2026年2月18日水曜日

「アラム語とタミル語と関係」の検索結果 - Yahoo!検索 フェニキア文字

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2021/11/18 -後,マウリヤ朝のアラム語 ... 古タミル語よ. りも前の言語は,南ドラヴィダ祖語(Proto-South Dravidian language)(56, 57)と呼ばれてお. り,古タミル語 ...


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千葉商大紀要 第59巻 第2号(2021年11月)pp. 191-204〔研究ノート〕音節文字の系譜(3)―楔形文字から初期のインド音節(アブギダ)文字へ箕 原 辰 夫本稿では,インド初期の文字の形成過程において,メソポタミアの周辺地域から,東部のザクロス山脈におけるエラム文字,あるいはペルシャ湾における海上交易を媒介としたインド文字への波及についての研究を紹介する。なお,原エラム線文字(Linear Elamite script)は,インダス文字(Indus script)との関連性が指摘されている(1)が,両者は音節文字ではなく象形文字であると考えられるので,本稿では省略する。本稿では,まずエラム楔形文字からインドのドラヴィダ諸語の1つであるブラフーイー(Brāhūī:本稿では「ブラーフーイー」ではなく,「ブラフーイー」と標記する。後述の「ブラーフミー」との混乱を防ぐ目的がある)語への影響があったことを示す仮説を紹介し,加えて,北西インドで形成されたカローシュティー文字(Kharosthi script)がアラム文字から,およびインド文字の祖先とされているブラーフミー文字(Brāhmī script)は,フェニキア文字からの影響があったことを検証する。影響があった根拠として,地中海・メソポタミア・インド西部に掛けての海上交易が発達していたことを挙げる。そして,ブラーフミー文字の形成と同時期に形成された南部インド文字(タミル−ブラーフミー文字)についても紹介していく。1.エラム楔形文字からの波及エラム楔形文字(Elamite cuneiform)(2)から,北部ドラヴィダ諸語(North Dravidian languages)(3)であるブラフーイー語(Brahui language)(4)に対しての影響があったと捉える仮説の提唱の歴史は古く,1853年にエドウィン・ノリス(EdwinNorris)(5)の論文によって提唱されており,「ドラヴィダ諸語」という名前を提案したロバート・カルドウェル(Robert Caldwell)によっても,更なる証拠が挙げられている(6)。エラム語から北部ドラヴィダ語の共通祖語として,エラム−ドラヴィダ諸語(Elamo-Dravidian languages)(7)





ブラーフミー文字の形成
インドには,先に述べたように,インダス文明の担い手であったドラヴィダ諸語を話す 民族が先住しており,アーリア人の南下によって,南インドに移住したと考えられている 

が,ガンジス川周辺でブラーフミー文字が形成された時代には,既にアーリア人が北イン ドに在住し,十六大国(Solaha Mahājanapadas)と呼ばれる諸王国を形成していた。ブラー フミー文字(Brāhmī script)(31)は,それらの諸王国の中でガンジス川下流域のマガダ国 (Magadha)において紀元前 325 年に興ったマウリヤ朝(Maurya Empire)(32)が北インド を統一した際に用いられていたサンスクリット語(Sanskrit)(33),および民衆語であるプ ラークリット(Prakrit)(34)を表わすために作られた文字であると考えられている。ブラー フミー文字は,北インド・南インドおよび東南アジアの諸言語の文字の始祖とされている。カローシュティー文字の後継がまったくない状況と対照的であり,これは紀元前305年にマウリヤ朝のチャンドラグプタ王がペルシャ帝国セレコウス朝を破り,ガンダーラ地方を配下に収めたことに起因するとも考えられる。前節で述べたようにカローシュティー文字は,その後もガンダーラ地方を中心に使われているのであるが,この時期の北西インドは,アフガニスタンにあったギリシャ人によるグレコ・バクトリア王国(紀元前255年頃〜紀元前130年頃)の侵入により,グリーク朝が興り,その後大月氏の諸侯である貴霜翕侯,クジュラ・カドフィセス(Kujula Kadphise:在位西暦30年〜80年)によりクシャーナ朝(西暦30年〜375年)が興る。この王朝までは,北インドではカローシュティー文字が使われていたが,その後に北東部に興ったグプタ朝(西暦319年〜550年)によって北インドが再度統一される(西暦450年)ことによって,北インドでの公用文字がカローシュティー文字からブラーフミー文字に置き換わり,最終的にカローシュティー文字が駆逐されていってしまったのではないかと考えられる。 ブラーフミー文字は,フェニキア文字(Phoenician alphabet)からの借用があることが定説になっている(35)。この定説は,ゲオルグ・ビューラー(Georg Bühler)が提唱したフェニキア文字との類似性の指摘(36)が根拠になっている。フェニキア文字との類似性については,後ほど検証するが,この背景を考えると,マウリヤ朝以前にも海上交易によって,フェニキア文字がインドの西部の沿岸から北部,南西部に流通しており,ブラーフミー文字の形成もフェニキア文字の流通経路から派生して興ったのではないかと考えられる。フェニキア自体は主に地中海を通じての海上交易を行なっていたが,紅海を通じてアラビア半島南部の航路を介しても,直接西インドとの交易も行なわれていたのではないかと推測できる(37)。フェニキア文字を基本としてブラーフミー文字が形成されたという仮説に立つならば,フェニキアとの交易の流通経路を通して,フェニキア文字を参照として,カローシュティー文字と同様にアブギダとしての形成原理を採り入れて,インドの西部沿岸から,北東部・南西部において,ブラーフミー文字の原形となる文字が考案され,最終的にマウリヤ朝で確定されたのではないだろうか。 フェニキア文字は,子音を中心としたアブジャド(Abjad)あるいはローマ字やギリシャ文字のアルファベットの始祖であるのに対して,ブラーフミー文字は子音記号を中心に母音記号を組み合わせるアブギダ(Abugida/Alpha-syllabary)となっている。このようなことから,ブラーフミー文字の形成については,フェニキア文字との類似性を指摘する以外にも,いくつかの仮説が提唱されている。ここでは,英語版のWikipediaで紹介されているいくつかの仮説の概要を紹介するに留める。フェニキア文字起源説も含めて,これら(35)ルイ=ジャン・カルヴェ(Louis-Jean Calvet),『文字の世界史』(Histoire de l’ecriture),矢島文夫監訳,河出書房新社,pp. 261, 1998(original by Plon, 1996),pp. 151-154.(36)Georg Bühler, “On the Origin of the Indian Brahma Alphabet,” Strassburg K.J. Trübner, 1898, https:// archive.org/details/onoriginofindian00bhuoft(37)Nicole Boivin and Dorian Q. Fuller, 前掲論文―197

の仮説の検証は,サロモン(Richard Salomon)(38,39)とファルク(Harry Falk)(40)によってなされている。象形文字を音声文字として使用したものという仮説がブラーフミー文字の起源をめぐる学説が興った当初から提唱されていた(41)が,ビューラーはその証拠は示されていないと指摘しているし,サロモンはこの仮説は間違っていると指摘している。この象形文字起源説とは別に,インダス文字との類似性を提唱する仮説がある(42,43)。この仮説についても,充分な証拠がない,およびインダス文明からブラーフミー文字の形成までの北インドにおける様々な王朝の歴史が捨象されているとして1990年代に否定されている。フェニキア文字に替わる別のセム系言語の文字としてペルシャ帝国での公用文字であったアラム文字から借用しているという学説が一般的であることもサロモンは認めている。トリガー(Bruce G. Trigger)は,アラム文字に地域的な変更を加えてブラーフミー文字が形成され,北西インドではカローシュティー文字が特に仏教の聖典を記述するのに使われていたが,スリランカやそれ以外のインドでは,紀元前5〜4世紀頃からブラーフミー文字が使われていたのではないかと指摘している(44)。アラム文字起源説の問題点は,何故,アラム文字からカローシュティー文字とブラーフミー文字の2つの文字が作られたのかについて説明ができないこと,上記の指摘のように,アラム文字とブラーフミー文字はかなり違っており,セム系言語のアブジャッドとしてのフェニキア文字の方が似通っているという点にある。 サロモンは,ビューラーのフェニキア文字起源説についても,歴史的・地理的な繋がりの弱さ,および年代記的な正当性に欠けるとしている。また,ビューラーの仮説の提唱の後,マウリヤ朝のアラム語の碑文が発見されたことにより,カローシュティー文字を基礎としてブラーフミー文字が形成されたのではないかという仮説に置き換わってきている。しかしながら,2つの文字が必要だった説明にはなっていないし,この仮説についても,サロモンは,カローシュティー文字とブラーフミー文字との共通部分に比べて,違いの方が大きすぎるという指摘をしている。(38)Richard Salomon, “On The Origin Of The Early Indian Scripts: A Review Article,” Journal of the American Oriental Society 115.2, 1995, pp. 271-279.(39)Richard Salomon, “Indian Epigraphy: A Guide to the Study of Inscriptions in Sanskrit, Prakrit, and the other Indo-Aryan Languages,” Oxford University Press, 1998, ISBN 978-0-19-535666-3.(40)Harry Falk, “Schrift im alten Indien: ein Forschungsbericht mit Anmerkungen(in German),” Gunter Narr Verlag, 1993.(41)Alexander Cunningham, Corpus Inscriptionum Indicarum. Volume 1, 1877.(42)G.R. Hunter, “The Script of Harappa and Mohenjodaro and Its Connection with Other Scripts,” London: Kegan Paul, Trench, Trubner & Co. Ltd, 1934, https://ufdc.ufl.edu/AA00013642/00001(43)John Marshall, “Mohenjo-daro and the Indus civilization: being an official account of archaeological excavations at Mohenjo-Daro,” originally carried out by the government of India between the years 1922 and 1927, Asian Educational Services. 1931, p. 423, ISBN 978-81-206-1179-5, https://books.google.co.jp/ books?id=Ds_hazstxY4C&pg=PA423(44)Bruce G. Trigger, “Writing Systems: a case study in cultural evolution,” in Stephen D. Houston(ed.), “The First Writing: Script Invention as History and Process,” Cambridge University Press, 2004, pp. 60-61.

 図 5 を見ると,フェニキア文字の方がアラム文字よりもブラーフミー文字に近い文字が多いのがわかる。カローシュティー文字と同様に,フェニキア文字を180度回転させたと思われる文字がブラーフミー文字にある。これは,フェニキア文字やアラム文字が右から左に書記する文字であったのに対して,カローシュティー文字やブラーフミー文字が左から右に書記する文字であることに起因するのではないかと考えることができる。ブラーフミー文字がセム系言語のアブジャッドからの発展によるものであるという証拠として,ブラーフミー文字で書かれたLipi(書字・書道作品)(46)は,古代ペルシャのDipiという言葉から来ているとのではないかという指摘もされている(47)。なお,このDipiという言葉もエラム語からの借用語であるとされている(48)。 更に,ファルクが提唱したギリシャ文字との類似性を指摘する仮説(49)もあるが,ブラーフミー文字の形成は,アレキサンドロス大王の遠征以前にされているので,ギリシャ文字の影響があったかどうかは微妙である。ファルクは,アラム文字からブラーフミー文字の原形ができて,その発展系としてギリシャ文字の影響があったのではないかと主張している。サロモンは,これに対して,ギリシャとブラーフミー文字の音価の捉え方が異なること挙げて,この仮説に疑問を呈している。ビューラーと異なり,ファルクはギリシャ文字影響仮説の具体的な根拠を示していない。いずれにせよ,紀元前326年のアレクサンドロス大王のインド遠征以降のギリシャ文字が流入していた時期には,ギリシャ文字に加えて,カローシュティー文字とブラーフミー文字の両方が併用(50)されていたことが,表面がギリシャ文字,裏面がブラーフミー文字で刻印された銀貨があることからもわかっている。表面がギリシャ文字,裏面がカローシュティー文字の銀貨は,図4で示した通りである。図6は,バクトリア王国のアガソクレスⅠ世ダイカイオス(Agathocles I Dikaios:在位紀元前190年〜紀元前180年)(51)の時代に用いられていた各面に両文字が刻印された貨幣の両面である。図6 ‌‌Greek-Brahmi‌coinage‌of‌Indo-Greek‌King‌ Agathocles(52) ブラーフミー文字の碑文としては,紀元前300〜210年頃のアショーカ法勅(Edicts of Ashoka)の円柱の碑文(53)がインド各地に残されている。

5.初期南インド文字の形成 タミル−ブラーフミー文字(Tamil-Brahmi)(54)は,Tamili文字あるいはDamili文字としても知られているが,ブラーフミー文字を使って古タミル語(Old Tamil:紀元前3世紀〜紀元前1世紀)(55)の洞窟に岩に彫られた碑文を書き記した文字である。古タミル語よりも前の言語は,南ドラヴィダ祖語(Proto-South Dravidian language)(56,57)と呼ばれており,古タミル語以外にも南インドのドラヴィダ諸言語の祖語として位置づけられている。南ドラヴィダ祖語は,遅くとも紀元前7世紀には存在していたと考えられているが,その証拠は乏しい。更に,第1節でエラム音節文字との関連で述べた北部ドラヴィダ語であるブラフーイー語も含む,ドラヴィダ祖語(Proto-Dravidian language:紀元前4千年紀紀元前3千年紀頃)(58)は,現在判明しているドラヴィダ諸言語からの,言語的な再構成の仮説に過ぎないが,言語上の推察から,紀元前3千年紀から紀元前2千年紀に渡って,デカン高原やインド半島南部の各地に新石器・銅器を使った文化の痕跡があったこと,インダス文明(IndusValley Culture)およびインダス川河口(シュメールの記述ではMeluhhaとされている)に住む人々が,シュメールの記録に残っていること,ドラヴィダ祖語にシュメール語からの借用があることが主張されており(59),南ドラヴィダ祖語にもシュメール語あるいはエラム語の音節文字の影響が入っていると考えることができる。ペルシャ湾・アラビア海沿岸を通しての海上交易によって,図2に示した鉱石などについてシュメール時代から西南インドとの交易があったのではないかと考えられている。 タミル−ブラーフミー文字に戻ると,この文字で岩壁に書かれた碑文は,タミル・ナードゥ(Tamil Nadu)州やケラーラ(Kerala)州あるいはスリランカに約70の碑文が発見されており,民衆語であるプラークリット(Prakrit)として記述されている(60)。また,紅海を通じた海上交易が盛んに行なわれた証拠(61)として,タミル−ブラーフミー文字が(46)https://en.wikipedia.org/wiki/Lipi(47)Eugen Julius Theodor Hultzsch, “Corpus Inscriptionum Indicarum v. 1 : Inscriptions of Asoka,” Oxford: Clarendon Press. p. xlii, 1925.(48)Jan Tavernier, “The Case of Elamite Tep-/Tip- and Akkadian Tuppu,” Iran. 45: 57-69. doi:10.1080/05786967. 2007.11864718. S2CID 191052711, 2007.(49)Harry Falk, 前掲論文(50)Malini Dias and Das Miriyagalla, 前掲論文(51)https://en.wikipedia.org/wiki/Agathocles_of_Bactria(52)https://en.wikipedia.org/wiki/Brahmi_script#/media/File:AgathoklesCoinage.jpg(53)https://en.wikipedia.org/wiki/Edicts_of_Ashoka(54)https://en.wikipedia.org/wiki/Tamil-Brahmi(55)https://en.wikipedia.org/wiki/Old_Tamil(56)Bhadriraju Krishnamurti, “The Dravidian Languages,” Cambridge University Press, 2003, ISBN 978-1-13943533-8.(57)Mikhail Sergeevich Andronov, “A Comparative Grammar of the Dravidian Languages,” Otto Harrassowitz, pp. 299, 2003, ISBN 978-3-447-04455-4.(58)https://en.wikipedia.org/wiki/Proto-Dravidian_language(59)Jane R. McIntosh, 前掲書―201




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‌‌タミル−ブラーフミー文字とブラーフミー文字との比較(64)図7は,ブラーフミー文字とタミル−ブラーフミー文字(前期・後期),および現代のタミル文字との比較になっている。サロモンに拠ると,タミル−ブラーフミー文字は,北インドで用いられていたブラーフミー文字と比較して,4つのドラヴィダ語の発音に必要な文字が含まれている(65)。逆に,海上交易の視点から考えれば,フェニキア文字などを参考にして,タミル−ブラーフミー文字が先行して形成され,北西部に伝わるに従って,ブラーフミー文字に収斂されていく仮説があっても面白いのではないかと考えられる。陸上路を通して,アラム文字からカローシュティー文字が形成され,海上路を通して,フェニキア文字などからタミル−ブラーフミー文字を経て,ブラーフミー文字が形成されたとなれば,セム系の文字から2つのインドのアブギダ文字が成立した理由にもなり得る。また,シュメール時代からインド西南部との交易が存在したことにより,シュメールやエラムの音節文字がインドのアブギダ文字の形成に影響を及ぼしたのではないかという仮説も建てることが可能だろう。中東・インドの研究者がこの分野で活発に研究成果を発表して(60)Iravatham

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