阿讃は倭王権の「共同創業者」だった——野島永と村瀬陸、二人の考古学者の論理をつなぐ
阿讃は倭王権の「共同創業者」だった——野島永と村瀬陸、二人の考古学者の論理をつなぐ
はじめに——結論を先に
倭王権は、奈良盆地だけで生まれたのではありません。生まれる過程で、阿波・讃岐(いまの徳島県・香川県、以下「阿讃」)の首長たちが重要な役割を果たしました。
この記事では、そのことを二人の考古学者の研究をつないで示します。
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野島永(広島大学):手工業生産・朱(しゅ)と墓の研究から、「瀬戸内海東部の首長たちが卑弥呼を共立し、纒向の政権づくりに参加した」という見通しを示した。
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村瀬陸(奈良市の学芸員):銅鏡の研究から、「阿讃の首長は、奈良の王権を通さずに中国の鏡を手に入れていた」ことを示した(2014年の論文、2026年の講演)。
二人が見ているものは違います。野島は朱と墓、村瀬は鏡です。証拠の種類(カテゴリー)が違う二本の線が、同じ一点で交わります。そこがこの記事の要点です。
なお、二人とも、後の倭王権の中心は奈良盆地にあったと考えています。邪馬台国については扱いが違い、野島は「奈良盆地東南部の邪馬台国政権」と明記していますが、村瀬は邪馬台国の所在地を明言していません。この記事が言うのも「阿讃が都だった」ではありません。野島自身の言葉を借りれば、阿讃を含む瀬戸内海東部の首長たちは「連合政権の主要メンバー」だった、ということです。この違いは最後にもう一度確認します。
記事中の【確実】【有力】【推測】は、根拠の強さの目安です。 【確実】=原文・報告書で確認できる事実/【有力】=研究者の解釈として根拠が厚い/【推測】=筋は通るが決め手がない
1. 舞台:卑弥呼の時代の西日本
中国の歴史書『魏志』倭人伝は、倭国(日本列島)で長い戦乱が続いたあと、諸国が「共に一女子を立てて王とした」と書きます。これが卑弥呼です。卑弥呼は239年に魏へ使いを送り、247年ごろに亡くなったと読まれています【確実:史料の記述として。没年は記事の配置からの読み】。
その後、奈良盆地の東南部、纒向(まきむく)遺跡の一帯に、前方後円形の大きな墓が造られていきます。そのひとつがホケノ山古墳(奈良県桜井市)、そして全長約280mの箸墓古墳です。多くの研究者は、ここを倭王権の出発点とみています【有力:通説として】。
問題は、この新しい王権を、誰が、どんな力で作ったのかです。
2. 野島永の論理——朱と墓から
(1) 「石囲い墓グループ」
野島永2025『弥生墳丘墓と手工業生産』は、弥生時代の終わりごろ、瀬戸内海の東部に、よく似た墓を作る首長たちのまとまりがあったと指摘します。
棺を納めた木の部屋(木槨)のまわりを、石で囲う墓です。野島はこれを「石囲い墓グループ」と呼び、範囲を安芸・吉備・讃岐・阿波・播磨とします(p.221)。石囲い墓を最初に作り出したのは吉備だ、とも書きます(p.220)【確実:記述として】。
(2) 朱の生産の中心は阿波
このグループの分布は、辰砂(しんしゃ)の採掘と、そこから作る赤い顔料「水銀朱」の生産地を取り囲んでいる、と野島は書きます(p.221)。朱は、王の墓の棺に大量に使われる、当時もっとも価値の高い品のひとつでした。
その中心は阿波でした。野島は「徳島県若杉山遺跡を中心に辰砂の採掘と水銀朱の生産が活発化した」とし、朱は「阿波地域から讃岐地域へともたらされて瀬戸内海北岸へと流通した」と書きます(p.221)【確実:記述として】。
さらに野島は、奈良盆地のホケノ山古墳や前期の大型古墳から出る大量の国産の朱について、「最大の供給地は若杉山遺跡であったのであろう」とし、次のように書きます(pp.221–222)。
阿波地域における辰砂採掘と水銀朱の生産管理、瀬戸内海東部地域を経由した水銀朱の供給がなければ、これほど大量の日本列島産の水銀朱を調達することは不可能であったと思える。
そして、阿波での辰砂の増産を、中国王朝との関係を目論んだ邪馬台国政権の対外政策の一環とみた場合、石囲い墓の被葬者たちは「それを画策した連合政権の主要メンバーでもあったのではないか」とみます(p.221)【推測:野島の見通しとして】。
(3) 墓の形がホケノ山へ
野島は、阿波の萩原1号墓(鳴門市)について、木槨を石で囲う構造が「後述するホケノ山古墳にも直接的な影響を与えたと思われる」と書き、萩原1号墓を「終末期新相、最終段階となる墳丘墓」と位置づけます(p.196)。そして、石囲い木槨墓の最終形態がホケノ山古墳の埋葬施設だとし(p.208)、ホケノ山を「瀬戸内海東部、石囲い墓グループの末裔」で、同時に「初期前方後円墳グループの嚆矢」と位置づけます(p.210)【確実:記述として】。
つまり、倭王権の最初期の大型墳墓の「中身」は、阿讃を含む瀬戸内海東部の墓づくりの延長にある、ということです。なお野島は、ホケノ山の被葬者を「政権中核を担う重臣レベル」とみています(p.234)。
(4) 卑弥呼を「共立」したのは誰か
ここで野島は一歩踏み込みます。「共立」という言葉からすると、卑弥呼を推した人物は複数いたはずだとし、
想像を逞しくすれば、この複数の重要人物たちは瀬戸内海東部地域の石囲い墓の被葬者たちであったのではなかろうか。(p.223)
と書きます。時期は「終末期古相段階、遼東に台頭してきた公孫氏政権との政治的関係を築くため」とします。さらに、このグループが奈良盆地東南部の邪馬台国政権の成長に深く関与し、「画文帯神獣鏡の入手、あるいはその授受分配にもかかわった」可能性にも触れ(「想像するならば」付き)、纒向型前方後円墳の造営にも参画していた、とみます(p.223)。
なぜ公孫氏が出てくるのか:公孫氏は、189年に遼東太守となった公孫度に始まる勢力で、建安年間(196〜220年)に楽浪郡の南部を分けて帯方郡を置きました。『三国志』の韓伝は、その後「倭と韓は遂に帯方に属した」と書きます。238年に魏に滅ぼされるまで、倭が大陸とつながる窓口は公孫氏が握っていました。卑弥呼が魏へ使いを送ったのは、その翌年の239年です。
注意:野島自身が「想像を逞しくすれば」と断っています。これは野島の仮説であり、証明ではありません【推測:野島自身の位置づけとして】。
3. 村瀬陸の論理——鏡から
(1) 「中国鏡は奈良から配られた」という見方
古墳時代の研究では、中国鏡は奈良の王権がまとめて入手し、各地の首長に配った、という見方が有力でした(岡村秀典、福永伸哉など)。画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)という鏡も、王権中枢から配られたとする見解があります(福永2005)。
野島はこの点を二段で書きます。まず、石囲い墓グループの首長たちは、漢鏡7期の第1・2段階にもたらされた画文帯神獣鏡を「入手していた」。そのうえで、「漢鏡7期第2段階となる終末期以降」、政権中枢が画文帯神獣鏡を瀬戸内海東部の首長に配り始めた「とされる」(岡村1999・下垣2022による)と書きます(p.222)【確実:記述として】。
(2) 萩原1号墓の鏡は、奈良を通っていない——2014年の論文
村瀬陸は、阿讃の鏡から、この配布の見方に早くから疑問を出していました。2014年の論文「画文帯神獣鏡からみた弥生のおわりと古墳のはじまり」(『季刊考古学』127)です。
この論文で村瀬は、萩原1号墓の鏡を、畿内から分配されたとする根拠のない例とします。また、阿波(萩原1号墓・阿王塚)は画文帯同向式神獣鏡、讃岐(奥14号墳など)は画文帯環状乳神獣鏡と、阿波と讃岐で受け取った鏡の種類が違うことに注目し、これを入手ルートの違いとみます【確実:論文の記述として】。
そのうえで村瀬は、後漢鏡の流通が、布留式古段階(箸墓古墳の完成のころ)を境に、各地が寄港地的に受け取る流通から、畿内に集めてから配る流通へ変わった、と結論します【確実:論文の記述として】。
(3) 2026年の講演で加わったこと
村瀬は2026年11月3日、徳島での講演「四国東部の銅鏡流通と倭王権」で、この論点をあらためて示しました。スライドでは、萩原1号墓について次の三点が挙げられています【確実:講演スライドの記述として】。
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萩原1号墓の画文帯同向式神獣鏡には、朝鮮半島の楽浪(伝大同江面)出土の鏡と同じ型の鏡がある。
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萩原1号墓は3世紀前半で、倭王権を介している時期的余裕が見込めない。
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鏡を割って納める(破砕鏡)のは弥生の墓のやり方で、ホケノ山古墳など倭王権中枢とは異なる。
結論は「萩原1号墓は、倭王権中枢を介さない銅鏡流通を示す」です。2014年の論文と同じ方向です。
(4) 阿讃には、ほかにも同じ例がある(講演から)
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阿王塚墓(阿波、積石塚)と奥14号墳(讃岐、全長32mの前方後円墳)は、画文帯神獣鏡を2面ずつ持っている。スライドが挙げる奈良県以外のほかの例は、椿井大塚山古墳(175m)、西求女塚古墳(98m)、和泉黄金塚古墳(94m)という大きな古墳である。墓の規模に比べて鏡が多い → 王権中枢を介さない入手の可能性。
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丸井古墳(讃岐)の鏡は、国内で唯一の江南系の画文帯環状乳神獣鏡。江南系は大和では今のところ出ていない → 王権を通さない流通ルートが複数あったか。
スライドは、萩原鏡をはじめ6面の画文帯神獣鏡が直接流入したとみて、「後に中枢で重宝される銅鏡を独自入手できるだけの基盤がある」とまとめます【有力:村瀬の解釈として】。
(5) そして、流れが変わる
2014年の論文は、流通が変わる境を布留式古段階に置いていました。講演では、阿讃の古墳に即して、古墳時代前期の中頃〜後半になると、高松茶臼山古墳や岩崎山4号墳に確実に倭王権中枢の影響が認められる、とします。四国東部は「銅鏡流通方法の変化を追うことができる重要な地域」だ、というのが村瀬の位置づけです。
講演の最初のスライドには「倭王権の源流のひとつは阿波にあり」、最後のスライドには「阿波の重要性を正しく評価することが大切」とありました。
4. 二本の線が交わる点
二人をつなぐ要は、野島の本文の中にあります。
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野島:石囲い墓グループの首長たちは、中枢が鏡を配り始める前に、画文帯神獣鏡を「入手していた」(p.222)。そして、のちには鏡の「授受分配にもかかわった」可能性がある(p.223)。
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村瀬:阿讃の画文帯神獣鏡は、後の倭王権の中枢を通らずに入ってきた(2014年の論文、2026年の講演)。
野島は朱と墓の研究者、村瀬は鏡の研究者です。違う種類の証拠を扱う二人が、「阿讃の首長は、早い段階に自分の力で中国の鏡を手に入れていた」という点で同じ方向を向いています。
その「自分の力」とは何か。村瀬のスライドには、独自入手の基盤の候補として「※竪穴式石室などの石工技術、水銀朱などか」という注記がありました。講演では論証されていない「か」付きの見通しですが、野島が描く、朱の生産を握り、石を使う墓づくりの技術を持った首長たちの姿と重なります。
もう一人の証人——菅原康夫1992
萩原墳墓群を発掘した菅原康夫も、1992年の論文「阿波弥生時代終末期社会の特質」で、すでに同じ方向のことを書いていました。吉野川を「物流幹線」とする流通の体系があり(p.571)、「小型丸底鉢をはじめ、弧帯文様・朱・玉など、前方後円墳成立に必要欠くべからざる諸要素にとどまることなく…多彩な物資の供給を東阿波型土器保有集団が担っていたことを暗示する」(p.573)【確実:記述として】。こちらは土器を中心とした研究で、鏡とも朱の分析とも別の種類の証拠です。
5. 野島の並びで読む——三つの段階
野島の本文の記述を、時間の順に並べ直します。
第1段階:共立(弥生時代終末期の古い段階)
野島は卑弥呼の共立を「終末期古相」、公孫氏が遼東に台頭した時期に置き、共立した人々を瀬戸内海東部の石囲い墓の首長たちとみる(p.223)【推測:野島の仮説】。このころ、首長たちは朱の生産と流通を主導し、漢鏡7期第1・2段階(画文帯神獣鏡ほか)を手に入れていた(pp.221–222)。
第2段階:萩原1号墓(終末期の新しい段階)
萩原1号墓は、野島のいう終末期新相の「最終段階」の墓である(p.196)。楽浪の鏡と同じ型の鏡を、倭王権の中枢を介さずに手に入れ、割って納めた(村瀬)。萩原1号墓からは、中国産を示す値の朱も見つかっている(硫黄同位体比+3.10‰)【確実:分析値として】。村瀬は萩原1号墓を3世紀前半とする。
第3段階:ホケノ山古墳と、その後の中枢への組み込み
萩原1号墓の次に、萩原1号墓から「直接的な影響」を受けたホケノ山古墳が来る。魏の鏡を持ち、「西暦240年ごろをさかのぼらない」、魏の冊封の後に造られた墓である(野島 p.210・p.234)。古墳時代前期の中頃からは、阿讃の古墳にも中枢の影響がはっきり現れる(村瀬)。
野島の並びに従えば、萩原1号墓は、卑弥呼が共立された後、魏の冊封の後に造られたホケノ山古墳の直前に位置します。卑弥呼の治世の終わりに、最も近い段階の墓ということになります【この記事の読み】。村瀬のいう「3世紀前半」も、卑弥呼の亡くなった247年ごろを含む幅です。
ひとことで言えば、阿讃は、**倭王権が生まれる前から外とつながる力を持ち、その力と技術を持ち寄ってその誕生に加わった「共同創業者」**だった、ということです。
6. この見方の弱点と、別の読み方
公平のため、この筋書きの弱いところをはっきり書いておきます。
(1) 二人とも、後の倭王権の中心は奈良だと考えている
野島は邪馬台国政権を「奈良盆地東南部」に置き(p.223)、箸墓古墳を「卑弥呼の墓と目される」と書いています(p.234)。
村瀬は、古墳時代前期の「倭王権中枢」を大和に置きます(桜井茶臼山古墳などで鏡を集約)。ただし村瀬は、邪馬台国の所在地を明言していません。村瀬2014は、阿讃を含む四国北東部を、纒向の求心力が高まる中で畿内へ向かう流れの途中にある「寄港地」と位置づけ、古墳時代の始まりを箸墓古墳の完成に結びつけています。二人の論理から言えるのは「阿讃が重要な参加者だった」までで、「阿讃が中心だった」ではありません。
ただし、「寄港地」は受け身の役割とは限りません。野島の描く、朱を生産し対外交易を担う首長たちの姿と重ねれば、寄港地は畿内へ向かう流れを支えた担い手でもあります。この重ね方は、この記事の読みです【推測】。
(2) 年代は「並び」であって「年」ではない
野島の「240年ごろ」は、魏の鏡の破片から出した「ホケノ山はこれより古くはならない」という目安です。築造が240年ちょうどだという意味ではなく、240年ごろ以降のいつか、ということです。箸墓とホケノ山の時期差がほとんどないという記述も、「247年までに卑弥呼の死を想定した場合」という条件付きの文です。萩原1号墓とホケノ山のあいだが何年あったのかを、野島は書いていません。第5章の「卑弥呼の治世の終わりに最も近い」は、この並びからの読みであって、年代の測定値ではありません。萩原1号墓には、理化学的な年代測定がまだありません。また、時期が合うことは、被葬者が誰かを示しません。倭人伝の書く卑弥呼の墓の大きさ(径百余歩)や殉葬の記述との照合も、別の問題として残ります。
(3) 鏡の配り方では、二人の見方が一点だけ食い違う
野島は、漢鏡7期第2段階の終末期以降、中枢が画文帯神獣鏡を配り始めたという見方(岡村・下垣)を引きます。村瀬は、その第2段階の萩原鏡(7期-2)が中枢を通っていないとします。食い違うのは、萩原鏡がどちらの段階に当たるかという一点です。この記事が鏡について村瀬に従うのは、村瀬が画文帯神獣鏡の生産と流通を専門に研究し、萩原鏡そのものを調べているからです。ただし、萩原鏡と楽浪の鏡が「同型」であることは1990年代から知られていた指摘で、「同型」か「同笵」かもまだ決着していません。「中枢を支える首長が、いち早く手に入れた」という読み方(森岡秀人2011など)も残ります。物証だけでは、二つの読み方を区別しきれません。
(4) 朱の供給地を、分析で確かめたわけではない
野島は大和の大型古墳の朱の「最大の供給地は若杉山遺跡であったのであろう」と書きますが、これは見通しです。硫黄同位体比では、阿波の水井鉱山と奈良の大和水銀鉱山の朱を区別できないという分析結果があります(南ほか2013)。野島自身も、終末期以降には大和水銀鉱山などの開発も手掛けた可能性が高いと書いています(p.222)。また、萩原1号墓・2号墓の中国産を示す朱は、「近畿ではすでに列島産が普遍化していた」という野島の整理(p.221)とは別の流れの品です。
(5) 石囲い墓グループは阿讃だけではない
野島のグループには吉備・播磨・安芸も入り、石囲い墓を作り出したのは吉備です(p.220)。野島は、吉備の大首長が阿波・讃岐の首長たちとの連携を図り、水銀朱の生産を興隆させた可能性も書いています(p.220)。主導したのは吉備だった、という読み方も、野島の本文の中にあります。
(6) 萩原1号墓→ホケノ山は一直線ではない
萩原墳墓群を発掘した菅原康夫は、萩原1号墓とホケノ山古墳の石囲い木槨の形が似ていることについて、「必ずしも直列的に考える必要はないであろう」と書いています(菅原2010 p.51)。石囲いの働き(墓穴の壁か、槨の壁か)が違うためです。阿波の要素がホケノ山に入っていることと、萩原からホケノ山へ一直線に変化したこととは、別のことです。
7. まとめ
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阿讃の首長たちは、弥生時代の終わりに、奈良を通さず中国の鏡を手に入れていた【有力:村瀬・野島の記述として】。
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阿波は朱の生産の中心で、その朱は瀬戸内海東部を経て畿内へ流れた【有力:野島の見通しとして。産地の分析での確認はこれから】。
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阿讃を含む瀬戸内海東部の墓づくりは、倭王権最初期の大型墳墓であるホケノ山古墳に直接つながる【有力】。
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その首長たちが卑弥呼を共立し、纒向の政権づくりに加わった【推測:野島の仮説】。
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萩原1号墓は、野島の並びでは卑弥呼の治世の終わりに最も近い段階の墓にあたる【この記事の読み】。
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古墳時代前期の中頃からは、阿讃も奈良の中枢の影響下に入る【有力】。
「倭王権は奈良で生まれ、そこから地方に広がった」という一方通行の図は、少なくとも始まりの時期については当てはまりません。阿讃は、受け取る側である前に、持ち寄る側でした。
村瀬陸の言葉どおり、「阿波の重要性を正しく評価すること」が、倭王権の成り立ちを正しく理解する近道です。
参考文献
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野島永2025『弥生墳丘墓と手工業生産』考古学選書6、同成社(pp.196, 208, 210, 220–223, 234)
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村瀬陸2014「画文帯神獣鏡からみた弥生のおわりと古墳のはじまり」『季刊考古学』127、雄山閣、pp.69–73
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村瀬陸2026「四国東部の銅鏡流通と倭王権」第8回やまと全国大会講演、2026年11月3日、徳島県教育会館(講演スライドによる)
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菅原康夫1992「阿波弥生時代終末期社会の特質」森浩一編『考古学と生活文化』同志社大学考古学シリーズⅤ、同志社大学考古学シリーズ刊行会、pp.553–577
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菅原康夫2010 菅原康夫ほか執筆、徳島県教育委員会・財団法人徳島県埋蔵文化財センター『萩原2号墓発掘調査報告書』(指定史跡等保存活用事業埋蔵文化財発掘調査報告書2)、p.51
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南武志・河野摩耶・古川登・高橋和也・武内章記・今津節生2013「硫黄同位体分析による西日本日本海沿岸の弥生時代後期から古墳時代の墳墓における朱の産地同定の試み」『地球化学』47(4)、日本地球化学会、pp.237–243
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岡村秀典1999『三角縁神獣鏡の時代』吉川弘文館
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下垣仁志2022『鏡の古墳時代』歴史文化ライブラリー547、吉川弘文館(野島2025 p.222が引く「下垣2022」)
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福永伸哉2005『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会
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森岡秀人2011「東部瀬戸内の動きと大和」石野博信ほか著・香芝市二上山博物館編『邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和』学生社、pp.7–38
※萩原1号墓の鏡を畿内からの分配としない見方と、布留式古段階を境とする流通の変化は、村瀬2014で公表されています。楽浪の同型鏡・破砕鏡・阿王塚と奥14号墳の複数面・丸井古墳の江南系・基盤についての注記は、講演スライドによります。
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