参考文献)
大北和美 2006「西州津遺跡・東州津遺跡一般国道32号井川IC関連改良工事に伴う埋蔵文化財発送
調査報告書』徳島県埋蔵文化財センター調査報告書 第67集 財団法人徳島県埋蔵文化財センター
佐原真編 1983「弥生土器!』ニューサイエンス社
近藤 2002『矢野遺跡(1) 一般国道192号徳島南環状道路改薬に伴う埋蔵文化財発掘調査」徳島県埋蔵文化財センター調査報告第 33集 財団法人徳島県埋蔵文化財センター
菅原康夫 1987『黒谷川郡頭遺跡II 昭和60年度発掘訓査概報』徳島県教育委員会
菅原康夫・瀬山雄一2000「阿波地域」「弥生土器の様式と編年四国編」木耳社
菅原康夫 2002「弥生時代」「論集 徳島の考古学」徳島考古学論集刊行会
見落とされた土器編年——阿波と畿内の併行関係(小型丸底鉢の変化)
キーワード:邪馬台国 どこ/邪馬台国 阿波説/邪馬台国 四国説/纒向遺跡 謎/卑弥呼 祭祀/卑弥呼 墓/小型丸底鉢/東阿波型土器/萩原墳墓群/東瀬戸内 弥生時代
はじめに——畿内編年だけが編年ではない
弥生終末から古墳時代初頭にかけての土器編年は、現在も研究者の間で議論が続く難問である。
この時期の基準として広く使われているのが、畿内の資料を中心に構築された編年体系だ。庄内式・布留式という名称はその代表であり、全国の遺跡報告書でこれらの用語が基準として用いられている。
しかし見落とされていることがある。
畿内編年と独立して、阿波(徳島県)にも精緻な編年体系が存在する。
菅原康夫(1987・2000・2002)が吉野川下流域の一次資料に基づいて構築した黒谷川式編年がそれだ。そしてこの編年は、畿内編年と対応関係をもちながら、畿内研究ではほとんど参照されてこなかった。
本稿の目的は一点だ。
菅原編年という対抗軸が存在することを、畿内編年との対比において示す。
第1節 菅原編年とは何か
菅原康夫は徳島県教育委員会の考古学者として、吉野川下流域の遺跡調査に長年携わった。その成果として構築されたのが黒谷川式編年である。
黒谷川式編年の特徴は三点ある。
第一に、一次資料に基づいている。
黒谷川郡頭遺跡をはじめとする吉野川下流域の遺跡から出土した土器を、層位的証拠を踏まえて分類・編年したものであり、形態比較だけに依存していない。
第二に、畿内編年との対応関係を明示している。
菅原は畿内編年(庄内式・布留式)との並行関係を論文中で具体的に示しており、両者を接続するための基盤を自ら整備している。
第三に、東阿波型土器という独自の概念を設定している。
吉野川下流域で発達した特有の土器群を「東阿波型土器」と定義し、その搬出先・搬出量・時期を一次資料に基づいて実証している。
第2節 二つの編年を重ねる
菅原編年と畿内編年の対応関係は、東州津遺跡(2011)報告書所収の第4表「阿波東部と西部の土器編年案」に明示されている。
より正確には、近藤執筆部分に収録された第4表に、近藤編年2002と菅原編年2000との対比が示されている。庄内式併行期を弥生終末期とする(菅原)か、古墳時代とする(近藤)か議論がある。
萩原2号墓報告書2010(菅原康夫)によると、
萩原2号墓供献土器:Ⅵー1(庄内0)
萩原1号墓供献土器:Ⅵー2(庄内1)
菅原はさらに次のように記している。
「次の段階は黒谷川Ⅳ式の段階であり、布留0〜1式と接点をもつ。壺・甕ともに球形化が進み、丸底となる。」
黒谷Ⅳ=布留0という対応は、菅原自身の記述と一致している。
ちなみに最近の上牧遺跡報告書2022に記載された編年では、
上記編年を総合した、およその併行関係表
第3節 小型丸底鉢をめぐる定説と一次資料の矛盾
定説の構造
小型丸底鉢は現在の考古学において、きわめて重要な位置を占める器種だ。
定説はこうだ。
小型丸底鉢は布留式の典型例であり、大和(纒向)を発祥とする全国統一祭祀の象徴である。
寺沢薫の初期ヤマト政権論と結びついたこの理解では、纒向において成立した小型丸底鉢が、初期ヤマト政権の政治的統合とともに全国へ普及したとされる。西村2008もこう記している。
「小型丸底土器は庄内式期の段階では大きな動きをみせないが、布留式期に至って飛躍的な展開を遂げる。」
つまり畿内編年の論理はこうなる。
菅原編年が示す一次資料
しかし菅原康夫「阿波弥生時代終末期社会の特質」(1992年)は、この定説に対して一次資料から問い返す。
「大阪湾岸周辺では摂津・河内・紀伊・大和に向けて拡散する東阿波型土器群は主として甕・壺B・小型丸底鉢・細頸壺を搬出」
阿波から畿内への搬出器種に小型丸底鉢が含まれることを、菅原は一次資料に基づいて明示した。そして論文の表1では、この搬出が対応する遺跡として河内の美園DSK306・小阪合遺跡、大和の纒向遺跡が明示されている。
菅原編年上では、この搬出は**黒谷Ⅲ段階(庄内2〜3)**に位置する。この対応は東州津遺跡報告書(2011)第4表において、近藤編年2002と菅原編年2000の対比として明示されており、萩原2号墓供献土器がⅥ-1(庄内0)、萩原1号墓供献土器がⅥ-2(庄内1)に位置づけられることとも整合する。
補論:「搬出」と「先行・起源」の論理的区別
ここで一点、論理的な留保を明示しておく必要がある。
菅原1992が示すのは「阿波産土器が畿内へ搬出された」という事実であり、これは直ちに「阿波が小型丸底鉢の起源地である」ことを意味しない。搬出の事実からは、次の二つの解釈がともに成立しうる。
A)阿波で先に成立した器形が畿内へ伝播した
B)畿内と阿波で並行的に発達しつつある器形が双方向に流通した
ホケノ山報告書2008はAの蓋然性を「高い」と評価しており、本稿もその判断を根拠のひとつとしている。ただし本稿の主たる主張は「起源の確定」ではなく、「菅原編年を参照すれば定説が答えられていない問いに応答できる可能性がある」という問題提起である。
矛盾の所在
二つの記述を並べると、矛盾が浮かび上がる。
畿内編年では布留式期に「成立・飛躍的に展開」するとされる器種が、菅原編年ではそれに先行する庄内式期にすでに阿波から畿内へ搬出されていた。
滝山1985の問題提起
さらに遡ると、滝山雄一(1985)「樋口遺跡出土の土器」がある。滝山は次のように記した。
きっかけは大量に布留式土器・小型丸底鉢が出土した「大和発志院遺跡」報告書だった。
「全国的斉一性の象徴とされる小型丸底土器の成立に東四国地方がかかわった事実は、きわめて重大である。畿内勢力が何故地方祭祀を吸収し、また全国に流布したのか、今後の課題は大きい。」
この記述は二点で重要だ。
この記述は二点で重要だ。
ひとつは、体部扁平の小型丸底鉢が庄内式期と並行する段階またはそれ以前に東四国で成立した可能性を示したこと。もうひとつは、出土した小型丸底鉢の内面に朱が付着していたという事実——祭祀具としての性格が阿波においてすでに備わっていた直接的な証拠だ。
さらに滝山は、寺沢薫「纒向遺跡と初期ヤマト政権」(1984年)を参照した上でこの問いを立てている。定説の文脈を知った上で、それに疑問を呈したのである。
定説では「大和が地方の祭祀を吸収して全国に普及させた」とされる。しかし滝山が示した朱付着という証拠は、祭祀様式が阿波において先行していた可能性を示す。
「大和発祥・全国普及」という定説は、阿波の一次資料と向き合うとき、再検討を迫られる。
ホケノ山報告書2008による予察の追認
この滝山の予察は、後の一次資料調査によって補強されている。
橿原考古学研究所『ホケノ山古墳の研究』(2008年、p.251〜252)は、矢野遺跡などの調査資料を踏まえてこう記している。
「かつて滝山雄一は形態が類似することをもって、阿波地域の小形丸底鉢が近畿地方のそれに先行するのではないかと予察的に述べたが、近年の矢野遺跡などの調査資料からはその蓋然性は高い」
同報告書はさらに、小形丸底土器の成立について「吉備からは『技術』を、阿波からは『形』を……東部瀬戸内の複数地域からいくつかの要素を吸収する形で、近畿地方において成立した可能性を考えてよいのではないか」(p.252)と論じている。
注意すべきは、この記述の出所だ。橿原考古学研究所は纒向研究の中心機関であり、邪馬台国畿内説を積極的に支持する立場にある。その機関が公式報告書において阿波先行の蓋然性を認めたという事実は、傍流からの異論ではなく、定説の内側からの自己修正として受け取るべきものだ。
ただし同報告書は技術的連続性については留保を付している。「阿波地域におけるそれは必ずしも横方向のヘラ磨きが施される訳ではなく、技術的には近畿地方の小形丸底壺土器に直結するものではない」(p.252)。「形の先行」と「技術的直結」は区別して理解する必要がある。
しかし、胎土分析によっても決着はつかないかもしれない——阿波産と纒向産の砂礫組成に重なりがあり、現状の分析手法では判別が困難な可能性があるためだ(詳細は別稿参照)
脚台付小型丸底鉢——萩原1号墳からの出土確認
滝山は注20において、小型丸底鉢の系譜的前身にあたる器形についてこう記している。
「小形丸底鉢の成立には、岡山県黒宮大塚等で出土している台付壺形土器の動向に注目したい。徳島県内では徳島市矢野遺跡(1984年8月、徳島市教育委員会が発掘)、鳴門市萩原1号墳(菅原康夫編『萩原墳墓群』徳島県教育委員会 1983年)より出土している。」
菅原康夫(1983)の報告によれば、萩原1号墳から出土した脚台付小型丸底鉢(台付壺形土器)には算盤玉形体部と球胴形体部をもつ二種があり、鮎喰川流域産と讃岐産の両方が確認されている。
ここから確認できる事実は二点だ。
ひとつは、小型丸底鉢の系譜的前身が阿波の墳墓から出土しているという事実。もうひとつは、阿波産と讃岐産が同一墳墓に共存しているという事実——両地域の密接な関係を示す資料として注目される。
滝山はこの器形を、小型丸底鉢成立の先行段階として位置づけた。朱付着(祭祀具)という性格と、その前身器形の萩原1号墳出土という事実を合わせると、小型丸底鉢をめぐる祭祀の文脈が阿波において早期から形成されていた可能性が示唆される。
第4節 畿内側が認めた空白
西村2008の「移植元不明」
定説を支える畿内編年の側でも、重要な空白が認められている。
西村歩(2008)は庄内形甕についてこう書いている(p.15)。
「このような底部の形状は、弥生形甕の特徴である突出した平底からの型式変遷を追跡することができない。したがってその出現経緯は内面ケズリ等の技法と共に、新たな器形概念が中河内地域に移植されたことを窺わせる。」
そして論文のまとめ(p.35)でこう続く。
「庄内形甕の形質は畿内に存在しなかったもので、その出現経緯と存在意義についてはまだ明快な解答が得られていない。」
庄内形甕は外部から「移植」された。しかし移植元は特定できていない。
この論文の参考文献リストには39点の文献が列挙されている。菅原康夫(1992)は存在しない。滝山雄一(1985)も存在しない。四国・阿波に関する文献は1点もない。
なお、西村2008が「移植元不明」と述べているのは庄内形甕についてであり、本稿が主題とする小型丸底鉢とは別器種である。両者を直接接続するには別途の論証が必要であるが、「庄内形甕の移植元が不明である」という空白と、「東阿波型土器の甕が内面ヘラケズリという庄内形甕と共通する技術的特徴をもつ」(菅原2000、p.27)という事実は、阿波を移植元の候補として検討する理由を与える。
米田2008・松宮2008の証言
同シンポジウムの米田敏幸(p.64)も別の論考でこう記している。
「畿内独自に庄内甕を生み出したものではないことだけは事実であろう。」
さらに、纒向遺跡の調査に関わる桜井市教育委員会の松宮昌樹は、纒向出土の庄内河内型甕を論じた論文の末尾にこう記した。
「讃岐や阿波などこれまで比較的少ない割合であった地域の土器が増加するに従い、大和との中間に位置する河内の重要性がより増してくる事は必至である。(中略)同様の現象が河内を介して各地域と大和に繋がっていく可能性も今後考えられる。」
「今後考えられる」。
2008年時点において阿波・讃岐と纒向の関係がまだ検討されていなかったことを、纒向調査の当事者自身が認めた言葉だ。菅原が1992年に実証し、滝山が1985年に問いを立ててから、それぞれ16年・23年が経過していた。
おわりに——菅原編年を参照することが必要な理由
定説はこう言う。小型丸底鉢は布留式の典型例であり、大和(纒向)発祥の全国統一祭祀の象徴である、と。
しかし菅原編年の一次資料はこう示す。布留式に先行する庄内式期(黒谷Ⅲ)に、阿波からすでに小型丸底鉢が畿内へ搬出されていた、と。この事実が何を意味するか——起源の先行なのか、並行的交流なのか——は、現時点では確定できない。しかしその問いを立てるために、菅原編年を参照することは不可欠である。
そして畿内考古学者自身がこう認める。
庄内形甕は「移植」されたが移植元は不明(西村2008)
畿内独自の起源ではない(米田2008)
阿波・讃岐との関係は「今後考えられる」(松宮2008)
これらはすべて畿内考古学者自身の言葉だ。
菅原編年は、定説の「外側」にある傍流ではない。定説が答えられていない問いに、一次資料に基づいて答える可能性をもつ編年体系だ。
「在地産」という判定は、分析の終点ではなく、分析の出発点であるべきだ。
確実な事実・有力な解釈・推測・不明
引用・参照文献
他記事と同様に、この記事もYoichi氏の発信・問題提起を受けて調べたことを整理しました。
滝山雄一「樋口遺跡出土の土器」『徳島考古』第2号、徳島考古学研究グループ、1985年
橿原考古学研究所『ホケノ山古墳の研究』橿原考古学研究所研究成果第10冊、2008年
菅原康夫「阿波弥生時代終末期社会の特質」同志社大学考古学シリーズV、1992年
菅原康夫「弥生土器の様式と編年 四国編」梅木謙一編『弥生土器の様式と編年 四国編』 木耳社、2000年(本稿ではp.27・p.125を参照)
森岡秀人・西村歩「古式土師器と古墳の出現をめぐる諸問題——最新年代学を基礎として——」『古式土師器の年代学』財団法人大阪府文化財センター、2006年
西村歩「中河内地域の古式土師器編年と諸問題」ふたかみ邪馬台国シンポジウム8資料集、香芝市教育委員会・香芝市二上山博物館、2008年
米田敏幸「3世紀における河内平野の動向」ふたかみ邪馬台国シンポジウム8資料集、香芝市教育委員会・香芝市二上山博物館、2008年
松宮昌樹「纒向遺跡出土の河内の土器」ふたかみ邪馬台国シンポジウム8資料集、香芝市教育委員会・香芝市二上山博物館、2008年
東州津遺跡報告書(第4表「阿波東部と西部の土器編年案」所収)、2011年
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