2024年3月1日金曜日

重すぎる王冠 | ヨハン浜松キリスト教会

重すぎる王冠 | ヨハン浜松キリスト教会

重すぎる王冠

歴代誌講解21

重すぎる王冠

歴代誌上 20:1-3

1 年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ヨアブは軍隊を率いてアンモン人の地を荒らし、ラバに来てこれを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。ヨアブはラバを攻略し、破壊した。2 ダビデはその王の冠を王の頭から奪い取った。それは一キカルの金で作られ、宝石で飾られていた。これはダビデの頭を飾ることになった。ダビデがこの町から奪い去った戦利品はおびただしかった。3 そこにいた人々を引き出し、のこぎり、鉄のつるはし、斧を持たせて働かせた。また、アンモン人のほかの町々もすべてこのようにした。それからダビデと兵士は皆、エルサレムに凱旋した。

キングには品位が求められる

 横綱白鵬が引退しました。
 モンゴルのウランバートル出身で、父親はモンゴル相撲の横綱、メキシコ五輪レスリング銀メダリスト。相撲を学ぶために15歳で日本に来ました。
 弟子入りしてから3年後、19歳1か月の若さで幕内力士になりました。
 幕内力士というのは相撲のランキング上位42人で、一番上のカテゴリーになります。
 その3年後には横綱に昇進。
 幕内として歴代1位の通算1093勝。最高連勝記録は歴代1位タイの63連勝。相撲は年間6場所行われますが、史上初の6場所全勝優勝を果たすなど、様々な記録を残しました。
 近年はヒザを痛めたことや新型コロナウイルスの影響で休場が増えました。そんな中で迎えた今年の7月場所では全勝優勝を果たし、横綱としての強さを見せました。
 年齢は36歳。私と同じです。36歳なんて常に体のどこかが痛いですからね。それでトップアスリートであり続けるのですから、まさに相撲界のキングです。
 サッカーには54歳で現役のキングもいますね。

 キングであり続けるのは大変なことです。ただ強くあればいいということではありません。
 影響力がありますから、品位が求められます。
 白鵬も相手を威嚇するような態度、張り手、勝った後のガッツポーズなどが横綱としての品位に欠けると批判されてきました。
 高い地位には重い責任が伴います。

何かを得たと思うときこそへりくだる

 今日はアンモンとの決戦、ラバ包囲戦です。
 イスラエルを侮辱したアンモンに、ダビデ王は将軍ヨアブを送りました。ヨアブたちは援軍のアラム軍を退け、アンモン軍も逃げ去りました。
 またダビデ王はツォバの王ハダドエゼルの配下にあったアラム軍も打ち破りました。
 イスラエルの周辺の敵はアンモンだけになりました。そのアンモンとの戦いも、首都ラバを陥落させれば終わりです。
 ダビデはヨアブを送り、ラバを包囲させました。ラバが陥落するのは時間の問題です。
 歴代誌の著者はヨアブが簡単にラバを攻略したかのように書いていますが、実はこのラバ包囲戦の間に、重大な事件が起きていました。

春を楽しんでいたダビデ

 「年が改まり、王たちが出陣する時期になった」とあります。これは春の収穫の後です。
 穀物の収穫は国を治めるために大切なことですから、戦争をしている場合ではありません。ユダヤのカレンダーでは1年が春分の日のあたりから始まります。大麦の収穫は過越し祭の頃に始まるので、ラバ包囲戦が始まったのはこの時期でしょう。今のカレンダーで言うと4月頃です。春ですね。

 ダビデ自身も人生の春のような時期を過ごしていました。
 神の箱をエルサレムに運び、神が家を建てるという約束も受け、周囲の敵もほぼ制圧しました。
 ダビデはイスラエル帝国の帝王のような地位に君臨していました。
 優秀で信頼の置ける部下もいます。ダビデ自身が出陣しなくても、ヨアブがアンモンを倒してくれます。

命がけのラバ包囲戦

 しかし包囲戦というのは野戦とは違う難しさがあります。
 城壁で囲まれた都市を攻略するためには、城門を打ち破らなければなりません。しかし城門に近づけば、城壁の上にいる敵から狙い撃ちにされます。
 ヨアブたちは命がけで戦いに臨んでいました。

優雅にお散歩をしているダビデ

 その間ダビデは何をしていたのでしょう。
 サムエル記によれば、ダビデは昼寝をし、夕方に起きて王宮の屋上を散歩していました。
 さすが王様。優雅です。
 散歩していると、1人の美しい女性がシャワーを浴びているのが見えました。
 彼女はウリヤの妻バト・シェバです。
 ウリヤはダビデの勇士の1人にも数えられる有能な部下でした。もちろんラバ包囲戦に参加し、命がけで戦い続けています。
 ダビデはそれを知りつつ、バト・シェバを王宮に呼び出しました。そして関係を持ってしまいます。

不倫と殺人

 事件は続きます。
 バト・シェバは妊娠してしまいました。
 ダビデは事件がバレるのを恐れ、ウリヤを呼び戻しました。そして家に帰って休むように言いました。
 ウリヤが家でバト・シェバと夫婦の関係を持てば、妊娠をごまかせます。
 ところがウリヤは家に帰らず、他の家臣と共に王宮の入口で寝ました。
 なぜ帰らないのかと聞かれたウリヤはこう答えました。

ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」

サムエル記下11:11none

 ウリヤは本物のイスラエルの勇士でした。
 ところがダビデはこの勇士を、自分の立場を脅かす敵とみなしました。
 そして戦場に送り返すと、ウリヤを最前線に置き去りにして死なせろと命令を出しました。
 ヨアブは王の言う通りにし、ウリヤは戦死しました。
 ダビデがウリヤを殺したも同然です。ダビデにとって最大の過ちと言っていい事件です。

人は称賛によって試される

 人生には春のような時期が巡ってきます。
 それまでの忍耐と努力が報われ、花が咲き、実を結ぶ時期です。すべてが上手くいきます。
 自分が人生の王座についたかのように思えてきます。
 このように順調なとき、人からほめられるときこそ、私たちは試されます。

銀にはるつぼ、金には炉。人は称賛によって試される。

箴言27:21none

 どれほど多くの人が、富や名誉を手にした後に問題を起こし、倒れてきたことでしょうか。

へりくだった王の王

 イエス様に3年半の間従った弟子たちは、すべてが上手くいっているように思いました。
 行く先々で多くの人に囲まれ、たくさんの病人を癒しました。弟子たちがイエスの名で命じれば、悪霊を追い出すこともできました。
 エルサレムへ向かうイエス様は、きっとイスラエルの王座につくのだろう。
 ヤコブとヨハネは、自分たちなら天から火を降らすこともできると思っていました。
 イエス様が王様なら、自分たちは右大臣と左大臣だ。
 そしてイエス様に、自分たちをあなたの右と左に座らせてくださいと願いました。
 そんな彼らに、イエス様は本当の王の姿を教えます。

43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

マルコによる福音書10:43-45none

 王は他人を利用する人ではなく、他人を生かす人です。仲間が苦しんでいるときに自分の人生を楽しむ人ではなく、共に苦しみを分け合う人です。
 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざがあるように、自分が何かを得たと思っているときこそ、へりくだる必要があります。
 すべての人に仕え、十字架でご自分の命をささげて私たちを救い出したイエス様こそ、王の王、主の主です。

王としての責任は1人では負えない

 ダビデは預言者ナタンの指摘で自分の罪を認め、悔い改めました。
 その後、長期戦になっていたラバ包囲戦はヨアブの攻撃で決着がつきました。
 最後にダビデ自身が出陣し、ラバは陥落しました。
 そしてアンモンの王の頭から冠を奪い取りました。

重すぎて1人では被れない王冠

 その冠は1キカルの金で作られ、宝石で飾られていたとあります。
 1キカルは約34.2㎏です。重すぎます。
 頭の上に荷物を載せて運ぶという運搬方法がありますね。
 体重の20%までであれば、荷物を効率よく運べるのだそうです。
 だからダビデ王の体重が170㎏以上あれば、この王冠も被れます。
 白鵬の体重が151㎏ですから、ダビデが横綱以上の巨漢であれば、ということです。さすがにそれはないでしょう。
 普段は被らなかったはずですが、一応戴冠式は行ったようです。
 重すぎる王冠ですから、仲間の支えが必要だったことでしょう。

神はあなたの頭にも王冠を被せる

 自分は王ではないし、人生が上手くいっているわけではない。王冠を被るわけがないし、人からほめられることもない。そのように思う人もいるかもしれません。
 しかし神はあなたをそのように見ていません。
 神はあなたを全世界の祝福の源とし、王、また祭司とされたのです。
 あなたには世界を祝福する責任があります。
 そんな責任、重すぎて負いきれません。あなたの頭にも1キカルの王冠が被せられているのです。

へりくだる人に支え合う仲間がついてくる

 この重すぎる王冠は仲間の支えが必要です。
 それはヨアブのようにあなたと共に戦ってくれる仲間。ウリヤのように苦しみを分け合ってくれる友。そしてナタンのようにあなたの間違いをまっすぐに指摘してくれる人です。
 そういう仲間を大切にしないなら、私たちは倒れます。
 あなた自身も、仲間に助けを求められる人、悲しみや喜びを表現できる人、素直にごめんなさいと言える人であるなら、仲間はついてきます。その姿は謙遜だからです。
 間違えてもごめんなさいと言わず常に無表情な指導者たちを見習ってはいけません。

神の素晴らしさを輝かせることがあなたの責任

 聖書の中で謙遜な人と言えば、洗礼者ヨハネです。
 彼はイエス様を見てこう言いました。

あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

ヨハネによる福音書3:30none

 ヨハネは人々から尊敬される働きをしました。
 しかし彼は自分を低くし、他の人を高めました。何より、イエス様、神様を高めました。
 人生の王座につくべきは神様です。イエス様こそ王の王、主の主です。
 神様の素晴らしさを表すこと、それが私たちの生き方です。
 仲間と共に支え合い、神様の栄光を表していくのです。
 神こそ賛美を受けるのにふさわしいお方です。

頭上運搬 - Wikipedia

頭上運搬 - Wikipedia

頭上運搬

頭上運搬(ずじょううんぱん)は人が荷物を頭に載せて運ぶこと。世界各地の人類に見られる行動であり、特に女性によって行われる傾向がある[1][2]。荷物を容器にいれて載せたり[3]、荷物と頭の間に輪をはさんで載せたり[4]、荷物を吊るした天秤棒を頭に載せたり[5]する。頭頂部に荷物やその容器をのせる方法と帯を額(前頭部)にかける方法とがある[5]。

Ray Lloydらの研究によれば、頭に載せるものの重量が体重の20%までであれば、十分に修練を積んだ人は通常の歩行に消費する以上のエネルギーを消費せずに運搬できる[6]が、一定以上より重い荷物や速い歩行の場合に荷物を頭上に載せて運ぶことが背中に載せて運ぶことより効率的であるとは考えられない[7]。

歴史

日本では一遍上人絵伝や北野天神縁起など中世の絵巻物に頭上運搬が行われていたことが記録されている[8][9]。京都に柴・薪・花を売りに来る女性商人である大原女・白川女も頭上運搬をした[10][11]。近世以降この運搬法は廃れる傾向にあった[9][8]が近代でも西日本の海沿いの地域に伝統が残った[8]。この運搬法は日本各地でイタダク、ササグなどと呼ばれた[5]。アイヌは荷物を背負う際、背負い袋や背負子に取り付けた荷縄を頭の額の部分で支えた[12]。沖縄ではティルと呼ばれる竹籠を頭上にのせて運搬した[5]。国領地方ではティルの紐を前頭部に引っかけ、荷は背に載せる[9]。

北西ヨーロッパでは中世に女性が重く持ちにくいものを運ぶ手段として頭上運搬をしていて、遅くとも14世紀までこの習慣はあったが、19世紀中盤までにほとんどなくなった[2]。

出典

  1. 八木奘三郎 「頭上運搬」 人類學雜誌 Vol. 32 (1917) No. 10 P 296-299
  2. ^ a b Jane Whittle (February 23, 2016) Why do women carry things on their heads? | The Humanities Blog Why do women carry things on their heads? | Women's Work in Rural England, 1500-1700
  3. 奈良県明日香村 関西大学文学部考古学研究室石舞台古墳 巨大古墳築造の謎 解説書 2012年 p.8
  4. 太田心平 みんぱくのオタカラ 頭上運搬用輪 2013年10月18日刊行
  5. ^ a b c d 須藤功『フォークロアの眼3 運ぶ』「生活に見る『運ぶ』の諸相」ISBN 978-4-336-01596-9
  6. The art and science of carrying things on your head. By Jessica Dweck Aug. 27 2010 6:25 PM
  7. R. Lloyd et al (2010-07-01), A comparison of the physiological consequences of head-loading and back-loading for African and European women, 109, pp. 607-616, doi:10.1007/s00421-010-1395-9
  8. ^ a b c 石井 伸夫 龍蔵と「仏塔」と「いただきさん」 アワーミュージアム第56号2015年7月31日発行
  9. ^ a b c 横出 洋二 日本中世における身体技法について: 身体の姿勢を中心とした試論 1995
  10. 橋本暁子 【第64回】「いただきさん」 | NAFUマガジン | 新潟食料農業大学
  11. 京都近郊農山村における柴・薪の行商活動 2011
  12. アイヌと自然デジタル図鑑 月刊シロㇿ12月号 エカシレスプリ14 荷縄あれこれ

外部リンク

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動画でみる 阿蘇神社「御田植神幸式」(通称 御田祭)

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ぐーたら気延日記(重箱の隅): 倭の神坐す地(6)伊加々志(いかがし)神社

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 倭の神坐す地(6)

倭の神坐す地(6)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)

では、「大物主」とは何を表しているのかと考えた時「ワタクシ」めが思いつくのは「物部の主」であったのです。
「大国主」は「国の主のなかのトップの序列」でありましょう。
ならば「大物主」とは「物部の主の序列トップ」と考えると辻褄が合うように思いませんか。
仮に「そう」であったと仮定して論を進めてみますれば「物部氏」の系譜は下図の通り
饒速日命から「宇摩志麻治(遅)命」以降と続く系譜ですが、よく見てみれば、阿波に関わりのある名前が散見されます。

まずは鴨島町の五所神社
別名、「瑜伽(ゆうが)神社」。
鎮座地 徳島県吉野川市鴨島町麻植塚字堂の本921
御祭神 大麻綜杵命(おおへつきのみこと) 
合祀 伊弉諾命 伊弉冉命 大山祇命 誉田別命 息長帯比売命

「麻植郡郷土誌 」には
「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、
 母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」

さらには「阿波国続風土記」麻植郡の項を参照いたしますれば

麻殖塚村神麻山俗に鴻の山と云う。昔は綜麻杵神社と云いしと云う 是も忌部神社と云うなれ共、此の神名は斯くはあらじ
憲明案じて日く、此の神は伊香色雄命の親神ならんかと、思いけらしもせめ 是は申し出甚だ正しきなり
その子細は天日鷲の神社と云わずして、正しく云めり。
 とあり、正しく「大麻綜杵命(あるいは「大綜杵命」)」を祀ってあることが確認できます。

続いて
 伊加々志(いかがし)神社
鎮座地  徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635
御祭神  伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと)
     伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと)
合祀   天照大神 事代主大神
「伊加加志」を社名・御祭神とする式内社は、全国でここ一箇所のみ。
「事代主大神」が合祀されていることにも注意してください。

主祭神の伊加賀色許賣命(いかがしこめのみこと)
伊香色謎命(いかがしこめのみこと、生年不詳 - 崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)以降)は、孝元天皇の妃、開化天皇の皇后。古事記には伊迦賀色許売命(読み方同じ)とある。父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫。同母兄に伊香色雄命がいる。彦太忍信命(父は孝元天皇。武内宿禰の祖父(記では父)。磐之媛命の高祖父(記では曾祖父))・崇神天皇(父は開化天皇)の母。
孝元天皇2年(前213年)、孝元天皇の妃となった。開化天皇6年1月14日(前152年2月25日)、亡夫孝元天皇と叔母(伯母)・皇后欝色謎命の皇子である開化天皇の皇后となった。崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)、崇神天皇の即位と同日に皇太后となった。wikipedia

また、伊加々志神社より程近い「山崎八幡宮」
境内社「恵比須神社」の傍に

「伊加加志神社」が鎮座し「伊迦賀色許雄命」が祀られております。


このように物部の系譜に現れる「大綜杵」と「伊香色謎(伊加賀志許賣)」「伊香色雄(伊加賀色許雄) 」を祀る神社が存在し、方や、日本唯一の式内社であるという事実があるのです。
ただし、「大綜杵」と「伊香色謎」は阿波において「忌部」とされておりますが、これは「物部」=「忌部」ではなく二つの氏族の接点が何らかの形で阿波に存在したと個人的には考えております。
氏姓制度の成立以前からある程度は「◯◯部」と呼ばれていた氏族はあったものの、「甲子の宣」「八色の姓」制定後、はっきりとした氏姓が与えられたことにより「物部」「忌部」等の「部」が確定したものであって、それ以前の区別はもっと緩やかな者であったと思われます。

さて、大阪の枚方市に「意賀美神社」という神社が鎮座しておりますが。

意賀美神社 
鎮座地 枚方市枚方上之町1-12

祭神
高龗大神(たかおかみのおおかみ)
素盞鳴大神(すさのおのおおかみ)
大山咋大神(おおやまくいのおおかみ)
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)

創建  創建年代は不詳。開化天皇の御代に当地の豪族伊香色男・伊香色女の邸内に鎭座していたと伝えられている。



この「意賀美神社」の境内摂社に


なんと「琴平神社」があり
祭神は「大物主神」となっております。
「開化天皇の御代に当地の豪族伊香色男・伊香色女の邸内に鎭座していた」との由緒を見て、どちらが本家だとかいうのは置いといて(笑)「琴平」が「大物主」であることが分かっていただけるのではないでしょうか。

さらには、阿波市市場町伊月字宮ノ本に鎮座する
「延喜式式内社 事代主神社」
御祭神 事代主命 大國主命
「阿波志」に「事代主祠、延喜式亦小祠と孚す伊月村に在り事代明神と称す」とあり、「増補古城記」の伊月城の項に「当国の元祖人皇三代安寧天皇の御宇出雲国事代主命当国に移り給ふとき五十鈴依姫斎御座す。 御子残って中川・郡・守等是その神孫なり」と記している。 徳島県神社誌より
「出雲国事代主命当国に移り給ふとき」を見て「やっぱ、事代主は出雲じゃねーか」とか考えないように。
何度も書いてますように「事代主は一人じゃない」のですよ。
(次回でもうちょっとだけ説明できるかな?)


これも「阿波国続風土記」を確認いたします。

ここにも「事代」を「琴代」と称されていたことが記載され「事代主」も「大物主」の系譜に連なることの一端が見えるように思われます。
穿った見方をすれば「琴平」は「事平」つまり「物事を平らげる」役割、「琴代」こと「事代」は「物事を代理する」役割だったと考えれば、その地位についても、言わず推測できるのではないでしょうか。
(上図、左半分の系譜が「ひじょーに」気になる方もいらっしゃるかもしれませんが、ここでは突っ込まないように)
次回でまとめようかなーって、希望的観測。
続く

あー疲れた

尾張古論10 伊福部考(9)   伊香色謎命の生涯 | 女神物語 ー弥生神代の考察ー

尾張古論10 伊福部考(9)   伊香色謎命の生涯 | 女神物語 ー弥生神代の考察ー

尾張古論10 伊福部考(9)   伊香色謎命の生涯

             前報1伊香色雄命をめぐる系譜
  本報2伊香色謎命の生涯
      (1)  姉・伊香色謎命は、孝元・開化期に生き、崇神天皇を生む
         <1> 伊香色謎命は孝元天皇妃となる
         <2> 伊香色謎命は従弟・開化天皇の皇后となる
      (2) 伊香色謎命の婚姻のカタチ:「庶母婚」と「従姉弟婚」
         <1> 庶母婚
         <2> 神代・古代の近親間婚姻のカタチ(名称と事例)
      (3) 伊香色謎命の立后が「丹波・竹野郡の分立」をもたらした悲話(推測)
         <1> 丹波国に竹野郡の分立とその屯倉化
         <2> 「天孫本紀」には竹野媛は登場せず
         <3> 他の史料は「竹野媛」を明記する
         <4> 伊香色謎命立后と先妃・竹野媛の悲話
      (4)  矢田八幡神社の祭神(武諸隅命、配祀:孝元天皇 内色姫命)
  次報3伊香色雄命の活躍した崇神朝の出来事
            4伊香色雄命の活躍伝承
      5新撰姓氏録に見る伊香色雄命の裔

  伊香色雄命は、開化天皇・崇神天皇・垂仁天皇の三代にわたって生きた可能性があります。その内、開化朝はその少年期~青年期、崇神朝は青年期から成人期だったでしょう。

 垂仁朝では、伊香色雄命の子らの活躍が知られますが、もはや、伊香色雄命本人の垂仁朝での活躍は史料上で認められませんので、崇神朝が伊香色雄命の活躍期(青年期から成人期)だと思われます。

2 伊香色謎命の生涯

(1)  姉・伊香色謎命は、孝元・開化期に生き、崇神天皇を生む

<1> 伊香色謎命は孝元天皇妃となる
 伊香色雄命の姉・伊香色謎命は、孝元天皇妃となり、第一皇子・彦太忍信命を生みます。

   「古事記」によれば、彦太忍信命は成人すると、木国造・宇豆比古の妹・山下影日売を娶って建内宿禰を生むとしています。建内宿禰の父だと云うのです。

 更に、別に、彦太忍信命は葛城之高千那毘売(尾張連等の祖・意富那毘の妹)との間に味師内宿禰(甘美内宿禰、山代の内臣の祖)を生んだ、とも記します。 
   注 建内宿禰は、後に「諸豪族の祖」と云われるエポックを画する、伝説上の人物説があり、幻の様な人物で、

              味師内宿禰との葛藤も伝えられています。ここでは深入りできません。

<2> 伊香色謎命は従弟・開化天皇の皇后となる
 開化天皇は、父・孝元天皇が崩御した同じ年の11月に即位し、翌年、春日の率川宮に都を移します。
 そして、即位7年(父・孝元天皇の崩御7年後)、開化天皇は父帝の皇妃・伊香色謎命を皇后に立てる一大決意をします。それは実行に移され、伊香色謎命は御間城入彦五十瓊殖尊(崇神天皇)と皇女:御真津比売命とを生みます。

 父・孝元天皇の皇后・鬱色謎命は開化天皇の母であり、鬱色雄命は皇后・鬱色謎命の兄にして伊香色謎命の父なのですから、開化天皇と伊香色謎命とは従兄姉関係にあります。

 伊香色謎命が、生んだ御間城入彦五十瓊殖尊は後に崇神天皇として即位すると、母・伊香色謎命を皇太后として敬い、その次の垂仁天皇の時は太皇太后を追贈します。
 と云うことは、垂仁天皇の即位の時、伊香色謎命は既に亡くなられていた事を意味します。

(2) 伊香色謎命の婚姻のカタチ:「庶母婚」と「従姉弟婚」

 伊香色謎命はよほど魅力的な女性だったのでしょう。二人の父子の天皇に娶られたのです。
 伊香色謎命の婚姻は「従姉弟婚」(孝元天皇を巡って)、且つ、「庶母婚」(開化天皇を巡って)と云う稀なカタチです。

<1> 庶母婚
 伊香色謎命は、孝元天皇妃となり、しかも、孝元天皇が皇后・鬱色謎命との間に生んだ開化天皇の皇后にもなったので、「古事記」は態々「庶母」を伊香色謎命の名前の前に付けて、「庶母・伊迦賀色許売命を娶り」と記しています。

 その婚姻は「従姉弟婚」(開化天皇は叔母・欝色謎命の子で伊香色謎命の従弟に当たるから)、且つ、「庶母婚」(欝色謎命は孝元天皇皇后で、開化天皇の実母ですが、父・孝元天皇の皇妃だった伊香色謎命は開化天皇からみて庶母に当たる)と云う稀なカタチの婚姻であり、崇神天皇は開化天皇から見て庶母に当たる伊香色謎命の御子として生まれたのです。

 この「庶母婚」は、今日の日本社会では存在しないと思われますが、古代社会ではあったのです。しかも様々な波紋を生じたことでしょう。

  「庶母婚」の習俗は高句麗王族・女真族など、扶余族系の北方農牧社会に観察されていますが、それが古代日本の婚姻習俗に繋がっているのでしょうか。これは、天孫降臨は大陸からの人々の渡来を神話化したとの見方に通じます。

<2> 神代・古代の近親間婚姻のカタチ(名称と事例)

 いずれ、機会を得て、古代の結婚様式を考察したいと思いますが、取り敢えずの「古代の近親婚のカタチ(名称と事例)」をここに記し残しましょう。今後は、事例の積み上げを図ります。

  参考表               神代・古代の近親間婚姻のカタチ(名称と事例)
─────────────────────────────────────────────
  ◆近親間婚姻のカタチと名称・事例
    ・叔母・姪一括婚:叔母と姪が共に一人の男性の妻となるのを「叔母・姪一括婚」(当ブログ命名)と呼ぶ。
             事例  孝元天皇は、叔母・姪の関係にある鬱色謎命・伊香色謎命を娶った。
    ・従兄妹婚 :  事例  伊香色謎命と開化天皇との通婚は「従兄妹婚」のカタチです。
    ・叔父・姪婚:  事例   日本足彦国押人尊(後の孝安天皇)は兄・天足彦国押人命の女・押媛を娶る。
                            事例   崇神天皇と姪・御間城姫命との結婚は「叔父・姪婚」です。これは多数例あり。
       ・叔母・甥婚:    事例  フキアエズは叔母・玉依姫と結婚し、神武天皇ら5人の御子を生む。
       ・庶母婚:自分の庶母(父親の妾で、自分の生母とは異なる)を妻とする婚姻を云う。
                      事例1  伊香色謎命は叔母・欝色謎命が皇后となった孝元天皇の皇妃として娶られると共に、
                          孝元天皇の崩御後、孝元天皇と欝色謎命との皇子・開化天皇の皇后として娶られた。
                          開化天皇からすると、伊香色謎命は庶母に当たる。
                          事例2 用明天皇没後、第一皇子・田目皇子は庶母(用明天皇后)・穴穂部間人皇女を娶り、

                                          佐富女王を生む。
       ・姉妹一括婚:    事例1  伊香色雄命は、山代県主の祖・長溝の娘・三姉妹(真木姫・荒姫・玉手姫)を妻・妾と

                                          して娶る。
                           事例2 孝霊天皇は紐某姉・紐某弟の二姉妹を娶ります。
             事例3 景行天皇は播磨稲日大郎姫とその妹を娶ります。
               事例4 垂仁天皇は、丹波道主王の五女(日葉酢媛命・渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛)を

              一括娶る。
             事例5 応神天皇は、品陀真若王(五百城入彦皇子の御子)の三女(后・仲姫命、高城入姫命、弟

                                         姫命)を娶る。
     ・同父異母兄弟姉妹間の婚姻
             事例1 天火明命の第一妃・天道日女の男・天香語山命と天火明命の第二妃・市杵嶋姫命の女

                                        ・穂屋姫命との結婚により天村雲命を生む。
             事例2 天村雲命の第一妃・阿俾良依姫命の男・天忍人命と天村雲命の第二妃・伊加里姫の女

                                        ・角屋姫(葛木出石姫)との結婚により天忍男命を生む。
               事例3 敏達天皇と推古天皇(異母妹)
             事例4 用明天皇と穴穂部間人皇女(異母妹)
  ◇ その他の婚姻形式
    ・レビラト婚:夫が死亡すると、未亡人は夫の兄弟と結婚する慣習で、女真(満州族)の古習で、普通に行われて

                            いたと云う。
            ・戯曲ハムレット:ハムレットの父王が死ぬと、王弟クローディアスが即位し、ハムレットの母で

                                                    ある先王妃ガートルードと再婚する。
    ・ソロレート婚:妻が死亡すると、その姉妹が残された寡夫と結婚する慣習

─────────────────────────────────────────────
      ・ネット上の参考文献:「神々の結婚ー異世代婚と二分組織」布村一夫  民俗学研究24/3 1960.9

(3) 伊香色謎命の立后が「丹波・竹野郡の分立」をもたらした話(推測)
 ここに、「庶母婚・従兄妹婚」の伊香色謎命の立后が「丹波・竹野郡の分立」をもたらしたとする裏話(シナリオ仮説)を提出し、古代史の秘められた一幕を明かしたいと思います。
 お読みの皆さんには、このシナリオ仮説(推測)の真偽をご検討の上、ご批判下さるようお願いします。

<1>  丹波国に竹野郡の分立とその屯倉化
 開化天皇は、伊香色謎命を皇后に迎える以前(多分、即位前)に、「丹波の竹野媛」を皇妃に迎え、第一皇子・彦湯産隅命を生んでいます。(日本書紀・古事記)

  ところが、父・孝元天皇が崩御されると、開化天皇は父の皇妃・伊香色謎命を皇后に迎えると云い出し、実際に、伊香色謎命の立后は成るのです。

 そして、即位6年、開化天皇は父・孝元天皇の皇妃(側室)だった伊香色謎命を皇后に迎え、御間城尊(後の崇神天皇)ら三子を得ます。(日本書紀)

  当ブログでは、先に、この「竹野郡分立、屯倉化」の理由は、第一皇子・彦湯産隅命の誕生を喜び、竹野媛への褒賞として与えられた、と見ました。

 だが、経緯はそれほど単純なものではなかっただろう、と気付いたのです。

                                参照  丹波古史1 建田背命・建諸隅命・川上麻須 2019年10月20日

  上記の「竹野郡分立、屯倉化」はこの時の事だったのではないか、と推測します。
  ここへ来て、開化天皇が伊香色謎命を皇后に迎えた「話」と「丹波・竹野郡の分立」し管理者・竹野別を建諸隅命に委嘱した「話」とは無縁ではないと判断し、ここで修正したいと思います。

  この尾張系の先妃・竹野媛に配慮して、開化天皇は、態々、丹波に竹野郡を分立させ、竹野媛妃の屯倉とし、その父・建諸隅命にその管理を委ね、建諸隅に「竹野別」の称号を与えます。.(勘注系図)

                                      <2> 「天孫本紀」には竹野媛は登場せず
  おかしな事に、「天孫本紀」には竹野媛は登場せず、「竹野郡の分立」話もないのです。
 「天孫本紀」(天璽瑞宝氏mononobe.webcrow.jp/index.html)の該当部分は「竹野媛」は見当たりません。次の如くです。
   六世孫・建田背命。        [神服連、海部直、丹波国造、但馬国造らの祖]
       次に建宇那比命。  この命は、城嶋連の祖の節名草姫を妻として、二男一女をお生みになった。
       次に建多乎利命。   [笛吹連、若犬甘連らの祖]
       次に建弥阿久良命。  [高屋大分国造らの祖]
       次に建麻利尼命。   [石作連、桑内連、山辺県主らの祖]
       次に建手和迩命    [身人部連らの祖]
       妹に宇那比姫命。
     七世孫・建諸偶命。この命は、腋上池心宮で天下を治められた孝昭天皇の御世に、大臣となってお仕えした。

                     葛木直の祖の大諸見足尼の娘の諸見己姫を妻に一男をお生みになった。
         妹・大海姫命[亦名は葛木高名姫命]。この命は、磯城瑞垣宮で天下を治められた崇神天皇の皇妃となり、

                     一男二女をお生みになった。八坂入彦命、次に渟中城入姫命、次に十市瓊入姫命がこれである。
   八世孫・倭得玉彦命[亦名は市大稲日命と云う]。

                     この命は、淡海国の谷上刀婢を妻として、一男をお生みになった。

       伊我臣の祖・大伊賀彦の娘の大伊賀姫を妻に四男をお生みになった。
 
<3> 他の史料は「竹野媛」を明記する
  これに引き換え、他の史料は「竹野媛」を次の如く明記します。
       日本書紀・開化天皇段:6年春1月、伊香色謎命を立てて皇后とした。后は御間城入彦五十瓊殖(崇神)天皇を生

                                                        まれた。

                   これより先、天皇は丹波竹野媛を妃とされ、彦湯産隅命を産まれた。

    古事記・開化天皇段:この天皇、丹波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比売を娶り、生みませる御子、比古由

                                       牟須美命。
   勘注系図:⑪建田勢命(六世孫)笠津彦命之子 一本云、小登與命 一云建登米之子 亦名大諸過命云云
                亦名高天彦命 亦名大宇那比命 母笠津姫命也、大日本根子彦太瓊【孝霊】天皇御宇、於丹波國

                          丹波郷、爲宰以奉仕、然后移坐于山背國久世郡水主村、故亦云山背直等祖也、后更復移坐于大和國、

                          而娶葛木高田姫命、生建 諸隅命(一云、次生和多津見命)矣、
          ⑫建諸隅命(七世孫)亦云、建日潟命 亦名彦由麻須命亦云 建日方命 一云、丹波縣主由碁理命

                       母葛木高田姫也、稚日本根子彦大日日天皇【開化】御宇於丹波國割丹波郡與余社郡、被置竹野姫之

                         屯倉、于時此命奉仕、故亦名曰竹野別、后爲郡名矣、此命娶大諸見足尼女諸見己姫、生日本得魂命、

                         次生 大倭姫命(一云、次生依網吾彦男垂見宿禰)矣、

    「天孫本紀」(物部氏史料)では竹野媛は完全に抹消されています。
   他の史料からすると、竹野媛は建諸隅命(七世孫)の女であり、且つ、倭得玉彦命(八世孫)の姉妹の筈ですが、「天孫本紀」はそれを隠しているのです。

 「勘注系図」は丹波(原尾張)・海部直系の史料ですから、これを隠す筈はありません。
  「日本書紀」も「古事記」も、この部分の編集に際して、「勘注系図」乃至同類の史料を参照したと推定するのが妥当でしょう。

<4>  伊香色謎命立后と先妃・竹野媛の悲話
  ここで、先妃・竹野媛が第一皇子・彦湯産隅命を産んだ後に、伊香色謎命立后の話が持ち上がった時に話を元に戻します。

 「丹波の竹野媛」は、開化天皇が伊香色謎命を皇后に迎えると、その境遇は一変します。
 宮中では大騒ぎが起こったでしょう。何しろ、「庶母」を皇后に迎える事態に、母皇太后・鬱色謎命は勿論のこと、先妃・丹波の竹野媛とその一族は驚愕し激怒したことでしょう。

  当時は未だに原・尾張氏と物部氏が完全には分化していなかった、と思われます。原・尾張氏とは丹波竹野媛一族です。物部氏とは鬱色謎命・伊香色謎命を出した一族です。

 そこで、開化天皇は、物部系の伊香色謎命を皇后に迎えたいとして、これを断固として実行したのですが、その代わりに、「丹波の竹野媛」とその父・建諸隅(七世孫)に「竹野郡の分立」で償いをした、と思われるのです。

 極端な場合、竹野媛は泣き崩れながら故郷に帰ったかも知れません。
 それでも、開化天皇は、伊香色謎命から見れば叔母に当たる鬱色謎命を母としながら、従妹であり、且つ、庶母でも伊香色謎命を皇后に迎える決意は変わらなかったのです。

 複数の女性を娶る習わしがあった古代でも、女性の心の綾アヤは複雑でしょう。
 今、話中の二女性は、共に饒速日命裔で、丹波の竹野媛は尾張八世孫、伊香色謎命は物部六世孫、のほぼ同年代人で、お互い知らない仲ではないのです。

 月並みな表現を使えば、ライバル意識は燃え上がったことでしょう。まして、その根底には美醜・人柄が問われていたかも知れないし、皇后・妃の地位を巡る確執も想定できるのです。

    「竹野媛」については、「日本書紀」の垂仁天皇紀に次のような話が記されています。
  すなわち、丹波の日葉酢媛と三姉妹は垂仁天皇の后妃に迎えられたが、もう一人の竹野媛は、不器量だったので独り親元に帰されることとなり、その帰路、葛野弟国(乙訓)で自死した、と云う話が遺っているのです。

 この開化朝と垂仁朝の「二人の竹野媛」話は、確かに、二朝にわたり大きく分かれて記載されているのですが、この話には天皇の御代をワザ(意図的に)と違えて、真実を歪めながらも「竹野媛悲話」を分割して伝承しようとした操作があると穿ち読みします。

  「古事記」も「勘注系図」も丹波の竹野媛について言及しているのに、「天孫本紀」は竹野媛について一切言及がありません。

 これは「謎」と云うよりは、「天孫本紀」が物部氏中心に編纂されているため、物部氏に好ましくない「竹野媛」事件は、編集に当たり、削除したものと思われます。

 以上は孝元・開化・崇神・垂仁の四朝に跨がる「尾張・物部の女性たちの入内」に関する推定悲話です。

 皆様はどうご覧になるでしょうか。

(4) 矢田八幡神社の祭神(武諸隅命、配祀:孝元天皇 内色姫命)の「謎」

 丹波竹野媛の故郷は京丹後市久美浜町(古丹波熊野郡)だと推定されています。
  竹野郡の分立後、そこには竹野神社ができ、その斎宮神社に竹野媛が祀られていますが、竹野媛の本来の故郷は熊野郡(現・久美浜町)には竹野媛の祭祀社は見当たりません。

 原・尾張氏の重鎮・建田背命(六世孫)も武諸隅命(七世孫)も、確かに久美浜町に祭神として鎮座しています。
    ・矢田神社(京丹後市久美浜町海士)
             祭神:建田背命、配祀:和田津見命 武諸隅命  
         由緒:垂仁朝、河上摩須が勧請
       熊野郡誌:海士の地は往古神服連海部直を居住地にして、館跡を六宮廻ロクノマワリといふ。海部直は

                             丹後國造但馬國造の祖にして、「扶桑略記」にも丹波國熊野郡川上庄海部里を國府と爲す、

                             とあり。されば、海部直の祖・建田背命及其御子武諸隅命、和田津見命を斎祀れるも深き由緒

                             の存ずる所。

  だが、久美浜町には竹野媛(八世孫)を祀る神社は見当たりません。
  これが第二の「謎」の始まりなのです。
                      参照:依網氏論7 建豊波豆羅和気王・竹野別の謎解けずも一条の光 2019年10月13日
                             丹波古史1 建田背命・建諸隅命・川上麻須                         2019年10月20日


  竹野媛は竹野郡の斎宮神社に祀られ、その故郷・熊野郡には祀られず、です。

   勿論、竹野姫が生んだとされる第一皇子・彦由牟須美命も祀られておらず、竹野媛が生まなかった二皇子が斎宮神社に混ぜられて祀られているのです。この祭祀のカタチは異常です。
          ・竹野神社 (京丹後市丹後町宮宮ノ谷、式内大社 丹後國竹野郡)  祭神:天照皇大神、
        ・斎宮神社(竹野神社境内) 祭神:竹野媛命 建豊波豆羅和氣命 日子坐王命
                                           参照 依網氏論5 建豊波豆羅和気王の謎 2019年09月30日


  その代わりに、熊野郡には「矢田八幡神社」が鎮座し、その古祭神は饒速日命、孝元天皇、その奥后・内色姫命だ、と云うのです。これが第二の「謎」なのです。
              ・矢田八幡神社(京丹後市久美浜町佐野)式内社 丹後國熊野郡 矢田神社
                  祭神:應神天皇 神功皇后 武諸隅命、配祀:孝元天皇 内色姫命 
                  社伝:崇神天皇十年、四道将軍の一人丹波道主命が勅命により山陰地方平定のため丹後国に至って

                                 比治の真名井に館を構えられ、平定祈願のため、矢田部の部民(物部)に祖神を祭らしめられ

                                 たのが当社の起源。

                      ・元の祭神は饒速日命、孝元天皇、皇后の内色姫命であったが、奈良朝の物部氏と蘇我氏の争

                                 いによって物部氏が滅亡し、矢田部一族は蘇我氏の探索を恐れて、宇佐八幡を勧請して矢田

                                 八幡と改めたと云う。                                               「式内社調査報告」矢田八幡神社

  開化天皇とその皇妃・竹野媛を祀るならば、至極当たり前に思えます。

    それは謎ではありません。

  しかし、この地に竹野媛を祀る社は知られず、それに引き換え、「孝元天皇とその奥后・内色姫命」が祀られているのです。これが第二の「謎」なのです。
  ここに竹野媛の一世代前の「孝元天皇とその皇后・内色謎命(内色姫命)」が祀られている、その理由が判らないのです。

   この丹波国に、図らずも、原・尾張の女人・竹野媛、物部の女人・内色謎命と伊香色謎命と三人の女性が、欠史時代の二天皇の后妃として、異なる伝承に交差して顕れ記されているのです。

   古代史に多々ある謎に戸惑い、やや脱線しましたが、やがてこの謎が解けることを期待します。

 今は、二つの「謎」が「竹野郡の分立」話に絡んで浮かび上がってきた事を確認して、次に進み

ましょう。

 

(62)『バラバラにされた三種の神器』 笹田孝至 ANYAチャンネル



 壬申の亂の治つた後の歌。二首 
4260 大君は神にし在せば、赤駒のはらばふ田居を、都となしぬ 
4260 天皇陛下は、神樣のやうに尊く入らつしやるから、赤馬が葡うて居る田圃を、忽然として、人家の櫛比した都とせられた。不思誘なお力だ。   
右は、故大將軍贈右大臣大伴(ノ)御行の歌。 
4261 大君は神にし在せば、水鳥の集く水沼を、都となしぬ 
4261 天皇陛下は、神樣のやうな不思議なお方だから、水鳥の集つて棲んで居る沼をば、都とせられたことだ。   
右は、作者知れずである。   
右二首、天平勝寶四年二月二日に聞きとつたものである。