を、最後の啓示として認めている。しかし誤解釈者たちは、その聖霊の啓示が何であるかを、どこにおいても明確に、断定的に、最終的に述べない。それにもかかわらず、彼らはこの継続していると称する啓示の上に自分たちの信仰を築き、それをキリストの名で呼んでいる。

聖霊の啓示を認めるすべての教派者は、イスラム教徒と同じように三つの啓示を認めている。イスラム教徒にとっては、モーセ、イエス、ムハンマドである。教会の人々にとっては、モーセ、イエス、聖霊である。

だがイスラム教では、ムハンマドが最後の預言者であり、モーセとイエスの啓示の意味を明らかにする者であり、それ以前のすべての啓示を照らす最後の啓示である。そして正統信徒は皆、この啓示を目の前に持っている。

しかし教会信仰ではそうではない。イスラム教と同じく、モーセ、イエス、聖霊という三つの啓示を認めていながら、最後の啓示に従って自らを「聖霊信仰」とは呼ばない。むしろ、自分たちの信仰の基礎はキリストの教えだと主張する。つまり、自分たち自身の教えを説きながら、その教えの権威をキリストから借りているのである。

聖霊教派の人々は、もし自分たちが、先行するすべてを照らす最後の啓示として、ある者はパウロを、ある者はこれこれの公会議を、別の者は教皇を、あるいは総主教の書簡や聖霊の私的啓示を認めるのであれば、それを率直に言い、その最後の啓示を持った者の名に従って自分たちの信仰を呼ぶべきである。

もしその最後の啓示が教父たちのもの、東方総主教たちの回状、教皇の勅令、シラバス、ルターやフィラレートの教理問答であるなら、それをはっきり言い、それに従って信仰に名をつけるべきである。なぜなら、先行するすべてを照らす最後の啓示こそ、つねに主要な啓示となるからである。

しかし彼らはそうしない。その代わりに、キリストからもっとも遠い教えを説き、それをキリストが説いたものだと主張する。そのため、彼らの教えからは、キリストはこう教えたことになる。すなわち、キリストはアダムによって堕落した人類を自分の血によって買い戻した、神は三位一体である、聖霊は使徒たちの上に降り、按手によって司祭職へ伝えられた、救いには七つの秘跡が必要である、などである。しかしイエスの教えの中には、このようなことを示すものは一つも存在しない。

これらの偽教師たちは、自分たちの教えと信仰を、キリストの教えと信仰ではなく、聖霊の教えと信仰と呼ぶべきである。なぜなら、キリスト教の教えと呼べるのは、福音書を通して私たちに伝えられたキリストの啓示を、最後の啓示として認める教えだけだからである。そしてそれは、キリスト以外に教師を名指さないキリスト自身の言葉に従うなら、そう認められなければならない。

これは、わざわざ言うまでもないほど単純なことのように見える。だが奇妙なことに、今日に至るまで、このことは認められていない。人々は、キリストの教えを、旧約聖書への人工的で正当化できない適合や、聖霊の名において作られ、差し込まれた恣意的な補足から切り離すことに全力を向けるべきであった。ところが実際には、この結合の中にできるだけ大きな意味を見いだそうとすることに、すべての力が向けられている。

そして驚くべきことに、この欠陥において、二つの極端な陣営が出会っている。教会人たちと、キリスト教を自由思想的に扱う歴史家たちである。

一方の教会人たちは、イエスを三位一体の第二位格と呼ぶことで、彼の教えを、第三位格のいわゆる啓示との関連の中でしか理解しない。その啓示を、彼らは旧約聖書、公会議の書簡、教父たちの命令などの中に見いだす。そして、もっとも奇妙な信仰を説きながら、それをキリスト教信仰だと主張する。

他方の人々は、イエスを神とは認めないが、それでも彼の教えを、彼自身が説いたであろうものとして理解しない。むしろ、それが見いだされた形、また他の解釈者たちによって理解された形で理解する。彼らはイエスを神ではなく人間として認めながら、そのイエスから、もっとも正当な人間的権利、すなわち自分自身の言葉に対して責任を持つ権利を奪っている。彼らは、イエスをその言葉の誤解釈者たちの責任まで負わせるのである。

イエスの教えを明らかにしようとしながら、これらの学者たちは、イエスが言うはずもなかったことを彼に背負わせる。この解釈学派の代表者たち、とくにその中で最もよく知られたルナンを筆頭に、彼らはキリストの教えの内部で、キリスト自身が教えたことと、その解釈者たちが彼に押しつけたことを区別しようとしない。彼らは、その教えを教会の教えより深く捉えようともしない。それでいて、イエスの出現とその教えの広がりの意味を、出来事、イエスの生活、その時代の事情から説明しようとする。

しかも歴史家であるなら、本来このような誤りを犯してはならないはずである。彼らが解くべき問題は、次のようなものだ。

一八〇〇年前、ある乞食のような男が現れ、何かを語った。人々は彼を鞭打ち、吊るし、彼についてのすべてを忘れた。こうした出来事は何百万と忘れ去られてきた。そして二百年の間、世界は彼について何も聞かなかった。ところが、誰かがその男の語ったことを思い出し、それを第二の人、第三の人に語り伝えた。さらに遠くへ、さらに多くの人へと伝わり、ついには賢い者も愚かな者も、学者も無学な者も、何十億という人々が、この人間こそ神であったという考えから離れられなくなった。この驚くべき現象を、どう説明するのか。

教会人は言う。それは、イエスがまさに神だったからだ、と。そうすればすべては明らかである。しかしもし彼が神でなかったとしたら、どうしてこの単純な人間が、すべての人から神として認められることになったのか。

そこでこの学派の学者たちは、この人間の生活環境のあらゆる細部を熱心に調べる。しかし彼らは気づかない。どれほど多くの細部を掘り起こしても、実際にはフラウィウス・ヨセフスと福音書にあること以外、ほとんど何も掘り起こせない。

仮にイエスの生活を最小の細部に至るまで再構成できたとしても、イエスが何を食べ、どこに泊まったかを知ったとしても、なぜ彼が、まさに彼が、人間にこれほどの影響を及ぼしたのかという問いには、なお答えられない。

答えとは、イエスがどの階層に生まれ、誰に育てられたかを言うことではない。まして、ローマで何が起こっていたか、民衆が迷信に傾いていたかを言うことでもない。答えとは、この人間が何か非常に特別なことを説いたため、人々が彼を他のすべての人から区別し、当時も今も神として認めるようになったのだ、ということを示すことである。

もしそれを理解しようとするなら、まず最初になすべきことは、この人間の教えを理解しようと努めることのはずである。しかも彼自身の本来の教えを、である。彼の後に広まり、今も広がっている弟子たちによる粗雑な解釈ではない。

しかし人々はそれをしない。これらの教養あるキリスト教史家たちは、イエスが神ではないことをあまりにも喜び、その教えが神的ではなく、したがって拘束力もないことを証明したがるあまり、彼が単なる人間であり、その教えが神的でなかったことを証明すればするほど、自分たちが取り組んでいる問いの理解から遠ざかっていくことを忘れている。そして彼らは、彼が単純な人間であり、だからその教えは神的ではなかったと証明するために、すべての力を費やす。

この奇妙な迷妄を明らかにするには、ルナンやその他の人々を思い出せば十分である。たとえば、イエス・キリストにはキリスト教的なものは何もなかったと素朴に主張する者がいる。あるいは、イエス・キリストはきわめて粗野で単純な人間だったと熱心に論じる者がいる。

問題は、イエスが神ではなく、したがってその教えも神的ではなかったと証明することではない。また、彼がカトリック信者ではなかったと証明することでもない。問題は、人々にとってその教えがこれほど高く、貴いものとなり、その教えを説いた者を神として認めるほどになった、その教えの本質を理解することである。

少なくとも私は、そのことを試み、自分自身のためにはそれを成し遂げた。そして今、私はそれを私の兄弟たちにも差し出す。

読者が、教会信仰の中で育てられながら、それが健全な理性と良心に合わないためにそこから離れた、教育ある人々の圧倒的大多数に属しているならば、私はそのような読者に、次のことを心に留めてほしい。

彼を退けさせるもの、迷信として映るものは、キリストの教えではない。キリストの教えに絡みつけられ、キリスト教として差し出された醜悪な伝統について、キリストに責任を負わせることはできない。なすべきことはただ、私たちに伝わったキリストの教え、すなわちキリストに帰され、教えとしての意味を持つ言葉と行いを研究することである。

そのような読者は、私の解説を読めば、キリスト教が高いものと低いものの混合物ではなく、迷信でもなく、最も厳密で、最も純粋で、全体として完全な形而上学的かつ倫理的な教えであることを確信するだろう。人間の理性は今日に至るまで、それを超えるところへは上がっていない。そして政治的、科学的、詩的、哲学的であれ、人間の最高の営みは、本人が意識していないとしても、すべてこの教えの圏内で動いている。

読者が、教育ある人々の中でも消えゆく少数派、つまり外的な目的のためではなく、内的な平安のために教会信仰を告白し、それに固執している人々に属しているならば、私はそのような読者に、読む前に自分の精神の中で次の問いを決めてほしい。自分にとってより大切なのは、魂の平安か、それとも真理か。

平安であるなら、読まないでほしい。しかし真理であるなら、次のことを心に留めてほしい。ここに示されているキリストの教えは、同じ名前で呼ばれてはいるが、教会信仰とはまったく別の教えである。したがって教会信仰の告白者である彼にとって、この解説に対する関係は、イスラム教徒がキリスト教の説教に向き合う関係に似ている。

問われているのは、ここに示された教えが彼の信仰と一致するかどうかではない。ただ一つ問われているのは、どちらの教えが彼の理性と心によりよく一致するかである。彼の教会的な教えか、それともキリストだけの教えか。問題は、新しい教えを受け入れたいのか、それとも自分の信仰にとどまりたいのか、それだけである。

最後に、読者が、教会信仰を外面的に告白し、重んじている人々に属しているならば、しかもそれを真理と信じているからではなく、外的な計算によって、すなわちそれを告白し説くことが自分にとって有利だからそうしているならば、そのような人々にも、次のことを心に留めてほしい。

彼らにどれほど多くの同類がいようとも、どれほど強大であろうとも、どのような王座に座っていようとも、どれほど高い名で自らを呼ぼうとも、彼らは告発者ではなく、被告である。そして彼らを告発しているのは私ではなく、キリストである。

そのような読者は、ただ次のことを心に留めるべきである。彼らにはもはや提示すべきものはない。彼らは提示すべきものを、とっくに提示し尽くしている。今必要なのは主張ではなく、弁明である。互いに粗野に誹謗し合うあらゆる教会信仰の告白が、それぞれ自分こそ正しいと主張してきた。しかし彼らに必要なのは、さらなる主張ではなく、弁明である。

聖なるものを嘲弄した者としての弁明である。エズラの教え、公会議の教え、テオフィラクトスの教えを、神であるイエスの教えと同列に置き、人間の言葉を根拠に神の言葉を解釈し直し、すり替えることを許した者としての弁明である。

神を中傷した者としての弁明である。自分自身の心の狂信をすべて神なるイエスに押しつけ、それを彼の教えとして差し出した者としての弁明である。

詐欺師としての弁明である。世界に救いを与えるために降りてきた神の教えを隠し、その代わりに聖霊信仰を置き、そのすり替えによって、キリストが人間にもたらした救いを数十億の人々から奪い、今も奪い、キリストとともに来た平和と愛の代わりに、教派、断罪、あらゆる種類の醜悪なものを、キリストの名で覆って世界にもたらした者としての弁明である。

このような読者に残されている道は、二つだけである。謙虚な悔い改めと、自分たちの嘘の放棄。あるいは、自分たちがこれまで何をしてきたか、今何をしているかを明らかにする者たちへの迫害である。

もし彼らが自分たちの嘘を捨てないなら、残される道は一つしかない。私を迫害することである。私はいま、自分の仕事を終えた以上、喜びをもって、そして自分の弱さゆえの恐れをもって、その迫害を受ける準備をしている。 


https://note.com/eitangono_akuma/n/ncc742483da43


福音書

すなわち、神の子イエス・キリストによる救いの告知。

序論 生命の認識

福音書が告げているのは、万物の根源とは、人々が考えているような外側にいる神ではなく、生命の認識である、ということである。したがって福音書においては、人々が神と呼んでいるものの位置に、生命の認識が置かれる。

認識なしに生命はない。人間が生きているのは、ただ生命の認識を持っているからである。これを理解せず、生命の源を肉体のうちに置く人々は、真の生命を自ら失っている。

しかし、自分たちが肉体によって生きているのではなく、認識によって生きているのだと理解する者たちは、真の生命を持っている。そして、この真の生命を示したのがイエス・キリストであった。イエスは、人間の生命が認識から生じるということを真理として知っていたため、人々に、肉体のうちにありながら認識によって生きる生の教えと模範を与えた。

以前の信仰の教えは、神に仕えるために何をすべきか、何をしてはならないかを、律法としてまとめたものであった。しかし、イエス・キリストの教えは、生命の認識そのものである。

外側にいる神を見た者は、かつて一人もいない。また、そのような神を知ることもできない。だから、外側にいる神に仕えるということは、生命を導くことができない。

ただ、万物の根底を認めることだけが、生命への道を示す。その万物の根底とは、認識そのものであり、認識の根源から生じたものである。それは、子が父から出るのと同じである。

マルコ 1章1節
神の子イエス・キリストによる救いの告知。

ヨハネ 20章31節
これは救いの告知である。すなわち、自分たちが神の子であると確信したすべての人が、真の生命を受けるということである。

ヨハネ 1章1節
万物の根底、万物のはじめに、生命の認識があった。
生命の認識は、神に代わるものとしてあった。
生命の認識こそが神である。

2
それは、イエスの告知によれば、神に代わる万物の根底であり、万物の根源であった。

3
すべてのものは、認識によって生命へと生まれた。
認識なしには、生きているものは何一つ存在しえない。

4
認識は、真の生命を与える。

5
認識、それは真理の光である。
その光は闇の中でも輝き、闇はそれに打ち勝つことができない。

9
真の光は、つねに世界のうちにあり、生まれてくるすべての人間を照らしている。

10
その光は世界のうちにあった。
そして世界は、その内に認識の光を宿しているということだけによって、生きていた。
しかし世界は、その光を保たなかった。

11
それは自己のうちに現れた。
しかし自己は、それを保たなかった。

12
ただ、その認識を理解した者たちだけに、その存在を信じることによって、それに似たものとなる可能性が与えられた。

13
生命は認識のうちにあると信じる者たちは、肉体の子ではなく、認識の子となった。

14
そして生命の認識は、イエス・キリストという人物において、肉体のうちに現れた。
そのため私たちは、その意味を理解した。
認識の子、すなわち肉体をもつ人間は、生命の根源である父と同じ本性を持つ。
父が生命の根源であるように、その子もまた生命の根源に属する者である。

15
イエスの教えは、完成された真の信仰である。

16
なぜなら、私たちはイエスによって教えが成就されたあと、以前の信仰に代わる新しい信仰を理解したからである。

17
律法はモーセによって与えられた。
しかし真の信仰は、イエス・キリストによって理解された。

18
神を見た者は、かつても今も誰一人いない。
ただ、父のうちにある子だけが、生命への道を示したのである。


https://note.com/eitangono_akuma/n/n552be3a61b46


人間は神の子である。肉においては無力であり、霊によって自由である。
われらの父よ。

イエスは、名も知られぬ父の子であった。自分の父を知らなかったため、幼いころから神を自分の父と呼んでいた。

そのころ、ユダヤには預言者ヨハネがいた。ヨハネは、神が地上に来ることを説いていた。ヨハネは、人々が自分の生き方を改め、すべての人を互いに等しい者として扱い、不正を行わず、互いに助け合うなら、神は地上に来て、その王国を地上に築くであろう、と語った。

イエスはこの説教を聞くと、人々から離れて荒野へ退いた。人間の生の意味と、神と呼ばれる無限の根源との関係を理解するためであった。イエスは自分の肉の父を知らなかったので、ヨハネが神と呼んだもの、すなわち無限の根源を、自分の父として認めた。

イエスは荒野で数日間、食べ物なしに過ごしたのち、空腹に苦しみ、心の中で考えた。私は全能の神の子である。ならば、私も神と同じように全能でなければならない。しかし今、私は食べたいと思っているのに、私の意志によってパンは現れない。ということは、私は全能ではない。

そこで彼は自分に言った。私は石からパンを作ることはできない。だが、パンを断つことはできる。だから、肉においては全能でなくても、霊において全能であるなら、私は肉に打ち勝つことができる。ゆえに私は、肉によって神の子なのではなく、霊によって神の子なのである。

さらに彼は自分に言った。もし私が霊の子であるなら、私は肉から離れ、肉を滅ぼすこともできる。すると彼は答えた。私は霊によって肉の中に生まれた。それが私の父の意志である。だから私は、その意志に逆らうことはできない。

さらに彼は自分に言った。もしおまえが肉の欲求を満たすこともできず、肉から離れることもできないなら、おまえは肉に仕え、肉が与えるすべての快楽を味わわなければならない。すると彼は答えた。私は肉の欲求を満たすことはできない。肉から離れることもできない。しかし私の生命は、父の霊において全能である。だから私は、肉の中にありながら、ただ霊に、父に仕え、そのために働かなければならない。

こうしてイエスは、人間の生命は父の霊の中にのみあると確信した。そして荒野から出て、人々に自分の教えを説き始めた。彼は語った。霊は私の中にある。今や天は開かれ、天上の力は人間の力と結びつく。人間には、無限で自由な生命が始まる。どれほど不幸な人間であっても、すべての人は幸福になりうる。

マタイ 1-18
イエス・キリストの誕生はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していた。しかし、2人が夫婦として暮らし始める前に、マリアは身ごもっていることが明らかになった。

マタイ 1-19
ヨセフは善良な人であり、マリアを辱めようとはしなかった。彼はマリアを妻として迎えたが、彼女が第1子を産むまでは関係を持たなかった。そしてその子をイエスと名づけた。

ルカ 2-40
その子は成長し、成熟し、年齢を超えた理解力を持つようになった。

ルカ 2-41, 2-42
イエスが12歳になったころ、マリアとヨセフは祭りのためにエルサレムへ行き、少年を連れていった。

ルカ 2-43
祭りが終わると、彼らは帰途についたが、少年のことを忘れていた。

ルカ 2-45
やがて彼らは少年のことを思い出し、ほかの子どもたちと一緒に先へ行ったのだろうと考え、道中で彼を探した。しかし少年はどこにもいなかった。そこで彼らは、少年を探してエルサレムへ引き返した。

ルカ 2-46
3日目になって、ようやく彼らは、少年が神殿で教師たちの間に座り、質問し、耳を傾けているのを見つけた。

ルカ 2-47
人々はみな、その理解力に驚いた。

ルカ 2-48
母は彼を見つけて言った。「なぜこんなことをしたのです。あなたの父と私は、悲しみながらあなたを探していました。」

ルカ 2-49
すると彼は言った。「なぜ私を探したのですか。子は父の家にいるものだと、知らなかったのですか。」

ルカ 2-50
しかし彼らは、その言葉を理解しなかった。彼が誰を自分の父と呼んでいるのか、理解しなかったのである。

ルカ 2-51
その後、イエスは母のもとで暮らし、すべてにおいて母に仕えた。

ルカ 2-52
そして背丈も理解力も増していった。

ルカ 3-23
人々はみな、イエスをヨセフの子だと思っていた。イエスは30歳までそのように暮らした。

マタイ 3-1
そのころ、ユダヤに預言者ヨハネが現れた。

マルコ 1-4
ヨハネは、ヨルダン川のほとりのユダヤの荒野に住んでいた。

マタイ 3-4
ヨハネの衣はラクダの毛でできており、彼は木の皮と草を食べていた。

マルコ 1-4~6
彼は民に、生き方を改め、不正から離れるよう求めた。そして生活を改めるしるしとして、民をヨルダン川で洗った。

ルカ 3-4
彼は言った。「声があなたがたに呼びかけている。荒野に神の道を備えよ。神のために道を平らにせよ。」

ルカ 3-5
すべてを平らにせよ。高い所も低い所もなくせ。

ルカ 3-6
そうすれば、神はあなたがたのただ中におられ、すべての人が救いを見いだすであろう。

ルカ 3-10
民は彼に尋ねた。「私たちは何をすればよいのですか。」

ルカ 3-11
彼は答えた。「衣を2枚持っている者は、持たない者に1枚を与えよ。食べ物を持っている者は、持たない者に分けよ。」

ルカ 3-12
徴税人たちも彼のもとに来て尋ねた。「私たちは何をすればよいのですか。」

ルカ 3-13
彼は彼らに言った。「取り決めに反して、何も取り立ててはならない。」

ルカ 3-14
兵士たちも尋ねた。「私たちはどう振る舞えばよいのですか。」彼は言った。「誰にも害を加えるな。人を脅すな。支払われるもので満足せよ。」

マタイ 3-5
エルサレムから来た人々、またヨルダン周辺のユダヤ人たちが、みな彼のもとに来た。

マタイ 3-6
彼らは自分たちの不正を告白し、生活を改めるしるしとして、ヨハネにヨルダン川で洗われた。

マタイ 3-7
ファリサイ派とサドカイ派の人々も、ひそかにヨハネのもとへ来た。ヨハネは彼らを見抜いて言った。「おまえたちは蛇の血筋だ。だが、おまえたちもまた、神の意志から逃れられないことを感じ始めたのか。ならば告白し、信仰を改めよ。」

マタイ 3-8
信仰を改めようとするなら、そのことは実によって明らかにならなければならない。おまえたちが何を思い直したのか、それが実によって見えなければならない。

マタイ 3-10
すでに斧は木の根元に置かれている。木が悪い実を結ぶなら、それは切り倒され、火に投げ込まれる。

マタイ 3-11
私は、あなたがたの改心のしるしとして、水であなたがたを清める。しかしこの洗いの後には、さらに霊によって清められなければならない。

マタイ 3-12
霊は、主人が脱穀場を清めるように、あなたがたを清める。小麦は集められ、藁は焼かれる。

マタイ 3-13
イエスは、ヨハネから洗いを受けるために、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとへ来た。そして洗いを受け、ヨハネの説教を聞いた。

マタイ 4-1
そしてヨルダン川から荒野へ行き、そこで霊の力を知った。

マタイ 4-2
イエスは40日40夜、飲み物も食べ物もなしに荒野にいた。

マタイ 4-3, ルカ 4-3
すると彼の肉の声が彼に言った。「もしおまえが全能の神の子であるなら、望むままに石からパンを作れるはずだ。だが、おまえにはそれができない。だからおまえは神の子ではない。」

ルカ 4-4
しかしイエスは自分に言った。もし私が石からパンを作れないなら、それは、私が肉なる神の子ではなく、霊なる神の子であるということを意味する。私はパンによって生きているのではない。霊によって生きているのだ。そして私の霊は肉を軽んじることができる。

しかし空腹はなお彼を苦しめた。肉の声はさらに彼に言った。もしおまえが霊によってのみ生きており、肉を軽んじることができるなら、肉から離れればよい。そうすれば、おまえの霊は生き続けるだろう。

ルカ 4-9
すると彼には、自分が神殿の屋根の上に立っており、肉の声がこう語りかけているように思われた。「おまえが霊なる神の子であるなら、神殿から身を投げよ。おまえは死なない。」

ルカ 4-10
見えない力がおまえを支え、守り、あらゆる悪から救うだろう。

ルカ 4-11
しかしイエスは自分に言った。私は肉を軽んじることはできる。だが、肉から離れることはできない。私は霊によって肉の中に生まれたからである。それが私の父、すなわち霊の意志であり、私はそれに逆らうことはできない

すると肉の声は彼に言った。神殿から身を投げ、生命から離れることで父の意志に逆らえないというなら、空腹なのに食べようとしないことにおいても、同じように父に逆らうことはできないはずだ。肉の快楽を軽んじてはならない。それはおまえの中に置かれている。おまえはそれに仕えなければならない。

ルカ 4-5
するとイエスの前に、地上のすべての王国と、肉のために労苦し、肉から報いを期待して生きるすべての人々が現れた。

ルカ 4-6
肉の声は彼に言った。「見よ、彼らは私に仕えている。そして私は、彼らが望むすべてを与えている。」

ルカ 4-7
おまえも私に仕えるなら、彼らと同じものを得るだろう。

ルカ 4-8
しかしイエスは自分に言った。私の父は肉ではなく、霊である。私はその霊によって生きている。私はそれを常に自分の中に知っている。私はただその霊だけを敬い、その霊だけに仕え、その霊からだけ報いを待つ。

ルカ 4-13
そこで誘惑は終わり、イエスは霊の力を知った。

ルカ 4-14, ヨハネ 1-36
そして彼は霊の力を知ると、荒野から出て、再びヨハネのもとへ行き、彼のそばにとどまった。イエスがヨハネのもとを去るとき、ヨハネは彼について言った。「この人こそ、人々を救う者である。」

ヨハネ 1-37
ヨハネのこの言葉を聞いて、2人の弟子は以前の師ヨハネを離れ、イエスに従った。

ヨハネ 1-38
イエスは彼らがついて来るのを見て、立ち止まって言った。「あなたがたは何を望むのか。」彼らは言った。「先生、私たちはあなたのもとにとどまり、あなたの教えを知りたいのです。」

ヨハネ 1-39
彼は言った。「私と一緒に来なさい。そうすれば、すべてを話そう。」彼らはイエスと共に行き、彼のもとにとどまり、第10時まで彼の話を聞いた。

ヨハネ 1-40
この弟子たちの1人はアンデレといった。アンデレにはシメオンという兄弟がいた。

ヨハネ 1-41
アンデレはイエスの話を聞くと、兄弟シメオンのもとへ行って言った。「私たちは、預言者たちとモーセが書き記した人、私たちに救いを約束した人を見つけた。」

ヨハネ 1-42
アンデレはシメオンを連れて、彼をイエスのもとへ連れて行った。イエスはアンデレの兄弟をペトロ、すなわち石と名づけた。そしてこの2人の兄弟はイエスの弟子となった。

ヨハネ 1-43
ガリラヤへ入る前に、イエスはさらにフィリポに出会い、自分と一緒に来るよう命じた。

ヨハネ 1-44
フィリポはベトサイダの人で、ペトロとアンデレの同郷人であった。

ヨハネ 1-45
フィリポはイエスを知ると、自分の兄弟ナタナエルを探し出して言った。「私たちは、預言者たちとモーセが書き記した、神に選ばれた者を見つけた。それはナザレ出身、ヨセフの子イエスである。」

ヨハネ 1-46
ナタナエルは、預言者たちが書き記した人が隣村の出身であることを不思議に思って言った。「神の使者がナザレから出るとは奇妙だ。」フィリポは言った。「私と一緒に来なさい。そうすれば、自分で彼を見て、その言葉を聞くだろう。」

ヨハネ 1-47~49
ナタナエルは承知して兄弟と一緒に行った。彼とイエスは互いに会い、ナタナエルはイエスの言葉を聞くと、イエスに言った。「はい、今わかりました。あなたが神の子であり、イスラエルの民の支配者であることは真実です。」

ヨハネ 1-51
イエスは彼に言った。「それよりも重要なことを知りなさい。今から天は開かれ、人々は天上の力と交わることができる。今から神は、人間の外に離れて存在するのではなくなる。」

ルカ 4-16
イエスは故郷ナザレに来た。そして祭りの日、いつものように会堂へ行き、朗読した。

ルカ 4-17
人々は彼に預言者イザヤの書を渡した。彼はそれを開き、読み始めた。その書にはこう書かれていた。「主の霊が私の中にある。主は私を選び、不幸な者、打ち砕かれた心の者に救いを告げさせるために遣わした。捕らわれた者に自由を、盲いた者に光を、苦しめられた者に休息と救いを告げさせるために。すべての人に、神の恵みの時を告げさせるために。」

ルカ 4-20
彼はその書を閉じ、係の者に渡して座った。人々はみな、彼が何を語るのかを待っていた。

ルカ 4-21
すると彼は言った。「今、この聖書の言葉は、あなたがたの目の前で成就した。」


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だから人間は、肉ではなく霊に仕えなければならない。天にいます方よ。

第2章の要旨

自分たちを正しい信仰者だと考えていたユダヤ人は、世界の創造者であり支配者である、外側に存在する神を礼拝していた。彼らの教えによれば、この神は彼らと契約を結び、その契約によってユダヤ人を助けると約束した。そのかわり、ユダヤ人は神を礼拝すると約束した。そして、その契約の第一の条件は、安息日を守ることだった。

これに対してイエスは言った。安息日は人間が作った制度である。霊において生きている人間のほうが、どんな慣習よりも重要である。安息日の慣習を守ることは、あらゆる外面的な神礼拝と同じく、その内側に欺きを含んでいる。安息日に何もしないなどということは不可能である。人間はいつでも善い行いをしなければならない。もし安息日が善い行いを妨げるなら、それは安息日そのものが偽りだということである。

彼らが神との契約の第二の条件としたのは、信仰を持たない者たちと交わらないことだった。これに対してイエスは、神が人間に求めているのは供え物ではなく、人と人とのあいだの愛であると言った。また彼らは、洗いと清めの規則も契約の条件だと考えていた。これに対してイエスは、神が求めているのは外面的な清さではなく、ただ憐れみと人間への愛であると言った。

ここでイエスは、外面的な慣習は危険であり、教会的な伝承そのものは悪であると言った。教会的な伝承は、人々に、父母への愛のような最も重要な愛の行いをないがしろにさせ、しかもそれを教会的な伝承によって正当化させる。

外面的なもの全般、すなわち人がどのようにして汚れるかについて定めた旧約のあらゆる規則について、イエスはこう言った。よく知りなさい。外から入るものは、人間を汚すことができない。人間を汚すのは、その人が信じ、行うことだけである。

その後、イエスは聖なる都とされていたエルサレムへ行き、正統派の人々が神ご自身が住むと考えていた神殿に入った。そして、神に供え物をささげる必要はない、人間は神殿よりも重要であり、必要なのはただ隣人を愛し、助けることだけだと言った。

さらにイエスは、神を特定の場所で礼拝する必要はなく、父には行いと霊によって仕えなければならないと言った。霊は目に見せることも、指し示すこともできない。霊とは、人間が無限の霊の子であるという自覚である。霊に神殿は必要ない。真の神殿とは、愛によって結ばれた人々の世界である。

イエスは、あらゆる外面的な神礼拝は偽りであり、害をもたらすと言った。それは、殺人を命じ、父母への軽視を許すユダヤ人の神礼拝のように、悪の行いに加担する場合だけではない。外面的な慣習を果たした人間が、自分を正しい者だと思い、愛の行いから免除されたと考えるようになるからである。

イエスは、自分の不完全さを感じる者だけが善を求め、愛の行いをなすと言った。愛の行いをするためには、自分が不完全であると感じなければならない。しかし外面的な神礼拝は、自己満足という欺きへ人間を導く。あらゆる外面的な神礼拝は無益であり、取り除かれなければならない。愛の行いと儀式の実行を結びつけることはできない。外面的な神礼拝の姿をとりながら、愛の行いをなすこともできない。人間は霊において神の子であり、だから霊によって父に仕えなければならない。

本文

マタイ 12-1, マルコ 2-23, ルカ 6-1
ある安息日、イエスは弟子たちと一緒に畑の中を通っていた。弟子たちは空腹だったので、道すがら麦の穂を摘み、それを手でもんで粒を食べた。ところが正統派の教えによれば、神はモーセと契約を結び、すべての者が安息日を守り、何もしてはならないと命じたことになっていた。また彼らの教えによれば、神は安息日に働く者を石で打ち殺すよう命じたことになっていた。

マタイ 12-2
正統派の人々は、弟子たちが安息日に麦の穂をもんでいるのを見て言った。これは安息日にふさわしくない。安息日には働いてはならないのに、あなたたちは麦の穂をもんでいる。神は安息日を定め、それを破る者を死で罰せよと命じたのだ。

7
それを聞いて、イエスは言った。もしあなたたちが、神の言葉である「私が求めるのは供え物ではなく愛である」という意味を理解していたなら、罪のない者を責めたりはしなかっただろう。

8
人間は安息日よりも大切である。

ルカ 13-10
また別の安息日に、イエスは会堂で教えていた。

11
そこへ病気の女が来て、自分を助けてほしいと願った。

12
イエスは彼女を癒やし始めた。

14
すると、教会の正統派の長老がイエスに腹を立て、群衆に言った。神の律法には、一週間のうち六日は働くためにあると書かれている。

ルカ 14-3
しかしイエスは、正統派の律法学者たちに尋ねた。あなたたちの律法では、安息日に人を助けてはならないのか。

6
彼らはどう答えればよいかわからなかった。

マタイ 12-11, ルカ 14-5
そこでイエスは言った。偽善者たちよ。あなたたちは安息日にも、自分の家畜を飼い葉桶からほどいて水場へ連れて行くではないか。羊が井戸に落ちたなら、安息日であっても、すぐに走って行って引き上げるではないか。

マタイ 12-12
人間は羊よりもはるかに大切である。それなのに、あなたたちは人間を助けてはならないと言う。ではあなたたちの考えでは、安息日には何をすべきなのか。善いことか、悪いことか。魂を救うことか、滅ぼすことか。善いことはいつでも行わなければならない。安息日であっても同じである。

マタイ 9-9
あるときイエスは、収税所にいる徴税人を見た。その名はマタイであった。イエスは彼と話し始めた。マタイはイエスを理解し、その教えを愛するようになり、イエスを自分の家に招いてもてなした。

10
イエスがマタイの家に来ると、マタイの友人たち、徴税人たち、信仰の外にいる者たちもやって来た。イエスと弟子たちは、彼らと同じ席に着いた。

11
それを見た正統派の人々がそこにいた。彼らはイエスの弟子たちに言った。なぜあなたたちの先生は、徴税人や信仰のない者たちと一緒に食事をするのか。正統派の教えでは、神は信仰のない者たちと交わってはならないと命じている。

12
イエスはそれを聞いて言った。医者を必要としないのは、自分が健康だと誇る者ではない。病気の者こそ医者を必要とする。

13
神の言葉である「私が求めるのは供え物ではなく愛である」という意味を理解しなさい。私は、自分を正しい信仰者だと思っている者たちを教え直すために来たのではない。自分を信仰の外にいる者だと思っている者たちを教えるために来たのである。

マタイ 15-1, マルコ 7-1
エルサレムから、正統派の律法学者たちがイエスのもとに来た。

2
彼らは、イエスと弟子たちが手を洗わずにパンを食べているのを見た。正統派の律法学者たちは、それを理由にイエスを責め始めた。

マタイ 15-3
彼ら自身は、食器をどのように洗うべきかという教会的な伝承を厳格に守っており、洗っていないものは食べなかったからである。

マルコ 7-4
また市場から帰ったときも、洗わなければ何も食べなかった。

5
そこで正統派の律法学者たちはイエスに尋ねた。なぜあなたたちは教会的な伝承に従わず、手を洗わずにパンを取って食べるのか。

マタイ 15-3
イエスは彼らに答えた。ではあなたたちはどうなのか。なぜ自分たちの教会的な伝承のために、神の戒めを破っているのか。

マルコ 7-10
神はあなたたちに言った。父と母を敬え。

11
ところがあなたたちは、誰でもこう言ってよいと考えている。両親に与えるべきものを神にささげました、と。そうすれば、父と母を養わなくてもよいことになる。こうしてあなたたちは、教会的な伝承によって神の戒めを破っている。

マタイ 15-7
偽善者たちよ。預言者イザヤは、あなたたちについて真実を語っている。

8
この民は言葉だけで私の前にひれ伏し、舌で私を敬っている。しかし、その心は私から遠く離れている。

9
彼らが私を畏れるといっても、それは暗記した人間の命令を畏れているだけである。だから私は、この民に驚くべきこと、並外れたことを行う。彼らの賢者の知恵は崩れ、理性ある者たちの理性は暗くなる。自分の欲望を永遠なるものの前から隠そうとし、闇の中で自分の行いをする者たちには災いがある。

マルコ 7-8
あなたたちも同じである。律法の中で重要なもの、神の戒めであるものを捨て、人間の伝承である器の洗い方にしがみついている。

14
イエスは民衆全体を呼び寄せて言った。みな、聞きなさい。そして理解しなさい。

15
この世には、外から人間の中に入ってその人を汚すものなどない。人間を汚すのは、その人の中から出てくるものである。魂の中に愛と憐れみだけがあれば、すべては清い。

16
このことを理解するよう努めなさい。

17
イエスが家に戻ると、弟子たちはこの言葉が何を意味するのか尋ねた。

18
イエスは言った。あなたたちは、これが理解できないのか。外側のもの、肉体に関わるものが、人間を汚すことはできないとわからないのか。

19
それは人間の魂に入るのではなく、体に入るだけである。体に入り、排泄されて出ていく。

20
人間を汚すことができるのは、人間の中から、その魂から出てくるものだけである。

21
人間の魂からは、悪、淫らな行い、無情、厚かましさ、妬み、悪口、高慢、あらゆる愚かさが出てくる。

23
こうした悪はすべて人間の魂から出てくる。そしてそれだけが人間を汚すのである。

ヨハネ 2-13
その後、過越祭が近づき、イエスはエルサレムへ行き、神殿に入った。

14
神殿の前庭には、牛、牡牛、羊がいた。また鳩の入った籠があり、両替人たちが金を置いた机の後ろに座っていた。これらはすべて、神にささげるために必要だとされていた。人々は動物を殺し、それを神殿にささげていた。それがユダヤ人の祈りであり、正統派の律法教師たちはそう教えていた。

15
イエスは神殿に入り、鞭を編み、前庭からすべての家畜を追い出し、すべての鳩を自由にした。

16
そして金をすべてまき散らし、このようなものを神殿に持ち込んではならないと命じた。

17
イエスは言った。預言者イザヤはあなたたちにこう言った。神の家はエルサレムの神殿ではなく、神に生きる人々の全世界である。また預言者イザヤはこうも言った。ここが永遠なる方の家だと言う嘘つきたちを信じてはならない。それを信じてはならない。生き方を改めなさい。不正な裁きをしてはならない。異邦人、やもめ、みなしごを虐げてはならない。罪のない血を流してはならない。そして神の家に来て、これでもう安心だ、くだらないことをしてもよいなどと言ってはならない。私の家を強盗の巣にしてはならない。

18
するとユダヤ人たちは議論を始め、イエスに言った。あなたは、私たちの神への奉仕は正しくないと言う。それを何によって証明するのか。

19
イエスは彼らに向かって言った。この神殿を壊してみよ。私は三日で新しい生きた神殿を建てる。

20
ユダヤ人たちは言った。この神殿は建てるのに四十六年かかった。それなのに、あなたはすぐに新しい神殿を造るというのか。

マタイ 12-6
イエスは彼らに言った。私は神殿よりも重要なものについて語っている。

7
もしあなたたちが、預言者の言葉の意味を理解していたなら、そのようなことは言わなかっただろう。神である私は、あなたたちの供え物を喜ぶのではない。あなたたちが互いに愛し合うことを喜ぶ。生きた神殿とは、人々が互いに愛し合っているなら、その人間世界全体のことである。

ヨハネ 2-23
そのころエルサレムでは、多くの人々がイエスの語ることを信じた。

24
しかしイエス自身は、外面的なものを何も信じなかった。すべては人間の内にあると知っていたからである。

25
イエスには、人間について誰かが証言する必要はなかった。人間の内に霊があると知っていたからである。

ヨハネ 4-4
あるとき、イエスはサマリアを通っていた。

5
ヤコブが息子ヨセフに与えた土地の近くに、シカルというサマリアの町があった。イエスはそのそばを通った。

6
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れ、井戸のそばに腰を下ろした。

8
弟子たちはパンを買いに町へ行っていた。

7
すると、シカルから一人の女が水をくみに来た。イエスは彼女に、飲み水をくれるよう頼んだ。

9
女はイエスに言った。どうしてあなたは私に、飲み水をくれなどと頼むのですか。あなたたちユダヤ人は、私たちサマリア人とは交わらないではありませんか。

10
イエスは彼女に言った。もしあなたが私を知り、私が教えていることを知っていたなら、そのようなことは言わなかっただろう。あなたは私に飲み水を与え、私はあなたに命の水を与えただろう。

13
あなたの水を飲む者は、また渇く。

14
しかし私の水を飲む者は、永遠に満たされる。そして私の水は、その人を永遠の命へ導く。

19
女は、イエスが神的なことを語っていると気づき、言った。あなたは預言者で、私を教えようとしているのですね。

20
けれど、あなたがユダヤ人で、私がサマリア人であるなら、どうして私に神的なことを教えられるのですか。私たちの民はこの山で神を拝みます。あなたたちユダヤ人は、神の家はエルサレムにあると言います。あなたたちには一つの信仰があり、私たちには別の信仰があるのですから、あなたは私に神的なことを教えることはできません。

21
イエスは彼女に言った。女よ、私を信じなさい。もはや人々がこの山でもエルサレムでも神を拝まなくなる時が来ている。

22
なぜなら、人々が神に祈るとき、知らないものに祈っているからである。しかし父に祈るなら、その人は知らずにはいられない方に祈っているのである。

23
正しい礼拝者が、神を外から礼拝するのではなく、霊と行いによって父を礼拝する時が来ている。父が求めているのは、そのような礼拝者である。

24
神とは霊である。だから人は、霊と行いによって神を礼拝しなければならない。

25
女はイエスの言葉を理解できなかった。彼女は言った。神に油を注がれた者、つまりキリストと呼ばれる方が来ると聞いています。その方が来れば、すべてを明らかにしてくれるでしょう。

26
イエスは彼女に言った。それは私である。あなたと話しているこの私である。ほかの者を待ってはならない。

ヨハネ 3-22
その後、イエスはユダヤの地へ行き、弟子たちとそこに住み、教えていた。

23
そのころヨハネは、サリムの近くのアイノンで人々を教え、水に浸していた。

24
ヨハネはまだ牢に入れられていなかったからである。

25
ヨハネの弟子たちとイエスの弟子たちのあいだで、ヨハネの水による清めとイエスの教えのどちらが優れているかについて争いが起こった。

26
そこで弟子たちはヨハネのもとへ来て言った。あなたはここで水によって清めています。しかしイエスはただ教えているだけなのに、みなが彼のところへ行っています。あなたは彼についてどう言いますか。

27
ヨハネは言った。神が教えないかぎり、人間は自分からは何も教えることができない。

28
地上のことを語る者が語るのは、地上のことである。しかし神について語る者が語ることは、神からのものである。

32, 33, 34
人が語る言葉が神からのものか、そうでないかは、何によっても証明できない。神とは霊であり、測ることも証明することもできない。霊の言葉を理解する者は、自分が霊から出ていることを示すのである。

35
父は子を愛するがゆえに、すべてを子に渡した。

36
子を信じる者には命がある。子を信じない者には命がない。神とは、人間の内にある霊である。

ルカ 11-37
その後、ある正統派の人がイエスのもとに来て、食事に招いた。イエスはそこへ行き、食卓についた。

38
その正統派の人は、イエスが食事の前に身を洗わないのを見て驚いた。

39
イエスは彼に言った。あなたたち正統派の人々は、外側だけをすべて洗っている。しかしあなたたちの内側は清いのか。人々に親切にしなさい。そうすれば、すべては清くなる。

ルカ 7-37
イエスがその正統派の人の家にいたとき、町から一人の女が来た。彼女は信仰の外にいる女だった。彼女はイエスがその正統派の人の家にいると知り、香油の入った壺を持って入って来た。

38
そしてイエスの足もとにひざまずき、泣きながらその足を涙で濡らし、髪で拭き、壺の香油を塗った。

39
正統派の人はそれを見て、心の中で考えた。この人は確かに預言者だ。もし本当に預言者なら、自分の足を洗っている女がどんな女か、信仰のない女だとわかるはずだ。そして彼女が自分に触れることを許さないはずだ。

40
イエスは彼の心を見抜き、彼に向かって言った。私が何を考えているか、あなたに言おうか。言ってください、と家の主人は答えた。

41
そこでイエスは言った。二人の男が、ある主人に借金をしていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリであった。

42
ところが、二人とも返すものを持っていなかった。主人はその二人の借金をどちらも帳消しにした。では、どちらの者がその主人をより深く愛し、よりよく仕えると思うか。

43
その人は言った。より多く借りていた者でしょう。

44
イエスは女を指して言った。あなたとこの女の関係も同じである。あなたは自分を正しい信仰者だと思い、自分の負い目は小さいと考えている。この女は自分を信仰の外にいる者だと思い、自分の負い目は大きいと考えている。私はあなたの家に来たが、あなたは私の足を洗う水をくれなかった。この女は涙で私の足を洗い、髪で拭いた。

45
あなたは私に口づけしなかった。この女は私の足に口づけしている。

46
あなたは私の頭に塗る油をくれなかった。この女は高価な香油を私の足に塗っている。

47
自分を正しい信仰者だと思う者は、愛の行いをしない。自分を信仰の外にいる者だと思う者は、愛の行いをする。愛の行いによって、すべては赦される。

48
そしてイエスは女に言った。あなたのすべての罪は赦されている。さらにイエスは言った。すべては、人が自分を何者だと思っているかにかかっている。自分を善い者だと思う者は善くならない。自分を悪い者だと思う者は善いのである。

ルカ 18-10
さらにイエスは言った。あるとき二人の男が祈るために神殿へ来た。一人は正統派の人で、もう一人は徴税人であった。

11
正統派の人はこう祈った。主よ、私はほかの人々のような者ではないことを感謝します。私は貪欲な者でも、大食の者でも、欺く者でもなく、あそこにいる徴税人のようなろくでなしでもありません。

13
しかし徴税人は離れたところに立ち、天を見上げることもできず、ただ胸を打ちながら言った。主よ、この悪い私に目を向けてください。

14
よく聞きなさい。この徴税人のほうが、正統派の人よりも優れていた。なぜなら、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからである。

ルカ 5-33
その後、ヨハネの弟子たちがイエスのもとに来て言った。なぜ私たちと正統派の人々は多く断食するのに、あなたの弟子たちは断食しないのですか。正統派の律法では、神が断食を命じたことになっています。

34
イエスは彼らに言った。婚礼の席に花婿がいるあいだは、誰も悲しまない。

35
花婿がいなくなったときだけ、人は悲しむ。

36
命があるあいだ、人は悲しむべきではない。外面的な神礼拝は、愛の行いと両立しない。外面的な神礼拝についての古い教えは、隣人愛の行いについての私の教えと結びつけることはできない。私の教えを古い教えと結びつけようとするのは、新しい服から布切れを裂き取り、それを古い服に縫いつけるようなものである。新しい服は破れ、古い服も直らない。私からすべてを受け取るか、古いものをすべて受け取るか、どちらかでなければならない。私の教えを受け入れたなら、清め、断食、安息日といった古いものにしがみつくことはできない。

37
新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならない。同じように、ここでも古いままにしておくことはできない。


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父なる霊から、すべての人間の生命が生じた。御名が聖とされますように。

イエスの弟子たちは、イエスに尋ねた。あなたの言う神の国とは、どのようなものなのか。イエスは言った。私が説いている神の国は、ヨハネが説いたものと同じである。それは、どれほど低い身分の者であっても、すべての人が救われうる国である。

イエスは民衆に語った。ヨハネは最初に、神の国を民に説いた。しかもそれは、この世界のどこか外側にある国ではなく、人間の魂の中にある神の国であった。正統派を自任する者たちはヨハネの話を聞きに行ったが、何も理解しなかった。なぜなら彼らは、自分たちが外なる神について作り上げたものしか理解しないからである。彼らは自分たちの作り話を説き、誰も耳を貸さないことを不思議がっている。だがヨハネは、人間そのものの中にある神の国の真理を説いた。だから彼は、誰よりも大きなことをしたのである。

ヨハネによって、律法も預言者も、外面的な神への礼拝も、もはや不要になった。彼の教え以来、神の国は人間の魂の中にあることが明らかにされた。すべてのものの始まりも終わりも、人間の魂の中にある。人間は誰でも、肉の母の胎内で肉の父から生まれたことを知っている。それと同時に、自分の中に、肉から独立した、自由で理性的な霊があることも知っている。この霊は無限であり、無限なるものから来ている。それこそが万物の根源であり、私たちが神と呼ぶものである。私たちは、ただ自分の内側においてだけ、この霊を知る。この霊こそが私たちの生命の源である。だから人間は、何よりもこの霊を高く置き、この霊に従って生きなければならない。この霊を生命の土台にするとき、私たちは真の、無限の生命を受ける。

父なる霊は、この霊を人間の中へ送った。人間を欺くために送ったのではない。人間が自分の中に無限の生命を認めながら、それを失うために送ったのでもない。人間の中に無限の霊があるなら、それは人間がその霊の中で無限の生命を持つために与えられたのである。だから、自分の生命をこの霊の中に見いだす者は、永遠の生命を持つ。しかし、自分の生命をこの霊の中に見いださない者には、生命がない。人間は自分で選ぶことができる。生命か、死かを。

生命は霊の中にあり、死は肉の中にある。霊の生命は善であり、光である。肉の生命は悪であり、闇である。霊を信じるとは、善の業をなすことである。信じないとは、悪の業をなすことである。善は生命であり、悪は死である。

外にいる創造者としての神、すべての根源のさらに根源である神を、私たちは知ってはいない。私たちが神を思い描けるとすれば、それはこうである。神は人間の中に霊をまいた。今もまいている。種まく人が、土を選ばず、あらゆる場所に種をまくように。そして良い土地に落ちた種は育ち、悪い土地に落ちた種は滅びる。人間に生命を与えるのは霊だけである。しかし、その生命を保つか失うかは、人間自身にかかっている。

悪は霊のためにあるのではない。悪とは生命の見かけである。存在するのは、生きているものと、生きていないものだけである。これが人間世界全体についての考えである。しかし一人ひとりの人間には、魂の中に天の国があるという意識がある。人間は自分の望みによって、そこへ入ることも、入らないこともできる。そこへ入るには、霊の生命を信じなければならない。霊の生命を信じる者は、無限の生命を持つ。

マタイ11-2, 3
やがて、ヨハネの弟子たちがイエスのもとへ来て尋ねた。あなたは、ヨハネが語っていた方なのですか。あなたは神の国を建て、霊によって人々を新しくするのですか。

イエスは答えた。見なさい、聞きなさい。そしてヨハネに伝えなさい。神の国は来たのか、人々は霊によって新しくされているのかを。私がどのように神の国を説いているか、彼に伝えなさい。預言には、神の国が来るとき、すべての人が救われると書かれている。だから彼にこう伝えなさい。私の神の国とは、貧しい者が幸いとされる国である。そして、私を理解する者は誰でも救われるのだと。

ヨハネの弟子たちを帰したあと、イエスは民衆に向かって、ヨハネがどのような神の国を告げ知らせていたのかを語り始めた。あなたがたは、荒野で洗礼を受けるためにヨハネのもとへ行ったとき、何を見に行ったのか。正統派の律法学者たちも行った。しかし彼らは、ヨハネが何を告げているのか理解しなかった。そしてヨハネを無に等しい者と見なした。

この正統派の律法学者たちという一族は、自分たちで作り上げ、互いに聞かせ合い、自分たちで定めた律法だけを真理だと思っている。ヨハネが語ったこと、そして私が語っていることを、彼らは聞かず、理解しない。ヨハネについて彼らが理解したのは、ただ彼が荒野で断食していたということだけだった。そして彼らは、神が彼の中にいると言った。私について彼らが理解したのは、ただ私が断食せず、取税人や放蕩者たちと食べたり飲んだりしているということだけだった。そして彼らは、あれは彼らの仲間だと言った。

彼らは通りにいる子どものようなものだ。互いに騒ぎ立てながら、誰も自分たちに耳を貸さないことを不思議がっている。しかし、知恵はその働きによって明らかになる。あなたがたは、立派な衣をまとった人を見に行ったのか。そういう者なら宮殿にいる。では、あなたがたは荒野で何を見たのか。ヨハネを、ほかの預言者たちと同じような預言者だと思って行ったのか。そう思ってはならない。ヨハネはほかの預言者たちのような預言者ではない。彼はすべての預言者よりも大きい。預言者たちは、ありうることを語った。だがヨハネは、神の国が地上にあったこと、そして今も地上にあることを人々に告げたのである。

まことに言う。ヨハネより大きな人間は生まれたことがない。彼は地上に神の国を明らかにした。だから彼は誰よりも大きい。

ルカ16-16
律法と預言者は、ヨハネまで必要であった。しかしヨハネの時から、神の国は地上にあると告げ知らされている。そして、そこへ入ろうと努める者は、そこへ入る。

ルカ17-20
正統派の者たちがイエスのもとへ来て、神の国はどのように、いつ来るのかと尋ね始めた。イエスは答えた。私が説く神の国は、昔の預言者たちが説いたようなものではない。彼らは、神がさまざまな目に見えるしるしをともなって来ると語った。だが私は、目で見ることのできない神の国について語っている。

人々が、ここに来た、これから来る、ここにある、と言っても、信じてはならない。神の国は、特定の時や場所にあるものではない。それは稲妻のようなものだ。あちらにあり、こちらにあり、いたるところにある。そして時も場所も持たない。なぜなら、私が説く神の国は、あなたがたの内にあるからである。

ヨハネ3-1, 2
ヘブライ人の指導者の一人で、正統派に属するニコデモが、夜イエスのもとへ来て言った。あなたは、安息日を守れとは命じず、清めの儀式を守れとも命じず、犠牲をささげよとも、断食せよとも命じません。神殿をなくし、神は霊であると言い、神の国は私たちの内にあると言います。この神の国とは、いったいどのようなものなのですか。

イエスは答えた。理解しなさい。人間が天から生まれているなら、その人間の中には天に属するものがあるはずである。

ニコデモは理解できずに言った。人間は、父の肉から生まれて年を取ったあと、もう一度母の胎内に入って、新たに生まれることができるのでしょうか。

イエスは答えた。私が言っていることを理解しなさい。私は、人間は肉からだけでなく、霊からも生まれていると言っているのだ。すべての人間は肉と霊から生まれている。だからこそ、人間の中に天の国がありうる。肉から来るものは肉である。肉から霊は生まれない。ただ霊からのみ、霊はある。

霊とは、あなたの中で生きているもの、自由に、理性的に生きているものである。その始まりも終わりも、あなたは知らない。しかし、すべての人間がそれを自分の中に感じている。私たちは天から生まれていると言ったからといって、なぜそんなに驚くのか。

ニコデモは言った。それでも、それが本当にそうだとは確かではありません。

するとイエスは言った。あなたは教師でありながら、それを理解しないのか。理解しなさい。私は何か特別な知恵を説いているのではない。私たちがみな知っていることを明らかにし、私たちがみな見ていることを確かめているだけである。自分自身の中にあるものを信じないなら、天にあるものをどうして信じられるのか。

天に行った者は誰もいない。人間は地上にいるだけである。しかし人間は天から来た者であり、それ自身が天に属している。この人間の中にある天の子を高く掲げなければならない。すべての人がその子を信じ、滅びるのではなく、永遠の生命を持つためである。

神は人間を害するためではなく、救うために、自分と同じような子を人間に与えた。すべての人がその子を信じ、滅びるのではなく、無限の生命を持つために与えたのである。神はその子、すなわち人間世界の中の生命を、人間世界を滅ぼすために生んだのではない。その子である生命によって、人間世界が生きるようになるために生んだのである。

その子の中に生命を見いだす者は死なない。しかし、その子の中に生命を見いださない者は、生命そのものであるものに身を委ねないことによって、自分自身を滅ぼす。分離、すなわち死とは、生命がこの世に来たのに、人間が自ら生命を避けることである。光とは、人間の中にある生命である。その光は世に来た。しかし人間は、光よりも闇を選び、光のもとへ行かなかった。

悪をなす者は、自分の行いが見えるようになることを恐れて、光のもとへ行かない。そして自ら生命を失う。しかし真理のうちに生きる者は、自分の行いが見えるように光のもとへ行く。その者は生命を持ち、神と一つになる。

神の国は、あなたがたが考えているように、いつかどこかで、すべての人間に一斉にやって来るものではない。そうではなく、世界のあらゆる場所で、天に属する人の子に身を委ねる者が神の国の子となり、身を委ねない者は無に帰すのである。人間の中にある霊の父は、自分をその子と認める者にとってのみ父である。だから父にとって存在するのは、父が与えたものを自分の中に保っている者だけである。

マタイ13-3
イエスは、神の国とは何かを民衆に説明し始め、たとえによって語った。父なる霊は、主人が自分の畑に種をまくように、世界に認識の国をまく。主人は、どこに落ちるかを選ばず、畑全体に種をまく。ある種は道端に落ちる。すると鳥が飛んで来て、それをついばんでしまう。別の種は石地に落ちる。芽は出るが、根を張る場所がないために枯れてしまう。また別の種は苦よもぎの中に落ちる。苦よもぎが穀物をふさぎ、穂は出るが実が入らない。最後に、良い土地に落ちる種がある。それは育ち、失われた種を埋め合わせる。穂を出し、実を結び、ある穂は百倍、ある穂は六十倍、ある穂は三十倍の実をつける。

神もまた、人間の中に霊をまいた。ある人々の中ではそれは失われる。しかし別の人々の中では、百倍の実を結ぶ。そして、そのような人々が神の国を形づくる。

マルコ4-26
神の国は、あなたがたが考えるようなものではない。神が支配者として私たちの上に来る、というものではない。神はただ霊をまいたのである。神の国は、その霊を保つ者たちの中にある。

神は人間を操らない。主人が種を地に投げ、その後はそれを気にかけないように、神もそうする。種は自ら芽を出し、葉となり、茎となり、穂となり、また実を落とす。そして熟したとき、主人は鎌を入れて畑を刈らせる。同じように、神は自分の子、すなわち霊を世界に与えた。そして霊は世界の中で自ら育つ。霊の子らこそが、神の国を形づくるのである。

マタイ13-33
女が桶にパン種を入れ、粉と混ぜるようなものである。彼女はその後、いつまでもかき混ぜ続けるのではなく、それが自ら発酵し、ふくらむに任せる。

人間が生きているあいだ、神は人間の生命に介入しない。神は霊を世界に与えた。そして霊は、人間の中で自ら生きる。自分を霊の子と認める人間たちが、神の国を形づくる。霊にとって、死も悪も存在しない。死と悪は肉にとってあるのであって、霊にとってあるのではない。

マタイ13-24
神の国は次のようなものにたとえられる。ある主人が自分の畑に良い種をまいた。主人とは霊、父である。畑とは世界である。良い種とは神の国の子らである。主人が眠っているあいだに敵が来て、畑に毒麦をまいた。敵とは誘惑であり、毒麦とは誘惑の子らである。働き手たちが主人のもとへ来て言った。あなたは悪い種をまいたのですか。あなたの畑にはたくさん毒麦が生えています。私たちを行かせてください。抜き取ってまいります。

しかし主人は言った。その必要はない。毒麦を抜こうとすれば、小麦まで踏みつけてしまうだろう。収穫の時まで、どちらも一緒に育つままにしておきなさい。収穫の時が来たら、刈る者たちに命じて、毒麦を集めて焼かせ、小麦は倉に集めさせよう。

収穫とは、人間の生命の終わりである。刈る者たちとは、天の力である。彼らは毒麦を焼き、小麦を清めて集める。人生の終わりにも同じことが起こる。時に属する偽りはすべて無に帰し、霊の中にある本当の生命だけが残る。霊である父にとって、悪は存在しない。霊は自分に必要なものを保つ。しかし、霊に属さないものは、霊にとって存在しない。

神の国は網のようなものである。網を海に引き入れると、あらゆる魚が捕まる。しかし網を引き上げると、値打ちのないものは選り分けられ、海に投げ戻される。時の終わりにも同じことが起こる。善いものは天の力が選び取り、悪いものは捨てられる。

マタイ13-10
イエスが話を終えると、弟子たちは尋ね始めた。これらのたとえは、どのように理解すればよいのですか。

イエスは言った。これらのたとえは二通りに理解される。私がこれらのたとえを語るのは、あなたがた弟子のように、神の国がどこにあるかを理解する者がいるからである。その者たちは、神の国が一人ひとりの人間の内側にあること、そしてそこへどのように入るかを理解する。しかし、ほかの者たちは理解しない。彼らは見ていても見えず、聞いていても理解しない。心が硬くなっているからである。だから私は、このたとえを二通りに語る。彼らには、神について、そして神にとっての国について語る。それなら彼らにも理解できる。だがあなたがたには、あなたがたにとっての神の国、すなわち常にあなたがたの内にあるものについて語る。

だからあなたがたは、種まきのたとえを正しく見て、正しく理解している。あなたがたにとって、このたとえの意味はこうである。神の国の意味を理解しても、それを心に受け入れない者がいる。すると悪が来て、まかれたものを奪う。これが道端に落ちた種である。

石地にまかれた種とは、その意味をすぐに喜んで受け入れる者である。しかしその人の中には根がない。ただしばらく受け入れるだけであり、神の国の意味のために苦しみや迫害を受けると、すぐに離れてしまう。

苦よもぎの中にまかれた種とは、神の国の意味を理解した者である。しかし世の思い煩いと富への欲が、その人の中で意味をふさぎ、実を結ばせない。

良い土地に落ちた種とは、神の国の意味を理解し、それを心に受け入れた者である。その者は実を結ぶ。ある者は百倍、ある者は六十倍、ある者は三十倍の実を結ぶ。

だから、保つ者には多くが与えられる。しかし保たない者からは、最後に残ったものまで取り去られる。

ルカ8-18
だから、あなたがたは、このたとえをどう理解するかに気をつけなさい。それを、欺き、不義、思い煩いに従うためではなく、実を結ぶために理解しなさい。三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶために。

マタイ13-31
天の国は、魂の中で無に等しいものから育つ。しかし、それはすべてを与える。それはからし種のようなものである。からし種は種の中で最も小さい。しかし成長すると、どの木よりも大きくなり、空の鳥がその上に巣を作る。


https://note.com/eitangono_akuma/n/n71f04bcc211e


https://dl.ndl.go.jp/pid/12214890/1/39


神の国

だから、父の御心とは、すべての人に生命と救いを与えることである。
御国が来ますように。

人々が真の救いを知らないことを、イエスは深く憐れみ、彼らに教えた。イエスは言った。財産を持たず、名誉も求めず、そのことで思い煩わない者は幸いである。反対に、富と名誉を求める者は不幸である。物乞いや地に押しつぶされた者たちは、父の御心のうちにいるからである。富める者や大いなる者たちは、この一時的な生の中で、人からの称賛だけを追い求めている。

父の御心を果たすためには、低く見られ、軽んじられることを恐れてはならない。むしろ、真の救いがどこにあるのかを人々に示せることを喜ばなければならない。

すべての人に生命と救いを与える父の御心を果たすためには、五つの戒めを守らなければならない。

第一の戒め。だれにも害を加えてはならない。また、だれの中にも悪を起こさせないように行動しなければならない。悪は悪を生むからである。

第二の戒め。女と戯れてはならない。また、一度結びついた妻を捨ててはならない。女を捨てたり替えたりすることが、あらゆる不貞を世に生み出すからである。

第三の戒め。何ものにも誓ってはならない。人は何も約束しきることができない。人はまったく父の力のもとにあり、誓いは悪しきことのために求められるものだからである。

https://dl.ndl.go.jp/pid/12214890/1/42

第四の戒め。悪に抵抗してはならない。不正を受け、さらに人が求める以上のことをせよ。裁いてはならず、また裁かせてもならない。人は自分自身が過ちに満ちており、他人を教えることなどできないからである。復讐を教えることは、ただ復讐の仕方を教えるだけである。

第五の戒め。同胞と異国人とのあいだに区別を設けてはならない。すべての人は、ひとりの父の子だからである。

人は、この五つの戒めを守らなければならない。それは人々から称賛を得るためではなく、自分自身のため、自分の幸いのためである。だから、祈りも断食も必要ではない。

https://dl.ndl.go.jp/pid/12214890/1/43

祈りは必要ない。父は、人に何が必要であるかをすべて知っているからである。人は父に何かを願うのではなく、ただ自分が父の御心のうちにあるよう努めればよい。父の御心とは、どの人に対しても恨みを抱かないことである。

断食も必要ない。人々が断食するのは、ただ他人から褒められるためだからである。しかし、人からの称賛は避けなければならない。肉のことに心を奪われているなら、天の国を思うことはできない。食べ物や衣服を心配しなくても、人は生きていける。生命を与えるのは父である。人が心を砕くべきなのは、ただ、今この時に自分が父の御心のうちにあるかどうかである。父は、子どもたちに必要なものを与えてくださる。人が願ってよいのは、ただ父が与えてくださる霊の力だけである。

この五つの戒めは、天の国へ入る道を示している。この狭い道だけが、永遠の生命へ通じている。羊の皮をかぶった狼である偽教師たちは、いつも人々をこの道から引き離そうとする。だから、彼らに用心しなければならない。

偽教師は、彼らが善の名によって悪を教えることで見分けられる。暴力や処刑を教える者は、偽教師である。彼らが何を教えているかによって、彼らを見分けることができる。父の御心を果たす者とは、神の名を呼ぶ者ではない。善のわざを行う者である。

したがって、この五つの戒めを守る者は、だれにも奪われることのない、揺るがぬ確かな生命を持つ。しかし、それを守らない者は、揺るがぬ生命を持たない。むしろ、すぐに奪われ、何も残らないような生命を持つだけである。

イエスの教えは、すべての人を自由な者として認めたため、民全体を驚かせ、心を動かした。

イエスの教えは、イザヤの預言の成就であった。すなわち、神に選ばれた者が人々に光をもたらし、悪に打ち勝ち、正義を新たにする。ただし、それは暴力によってではなく、柔和、謙遜、善意によってである。

マタイ9-35, 36
イエスは町々や村々を巡り、父の御心を果たすことにこそ幸いがあると、すべての人に教えた。人々は真の生命が何であるかを知らず、その無知のために滅びかけ、なぜ苦しんでいるのかもわからないまま苦しんでいた。羊飼いのいない、捨てられた羊のようであった。イエスはその姿を見て、深く憐れんだ。

マタイ5-1, 2
あるとき、イエスの教えを聞こうとして、大勢の民が集まった。イエスは山に登り、腰を下ろした。弟子たちは彼を取り囲んだ。そしてイエスは、父の御心がどこにあるのかを、民に教え始めた。

ルカ6-21-26
幸いなのは、物乞いであり、宿る家のない者たちである。彼らは父の御心のうちにいるからである。たとえ飢えていても、彼らは満たされる。たとえ悲しみ、泣いていても、彼らは慰められる。人々が彼らを軽んじ、遠ざけ、至るところで迫害するときも、彼らはそれを喜んでよい。神の人々は、いつの時代にもそのように迫害されてきたからである。そして彼らは、天の報いを受ける。

しかし、富める者たちは不幸である。彼らは欲しいものをすでにすべて受け取っており、これ以上何も受け取ることがないからである。今、満ち足りている者は、やがて飢える。今、喜んでいる者は、やがて悲しむ。すべての人が彼らを褒めたたえるなら、彼らは不幸である。すべての人が褒めたたえるのは、ただ欺く者たちだけだからである。

物乞いは幸いである。しかし、それは外見だけが物乞いである場合ではない。霊においても物乞いである場合にだけ、幸いなのである。塩が、外見だけ塩に似ているから良いのではなく、それ自体が塩気を持っているから良いのと同じである。

マタイ5-13-20
あなたがた、物乞いであり宿る家のない者たちは、世界の教師である。真の幸福とは、宿る家のない物乞いであることにあると知っているなら、あなたがたは幸いである。しかし、外見だけの物乞いであるなら、塩気を失った塩のように、何の役にも立たない。

あなたがたは世の光である。だから、自分の光を隠してはならない。人々にそれを示しなさい。灯した明かりを長椅子の下に置く者はいない。部屋にいるすべての人を照らすために、机の上に置くのである。同じように、あなたがたも自分の光を隠してはならない。あなたがたが真理を知っていることを、人々があなたがたのわざを通して見ることができるようにしなさい。そして人々があなたがたの善いわざを見て、天の父を敬うようにしなさい。

わたしがあなたがたを律法から解放するために来たと思ってはならない。わたしが教えるのは、律法からの解放ではない。永遠の律法を成就することである。天の下に人間がいるかぎり、永遠の律法もまた存在する。律法がなくなるのは、人々が自分自身から、あらゆることにおいて永遠の律法に従って行動するようになったときだけである。

もしだれかが、この短い戒めのひとつからでも自分を解き放ち、また他の人にもそこから解放されてよいと教えるなら、その人は天の国で最も小さい者となる。しかし、それを守り、また他の人にも教える者は、天の国で大いなる者となる。

だから、あなたがたの正しさが、正統を名乗る律法学者たちの正しさを超えないなら、あなたがたは決して天の国に入ることはない。

ここに、その戒めがある。

第一の戒め

昔の律法には、殺すな、と言われている。人を殺した者は裁かれなければならない、と。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、すでに裁きに値する。兄弟に罵りの言葉を投げる者は、さらに重い罪を負う。

だから、あなたが神に祈ろうとするなら、まず、自分に対して何か思うところのある人がいないかを思い出しなさい。たったひとりでも、自分はあなたに侮辱されたと思っている人がいるなら、祈りをやめ、まずその兄弟と和解しに行きなさい。その後で、はじめて祈りなさい。知っておきなさい。神が求めているのは、供え物でも祈りでもない。あなたがたのあいだの平和、一致、愛である。そして、愛のうちにない相手がひとりでもいるなら、あなたがたは祈ることも、神を思うこともできない。

すなわち、第一の戒めとはこうである。怒るな。罵るな。自分が侮辱されたと思ったときは、仲直りし、あなたがたのあいだに侮辱された者がひとりもいないようにせよ。

第二の戒め

昔の律法には、姦淫するな、と言われている。また、妻を去らせようとするなら離縁状を与えよ、と言われている。しかし、わたしはあなたがたに言う。女の魅力を見て欲情するなら、その時点ですでに姦淫している。あらゆる不貞は魂を殺す。だから、肉の欲に身を任せるよりも、自分の生命を滅ぼさないために、その欲を断つほうがよい。

マタイ19-9
あなたが妻を去らせるなら、あなたはその妻をも不貞へ追いやることになる。また、彼女と結びつく者をも不貞へ導くことになる。しかも、あなた自身がすでに不貞の者である。

だから、第二の戒めとはこうである。女への欲情をよいものだと思ってはならない。女たちに目を向けるな。すでに結びついた妻と共に生き、彼女を捨ててはならない。

第三の戒め

マタイ5-33-37
昔の律法には、あなたの神である主の名をみだりに口にしてはならない、嘘のために神を呼び出してはならない、あなたの神の名にかけて誓ってはならない、と言われている。わたしにかけて偽りを誓い、あなたがたの神を汚してはならない。しかし、わたしはあなたがたに言う。あらゆる誓いは神を汚すことである。だから、そもそも誓ってはならない。

人は何も誓うことができない。人は完全に父の力のもとにあるからである。白髪一本を黒くすることさえできない者が、どうして、これこれのことを必ず行うと前もって誓い、それを神にかけて誓うことができるのか。

どの誓いも神を冒涜する。なぜなら、人が誓いを守らなければならなくなったとき、その誓いが神の御心に反しているなら、人は神の御心に反して行動すると約束したことになるからである。だから、あらゆる誓いは悪である。

何かを問われたら、然りなら然り、否なら否とだけ言いなさい。それ以上に付け加えられるものはすべて悪である。したがって、第三の戒めとはこうである。何についても、だれにも誓ってはならない。然りなら然り、否なら否とだけ言いなさい。そして、あらゆる誓いは悪であると知りなさい。

第四の戒め

マタイ5-38-41
昔の律法には、命には命、目には目、歯には歯、手には手、牛には牛、しもべにはしもべ、と言われている。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪を悪で打ち返してはならない。裁きによって、牛には牛、しもべにはしもべ、命には命を要求してはならない。むしろ、そもそも悪に抵抗してはならない。

だれかが裁きによってあなたの牛を取ろうとするなら、もう一頭も与えなさい。あなたの上着を無理に取ろうとする者には、下着も与えなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、もう片方の頬も向けなさい。ひとつの仕事を終えるよう強いられたなら、ふたつ終えなさい。

ルカ6-30
だれかがあなたの財産を取っていくなら、それを与えなさい。だれかがあなたに金を返さないなら、取り返そうとしてはならない。

ルカ6-37
裁くな。裁かせるな。罰するな。そうすれば、あなたがたも裁かれず、罰せられない。すべての人を許しなさい。そうすれば、あなたがたも許される。あなたがたが人を裁くなら、人もまたあなたがたを裁くからである。

マタイ7-1, 3
あなたがたには裁くことなどできない。すべての人は盲目であり、正義を見ていないからである。ゆがんだ目で、どうして兄弟の目の中の塵を見分けることができるのか。まず、自分の目を清めなければならない。だが、いったい誰の目が清いというのか。

ルカ6-39, 40
盲人が盲人を導くことができるだろうか。二人とも穴に落ちるだけである。同じように、裁き、罰する者たちは、盲人が盲人を導くようなものである。

人を裁き、罰して、暴力、傷、切断、死へと導く者たちは、人々を教えようとしている。しかし、その教えから何が生まれるというのか。弟子は師に似るだけである。師がすることを、弟子もする。つまり、暴力をふるい、人を殺すのである。

マタイ7-6
裁判所に正義を見出そうとしてはならない。人間の裁判官に正義への愛をゆだねることは、豚の前に真珠を投げるのと同じである。豚はそれを踏みにじり、あなたがたを引き裂く。

だから、第四の戒めとはこうである。どれほど不正を受けても、悪に抵抗してはならない。裁くな。裁かせるな。訴えるな。罰するな。

第五の戒め


マタイ5-43, 44
昔の律法には、あなたの民の人々には善を行い、異国人には害を加えよ、と言われている。しかし、わたしはあなたがたに言う。同じ国の人々だけを愛してはならない。異なる民の人々も愛しなさい。異国人があなたがたを憎み、襲い、不正を加えてくるとしても、彼らを祝福し、彼らに善を行いなさい。

ルカ6-32, 33
あなたがたが同じ国の人々にだけ善を行うなら、あなたがたは皆と同じことをしているだけである。だれでも自分の同胞には善くする。そして、それが戦争へとつながる。あなたがたは、すべての民に対して同じでありなさい。そうすれば、あなたがたは神の子となる。すべての人は神の子である。だから、すべての人はあなたがたの兄弟である。

だから、第五の戒めとはこうである。異国の民に対しても、自分の民に対するのと同じように振る舞いなさい。彼らがあなたがたを攻撃しても、あなたがたは彼らと争ってはならない。すべての人の父にとって、民族の違いも、国の違いもない。すべての人は兄弟であり、ひとりの父の子である。民や国によって人を区別してはならない。

要するに、こうである。一、怒るな。すべての人と平和でありなさい。二、放縦な欲にふけるな。三、何についても誓うな。四、悪に抵抗するな。裁くな。裁かせるな。五、民族で区別するな。異国人を自分の身内のように愛しなさい。

マタイ7-12
このすべての戒めは、ひとつにまとめればこうである。人からしてもらいたいと思うことを、あなたがたも人にしなさい。

マタイ6-1-8
この戒めを、人から称賛されるために守ってはならない。人々のために行うなら、あなたがたは人々から報いを受けるだけである。しかし、人々のためにではなく行うなら、天の父から報いを受ける。

だから、人に善を行うときは、偽善者のように人の前でそれを見せびらかしてはならない。偽善者たちは、人々が彼らを褒めるように、人に善を行う。そして彼らは、自分たちの望みどおり、人々から報いを受ける。しかし、あなたが人に善を行うときは、だれにも見せてはならない。左の手が、右の手のしていることを知らないほどにしなさい。そうすれば、父はそれを見て、あなたに必要なものを与えてくださる。

あなたが祈ろうとするときも、偽善者たちのように祈ってはならない。偽善者たちは、教会で、人々の目につくところで祈ることを好む。彼らは人々のためにそうし、自分たちの望みどおり、人々から報いを受ける。しかし、あなたが祈ろうとするなら、だれにも見られない場所へ行き、あなたの父に祈りなさい。あなたの父は、あなたの魂のうちにあるものを見て、あなたが霊において望むものを与えてくださる。

祈るときには、異教徒のように口先だけで長々と唱えてはならない。あなたの父は、あなたが口を開く前から、あなたに何が必要かを知っておられる。

マタイ6-9
ただ、このように祈りなさい。わたしたちの父よ。天のように、始まりも終わりもない方よ。ただあなたの本質だけが聖とされますように。ただあなたの支配だけがありますように。あなたの御心が、始まりも終わりもなく、地の上で果たされますように。今この時に、生命の糧をわたしに与えてください。わたしが兄弟たちのすべての過ちを解き、消し去るように、わたしの以前の過ちを解き、赦してください。わたしが誘惑に陥らず、悪から救われますように。支配も力も裁きも、あなたのものだからです。

マルコ11-25, 26
祈るときには、あなたに負い目を持つ者がいないようにしなさい。もしあなたが人々の不正を赦さないなら、父もまた、あなたがたの不正を赦さない。

マタイ6-16-18
断食するとき、すなわち苦しみに耐えるとき、それを人々に見せびらかしてはならない。偽善者たちは、人々が自分たちを見て褒めるように、それを人前に示す。そして彼らは、自分たちの望みどおり報いを受ける。しかし、あなたはそうしてはならない。苦しみに耐えるときは、明るい顔でいなさい。人々に見られないためである。父はそれを見て、あなたに必要なものを与えてくださる。

マタイ6-19-23
地上に蓄えを積んではならない。地上では虫がそれを食い、錆がそれを腐らせ、盗人がそれを盗む。むしろ、天の富を自分のために蓄えなさい。天の富は、虫も食わず、錆も腐らせず、盗人も盗むことがない。あなたの富のあるところに、あなたの心もある。

肉体の光は目であり、魂の光は心である。あなたの目が暗ければ、あなたの体全体も暗くなる。あなたの心の光が暗ければ、あなたの魂全体も暗くなる。

マタイ6-24-34
人は二人の主人に同時に仕えることはできない。一方を満足させれば、もう一方を損なうことになる。神と肉とに同時に仕えることはできない。人は、一時的な生に仕えるか、神に仕えるかのどちらかである。

だから、何を食べ、何を飲み、何を着るかを心配してはならない。生命は食べ物や衣服よりも大きい。神があなたがたに生命を与えてくださったからである。神の被造物である鳥を見なさい。鳥は種をまかず、刈り入れず、蓄えもしない。それでも神は鳥を養っておられる。人間は神の前で、鳥より劣るものではない。神が人間に生命を与えたのなら、神は人間を養うことも知っておられる。

あなたがた自身も知っているように、人は自分のために何もできない。どれほど苦しんでも、自分の生命を一時間でも長くすることはできない。衣服のことで何を思い悩むのか。野の花は働かず、紡ぎもしない。しかし、ソロモンでさえ、その栄華のすべてにおいて、この花のひとつほどにも装ってはいなかった。

今日生え、明日には刈られる草でさえ、神がこのように装ってくださるなら、あなたがたを装ってくださらないはずがあるだろうか。だから、思い悩み、自分を苦しめてはならない。何を食べるのか、何を着るのかと語ってはならない。すべての人がそれを必要としていることを、神は知っておられる。

だから、先のことを心配してはならない。今この日を生きなさい。あなたがたが父の御心のうちにあることを心がけなさい。ただ本当に大切なものを求めなさい。そうすれば、その他のものは自然に与えられる。あなたがたは、ただ父の御心のうちにあるよう努めなさい。

ルカ11-9
求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。叩きなさい。そうすれば開かれる。

マタイ7-9-11
子に、パンの代わりに石を与え、魚の代わりに蛇を与える父がいるだろうか。あなたがたのような悪い人間でさえ、自分の子どもに必要なものを与えることを知っている。まして、あなたがたが天の父に願うなら、父は、あなたがたに本当に必要なものを与えてくださらないはずがあるだろうか。求めなさい。天の父は、求める者に霊の生命を与えてくださる。

マタイ7-13, 14
生命へ至る道は狭い。だから、狭い道から入りなさい。生命への入口はひとつだけである。それは狭く、細い。その周りには広々とした野が広がっているが、それは滅びへ通じている。狭い道だけが生命へ通じており、それを見いだす者は少ない。

ルカ12-32
しかし、恐れてはならない。小さな群れよ。父は、あなたがたに御国を定めてくださった。

マタイ7-15-17
ただ、偽預言者と偽教師に用心しなさい。彼らは羊の皮をまとってあなたがたのもとへ来るが、その内側は貪欲な狼である。彼らを見分けるには、彼らから何が生まれるかを見ればよい。いばらから葡萄は採れず、ポプラから林檎は採れない。よい木はよい実を実らせ、悪い木は悪い実を実らせる。だから、彼らの教えの実によって彼らを見分けなさい。

ルカ6-45
善い人は、自分の善い心からすべての善を取り出す。悪い人は、自分の心からすべての悪を取り出す。口は、心にあふれていることを語るからである。

だから、教師たちがあなたがたのもとへ来て、あなたがた自身にとって悪となることを人々に行えと教え、暴力、処刑、戦争を教えるなら、その者たちは偽教師であると知りなさい。

マタイ7-21-27
天の国に入るのは、主よ、主よ、と言う者ではない。天の父の御心を果たす者である。

彼らは言うだろう。主よ、主よ、わたしたちはあなたの教えに従って教え、あなたの教えに従って悪を追い払いました、と。しかし、わたしは彼らを否認し、彼らにこう言う。いや、わたしはあなたがたを一度も認めたことがなく、今も認めていない。わたしから去れ、悪を行う者たちよ。

だから、わたしのこれらの戒めを聞く者、すなわち、怒らず、放縦な欲に生きず、誓わず、悪に抵抗せず、自分の民と異国の民とを区別しないようにという戒めを聞き、それを果たす者は、理性ある人が石の上に家を建てるのに似ている。その家は、どの嵐にも耐える。しかし、わたしのこれらの戒めを聞きながら、それを果たさない者は、愚かな人が砂の上に家を建てるのに似ている。嵐が来れば、すぐにその家は崩れ、すべては瓦礫となる。

ルカ4-32
民全体は、イエスの教えに驚いた。イエスの教えが、正統を名乗る律法学者たちの教えとはまったく違っていたからである。正統を名乗る律法学者たちは、人が従わなければならない律法を教えた。しかし、イエスは、すべての人が自由であると教えた。

マタイ4-14, 16
そして、イエス・キリストにおいて、イザヤの預言が成就した。暗闇と死の闇の中に生きていた人々が、生命の光を見ること。その真理の光をもたらす者が、人々に対して暴力も害も加えず、柔和で謙遜であること。

マタイ12-19-21
その人は争わず、叫ばず、声高に自分の声を聞かせることもない。折れかけた藁を最後まで折らず、小さな灯を吹き消すこともない。そして、人々のすべての希望は、その教えにある。


https://dl.ndl.go.jp/pid/12214890/1/45


https://dl.ndl.go.jp/pid/12214890/1/106

https://www.amazon.co.jp/%E8%A6%81%E7%B4%84%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8-%E9%9B%86%E6%88%90-%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A4-ebook/dp/B0GLV3TCWJ/


 第九時に、イエスは苦しみ果てて、大声で叫んだ。「エリ、エリ、ラマ、サバハ。」これは、わが神、わが神、何のために私をお見捨てになったのか、という意味である。  民衆はこれを聞いて、話し合い、笑い始めた。「預言者エリヤを呼んでいるぞ。エリヤがどうやって来るか見てやろう。」  その後、イエスは、飲みたい、と言った。ある人が海綿を取り、そこにあった桶の酢に浸し、葦につけてイエスに差し出した。  イエスは海綿を吸い、大声で言った。「終わった! 父よ、あなたの手に私の霊を委ねます。」そして頭を垂れ、息を引き取った。


トルストイ『要約福音書』あらすじと感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは

トルストイ『要約福音書』あらすじと感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは

トルストイ『要約福音書』概要と感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは

今回ご紹介するのは1880年にトルストイによって書かれた『要約福音書』です。私が読んだのは河出書房新社より発行された中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(上)』1979年第3刷版の『要約福音書』です。

早速この本について見ていきましょう。

ひと口にいえばこれは有名な四福音書の書き直しである。しかしこれが、トルストイのような人間によって書き直されたという事実は、われわれにとってまことに大きな幸福であったといえる。

思うに、この人ほど、身をもって聖書―キリストの教えを理解した人は少ないに違いない。周知のとおりキリストの教えを伝える四福音書は、それぞれ伝者の名を冠して、ヨハネ伝、マルコ伝、マタイ伝、ルカ伝と呼ばれている。これと同じ意味で、本書は、これを「トルストイ伝福音書」と呼んでしかるべき改作であるが、しかもこれは決して単なる整理、書き直しではない。トルストイの心身をくぐって出て来た実感の集積であって、ちょっと誰にでも書けるといったものではないのである。

いうまでもなくトルストイは、高く深い近代的教養を身につけた合理主義者であり、しぜん本書には、キリストの言説と伝えられるものであっても、近代人にとって不合理と認められ、抵抗を感じさせるような奇蹟や神秘の部分は除去されて、私たちの頭にもすなおに入り易く整理されている。この点で、四福音書中もっともすぐれたものと言えるのである。
※一部改行しました

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(下)』1874年初版P458-459normal

この作品は聖書に書かれているイエスの生涯をトルストイ流に再構成したものになります。

この作品の特徴は何と言っても「キリストの言説と伝えられるものであっても、近代人にとって不合理と認められ、抵抗を感じさせるような奇蹟や神秘の部分は除去されて」いる点にあります。

この作品ではイエスが病人を治したり、水の上に浮かんだり、死者を蘇らせたりというエピソードがカットされています。キリスト教にとって最も重要な教義のひとつである「イエスの復活」ですらカットする徹底ぶりです。

トルストイ自身この作品の冒頭で次のように述べています。

この要約では、左の詩句は省略した―すなわち、洗礼者ヨハネの受胎と出生、彼の禁獄と死、キリストの出生、その系図、母を伴ってのエジプト脱出、カナと力ぺルナウムにおけるキリストの奇蹟、悪魔の放逐、海上の歩行、無花果樹の乾燥、病人の治癒、死者のよみがえり、キリスト自身の復所、およびキリストの生活において成就された予言の指示などである。

これらの詩句を、この要約書で省略したのは、これらのものが毫も教訓をふくむことなく、キリストの説教以前、その時代およびそれ以後に生じた事件を記述するにとどまって、叙述を煩雑ならしめるにすぎないものであるからである。これらの詩句は、よしどのように解釈せられようとも、その教義の反対にも、その真実性の証明にもなりはしない。その教義の反対にも、その真実性の証明にもなりはしない。キリストの神性を信じないものにたいしてそれを証明するだけのことである。奇蹟に関する物語の不確実性を理解する人にとっては、そればかりでなく、彼の教義によってキリストの神性に疑念をいだく人にとっては、これらの詩句は、その不要性によりて自然に消滅してしまうからである。

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(上)』1879年第3刷版P254normal

イエスによる奇跡は「信じないものを信じさせるためのものに過ぎない」とトルストイはばっさりと切り捨てます。

そしてさらにこう続けます。

読者は、われらの先入見となっている、四福音書は一言一句の末に至るまで神聖な書物であるとすることの誤りであることを忘れないようにしなければならない。

読者はまた、キリストは、プラトンのごとく、フィーロンのごとく、マーカス・アウレリアスのごとく、みずから書物を書いたことは一度もなく、またソクラテスのごとく、自分の教えを教育あり文字ある人々に伝えたことすらなくて、無学文盲の群集に語ったものにすぎないこと、および、彼の死後久しくして初めて人々が彼について聞いたことを書きつけはじめたにすぎないことを、記憶しなければならぬ。(中略)

読者は、これらのことをすべてよく記憶して、福音書が現在理解されているような、まさしく聖霊からわれらに送られたものであるというような常套的見解に、惑わされないようにしなければならぬ。

また読者は、福音書から不要な部分をとりすて、各章句を比較対照してその意義を開明することは、けっして非難さるべきことでないばかりでなく、むしろそれをしないで、一字一句の末を神聖視するの不合理であることを、記憶しなければならぬ。

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(上)』1879年第3刷版P254normal

これもかなり大胆な見解です。

「聖書は神の言葉ではなく、後世の人間が書いたものに過ぎない。だからそれを無謬の神聖なものとして崇拝するのは合理的ではない」とトルストイは断言するのです。

ですが、こうした「聖書の合理的な解釈」というのは実はトルストイ以前にも存在していました。

その最も有名なものがドイツの思想家ダーフィト・シュトラウスによって1835年に発表された『イエスの生涯』になります。

この本はあのマルクス、エンゲルスに巨大な影響を与えた本としても知られています。

シュトラウスの『イエスの生涯』も奇跡を排した「イエス伝」になっていて、合理的な解釈によって「人間イエス」を描こうという試みでした。

そしてもう一つ有名な「イエス伝」として知られているのがフランスの思想家エルネスト・ルナンの『イエス伝』です。

こちらも奇跡を排した人間イエスの伝記となっていて、死後の復活なども一切書かれません。

ルナンの『イエス伝』もヨーロッパ中で広く読まれ、トルストイだけでなく、ドストエフスキーもこの本について言及しています。

というわけで、合理的なイエス解釈というのはトルストイ以前にも存在し、無神論的な人々にとってはすでによく知られていた考え方でした。

しかし、トルストイにとっての「福音書」というのは無神論者の述べるような「単なる歴史的書物」ということではありませんでした。

なお、別の方面から予が予の要約福音書の読者にたいして記憶してもらいたいと思うのは、もし予が福音書を目して、生霊から与えられた神聖な書物と考えないとすれば、なおさらそれを宗教文学の歴史的記念物とは考えない、ということである。

予は、福音書にたいする神学的ならびに歴史的見解を、理解する。けれども予は、別の立場からそれを見ているので、予が読者に希うところは、予の解説の読過にさいして、予のとらない教会的見解や、または、近来教養ある人々のあいだに常套的となっている、福音書にたいする歴史的見解に惑わされないように、ということである。

予はキリスト教にたいしては、それを特殊な神の啓示としてでもなければ、歴史的現象としてでもなく、―一個人生に意義を与える教義として、見ているのである。(中略)

もともと予は、人生問題にたいする解答を求めたのであって、神学上の問題や、歴史上の問題の解答を求めたのではなかったので、予にとっての主要な問題は、イエス・キリストが神であるかないか、聖霊は誰から生じたかなどということにあるのではなく、同時にまた、いつなんぴとの手によってどんな福音書が書かれたとか、どんな譬喩はキリストの言ったものだとか、そんなことはありえないとかいうようなことを知ることも、同様重要でもなければ、必要でもないのである。

予にとって重要なのは、千八百年間人類を照らし、過去において予を照らし、現在また照らしつつある、この光そのものである。

しかし、この光の根源を何と名づくべきか、その要素が何であるか、またなんぴとの手で点火されているものであるか、―こういうことは、予にとってどうでもよろしいことなのである。
※一部改行しました

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(上)』1879年第3刷版P255-257normal

「予はキリスト教にたいしては、それを特殊な神の啓示としてでもなければ、歴史的現象としてでもなく、―一個人生に意義を与える教義として、見ているのである。」

これがこの作品を貫く最も重要なポイントです。

トルストイの信仰は「神の奇跡にひれ伏すのではなく、人間の合理的な理性によって把握され、それによりひとりひとりがいかに生きるか」という点にその眼目があります。

トルストイはショーペンハウアーを学んだ流れからブッダ、老子なども読み込んでいました。

全知全能、無謬の創造主による奇跡をベースにした宗教ではなく、「人生をいかに生きるか」ということを重んじる東洋的な思想の影響をトルストイは強く受けています。

この記事では長くなってしまうのでお話しできませんが、トルストイの『要約福音書』を読んでいると明らかに東洋的な思想の影響が感じられます。

これは僧侶である私としても非常に興味深いものがありました。

そしてこの『要約福音書』を読んで感じたのは、逆説的にはなりますが「聖書そのものの面白さ」です。

トルストイの『要約福音書』では奇跡や劇的な物語は語られません。ただひたすら人間イエスの行動が淡々と語られ、「何が善で何が悪であり、これこれをして生きるべし」というものが並んでいきます。

正直、これは読んでいて厳しいものがありました。

それに対して従来の福音書で説かれる物語はやはりドラマチックで面白く、とても親しみが湧いてくるというのが私の感想です。(聖書に「面白い」という言葉を使うのが適切かは難しいところですが)

もしキリスト教の歴史上、従来の福音書ではなくてトルストイの『要約福音書』がその根本聖典であったとしたら、キリスト教はここまで広がっていなかったのではないかと私は思います。

やはり物語の力はすさまじいものがあります。物語だからこそ人々の心を動かした。そして奇跡の物語もやはり布教には大きな意味を持っていたということ。そのような物語があったからこそ人々は感動し、キリスト教を信じるようになったのではないでしょうか。

そしてこれと同時に感じたことがあります。

それは「トルストイを尊敬し、トルストイ主義を奉じる人にとってはこの作品はこの上ない教義になるであろう」ということでした。

トルストイの教えは世界中に大きな影響を与え、彼のもとには多くの「トルストイ主義者」が生まれていました。

そうした人々にとっては「何が善で何が悪か。何をなすべきなのか」ということがびっしり並べられたこの書はまさに福音であったろうということを想像してしまいました。

ゼロから新たな宗教として布教する際には、こうした作品はなかなか人に受け入れてもらうことは難しいでしょう。先に述べたように、もしキリスト教の根本聖典が『要約福音書』だったらキリスト教は広まらなかったろうということと同じです。物語的でないと多くの人には理解されず、人びとの宗教感情を動かすことも難しいのです。

ですが、すでにトルストイ主義というグループができていて、トルストイを尊敬している人からすれば、そのようなわかりやすい物語や奇跡はもはや必要ないのです。トルストイ自身も先に見た引用の中で奇跡物語は「キリストの神性を信じないものにたいしてそれを証明するだけのことである」と述べています。

奇跡物語は不信仰者を信仰に導くために必要なものであって、それはいかに生きるべきかの問題には関係ないとトルストイは断言します。

逆に言えば、すでに信仰しているならば奇跡も何もいらず、「何が善で何が悪か、何をなすべきか」さえはっきりさせ、それを実行するのみでいいのです。その手引きとして『要約福音書』はこの上ないものなのではないだろうか。私はそう感じたのでありました。

そしてこの作品を読み終わった後に巻末の解説を読んでみると、やはり次のように書かれていたのです。

いうまでもなくトルストイは、高く深い近代的教養を身につけた合理主義者であり、しぜん本書には、キリストの言説と伝えられるものであっても、近代人にとって不合理と認められ、抵抗を感じさせるような奇蹟や神秘の部分は除去されて、私たちの頭にもすなおに入り易く整理されている。この点で、四福音書中もっともすぐれたものと言えるのである。

つまり、その整理の標準がトルストイの良識にあるという点で群をぬいており、私が今、年七十にして再読三読、『要約福音書』が容易ならざる大文字であることを身にしみて感じとったといっても誇張でないだけの内容を持っている。ともあれ私は、『懺悔』『わが信仰』等、この時期の数ある宗教的述作との関連については、他の項のほうで語られるであろうからふれないが、本書が『懺悔』『人生論』の二名著とともに、トルストイの全思想、全宗教のエッセンスともいうべきトリオであることを、強調したいのである。

今日ふつうに行なわれている聖書―福音書は、キリスト教徒以外の者にはすこしく縁の遠い感があり、気易く読みかかれないうらみがある。それからみると、トルストイのこれは、いわゆる宗教をはなれ、教義を別にして、人生の教科書として、キリスト者なら何人にも、実に親しみ易い長所を持っている。

しかもここでは、その一節一節が、心がこもる以上に、まぎれもない実感をもって書かれているのである。キリストの教えにこそ真理があるとするトルストイのゆるぎない確信が、厳として文字の底に流れているのである。

すばらしい一編のドラマであるキリストの生涯が彷彿として描き出されているのである。キリストという一個の人間の考え方生き方が、単純直截にはっきりと語られているのである。その信念の深さ、大きさ、神を霊と見、愛と観じて、人間のよって生きるべきみちを、力強く指し示しているのである。(中略)

私はくり返していう。『要約福音書』は伝者トルストイの生涯に裏づけされて、千釣の重みをました万人必読の書であると。もちろん『要約福音書』は本巻所載の諸編との関連において読まれることが望ましいが、上述の意味から言って、単独に読まれることも、もとより結構なのである。
※一部改行しました

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(下)』1874年初版P458-459normal

私はこの解説を書いた中村白葉氏がトルストイ主義者であるかはわかりません。ですが、氏がトルストイを深く敬愛されていることが上の言葉からも伝わってきます。

そして上の文を読んで頂いて皆さんもお気づきかと思いますが、「従来の聖書は読みずらく、一般の人には縁遠いものとなっているが、トルストイの福音書は実に親しみやすい」と述べられています。

これぞまさしく、トルストイ主義を奉じる方からすればこの『要約福音書』がいかに重要な教義であるかを示しているのではないかと私は感じました。

私は正直、トルストイが苦手です。

これはよく語られる「トルストイか、ドストエフスキーか」という問題に直結しています。

これら両者の思想、理想は対極にあり、交わりようがありません。

トルストイ主義を奉ずることのできない私にとって、『要約福音書』が親しみやすい書物とはなかなか思えないのにはこうした背景もあります。

「トルストイか、ドストエフスキーか」という問題については後にじっくり当ブログでも考えていきたいと思いますのでこの記事ではこれ以上はお話ししませんが、『要約福音書』はトルストイの思想、理想を考える上であまりに重大な作品であることは疑いようがありません。

ドストエフスキーとトルストイを比較する上でもこの作品を読めたことは非常に大きな経験となりました。

以上、「トルストイ『要約福音書』概要と感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは」でした。

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トルストイ全集〈14〉宗教論 (1973年)

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トルストイ『人はなんで生きるか』あらすじと感想~素朴な人間愛が込められたトルストイ民話の代表作

今回ご紹介するのは1881年にトルストイによって書かれた『人はなんで生きるか』です。私が読んだのは岩波書店版、中村白葉訳の『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇』です。

早速この作品について見ていきましょう。

トルストイはこの作に、一八八一年の一月から着手して、その脱稿に、幾多の中断を伴ってではあるが、ほとんど一年を費やしている。

これは、民話中では一番長いものの一つであり、また力作ではあるけれども、それにしろ、六、七十枚の短編にこんなに長い時日を費やしたことは、もともとトルストイは推敲に推敲をかさねる人であったとはいえ、この種の作品の第一作であるこの一編に、どれほど緊張した努力を傾注したかが推測されて、奥床しい。この作の制作にあたってトルストイが、例の「民衆自身の言葉で、民衆自身の表現で、単純に、簡素に、わかり易く」をモットーに努力したことは明らかで、あたかもそれを証明するかのように、この作の原稿として今日なお三十三とおりの草稿が保存されていることが伝えられている。

岩波書店、トルストイ、中村白葉訳『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四編』P182-183normal

この作品は1870年代末より宗教的転機を迎えたトルストイが満を持して発表した民話作品になります。

トルストイがどのような宗教的転機を迎えたかについては当ブログでも「トルストイ『懺悔』あらすじと感想~トルストイがなぜ教会を批判し、独自の信仰を持つようになったのかを知るのに必読の書」「トルストイ『教義神学の批判』概要と感想~ロシア正教の教義を徹底的に批判したトルストイ」「トルストイ『要約福音書』概要と感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは」の記事で紹介してきました。

この作品にはトルストイ流のキリスト教のエッセンスが込められています。

では、この作品のあらすじを見ていきましょう。

これは古くからある民衆的な天使伝説をもとにしたもので、内容はすべて超自然的な話だと言ってよい。

若い死の天使が人間を憐れんで神の命令に背き、魂を抜きとるのをやめたため、罰を受けて地上に落とされる。靴屋のセミョーンがこの天使をただの浮浪者だと思って、家に連れ帰り靴屋の手伝いをさせる。ミハイルという名のその男、実は天使は経験もないのに、靴作りに異常な才能を発揮し、セミョーンの商売は大繁盛する。ミハイルは長靴を注文に来た地主の背後に同僚の死の天使を見て、長靴の代わリに死んだ人に履かせる突っ掛け靴のようの履物をあらかじめ作っておく。すると、地主はその日に死んでしまうなど、次々に不思議なことをやってのける。そして、ついに神の赦しが与えられ、天使(ミカエル)はロケットが発射されるように、屋根を突き破って一瞬のうちに天に戻っていく。

これは狭い日常性や自然科学的事実を超えて、感情と、夢と、無限の想像力とともに生きている人々の心を知り、それに応えようとした人の作品である。トルストイのロシア正教批判は自然科学、実証主義、唯物論、合理主義の立場からなされたものではなく、信仰の根源と本質を問うものであり、理性にも感情にも背反しない真の信仰を求めるものだったのである。

第三文明社、藤沼貴『トルストイ』P413normal

この物語では、心優しきセミョーンがとても冷えた日に礼拝堂の傍で寒さに震える青年を助け、家に連れ帰るところから始まります。

セミョーンは元々、貧しいながらも冬に備えて外套を新調するためになけなしのお金を携えて村にやって来たのでありました。

そこで目にしたのが礼拝堂の傍で寒いのに服も着ないで身動きもせず座っている若い男だったのです。

セミョーンは追いはぎにあったのだろうかといぶかり、気味が悪くなったので最初はその男のそばを通り過ぎます。ですが、心優しきセミョーンは心に良心のうずきを感じ始めます。

「おまえはいったいどうしたというのだ、セミョーン?」と彼は自分に言うのだった。「ひとが災難にあって死にかけているのに、おまえはこわがって、見て見ぬふりをしようとしている。それともおまえは、それほどたいした金持ちにでもなったというのか?持ってるものをとられるのがそんなにこわいのか?おい、セミョーン、よくねえだぞ!」

セミョーンは踵をかえして、その男のほうへ戻って行った。

岩波書店、トルストイ、中村白葉訳『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四編』P11normal

このエピソードで見事だなと思うのは、トルストイがセミョーンに若い男の前を素通りさせた点です。最初から男を助けるようではリアルさを失ってしまいます。

自分の保身のために疑い、不安を覚えてしまうのは当然のことです。ですがそこから少し通り過ぎた後に「本当にこれでよかったのか?」と良心のうずきを感じる。これも誰しもが感じたことがある感覚なのではないでしょうか。

こうした誰の心の内にもある感覚を呼び起こすことこそ、トルストイが願っていたことなのかもしれません。

トルストイはこの作品で「人はなんで生きるか」を探究していきます。

そしてその大きな柱となるのが「愛」です。

この作品は民話を題材にしていることもあり、非常に素朴です。ですがこれがとにかく味わい深い!

上の本紹介でも出てきましたが、この作品は「民衆自身の言葉で、民衆自身の表現で、単純に、簡素に、わかり易くをモットーに努力した」というトルストイの渾身の一作です。まさにその通りの作品となっています。

そして文庫本で50ページほどのコンパクトな作品ですので肩肘張らずに手に取ることができます。

トルストイというと難解で長大なイメージがありますが、この作品は決してそんなことはありません。

読むと温かな気持ちになれます。ぜひおすすめしたい作品です。

以上、「トルストイ『人はなんで生きるか』あらすじと感想~素朴な人間愛が込められたトルストイ民話の代表作」でした。

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