2024年5月31日金曜日

⑥葛城氏と蘇我氏が真の主役だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

葛城氏と蘇我氏が真の主役だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

葛城氏と蘇我氏が真の主役だった

葛城氏は、武烈天皇までの応神天皇の子孫の天皇達の外戚として力を振るった(参考)。天皇らは大阪の河内平野を開拓し、都をつくり、陵墓を建設したので河内王朝とも呼ばれている。しかし、葛城氏自体は大和盆地の西側、葛城地域を根拠地としている。


武烈天皇の跡を継ぐ継体天皇以降、孝徳天皇以前も大和盆地には陵墓を建設しなかったが、外戚として力を振るった蘇我氏は大和盆地の明日香地域を根拠地とし、力を振るい、自身の墓も同地に建設した(参考)。


葛城氏と蘇我氏は武内宿禰を祖とする同族(参考)で、葛城氏の後を蘇我氏が継いだが、大和盆地の西部(葛城地域)から南部(明日香地域)を継続して根拠地としていたことになる。すなわち、天皇家は河内平野を転々として、蘇我蝦夷、入鹿親子を殺した乙巳の変(645年)以降にやっと大和盆地に入ることが出来た。


応神天皇と神功皇后の大和帰還も海人族安曇氏の東征神話(参考)であり、海人族安曇氏(武内宿禰)の末裔である葛城氏と蘇我氏が真の主役で、真っ先に大和盆地に定住し、現天皇家の祖先は河内平野から大和盆地に入れなかったと考えると腑に落ちる。

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大和盆地、西部に葛城地域、南東部に明日香地域

追加

大和盆地東部の纒向から柳本あたり、そして大和盆地北部(奈良市北部)の古墳群の主人達、すなわち応神天皇以前の天皇達の妻達も海人族安曇氏の女子であり(参考)、大和盆地は蘇我氏、葛城氏そして彼等の祖先の地域であった。

参考


① 古墳からみた古代豪族葛城氏(コピー元)


大阪府立近つ飛鳥博物館館長で、歴博名誉教授の白石太一郎先生のご指導の下で、5世紀前後、幾世代にも渡った大王家の外戚として知られている葛城氏を古墳考古学から再考し地域首長連合としての古代豪族を考える機会がありました。先生から教わった議論の要旨を以下にまとめておきます(内容その他、全て私の理解で、もし間違い等があっても、一切は私の責任です)。

1 大王家と葛城氏の関係と同祖系譜

葛城氏の始祖は、百済記にも記載あることもあり、実在の可能性が大きい「葛城襲津彦」と云われている。その娘の磐之媛が仁徳に嫁し、息子に葦田宿禰がいる(葦田は葛城の北部地域を指す)。そして襲津彦の孫に玉田宿禰がいる(玉田は葛城の南部地域を指す)。葦田宿禰の娘が履中に嫁し、その孫のはえ媛が雄略に殺されることになる市辺押羽皇子に嫁し、その息子が仁賢となる。大王の男子継承が確かになった頃に、継続して外戚としての位置を固めていたのが葛城氏だったと理解してよい。

実在は疑わしいが、孝元天皇の息子とされる建内宿禰系図(古事記による)には、波多八代宿禰、許勢小柄宿禰、蘇賀石河宿禰、平群都久宿禰、木角宿禰らと共に葛城長江曽都毘古が兄弟となっている。少なくとも、これは古代豪族は共通祖先を有するという思想があったことを如実に語っている。だから豪族同士、ある種の政治的同盟を結ぶことができた証しとも考えられる。

2 葛城氏の本拠地域

葛城氏の本拠とされる葛城地方は、先に述べた文献資料にある「葦田」や「玉田」を考慮し、馬見古墳群のある広瀬郡、葛下郡(葛城北部地域)、忍海郡や葛下郡(葛城南部地域で、室宮山古墳等がある)と考えられる。即ち奈良盆地の西方を占めている。大王を出した大和・柳下古墳群のある山辺郡、式下郡、式上郡、十市郡は奈良盆地の東方を占め、丁度対象の位置関係にある(中間の見瀬丸山古墳のある高市郡の高取川辺りが丁度境界となる)。

3 葛城地域のおける古墳の分布と編年からの考察

大型の前方後円墳が設営された古墳時代前期から中期にかけて、大王の墓は、おおまかに当初の柳下古墳群から離れ、河内地方の古市古墳群と和泉地方の百舌鳥古墳群を行き来し、後期に大和の五条野丸山古墳に戻ることになる。この3世紀中から6世紀の中で、摂津地方の三島野古墳群の太田茶臼山古墳は別として、今城塚古墳を継体稜と考えると、明らかに大王でない大型前方後円墳の造営は、馬見古墳群、即ち葛城地域に限られ、古墳時代前期中葉から中期にかけて継続している。

葛城地域に存在する200m前後の大型古墳を埴輪の編年に当てはめて、地域別にたどると次のようになっている。

埴輪1期:馬見南の新山古墳(唯一の前方後方墳)→
埴輪2期:馬見北の島の山古墳→馬見中の巣山古墳→馬見南の築山古墳(編年根拠が若干弱いものの)→
埴輪3期:室・国見山の室宮山古墳→馬見中の新木山古墳→
埴輪4期:馬見北の川合大塚山古墳→室・国見山の鑵子塚古墳→新庄の屋敷山古墳→
埴輪5期:馬見南の狐井城山古墳(古墳時代後期の古墳で奈良盆地内では4番目の大きさであることから大王墓の可能性が高い)

つまり葛城地域を転々として設営されており、同時期に同じ群内では連続することなく交替して造営されていることが明白である。

4 古墳考古学からの考察

葛城地域には、馬見北、馬見中、馬見南、新庄、室・国見山を本拠として、5つの有力な政治集団が存在した。それらが政治的連合を形作り、そのリーダの位置には交替して就いていた。即ち、葛城氏とは政治連合体であったと考えるのが自然である。先に述べた古代豪族間の同祖同族の意識がこれら政治集団の間にもあったと考えられる。

参考1)初期ヤマト王権

大王墓と見られている大型の前方後円墳のおおまかな編年を見ると次のような移動が見られる。箸中古墳群の箸墓古墳→大和古墳群の西殿塚古墳→鳥見山古墳群の外山茶臼山古墳→メスリ山古墳→柳下古墳群の行燈山古墳→渋谷向山古墳。


つまり4つの有力な政治集団が大王の位置に交替して就いていたと考えられる。それに続く時代の葛城氏が同様の仕組みで政治的連合を図っていたとしても不思議ではない。


参考2)室宮山古墳


本テーマを議論するにあたり、葛城地方の古墳の概要を個々に確認していったが、とても興味を抱かされるのが室宮山古墳である。90年に盗掘を受けており現状で分かっている特徴例を述べる。①後円部に竪穴式石室があり追葬されているようである。また前方部にも埋葬施設があったらしい。②石室天上石には播磨の石が使われており、③伽耶製の舟形陶質土器が出、朝鮮半島との繋がりが推測される。


この古墳は、もともと建内宿禰の墓(室大墓)との言い伝えがあり、応神天皇と同世代である葛城氏の始祖たる朝鮮半島とも繋がりがある葛城襲津彦の墓の可能性が大きい(建内宿禰が応神天皇の時代に帰化人を使って韓人池を造営した言い伝えもある)。


では石室に合葬された同格の埋葬者は誰だろうか。かつてのように聖俗合葬の可能性もあるが、5世紀には例がほとんどないとの由。白石先生は、磐之媛が追葬された可能性を示唆された。つまり当時、夫婦合葬の習慣は無いので仁徳稜には葬られないことから、郷の父の墓に合葬されたのではないかと考えられた。直接の証拠が出る訳ではなが、極めて自然な考え方と率直に受け入れられる。



② 筑紫君磐井、葛子親子は葛城氏と同族か?!(参考)

③ 現天皇家や藤原氏の末裔は蘇我氏の女系子孫(参考)

④ 現天皇のルーツである応神天皇の一族、秦氏は葛城氏と平群氏によって日本列島に渡来した(参考)

⑤ サモアの女系社会(参考)

⑥ 平群氏も天皇を凌ぐ勢力を持って瀬戸内海を航行したと思われる(参考)

⑤ヤマト民族のご先祖様、太公望、呉の太伯、秦の始皇帝 | 日本の歴史と日本人のルーツ

ヤマト民族のご先祖様、太公望、呉の太伯、秦の始皇帝 | 日本の歴史と日本人のルーツ

ヤマト民族のご先祖様、太公望、呉の太伯、秦の始皇帝

ヤマト民族の大陸でのルーツは太公望、呉の太伯、秦の始皇帝に遡るようだ!

太公望は斉系弥生人(D2)、呉の太伯は呉系弥生人(O2b)、越系弥生人(O2a)は呉系弥生人(O2b)とルーツは一緒で居住地域がほぼ同じ会稽あたりで呉越同舟と例えられた(参考)。さらに、日本に最後に渡来した秦氏(参考)、百済人(参考)そして高句麗人(参考)は秦の始皇帝(D2)の末裔だった。


日本列島の地元民の縄文人(D2)や海人族(C1)も(参考)、もちろんご先祖様であり、多民族国家であることは言うまでもない。


参考

① 太公望

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② 呉の太伯

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③ 秦の始皇帝

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三代実録によると、秦の始皇帝の11代孫功満王が穴門豊浦宮に渡来して蚕の卵を手土産にして定住した(wikiより)。

④ 越の始祖、無余は夏王朝の末裔、呉と同族

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④秦氏、土師氏、応神天皇、忌宮神社、宇佐八幡宮 | 日本の歴史と日本人のルーツ

秦氏、土師氏、応神天皇、忌宮神社、宇佐八幡宮 | 日本の歴史と日本人のルーツ

秦氏、土師氏、応神天皇、忌宮神社、宇佐八幡宮

日本書紀によれば、応神天皇やお子の仁徳天皇の時代に、秦氏が大挙して渡来している。日本で二位、一位の巨大な応神天皇陵や仁徳天皇陵も秦氏の土木技術の粋をあつめて造営されたと云われ、河内国の百舌鳥古墳群・古市古墳群一帯に本拠地をおく土師氏は実は秦氏と同一であった。


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応神天皇稜


即ち、応神天皇と神功皇后が東征された時に出発地の穴門国の豊浦宮(現在の忌宮神社)付近に滞在していた秦氏が住吉大神などと一緒に伴って移動し、一部の者が河内国に住み着いて土師氏と名乗り、東征にご一緒しなかった秦氏が長門国、周防国、豊前国で勢力を成し、応神天皇を主祭神とした宇佐八幡宮を建立し、また一部が土師氏を名乗った。後に土師氏は、大和国を中心に菅原氏、大江氏、秋篠氏にグループ化されたと考えて差し支え無い。

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宇佐八幡宮

そうすれば、後世、菅原道真公が左遷された昌泰4年(901年)頃、防長二州が菅原氏、土師氏に支配され、日本で初めて唯一の鋳銭所を経営出来たことが容易に理解できる。



参考



秦氏とは?


『隋書』倭人伝で、608年、小野妹子は隋使・裴世清を伴い、帰国した。裴世清は、筑紫より東に中国人が住むという「秦王国」があることを知らされる。「秦王国」とは、渡来帰化人の秦氏が多く住んだ豊前(豊国の北部、北九州から大分北部、京都郡や宇佐市が中心か?)と防長二州の地のことである。秦氏は、秦の始皇帝の流れを汲む氏族で朝鮮経由で日本に渡来した、と自称していた。畑作とは「秦作」であり、秦氏が畑作の最新技術を広めたという。また、鍛冶や鋳造技術に優れ、養蚕や機(ハタ)織りに長け。八幡信仰、稲荷信仰を広めた。さらに多数で渡来し、豊前、長門国、周防国に留まらず、河内国、大和国、山背国南部(例えば、太秦:うずまさ)など全国に拡がった。


神名「八幡」は「はちまん」ではなく「やはた」が古名であり、多数の幡を立てて祭る神であるが、現在の宇佐八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后、宗像三女神である。全国の八幡宮も主祭人は応神天皇である。


下関の幡生、北九州の戸畑、八幡など神功皇后の三韓征伐伝説に由来した有名な地名であるが、同時に秦氏のハタとの関連が伺える。


長府、忌宮神社「蚕種渡来之地」記念碑

いまから約1800年のむかし中国より秦の始皇11世の子孫功満(こま)王が来朝帰化し、ここ豊浦宮にご滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を献上したのが、わが国養蚕の始まりと伝えられる。


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蚕種渡来之地記念碑


忌宮神社の中に境内社として八坂神社があるが、八幡神社と共に渡来系氏族の秦氏の神社といわれている。現在、菅原道真公はこの八坂神社に祀られています。菅原氏は土師氏の一族であるが、さらに秦氏の末裔であるからであろう。


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八坂神社

また、長府藩主11代毛利元義が建立した荒熊稲荷神社も忌宮神社の境内社としてあるが、稲荷神社も秦氏の神社である。面白いことに秋の例大祭の奉納行事として相撲大会が行われ、昔から長府の三日相撲として有名であった。ここにも渡来系氏族の秦氏と相撲の元祖、野見宿禰の子孫、土師氏、毛利氏の関連が伺える。


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荒熊稲荷神社


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奉納相撲

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忌宮神社拝殿


奈良の東大寺と大仏は聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始されたが、宇佐八幡宮から「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」という協力の託宣を出した。銅は長門国の長登銅山産を使用した。また、平安時代末期、東大寺が消失した際、その再建にあたっては周防国が御造料地と定められた。重源上人は文治元年(1185)に大仏を改鋳され、ついで大仏殿の再建に着手した。


神功皇后、応神天皇時代の秦氏のみならず、多くの民族が日本に渡来したようで、古くは紀元前3000年より古くからあったようで、シュメール人のペテログラフが下関で発見された。

最古の天満宮である防府天満宮は土師氏の氏神であり、天神山麓に食い込む境内を持ち、土師氏は実は秦氏であることを物語っている。道明寺天満宮は元は土師寺であるが、応神天皇陵を拝むためか平地に鎮座している。


宇佐神宮が宇佐に創建された理由についての検討

出雲は国譲りの後の為政者の天穂日命の子孫が出雲氏と土師氏と名乗っており、秦氏の一部は出雲経由で畿内に進出した。

秦の始皇帝は秦氏のルーツで埴輪を殉葬していた。

応神天皇になって河内平野(大阪)に進出して、大阪湾岸あたりを条里制地割の農地を開発して行った(参考)。

③秦氏の由来 | 日本の歴史と日本人のルーツ

秦氏の由来 | 日本の歴史と日本人のルーツ

秦氏の由来

日本に渡来してきた秦氏の由来を調べている。秦の始皇帝が春秋戦国時代を勝ち抜いて、最後に斉を滅ぼして統一中国を作った。滅ぼされた斉は日本の土井ヶ浜に渡来して斉系弥生人となった。また秦も追うように滅びた。


秦の根拠地は甘粛省であったが、どうも、彼らも白人と同じDNAをもって西から移動して来たようだ!秦の始皇帝が作った秦の国はアケメネス朝ペルシアの制度を導入した。


日本に渡来する秦氏については、この秦の始皇帝の末裔と、斉の同族の羌族が作った後秦の末裔説が考えられる。実は、前者と後者は同族で、もともと斉系弥生人と同一であった。


エルサレムの陥落、後漢の滅亡で、東方に押し出されて日本に逃れたユダヤ人の群が秦氏の渡来に混じっていた可能性を指摘したい。ただし、彼らを遺伝子レベルで追跡出来ないであろう(参考)。

日本列島への最後の渡来人、すなわち660年に滅亡した百済の遺民達が秦の末裔であった(参考)



参考



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② 現在の甘粛省の住民は白人のDNAをもっている。少なくとも、古代ローマの軍団の渡来時期までは遡れる。さらに古い可能性がある(引用)。

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③  秦の始皇帝はアケメネス朝ペルシアの制度を秦に導入した(引用)


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④ 秦の始皇帝の陵墓の副葬墓から白人系のペルシャ人男性のDNAを持つ人骨が出土した。

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秦氏はもともと現在の甘粛省あたりの一部族であったが、隣国の晋の文公の即位を援助し、さらに周王室の乱を晋とともに収めるなどの功績を上げるなどして勢力を伸ばしていった。


始皇帝の6代前の孝公の時、商鞅という有能な人物が現れ、孝公は彼を採用した。これを商鞅の変法と言う。民間の組織、軍隊の組織を明確に取り決め、信賞必罰を確立させた。それにより、富国強兵が図られ、戦国七雄のひとつとなった。


その後は連戦連勝を重ね、政局は秦対六国という形になり、六国は合従して秦に共同であたろうとしたが、説客・張儀が各国を めぐり、連衡策によって合従を破綻させた。このころ秦王政が即位、六国を併合し、B.C.221々天下を統一、中国初の統一王朝が誕生し、政は始皇帝と称した。

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東部が秦の始皇帝時代の秦、西部は異民族の羌(チャン、秦国に滅ぼされた斉国と同族、春秋戦国時代を支配した秦と斉が仲良く渡来して邪馬臺国となった)


始皇帝は文字や度量衡、貨幣の統一を実施し、協力な中央集権政策を採った。また、六国の長城を繋ぎ合わせて万里の長城を建築し、思想規制のために焚書坑儒を行った。


B.C.210年始皇帝が崩御すると、宦官の趙高によって、長子扶蘇が自殺に追い込まれ、公子・胡亥を二代皇帝として擁立、自らが権力を握り政敵を滅ぼした


B.C.209年には東方の大沢郷で陳勝呉広の乱が起こり、二世皇帝から非難された趙高は二世皇帝を自殺させてしまう。


次いで二世皇帝の甥に当たる公子嬰を三世皇帝として即位させた。しかし公子嬰は趙高の謀略を知り、これを殺害、即位46日にして、反乱軍の一派劉邦に降伏し、受入れられた。


しかし1ヵ月後に項羽によって秦の皇族と共に処刑され、都には火が付けられ、その火は3ヶ月間燃え続けた、と言う逸話が残っている。



⑥ 秦の始皇帝自身が白人の特徴を持っていた。


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⑦ 秦と覇を競った斉は秦の始皇帝時代のライバルの異民族の羌(チャン)と同一民族で、日本の弥生時代に渡来して斉系弥生人になった(参考)。斉の遺民の渡来を追うように秦氏が日本に渡来してくる。

⑧ 日本に渡来した秦氏の由来をwikiから引用、どの説も正しく、複数の異なる時代のグループがあると考えた方が辻褄が合う。


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⑨ 秦の始皇帝の末裔説、羌族の末裔説などが考えられる。


秦、羌(斉)はともにチベット系遊牧民の範疇であり、同族とみなしても良く、ともに古い民族でY-DNA遺伝子「D2」をもっている(参考)。

また、羌(キョウ=タングート)が西暦384年、後秦を建国し、33年後に後秦が滅亡(417年)したが、その新羅へ逃亡した民の末裔が秦氏一族であるという説なら、既に渡来していた斉系弥生人と同一民族となる(参考)。

11 中国の西域に弓月国をみつけた、新疆ウイグル自治区あたりにあり、東に移動し、朝鮮半島経由で渡来した!中国の弓月国にナラ、ヤマトがあった!秦氏のなかでも複数グループがあり、その一つ西方の弓月君グループと考えられる!弓月の朝鮮語での音訓が百済と言う説もある!すなわち、後年の西暦663年の白村江の敗戦後の百済遺民の引き受けも実は、弓月君グループの秦氏を助けたことになる!

13 秦の始皇帝は埴輪を殉葬していた。野見宿禰が初めてでは無かった!

14 北九州の宗像あたりから、山陰沿岸に上陸した(参考)

15 日本人の大陸でのルーツは太公望、呉の太伯、秦の始皇帝(参考)

16 海人族安曇氏の一族の紀氏や葛城氏の出身の武内宿禰や神功皇后が渡来を助けた(参考)

②秦氏の王、弓月の君の出身地である弓月国をさがした | 日本の歴史と日本人のルーツ

秦氏の王、弓月の君の出身地である弓月国をさがした | 日本の歴史と日本人のルーツ

秦氏の王、弓月の君の出身地である弓月国をさがした

日本書記の第14代「仲哀ちゅうあい天皇」の第8年に,弓月ゆづき国の巧満こうまん王が,日本の朝廷を公式訪問し、養蚕の蚕の種を献上したとある。現在、4世紀後半に当たると見ているる。応神天皇14年に弓月の君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。


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蚕種渡来の碑、忌宮神社、長府


日本に渡って来た弓月の君が元々居住した弓月国の場所を探してみた。現在の新彊ウイグル自治区の中にグーグルマップで検索した。この国から東方に移動し、朝鮮半島の任那から日本に渡来した。弓月国についての記述は、中国史書、資治通鑑にのっているとか。

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弓月国の位置探索

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弓月国の中心


ラビ・M・トケイヤー氏によれば,その位置は,「現在のアラル海とアフガニスタンの間」と言う。正確には,現在の中国とカザフスタンの国境付近で,都自体は,現在の「中国」(中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区)北西部の伊寧(いねい)にあった。古代の弓月城は厳密には東の霍城との間にあると言われるらしいが、現在地の弓月城の境内の形状が日本の神社の境内に良く似ている。


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伊寧市街


伊寧市、グルジャ市は、中央アジアの中央部のイリ地方の中心にある市。現在中華人民共和国が統治しており、新彊ウイグル自治区イリ・カザフ自治州に所属する県級市である。中国語での正式名称は伊寧市(イーニンし)。ウイグル語での名称はグルジャ。カザフ族やモンゴル族などの間でもグルジャと呼称されることがある。クルジャとも表記される。また、イリ地方の中心でもあるため、話し言葉でイリと呼称されることも多い。



参考



弓月、すなわち三日月はユダヤ人の象徴であった。ちなみに、現在のイスラムの象徴は三日月と星である。三日月は発展を意味するとか。



秦氏、キリスト教徒説






資治通鑑【しじつがん】、中国の史書。宋の司馬光の編著。本文294巻。英宗の援助を得て,1066年―1084年に完成。前403年(戦国時代)から959年(五代末)の史実を編年体で記す。史料は正史のほか実録から小説まで322種の書を参考にしている。(参考)







弓月の君
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記された。



全国に15万とも20万あるとも言われる古墳であるが、ここから出土する土器は殆どが須恵器である。高坏、器台、装飾壺、あるいはそれらの複合土器であり、全国どこへ行っても同じような須恵器が古墳に副葬されている。どうしてここまでそっくりなんだと思える土器が、主に6-7世紀の西日本の古墳を中心に出土している。また昨年、「加羅・新羅の旅」と称して韓国南西部を旅した時に見た古墳の須恵器は、全く日本の古墳から出土したものと同じであった。(歴史倶楽部HP、「日本人の源流を求めて」のコーナー参照。)これらの事実は、「須恵器=渡来人=古墳築造=・・」という図式を思い浮かばせる。・・の部分は人により色々であろう。「製鉄」であったり「機織り」であったり、或いは「騎馬民族」「天皇」であるかもしれない。出土する須恵器のなかには、明らかに中央アジアの遊牧の民に源流をもつと思われる須恵器、皮袋形器や角杯形などがある。江上波夫博士が古墳築造の民を「騎馬民族」と想定したのもうなずける。(引用)

①秦氏の王、弓月の君の出身地である弓月国をさがした | 日本の歴史と日本人のルーツ

秦氏の王、弓月の君の出身地である弓月国をさがした | 日本の歴史と日本人のルーツ

秦氏の王、弓月の君の出身地である弓月国をさがした

日本書記の第14代「仲哀ちゅうあい天皇」の第8年に,弓月ゆづき国の巧満こうまん王が,日本の朝廷を公式訪問し、養蚕の蚕の種を献上したとある。現在、4世紀後半に当たると見ているる。応神天皇14年に弓月の君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。


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蚕種渡来の碑、忌宮神社、長府


日本に渡って来た弓月の君が元々居住した弓月国の場所を探してみた。現在の新彊ウイグル自治区の中にグーグルマップで検索した。この国から東方に移動し、朝鮮半島の任那から日本に渡来した。弓月国についての記述は、中国史書、資治通鑑にのっているとか。

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弓月国の位置探索

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弓月国の中心


ラビ・M・トケイヤー氏によれば,その位置は,「現在のアラル海とアフガニスタンの間」と言う。正確には,現在の中国とカザフスタンの国境付近で,都自体は,現在の「中国」(中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区)北西部の伊寧(いねい)にあった。古代の弓月城は厳密には東の霍城との間にあると言われるらしいが、現在地の弓月城の境内の形状が日本の神社の境内に良く似ている。


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伊寧市街


伊寧市、グルジャ市は、中央アジアの中央部のイリ地方の中心にある市。現在中華人民共和国が統治しており、新彊ウイグル自治区イリ・カザフ自治州に所属する県級市である。中国語での正式名称は伊寧市(イーニンし)。ウイグル語での名称はグルジャ。カザフ族やモンゴル族などの間でもグルジャと呼称されることがある。クルジャとも表記される。また、イリ地方の中心でもあるため、話し言葉でイリと呼称されることも多い。



参考



弓月、すなわち三日月はユダヤ人の象徴であった。ちなみに、現在のイスラムの象徴は三日月と星である。三日月は発展を意味するとか。



秦氏、キリスト教徒説






資治通鑑【しじつがん】、中国の史書。宋の司馬光の編著。本文294巻。英宗の援助を得て,1066年―1084年に完成。前403年(戦国時代)から959年(五代末)の史実を編年体で記す。史料は正史のほか実録から小説まで322種の書を参考にしている。(参考)







弓月の君
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記された。



全国に15万とも20万あるとも言われる古墳であるが、ここから出土する土器は殆どが須恵器である。高坏、器台、装飾壺、あるいはそれらの複合土器であり、全国どこへ行っても同じような須恵器が古墳に副葬されている。どうしてここまでそっくりなんだと思える土器が、主に6-7世紀の西日本の古墳を中心に出土している。また昨年、「加羅・新羅の旅」と称して韓国南西部を旅した時に見た古墳の須恵器は、全く日本の古墳から出土したものと同じであった。(歴史倶楽部HP、「日本人の源流を求めて」のコーナー参照。)これらの事実は、「須恵器=渡来人=古墳築造=・・」という図式を思い浮かばせる。・・の部分は人により色々であろう。「製鉄」であったり「機織り」であったり、或いは「騎馬民族」「天皇」であるかもしれない。出土する須恵器のなかには、明らかに中央アジアの遊牧の民に源流をもつと思われる須恵器、皮袋形器や角杯形などがある。江上波夫博士が古墳築造の民を「騎馬民族」と想定したのもうなずける。(引用)

秦氏は海人族安曇氏によって渡来して来た | 日本の歴史と日本人のルーツ リンク

秦氏は海人族安曇氏によって渡来して来た | 日本の歴史と日本人のルーツ

秦氏は海人族安曇氏によって渡来して来た

秦の始皇帝の末裔達、すなわち秦氏を日本に渡来させたのは、海人族安曇氏の長、武内宿禰の子孫達、すなわち葛城氏の祖、葛城襲津彦と平群氏の祖、平群木菟宿禰であった。さらに、葛城氏の後を蘇我氏が継いだ。


参考


① 秦氏について

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② 弓月の君、融通王の親の功満王は仲哀天皇に穴門の豊浦宮で面会して蚕種を献上した(参考)

③ 秦氏の由来(参考)

④ 秦氏の長が応神天皇(参考)

⑤ 秦氏のルーツは秦の始皇帝(参考)

⑥ 葛城氏と後を継いだ蘇我氏が主役であった(参考)

⑦ 葛城氏、平群氏、蘇我氏は大和盆地に居住したが、応神天皇と秦氏は大和盆地の外の河内平野を開拓した(参考)

書経 角川文庫

  角川文庫の中国古典ものは初心者向けがかなり出ているが推薦できるのはこれだけだ。 昭和という元号の語源が最初に出てくるのもいい。 『天学伝概』という近世の文書があってそれは書経における上帝の使用例の引用が幾つか載っている。 引用元を探していたが全部ではないが本書で概要をカバーで...