2026年5月3日日曜日

トルストイ『要約福音書』あらすじと感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは

トルストイ『要約福音書』あらすじと感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは
トルストイ全集14 宗教論(下)
https://shakuryukou.com/2022/07/11/dostoyevsky822/

トルストイ『要約福音書』あらすじと感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは

トルストイ『要約福音書』概要と感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは

今回ご紹介するのは1880年にトルストイによって書かれた『要約福音書』です。私が読んだのは河出書房新社より発行された中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(上)』1979年第3刷版の『要約福音書』です。

早速この本について見ていきましょう。

ひと口にいえばこれは有名な四福音書の書き直しである。しかしこれが、トルストイのような人間によって書き直されたという事実は、われわれにとってまことに大きな幸福であったといえる。

思うに、この人ほど、身をもって聖書―キリストの教えを理解した人は少ないに違いない。周知のとおりキリストの教えを伝える四福音書は、それぞれ伝者の名を冠して、ヨハネ伝、マルコ伝、マタイ伝、ルカ伝と呼ばれている。これと同じ意味で、本書は、これを「トルストイ伝福音書」と呼んでしかるべき改作であるが、しかもこれは決して単なる整理、書き直しではない。トルストイの心身をくぐって出て来た実感の集積であって、ちょっと誰にでも書けるといったものではないのである。

いうまでもなくトルストイは、高く深い近代的教養を身につけた合理主義者であり、しぜん本書には、キリストの言説と伝えられるものであっても、近代人にとって不合理と認められ、抵抗を感じさせるような奇蹟や神秘の部分は除去されて、私たちの頭にもすなおに入り易く整理されている。この点で、四福音書中もっともすぐれたものと言えるのである。
※一部改行しました

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(下)』1874年初版P458-459normal

この作品は聖書に書かれているイエスの生涯をトルストイ流に再構成したものになります。

この作品の特徴は何と言っても「キリストの言説と伝えられるものであっても、近代人にとって不合理と認められ、抵抗を感じさせるような奇蹟や神秘の部分は除去されて」いる点にあります。

この作品ではイエスが病人を治したり、水の上に浮かんだり、死者を蘇らせたりというエピソードがカットされています。キリスト教にとって最も重要な教義のひとつである「イエスの復活」ですらカットする徹底ぶりです。

トルストイ自身この作品の冒頭で次のように述べています。

この要約では、左の詩句は省略した―すなわち、洗礼者ヨハネの受胎と出生、彼の禁獄と死、キリストの出生、その系図、母を伴ってのエジプト脱出、カナと力ぺルナウムにおけるキリストの奇蹟、悪魔の放逐、海上の歩行、無花果樹の乾燥、病人の治癒、死者のよみがえり、キリスト自身の復所、およびキリストの生活において成就された予言の指示などである。

これらの詩句を、この要約書で省略したのは、これらのものが毫も教訓をふくむことなく、キリストの説教以前、その時代およびそれ以後に生じた事件を記述するにとどまって、叙述を煩雑ならしめるにすぎないものであるからである。これらの詩句は、よしどのように解釈せられようとも、その教義の反対にも、その真実性の証明にもなりはしない。その教義の反対にも、その真実性の証明にもなりはしない。キリストの神性を信じないものにたいしてそれを証明するだけのことである。奇蹟に関する物語の不確実性を理解する人にとっては、そればかりでなく、彼の教義によってキリストの神性に疑念をいだく人にとっては、これらの詩句は、その不要性によりて自然に消滅してしまうからである。

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(上)』1879年第3刷版P254normal

イエスによる奇跡は「信じないものを信じさせるためのものに過ぎない」とトルストイはばっさりと切り捨てます。

そしてさらにこう続けます。

読者は、われらの先入見となっている、四福音書は一言一句の末に至るまで神聖な書物であるとすることの誤りであることを忘れないようにしなければならない。

読者はまた、キリストは、プラトンのごとく、フィーロンのごとく、マーカス・アウレリアスのごとく、みずから書物を書いたことは一度もなく、またソクラテスのごとく、自分の教えを教育あり文字ある人々に伝えたことすらなくて、無学文盲の群集に語ったものにすぎないこと、および、彼の死後久しくして初めて人々が彼について聞いたことを書きつけはじめたにすぎないことを、記憶しなければならぬ。(中略)

読者は、これらのことをすべてよく記憶して、福音書が現在理解されているような、まさしく聖霊からわれらに送られたものであるというような常套的見解に、惑わされないようにしなければならぬ。

また読者は、福音書から不要な部分をとりすて、各章句を比較対照してその意義を開明することは、けっして非難さるべきことでないばかりでなく、むしろそれをしないで、一字一句の末を神聖視するの不合理であることを、記憶しなければならぬ。

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(上)』1879年第3刷版P254normal

これもかなり大胆な見解です。

「聖書は神の言葉ではなく、後世の人間が書いたものに過ぎない。だからそれを無謬の神聖なものとして崇拝するのは合理的ではない」とトルストイは断言するのです。

ですが、こうした「聖書の合理的な解釈」というのは実はトルストイ以前にも存在していました。

その最も有名なものがドイツの思想家ダーフィト・シュトラウスによって1835年に発表された『イエスの生涯』になります。

この本はあのマルクス、エンゲルスに巨大な影響を与えた本としても知られています。

シュトラウスの『イエスの生涯』も奇跡を排した「イエス伝」になっていて、合理的な解釈によって「人間イエス」を描こうという試みでした。

そしてもう一つ有名な「イエス伝」として知られているのがフランスの思想家エルネスト・ルナンの『イエス伝』です。

こちらも奇跡を排した人間イエスの伝記となっていて、死後の復活なども一切書かれません。

ルナンの『イエス伝』もヨーロッパ中で広く読まれ、トルストイだけでなく、ドストエフスキーもこの本について言及しています。

というわけで、合理的なイエス解釈というのはトルストイ以前にも存在し、無神論的な人々にとってはすでによく知られていた考え方でした。

しかし、トルストイにとっての「福音書」というのは無神論者の述べるような「単なる歴史的書物」ということではありませんでした。

なお、別の方面から予が予の要約福音書の読者にたいして記憶してもらいたいと思うのは、もし予が福音書を目して、生霊から与えられた神聖な書物と考えないとすれば、なおさらそれを宗教文学の歴史的記念物とは考えない、ということである。

予は、福音書にたいする神学的ならびに歴史的見解を、理解する。けれども予は、別の立場からそれを見ているので、予が読者に希うところは、予の解説の読過にさいして、予のとらない教会的見解や、または、近来教養ある人々のあいだに常套的となっている、福音書にたいする歴史的見解に惑わされないように、ということである。

予はキリスト教にたいしては、それを特殊な神の啓示としてでもなければ、歴史的現象としてでもなく、―一個人生に意義を与える教義として、見ているのである。(中略)

もともと予は、人生問題にたいする解答を求めたのであって、神学上の問題や、歴史上の問題の解答を求めたのではなかったので、予にとっての主要な問題は、イエス・キリストが神であるかないか、聖霊は誰から生じたかなどということにあるのではなく、同時にまた、いつなんぴとの手によってどんな福音書が書かれたとか、どんな譬喩はキリストの言ったものだとか、そんなことはありえないとかいうようなことを知ることも、同様重要でもなければ、必要でもないのである。

予にとって重要なのは、千八百年間人類を照らし、過去において予を照らし、現在また照らしつつある、この光そのものである。

しかし、この光の根源を何と名づくべきか、その要素が何であるか、またなんぴとの手で点火されているものであるか、―こういうことは、予にとってどうでもよろしいことなのである。
※一部改行しました

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(上)』1879年第3刷版P255-257normal

「予はキリスト教にたいしては、それを特殊な神の啓示としてでもなければ、歴史的現象としてでもなく、―一個人生に意義を与える教義として、見ているのである。」

これがこの作品を貫く最も重要なポイントです。

トルストイの信仰は「神の奇跡にひれ伏すのではなく、人間の合理的な理性によって把握され、それによりひとりひとりがいかに生きるか」という点にその眼目があります。

トルストイはショーペンハウアーを学んだ流れからブッダ、老子なども読み込んでいました。

全知全能、無謬の創造主による奇跡をベースにした宗教ではなく、「人生をいかに生きるか」ということを重んじる東洋的な思想の影響をトルストイは強く受けています。

この記事では長くなってしまうのでお話しできませんが、トルストイの『要約福音書』を読んでいると明らかに東洋的な思想の影響が感じられます。

これは僧侶である私としても非常に興味深いものがありました。

そしてこの『要約福音書』を読んで感じたのは、逆説的にはなりますが「聖書そのものの面白さ」です。

トルストイの『要約福音書』では奇跡や劇的な物語は語られません。ただひたすら人間イエスの行動が淡々と語られ、「何が善で何が悪であり、これこれをして生きるべし」というものが並んでいきます。

正直、これは読んでいて厳しいものがありました。

それに対して従来の福音書で説かれる物語はやはりドラマチックで面白く、とても親しみが湧いてくるというのが私の感想です。(聖書に「面白い」という言葉を使うのが適切かは難しいところですが)

もしキリスト教の歴史上、従来の福音書ではなくてトルストイの『要約福音書』がその根本聖典であったとしたら、キリスト教はここまで広がっていなかったのではないかと私は思います。

やはり物語の力はすさまじいものがあります。物語だからこそ人々の心を動かした。そして奇跡の物語もやはり布教には大きな意味を持っていたということ。そのような物語があったからこそ人々は感動し、キリスト教を信じるようになったのではないでしょうか。

そしてこれと同時に感じたことがあります。

それは「トルストイを尊敬し、トルストイ主義を奉じる人にとってはこの作品はこの上ない教義になるであろう」ということでした。

トルストイの教えは世界中に大きな影響を与え、彼のもとには多くの「トルストイ主義者」が生まれていました。

そうした人々にとっては「何が善で何が悪か。何をなすべきなのか」ということがびっしり並べられたこの書はまさに福音であったろうということを想像してしまいました。

ゼロから新たな宗教として布教する際には、こうした作品はなかなか人に受け入れてもらうことは難しいでしょう。先に述べたように、もしキリスト教の根本聖典が『要約福音書』だったらキリスト教は広まらなかったろうということと同じです。物語的でないと多くの人には理解されず、人びとの宗教感情を動かすことも難しいのです。

ですが、すでにトルストイ主義というグループができていて、トルストイを尊敬している人からすれば、そのようなわかりやすい物語や奇跡はもはや必要ないのです。トルストイ自身も先に見た引用の中で奇跡物語は「キリストの神性を信じないものにたいしてそれを証明するだけのことである」と述べています。

奇跡物語は不信仰者を信仰に導くために必要なものであって、それはいかに生きるべきかの問題には関係ないとトルストイは断言します。

逆に言えば、すでに信仰しているならば奇跡も何もいらず、「何が善で何が悪か、何をなすべきか」さえはっきりさせ、それを実行するのみでいいのです。その手引きとして『要約福音書』はこの上ないものなのではないだろうか。私はそう感じたのでありました。

そしてこの作品を読み終わった後に巻末の解説を読んでみると、やはり次のように書かれていたのです。

いうまでもなくトルストイは、高く深い近代的教養を身につけた合理主義者であり、しぜん本書には、キリストの言説と伝えられるものであっても、近代人にとって不合理と認められ、抵抗を感じさせるような奇蹟や神秘の部分は除去されて、私たちの頭にもすなおに入り易く整理されている。この点で、四福音書中もっともすぐれたものと言えるのである。

つまり、その整理の標準がトルストイの良識にあるという点で群をぬいており、私が今、年七十にして再読三読、『要約福音書』が容易ならざる大文字であることを身にしみて感じとったといっても誇張でないだけの内容を持っている。ともあれ私は、『懺悔』『わが信仰』等、この時期の数ある宗教的述作との関連については、他の項のほうで語られるであろうからふれないが、本書が『懺悔』『人生論』の二名著とともに、トルストイの全思想、全宗教のエッセンスともいうべきトリオであることを、強調したいのである。

今日ふつうに行なわれている聖書―福音書は、キリスト教徒以外の者にはすこしく縁の遠い感があり、気易く読みかかれないうらみがある。それからみると、トルストイのこれは、いわゆる宗教をはなれ、教義を別にして、人生の教科書として、キリスト者なら何人にも、実に親しみ易い長所を持っている。

しかもここでは、その一節一節が、心がこもる以上に、まぎれもない実感をもって書かれているのである。キリストの教えにこそ真理があるとするトルストイのゆるぎない確信が、厳として文字の底に流れているのである。

すばらしい一編のドラマであるキリストの生涯が彷彿として描き出されているのである。キリストという一個の人間の考え方生き方が、単純直截にはっきりと語られているのである。その信念の深さ、大きさ、神を霊と見、愛と観じて、人間のよって生きるべきみちを、力強く指し示しているのである。(中略)

私はくり返していう。『要約福音書』は伝者トルストイの生涯に裏づけされて、千釣の重みをました万人必読の書であると。もちろん『要約福音書』は本巻所載の諸編との関連において読まれることが望ましいが、上述の意味から言って、単独に読まれることも、もとより結構なのである。
※一部改行しました

河出書房新社、中村白葉、中村融訳『トルストイ全集14 宗教論(下)』1874年初版P458-459normal

私はこの解説を書いた中村白葉氏がトルストイ主義者であるかはわかりません。ですが、氏がトルストイを深く敬愛されていることが上の言葉からも伝わってきます。

そして上の文を読んで頂いて皆さんもお気づきかと思いますが、「従来の聖書は読みずらく、一般の人には縁遠いものとなっているが、トルストイの福音書は実に親しみやすい」と述べられています。

これぞまさしく、トルストイ主義を奉じる方からすればこの『要約福音書』がいかに重要な教義であるかを示しているのではないかと私は感じました。

私は正直、トルストイが苦手です。

これはよく語られる「トルストイか、ドストエフスキーか」という問題に直結しています。

これら両者の思想、理想は対極にあり、交わりようがありません。

トルストイ主義を奉ずることのできない私にとって、『要約福音書』が親しみやすい書物とはなかなか思えないのにはこうした背景もあります。

「トルストイか、ドストエフスキーか」という問題については後にじっくり当ブログでも考えていきたいと思いますのでこの記事ではこれ以上はお話ししませんが、『要約福音書』はトルストイの思想、理想を考える上であまりに重大な作品であることは疑いようがありません。

ドストエフスキーとトルストイを比較する上でもこの作品を読めたことは非常に大きな経験となりました。

以上、「トルストイ『要約福音書』概要と感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは」でした。

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トルストイ『人はなんで生きるか』あらすじと感想~素朴な人間愛が込められたトルストイ民話の代表作

今回ご紹介するのは1881年にトルストイによって書かれた『人はなんで生きるか』です。私が読んだのは岩波書店版、中村白葉訳の『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇』です。

早速この作品について見ていきましょう。

トルストイはこの作に、一八八一年の一月から着手して、その脱稿に、幾多の中断を伴ってではあるが、ほとんど一年を費やしている。

これは、民話中では一番長いものの一つであり、また力作ではあるけれども、それにしろ、六、七十枚の短編にこんなに長い時日を費やしたことは、もともとトルストイは推敲に推敲をかさねる人であったとはいえ、この種の作品の第一作であるこの一編に、どれほど緊張した努力を傾注したかが推測されて、奥床しい。この作の制作にあたってトルストイが、例の「民衆自身の言葉で、民衆自身の表現で、単純に、簡素に、わかり易く」をモットーに努力したことは明らかで、あたかもそれを証明するかのように、この作の原稿として今日なお三十三とおりの草稿が保存されていることが伝えられている。

岩波書店、トルストイ、中村白葉訳『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四編』P182-183normal

この作品は1870年代末より宗教的転機を迎えたトルストイが満を持して発表した民話作品になります。

トルストイがどのような宗教的転機を迎えたかについては当ブログでも「トルストイ『懺悔』あらすじと感想~トルストイがなぜ教会を批判し、独自の信仰を持つようになったのかを知るのに必読の書」「トルストイ『教義神学の批判』概要と感想~ロシア正教の教義を徹底的に批判したトルストイ」「トルストイ『要約福音書』概要と感想~福音書から奇跡を排したトルストイ流の聖書理解とは」の記事で紹介してきました。

この作品にはトルストイ流のキリスト教のエッセンスが込められています。

では、この作品のあらすじを見ていきましょう。

これは古くからある民衆的な天使伝説をもとにしたもので、内容はすべて超自然的な話だと言ってよい。

若い死の天使が人間を憐れんで神の命令に背き、魂を抜きとるのをやめたため、罰を受けて地上に落とされる。靴屋のセミョーンがこの天使をただの浮浪者だと思って、家に連れ帰り靴屋の手伝いをさせる。ミハイルという名のその男、実は天使は経験もないのに、靴作りに異常な才能を発揮し、セミョーンの商売は大繁盛する。ミハイルは長靴を注文に来た地主の背後に同僚の死の天使を見て、長靴の代わリに死んだ人に履かせる突っ掛け靴のようの履物をあらかじめ作っておく。すると、地主はその日に死んでしまうなど、次々に不思議なことをやってのける。そして、ついに神の赦しが与えられ、天使(ミカエル)はロケットが発射されるように、屋根を突き破って一瞬のうちに天に戻っていく。

これは狭い日常性や自然科学的事実を超えて、感情と、夢と、無限の想像力とともに生きている人々の心を知り、それに応えようとした人の作品である。トルストイのロシア正教批判は自然科学、実証主義、唯物論、合理主義の立場からなされたものではなく、信仰の根源と本質を問うものであり、理性にも感情にも背反しない真の信仰を求めるものだったのである。

第三文明社、藤沼貴『トルストイ』P413normal

この物語では、心優しきセミョーンがとても冷えた日に礼拝堂の傍で寒さに震える青年を助け、家に連れ帰るところから始まります。

セミョーンは元々、貧しいながらも冬に備えて外套を新調するためになけなしのお金を携えて村にやって来たのでありました。

そこで目にしたのが礼拝堂の傍で寒いのに服も着ないで身動きもせず座っている若い男だったのです。

セミョーンは追いはぎにあったのだろうかといぶかり、気味が悪くなったので最初はその男のそばを通り過ぎます。ですが、心優しきセミョーンは心に良心のうずきを感じ始めます。

「おまえはいったいどうしたというのだ、セミョーン?」と彼は自分に言うのだった。「ひとが災難にあって死にかけているのに、おまえはこわがって、見て見ぬふりをしようとしている。それともおまえは、それほどたいした金持ちにでもなったというのか?持ってるものをとられるのがそんなにこわいのか?おい、セミョーン、よくねえだぞ!」

セミョーンは踵をかえして、その男のほうへ戻って行った。

岩波書店、トルストイ、中村白葉訳『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四編』P11normal

このエピソードで見事だなと思うのは、トルストイがセミョーンに若い男の前を素通りさせた点です。最初から男を助けるようではリアルさを失ってしまいます。

自分の保身のために疑い、不安を覚えてしまうのは当然のことです。ですがそこから少し通り過ぎた後に「本当にこれでよかったのか?」と良心のうずきを感じる。これも誰しもが感じたことがある感覚なのではないでしょうか。

こうした誰の心の内にもある感覚を呼び起こすことこそ、トルストイが願っていたことなのかもしれません。

トルストイはこの作品で「人はなんで生きるか」を探究していきます。

そしてその大きな柱となるのが「愛」です。

この作品は民話を題材にしていることもあり、非常に素朴です。ですがこれがとにかく味わい深い!

上の本紹介でも出てきましたが、この作品は「民衆自身の言葉で、民衆自身の表現で、単純に、簡素に、わかり易くをモットーに努力した」というトルストイの渾身の一作です。まさにその通りの作品となっています。

そして文庫本で50ページほどのコンパクトな作品ですので肩肘張らずに手に取ることができます。

トルストイというと難解で長大なイメージがありますが、この作品は決してそんなことはありません。

読むと温かな気持ちになれます。ぜひおすすめしたい作品です。

以上、「トルストイ『人はなんで生きるか』あらすじと感想~素朴な人間愛が込められたトルストイ民話の代表作」でした。

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