2024年3月1日金曜日

高松塚古墳は忍壁皇子の陵墓だ | 日本の歴史と日本人のルーツ

高松塚古墳は忍壁皇子の陵墓だ | 日本の歴史と日本人のルーツ

高松塚古墳は忍壁皇子の陵墓だ

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これに対し、文武天皇自身のキトラ古墳は天皇にふさわしい古墳の位置(吉野宮からは亀虎方向)と精密な宿星図を実現したが、それ以外の規模はキトラ古墳の方が劣っている。これはキトラ古墳を築造した元明天皇(文武天皇の母親)の質素を好んだ意図によると考えられる。


人物像の観察に四神壁画や立地を加え、直木氏は被葬者の条件を導き出した。⑴死亡年代は藤原京の造営プランが整った朱鳥元(686)年から平城京遷都まで。または大宝元年から養老3年  ⑵大納言以上の身分  ⑶熟年男子。これら条件で天武の皇子たちを照らすと、忍部(忍壁、刑部)皇子が浮かび上がる。吉野から「壬申の乱」に従軍し、大宝律令を編集した人物。『続日本紀』によると、慶雲2(705)年5月に死没した。 


高松塚古墳の海獣葡萄鏡


中国の唐代を代表する鏡の一つ。中央に想像上の獣を置き、周囲に葡萄の文様がある。葡萄唐草文は西域の伝統的な文様で、シルクロードを通じた中国との交流をうかがわせる。正倉院宝物にも含まれる。高松塚古墳の鏡は良質な白銅製で、今年3月に亡くなった帝塚山大学短期大学部名誉教授、大伴公馬氏のコレクションにも同型鏡がある。鏡研究の第一人者、樋口隆康・県立橿原考古学研究所長は同古墳の中間報告書で「日本出土の海獣葡萄鏡の内では最も大型で文様が精緻」と指摘している。



② 忍壁皇子(wikiより)


おさかべ の みこ、生年不詳 - 慶雲2年5月7日(705年6月2日)は、忍坂部皇子、刑部親王とも記される。天武天皇の皇子。官位は三品・知太政官事。

天武天皇元年(672年)の壬申の乱では父・天武天皇が吉野から東国に赴いた際に付き従った者として、草壁皇子とともに名が挙げられている。


天武朝では天皇の皇子のして、以下の政治的活動が見られる。


・天武天皇8年(679年)、天智・天武両天皇の諸皇子とともに吉野宮に参集し、先の壬申の乱のような戦渦を起こさないよう誓約した(吉野の盟約)。


・持統天皇10年(696年)、高市皇子が没すと、天武天皇の諸皇子の中で最年長となり皇族の代表的存在となる。一方で、持統朝においては彼の事績は伝わらないことから、持統天皇に嫌われて不遇をかこっていた所を、藤原不比等の入知恵で甥の文武天皇擁立を支持し、ようやく政界復帰したとする主張がある。


・文武朝に入ると、文武天皇4年(700年)6月に藤原不比等らと大宝律令の選定を命じられ、翌大宝元年(701年)8月に完成させた。またこの時に大宝令による位階制の導入により三品に叙せられている。大宝2年(702)12月に持統上皇が崩御すると、若い文武天皇の補佐を目的に、大宝3年(703年)正月に忍壁親王は知太政官事に就任して太政官の統括者となる。


・この時点で既に二品の位階にあった異母弟の長親王・舎人親王・穂積親王ではなく、忍壁親王が知太政官事へ任官されたことについて、大宝律令の編纂を主宰するなどの政治面での実績があることや、天武天皇の最年長の皇子であったことから、最有力の皇族として重んぜられていたことが理由と見られる。



③ 高松塚古墳は江戸時代まで文武天皇陵と考えられていた(参考)


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文武天皇陵の塚の頂上に松がはえていたので高松塚の名前となった。



④ 高松塚古墳、文武天皇陵、中尾山古墳、そして天武・持統合葬陵は混同されていた。


第四十二代「文武(もんむ)天皇陵」粟原塚穴(あわらつかあな)、ジョウセン塚古墳(参考)


小池  香津江(奈良県立橿原考古学研究所)


① 治定

文武天皇は慶雲四年(707)に崩御し、飛鳥岡で火葬に付された後、檜隈安古山陵(ひのくまのあんこやまのみささぎ)に葬られた(『続日本紀』)。『延喜式』(諸陵寮)には「檜隈安占岡上陵」「藤原宮御宇文武天皇。在大和高市郡。兆域東西三町。南北三町。陵戸五烟」と記されている。安占の占は古の誤りとみられ、飛鳥岡は現在の岡寺付近と推定されるが、安古の地名は江戸時代にすでに失われていたらしい。そのため、文武陵の治定は不安定で、明治十四年に現陵に確定するまで転々としている。


元禄九年(1696)の『前王陵廟記』では、文武陵の具体的な所在地についての記述はない。元禄十年の幕府による山陵修復に当たっては、文武陵は当初不分明陵として報告されており、奈良奉行の調査を経て高松塚古墳(明日香村大字平田字高松)がそれにあてられた(『諸陵周垣成就記』元禄十一年)。これに対し、享保二十一年(1736)の『大和志』では、「平田村の西に在り。俗に中尾の石墓と呼ぶ」(現在の中尾山なかおやま古墳)としている。また、文化五年(1808)に蒲生君平の著した『山陵志』では、「高松山」として、高松塚古墳を比定している。この他に、寛政三年(1791)の『大和名勝図絵』のように、「中尾の石墓…字は高松塚」として、中尾山古墳と高松塚古墳を混同しているものも見られるものの、安政年間までには、ほぼ高松塚古墳説で固まった。


しかし、嘉永元年(1848)に北浦定政が『山陵志』を補って刊行した『打墨縄(うつすみなわ)』では、野口村皇(王)の墓(野口王墓、現天武・持統陵)を比定し、安政二年(1855)の奈良奉行による御陵改めでも野口王墓を文武陵として報告されている。その後、文久年間(1862・63頃)に大がかりな修陵が行われるが、この時山陵奉行戸田忠至の相談役であった谷森善臣は著書『山陵考』の中で、粟原村の字「あんどく」が「あんこう」と書かれるものもあり、それが安古の転化であろうとして、その東北の字塚穴(俗にジョウセン塚、現文武陵)を文武陵に比定し、その説が採用されて修理・修築がなされている。ただし、谷森は後に自説をひるがえして、野口王墓を文武陵にあてている。明治に入り、文武陵は野口王墓として扱われ、宮内省による陵墓の測量の際にも野口王墓が文武陵となっている。しかし、明治十三年、『阿不幾乃山陵記(あふきのさんりょうき)』が公表され、野口王墓が天武・持統陵であることが確実となると、天武・持統陵は野口王墓に治定が変更される。それに伴って文武陵も明治十四年、現陵に治定された。変更に際し、現陵が選ばれた根拠は明らかではないが、前述の谷森の説などが参考にされたと見られる。歴史読本特別増刊 事典シリーズ「天皇陵」総覧



⑤ 高松塚古墳とキトラ古墳の規模


高松塚古墳: 直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳

キトラ古墳: 直径13.8m(下段)及び9.4m(上段)、高さ3.3mの二段式の円墳



⑥ 壁画の図柄からキトラ古墳より高松塚古墳の方が先に出来た(参考)



⑦ キトラ古墳の被葬者は文武天皇

漢字「学」のなりたちは先生と生徒が議論し共に学んでいる様子|漢字の成り立ちや意味をイラストや絵を使って解説!【漢字の成り立ち博士】

漢字「学」のなりたちは先生と生徒が議論し共に学んでいる様子|漢字の成り立ちや意味をイラストや絵を使って解説!【漢字の成り立ち博士】

漢字「学」の成り立ちは先生と生徒が議論し共に学んでいる様子

成り立ち 形声文字
部首 画数 (部首) 子 (こ・こへん)(画数)8画
読み方 (音)ガク(訓)まな-ぶ
学年 小学校1年生
漢字検定 10級

「学(がく)」の旧字体は「學」で、音を表す「爻」と意味を表す「(キョク)」+「冖」+「子」が組み合わさってできた形声文字です。

学といえば、まず学校を思い浮かべる方が多いと思います。

学という漢字で学ぶとはいったいどのような成り立ちなのでしょうか?

詳しく解説していきましょう。

漢字の成り立ち「学」
(形声文字)

漢字の成り立ち<形声文字とは>

↓

↓

「学」の旧字体は「學」で、音を表す「爻」と意味を表す「」+「冖」+「子」が組み合わさってできた形声文字です。

「爻」は記号のバツ(×)を重ねた様子を表し交差するイメージです。

「」は両手の形、「冖」は屋根を表し、「子」は子供です。

このことから、「学(學)」は、屋根の下で子供と先生の手により学んでいるという意味になります。

交わるというのは記号で書くと⇔このようなイメージになりますが、これは、先生と生徒が議論し共に学んでいる様子がイメージできるのです。

合わせて読みたい▶▶▶漢字の成り立ち「校」

漢字「号」の書き順・書き方

漢字<画数で検索>する場合はこちら

漢字<部首から検索>する場合はこちら

では綺麗に書きれい かくためのポイントを紹介しょうかいしたいと思おもいます。 

一画目

・マスの左上から書ひだりうえ  かいていきます。

・単なる点と思たん  てん おもわずにしっかり最後は止さいご とめましょう。

二画目 

・一画目の右側いっかくめ みぎがわ(マスの中央ちゅおう)にもうひとつ点を書てん かきます。

・一画目の書き始いっかくめ か はじめよりやや上から書き始うえ  か はじめ、短く書き止みじか か とめます。

三画目

・二画目と同じ高にかくめ おな たかさから左斜め下へ短ひだりなな した みじかくはらいます。

四画目

・こちらも短みじかく左斜ひだりななめ下へ書き止した か とめます。

・力強く太ちからづよ ふとめに書かくと綺麗に見きれい みえます。

五画目

・四画目の書き始よんかくめ か はじめから右へ長く進みぎ なが すすみ、一旦止いったんとめて、最後左さいごひだり斜め下へ短なな した みじかくはらいます。                             

六画目

・カタカナの「フ」を書かくイメージです。

・一画目の書き終いっかくめ か おわわりと同おなじラインから右へ書き進みぎ か すすめ、一旦止いったんとめて、左斜め下へ短ひだりなな した みじかくはらいます。

七画目

・六画目の書き終ろっかくめ か おわわり(マスの中央ちゅうおう)から丸みを帯まる  おびびながら下へ書き進した か すすみ、一旦止いったんとめて、左斜め上ひだりなな うえに短みじかくはらいます。

八画目

・一画目の書き終いっかくめ か おわわりと同おなじラインで、右へ長く進みぎ なが すすみます。

・五画目ごかくめのラインからはみ出ださないような長さで止なが  とめます。

最後さいごにうんちくを紹介しょうかいしたいと思おもいます。

どのようなうんちくなのか楽たのしみにしてくださいね。

漢字「学」のうんちく

日本の学校の新学年は四月にほん がっこう しんがくねん しがつですね。

世界の基準に合せかい きじゅん あわせて九月くがつから始はじまってもいいのでは?という考え方も出かんが かた でてきています。

しかし、本当に全世界の学校ほんとう ぜんせかい がっこうが九月新学年制度くがつしんがくねんせいどなのでしょうか?

実じつは、九月から新学年くがつ  しんがくねんになるのは北米の一部ほくべい いちぶ、ヨーロッパ・ロシア・中国ちゅうごくだけなんですよ。

世界の主要国と言われている国せかい しゅようこく い     くにですね。

では他の国々ほか くにぐにの新学年は何月しんがっき なんがつなんでしょうか?

  • 一月→マレーシア・シンガポール・南みなみアフリカ
  • 二月→ブラジル
  • 三月→南半球の国々みなみはんきゅう くにぐに・アルゼンチン・韓国かんこく
  • 四月→日本にっぽん・インド・北朝鮮きたちょうせん
  • 五月→タイ
  • 六月→フィリピン
  • 七月→台湾たいわん・インドネシア
  • 八月→アメリカの一部いちぶ・メキシコ
  • 九月→カンボジア・マリ・セネガル

日本にほんでは1886年に会計年度ねん かいけいせいどを四月しがつはじまりに制定せいていしたため、新学年も同しんがくねん おなじく四月になりましたが、他の国ほか くにはどうしてこの月始つきはじまりなのかとても興味深きょうみぶかいですね。

漢字の成り立ち「学」のまとめ

それでは最後にまとめていきましょう。

  • 「「学(がく)」の旧字体は「學」で、音を表す「爻」と意味を表す「」+「冖」+「子」が組み合わさってできた形声文字。
  • 意味は、勉強・学ぶ場所・学問を極めている人・学問の分野である。
  • 読み方は、ガク・まなぶである。
  • 八画で、部首は子である。
  • 世界の主要国の多くは九月新学期制度だが、全世界がそうではない。

以上が漢字「学」のまとめです。

いかがでしたか?

漢字の成り立から覚えていくと難しい漢字も覚えやすくなりますよ。

楽しく学んでくださいね♪

忍壁皇子 - Wikipedia おさかべのみこ 666~705

忍壁皇子 - Wikipedia

忍壁皇子

忍壁皇子(おさかべ の みこ)は、天武天皇の皇子。大宝律令の編集には筆頭の編纂者として参与した。文武天皇朝の知太政官事。忍坂部皇子、刑部親王(おさかべしんのう)とも記される。

経歴

天武天皇元年(672年)の壬申の乱では父の天武天皇が吉野から東国に赴いた際に付き従った者として、草壁皇子とともに名が挙げられている[1]。

天武朝では天皇の皇子として、以下の政治的活動が見られる。

  • 天武天皇3年(674年)石上神宮に派遣され、膏油で神宝の武器を磨く。この日に、石上神宮の神府を皇室の武器庫とするためか、神府に納められている諸家の宝物について、全て各子孫に返すように勅が出されている[2]。
  • 天武天皇8年(679年)天智・天武両天皇の諸皇子とともに吉野宮に参集し、先の壬申の乱のような戦渦を起こさないよう誓約した(吉野の盟約)[3]。
  • 天武天皇10年(681年)川島皇子、三野王、忌部子首、中臣大島らと共に、「帝紀および上古諸事」の記録校定事業を命ぜられる[4]。

天武天皇14年(685年)冠位四十八階の制定に伴い浄大参に叙せられる。天武天皇15年(686年)7月に南方の落雷が原因で民部省の蔵庸舎屋で火災が発生したが、忍壁皇子の宮殿の失火が延焼したとも言われた[5]。

持統天皇10年(696年)高市皇子が没すと、忍壁皇子は天武天皇の諸皇子の中で最年長となり皇族の代表的存在となる。一方で、持統朝において彼の事績は伝わらないことから、持統天皇に嫌われて不遇をかこっていたところを、藤原不比等の入知恵で甥の文武天皇擁立を支持し、ようやく政界復帰したとする主張がある(黒岩重吾)[要出典]。

文武朝に入ると、文武天皇4年(700年)6月に藤原不比等らと大宝律令の選定を命じられ[6]、翌大宝元年(701年)8月に完成させた。またこの時に大宝令による位階制の導入により三品に叙せられている[7]。大宝2年(702年)12月に持統上皇が崩御すると、若い文武天皇の補佐を目的に、大宝3年(703年)正月に忍壁親王は知太政官事に就任して太政官の統括者となる。この時点で既に二品の位階にあった異母弟の長親王・舎人親王・穂積親王ではなく、忍壁親王が知太政官事へ任官されたことについて、大宝律令の編纂を主宰するなどの政治面での実績があることや、天武天皇の最年長の皇子であったことから、最有力の皇族として重んぜられていたことが理由と見られる[要出典]。

慶雲2年(705年)5月7日薨去。最終官位は知太政官事三品。

墓地

忍壁皇子を高松塚古墳の被葬者とする説がある[8]。

官歴

『六国史』による。

系譜

延暦18年(799年)に清滝朝臣姓を与えられ臣籍降下した上野王は忍壁皇子の後裔と想定される。また、仁明朝の承和9年(842年)忍壁皇子の六世孫にあたる保雄王およびその子の長宗王・広宗王・高枝王ら合わせて10人が[14]、承和10年(843年)五世孫にあたる令根王の子女の安継王・清淵王・易野女王、五世孫の永根王の子女の良長王・良雄王・良氏王・瀧子女王の合わせて7人が[15]、清滝真人姓を与えられて臣籍降下している。

脚注

  1. 『日本書紀』天武天皇元年6月24日条
  2. 『日本書紀』天武天皇3年8月3日条
  3. 『日本書紀』天武天皇8年5月6日条
  4. 『日本書紀』天武天皇10年3月17日条
  5. 『日本書紀』朱鳥元年7月10日条
  6. 『続日本紀』文武4年6月17日条
  7. 『続日本紀』大宝元年8月3日条
  8. "「天皇」はありえない高松塚の被葬者 天武の子・忍壁皇子説". 産経新聞(要会員登録) (2022年6月8日). 2022年8月24日閲覧。none
  9. 『続日本紀』では第九皇子とあるが、異説もあり第四皇子ではないかともいわれている[要出典]。
  10. 『日本書紀』天武天皇2年2月27日条
  11. 『続日本紀』天平宝字5年3月24日条
  12. ^ a b 澤田[1990: 72]
  13. 『続日本紀』神護景雲元年正月8日条
  14. 『続日本後紀』承和9年6月23日条
  15. 『続日本後紀』承和10年6月29日条

参考文献

  • 宇治谷孟『日本書紀(下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年
  • 宇治谷孟『続日本紀(上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
  • 澤田浩「『薬師寺縁起』所引天武系皇親系図について」『國史学』第142号、国史学会、1990年
皇親太政大臣
 白鳳時代 
 奈良時代 
人臣太政大臣
奈良時代
平安時代
鎌倉時代
南北朝時代
南朝
北朝
室町時代
戦国時代
安土桃山時代
江戸時代
明治時代

旧約聖書に書かれた「ユダヤ人の起源」は、考古学的に正しいのか? | 日々刻々 橘玲 | ダイヤモンド・オンライン

旧約聖書に書かれた「ユダヤ人の起源」は、考古学的に正しいのか? | 日々刻々 橘玲 | ダイヤモンド・オンライン

旧約聖書に書かれた「ユダヤ人の起源」は、考古学的に正しいのか?

 日本の歴史を『古事記』の天孫降臨から始めるのは「歴史学」ではないが、戦前の日本はこれを学校で大真面目に教えていた。そしてイスラエルでは、いまでも旧約聖書の物語が"公式"の歴史観となっている。それによれば、「ユダヤ人の起源」は次のように説明される。

 紀元前2000年頃、テラと呼ばれる男が、その息子アブラハムと妻サラ、孫のロト(アブラハムの甥)を連れて当時の文化の中心バビロニアを去り、ユーフラテス川を越えて現在のトルコ南部にあたるハランにやってきた。彼らは「イヴリム(川向うから来た人々)」すなわち「ヘブライ人」と呼ばれた。

 父のテラが死んだあと、70歳代になったアブラハムは神ヤハウェ(エホバ)に出会い、神の戒律(男児は誕生から8日目にかならず割礼しなければならない)を守るならば子孫を神の「選民」として庇護するという契約を結び、カナンの地が約束された。

 紀元前16世紀、アブラハムのひ孫ヨセフが古代エジプトの副王にとりたてられ、飢餓に襲われたヘブライ人を呼び寄せた。だがエジプトで新しい王が権力を握ると、ヘブライ人は奴隷にされてしまう。

 それから400年後の紀元前12世紀、ヘブライ人はモーセというリーダーに率いられてエジプトを脱出した(「出エジプト」)。モーセはシナイ山で神の戒律を記した十戒の石版を受け取り、カナンを征服して「約束の地」に帰還した。

 その後、12支族による族長時代の「連邦制」を経て、カナンはダビデによって統一された。だがダビデの子で「知恵の王」とも称されたソロモンの死後、北のイスラエルと南のユダという2つの王国に分裂してしまう。

 イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、歴史から消滅した。これに対してユダ王国は、紀元前586年に新バビロニアのネブカドネザルに攻略されるまで持ちこたえ、住民たちがバビロニアに虜囚されてからも独自の一神教を保持しつづけた。このとき、「約束の地」から追放されたユダ王国の子孫が「ユダヤ人」になる。

 だが、これらは歴史的な事実なのか、それとも旧約聖書に書かれたたんなる神話なのか。この問いが重要な意味をもつのは、この「公的」な歴史観が、ユダヤ人が「約束の地」に自らの国家をもつシオニズムの根拠とされているからだ。

聖書における「出エジプト」はすべて創作なのか

 イスラエルの歴史学者シュロモー・サンドは『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか?』(高橋武智監訳、佐々木康之・木村高子訳、ちくま学芸文庫) で、イスラエルの公式史観は「つくり話」だと主張している。なお本書の原題は"The Invention of the Jewish People(ユダヤ人の発明)"だ。

 1946年にオーストリアでホロコースト生存者の家庭に生まれたサンドは、2歳で家族とともにイスラエルに移住した。 父親は共産主義者で、16歳で高校を退学になりラジオ修理の仕事をしていたサンドも共産主義に傾倒した。25歳で高校を卒業すると、1967年に勃発した6日間戦争に徴兵、激戦地に投入され生き延びた。

 戦後、サンドはパレスチナ人に対するイスラエルの抑圧的・差別的な対応を目にして「反シオニスト」になり、テルアビブ大学で歴史学の学士号を取得すると、「イスラエル人としてのすべてを捨てる」決意でフランスに移住、歴史学の博士号を取得してパリやカリフォルニア(UCバークレー)で教鞭をとった。1984年からはテルアビブ大学に戻って現代ヨーロッパ史を講じ、正教授を経て現在は同大学の名誉教授だ。

『ユダヤ人の起源』は2008年にヘブライ語版が出版され、イスラエルでベストセラーになるとともに、はげしい論争を巻き起こした。その後、英語、フランス語、ドイツ語、アラビア語などに翻訳されている。

 旧約聖書の「歴史」のなかで、アブラハムやその子孫については検証のしようがないため、最初の「歴史問題」はモーセの出エジプトになる。だが考古学資料も歴史文献も極端に少なく、エジプトの国境守備隊から宮廷に「ある部族」が通過中であるとの報告がなされたとか、ある寛大なファラオが中近東出身らしき部族に小麦とビールの糧食をふるまったという記述が見られるくらいだ。

 これに対してサンドは、エジプト王国では、個々の出来事をきわめて正確に記録に残す習慣があって、王国の土地に遊牧民の羊飼いが侵入したことまで知られているのに、ファラオの副王になったユダヤ人のことはもちろん、ユダヤ人の奴隷が集団で反乱を起こして脱出したことにまったく触れていないのはなぜなのか、と問う。

 聖書によれば、モーセは60万人の戦士と300万人近い民を40年間も砂漠のなかを引き連れた。これほどの規模で居住地を離れ、これほど長い期間、砂漠をさまようのはまったく不可能だという事実のほかに、このような出来事があれば、何らかの碑銘学的ないし考古学的な痕跡を残したにちがいないが、どこからも発見されていない。

 さらに大きな矛盾は、紀元前1220年のものとされる石碑に、ファラオ(ラメセス2世の後継者メルネプタ王)がシナイ半島の地カナンまで遠征して戦いに勝ち、「イスラエル」という名のものたちを破ったという記録があることだ。これが聖書以外に「イスラエル」の名が現われるはじめての記録だが、従来の解釈では出エジプトは紀元前12世紀(紀元前1100年代)で、この戦いのあとのことだ。

 しかしそうなると、モーセはエジプトから解放したユダヤの民を、エジプトが支配していたカナンの地に導いたことになる。モーセがカナンの地を征服する様子は『ヨシュア記』で描かれ、これは(サンドによれば)「史上初のジェノサイドの一つ」だが、このような大事件が起きたことは、この土地を統治していたエジプトの記録にはまったく残されていない。

 では逆に、エジプトのカナン攻略以前に、モーセがユダヤ人を率いて「約束の地」に帰還したとしたらどうだろう。これなら石碑とのつじつまは合うが、今度は、聖書にこの大事件の記載がいっさいないことを説明できなくなる。エジプトでの奴隷状態からようやく逃れてきたのに、ふたたびエジプトの支配下に置かれることになったことを、なぜ無視するのか。

 このように考えれば、「合理的」な解釈はひとつしか残されていない。聖書における「出エジプト」はすべて創作なのだ。しかしこれでは、モーセの存在も、シサイ山での十戒の石版も、ヤハウェの命令によるカナン征服も、すべてつくり話になってしまう。

イスラエル王国以前に強力な統一王国はなく、しかもイスラエル王国は「ユダヤ教」ではなかった

 モーセが架空の存在であったとしても、ユダヤ人が古くから「約束の地」で暮らしていたことは、族長時代を経て、「威厳に満ちたサウル、勇気あるダビデ、賢いソロモン王」という3人の王が、北のイスラエルと南のユダを統一し、紅海からアッシリアのダマスコ(ダマスカス)に至る大帝国をつくったことで明らかだとされる。

 だがサンドは、統一王国の首都であったエルサレムの大規模な発掘作業が1970年代に行なわれたものの、ダビデとソロモンの時代とされる紀元前10世紀に、強力な王国が存在した名残を発見できなかったとする。「記念碑的な建造物のいかなる証拠も、城壁も、壮麗な宮殿も見つからなかったし、土器も驚くほど少ししか出土せず、出土したものもひどく貧弱な様式だった」のだ。

 聖書の伝承によると、ソロモン王はハツォル、メギド、ゲゼルなどの北部の町を再興した。そのハツォルからは巨大建造物、メギドでは宮殿の城門の廃墟が見つかったが、「残念なことに、これらの城門の建築様式は紀元前10世紀よりもあとのものであり、サマリアで発見された前9世紀の別の宮殿に似ていることが明らかになった」。炭素14を用いた年代測定でも、北部地域の巨大建造物は統一王国のソロモンによって建てられたものではなく、イスラエル王国時代のものだとされている。

 アッシリア南部(イスラエル北部)に人口が多く、ゆたかな王国が存在したことは、アッシリア王シャルマネセル三世の「黒いオベリスク」と呼ばれる碑文などから間違いない。一方、南のユダ地方にはその当時、王国と呼べるような政治的実体はなく、エルサレムも小さな砦のような町以上ではなかった。「この地方の一角に、ダビデ家と呼ばれる王朝が存在したかもしれないが、このユダ王国は、おそらくはそれ以前に出現した北部イスラエル王国よりずっと小さいものだった」とサンドはいう。

 イスラエルの公式史観にとって都合の悪いことに、さまざまな考古学的発掘の結果は、カナンのひとびとが一神教を信じていたのではなく、当時、中東で一般的だった多神教徒だったことを示している。そのなかでもっとも人気のある神がヤハウェで、「それがギリシア人におけるゼウスやローマ人におけるユピテルと同じように、徐々に主神になっていった」のだ。

 このようにして、モーセだけでなくダビデやソロモンも架空の人物になってしまった。「栄光に満ちた統一王国は決して存在したことがなく、ソロモン王は、700人の妻と300人の側妻を住まわせるほど広い宮殿をもっていなかった」とサンドはいう。「イスラエル王国」はたしかに存在したものの、そこにいたのは「異教徒」だった。なぜなら、「ユダヤ教」がまだ成立していなかったからだ。