2025年6月26日木曜日

ウェスタの処女 - Wikipedia

ウェスタの処女 - Wikipedia

ウェスタの処女

曖昧さ回避 ウェスタの巫女」はこの項目へ転送されています。オペラについては「ヴェスタの巫女」をご覧ください。

ウェスタの処女(ウェスタのしょじょ、ラテン語:Vestales(複数形)、Vestalis(単数形)、英語:Vestal Virgin)あるいはウェスタの乙女ウェスタの巫女は、古代ローマ信仰された床をつかさどる女神ウェスタに仕えた巫女たちのこと。ウェスタの聖職者団およびその安寧はローマの永続と安定の根本であるとみなされ、ウェスタは彼女たちの守る決して絶やしてはならない聖なるとして具現化された。ウェスタの処女たちは、結婚や子育てといった一般的な社会的義務から解放されていた。それは彼女たちが国教に遵ずることを学び、また正すことに奉仕するため、純潔を誓っていたからである。それは男性の聖職者たちにはできないことだった[1]

処女神ウェスタ

→詳細は「ウェスタ」を参照

ウェスタは家政をつかさどりまた結婚を庇護する女神であったが、自身は「結婚・出産」することのない「処女神」であった。神話そのものはほとんど残されておらず、偶像崇拝のなされなかった稀有なであった。彼女は火そのものとして崇められたのだ。藤澤桂澄は、ウェスタの処女性は今日考えられているような男性が父権制のもとでつくりあげたものではなく、それ以前のはるか昔における「母権制」の産物であった可能性を指摘している。彼女によれば、ウェスタをはじめとした「処女神」は出産による「死と再生」の神話ではなく、「異界への接続」をこそつかさどる[2]

歴史

リウィウスプルタルコスゲリウスは、国家がさだめる聖職としての「ウェスタの処女」の創設をヌマ・ポンピリウス王に帰している。伝説によれば、王は紀元前750年から紀元前673年ごろまで生きたと考えられている。リウィウスによれば、ヌマはウェスタの処女という職責を導入し、国庫から給与を支払った。ウェスタの司祭はその起源をアルバ・ロンガにもつ、ともリウィウスは語っている[3]。2世紀の好古家であるゲリウスは、はじめてのウェスタの処女たちはヌマによって親元から引き離され、その手中におかれたのだと書いている。プルタルコスはヌマ王のためウェスタの神殿をたてることに貢献した。最初のウェスタの処女は、4人いるとされる。セルウィウス・トゥッリウスがそれを6名に増やした[4]アンブロジウスが古代末期に7人目を置いたともとれる言葉を残している[5]。ヌマは最高神祇官にウェスタの処女を監督するよう命じてもいる。最初の巫女たちの名は、ウァロによれば、Gegania、Veneneia、Canuleia、Tarpeiaであった。神話では、スプーリウス・タルペイアスの娘であるタルペーイア(Tarpeia)は背信者として描かれている。

ウェスタの処女たちは、ローマで権勢をふるい、影響力をもつようになる。スッラが若きユリウス・カエサルをローマから追いやった時代には、彼女たちがカエサルのために仲裁にはいり、スッラの赦しをえたのだ[6]アウグストゥスは彼女たちをあらゆる主要な奉納式および典礼に関わらせた。首都長官クィントゥス・アウレリウス・シュンマクス英語版は、キリスト教の勃興期にローマの伝統的な信仰を守る道を探っていた人物であるが、こんなことを書いている。

我らが祖先はウェスタの処女のための法を残している。彼女たち神に仕える聖職者はまもられねばならず、また特権が与えられるとある。この恩恵は、両替商がはびこるまで侵されることがなかった。聖なる純潔をまもるためにあるものがあさましい人夫の報酬のための基金へとかえられてしまったのだ。いまや公然のものとなったこの飢饉は彼らの行いの結果である。凶作があらゆる属州の期待をくじいている…。汚聖こそが長年の不作をよびこんでいるのだ。それは全人民が信仰を拒み、堕落している限りは当然のことではないか[7]

ウェスタの聖職者団は394年に解散され、聖なる炎がともることはなくなった。キリスト教徒であるテオドシウス1世の命であった。ゾシモス(en)の記録するところでは[8]、テオドシウス1世の姪であったセレナという貴婦人が、神殿へ足を踏み入れ、女神の彫刻から首飾りをはずし、自らの首にかけたのだという。最後のウェスタの処女であった老女が、その不信心を非難して訴えでている[9]。そのころセレナは、彼女の不意の死を予言する恐ろしい夢にうなされていた、とゾシモスはいう。セレナは409年にテオドシウス1世の子ホノリウスによって処刑された。アウグスティヌスが「神の国」を著したのは、ローマが攻め落とされて帝国が崩壊したのは、千年以上も都市をまもってきた旧神が狭量であり、それにかわってキリスト教の時代が到来したことにある、という噂に着想をえたものであり、またその返答とするためであった。「ウェスタの神殿」がポンペイで発見されたことで、ウェスタの処女たちの伝説は18世紀から19世紀にかけて広く知られるようになった。ガスパーレ・スポンティーニ1807年にウェスタの処女を題材とした歌劇ヴェスタの巫女」(La Vestale)を作曲している。

ウェスタ神官長

最高神祇官の聖職者団にあったウェスタの長(ウェスタ神官長、ウェスタリス・マキシマ vestalis maxima)がウェスタの処女たちを監督していた。ウェスタ神官長オキアは、57年間にわたってウェスタを統括してきたと、タキトゥスは記録している。最後に名をのこしたウェスタの長は、380年のコエリア・コンコルディアであった。ウェスタ神官長は、ローマの女司祭たちのなかでも最高位にある重要な役職であり、唯一その執務が軍部から独立していた。

奉仕の概要

ウェスタの処女たちは、思春期にもいたらないごく若いうちから聖職につき、30年間禁欲を守ることを誓わされる。この30年という年月は学び手の10年、勤め手の10年、教え手の10年の三つの時期にわけられる。その後に、もし結婚を望むのならば、そうすることができた[10]。しかし、非常に享楽的な環境にあった彼女たちのなかには、わずかだがその尊敬を受けていた役目を放棄するものもいた。その場合はローマ法で女性に課せられていたあらゆる制限をうけ、家父長制のもとに身をおく必要があった。一方で、かつてウェスタの処女であった女性と結婚することは、たいへんな名誉とされていた。

選抜

最高神祇官は、籤によって[要出典]6歳から10歳までの若い候補者20人から巫女を6人選ぶ。候補となるにはローマの自由市民の娘であり、また心身ともに健康なことが求められ、くわえて二親が存命していなければならなかった。

亡くなったウェスタの巫女との交替で候補者となる娘は、最も貞淑なるものとしてウェスタの長の前の居所にいれられる。タキトゥス(年代記ii.30,86)によれば、紀元前19年にガイウス・フォンテイウス・アグリッパとドミティウス・ポッリオがそれぞれその娘を空位となった巫女に推薦したという。当時、アグリッパが離婚した直後であったというだけの理由で、ポッリオの娘が選ばれた。最高神祇官ティベリウス)は落選した候補者に銀貨100万枚の持参金を与えて慰撫した。

ひとたび選抜されたなら、子女は家をでなければならない。そして最高神祇官に導きをうけ、また頭髪が刈り取られる。ある高僧はそのときにこういった。「アマータ、貴女をウェスタの司祭として認めます。ローマの人々のために、ウェスタの司祭にとっての掟となる聖なる務めを果たしなさい。まったく同じように、ウェスタの巫女たちのためとなりなさい」[11]。こうして彼女たちは女神の庇護のもとにおかれた。時代が下り、ウェスタの巫女を採ることが次第に困難になるにつれ、平民やさらには解放奴隷の娘でも認められるようになった[12]

務め

彼女たちの務めは、火床と家庭をつかさどる女神ウェスタに捧げられた聖なる炎を絶やさないことである。彼女たちはまた、聖なる泉から水を汲み、典礼に用いる酒食を用意し、寺院の聖所におかれた聖具を管理する[13]。ウェスタの聖火を絶やさぬことで、そこから家政にもちいる炎をともす彼女たちは、ローマ人の宗教観にあって彼らの「代理母」となった。この聖なる火は、帝国においては帝室の炎ともみなされた。

ウェスタの処女たちは、様々な人々の聖約や意志をまもり続けるという職務も持っている。そこにはカエサルやマルクス・アントニウスといった人物も含まれていた。また彼女たちはパラディウムも含めたいくつかの聖具の保護や、ひろく神への供物とされていたモラ・サルサというと塩をまぜた特別な粉をつくってもいた。

特権

彼女たちに認められた地位はたいへんなものだった。

  • 信仰が非常に篤かった時代には、ウェスタの処女たちの聖職者団は幾多の典礼に参加を求められた。彼女たちがそこに向かうときには、常にリクトルが先導する二輪の乗物に載せられた。
  • 競技会や公演会があるときには、来賓席が用意された。
  • ローマの一般の女性たちとは異なり家父長制のもとになく、財産権をもち、意志の表明や投票ができた。
  • 通常の宣誓なしに証言をすることができ、その言葉は疑われることなく信じられた。
  • 清廉潔白な人間であるとされ、条例のような公文書や重要な決定などにその意見が求められた。
  • その人格は不可侵なものであった。その身体を傷つけることは死罪を意味し、つねに護衛する人間がついた。
  • 有罪となった囚人奴隷に面会することで解放してやることができた。もし死刑を言い渡された人間が処刑のまえにウェスタの処女に会うことが出来れば、自動的に赦されることになっていた。
  • 5月15日にはテヴェレの川へアルジェイ(en)と呼ばれた宗教的な藁人形を投げ込む役がまかされていた。[14][15]

刑罰

聖なる炎を絶やすことは義務の深刻な怠慢であり、鞭打ちによって罰せられた[16]。ウェスタの処女たちの純潔はローマ国家の安定と直接関わっていると考えられていたのである。聖職者団へと入るということは、彼女たちの父の権威を離れ、国家の娘となることであった。したがって市民とのあらゆる性的関係も近親相姦(incestum: 必ずしもいわゆる近親相姦だけではなく、宗教的純潔を汚す行為全般を意味する)であり、背信となる[17]。禁欲の誓いを破ったものは、カンプス・セレイタス(コッリーネ・ゲートのちかくの地下房)にわずかな水と食料のみを与えられて生き埋めにされた。 古代の信仰によれば誓いを破った巫女は市内に埋める必要があった。なぜなら、それこそが巫女の血を流すという禁忌を犯さずにその命を奪う唯一の方法だったからである。しかし、こうした刑の執行はローマ法によるものではなかった。ローマ法には市民を地中に生き埋めにしてよいなどとは書かれていないからである。この矛盾を解決するために、ローマ人は禁を破った巫女に名ばかりの食料とその他こまごましたものを持たせた上で、地下に押し込めた。すなわち、市内で人の手によって命を奪われたのではなく、あくまで罰を受けるために別の部屋に移ったという体にしたのである。これにより、彼女は自発的に死んだということになる[要出典]。不貞を理由にした刑罰はめったにないことではあった[18]。ウェスタの処女トゥッキアは姦淫を咎められたが、その貞節を証明するために"ざる"にのせられ川を流された。

おお、女神ウェスタよ、私がいまも穢れなきしるしもて貴女への神秘なる勤めをはたしているのならば、すぐにこの"ざる"からテヴェレの水を汲みだし、貴女の聖なる社へと注ぎたまえ。[19]

ウェスタの処女性はそのまま聖なる炎のさかりと結びついていると考えられていたからである。もしも火が消えるようなことがあれば、それはウェスタの処女が間違いを犯したか、単に役目を放棄しているかのどちらかだとされた。最終的な判断はウェスタ神官長か最高神祇官の責任でなされ、司法機関にはよらなかった。ウェスタの処女の秩序は、1000年以上にわたって保たれ、その間に不貞を咎められ有罪となった記録は10しかない。その審判はどれもローマが政治的に不安定な時期になされたものだ。それはウェスタの処女たちが危機の時代にはスケープゴートにされたということを示唆している[17][20]

アルバ・ロンガにおける最初期のウェスタの処女は、性交を理由に鞭打ちをうけ絶命したといわれる[要出典]。タルクィニウス・プリスクス(在位:紀元前616年 - 紀元前579年)は巫女の生き埋めという刑罰を定めた人物であるが、彼は女司祭ピーナーリアにその罰を与えている[21]。しかしときに幽閉に先立って鞭打ちを行うこともあり、紀元前471年にウルバーニアが受けている。

不貞の嫌疑を初めて受けたのは、ミヌーキアであった。彼女がはしたないほど美装を好んだことが奴隷からも証言され、有罪となり、生き埋めにされた。ポストゥミアも同じ嫌疑を受けた。彼女はリウィウスによれば無罪なのだが[22]、そのみだらな整容と慎みに欠けたふるまいが不貞だとして審判にかけられた。ポストゥミアは「そのおふざけ、あざけり、浮かれた気まぐれをやめるように」という厳しい警告を受けている。アエミリア、リキニア、マルティアは異邦人の騎手の従者から訴えられ、処刑されている。情婦として有罪となった巫女は、広場や集会所で死ぬまで鞭で打たれた[23]。無罪放免となった巫女はわずかだったが、神判をへて容疑をはらしたものもいた[24]

ウェスタの処女たちの家

→詳細は「巫女たちの家」を参照

ローマにはウェスタの処女たちが暮らす住宅(Casa delle Vestali)があった。パラティーノの丘の麓、神殿の真裏にあったウェスタのアトリウムは三階建てだった。

著名な人物

  • レア・シルウィア - 処女であるべきレアと軍神マールスの間に生まれたロームルスとレムスによってローマは建国された。
  • ヘリオガバルス -国禁を犯してウェスタの処女と結婚した背徳のローマ皇帝
  • アクウィリア・セウェラ英語版 - ローマ皇帝ヘリオガバルスの被害者で、再婚相手にさせられたウェスタの処女。半年で離婚
  • アエミリア - ウェスタの炎が消えた際に、自らの服を投げ入れて炎を再び点した巫女
  • Tuccia英語版 - 処女性を疑う告発を受けるが、儀式で潔白を証明したウェスタの処女。

脚注

  1. ウェスタの処女についてのより浩瀚な研究については以下を参照 Ariadne Staples, From Good Goddess to Vestal Virgins: Sex and Category in Roman Religion (Routledge, 1998).
  2. 藤澤 2004年、pp.112-116
  3. リウィウス, ローマ建国史, 1:20
  4. "Life of Numa Pompilius" 9.5-10.[リンク切れ]
  5. "Letter to Emperor Valentianus", Letter #18, Ambrose
  6. Suetonius, "Julius Caesar", 1.2
  7. "The Letters of Ambrose", The Memorial of Symmachus
  8. "The New History", 5:38, Zosimus
  9. "The Curse of the Last Vestal", Melissa Barden Dowling, Biblical Archaeology Society, Archaeology Odyssey, January/February 2001 4:01.
  10. "Life of Numa Pompilius", Plutarch, 9.5-10, 2nd century A.D[リンク切れ]
  11. "Vestal Virgins", Aulus Gellius, Attic Nights 1.12.STOA.org
  12. "Vestal Virgins", Encyclopedia Britannica, Ultimate Reference DVD, 2003.
  13. "Vestal Virgins", Encyclopedia Britannica, Ultimate Reference Suite, 2003.
  14. Dionysius of Halicarnassus, Roman Antiquities, i.19, 38. Penelope.uchicago.edu
  15. William Smith, "A Dictionary of Greek and Roman Antiquities", John Murray, London, 1875. Penelope.uchicago.edu
  16. "Vesta", Encyclopedia Britannica, 1911 Edition
  17. ^ a b "Vestal Virgins - Chaste Keepers of the Flame", Melissa Barden Dowling, Biblical Archaeological Society, Archaeology Odyssey, January/February 2001 4:01.
  18. "Vesta", Encyclopedia Britannica 1911 Edition
  19. Vestal Virgin Tuccia in Valerius Maximus 8.1.5 absol.
  20. 都市の安定はなんらかの形でウェスタの処女たちの心身の純性とかかわりをもっていると考えられていたため、時代によっては疑惑がしばしば騒動の種となった。潜在的なスケープゴートであったということは、毎年5月15日になるとウェスタの処女たちがテヴェレの川にアルジェイ(人柱のかわりに用いられた人形)を投げ込んでいたことからも推測される。以下を参照のこと "Religion of Ancient Rome", C.C Martindale, Studies in Comparative Religion, CTS, Vol 2, 14:7
  21. "History of Rome", Book 8.15, Livy
  22. "History of Rome", Book 4.44, Livy
  23. Howatson M. C.: Oxford Companion to Classical Literature, Oxford University Press, 1989, ISBN 0-19-866121-5
  24. "Patria Potestas". www.suppressedhistories.net. 2010年1月27日閲覧。normal

参考文献

関連文献

[編集]
  • Harry Thurston Peck, Harpers Dictionary of Classical Antiquities (1898)
  • Parker, Holt N. "Why Were the Vestals Virgins? Or the Chastity of Women and the Safety of the Roman State", American Journal of Philology, Vol. 125, No. 4. (2004), pp. 563-601.
  • Samuel Ball Platner and Thomas Ashby, A Topographical Dictionary of Ancient Rome
  • Wildfang, Robin Lorsch. Rome's Vestal Virgins. Oxford: Routledge, 2006 (hardcover, ISBN 0-415-39795-2; paperback, ISBN 0-415-39796-0).

外部リンク

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]

膠着語

<めざせ語学マスター>日本語は膠着している

中国語、チベット語、ビルマ語は孤立していて、日本語、モンゴル語、トルコ語は膠着している。ドイツ語、フランス語、イタリア語は屈折しているが、アイヌ語、アメリカンインディアン諸語は抱合している・・・。

どういう意味!?

というわけで、今回はこの類型についてのお話。
一般に膠着語とは、語の文法的な機能が語に付加される、独立性のない形式で表される言語です。膠着語は英語でagglutinative languages、日本語と同じく「くっつく言語」です。

例えば、

花が咲く。
花が咲いた。
花が咲いている。
花が咲いていた。
花が咲きそうだ。
花が咲くかもしれない。
花が咲いていたかもしれない。

など、動詞は「咲く」なのに、その活用のあとに「た」「ている」「ていた」「そうだ」「かもしれない」など、接尾語がどんどんくっついていきます。これが特徴です。膠着語は接尾語だけでなく、「お弁当」の「お」や「無感覚」の「無」のように頭につく場合もあります。

上の例を今度は中国語にしてみます。

花が咲く。
花が咲いた。
花が咲いている。
花が咲いていた。
花开。/开花。

(文脈次第で、
「花が咲く。」にも、
「花が咲いた。」にも、
「花が咲いている。」にも、
「花が咲いていた。」にも解釈可能。)

花が咲きそうだ。 花快要开了。
花が咲くかもしれない。 花可能会开。
花が咲いていたかもしれない。 花可能已经开了。

最初の4文は同じ表現で表すことができます。
また、「かもしれない」などは「可能」などが入っているのが分かります。日本語のように動詞にどんどん他の語がくっついているわけではないようです。
中国語のように語が形態変化せず、名詞や動詞のような主要な品詞の文法的機能は、語順によるか、特別の語を用いて表される言語を「孤立語」(Isolating language)といいます。

次はどうでしょう。
(英語)

花が咲く。 The flowers bloom. /  The flower blooms.
The flowers will bloom. /  The flower will bloom.
花が咲いた。 The flowers bloomed./ The flower bloomed.
花が咲いている。 The flowers are blooming./ The flower is blooming.
The flowers are in bloom./ The flower is in bloom.
花が咲いていた。 The flowers were blooming. / The flower was blooming.
The flowers were in bloom. / The flower was in bloom.
花が咲きそうだ。 The flowers are about to bloom. /The flower is about to bloom.
花が咲くかもしれない。 The flowers may bloom. / The flower may bloom.
花が咲いていたかもしれない。 The flowers may have bloomed./The flower may have bloomed.

(フランス語)

花が咲く。 Les fleurs fleurissent. / La fleur fleurit.
Les fleurs fleuriront. / La fleur fleurira.
花が咲いた。 Les fleurs ont fleuri. / La fleur a fleuri.
花が咲いている。 Les fleurs sont en train de fleurir. / La fleur est en train de fleurir.
Les fleurs sont en fleurs. / La fleur est en fleur.
花が咲いていた。 Les fleurs étaient en fleurs. / La fleur était en fleur.
花が咲きそうだ。 Les fleurs sont sur le point de fleurir. / La fleur est sur le point de fleurir.
花が咲くかもしれない。 Les fleurs peuvent fleurir. / La fleur peut fleurir.
花が咲いていたかもしれない。 Les fleurs peuvent avoir fleuri. / La fleur peut avoir fleuri.

日本語では複数か単数かは表現していなくても、英語やフランス語にする場合はそれを決める必要があります。上の表ではthe やla, les などの定冠詞で表していますが、さらに a やune, des のような不定冠詞となる場合もあります。さらに日本語の動詞は基本的に原則動作動詞で、辞書系「咲く」が未来を表します。一般的に「(春には)花が咲く」のような場合は現在形、「(今から)花が咲く」は未来を表します。

上の文章を見れば明らかなように、英語やフランス語になると、「かもしれない」をmay のように助動詞を付けることがありますが、基本的には動詞(bloomやbe動詞)を未来形や過去形などに変化させて細かいニュアンスを表します。これが屈折語(inflected languages)です。

孤立語 isolating languages 中国語、ベトナム語、ラオス語、タイ語、クメール語、サモア語、チベット語、ビルマ語など
膠着語 agglutinative languages 日本語、朝鮮(韓国)語、モンゴル語、トルコ語、ハンガリー語、ツングース諸語、フィンランド語、タミル語、ウイグル語、ウズベク語など
屈折語 inflected languages 英語(*)、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、ラテン語、アラビア語など
抱合語 polysynthetic languages アイヌ語、アメリカンインディアン諸語

(*)英語は名詞や動詞があまり活用しないので孤立語的な特徴を持っているとも言われています。

この孤立語、膠着語、屈折語という類型の起源は、ドイツのカール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt、1767 – 1835年)にさかのぼります。

彼はドイツ(当時はプロイセン)の貴族、外交官であり教育制度改革者です。弟は探検家、地理学者のフリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト。弟は虫や植物が好きで南北アメリカへの大冒険もした人ですが、兄のほうは、書斎にこもって勉強するタイプだったようです。貴族・外交官というポジションを生かし、世界中に散らばった宣教師や商人、外交官、植民地行政官、探検家、学者仲間(弟を含む)というネットワークを得て、様々な言語の資料を取り寄せては、その形態と文化の違いを解明しようとしました。そう、19世紀の初頭といえば、ヨーロッパは植民地開拓の時期、日本はまだ鎖国している江戸時代。今年NHKの大河でやっている渋沢栄一は1840年生まれで、まだ生まれてもいません。

植民地時代の言語研究の目的はやはり植民地を作るためであり、非ヨーロッパ人を改宗させるためでした。フンボルトを含めて、当時の学者たちは、名詞や動詞の内部で音を変化させて単数か複数か、主語か目的語か、男性名詞か女性名詞か、過去か現在かを示す屈折語は最も複雑に入り組んだ概念を組み立てることができる優位な言語であると考えていました。

彼はスペイン北部のバスク地方へ旅をしたときに、古典の伝統や書き言葉による文学がなく、インド・ヨーロッパ語族とは関係のない、「未開の」言語、バスク語に出会って「あこがれ」を抱きます。そのあこがれはアメリカ先住民の言語に向き、バチカンでプロシア大使をしていたときにイエズス会が持ち帰ったアメリカ先住民の資料を研究し始めました。そこでこの言語が「単語の内部の音を変化させて微妙な文法的差異を示すのではなく、複数の単語や単語の断片をくっつけて別の単語が形成される」、つまり「膠着語」であると分類したのです。しかし、膠着語は屈折語によって可能な「頭の回転の速さや思考の厳密さ」が阻害された言語、つまり屈折語より劣る言語だと考えました。

さらに彼は中国語において孤立語に遭遇します。中国語は単語の音の変化で文法的な関係を示したり(屈折語)、単語同士をくっつけて複雑な意味を作ったり(膠着語)せず、一つの概念を一つの変更できない単語の中に閉じ込めて、語の順序だけでそれぞれの概念が互いにどう関連しているのかを示す、世界でもっとも原始的な言語の一つにみなされるべき、としました。

しかしその後、当時ヨーロッパ随一の中国学者ジャン=ピエール・アベル・レミュザと手紙のやりとりを通じて自分の説を修正し、中国語は非常に洗練された言葉として賞賛するようになりました。ひとつひとつの単語が侵すことのできない概念を示しており、屈折語では豊富な音標識が精神の負荷を軽減するのに対して、そのような標識がない中国語では、個々の単語が合わさって全体としてどのような意味の複雑な思考を表しているのかを常に考えなければなりません。中国語で考えるのは屈折語で考えるよりも明敏さや厳密さに欠けるかもしれないが、より抽象的で深淵で複合的な解釈に適している、つまり中国語は純粋な思考の言語なのだ、という結論に達します。

(中国語=どこか仙人的なイメージ・・・だったんでしょうか?)

さらにフンボルト氏は考えます。
「中国語に屈折がないのは、使える音のレパートリーが限られていたせいで、この音声面の貧困は、中国の住民が歴史的に単一で安定していた結果だ。何世紀にもわたって中国は住民の移動や異なる言葉の混じりあいなど、音のレパートリーを豊富にする出来事を免れてきたんだ。」
通常彼は文化の交配をよしとしていましたが、ここでは中国語が自らの孤立を長所に変えたと認めました。いっぽうで、中国語自体が中国文化の歴史的な統一と安定に貢献してきたとも考えました。

このように屈折語、膠着語、孤立語と言語を分類した彼はこの考えを確固なものにしようと、テストケースを求め、マラガシ語、マレー語、ジャワ語、ブギス語、トンガ語、タガログ語、マオリ語、タヒチ語、ハワイ語などのマレー・ポリネシア諸語の研究を進めます。そしてカヴィ語という中世のジャワ島の言語の研究(「カヴィ語研究」)を未完のまま亡くなってしまいます。

今でも使われているこの言語の類型は、古典的類型論と言われています。今ではフンボルトのように(彼だけが特別なのではなく、彼の時代では一般的だった)孤立語→膠着語→屈折語の順で洗練されている、などの考え方はされなくなりました。

古典的分類以外に現在では、主語(S)と動詞(V)、目的語(O)の配置から「SOV」「SVO」「VSO」に分ける分類や、音韻対応が認められる言語から「インド・ヨーロッパ語族」「シナ・チベット語族」「アフロ・アジア語族」「オーストロネシア語族」「ニジェール・コンゴ語族」などに分ける方法もあります。

でも、古典的分類は文法的特徴として今でも使われており、「英語には孤立語的な特徴もある」など、言語の特徴を表します。

個人的には、200年以上も前のインターネットがない時代に、フンボルトを始め当時の学者たちが実に多くの資料を集めたという事実に驚きます。フンボルトは日本語についてもメキシコから輸入した日本語の入門書をかじっていたそうです。その本は鎖国政策によって日本から追い出されメキシコに渡ったイエズス会宣教師の手になるものだったとか。言語の把握が植民地拡大につながっていたことや、その分類に多少差別的な考え方が混じっていたとしても、彼らの言語に対する飽くなき探究心には脱帽します。(鍋田)

参考文献:<翻訳>ヴィルヘルム・フォン・フンボルトと言語の世界 イアン・F・マクニーリー講演、石田文子訳
言語の基礎 NAFL日本語教師養成プログラム


<めざせ語学マスター>日本語教育に関するブログはこちら

英語は聞いていたらペラペラになる・・・か?(クラッシェンのモニター・モデル)
チョムスキー・ナウ(Chomsky, Now)!
「宇宙へ」は行くけれど「トイレへ」は行かない?―「へ」と「に」の違い
「は」と「が」の違い
ネイティブチェックは「ネッチェッ」になるか。拍(モーラ)と音節
ハヒフヘホの話とキリシタン
日本語は膠着している
ネイティブ社員にアンケート!
RとLが聞き分けられない!?
シニフィエとシニフィアン
文を分ける 文節&語&形態素
やさしい日本語
来日外国人の激減について
学校文法と日本語教育文法
日本語教育能力検定試験に落ちました

アキレウス - Wikipedia