2024年6月1日土曜日

白鳳地震 684


684年10月
《壬辰(十四日)に、人定(午後十時ごろ)になって大きな地震がおこり、国中の男女が叫びあい、逃げまどった。山は崩れ、川はわきかえり、諸国の国郡の庁舎、百姓の家屋や倉庫、寺院・神社の破壊されたものは数知れず、人民や家畜も多く死傷した。このとき、伊予湯泉(道後温泉)が埋もれて出なくなり、土左国では田五十余万頃(約一二〇〇ヘクタール)が海に没した。
古老は、 「このような地震は、かつてなかったことだ」  
と言った。この日の夕、鼓の鳴るような音が東の方角に聞こえた。
 「伊豆嶋(伊豆大島か)の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がり、もう一つの島になりました。鼓のような音がしたのは、神がこの島をお造りになる響きだったのです」 と言う人があった。甲午(十六日)に、王卿たちに禄物を賜わった。》『日本書紀』中公文庫より

文章前半で被害があったはずの阿波徳島の地名を意識的に隠している。当時阿波が首都だった証拠である。

法然上人形状絵図 第24 | 佛教大学図書館デジタルコレクション

法然上人絵伝

法然上人絵伝 屏風

 
 鎌倉時代以降に多く流布した「法然上人絵伝」は、昭和版として再版を熱望され、兵庫県無量光寺の住職小川龍彦の発願と、柳宗悦と、小川の畏友・望月信亨の協力により、芹沢銈介に依頼されました。
昭和十二年、望月がそのいきさつを「工藝」に綴った一文の中に以下のようにあります。
「芹澤さんは謙遜な人柄の方です。宗祖の巌にして寛な人格と実に通うところがあるのです。それに絵本の手法が型なのでいよいよ個人的なものが消えて了って、無心の作が得られるのです。私は真に宗祖を伝する人と技を得たと思いました。」

 芹沢による「絵伝」は「御影」三図と共に、昭和13年11月、その試作が日本民藝館に展覧され、高い評価を得ました。
 「絵伝」全巻六十四図は昭和十六年三月、和綴本百部が日本民藝館より刊行されようとしましたが、戦争による混乱により、何とか製本頒布した四十部も焼失したり、紛失したりしました。
 昭和二十九年、印刷の縮小版が刊行され、さらに昭和五十二年、芹沢自身による手彩色による再版本として、雁皮紙本限定百部が刊行されました。

法然上人絵伝 額装



極楽から来た

 昭和三十六年六月より朝日新聞に連載された佐藤春夫の小説「極楽から来た」の挿絵として作られました。
法然上人の生い立ちから修行時代、浄土宗を建てるまでの足跡を分かりやすく記しています。
挿絵集は昭和三十六年七月、百七十三図の型絵染限定百五十部が吾八から刊行されました。
これも法然上人絵伝の一種と言えましょう。
その後再摺りされたものも多く、芹沢の物語絵の中でもっとも人気の高い一集です。

法然上人絵伝 - 新纂浄土宗大辞典


七幅。知恩院蔵。室町時代、一五世紀頃成立。真宗系絵伝。『法然上人伝(十巻伝)』に依拠するところが多い。第七幅の上段に二段を抜いて二河白道図が描かれていることは注目される。養鸕うがい徹定の墨書から明治一二年(一八七九)に知恩院に施入されたことがわかる。



http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/法然上人絵伝

法然・空海・秦氏

946年白頭山噴火 - Wikipedia

946年白頭山噴火 - Wikipedia

946年白頭山噴火

946年白頭山噴火(946ねんはくとうさんふんか)は、946年(中国北部では遼代前期の会同9年、朝鮮半島では高麗前期、日本では平安時代中期の天慶9年)に起きた白頭山の噴火で、千年紀の終わりに起きたことから、「ミレニアム噴火(the Millennium Eruption)」とも呼ばれる。火山の噴火規模(VEI)は7。

噴火は大きく分けて2フェイズあり、フェイズ1が白色のアルカリ流紋岩、フェイズ2では黒灰色の粗面岩マグマと、組成の異なるマグマによる二段階の過程に分けられる。両者の間には1年程度の時間間隙が推定され、フェイズ1・2ともにプリニー式及び準プリニー式噴火からクライマックスの火砕流噴火に至る[2]。

噴火の総噴出量は約100~120km3で、西暦紀元後では232年タウポ(英語版) (110km3)、450年イロパンゴ(英語版) (84-104km3)、1257年サマラス(英語版) (100km3)、1452年クワエ (108 km3)、1815年タンボラ (110km3)と並ぶ、世界最大規模の噴火であったと考えられている[3]。

この噴火により、白頭山山頂に天池カルデラを形成した。火山放出物は日本海と北日本の約150万km2を覆い、これは白頭山-苫小牧火山灰層(B-Tm)と呼ばれている。

『高麗史』や『朝鮮史』におけるこの年についての記述に「是歳、天鼓鳴、赦」(この年、天鼓が鳴ったため罪人を赦免した)という噴火を裏付けるものがみられ、また『興福寺年代記』に記録された946年11月3日の奈良の白色の降灰は、白頭山由来のものである可能性が指摘されている[3]。また926年に滅亡した渤海の遺民や王族が遼(契丹)に対して抵抗していたが、この噴火の影響で旧渤海領の平定が長引いたと言われている。

脚注

  1. 小山真人 (1995年7月20日). "日本被害噴火総覧(10)(通史編) 中国東北部・朝鮮の歴史噴火" (PDF). 日本火山学会史料火山学WGニュースレター「歴史噴火」10号. 日本火山学会史料火山学. p. 2-4. 2018年11月17日閲覧。normal
  2. 宮本毅, 中川光弘, 奥野充, 菅野均志, 金旭, 谷口宏充「中国東北部・白頭山火山の噴火史の再検討」『日本地質学会学術大会講演要旨』第115年学術大会(2008秋田)O-55、2008年、doi:10.14863/geosocabst.2008.0.113.0、2022年1月10日閲覧。normal 
  3. ^ a b 早川由紀夫, 小山真人「日本海をはさんで10世紀に相次いで起こった二つの大噴火の年月日 : 十和田湖と白頭山」『火山』第43巻第5号、日本火山学会、1998年、403-407頁、doi:10.18940/kazan.43.5_403、ISSN 0453-4360、NAID 110003041145、2022年1月1日閲覧。 

東北大学総合学術博物館のすべて Ⅷ 「中国・朝鮮国境の大活火山 白頭山の謎」 史実に残されなかった巨大噴火

東北大学総合学術博物館のすべて Ⅷ 「中国・朝鮮国境の大活火山 白頭山の謎」 史実に残されなかった巨大噴火

史実に残されなかった巨大噴火

白頭山が10世紀に巨大な噴火をしていることは明白な事実です。これは有史以降最大級の噴火で、古代都市ポンペイを滅ぼしたとして知られるヴェスビオ火山の噴火と比べても同じかそれ以上の噴火規模と見積もられています。しかし、10世紀といえば中国は五代中国期、朝鮮は高麗が国家としてあり、史実を記録する文化があったにも関わらず、噴火の時期や推移についての記述を一切見つけることができないのです。

■ なぜ、白頭山の10世紀巨大噴火は文献資料に残されなかったのでしょうか?
                     鶴園 裕「高麗・朝鮮から見た渤海・白頭山への関心」より

この10世紀の中国では,唐(618-907)末を経て、五代十国の変動期、すなわち、後唐(923-936)や南唐(937-975)と呼ばれる地方政権乱立の混乱期にありました。また、東北アジアでは、渤海(698-926)が滅び契丹(遼)(916-1125)が興り、東丹国が成立するという変動期にあったと考えられてます。この時期、白頭山に最も近い地域を領域支配していた国家は、契丹族が建国した遼です。しかし、契丹文字で記録された資料は少ない上に、未解読文字も多いのです。しかも、一部の漢文資料は正史の形で残されているものの、その後の女真族による金やモンゴル族による元の支配によって、10世紀当時の資料は隠滅され、あまり残されていません。

この時期、この地域で比較的安定した国家としては、新羅王国末期の後三国時代の混乱を制して朝鮮半島の中部地方を中心に成立した高麗(935-1392)ですが、10世紀初めのこの時期には東北アジアとの国境線はあいまいで、現在の中国・朝鮮の国境線よりもさらに南が高麗の支配地域でした。それゆえにこそ、先の高麗成宗10(991)年の記事では、前後の脈絡もなく女真族支配に関する一行のみが記載されています。言葉を変えて言えば、この時期、白頭山への関心は存在するものの、実効的な支配は行われていなかったと考えられます。10世紀の白頭山が大爆発を起こしたとされるこの時期には、「正史」に記録を残せるような安定した王国や政権が中国側には存在せず、仮にそのような記録が残されたとしても、文献資料としては残りにくい環境にあったようです。いわば文献資料的には東北アジアの10世紀は、ある種の資料的な空白期となっています。

画像をクリックすると大きな画像で見ることができます

10世紀噴火の前後における白頭山周辺地域の王朝変遷史

10世紀噴火の前後における白頭山周辺地域の王朝変遷史

書経 角川文庫

  角川文庫の中国古典ものは初心者向けがかなり出ているが推薦できるのはこれだけだ。 昭和という元号の語源が最初に出てくるのもいい。 『天学伝概』という近世の文書があってそれは書経における上帝の使用例の引用が幾つか載っている。 引用元を探していたが全部ではないが本書で概要をカバーで...