『莫囂圓隣歌』の完全解読
はじめに(序文)
『莫囂圓隣歌』。その1000年以上、その訓みや内容が謎とされたこの難読歌ですが、従来の解釈が個々の文字の音や、部分解釈に終始し、歌全体の意味や背景を解き明かすに至らなかったのに対し、私の考察は、この歌の難解さの根本的な理由に迫り、現状において『莫囂圓隣歌』の謎を解き明かすための最も有望な「仮説」となると考え、noteに書き残す次第です。
これまで部分的な解釈、読みに終始してきたこの和歌に対し、全文での合理的な歌解釈、読みを導き出した事をもって完全解読とさせていただきました。
于紀溫泉之時額田王作歌
『莫囂圓隣之大相七兄爪湯(謁)氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本』
※
万葉集の解読が始まったのは平安時代中頃からとされているようです。一部の知識人の間で『万葉集』は読まれていましたが、すでに平安時代(794~1185年)には、万葉集の万葉仮名や古代語(上代日本語)の使用とその後の言葉の変化により、既にその内容を読み解くのが難しくなっていました。万葉集が編纂された奈良時代(8世紀)から数百年が経ち、言語や文字体系が大きく変化したためです。平安時代の貴族や学者にとって、万葉集の原文は理解しづらいものとなっていました。万葉仮名の読み解きや語義の理解は不完全で、全体を正確に解釈するのは困難だったのです。
本格的かつ体系的な解読は、江戸時代の契沖による『万葉代匠記』(17世紀末)以降に加速したとされています。しかしそのような状況においてもなお読みも訓みも全てにおいて困難を極めているのが額田王の作とされる巻1の9番歌、通称『莫囂圓隣歌』(ばくごうえんりんか)です。
平安以来多くの学者や市井の知識人が『莫囂圓隣歌』の読み解きを試みてきたようですが約1000年経た現代においても、歌全体の解読どころか、追随する有力かつ説得力のある定説すら存在しません。(部分的には説得力ある説、解釈はあるとは思います。)またそれ故に当然歌が持つ全体の意味、そして真意には全く至っていないというのが現状のようです。実はこの歌を読み解くにあたりその歌の伝えたい真意、創作背景、なまじ古典の知識があるがゆえに古典知識のバイアスによって歌の本質、本意に気付けないという構造なのです。読むのに必要なのは当時の歴史的、政治的な情勢や背景で、それを知った上で読み、歌の主張の理解に及ぶ類の歌であり、歌のみでその歌の情景や主張の理解は不可能な歌なのです。またその歌の複雑な構造自体は額田王の意図であり、あえて解り辛く、難解にしているのでした。
ここでの考察により『莫囂圓隣歌』の多重層な歌の構造と、隠された真意と、この歌で詠っている斉明天皇のお気持ち、それを複雑で難解な歌にしたためた背景、またそれを可能にした額田王の知性と技巧、独創性を顕にします。
またこの歌の真意や背景、歌の構造が理解出来た事で当時の本来の歌の詠みをこれまでの諸説以上に真に近いものを提示できる、出来たと思います。そして読み解く過程と結果で知れる新しい気づきや歴史の新しい発見もご紹介できると思います。
(解読としたのは『莫囂圓隣歌』の真意や構造であり詠み(音)はあくまでもそこから合理的に推察できるものです。ですが既存の詠みに比べて合理性のある解釈で当時の詠みに近づけたと思われます。)
※:「謁」は「湯」の誤字など諸説あり。私は文脈上「湯」であると確信してそれを使用します。またこれについての理由などは後述いたします。
結論(大枠の概要)
歌の真意・構造
・『莫囂圓隣歌』は斉明天皇の紀の湯行幸時に詠われた恋歌の裏に、有間皇子の変の驚きと処刑されてしまった有間皇子の魂の安寧、有間皇子を謀略で貶めて覇道を邁進する自身の子、中大兄皇子について言及した二重構造三通りに詠める構造の和歌 。
・斉明天皇と額田王、また中大兄皇子を知るものは有間皇子の変が中大兄皇子の謀略であることを感づいていた。
・「圓」を「大和、和、倭、朝廷、調和、輪」に連想し、比喩として使用している、またはそのように当時の日本人が認識している事が確認できる最古のサンプル。
・漢詩風の装いに比喩と連想語で多義的な読み、詠みの歌を作成した額田王の比類なき知性と技巧と独創性。
これらの意味を理解した上での私のこの歌の詠み(音)を提示しておきます。
・「ばくごうえんりんの たいそうななせつめ(たいそうななせかわ)のゆげ わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと(いごかしがもと)」
※
※()内で別の詠みを提示していますが、これはどちらも二重構造上どちらも正しいとしています。この二重構造は詳しくはこの後の推論の過程1と5で後述します。
推論の過程1
①『莫囂圓隣歌』は”表面上”は凡庸な恋歌に見える。
まずこの歌は理解が現在でも出来ないでいる前半部分と訓読み、読み下し可能な後半の句で分けられています。謎の前半の句を一旦置いておくとして、後半の句はある程度読み合わせができています。後半の句だけ読めば比較的凡庸な恋歌とも見えます。
主要な解釈として
・「わが背子がい立たせりけむ厳橿が本」(読み下し)
/ わがいとしい背の君がお立ちになっていただろう、神聖な橿の木の下(現代語訳)(出典:万葉百科奈良県立万葉文化館)
研究者によって解釈は多少違いますが、大半概ね恋歌として解釈しております。これは読み下しの段階で「吾瀬子」を「わが背子」と解釈し、「背子」が「女性が男性を親しんでいう語」(出典:デジタル大辞泉(小学館))という事から類推したものでしょう。
単純な解釈としては「愛しい人と別れ難い」というニュアンスの和歌ということになります。非常にシンプルでストレートな和歌です。悪くいえば最初の句がどのような効果を発揮しているか分からない中では後半の句だけでは平凡な句にも見え、万葉集の冒頭部を飾るに相応しいのか疑問に思ったのが解読をはじめるきっかけであり、端緒でした。また当然万葉集の編集前、飛鳥時代から良歌として紡ぎ伝えられたからこそ万葉集に蒐集されてきたはずです。この複雑で難解な歌が残った理由があったはずです。
②『莫囂圓隣歌』は凡庸な恋歌ではない。
ここでいきなり①で言及した「平凡な句」の主張をひっくり返します。上記で万葉集の冒頭部を飾るに相応しいのか疑問におもった事を記しましたが、もう一つの疑問として私の中であったのは斉明天皇の紀の湯への行幸時に有間皇子の変がおきており、甥にあたる若い皇子が斉明天皇自身の子である中大兄皇子により誅殺もしくは謀殺されています。はたして①で指し示したような恋歌を詠う気持ちになれるでしょうか?
有間皇子(ありまのみこ)は、飛鳥時代の皇族で、舒明天皇の孫、孝徳天皇の皇子にあたる人物です。そのため、孝徳天皇の姉にあたる斉明天皇から見ると、有間皇子は甥にあたります。皇位継承争いに巻き込まれ、中大兄皇子と対立して謀反を疑われ、紀伊で捕らえられ処刑されたとされます。この一連の騒動を有間皇子の変といいます。
仮に『莫囂圓隣歌』が有間皇子の変、有間皇子の誅殺前に作成したのだとしても、恋歌を積極的に残すでしょうか?私は疑問に思いました。また当初、私は和歌を読み始めて程なく「吾瀬子」(「我が背子」)が恋歌で頻出する定型的な呼びかけの表現ということが私の認識に紐付けされておらず、私にはこの歌が恋歌には読めませんでした。私には当初、「吾が背負った子が旅立った橿の木の下」と読めました。古代文学、万葉集などに長けた方から見れば笑われる訓み方なのかも知れません。「吾が背負った子」という解釈は直ぐに違うのだと気づきましたが、ですが私にはこの歌の背景、有間皇子の不幸を知った上で見るとどうしても「有間皇子が橿原の元、その地に旅立った」とする歌、有間皇子の魂の安寧を願う歌にどうしても見えたのです。
古代史に明るい方ならご存知かと想いますが橿原は大和大権の初代の大王、神武天皇が即位し建国した地です。橿原は大和大権にとっては始まりの地であり聖地であります。大和大権は武力よりは血脈によるつながりによってその影響力を木の枝や根のように拡げていきました。まさに橿原の地は橿の木(大和の)の下(元)ということがいえます。もちろん橿の木の下という解釈は既に主説の一つとしてあるようで、万葉百科奈良県立万葉文化館でも「厳橿が本」(いつかしがもと)として訓まれております。ですがあくまで解釈は厳かな(神聖な)橿の木の下との直接的な意味合い以上には言及してはいないようです。
③『莫囂圓隣歌』は二重構造の歌として読み解く
私は上記から①、②をもって『莫囂圓隣歌』は二重構造の歌として仮説を立てて『莫囂圓隣歌』を読み解き始めました。そうするとこの歌を何故二重構造(だっだと仮定)にしたのでしょうか?当然それは有間皇子の変が絡んでいます。現代の歴史家でも多くの方がこの変は中大兄皇子の謀略だという考察・指摘をしています。この背景には中大兄皇子のその凶暴さが背景にあると考えられます。
中大兄皇子の凶暴性
私の記憶では学生時代の歴史の授業で中大兄皇子が強暴だったとは教えてもらっていた訳ではありません。ただし改めて歴史を詳しく見るとその凶暴性が顕わになります。有名なのはやはり乙巳の変でしょう。乙巳の変を含め、その凶暴なエピソードを列挙してみます。
・乙巳の変での蘇我入鹿暗殺(645年)
中大兄皇子は中臣鎌足らと共謀し、飛鳥板蓋宮の大極殿で蘇我入鹿を剣で斬殺。入鹿が皇極天皇に訴える中、「入鹿は皇位を狙った」と断じ、暗殺を正当化。計画的に宮門を閉鎖し衛門府を動員するなど、冷徹な実行力を発揮しました。
・蘇我氏関連勢力の粛清(645年)
乙巳の変後、軍勢を集め、蘇我氏の軍衆を瓦解させるなど、反対勢力を容赦なく一掃。蘇我氏の残党を徹底排除し、権力基盤を固めました。
・古人大兄皇子への敵対的行動(645年~650年頃)
異母兄で皇位継承候補の古人大兄皇子(蘇我氏系)を乙巳の変で孤立化。後に法興寺で出家を強要し、最終的に処分されたとされます。日本書紀では「ある本」二書に語らせているのみではありますが、一書に、11月30日の事として中大兄が討伐を命じ、古人大兄を殺させた旨が記されています。まさに皇位確保のため、兄への冷酷な策略を展開しました。
・孝徳天皇の朝廷内孤立化(645年~654年)
乙巳の変後、孝徳天皇を即位させたが、実権を握るため難波宮への遷都を主導し、飛鳥から遠ざけた。中大兄は飛鳥で実務を掌握、孝徳の詔(「白雉」改元など)を無視し、朝廷内で影響力を削ぐ。孝徳は孤立無援で病没(654年)。叔父への非情な政治的排除を実行します。
・有間皇子の処刑(658年)
孝徳天皇の皇子・有間皇子が謀反を企てたとされ、18歳で捕縛・処刑。謀反の証拠は不明で、中大兄の政敵排除の陰謀と推測される。精神疾患を装う有間を容赦なく死に追いやりました。
・大海人皇子との対立(660年代~70年代)
『藤氏家伝』によると、中大兄(天智天皇)は弟・大海人皇子(後の天武天皇)と対立。宴席で大海人が槍を床に突き刺した際、激怒し殺害を企てたとされる。その後大海人皇子は政の忠臣から外されました。天智天皇に、大友皇子をして皇位を継がせる意図と思われます。その後大海人皇子を出家し吉野に退けさせたとします。
いずれも伏線・背景もあるので表面上に見える逸話だけで「凶暴」とレッテル張りはよろしくないですし、権力闘争にはこのようなエピソードがついて回るのは必然でしょう。とはいえこのような逸話も随分数と多く、なかには乙巳の変のように自ら刀で人を切るというのは強烈です。また政治的に自身の皇位確保のために謀略を繰り返すのは「凶暴」ではありながらも躊躇無く覇道を進む凄みすら感じてしまいます。
当然これらの出来事を傍で見ていた母である斉明天皇、中大兄皇子に寵愛されたとする説もある額田王は当然、有間皇子の変の一報を聞いたときに頭に中大兄皇子の事がよぎったと思われます。
私はこの覇道を邁進する中大兄皇子の凶暴性を恐れた、いや、恐れというより反抗することもなく、故に害が及ぶことはない二人には「憂う」という言葉が適切でしょうか。ただし角をたたせてもいい事もないでしょう。二人は波風をたたせない事を良しとして有間皇子の為にこの歌を詠ったと考えられます。
④『莫囮圓隣歌』は何を詠った歌なのか
上記結論でも述べているように『莫囂圓隣歌』は斉明天皇の紀の湯行幸時の恋歌の裏に、有間皇子の変の驚きと処刑されてしまた有間皇子の魂の安寧と有間皇子を謀略で貶めて覇道を邁進する自身の子について言及した二重構造の歌 です。特に弟である孝徳天皇、その息子であり、自身の甥である有間皇子の若くしての死、それも自身の息子が死においやった訳ですから心は大いに揺れたと思われます。まずはそのお気持ちを歌にしたためたということでしょう。そしてその訓みとともに中大兄皇子の覇道に対しても訓めるようにしたという創作の流れだと思われます。
ただし、上記でも述べたように追悼の意を露骨にそれを表明はできません。なので額田王はその知性と技巧を駆使し、表面上は前半を漢詩風にし、どうとでも解釈できる様相、後半部分を恋歌の様相にしてその真意を比喩などを駆使ししたためました。(いずれも詳しくは後述)
推論の過程2
①漢字と研究者達の解釈を見ていく。
まず解読・思考プロセス1の仮説と状況を元に謎の前半二句のうち『莫囂圓隣之 大相七兄爪湯』を見ていきます。
まずそれぞれの漢字の意味はどういう意味を成すのでしょうか。
(飛ばしてもかまいません。必要に応じて閲覧、または自身で調べていただければ結構です。)
莫(バク、マク):
意味:否定(~しない)、大きなもの、夕暮れ(「莫大」「莫れ」)。
音:上代日本語では「バク」または「マク」。万葉仮名では「マ」。
囂(ゴウ、キョウ):
意味:騒がしい、喧噪。
音:「ゴウ」が一般的。「キョウ」はまれ。
圓(エン、ワ):
意味:円形、完全、調和。
音:「エン」または「ワ」(「輪」に通じる)。
隣(リン、トナリ):
意味:隣接、近さ。
音:「リン」が一般的。「トナリ」は訓読み。。
之(シ、ノ):
意味:の、行く、~へ。
音:万葉集では「シ」が多いが、文脈で「ユク」も。
大(ダイ、タイ、オオ):
意味:大きい、偉大。
音:「オオ」が訓読みで自然。
相(ソウ、ショウ、アイ):
意味:互いに、見る、様子、相手。
音:「アイ」が恋愛詩で頻出。「ソウ」は形式的な響き。
七(シチ、ナナ):
意味:数(7)、多数。
音:「ナナ」が自然。「シチ」は漢風。。
兄(ケイ、キョウ、アニ):
意味:兄、年上の男性、敬称。
音:「アニ」が恋愛詩で一般的。
爪(ソウ、ツメ):
意味:爪、細かい部分。
音:「ツメ」が自然。
謁(エツ、ヤス、アウ):
意味:謁見、申し上げる。
音:諸本で「湯(ユ)」とされる場合が多い(誤字説あり)。
氣(キ、ケ):
意味:気、雰囲気、霊気。
音:「ケ」が一般的。
少々長くなりました、続いて『莫囂圓隣之大相七兄爪湯(謁)』を各研究者がどのように読み解いているか見てみましょう。wikipediaに良い参考例が一括掲載されているので参考にさせていただきます。
(飛ばしてもかまいません。必要に応じて閲覧、または自身で調べていただければ結構です。)
仙覚
仙覚は『仙覚抄』に「ユフヅキノ アフギテトヒシ」と記した。「莫囂圓隣」は「静かな満月の月」すなわち「ユウズキ」としている。また『仙覚奏覧状』では、「大相」を天を見上げる「大見」として「仰ぎ」と訓み、「爪」は「手」すなわち「て」と訓み、「謁気」は「登比師」すなわち「といし」と解いている。
契沖
契沖は、仙覚の解釈を受け継ぎつつ『代匠記』の精撰本で「ユフヅキシ オホヒナセソクモ」と記した。「謁氣」は「靄気」すなわち「くも」と訓むとしている。
水戸光圀
水戸光圀は、契沖の解釈を受け継ぎつつ『釈万葉集』で「莫囂図隣之」を字音訓みで「マガヅリノ」と記した。「圓」を「図」の誤記と解釈し、「マガヅリ」とは「曲鈎」の意味で曲がった鈎のような月、すなわち新月と解している
荷田春満
荷田春満は、『僻案抄』で2つの試訓を挙げている。「ユフグレノ ヤマヤツイユキ」の訓みでは、「莫囂圓」を「奠器國」の誤りとしたうえで奠器から木綿(ユフ)を連想し、また第2句の「大相」を「大きな姿」として「山」の義訓と解し、「七兄」は「七歳の兄」の意味で「ヤツ」と訓めるとし、「爪」は「瓜」と解して「ウリ」の約言「イ」とした。また「ユウギリノ ソラカキクレテ」では、「大相」をさらに大きな空(天)の義訓と解し、「七兄」の2字を「虎」の1字としたうえで「虎爪」を「カク」と義訓した。
賀茂真淵
賀茂真淵は『万葉考』で、「キノクニノ ヤマコエテユケ」と記した。「圓」を「國」の誤記としたうえで「莫囂圓」を「サヤギナキクニ」と訓んで「大和国」の意味と解し、その隣国で「キノクニ」と訓んだ。また第2句の「大相」は荷田に従って「ヤマ」と解し、「七」は「古」、「爪」は「氐」の誤字とし、「大相古兄氐湯氣」を「ヤマコエテユケ」と訓んだ。
本居宣長
本居宣長は、真淵の解釈を受け継ぎつつ『手択本』に「カマヤマノ シモキエテユケ」と記した。「莫囂」を「アナカマ」と解して「アナ」を省いて「カマ」と訓み、「国隣」は「国の境」の意味で大抵は「山」があるとし「莫囂隣国」を「カマヤマ」と解した。また「大相」は「霜」、「七」は「木」の誤字として「霜木兄氐湯氣」を「シモキエテユケ」と訓んだ[11]。
田中道麿
田中道麿は宣長との書簡で、「ユフヅキニ キホヒコソユケ」と記した。「ユウヅキ」は仙覚に倣い「之」を「尓」の誤記として「ユフヅキニ」と訓み、2句では最初に「支」を加え、「七兄」を「古」、「爪」を「會」の誤字として「キホヒコソユケ」と解した[11]。
荒木田久老
荒木田久老は、真淵の解釈を批判しつつ『槻落葉信濃漫録』で、「カグヤマノ クニミサヤケミ」と記した。「莫囂」を「やかましい事がない」と解して「耳なし」とし「圓」は山の形を意味としたうえで、「莫囂圓」を「耳成山」と解釈し、「莫囂圓隣」で「耳成山隣」すなわち「香具山」と解した。また「大相七」は「大相土」の誤字としたうえで経書をひいて「国見」と解し、「兄」を「无」の略字、「爪謁」を「靄」の誤字としたうえで「无靄気」を「サヤケキ」と訓んだ。
村田春海
村田春海は、従来の説を批判しつつ『織錦舎随筆』で、「ヌサトリテ ミサカコエユケ」と記した。春海は誤字を多く想定し、初句は「莫囂」を「奠器」とする春満説を採るが「ヌサ」と訓み、「圓」を「図」、「之」は「氐」の誤字として「奠器図隣氐」を「ヌサトリテ」と解し、第2句の「大」は「美」、「七兄」は「嘉児」、「爪」は「衣」の誤字として「美相嘉児衣湯氣」を「ミサカコエユケ」と訓んだ。
上田秋成
上田秋成は、仙覚の解釈を受けて『冠辞続貂』で、「ユフヅキノ オホニテトヘバ」と記した。
橘守部
橘守部は、久老の解釈を受けて『檜嬬手』で、「マツチヤマ ミツツアカニト」と記した。「莫囂圓隣之大相土」までを初句として「マツチヤマ」と解し、「兄」は「見」、「爪」は「乍」、「気」は「意」の誤字とし、「兄爪謁氣」を「ミツツアカニト」と訓んだ。
高井宣風
高井宣風は、『万葉集残考』で「ミツグリノ ナカモハルケキ」と記した。「莫囂」は「かまびすしくない」の意味で「密かに」と解して「ミツ」と訓み、「円」は「栗のイガの形」を意味し、その隣も栗であるから「円隣」を「クリ」と解し、「莫囂圓隣之」を「ミツグリノ」と訓んだ。また「大相」は双方の合意と意味して「ナカ」と訓み、初句と合わせて「三栗の中」までを枕詞とした。また「七」は「毛」、「兄」は「巴」、「爪」は「流」、「謁」は「偈」として「毛巴流偈氣」を「モハルケキ」と解した[11]。
鹿持雅澄
鹿持雅澄は、『万葉集古義』で「ミモロノ ヤマミツツユケ」と記している。「莫囂」を「奠器」とする春満説を採るが「御室の近隣に奠器を円(めぐ)らしてある」の義から「莫囂圓隣」を「御室」の意味と解して「ミモロ」と訓んだ。第2句は「七」を「土」、「兄」を「見」、「爪」を「乍」の誤字として「大相土見乍湯氣」を「ヤマミツツユケ」と解した[11]。
井上通泰
井上通泰(1928年)は、「マツチヤマ ミツツコソユケ」と訓んだ。初句は守部説を継承しつつ「大相七」を「大堆土」の誤字とし「莫囂圓隣之大堆土」を「マツチヤマ」と解し、第2句では「兄爪」を「見乍」の誤字として「ミツツ」とし、「ユケ」は已然形なのでその前の「コソ」が脱落していると解し「見乍〇〇湯氣」を「ミツツコソユケ」と訓んだ。
粂川定一
粂川定一(1928年)は、複数の試訓を発表している。たとえば「サカドリノ オホフナアサユキ」では、「莫」を「草」の誤字として「サ」と訓み、「囂」を字音で「カ」と訓み、「円」は「マド」の訓から「ド」と訓んで「草囂圓隣之」を「サカドリノ」と解した。第2句は「大相」を「オホフ」、「兄」を「ア」、「爪」を「サ」と訓んで「大相七兄爪湯氣」を「オホフナアサユキ」と解した。
松岡静雄
松岡静雄(1929年)は、「シヅマキノ ユミニツラハケ」と訓んだ。「莫囂」は「喧」の反語で「静」の義訓、「圓隣」は「巻」の戯書として「莫囂圓隣」を「シズマキ」と解した。第2句では「大相七」を「大相士」の誤記としたうえで「斎身」の意味から「弓」の仮字とし、「兄」を「ニ」と訓み、「爪謁氣」を「玄波気」の誤字で「ツラハケ」と訓み、「大相士兄玄波気」で「ユミニツラハケ」と解した。
坂口保
坂口保(1930年)は、「ユフドリノ ウラナケサワキ」と訓んだ。「莫囂」は「ユフ」、「円」は粂川説をとって「ド」と訓んで、「莫囂円隣之」を「ユフドリノ」と解した。第2句では「大相」を「大卜」の意味として「ウラ」と訓んで、「七」は「ナ」、「兄」は字音で「ケ」、「爪」も字音で「サ」、「湯氣」は沸き立つの義訓で「ワク」とし、「大相七兄爪謁氣」を「ウラナケサワキ」と解した。
土橋利彦
土橋利彦(1946年)は、「シヅマリシ カミナナリソネ」と訓んだ。「莫囂」は「シヅ」、「円」は「マド」の初訓から「マ」として「莫囂円隣之」を「シヅマリシ」と解した。第2句では「大相」は「大壮」の替字としたうえで「カミナリ」と解して「カミ」と訓み、「兄」は「里」で「リ」と解し、「爪」は字音から「ソ」、「謁氣」は「靄気」の誤字で山の峯に立つので義訓から「ネ」と訓み、「大壮七里爪靄気」を「カミナナリソネ」と解した。
土屋文明
土屋文明(1949年)は、「マガリノ タブシミツツユケ」と訓んだ。「円」は元傍注が本文に紛れ込んだという考えから初句から省き、「莫囂隣之」を「マガリノ」と解した。第2句では「大相七」を「大相士」の誤記として字音で「タブシ」と訓み、「兄」は「見」、「爪」は「乍」の誤字として、「大相士見乍湯氣」を「ダブシミツツユケ」と解した。
伊丹末雄
伊丹末雄は1951年に試訓を発表していたが、1960年にこれを修正して「ユフヅキノ カゲフミテタツ」と訓んだ。「莫囂」は「ユフ」を訓み、「圓」は「日」すなわち「太陽」の意味で「圓隣」を太陽の隣の義から「月」すなわち「ツキ」と訓み、「莫囂圓隣之」で「ユウヅキノ」と解した。第2句では「相」は「姿」すなわち「カゲ」の意味で、「大」には訓みはなく「大相」で「カゲ」と訓ませる為に2字にしたものとし、「七兄」は「六」の義訓で「2×3」の戯書として「フミ」と訓し、「爪」は「手」の替字で「テ」と訓し、「湯氣」は沸き立つの義訓で「タツ」と訓み、「大相七兄爪湯氣」で「カゲフミテタツ」と解した。
米谷利夫
米谷利夫は複数の試訓を発表しているが、1954年には「ミワヤマノ カゲフミテタツ」と訓んだ。「莫囂」は「静」の意味で高い場所も静かであるから「タカ」の義訓とし、これに「円」が続くことから「莫囂円」で「タカマド」すなわち「高円山」であり、「莫囂圓隣」を高円山の南隣にある「三輪山」と解し、「莫囂圓隣之」で「ミワヤマノ」と解した。第2句は伊丹説に従っている。
菊沢季生
菊沢季生(1972年)は、「ヤマナミノ カタチアナサヤケ」と訓んだ。「囂」の「ヤカマシイ」の訓に「莫」の制止的な意味を重ねて「莫囂」の2字で「ヤ」、「円」は「マ」の字音、「隣」は「並」に通じるので「ナミ」とし、「莫囂圓隣之」を「ヤマナミノ」と訓んだ。第2句では「大」と「相」はいずれも「カタチ」の訓があるので「大相」を「カタチ」と訓んで、「七兄」は「克」の誤字として感動詞的な「アナ」とし、「爪」は「サ」の字音、「謁」には「ヤム」の訓があったと推測して「ヤ」の字音、「氣」は「ケ」の字音として、「大相克爪謁氣」で「カタチアナサヤケ」と訓んだ。
間宮厚司
間宮厚司(2001年)は「シヅマリシ ユフナミニタツ」と訓んだ。初句は土橋説に従い[16]、第2句では「大相」を「入相」の誤字とし「イリアイ」すなわち「日暮れ」の意味から「ユフ」とし、「兄」は「見」、「爪」は「似」の誤字とし、「湯氣」を「タツ」の戯書として、「入相七見似湯氣」を「ユフナミニタツ」と解した。
佐藤美知子
佐藤美知子(2002年)は、「シヅマリシ ユフツヅシロシ」と訓んだ。「莫囂圓」は『史記』にみえる「圜以静」を引いたものでこれに続く「静」つまり「シズマル」の義で、さらに「圓」は音も兼ねて「圓隣之」を「マリシ」と解した[17]。第2句では「大相」は金星の異名、「七兄」もやはり金星を意味する「庚長」の異字、「爪」は星の光の芒角を意味し、これらを合わせた「大相七兄爪」を金星を意味する「ユフツヅ」の戯書と解し、「湯氣」はその姿から連想して「シロシ」の戯書として、「大相七兄爪湯氣」を「ユフツヅシロシ」と解した。
・・・。本当に見仁見智、衆口紛々といったところです。面白いのはやはり最初の「莫囂」の意味において、村田春海や鹿持雅澄『春満』の意として「動」の解釈、荒木田久老や米谷利夫や菊沢季生は「静」の解釈が逆転していたりもするのです。まさに額田王が真意を隠したとしたら、してやったりの事態です。また解釈は出来ぬまま、訓だけ提示していたりします。これはやはり歌の読みだけでは解釈できぬ歌だという事に他ならないのではないでしょうか。
②「莫囂」とは
まず「莫」ですが意味や使用によって否定する用途、大きさを主張する用途で意味が分かれます。また続く「囂」は騒がしい、喧噪です。これを組み合わせてシンプルに考えれば当然2択で「騒がしくない」と取るか「大変騒がしい」と取るがで解釈が相反する事になります。これは確実に額田王の知性と技巧の証左のひとつではないでしょうか。
私は『莫囂圓隣歌』は二重構造の歌の仮説(以下仮説と呼称し、特段指定なき時は自身の仮説とする。)としていて、そこには有間皇子の変が関わっています。朝廷内部を揺るがす大事件です。当然それに触れないのであれば表意は「騒がしくない」≒「静かな、穏やかな」であり、真意は「大変騒がしい」となります。この『莫囂圓隣歌』の「莫囂」こそ額田王の歌を多義的に詠めるようにして真意を隠す装置として機能していたのです。
③『圓隣』とは
①で真意が「大変騒がしい」としました。では何が騒がしいのか、『圓隣』はどう解釈できるのでしょうか。私は「圓」を仮説と上記の解釈で読み解く限り、この「圓」が「倭であり、和であり、大和、しいては朝廷であり、調和」を意味すると捉えました。そして、それは大和の朝廷内部の事であり、それは大和、日本です。
「圓」は形状上「輪」、「円環」であり、「輪」は音は「倭」「和」であり「和」は「調和」を一字で意味し、「和」は「大和」でもあり、「日本」でもあります。※
では「隣」と接続すると「朝廷の周り」、「大和の周り」と解釈できるのではないでしょうか。「莫囂」に「朝廷の周り」とすれば当然朝廷内含む周囲が「朝廷の周囲が大変騒がしい」となりますし、「大和の周囲が騒がしい」とするならば当然「国家の周辺が騒がしい」ともとれますが、「大和の周り」、そのまま「隣(となり)」と解釈したとしても、・・つまり「紀の国」とも読めそうです。当然この歌を読まれたのは「紀の国」であり、有間皇子の変がおきたのも「紀の国」です。表意の解釈も含めると「莫囂圓隣」だけで三重意となりそうです。因みに表意は「穏やかな圓隣(紀の国)」という意味になると考えます。
※因みにこの「圓」を「和」或いは「大和」と比喩、連想した確認できる国内最初の例と考えます。
④「大相七兄爪」とは
次に「大相七兄爪」を読み解きます。「大相」は大きく相見ると読めます。当然それは「七兄爪」へと繋がっていきます。「七兄」は一旦置いて「爪」を見てみます。
「爪」は現代人にしても不穏なイメージがついて回ります。この歌で使用する「爪」の真意は不穏を意味する「爪」であると思われます。(ここでは表意としての「爪」の説明は非常に複雑なのであえて深入りせず、後に深く触れたいとおもいます。)
そして「兄」です。表意としては「七」と組み合わせで「ナナセ(七瀬)」であると思われます。紀の国には七瀬川という河川があります。和歌山県和歌山市を流れる紀の川水系の河川です。現代では七瀬川(ナナセガワ)と呼称していますが、7世紀の当時は七瀬川を「七川」の二字で「ナナセ」と読んだかもしれません。
「七瀬川」は紀の国の行幸ルート沿いにあっただろう川だと考えています。(詳しくは後述)それは斉明天皇の紀の湯行幸の1場面であり、行幸を連想させます。が、なぜ歌を読む際に何故七瀬川を歌にしたためたのでしょうか。七瀬川は決して著名な河川ではありません。使用するなら紀の川でいいのです。また有間皇子を連想させるなら処されたとする藤白を暗示する比喩でもいいはずです。しかしそうしませんでした。理由は2つ。『莫囂圓隣歌』を直接的に有間皇子のイメージに繋げない為。もう一つは「兄」と紐付けるためでしょう。
この「兄」の漢字を使用しているのは音としてだけではなく別の意図があったはずです。有間皇子の変で有間皇子を直接的に落としいれたのは蘇我赤「兄」(そがのあかえ)であり、策を弄したのは中大「兄」皇子(なかのおおえのおおじ)だといわれています。そう有間皇子は二人の「兄」により命を落としたとされているのです。故に額田王は「兄」という字を使用しつつ、紀の湯行幸として体裁をとりたかったのです。つまり「兄爪」とは蘇我赤「兄」、中大「兄」皇子の謀略を意味したと考えます。また「七」は多い事を意味を成す活用も同じ万葉歌の中でも見えますから、「七」を用いることで複数を暗示しているともいえます。
ここで七瀬川について語っておきます。七瀬川は和歌山県に流れる紀の川水系の一級河川で和泉山脈から流れ出る河川の一つです。ただし規模としてはあまり大きな川というわけではありません。また藤白からはおよそ20キロない距離にあり行幸時のスピードは1日約20キロ前後という研究からも近すぎず微妙、絶妙な距離といえます。また斉明天皇の行幸の目的地とされる牟婁の湯(白浜温泉)とは100キロ近く離れています。故に牟婁の湯を暗に示していないのは明白です。紀の国の行幸を示しつつ、藤白への直接的な指摘を避け仄めかす微妙、絶妙な距離にあるのが七瀬川だったのです。因みに七瀬川はいつごろからその名を利用されていたかは調査いたしましたが結論からいうと不明でした。(更に詳しくは後述)また、この「ナナセ」を「七兄」としたとするにはもう一つ理由があります。それは『莫囂圓隣歌』の「吾瀬子」です。
⑤「七兄」と「吾瀬子」
「七兄」は実は「七瀬」の意だという説明を試みました。「兄」を使用し蘇我赤兄、中大兄皇子を意味するためにあえて「七瀬川」に「兄」を使用したと考えられます。実はその根拠として、その後に来る「吾瀬子」にも見る事ができます。「吾瀬子」に「瀬」が使用されています。これは音だけの表記だけでなく、意図的なものを感じます。もともと「吾瀬子」の「瀬」は「背」でいいわけです。もしくは「背」を表す万葉仮名で頻出する「勢」でもいいわけです。しかし、ここではやはりあえて「瀬」を使用しています。当然これは「七瀬川」の「瀬」であり、「七兄」の「兄」と対になって紐づいており、中大兄皇子を類推させる効果があるわけです。そしてその後の句へつながっていきます。
では万葉集、古今和歌集に「瀬子」の使用例があるか調べてみてみました。私が調べる限り「背子」を「瀬子」とする類例は3首しか無く、この歌での表記には強い意図を感じます。もちろん万葉仮名(漢字を音や訓で使用)で書かれる音に対しての当時の当て字的な要素、偶然性も捨て切れませんが、歌の中の歴史状況や地理状況など連動を鑑みてもこの歌に「瀬」を使用したのは偶然とする可能性は低いでしょう。偶然や無意識ではなく意図を感じざる得ません。これに関しては以降の論説でさらに補強されると思います。
これだけみると「吾瀬子」は中大兄皇子を意味して後半の句に連結していくように見えますが、その前の「湯氣」で有間皇子の追悼歌としても機能していきます。またここまででは「七兄爪」の表意として「七瀬川」として機能しないように見えますが、「爪」と「川」の字形の似かよりを利用した極めて特殊な額田王の独自の表現だったと私は見ております。こちらも詳しくは後述の推論の過程4に回したいと思います。
⑤「湯氣」とは
結論から言うと「湯氣」とは表向きは紀の湯の事、湯の情景であり、真意は有間皇子の「魂」であると考えられます。有間皇子の魂を湯気に例えたのでしょう。
湯気のその気発する様は日本における生死観の霊や魂のイメージに合致します。
『源氏物語』における魂の描写に「葵」の巻には、魂が体から離れて空に漂う様子が詠まれています。
『なげきわび空に乱るる我が魂をむすびとどめよしたがへのつま』
この歌では、魂が空に乱れ飛ぶ様子が表現されており、魂が体から離れ、空中を漂うイメージが描かれています。
『後拾遺和歌集』の和泉式部の和歌においては
『もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る』では恋の苦しみによって魂が体から離れ、「蛍の光」となって漂っている様子が詠まれています。
『更級日記』には、菅原孝標女が五十歳の八月、夫橘俊通が信濃へ下向するのを送った家人らが戻り、「暁に、大きな人魂が京の方へ飛んで来た」と報告する場面があります。その後、夫は病死しており、人魂が浮遊し移動する事象を描かれています。
『平家物語』巻三「医師問答」
平重盛が父清盛の無道を嘆き、「父の悪心をひるがえすことが叶わぬなら、我が命を縮めよ」と祈った際、燈火のようなものが身体から出て、ぱっと消えたと記されています。これは魂が体から離れる様子を示しており、魂が光として描かれています。
折口信夫の「死者の書」的世界観
折口は、日本の古代信仰では魂が死後に「山に登って神になる」と述べ、魂が空中・霧・煙のように形象化されることを強調しています。
火葬文化の広まりと共に、煙(けぶり)が天に昇る様子が、魂の昇天=視覚的に感じられる霊の動きと重ねられたとも指摘しています。
この魂を湯気に例えた表現は日本の神道や日本的仏教の生死観と世界観に合致しており、この「湯氣」も「圓」が「和」或いは「大和」などを比喩、連想した事と同様に当時の日本人の魂に対する概念、言い表した確認できる国内最初の例と考えます。またその魂に対する概念を紀の国の牟婁の湯行幸とかけたと考えられます。
つまり『大相七兄爪湯氣』との真意とは「兄」らによる大いなる謀略により有間皇子が魂となった様子、または事象を詠った句でもあるという事になります。
説明が大分後回しになりましたが、『莫囂圓隣歌』には「湯」とするか、「謁」とするかで考えが別れています。概ね写本を見る限り「湯」と判断している方が多いですが、私は安易な「謁」の誤字で「湯」とするのではなく、文脈や紀国の行幸の目的を鑑みてもやはり「湯」であったろうと考えました。
推論の過程3
『吾瀬子之射立爲兼五可新何本』について
こちらの句はこれまでにある程度読み解けているともいえますが、その歌の背景を知らずに読んでもその真意には差し迫れていなかった事と思います。上記で語った背景を元にその後半の句を読んでいきます。
旧来の主な詠みの例として奈良県立万葉文化館の万葉百科を参考にしてみましょう。
・読み下し文:(莫囂圓隣之大相七兄爪湯気)「わが背子がい立たせりけむ厳橿が」
・本訓み:(囂圓莫隣之大相七兄爪湯氣)「わがせこがいたたせりけむいつかしがもと」
・現代語訳:(莫囂圓隣之大相七兄爪湯気)「わがいとしい背の君がお立ちになっていただろう、神聖な橿の木の下」
個人見解で多少の差異はありますが、概ねこのような訳が多いと思われます。これは表意としての理解としては概ね正解だと思われます。しかし、上述してきたようにこの歌には裏意、若しくは真意があります。そして読み解いてきた前半二句を通して見ていきたいと思います。
①表意としての『莫囂圓隣歌』
解読・思考プロセス①でお伝えしたように「莫囂圓隣」は表意としては作者額田王としては真意を備えつつ、多義的に詠めるようにして真意を隠す装置として機能させるのが目的だと考察しました。ですから、額田王的にはどう読まれても真意をやたらにつまびらかにされないならそれが目的達成であり正解というところでしょう。結果1000年以上後世の研究者が迷い惑わされて真意にたどり着けなかったのですから大成功であり、正直ここは真意以外はどうとらえても、とらえられても良いというところではないでしょうか。
ここではあえて仙覚の「静かな満月の月~」を代用して詠んでみましょう。
「静かな満月 仰ぎ見る(この場合詠んでいる私であり、斉明天皇自身) 七瀬川と湯気 我いとしい背の子が立っていただろう、神聖な橿の木の下」となります。行幸中の暫しの別れの中、旅の情景を反芻しながら背子(想い人)を想っているのでしょうか。そのような解釈の出来そうな歌になります。
複数解釈できる前提で私の説の表意でもっと素直に現代語訳で読んでみます。
「静かな紀の国 大きなる七瀬川と湯気 我いとしい背の子が立っていただろう、神聖な橿の木の下」
この場合、七瀬川が「大なる」は七瀬川を知るものは疑問に思うはずです。これはこの歌に「何か」があるというサインでもあったと思います。
②入間皇子の追悼歌として詠む
続いて真意の方に進めていきます。上述したように真意は2通りあり、入間皇子の追悼歌の側面と、蘇我赤兄・中大兄皇子の謀略・野望の側面です。
最初に入間皇子の追悼歌からみていきましょう。
ポイントは後述する蘇我赤兄・中大兄皇子の謀略・野望の側面も同様ですが、「射立」と「五可新何本(橿の下)」です。
入間皇子の背景を考えれば「射立」はそこに「い立つ」のでなく、矢を射て突き立てるのでもはなく、どちらかといえば「矢を突き立てられた」とする解釈が自然でしょう。また「射」は当然矢を「射」るのですから。射られた矢の如く遠くへ早く飛んでいくことの解釈を含ませていたと考えます。では何処へ?それは『橿原』しかありえません。「可新何本(橿の下)」とは『橿原』の比喩だったのです。
史学、考古学に詳しい方なら『橿原』と聞けば直ぐに理解できると思いますが、『橿原』とは大和大権初代大王である神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)、漢風諡号で表記すれば初代天皇の神武天皇が大和を統治した際の最初の「宮」を作った場所が『橿原』なのです。大和大権の誕生の地でもあり、現在でも神武天皇の陵があり、明治に改めて橿原神社が建立されました。ご皇族、日本人にとって非常に神聖で大事な土地であるのです。「五」は「厳」、つまり「神聖」を意味します。単純に愛しい男性や皇子が立っていただけの橿の木が神聖性を特段まとうわけではありません。それは皇統の最初の宮のあった橿原だからこそ神聖であり、「厳(いつか)しい」のです。
また有間皇子が謀反の罪をかけられ尋問の為に紀の国に連行されている道中に歌われた歌に「家にあらば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」という歌があります。素朴でその背景を考えると胸に染み入る素晴らしい歌です。これを語るのは話しが逸れかねないので深入りはしませんが、歌にでてくる椎は橿の木に見た目が似ており分類上も近しく同じくブナ科の植物です。莫囂圓隣歌における「橿の木」の言葉の選択は「椎」を強く意識しており、有間皇子を彷彿させる、関連性をだしているのだと思います。
まとめると、二人の「兄」による謀略で早逝した入間皇子の魂が橿原の地に迷わず(早く)還る事を願っていると考えられます。またこの橿原は
通して詠み現代語訳するなら、
「大和の周辺が騒がしい 七兄の大爪で魂となった皇子(有間) 神聖な橿原の下に迷わず還れ」という風に読めるのではないでしょうか。
③中大兄皇子の覇道への言及として詠む
『莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣』までの句はだいたい②と同じ解釈でいいでしょう。後半の『吾瀬子之射立爲兼五可新何本』の句の解釈で前半の句、歌全体で歌われる対象者が変化するような構造となっています。「吾瀬子」を「中大兄皇子」として解釈します。前述した通り、吾瀬子の「瀬」は七兄爪の「兄」と置換される、紐付きを連想させるための装置です。七兄爪の「兄」は蘇我赤兄と中大兄皇子を髣髴させ、包括しているでしょうが歌全体では吾瀬子(背子:女性からして親しい男性へ親しみを込めている言葉)ですから、当然斉明天皇からしても、額田王からしても中大兄皇子以外ありえません。次に「射立爲兼」ですが、②では「射立」は魂が矢のように「橿原に還れ」としましたが、ここでは矢を射る、中大兄皇子の武力行為をさしているものと読めます。「矢の如く突き進む」と私は詠みました。続いて「爲兼」の「爲」ですが現在では「為」の古い字形であります。この字の部首は「爪」と読める部分であり、この字の選択も恣意的で、「爪」の連想を強調させる効果を狙ったとあると考えます。そして「五可新何本」ですが、「橿の下」つまり橿原の中心であり、朝廷、大和、日本の中心を指します。更に言えば政権の中心。つまり王権のトップ、天皇です。中大兄皇子の揺ぎ無い覇道邁進を示唆した歌でもあったのでしょう。
通して詠んでみます。
「大和の周辺が騒がしい 七兄の大爪で魂となった皇子(有間) 我が背子(中大兄皇子)は橿原の下へ 突き進む」
と詠めるでしょう。
推論の過程4
「爪」と「川」について
推論の過程2の④と⑤で言及した「七兄爪」を表意として「七瀬川」として読むことについて説明したいと思います。
「爪」と「川」の字形の似かよりを利用した極めて特殊な表現だったと私は見ております。これを後述に回したのには肩書きの無い私では、この説がただでさえこじ付けのような心象を持ちかねないのに、更にこれだけを説明するのに中々に長文になり、歌の読み解きにおいて支障をきたしそうだったので読み解きの全体像を終えた上で別個として解説した方が説明し易く、理解もし易いと判断しました。
①「拆字」の字の分解の概念
ここで「爪」と「川」を置き換えてそれぞれに意味を持たせるという考えはたぶん日本の文学史では類例の無い考察であり、古代文学史でもそれ以降でもこのような類例、指摘のある文学作品を調べてみましたが無いだろうと思います。考察が正しいとするなら漢字文化圏では唯一の例かもしれません。近しい類例とすれば「拆字(たくじ)」という技法があります。コトバンクを引用させていただきますと、
『中国の陰陽五行説や易学の考えから生まれた。漢代の相字の法,すなわち文字を分解して書いた人の吉凶禍福を判断する〈破字〉または〈拆字〉の法が,日本に取り入れられたとされる。日本では,初めは文字の音声,字義の判断に使用され,陰陽道で盛んに行われ,平安時代には花押(かおう)を相する花押相法,鎌倉時代には字画を相する姓名字画相が流行した。…』
つまり文字を分解した形に対して結果を占うという物でした。日本には仏教の流入時には拆字も入ってきと思われます。中国の仏教文献では、言葉や文字を深く解釈するために「拆字」的な手法が多く用いられてきたからです。
つまり額田王が活躍した時代には拆字の概念があり、そのまま「爪」と「川」が拆字ではなくても字を分解する概念と結論が変わるという概念は既に仏教に携わる知識層には十分備えていた可能性が高いです。
どちらかといえば暗号であり、現代芸術の意味を伝えるために映像のデザインの要素を取り入れるビジュアル・ポエトリーに近い感覚の物だったのではと思います。『莫囂圓隣歌』の「川」と「爪」の置換は文化的技法ではなく、この歌のみに使用された有間皇子の変と表立って主張できないレアケースにおける使用法であり、暗号的技法であり、額田王の独創性の産物であり当然その技法は踏襲され得るモノでなく、この歌のみの唯一無二の歌表現となったと考えます。故にその秘匿的な特性上、名歌として当初は一部の関係者、知識層に認識されていたかも知れませんが、その複雑構造の歌の説明、言語化がなされない事で、早い段階で意味も詠みも失われていったと考えられます。
下記にイメージし易いように川に寄せて書いた爪を字のイメージサンプルを残します。汚い私の字では適切ではないかもしれませんが、ニュアンスやイメージは伝わると思います。川は爪を置換は容易な事は伝わると思います。
②根拠1
根拠というより状況証拠というべきでしょうか、それを論じたいと思います。まずこの『莫囂圓隣歌』は口頭で述べる、詠う類の歌ではありません。こちらの歌は歌席で詠われるような内容ではなく、また歌の席で詠われたとの伝承もありません。斉明天皇の御心を汲んで詠まれた歌です。これは斉明天皇のご本人の許可や意思がなくては作成できない歌なのです。また仮に恋歌だとしても、そもそも斉明天皇にその時世に恋人がいたわけでもなく、配偶者であった舒明天皇も没しております。また舒明天皇を偲ぶとするにはそれに足る字義などが歌には含まれておりません。またそれを額田王に代作をさせるのは非常に不自然です。
ではどのような類の歌であったのか。それは斉明天皇のご意思、ご指示を受け「創して書き記し」献上したものと考えます。
この『莫囂圓隣歌』は非常に難解な歌であり、現在もその詠み方、音については前半の2句が判明されておりません。もし仮にそれを額田王が声を出し詠み、他者が書き記すとしたのなら、何と難解なことか。おおよそ全て万葉仮名で記載するしかありません。後半の句ならいざしらず、前半の2句に対して他者が「莫囂圓隣~」などの漢字を当てられるはずがないのです。つまり、莫囂圓隣歌は少なからず額田王ご本人が書き記した歌であり、声にだして詠まれる歌ではなく、書き記した歌だったと言えるでしょう。このことより「川」を「爪」に置換できる状況にあった事は類推できます。
③根拠2
続いて何故「七瀬川」なのかです。当然理由の一つは前述してきたように「七兄(ななせ)」=蘇我赤兄と中大兄皇子の示唆をしたいです。また紀の国の行幸を彷彿させる為、七瀬川にほどほどに近い藤白坂を匂わせる為。
そして行幸時に七瀬川付近を斉明天皇行幸時に通った為と考えられます。
日本書紀やその他の文献にはこの行幸の辿った道程は記載されておりません。当時の飛鳥から牟呂の湯までどのようなルートを選んだのかは推測するしかありません。google mapで明日香から牟呂の湯(行幸の目的地)までのルートを探るといくつか候補があがります。最短は山を越えて行くルート(図3)ですが、行幸は大所帯で且つ、斉明天皇の世話をする女官もいた中での移動になるので、山越えは難しいのではないでしょうか。 また慰安目的の行幸で危険を冒すこと自体非合理的でしょう。
もう一つは紀の国の沿岸沿い付近を進むルートです。(図4)こちらのルートでは自動車で明日香村から白浜温泉をルート検索すると提案されるルートです。勾配の少ない道を選択されており、山越えより距離はありますがなだらかな地形を進みます。こちらのルートが現実的でしょう。想定ルートは(飛鳥 → 五條 → 橋本 → 紀ノ川沿いを西進 → 海南 → 湯浅 → 田辺 → 白浜(牟婁)です。
飛鳥の宮から現在の京奈和自動車道/国道24号線当たりを通り南南西に進行し五条市を通過、その辺りから西に向けて和歌山市内の感應山 霊現寺辺りまで進行しほどなくJR紀伊駅あたりを通過します。その際に道沿いで行幸列の目には「七瀬川」が目に留まった可能性があります。七瀬川はさほど大きな川ではなく紀の川水系の支流のひとつですが大きな河川ではないのですが一級河川とあります。一級水系に含まれる河川は一級河川に指定される可能性が高いそうなので、この場合もそういう事なのだと思われます。また七瀬川は有間皇子が処された藤白坂から20キロ弱という微妙な距離です。直接的に藤白坂を連想させるものでもないし、かといって連想させないわけでもない微妙な距離です。
上記の二人の「兄」、蘇我赤兄と中大兄皇子の示唆と紀の湯行幸、藤白坂と有間皇子を間接的に連想させるのに「七瀬川」の活用を選択したのだと考えられます。
④七瀬川はいつの頃から「ナナセガワ」だったか
では七瀬川は当時その川名でそんざいしていたのでしょうか?結論はわからない。が解答です。私が調査可能な範囲で、文献、地方行政などに当たり調べてみましたが、いつから七瀬川という呼称があったのか不明です。それはいつの頃ともしれないうちに七瀬川と呼ばれていたようです。
日本にはいくつか七瀬川という名称の川は存在しますが、いずれもやはりいつから「七瀬川」と呼ばれていたのか文献が存在しません。
ただし一つだけヒントはあると思われます。京都・伏見「七瀬川」名称の由来です。『日本歴史地名大系 京都市の地名』)では、「七曲り七瀬」や「七つの橋」説も紹介されつつ、神事由来説(七瀬の祓)を最も有力視しているようです。この「七瀬の祓」は、水辺(川・海)で穢れを祓う日本古来の神道的儀礼です。続日本紀』延暦10年(791年)の条に、七瀬での祓に関する記述があります。
「六月晦、天下諸社、令行七瀬祓」
・意訳:6月の晦日(みそか)に、全国の神社に対して「七瀬祓(ななせのはらえ)」を実施するよう命じた。
このことから、8世紀末には国家的な神事として制度化されていたことがわかります。「祓(はらえ)」は古くは『古事記』、『日本書紀』にも頻出する、非常に古い神道の概念です。
『延喜式』(927年)では、以下のような「七瀬」が記載されており、重要な神事の場として位置づけられています。
・伊勢国:五十鈴川七瀬(伊勢神宮)
・山城国:桂川七瀬
・河内国:石川七瀬
・大和国:飛鳥川七瀬 など
これらはいずれも祓所としての七瀬であり、神聖な水辺として管理・儀式の対象になっていました。
つまり「七瀬」は特定の川の場所(瀬)に付けられた神聖な名称なのです。「七瀬の祓」という語句は、地名と神事を一体化した言い回しで、あるいは「七瀬」自体が祓いの儀式の総称・慣例表現だったとも解釈できます。神道では「三・五・七」が神聖な数とされ、「七瀬」もその象徴数だった可能性があります。更に要約すると「七瀬」とは神事としての祓が行われる聖なる川、川辺であり、 あるいはその儀礼の象徴的な呼称として機能していたと理解してよいのではないでしょうか。
結論を言うと七瀬という言葉や概念は791年以前には存在し、神道の古層にある概念「祓い」と密着していることから、仏教流入以前から「七瀬」の概念、その言葉が存在していた可能性が高い事、これらを考慮すると、土着の神道として、紀の国の「七瀬川」の名称としても斉明天皇、額田王の存在した7世紀には存在していた可能性が高いと考えます。また斉明天皇率いる行幸列も行幸の際、禊・祓いとして七瀬川に立ち寄った可能性も十分あると考え、「七瀬川」は斉明天皇行幸を類推させ、言葉の選択として整合性と可能性は十分考えられます。ただしあくまで状況証拠を元にした類推であり、状況証拠から考察、推測した『莫囂圓隣歌』の真意と背景、歌構造からの私個人の説でしかありません。ただし、現時点に存在する数多の説よりも信憑性や合理性のある説であると自負しております。
推論の過程5
・『莫囂圓隣歌』の音訓
『莫囂圓隣歌』は上述で少しふれましたが、そもそも音で魅せる歌ではありません。漢字を書き記す事で完成する歌なのです。しかしそれでも歌ですから想定された音訓はあったはずです。ここではその音訓をこれまでの考察を元に推測していきたいと思います。
改めて最初に提示しておりました『莫囂圓隣歌』の音訓について説明したいとおもいます。
では漢字本文と私の今回提示した音訓を改めて記述します。
漢字本文:『莫囂圓隣之大相七兄爪湯(謁)氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本』(謁は湯の誤字と私は解釈しております)
音訓:「ばくごうえんりんの たいそうななせつめ(たいそうななせかわ)のゆげ わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと(いごかしがもと)
『吾瀬子之射立爲兼五可新何本』はこれまでも訓みはされてきており、大きな相違はないとおもいます。問題は『莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣』につきます。
まず、ここまでの考察で提示していた類推をもとにするならば「七兄爪(川)」は二人の「兄」の謀略とそれに対して七瀬川を引用しているわけですから、当然「ななせつめ(かわ)」と読めるはずです。
つづく「湯氣」は「ゆげ」でいいでしょう。「湯」は「とう」とも読めますが限定的です。「とうげ」と読んだとしてもそのような前例はありません。また氣には「き」・「け」などの音読み以外の使用がほぼなく、気配や様子を意味することも踏まえると、ここは素直に「ゆげ」でいいと思います。ただし東北には「ゆぎ」という音読みがあり、柳田邦夫の方言集権論(簡単に説明すると言葉が中央から地方に伝播していき、古い言葉や言い回しが地方に残っていたりするとう考え)の観点からいくと「ゆぎ」と読んでいた可能性は十分あると思います。ただし奈良時代以前に使用されていたとする上代特殊仮名遣いでは「き」・「け」・「ひ」・「へ」などには二種の発音(甲類・乙類)があったとされます。上代~中古の日本語では、「が行」は鼻音を伴った軟音(鼻濁音)で発音されていたと予想されており、「ぎ」と「げ」は現代的な音とは異なる「中間音」に近かったと考えられ、故に「ぎ」と「げ」いずれでも正しいと考えます。
「大相」においては音読みで「タイソウ」を当てました。訓読みだと「おおあい」、「おおすがた」、「おおとも」といったとこでしょうが、いずれの訓読みも一般的ではなく、「タイソウ」は古語でも、現代日本語でも通用する標準に近い読みです。ただ、上古での強調の言葉は「いと(甚)」「いたく(甚く)」「おほきに」などで「たいそう」などは使用例はなく、「たいそう(大層)」の使用は平安時代後期から鎌倉時代において使用例が出始めてきたようです。よって仮に音が先行してそこに漢字を当てたとしたらやはり「音読み」で「タイソウ」であり、字義が先行して後付け的に用いているなら意味として大相は上古の和語に存在しない熟語になるので音読みを当てるのは必然で、7世紀に流入していた漢字の音として可能性が高いのは「タイソウ」となります。
説明の必要はないかも知れませんが、念のため「之」にも触れておきます。「の」や「これ」、「ゆ(く)」が訓読みで基本的ですが、音読みで「し」という読みもあります。「之」を「し」として当てて信頼性のある詠み方は示されていません。そうすると絞られるのは訓読みですが、歌の前後関係で代名詞なのか、助詞、動詞かが絞られてきます。動詞としての「ゆ(く)」は活用の古典訓読では通常ありません。また漢字の並びの前後関係から代名詞としての活用も不自然です。残るのは「の」という訓読みでしょう。
「隣」は「りん」とします。「となり」という語は日本の古くからの言葉であり、万葉仮名として存在します。意味も現代と近いが、「隣」という漢字を用い、それを「となり」と訓読した確実な和歌は、現存古典和歌集(万葉集・古今集など)には 確認されていないようです。近い語感の表現としては、「傍(かたへ)」「辺(ほとり)」「近し(ちかし)」などが代わりに用いられており、「隣」の音訓を「となり」とする線は無さそうです。その「隣」という字体は仏教と供に本格的な漢文文化が流入した6世紀中頃以降に伝来したと思われます。その音「呉音」もそれに付随していたはずです。代替字があるなかで普段使いしない漢字それ自体を用いる事、それ事態がカムフラージュ的にも思えます。そうするとこの場合は呉音の「りん」という音を活用した、またその字義を主体に配置し音読みとしたと考えられ、導き出されるのは「りん」になります。
「圓」は音読みの「えん」で良いでしょう。現存する上古の歌集に見る圓の使用例は万葉集巻1-9『莫囂圓隣歌』しかなく他の勅撰和歌集においては、「圓」は歌の本文や詞書の中に登場していません。古事記では垂仁天皇の后の一人、圓野比賣命(まとのひめ)、日本書紀には一部人物の名前に「圓圓、此云豆夫羅大使主」→葛城円 (かつらぎのつぶら)、和珥臣河内(ワニノオミカフチ)の娘の荑媛(ハエヒメ)の子、圓娘皇女(ツブラノイラツメノミコ)など個人の名前の使用で一般的な和語的な訓読みから外れる読み方で見られるだけです。「つぶら」も「まど(か)」も丸いを意味しますので訓的な読み方をしても字義の概念をきちんと踏襲しているのは明確です。上記解読・思考プロセス2で示したように概念的には「丸い」こと以上に「輪」を想定していたはずです。輪廻、曼荼羅、そして「円環」つまり"Ball" ではなく"Circle"です。故に読み方は「えん」でしょう。
そして残るのは「莫囂」です。「莫囂」は、中国古典において熟語として頻出する表現ではありません。慣用句のような特定の意味に用いられるようになった語句や成句ではなく、結合して使われることも可能な語彙的組み合わせとして有り得た語句であり、つまり「莫囂」という熟語・述語自体が頻出する語句ではないが、その組み合わせは文法的・語義的には成り立つと言いうものです。7世紀の日本でこの二字は音読みであったはずです。「莫」は中国古典の頻出漢字です。古事記、日本書紀においても頻出とまでいいませんが、いくつか場面での使用が確認できます。そしていずれも訓読みで「なし」、「なかれ」などが想定されています。しかし次の「囂」は記紀においての使用例はありません。なぜなら「囂」は古代中国においては文学的・形容語彙であり、常用語ではなかったようなのです。また古典文献では「囂然」「囂張」など、形容詞的な騒々しさ・傲慢さを表す語に使われますが、「囂」は仏教用語ではありませんでした。
少し話は逸れますが、日本において漢字には複数種類の言い回しがあります。これだけでも非常に長くなってしまうので、手短にそして簡単に説明する事を心がけると、古代日本に漢字が伝わった時期や地域の違いでその音読みが異なる複数種類が存在します。以下がおおよそ代表的な分類です。
・呉音: 5〜6世紀頃、主に朝鮮半島を経由して伝わった読み方。仏教関連の言葉に多い(例: 行→「ぎょう」)。
・漢音: 7〜8世紀頃、唐の長安の発音を基に日本で整理された読み方。公式・学術的な場で使われる(例: 行→「こう」)。
・唐音: 鎌倉〜江戸時代に伝わった、宋や元の発音に基づく読み方。一部特定の語に使われる(例: 茶→「ちゃ」)。
話しを元に戻すと呉音の定着語彙の多くは仏教経典や戒律・説話に含まれています。「囂」はサンスクリット語の訳語にも対応していないため、仏典では使われず、その事から当然字そのものが日本で使用される事なく「音読み」も不要でした。つまり、7世紀という時代には音読みには呉音・漢音いずれかでの使用の可能性があるのですが、「囂」は日本国内では使用する事も無かったことから読む必要がなく、それ故に呉音も訓読みも無かった・・、さらに言うと「囂」は舒明2年(630年)の遣唐使がはじまるまで字そのものが日本には流入がなかったと考えています。
そして仏典経由ではなく、「律令国家と儒教漢文」経由、遣唐使などの学問僧・留学生が唐の都・長安で官吏教育を通し、「漢詩文」が国家的教養となり、儒教文典(論語・書経・詩経など)を読むための語彙や音が必要となり、漢音の流入により「囂」の使用環境が成立したと考えます。よって「囂」はこの時点では訓読みは成立はしておらず、漢音の「ごう」でよいでしょう。明確に訓読みの訓読み:「かまびすしい/かましい/わずらわしい」が確認できるのは鎌倉時代・室町時代以降の中世のようです。
そしてこの「囂(ごう)」と接続するにあたり、「莫」は「なし」も「なかれ」も音的に続く「囂」に相応しくありません。「囂(ごう)」を活かすためにも漢詩のあたかも慣用句「的」な形式、音を選択するほうが相応しいはずです。よって「莫」は「囂(ごう)」と同じ漢音の「ばく」が最適解と考えます。
最後に改めて音訓を表意と真意に別けて続けて表記いたします。
表意の音訓:「ばくごうえんりんの たいそうななせかわのゆげ わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと(いごかしがもと)」
真意の音訓:「ばくごうえんりんの たいそうななせつめのゆげ わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと(いごかしがもと)」
・補足、そして結び
①『君が代もわが代も知るや磐代の丘の草根をいざ結びてな』
万葉集の1巻 10番歌、つまり『莫囂圓隣歌』の次の歌に当る和歌です。作者は中皇命・・、斉明天皇や間人皇后(斉明天皇の皇女、孝徳天皇の皇后)ともいわれる方です。そのお方の『莫囂圓隣歌』と同じく紀国行幸時にしたためられた歌とされています。この歌にも『莫囂圓隣歌』の解読のヒントが隠されていると思っています。
磐代の丘は有間皇子が捉えられ、護送される中で磐代の丘で松を結って縁起を担いだ場所です。有間皇子の辞世の歌に出てきます。もともと縁起を担ぐ場所だったのは推察できますが、歌の流れからもやはり示唆的です。解釈も様々ですが、奈良県立奈良万葉文化館の解釈例を載せて起きます。
「あなたの命も私の命も支配していることよ。この磐代の丘の草を、さあ結びましょう。」
「知る」というのは「シラス」、つまり、お治めになる。統治なさるにつながります。故に支配とするには違和はありません。
結論を言います。これは斉明天皇の自製歌でこれから続くであろう皇統の安寧を願った歌でしょう。わが代はもちろん斉明天皇の代、君が代は「わが」に続く皇統継承者、つまり後の天智天皇、中大兄皇子です。では「あなたの命も私の命も支配していることよ。」、誰が何が命、御世を支配しているのでしょう。それはいわゆる神であり、現代的にいえば運命という人ではコントロールできない大きな力の事なのではないでしょうか。だから斉明天皇は次代の御世も運命という大きな流れの中の支配下において、皇統が長く続くように岩代の丘で祈願、願掛けを行ったということでしょう。斉明天皇は逆らえない宿命ではなく、運命として捉え、ある種の達観、悟り、あきらめに近い心持で有間皇子の変を捉えていたのかもしれません。
あえて私が現代語訳するなら「この潮流には逆らえない。この磐代の丘の草を結んで祈る。」
私はこの1巻の10番歌は『莫囂圓隣歌』に続く反歌であろうと考えます。
②中大兄皇子は文学には凡庸であった。
非常にセンシティブな見出しですが、クサする意図はありません。中大兄皇子(後に天智天皇)は日本の礎を作った一人であり、偉大な天皇であったことは紛れもない事実です。中央集権的な政治体制、戸籍制度と班田収授法の基礎作りを行った、いわば改革者です。一方文化や芸術にも影響は与えていますが、それは政治改革での影響によるもので、直接的に好んで推進、もしくは政治改革ほど嗜好していたわけではなさそうです。たとえば百人一首の最初の和歌には天智天皇の御製歌として知られている
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」があります。ですが、実は 万葉集 巻10-2174 雑歌にその原型が見えます。
「秋田刈る 刈廬《かりいほ》を作り 我が居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける」
これは上記天智天皇の作の原型とされている和歌ですが、上記は後世の天智作としての後付け、また仮に本人が作ったとしても下記の基の歌があってアレンジを加えたともされています。また天智天皇の御製歌は万葉集に四つの歌が掲載されています。その中でとりわけ有名なのは「中大兄三山歌」なる歌があります。これは中大兄皇子と大海人皇子(後に天武天皇)で額田王(大海人皇子の后)を争った逸話から、この逸話を神話になぞらえて詠ったものだとされています。ここでは万葉百科奈良県立万葉文化館から読み下し文と現代語訳を掲載させていただきます。
・巻1-13
読み下し文:
「香具山は畝傍ををしと耳成と相あらそひき神代よりかくにあるらし古も然にあれこそうつせみも妻をあらそふらしき」
現代語訳:
「香具山は畝傍山を男らしい者として古い恋仲の耳成山と争った。神代から、こうであるらしい。昔もそうだからこそ、現実にも、愛する者を争うらしい。」
ちょっと解りづらいですね。つまり「男らしい香具山は畝傍山を巡って耳成山と争った」というのです。この山同士の争いは中大兄皇子と大海人皇子と額田王を巡る三角関係を比喩にしたものだといわれています。諸説あり、定説もないようですが、三角関係が事実あったとするならば、この歌の反歌の内容からも香具山は中大兄皇子、耳成山は大海人皇子、畝傍山が額田王だと思われます。万葉百科 奈良県立万葉文化館さんの現代語訳もそのような解釈をされているので、この解釈が一番自然ではないかと思います。
とても無礼で身の程知らずなのかもしれませんが、正直この和歌はそこまで出来の良い和歌とは思えません。まずこの歌が本当に歌かも微妙です。なんというか、歌にしては説話的で、歌らしい韻を感じる文章では無いからです。また比喩表現にしてもかなり直接的ですし、現代では本当に山同士が畝傍山を巡って争った逸話が存在したのか疑問です。そのような逸話は他文献には残っていません。もしやはり逸話が無いとしたなら、その比喩は比喩としてちょっとなりえないのではないでしょうか。また、何よりも、もう少し工夫ができたのではと考えます。
例えば上記の私の解釈でいくなら香具山は中大兄皇子の事ですが、本来なら畝傍山に比喩した方が効果的です。なぜなら畝傍山は初代神武天皇の宮、畝傍橿原野宮に位置する山です。皇統の正当継承者を例えるならば畝傍山が相応しく、額田王を例えるならば香具山が相応しいのです。香具山の「香具」はその名前から女性性を感じ取れるはずです。第九代開花天皇の孫であり、第十一代 垂仁天皇の后が一人迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)がいるからです。香具山の(かぐ)と迦具夜比売命の(かぐ)の音は一緒だと考えられます。もちろん後世の竹取物語の影響で、現代人ほど香具山と聞いてカグヤ姫を連想する事は無かったかも知れませんが、それでも皇統の皇子です。竹取物語の執筆者がモデルにしたとされる迦具夜比売命を認知しているわけですから、中大兄皇子も知っていておかしくないのです。
この残された歌からも和歌に長けた人物というわけではなかったのではと類推します。ただし、この歌の素晴らしさは、史書に描かれない朝廷内の私的ともいえる情報や背景が類推できるということでしょう。本当に残しておいてくれて感謝しかありません。そして中大兄皇子が和歌に関心を寄せていなかったことが莫囂圓隣歌が後世に残った遠因の一つなのかもしれません。
③結びとして~ 額田王の心
考察をしていくに当り、当然その歌の背景を考えてきたのですが、作り手の心情も考えることはやはり重要だと思うのです。特に史学や考古学でなく、文学としてなら尚更です。
斉明天皇は甥である有間皇子の追悼歌を額田王に作成を依頼したと考えられると上述いたしました。それも追悼を公にはせず、潜める形で。つまり斉明天皇は額田王に歌の制作を依頼した時点では中大兄皇子の事まで言及するつもりはなかったと考えます。追悼だけなら危険をおかしてまで中大兄皇子に言及する必要はないのです。ではなぜ中大兄皇子の事にまで言及した、もしくはそのように読めるようにしたのでしょうか。
それは額田王の芸術家としての心、創作魂ではないかと考えます。当然追悼だけでなく、その有間皇子の変の背景まで歌にしたためることが違和感なく互いに存在出来るならばその歌の深みも更に増し芸術的価値も上がるはずです。つまり、額田王は歌人として歌の制作に依頼以上にある種の縛りを設け、高みを目指したと考えます。額田王は大権内の人間として有間皇子の変に驚き、憂い、悲しみ、斉明天皇の御心を偲んでいたとしても、歌人としてその『莫囂圓隣歌』の創作に対しては明らかに『楽しんでいた。』と考えられます。またこの歌はその特性から斉明天皇が依頼し額田王が作成し献上したものと考えます。その特性上、詠んで書き記すのではなく、思考を繰り返し、書き記し和歌にしたため献上したものだと考えました。斉明天皇、額田王以外の他人の目には触れることも耳にする事も少なかったのではないでしょうか。手前勝手な想像を膨らませるのであれば、この歌は天智天皇(中大兄皇子)の死後の天武天皇(大海人皇子)の御世以降に公になったのかもしれません。長くなりましたが額田王の『莫囂圓隣歌』の創作におけるお心を想像してこの考察の結びとしたいと思います。
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