2026年4月12日日曜日

ギョベクリ・テペ - Wikipedia

ギョベクリ・テペ - Wikipedia

ギョベクリ・テペ

第三層

この遺跡の歴史の早い段階に円形の構(temenos)が初めて現れる。直径は10から30メートル。特筆すべき特徴は石灰岩でできた丁字型の石柱であろう。石柱は同じ高さにそろえて立てられ、加工されていない石で作られた分厚い内壁はめ込まれている。いまのところ発掘により4つの円形の構が掘り出されている。さらに16の構が埋まっており、それらが1つにつき8以上の柱を備えていて、柱の数は合計200近くになることが物理探査によりわかっている。これら石材は丘の頂上から100メートルはなれたところにある岩盤の穴から切出された。労働者が燧石(フリント)の刃物によって石灰岩の岩盤から切り出していたと考えられている[19]

各円形の構の中心にはやや高めの2本の柱が向かい合わせで立てられている。これらの構が屋根を備えていたものかはわかっていない。内装として人が座れるようにデザインされたベンチが見つかっている[20]。多くの石柱は抽象的で謎めいたピクトグラムや、動物の彫刻で装飾されている。新石器時代の洞窟壁画等によく見られるように、これらのピクトグラムもコミュニティで共有する聖なるシンボルだった可能性がある。レリーフはライオンウシイノシシキツネガゼルロバといった哺乳類ヘビやその他の爬虫類昆虫蜘蛛といった節足動物そして、とくにハゲワシがモチーフになっている。この神殿が造られた当時は周囲の土地には森が広がり、これらのさまざまな生き物をはぐくむ生態系が存在していたようである。定住と農耕ダストボウルに近いコンディションをもたらしてしまう1000年前の時代である[9]。チャタル・ヒュユク、エリコでもハゲワシはよく描かれる。アナトリア、中東の初期の新石器時代の文化では死者は敢えて野ざらしにし、ハゲワシや他の死肉をあさる鳥に死体を処理させていたと信じられている(祖先崇拝の思想によるものか頭部に関しては時に保存されることもあったようである) [21]。この文化はチベットの仏教徒やイランインドゾロアスター教徒が現在も行っている鳥葬の初期の形を示しているのかもしれない[22]

いくつかの人の形をした像がギョベクリ・テペの地表で見つかっている。いくつかの丁字型の石柱には下半分に人の腕の彫刻が彫られている。このことからこれら石柱の下半分はデフォルメされた人(あるいは)の体を表しているとも考えられる。少数だがふんどしの施された石柱も見つかっている。この考え方でいくと石柱の上部は人の頭を象徴しているということになる。したがって石柱から擬人観を伺うことができる[23]。これらの石柱が崇拝者の代理として造られたのか、あるいは崇拝すべき祖先なのか、超常的な存在なのかははっきりしない。

第三層、エンクロージャ2のピラー27で、ほとんど石柱の周囲全体に彫り込まれたヒョウとみられる捕食動物の彫刻が見つかると話題を集める。狩猟採集社会の中に垣間見える芸術的訓練と職工の存在が驚きを与えた。

この一番古い層のいくつかの床はテラゾー(焼かれた石灰)で造られている。それ以外は岩盤で造られ、巨大な一対の中央の石柱を支える台座を備えている。中央の石柱にはハイ・レリーフ(彫刻のように浮き出ているレリーフ)が施される[24]。これら初期の遺構は放射性炭素年代測定により紀元前9600年から紀元前8800年と見積もられた。放射性炭素は(理由は定かではないが)遺構が石器時代の期間に埋められたことを示している。

解釈

シュミットの考えではギョベクリ・テペは石器時代の、山の神殿だった。放射性炭素年代測定から見ても、様式の比較分析から見てもこれは現在見つかっている中で最古の宗教施設であると考えられる[9][34]。シュミットは、自身が「丘の教会」と呼んでいたこの施設は周囲160キロの範囲の信徒たちをひきつけた巡礼の目的地だったと信じていた。たとえばシカ、ガゼル、ブタ、ガチョウなど地域で狩猟目的とされた動物の骨が多数見つかっている。それらには人為的に解体された痕跡があり、食べるために狩られ、または調理され、集会のために用意された食べ物の廃棄物と考えられる[35]

シュミットはギョベクリ・テペを祖先崇拝の中心地で、施された動物の彫刻は死者を守る意味をもつと捉えていた。今のところ墓石や埋葬地などは見つかっていないが 、シュミットは遺構の壁の後ろに死者を弔った痕跡が発見されるのを待っていると信じていた[9]。シュミットはまた、遺跡を新石器時代の初期段階と関連付けて解釈していた。 ギョベクリ・テペを含むいくつかの遺跡が点在しているカラジャ山英語版近辺の地域は、現代我々が栽培を行っている少なくともいくつかの穀物(例えばヒトツブコムギ)の原産地であることを遺伝学が示唆している。現代の麦の栽培品種と野生の麦を比較したところ、カラジャ山で見つかったものが遺伝子的に最も近かった。カラジャ山は遺跡から32キロ離れたところに位置している。この結果はこの地域で、現代我々が口にしている麦が初めて栽培されたという可能性を示している[36]。学者たちはこの結果を受け、新石器革命すなわち農耕の始まりはこの地域で起こったと考えている。シュミットも、他の学者と同様、野生の麦を野生動物(例えばガゼルの群れ、野生のロバなど)から守る必要性が、この地域のいくつかの流動的な集団が協力関係を築くきっかけとなったと考えている。野生の麦は以前よりも食料として積極的に用いられるようになり、そして慎重に栽培された。これが初期のギョペクリ・テペ近郊ののさまざまな集団をひとつの社会組織へと導いた要因と考えられる。したがって、シュミットによれば、新石器時代はごく小規模な菜園から始まったのではなく、「大規模な社会組織」という形から急速に発展した[37]。ギョベクリ・テペの文明自体はこの9500年前頃に消えていき、このあとのメソポタミア文明まで数千年の文明痕跡の空白期となっている[4]

シュミットは、他の神殿や民族との比較からギョベクリ・テペを築いた集団が持っていたであろう信仰体系についての推測を行っている。かれはシャーマニズムに見られる風習から、丁字型の石柱は人、とりわけ祖先を模したものと仮定した。一方で後のメソポタミヤで広大な寺院宮殿とともに発展した神々に対する信仰との共通点も指摘している。この共通点は古代のシュメール人の信仰とよく合致する。すなわち、アヌンナキの神々が住む聖なる山エクル英語版から人々に農耕、畜産、織物が伝えられたという信仰である。シュミットはこの話を中東の原始的な神話と位置づけ、この神話の中には新石器時代の発現に関する記憶が部分的に保存されているのだと考えていた[38]。また、動物など描かれたレリーフや彫刻には暴力的な描写がない。狩りの様子や、傷を負った動物などは描かれていないし、モチーフとなっている動物にはこの社会が主に食用としていたであろう動物(例えばシカ)などよりも、恐怖を掻き立てるような或いは特別な力を持つと考えられる動物、例えばライオン、ヘビ、クモ、サソリなどがおおく見られる[9][39][40]。2020年、あらたに見つかったカラハン・テペ遺跡では、丁字形の石柱のみでなくよりリアルな人間の立体像があり、その他に石柱に彫り込まれた動物のモチーフにヒョウが多いという特徴があり、ギョベクリ・テペにキツネが多かったことと対比的で[4]、これらとトーテミズムとの関りをうかがわせる。

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