2025年10月28日火曜日

城びとさんによるXでのポスト

 
 
城びと
⁦‪@Shirobito_jp‬⁩
笠間稲荷神社において笠間城天守の一部が現存していたことの研究を続けている国立小山工業高等専門学校の神宮さんが、11月1日・2日の学園祭「工陵祭」にて各種史料や5月に開催された研究成果説明会までの研究進捗、新たに制作した笠間城天守の復元CGなどを公開展示。shirobito.jp/event #城びと pic.x.com/CdgJJnS5e0
 
2025/10/28 10:03
 
 

【阿波の古墳を行く!】鷲住王の子孫、阿波脚咋別一族の首長墓?「宍喰古墳」(海陽町宍喰) - 妄想の阿波古代史

【阿波の古墳を行く!】鷲住王の子孫、阿波脚咋別一族の首長墓?「宍喰古墳」(海陽町宍喰) - 妄想の阿波古代史

【阿波の古墳を行く!】鷲住王の子孫、阿波脚咋別一族の首長墓?「宍喰古墳」(海陽町宍喰)

阿波の古墳を行く!

徳島県南部の海陽町宍喰に、全長約12mの横穴式石室をもつ古墳がありました。宍喰古墳と名付けられた古墳は、海部氏の祖、鷲住王の子孫、阿波脚咋別一族の首長墓ではないかと言われています。

宍喰古墳とは?

宍喰古墳は、宍喰中学校横の県民運動場の脇にあります。

宍喰古墳は、県民運動場のほぼ中央まで突き出ていた尾根の上にあった。それを運動場造成の時、現在の位置に移したものである。この古墳は大正10年頃、赤土を取っている時発見され、石室内の調査によって、折れた刀と土器が検出された。その当時既に天井石もなく、奥壁の石と側壁の石を残すだけであったといわれている。その後、側壁の石も水田の水口や土止めなどに使用され、多くの石を失ってしまった。また、この古墳は本県の最も南にあり、地山を掘りこんで石室を築き、盛土をした円墳で、横穴式石室の埋葬施設をもったもので、海部郡海陽町大里にある大里古墳より、少し大きい規模をもっていたと考えられる。古墳は千数百年前築かれた墓で、このように大きな墓を築くには、それだけの勢力をもった人が住んでいたことになり、海陽町の歴史を研究するうえで、大切な資料となるものである。~海陽町教育委員会~

移築された横穴式石室は、玄室部分で、長さは約5m、幅約1.5m位だと思われます。奥壁に大きな岩が置かれ、側壁は、頭大の石が丁寧に積まれているのがわかります。

築造年代は不明ですが、宍喰古墳から約7km北東にある大里古墳が6世紀後半から7世紀と考えられているので、おそらく同時期に造られたものと考えられます。古墳規模から考えて、宍喰川流域を治めていた豪族の首長墓と言えます。

【阿波の古墳を行く!】被葬者は鷲住王一族?「大里古墳」(徳島県海陽町)

徳島県南部の海部川の河口、大里海岸に近い平野部に大里古墳がある。崩壊しかけていた古墳が復元整備されたらしい。これは、捜査せねばなりませぬ。

宍喰古墳の被葬者は?

ちゃぼたつ

ちゃぼたつ

6世紀頃、宍喰川流域を支配し、宍喰古墳を築いた豪族とは、どのような一族だったのでしょう。そのヒントは、宍喰古墳から宍喰川を上流へのぼった奥深い山の中の神社にありました。

その神社は、大山神社と言います。

ちゃぼたつ

ちゃぼたつ

なんとも趣のある参道です。まさに、パワースポット!参道を登って行くと社殿が見えてきました。

大山神社は、鷲住王を祀っています。

大山神社由緒

当神社は、鷲住王を祀り申し上げ、宍喰町の開拓の祖神として古くから崇敬せられています。日本書紀によれば、鷲住王は第十二代景行天皇の曽孫に当たらせられ、履中天皇の皇后の御兄であらせられます。今を去る凡そ千五百有余年前宍喰地方に移住されて付近一帯をも開発統治したと伝えられています。

大山神社には、鎌倉時代に大陸で作られた鐘が伝わっています。

金の鐘の銘文に「明昌七年丙辰四月日金鐘一を鋳〇」とあり、明昌は金の国の年号で日本では後鳥羽天皇の建久七年(1196)のことである。八百年前の昔大陸で作られた金の鐘がどうして山深い大山神社に祀られていたのであろうか?その昔倭寇といって多くの武士たちが隊を組んで海を渡り大陸沿岸で盛んに交易をした時代があった。海部の人々は航海術に優れていることから倭港に加わり大陸からこの鐘を持ち帰って大山神社に奉納したものであると云われている。

倭寇と呼ばれた人々の祖先は、おそらく海人族で、宍喰川流域に拠点を置き、交易を行っていたと考えられます。

鷲住王とは?

鷲住王は、日本書紀に登場する人物です。その人物像を日本書紀の記述から拾ってみました。

・讃岐国造

阿波脚咋別の始祖

・第17代履中天皇の嬪である太姫郎姫と高鶴郎姫の兄

・鯽魚磯別王(ふなしわけのおおきみ)の子

・強力の持ち主

・住吉邑に居る

・天皇の再三にわたる召喚にも応じず

阿波脚咋別の祖が鷲住王で、「脚咋(あしくい)」が「宍喰(ししくい)」になったと言われています。「富田家文書」という古文書には、室町時代に海部川流域を支配した海部氏の祖先は鷲住王であると書かれています。

ちゃぼたつ

ちゃぼたつ

まとめ

宍喰川の河口付近は、畿内から高知を経て、九州へ向かう海洋ルートの要所になります。鷲住王を祖とする脚咋別一族は、鷲住王が祀られている大山神社付近を拠点とし、宍喰川流域や北東の海部川流域、南西の野根川流域を支配したと考えられます。古墳造営には、大きな経済力と多くの人々を動かす支配力が必要です。交易によりこの地で力をもっていった脚咋別一族の一端がうかがえます。脚咋別一族の子孫は、その後も海部氏として大陸や朝鮮半島との交易で活躍することになります。

2025年10月27日月曜日

まろリンさんによるXでのポスト 信長

 
 
まろリン
⁦‪@tXKC3twb1U7m6ee‬⁩
信長公直筆の雪月花

お鍋の方が残された遺品
この書をみて風流だと感じられる方と
志半ばで本能寺に倒れた儚さを感じる方がいるそう。

私は拝見して、初めは文字の意味までは汲み取れず

あぁ、信長公は存在したんだ。
と改めて感じる派でした

時間が経った今だと風流に感じます🪭 pic.x.com/CBfVQ8BUd7
 
2025/10/27 20:46
 
 

2025年10月26日日曜日

羅紗緬 - Wikipedia

羅紗緬 - Wikipedia

羅紗緬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事には性的な表現や記述が含まれます。 免責事項もお読みください。

羅紗緬(らしゃめん、羅紗綿)は、綿羊のことで、日本においてもっぱら外国人を相手に取っていた遊女、あるいは外国人となった女性のことを指す蔑称洋妾(ようしょう)、外妾(がいしょう)とも言われる。

由来

幕末開国後の1860年頃から使われだした言葉で、西洋の船乗りが食用と性欲の解消の為に船にヒツジを載せていたとする俗説が信じられていたためといわれる。パンパンイエローキャブと同じような使われ方をする。

概要

安政6年(1859年)の開国・横浜開港と同時に、江戸幕府公認で、主に外国人の相手を目的とした港崎遊郭関内に開業、幕府は外国人専用の公娼(羅紗緬)を鑑札制にし、管理を遊女屋に託した。遊郭内では、外国人は羅紗緬しか選ぶことができなかった。

また、幕府は日本人の娘が外国人男性と結婚するのを禁じていたが、外国人からは遊郭の遊女以外の女性の要望も強く、せめて妾は許して欲しいと主張されて遊女であれば外国人の自由にさせても攘夷の浪人を憤慨させることはあるまいと、万延元年(1860年)、港崎遊郭の羅紗緬に外国人の妾になることも許した[注釈 1]。 遊女は遊女屋と証書契約を結んで鑑札を受けてのちに外国人の妾となり、給料の中から遊女屋へ鑑札料を支払っていた。以降、羅紗緬は増加し、文久2年(1862年神奈川奉行所の調べでは、羅紗緬鑑札の所持者は500人であった。

一方で遊女を好まない外国人もいて、素人の羅紗緬も出現する。鑑札所持者からはこれはもぐり羅紗緬と苦情が出たが、妾は結婚ではないから奉行所は取り締まることができなかったため素人が増加、文久2年から慶応2年頃までには異人館通いの羅紗緬が2400〜2500人にも増えたという[1]

また、白人に身を任せる日本人一般女性を見つけることが当時は困難だったため、被差別部落の女性が羅紗緬の多くを占めたとの史料もある[注釈 2][3]

しかし、慶応2年(1866年)の豚屋火事で港崎遊郭が全焼して以降は衰えた。明治5年(1872年)、吉原遊廓では羅紗緬は鑑札を要せず、在住地官長への届け出制となった。

名高い羅紗緬とされる人

きち(斎藤きち
安政4年(1857年)、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに召し抱えられた伊豆国下田の芸者。同時に、通訳ヘンリー・ヒュースケンも同じ芸者の「ふじ」を召し抱えた[注釈 4]。ハリスが依頼したのは「看護婦」だったがそのような概念を理解していなかった日本側が「妾」だと勘違いして芸者を派遣したという説と、幕府がハリスの江戸出府を引き止めさせるために芸者の手配を行ったという説がある。3か月で解雇されて以降は周囲の偏見から酒に溺れ、自殺した。
喜遊(亀遊)
港崎遊郭にあった岩亀楼の遊女。文久2年、外国人[注釈 5]に妾にならないかと言い寄られ、「露をだに いとふ倭の 女郎花 ふるあめりかに 袖はぬらさじ」と辞世を残して自刃したという。尊王攘夷派の創作という説もある。

羅紗緬を扱った主な作品

  • 『横浜ばなし』(文久2年1862年)には、「豚のなき声ラシャメンの遠ぼえ(中略)我国と思はれぬ有様なり」とあって、これはメンヨウのことであるが、その遊女細見の終わりのところには「右は女郎衆沢山有れども、其内異人に出るラシャメン女郎は別にあるなり、異人見立気に入り候へば屋敷へ連ゆき一夜洋銀三枚也、尤此内にて岩亀楼への割駕籠ちんまで持切なり。此外屋敷に居るめかけにもあり、町にかこひ女もあり」とあって、これは羅紗緬のことである。
  • 唐人お吉』 - 十一谷義三郎の小説。唐人お吉は、映画や歌謡曲にも多数扱われている。
  • 『露を厭う女』 - 白井喬二の小説。昭和10年に婦人公論で連載。
  • ふるあめりかに袖はぬらさじ(亀遊の死)』 - 有吉佐和子の小説。後に戯曲化。
  • 『らしゃめん』 - 鰐淵晴子のアルバム。翌年牧口雄二監督で映画化。
  • 唐人物語(らしゃめんのうた)』 - サザンオールスターズの歌。
  • 『ヨコハマ物語』大和和紀の漫画。文庫版第1巻・第2巻に登場するラシャメンの子供がいる。「お父さんはイギリス人だけど、お母さんは日本人よ。」と話すのは、登場人物の一人・青木ジョアン。のちに父親が本国へ帰国してしまい、外国人居留地から出たのち、画家の家で働いていた。主人公の兄と恋に落ちるものの、過労がたたって労咳を患い、18歳の若さで他界。

脚注

注釈

  1. 港崎遊郭・岩亀楼の「長山」がオランダ領事「リネフ」の妾となることを奉行所が許可。『港崎吉原記』は「長山」を羅紗綿と明記し、日本人男性を情夫にしないという条件でこれを許可したとある。妾料1ヶ月15円で、別に羅紗綿の鑑札料として給料から毎月1両2分を岩亀楼が徴発した。
  2. 「そこで各地の遊郭に人を派し、利を以て喰はすの手段を取つたりして、僅に要求に応じて居た。果ては遠く長崎地方に求めて、多少異国味に馴れた遊女や、其他の女達を抱へ入れんとしたとも云はれるが、結果は良好でなく、何れも要求数に満たぬ有様であつたから、特種部落出の遊女又は婦女に目を著け、其方面の応募者を相当多く拉し来つたやうである。而してらしやめん女郎は次第に此特種部落出のものに依つて形造られた型となつて来た。彼等は横浜と云ふ土地の状況に多少とも理解を有するものが多かつた関係から、横浜界隈若くは武・相二州の細民階級のものが多数を占めたと云ふ事である。」

    [2]
  3. なお同書によると、第二次大戦敗戦直後の横須賀市安浦における進駐軍相手の慰安所でも多数の被差別部落出身女性が働いており、その慰安所の経営者もまた被差別部落出身だったという(p.193-204)。
  4. 「きち」の年給は120両仕切、「ふじ」の年給は90両であった。
  5. 喜遊に言い寄った外国人は、アメリカ軍人とも商人とも言われるが、確証は無い。

出典

  1. 『異人らしやめん異聞』文久3年(1863年
  2. 『横浜市史稿・風俗編』第7章第2節15、横浜市役所編、名著出版、1973年
  3. 川元祥一『開港慰安婦と被差別部落』p.134(三一書房、1997年)[注釈 3]

参考文献

関連項目

外部リンク

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穴八幡宮について|穴八幡宮(東京都新宿区)御祭神 應神天皇(品陀和気命) 仲哀天皇(帯中日子命) 神功皇后(息長帯比賣命)

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御祭神

應神天皇(品陀和気命)
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fukuko2025さんによるXでのポスト

 
 
fukuko2025
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2025/10/26 17:34
 
 

2025年10月25日土曜日

先進技術が解き明かす三角縁神獣鏡!鋳型が語り始めた銅鏡の真実【邪馬台国の界隈056】

熊本県矢部町御所(上益城郡山都町)にあるウガヤ朝の神武天皇を祀る男成神社の本殿には、大黒様と恵比須様の面が飾られている。  彼ら両…



 熊本県矢部町御所(上益城郡山都町)にあるウガヤ朝の神武天皇を祀る男成神社の本殿には、大黒様と恵比須様の面が飾られている。  彼ら両民族には常にケルトが同行していた。ヘブライ、フェニキアが何かをしようとするとき、ケルトの冶金鉱業や造船、灌漑工事、神殿建設など石工の集団の力が必要だった。ケルトは常に山から人、物、金を支援してきた。それこそ古の王たちであった。
:5

 メソポタミアを逃れたヘブライ人  

 ウルの城外の砂漠からアナトリアへ逃れた羊飼いのヘブライ人アブラハムたちはタガーマ地方でヤコブの12支の子イスラエル族として暮らしていたが、ヨゼフの盟友のヒクソスの王からエジプトに呼ばれ、そこでヘブライの民として平和に暮らしていた。しかしそれもつかの間エジプト第三王朝にヒクソスは滅ぼされる。  
 ヒクソスが衰退すると新王朝でヘブライ人は奴隷の身となりアビルといって蔑まれた。そんなとき、ヒクソスの貴族の子として命を取られる運命の赤子を、ある侍女が籠に入れて川に流す。その子をファラオの貴婦人が拾ってわが子のように大事に育てた。新王朝のファラオが未来を占う神託でヘブライ人の子供は皆殺しにすると決まった。予言者として育ったモーゼはそのことに気づき、また御神託を得て、子供のいる家は門に羊の血を塗り、悪疫から逃れよと知らせる。そして一刻も早くエジプトから逃れよとモーゼ率いるヘブライ人の出エジプトが始まる。  
 日本の祭りに祗園祭りがあるが、そのときお宮で出すお札がある。災厄から逃れるためのお札で「蘇民将来の札」というが、過越しの札ともいい、それを玄関に貼っておくと災厄から逃れるという。そのお札にはダビデの星が描かれているが、なぜか日本人はスルーしている。  3300年前のこと。モーゼらはシナイを放浪し、シナイ山で神に願うと神から十戒の石板「コトバ」を頂く。モーゼはそれを民族の規範とするようにヨシュアに託してヘブライの民も預けた。エジプトを出て紅海を渡りシナイに入る前に、ヘブライの大事な民族の未来を担う王族の子女の渡航先として古代先祖が移っていった伝説の島ディルムンを選んだ。そしてそこ紅海にはアジアの海洋民族マカン族がいた。


 モーゼはマカン族にギルガメッシュの伝説の島を目指すよう王家の民を預けた。海洋民族とともに日本へ逃れた一派はアビルと呼ばれたヘブライ人であった。阿比留文字が古ヘブライ文字に似ているといわれる所以である。多くは、壱岐対馬、九州西部へと到達、早くに到達しているウル、キシュの民に助けられながら、地元のアラハバキ熊襲と同化していった。  
 一方、ヨシュアは苦労しながらも無事にヘブライ人を率いて約束の地・エルサレムへと到達。ヘブライ人たちはヨルダン川を渡って入城するとそこにイスラエル国を宣言した。エッサイ王を擁立し、ダビデがエルサレムを都として平和を勝ち取る。  
 そこに平和の象徴として神殿の建設を考えたが、自分は戦乱の中で手を血に染めすぎたので、穢れのないわが子ソロモンにその神殿建設を託す。そして、親友であるフェニキアの都ツールの王ヒラムに手助けを頼むように指示した。このソロモン王によるダビデの神殿建立計画こそ、フェニキアが知恵を持って世界にタルシシ船を配した産業革命の始まりであった。  
 これが3000年前、レバントから起きた世界に向けた技術者集団の移動と商業貿易、鉱山開発の始まりである。ソロモンもフェニキアから鉱山船タルシシ船を借りて世界に配した。彼らは、ノアの子孫、ノアの教えの通り「船が着いたら混血せよ。植林せよ」を実践した。世界で最も美しく植林を続ける国は日本だけである。



ソロモン王は東南アジアでも偉大な知恵者と尊敬されて「オーモン様」と敬われた。いつもヘブライ人に同行するフェニキア人は同じアモル人同士でエブス人といっていて、これがいわゆる恵比須である。 フェニキア人はいろんな決まり事をルールにする民で大物主と共に事代主と呼ばれた。この大物主と事代主を出雲では大黒様と恵比須様と呼んでいる。これがウガヤフキアエズであろう。熊本矢部町御所にあるウガヤ朝の神武天皇の男成神社の本殿には、大黒様と恵比須様の面が飾られている。 彼ら両民族には常にケルトが同行していた。ヘブライ、フェニキアが何かをしようとするときケルトの冶金鉱業や造船、灌漑工事、神殿建設など石工の集団の力が必要だった。ケルトは常に山から人、物、金を支援してきた。それこそ古の王たちであった。

:54


 その時の日本の事情は?  

 それでは、4000年前の日本に戻ってみよう。出雲の時代である。  
 1万年来、日本古来の神アラハバキを頂く日本縄文人、蝦夷。東北で石神様とも呼ばれるアラハバキ神(安日神)は関東付近で大山祇神へと名が変わっていく。大山祇神も同じ石神様と呼ばれ、三輪山の大神神社の蛇神様でもある。そしてやはり温暖化のリバウンド寒冷化で海洋民族は東北より南下していた。  
 4000年から3000年にかけて、九州、山陰へと流入し始めていたシュメール系海洋民族マカン族・クメール人・安曇族や海洋系ケルトのハイアットの一団と融合しながら、巨石と星々を祀る祭祀を中心に冶金文化を導入し、着々とシュメール系出雲王朝が芽生え始めた。そして天神アンを祀る、巨大な空中神殿の建設も行われた。


 それは、すでに九州の真ん中の人吉で、雨宮神社アンの宮として川辺の川原に出雲と同じ高さ48メートルのジッグラドを築いていた。その下流域の球磨川との合流地点には宝物殿となる京ヶ峰横穴遺跡があり、熊襲ケルトの警護の印、〇に十の字のスワツシカの紋と神殿の入り口に菊の御紋も打たれていた。それはペルシャのダリウス朝が球磨人吉に関与したという証でもある。  
 このことは、クメール・ハイアットの一隊も九州へと流入し、同じクマソとなり、やはり巨石に守護神のトーテムを刻み、鉄器をもって縣・邑を束ね、ソロモン直系の10支族サマリア王朝が一大王国を作り始めた。そこに次の2支族ユダ王朝がダリウス王の支援を受けながらここ球磨に錦を置いたということでもある。この京ヶ峰横穴遺跡は錦町に位置する。  
 まず最初に、ヘブライとフェニキア(ウガヤフキアエズ)の混血の王、神武を擁立する動きが始まる。ケルトの伝説の王グレートザコナンの子ヨノンのごとく、霧島甲南地方のヨノン村で生まれた神の子にイワレ彦(エホバの子)と名付けた。そして霧島、椎葉、五木、大阿蘇の高千穂野まで上がり、矢部(ヤーベ)町の男成神社の杜で成人の詔を発した。

〈ヘブライ語の詔〉
「ヤーレコラサノコレワイサノサ」狭野命が神に信奉召されるので磐余彦命(いわれびこのみこと)と改名された。
「シルセー」皆に知らせよ。群衆が「シーラシール」知らせようを連呼。
「アナカシイドコ」汝らに恩寵あらんことを。
「サーイルナラ」皆の故郷へ帰りなさい。
「サマラー」神のご加護を。  
 古ヘブライ語は日本語だったといわれた川守田英二先生の指摘通りである。
:65



大戦前の日本古代へブル詩歌研究  

 日本の地名や苗字に古ヘブライ語が多いことは、これまで解説してきた海洋民族の動勢を見てきて納得いただけるかと思うが、日本語に根深く古ヘブライ語が定着していることを明治時代に気づかれいち早く研究し、当時日本では古い聖書の研究資料がないためにアメリカに赴き、長老教会牧師として聖職に就きながらバイブル研究に努力を注がれ、それを『日本へブル詩歌の研究上下巻』と、『日本エホバ古典』にまとめ出版され、「辞典原稿」をまとめ刊行を目前に亡くなられた川守田英二博士がいる。その辞典原稿と日本古代へブル詩歌研究の内容を抜粋して紹介しよう。  
 また、へブライ語辞典は末尾に付録として掲載する。なお、『日本へブル詩歌の研究上下巻』は、熊本市の神水教会の書庫より、私の父の同郷であった今は亡き高倉神父様にお借りした文献である。  
 川守田英二博士は、日本の盆踊りや草刈唄、寺社仏閣の建立にどうどうと唄われてきた木遣り節など、古代日本へブル詩歌にして今に伝わる約400に及ぶ詩歌の囃子詞を紹介しているが本篇ではその中で全国的に行われてきたものを抜粋して引例することにする。

木遣音頭

(甲) 
エニア・アハレラ・サーノ         我推載し奉らん 狭野之尊を
ヨフイ・ハサー              おお主権者の美しさよ
ヨオフイア・ハサー            輝き出でたり 主権者は
エアニ・アハレラー・イハアレ       我推載し奉らん 磐余日子を

ユハレル・コ・シイエ           彼推載せしめられよ 首領者として
ハー・モシヘ               見よメシアを
エアニ・アハレラー・ハサー        我は推載し奉らん 主権者を

(乙) 
エーンヤーラ・サノサー          我推載し奉らん 主権者狭野之尊を
ユフイサー                ああ主権者の麗しさよ
ヨオフイハサ               主権者は輝き出でたり
エンヤーラ・ヤレコノセー         我推載せん。伊波礼日子を首領者として
サー・ノシイエ              崇め奉れ 首領者を
ハレル・ハモシヘ             推載し奉れ 受管者を
エアニ・アハレラー・ハサー        我推載し奉らん 主権者を

(丙) 
ヨフイヤー・ヨオフイアハサー       エホバの栄光は輝かしめぬ 主権者を
エエ・ヨフイヤー・ヨフイハサー      ああエホバの栄光は主権者の栄光なり
エアニ・アハレラー・イハレ・コノシイエ  我推載せん伊波礼日子を首領として
ハモシ                  これぞ受管者なり
コンオ・モシへ              汝宣伝せよ 彼を受管者として
エアニ・アハレラーヤー          われ賛美し奉る 
エホバを

(丁) 
エアニ・イハラー・ネイン         われ賛美し奉る 御子を
サーノヨ・オフイア・ハサー        狭野之尊は主権として輝きいでたり
サーノ・ヨフイ              狭野之尊は美はし
ヨフイ・アレハサー            栄光あれや 主権者に

(戊) サー・ノシイエ              崇め奉れ 主権者を
   アレイ・ハサー              我に臨めり 主権者は
   ハー・モシヘ               見よ メシアを
   アレ・ハサー               登極したり 主権者は  



 これは、即ち神武天皇の皇子時代は狭野之尊、即位されて伊波礼日子尊と改名されている。このことを奉祝の唄として世に知らしめたものである。また、各地で行われてきた建築前の基礎を固める胴突唄や地固唄などにはその後に続く一連の囃子詞がある。

エーンンヤ エンヤ   我はエホバなり我はエホバなり
エアニアトナー     我これを与う
エーンンヤ アトナーア 我これを与う
エーンヤ アトナーア  我はエホバなり  

 この唄こそ世界最古の歌である。  
 そして、シュメールを追われたヘブライ人と流浪を共にしたフェニキア人エブス人は彼らの交易の性質上、文字化を図り音をアモル文字にて文字にしていった。それがアルファベットの基本となりギリシャを通じてラテン文字となる。日本に達したヘブライ人もフェニキア人と同時に文字を持ち込んだ。阿比留文字はへブル文字だが基本的にはフェニキアとへブル文字は同じであった。

:60

城びとさんによるXでのポスト

    城びと ⁦‪@Shirobito_jp‬⁩ 笠間稲荷神社において笠間城天守の一部が現存していたことの研究を続けている国立小山工業高等専門学校の神宮さんが、11月1日・2日の学園祭「工陵祭」にて各種史料や5月に開催された研究成果説明会までの研究進捗、新たに制作した笠間城天守...