これは知らなかった。「芸能人」という言葉が戦争由来であったこと。
https://x.com/ktowhata/status/2044757621874499680?s=61
ここで「芸能人」という言葉に触れておく。実はこの言葉、軍が慰問団を編成するについて、芸術家と芸人をまとめる為につくった新語なのである。芸術家が芸人と同席することを拒否したので、両方を芸能人という職名にすることで、芸術家をなだめ、芸人をおだてたわけだ。僕が芸能人という言葉が嫌いなのもそんなところにある。
永六輔
芸人たちの芸能史(中公文庫)
#kindlequotes
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明治42年 長篠の合戦
芸能人 げいのうにん
https://x.com/koronakanren/status/2044894184105214144?s=61
IS6
製美信をお選後その処置後に。熊に死地に皆れり、四日の形機げ脱和感なしとめども。感
牡蠣の卵那産を挑めとして、雛くの器は。北然式米の四が、第で、本豚の形に聞かれた
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%の北記なるそ。べや出の際に出だして、一生のを非立てんと袋せるならき。
渋柿叢書 巻10 長篠合戦
塚原渋柿園 著 左久良書房, 明治42
https://uwazura.perma.jp/wiki/?%E5%8F%A4%E5%B7%9D%E7%B7%91%E6%B3%A2%E3%80%8C%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E3%80%8D
古川緑波「ロッパ言語学」
古川緑波
『言語生活』10(1952.7) pp.40-41
ロッパ言語学
能なし
芸能 芸能人。
といふ言葉は、近頃一般に行はれてゐるが僕は、この言葉を、あんまり好きではない。といふのは、確かに此の言葉は、戦争中に出来た言葉だからである。
戦争中の或る日、僕は、僕一座の役者たちを集めて、こんな訓辞(?)を、タれたことがある。
「近頃、われ〳〵芸人のことを、芸能人と言ひ、芸能祭とか、芸能何々と言ふが、これは戦時に、われ〳〵が一般から尊敬されて、芸人と言っては悪いからと、能の字を一字入れて呼ばれ出したのではない。
軍人で、政治家、官僚たちが、われ〳〵の慰問演芸を必要とし、利用せんとする為めには、軍人官僚人たちの自分たちの体面上、芸人と交際っては具合が悪いので、体裁よくしようといふんで、能の字を一字入れて、何となく、われ〳〵を高尚な人種のやうに仕立てゝ、それで自分たちの世間態を、つくろってゐるんだ。
だから、われ〳〵は、少しもウヌボレてはならないぞ。ほんの、お体裁、それも、こっちのではなくて、軍官人の方のお体裁に過ぎないんだぞ。」
さう言ったものだ。
僕の記憶によれば、芸能といふ字は、戦争前には無かった。あっても、それは、能のこと、(演能、芸能──すべて能楽のこと)であった。それを、前述のやうな原因から、それ迄、ヤクシヤとかゲイ人とか呼んでみたものを、芸能人と言って、昇級(?)させたのであらう。むろん、その昇級は、軍官人自らの体面を保つために、である。
それが、戦争が済んでからも、あたりまへのやうに思はれて、大抵の人が、芸能とか、芸能人とか言ってゐるが、僕は、戦争中に、前述のやうな演説をブった関係上、此の言葉は、戦争を思ひ出しちまって、好きになれない。
そりやあ、われ〳〵自らも、芸人とか、ヤクシヤとか言ふよりは、芸能人と言った方がいくらか、上等に聞えるだらうが。
だが、やっぱり、われ〳〵は自らを、芸人と称し、ヤクシヤと称する方が、ほんたうは気も楽だしサッパリした気持がするだらう。
だって、芸能人と呼ばれ出してからでも、世間一般から、われ〳〵が、少しでも尊敬され出した様子は無かろうではないか。
元来、日本人は、芸人を、芸術家を、尊敬するどころか、軽蔑する方が多く、一般の人々は、自分らよりも、下品な、劣等な人種と見てゐるのが常である。
それは、たとへ芸能人と名だけ昇級しても少しも(戦後も)変ってはゐない。
戦後、アメリカ人と交際して、何と、アメリカ (ばかりではない、日本を除く、他の国々)は、われ〳〵を、尊敬(とまで行かなくても、少くとも軽蔑はしてゐない、そして、何らかの厚意、好感を持ってゐる。)して呉れることか! と感心したものである。
ま、その方は、今更嘆いたとて、しようのない話だが。
で、僕は、少くとも僕一人は、芸能人といふのゝ、能の字を返納して、芸人と呼んで貰ひたいのだ。
能の字を除って、能なしになる。シヤレではない、能なし結構だ。
芸人。
役者。
このデモクラテイックな、ひゞきを、僕は愛する者だ。
字引を引いたって、芸能人なんてのは、出て来ない。アプレ語辞典は別だが。
大辻司郎
漫談の開祖 大辻司郎が、飛行機事故で遭難して、非業の死をとげた。哀悼。
こゝに、彼独特の言葉を、一寸研究してみよう。
「何とかであるデス。」
といふ「アルデス」が、兎に角、特徴だったが、正に彼独特の「アルデス」だったが、これは何処にその因を発してゐたか。
大隈さんの演説の「あるんである」も有名だったが、これは、「アルデス」には、関係無さゝうだ。
大辻司郎の漫談以前に、然し、「アルデス」的な言葉を遣ってゐたグループが、ある。
それは、上山草人、谷崎潤一郎、佐藤春夫といふやうな先生方や、その門下(?)の映画俳優岡田時彦や、近藤伊与吉などゝいふ人々は、確かに此の「アルデス」を用ゐてゐ
たことを憶えてゐる。
「その時彼はデスな、何言ふたかといふと、かう言ふたデス。」
「彼は、さう言ったでアルデスな、」
といふやうな、珍な言葉を、此のグループは、好んで遣ってゐた。
さて、これが大辻司郎に伝はった──のぢやあないだらうか、といふ気もするが、又全然別なやうな気もする。
大辻司郎を追悼して、彼の警句二三を、左に紹介する。但し、これは彼の漫談以前、即映画の弁士時代の創作である。
◯胸に一物、手に荷物。
◯勝手知ったる他人の家。
◯ハラ〳〵と落つる涙を小ワキに抱へ。
◯猿はマシラの如く
◯眼は人間のマナコである。
◯お父さんとお母さんとは(間) 夫婦であった。
そして、漫談家となってからの、大辻司郎の傑作の一つに、廃兵の話といふのがある。
いまの傷痍軍人、のことで、大辻司郎は、白衣を着て、松葉杖をついて登場する。
そして、戦争の有様を語るのである。
「わが軍は――レンタイ旗の蔭になり、日なたになり、一歩進んでは、一歩退き、」
こんなことを言ったから、早速、お眼玉を食ってしまった。
昭和も初期のことで、アルデス。


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