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鎌倉時代以降に多く流布した「法然上人絵伝」は、昭和版として再版を熱望され、兵庫県無量光寺の住職小川龍彦の発願と、柳宗悦と、小川の畏友・望月信亨の協力により、芹沢銈介に依頼されました。
昭和十二年、望月がそのいきさつを「工藝」に綴った一文の中に以下のようにあります。
「芹澤さんは謙遜な人柄の方です。宗祖の巌にして寛な人格と実に通うところがあるのです。それに絵本の手法が型なのでいよいよ個人的なものが消えて了って、無心の作が得られるのです。私は真に宗祖を伝する人と技を得たと思いました。」
芹沢による「絵伝」は「御影」三図と共に、昭和13年11月、その試作が日本民藝館に展覧され、高い評価を得ました。
「絵伝」全巻六十四図は昭和十六年三月、和綴本百部が日本民藝館より刊行されようとしましたが、戦争による混乱により、何とか製本頒布した四十部も焼失したり、紛失したりしました。
昭和二十九年、印刷の縮小版が刊行され、さらに昭和五十二年、芹沢自身による手彩色による再版本として、雁皮紙本限定百部が刊行されました。
昭和三十六年六月より朝日新聞に連載された佐藤春夫の小説「極楽から来た」の挿絵として作られました。
法然上人の生い立ちから修行時代、浄土宗を建てるまでの足跡を分かりやすく記しています。
挿絵集は昭和三十六年七月、百七十三図の型絵染限定百五十部が吾八から刊行されました。
これも法然上人絵伝の一種と言えましょう。
その後再摺りされたものも多く、芹沢の物語絵の中でもっとも人気の高い一集です。
946年白頭山噴火(946ねんはくとうさんふんか)は、946年(中国北部では遼代前期の会同9年、朝鮮半島では高麗前期、日本では平安時代中期の天慶9年)に起きた白頭山の噴火で、千年紀の終わりに起きたことから、「ミレニアム噴火(the Millennium Eruption)」とも呼ばれる。火山の噴火規模(VEI)は7。
噴火は大きく分けて2フェイズあり、フェイズ1が白色のアルカリ流紋岩、フェイズ2では黒灰色の粗面岩マグマと、組成の異なるマグマによる二段階の過程に分けられる。両者の間には1年程度の時間間隙が推定され、フェイズ1・2ともにプリニー式及び準プリニー式噴火からクライマックスの火砕流噴火に至る[2]。
噴火の総噴出量は約100~120km3で、西暦紀元後では232年タウポ(英語版) (110km3)、450年イロパンゴ(英語版) (84-104km3)、1257年サマラス(英語版) (100km3)、1452年クワエ (108 km3)、1815年タンボラ (110km3)と並ぶ、世界最大規模の噴火であったと考えられている[3]。
この噴火により、白頭山山頂に天池カルデラを形成した。火山放出物は日本海と北日本の約150万km2を覆い、これは白頭山-苫小牧火山灰層(B-Tm)と呼ばれている。
『高麗史』や『朝鮮史』におけるこの年についての記述に「是歳、天鼓鳴、赦」(この年、天鼓が鳴ったため罪人を赦免した)という噴火を裏付けるものがみられ、また『興福寺年代記』に記録された946年11月3日の奈良の白色の降灰は、白頭山由来のものである可能性が指摘されている[3]。また926年に滅亡した渤海の遺民や王族が遼(契丹)に対して抵抗していたが、この噴火の影響で旧渤海領の平定が長引いたと言われている。
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白頭山が10世紀に巨大な噴火をしていることは明白な事実です。これは有史以降最大級の噴火で、古代都市ポンペイを滅ぼしたとして知られるヴェスビオ火山の噴火と比べても同じかそれ以上の噴火規模と見積もられています。しかし、10世紀といえば中国は五代中国期、朝鮮は高麗が国家としてあり、史実を記録する文化があったにも関わらず、噴火の時期や推移についての記述を一切見つけることができないのです。
■ なぜ、白頭山の10世紀巨大噴火は文献資料に残されなかったのでしょうか?
鶴園 裕「高麗・朝鮮から見た渤海・白頭山への関心」より
この10世紀の中国では,唐(618-907)末を経て、五代十国の変動期、すなわち、後唐(923-936)や南唐(937-975)と呼ばれる地方政権乱立の混乱期にありました。また、東北アジアでは、渤海(698-926)が滅び契丹(遼)(916-1125)が興り、東丹国が成立するという変動期にあったと考えられてます。この時期、白頭山に最も近い地域を領域支配していた国家は、契丹族が建国した遼です。しかし、契丹文字で記録された資料は少ない上に、未解読文字も多いのです。しかも、一部の漢文資料は正史の形で残されているものの、その後の女真族による金やモンゴル族による元の支配によって、10世紀当時の資料は隠滅され、あまり残されていません。
この時期、この地域で比較的安定した国家としては、新羅王国末期の後三国時代の混乱を制して朝鮮半島の中部地方を中心に成立した高麗(935-1392)ですが、10世紀初めのこの時期には東北アジアとの国境線はあいまいで、現在の中国・朝鮮の国境線よりもさらに南が高麗の支配地域でした。それゆえにこそ、先の高麗成宗10(991)年の記事では、前後の脈絡もなく女真族支配に関する一行のみが記載されています。言葉を変えて言えば、この時期、白頭山への関心は存在するものの、実効的な支配は行われていなかったと考えられます。10世紀の白頭山が大爆発を起こしたとされるこの時期には、「正史」に記録を残せるような安定した王国や政権が中国側には存在せず、仮にそのような記録が残されたとしても、文献資料としては残りにくい環境にあったようです。いわば文献資料的には東北アジアの10世紀は、ある種の資料的な空白期となっています。
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角川文庫の中国古典ものは初心者向けがかなり出ているが推薦できるのはこれだけだ。 昭和という元号の語源が最初に出てくるのもいい。 『天学伝概』という近世の文書があってそれは書経における上帝の使用例の引用が幾つか載っている。 引用元を探していたが全部ではないが本書で概要をカバーで...