2026年10月12日月曜日

天学伝概(てんがくでんがい)

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第三十九册:李祖白《天学传概》


原文(章番号は編集者)


    天学传概
    燕吴后学李祖白撰
    天学传概题解
    《天学传概》是李祖白作于1663年为答复杨光先所著《辟邪论》之书。李祖白,字然真,燕吴人,出生时间未详,任钦天监夏官正,卒于1665年。作者是汤若望 的弟子(书中有两处称汤若望“余师”)。今底本,有许之渐 1664年序,共34面,藏在梵蒂冈教廷图书馆(Biblioteca Apostolica Vaticana),文献编码为Rac.Gen.Or.III-213(12)号。 本书与藏于法国国家图书馆(Bibliothèque Nationale de France) 之福建黄鸣乔撰的《天学传概》(1639年版,古郎编目为6875之一号)一书名同而实异。
    本书介绍的是天主教的发展,和天主教与中国的关系,说明中国上古之学即天学,有《尚书》、《诗经》、《论语》、《孟子》为证。三代以后,天学失传,天主教多次东传。其中耶稣会在中国产生了很大的影响,如修宪历,建教堂,传播天学,翻译书籍等。
    书作于1663年正月,时值杨光先向天主教发难,著《辟邪论》、《距西集》等书。斥天主教为邪教,指责汤若望的新历“暗窃正朔之权以予西详”。李祖白此时作《天学传概》有为其师汤若望辩护之意。杨光先读此书后勃然大怒,于三月底作《与许表屿侍御书》批驳李祖白与许之渐。指斥其书“见我伏羲氏以至今日之君臣庶几尽辱为邪教之子孙,《六经》、《四书》尽辱为邪教之余论。”并把这些书呈交礼部,要求剪除邪教,依律正法。同年八月,礼部开庭会审汤若望、利类思、安文思、南怀仁、李祖白、许之渐等人。次年四月,五名信教监官被冤杀,其中就有本书作者李祖白。
    天学传概目录
    天学传概题解 25
    天学传概目录 27
    天学传概序 28
    一、圣贤之学皆本乎天 28
    二、天学即儒学 28
    三、天主教东来小记 28
    四、作序经过 28
    第一节 天学概说 30
    第二节 天学三教 30
    一、性教 30
    二、书教 30
    三、宠教 30
    第三节 天学与中土 31
    一、上古中土亦事天 31
    二、天学之微言法语 31
    三、天学失传于三代以后 32
    四、圣多默遗教 32
    五、大秦景教东来 32
    六、耶稣会东来 32
    第四节 耶稣会在中国的影响 33
    一、修宪历 33
    二、建教堂 33
    三、京师之天学 33
    四、四方之天学 34
    五、翻译书籍 34
    天学传概序
    一、圣贤之学皆本乎天
    自天地之心见,而后君师之道兴。帝王之所以为治,圣贤之所以为学,未有不本乎天者也。黄轩迄今,世无异治。而教统一裂,人自为学,家自为师,若水火之不相谋。要无不尊天以立说者,一彼一此之间,往往阳摈其名而阴窃其实,虽道家之幽渺,释子之虚寂,穷其所托,与吾儒之尽性至命不有殊途而同归者乎?惟是斁伦毁纪,舍君臣父子之大,而耽夫幽渺虚寂,以别求其所谓天,此二氏之教吾儒所以辞而辟之也。彼行之不著,习矣不察,终其身於君臣父子而莫识其所为天。即儒者或不能无弊。如欲循其弊以为救,仍莫若尊天以立说。
    二、天学即儒学
    相传开辟以来,有所为天主教学者。骤而聆其语,若倘恍而弗可据。即其於吾儒,当告之以二帝三王之道,日月星辰之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物类之所以蕃,江河之所以流,不应渎告之以其学也。久之而亲其人,绎其书,以昭事不堕为宗旨,克己爱人为工夫,悔过迁善为入门,生死大事、有备无患为究竟。其於二帝三王之道,日月星辰之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物类之所以蕃,江河之所以流,靡弗相始终、相表里,超出乎二氏之上。而后知其学何,莫非吾儒之学也。
    三、天主教东来小记
    其教自汉唐流传中土,明万历辛巳,耶稣会士西泰利子航海九万里而来,建堂於宣武门内,一时名公卿多乐与之游。至国朝,恩礼倍渥,通微教师实总历务,复敕建东堂。
    四、作序经过
    再可,利子景明、安子主之,余俱乐与之游而。然真李子以余为有契乎其言也,持所著书属利子索余序,因述其大略惟向者福清叶相国赠西贤诗有云:“言慕中华风,深契吾儒理。”又云:“拘儒徒管窥,达观自一视。”诚化其同异之见,取所为尊天以立说者。究其指归,精其义蕴,即不言学,并不言教可也。而一切穷神达化,更有进乎此者,抑非余之所及知也已。
    康熙三年,岁在甲辰,春王正月 柱下史毗陵许之渐敬题
    第一节 天学概说
    天学,天主教学也。天主为万有之初有其有,无元而为万有元,德福圆满,知能浑全,妙性超然,奥穷思悟,中土尊称之曰上帝。兹以其为天地之主宰,故质称天主也。而其教则为人而立,别人于蠢动,侪人于天神,令向真原而求真福。大要以昭事不堕为宗旨,以克己爱人为工夫,以悔过迁善为入门,以生死大事有备无患为究竟,诚吾人最吃紧之实学,而其从来远矣。
    第二节 天学三教
    一、性教
    缅昔天主上帝,于厥世始,开辟乾坤,发育万物,所以资人安居利用者悉备,而生初人,男女各一,其灵性赋以当然之则。好善恶恶,秉为彝常,永不能脱。凡遇忠孝大节,举仰慕之若渴;凡遇奸顽大慝,举疾视之若仇。自古称为性教,愚非不足,圣非有余,岂不然乎?
    二、书教
    只以性参气禀,物诱交侵,失其初良,而不敢漫言率也。则继之以书教,后开辟三千七百有一年,天主于西纳山(西距中国四万里)顶,降石碑二,明列十诫为目,括以爱主爱人为纲,是书教者,所以为性教之申命也。
    三、宠教
    而不惟是,又后千四百九十七年,天主之教世又有进焉者。先是诏示人间,兼遣神人。此因举世沉迷,躬自降救,下取人性,以接本性,而生如德亚国 (初人亦生于此,西纳山在其界内。)之白棱郡,名耶稣。在世三十有三载,所显奇迹甚众,命死者活即活,命瞽者见即见;巨浪雄风命息即息,虐魔恣害命退即退。盖与化成功用、万有应命而出,者同一神异也。详明诫理,简定新规,群心大服,名其教为宠教,以见教由主宠,非人分所应有云。较前性书二教,恩施此尤挚矣。
    第三节 天学与中土
    一、上古中土亦事天
    然则天学之传及中土,其时亦可得而稽乎?曰:有斯人,即有斯教,中土人与教同时并得也。何以言之?方开辟时,初人子孙聚处如德亚,此外东西南北,并无人居。当是时,事一主,奉一教,纷岐邪说无自而生。其后生齿日繁,散走遐逖,而大东大西有人之始,其时略同。考之史册,推以历年,在中国为伏羲氏,即非伏羲,亦必先伏羲不远,为中国有人之始矣。惟此中国之初人,实如德亚之苗裔,自西徂东,天学固其所怀来也。生长子孙,家传户习,此时此学之在中国,必倍昌明于今之世。延至唐虞,下迄三代,君臣告戒于朝,圣贤垂训于后,往往呼天称帝,以相警励。夫有所受之也,岂偶然哉?
    二、天学之微言法语
    1、《尚书》
    其见之《书》曰:“昭受上帝,天其申命用休。”曰:“予畏上帝,不敢不正。”曰:“惟皇堆竽上帝,降衷于下民。”曰:“上帝妥佑下民。”曰:“惟简在上帝之心。”曰:“惟上帝不常,作善降之百祥,作不善降之百殃。”曰:“顾諟天之明命。”曰:“天佑下民,作之君,作之师,惟其克相上帝。”曰:“我亦不敢宁于上帝命,弗永远念天威。”
    2、《诗经》
    见之《诗》曰:“文王在上,于昭于天。文王陟降,在帝左右。”曰:“维此文王翼翼,昭事上帝。天鉴在下,有命既集。上帝临女,无贰尔心。”曰:“皇矣上帝,临下有赫。”曰:“敬天之怒,无敢戏豫。敬天之渝,无敢驰驱。”曰:“荡荡上帝,下民之辟。天生蒸民,其民匪谌。”曰:“贻我来牟,上帝率育。”曰:“赫赫姜嫄,其德不回。上帝是依。无贰无虞,上帝临女。”
    3、《论语》
    鲁《论》曰:“获罪于天,无所祷也。”曰:“予所否者,天厌之,天厌之。”曰:“丘之祷久矣。”曰:“畏天命。”
    4、《中庸》
    《中庸》曰:“郊社之礼,所以事上帝也。”曰:“上天之载,无声无臭,至矣。”
    5、《孟子》
    《孟子》曰:“乐天者,保天下;畏天者,保其国。”曰:“顺天者存,逆天者亡。”曰:“虽有恶人,斋戒沐浴,则可以事上帝。”曰:“存其心,养其性,所以事天也。殁寿不贰,修身以俟之,所以立命也。”凡此诸文,何莫非天学之徽言法语乎?其不但言帝,又言天者。天即帝也,犹臣民间称君上为朝廷。朝廷,即君上也。
    三、天学失传于三代以后
    审是,则中国之教,无先天学者。惜乎三代而还,世风日下,民生苦于战争,士习坏于功利。吕秦代周,任法律,弃诗书,从前载籍,尽遭烈焰,而天学不复睹其详矣。伤哉!
    四、圣多默遗教
    逮至西汉元寿,天主降生,及救世毕。宗徒圣多默者,行教中土,事载西史。而此中中州近地,明季流传十字教规。缘天主救世,功成十字,故以名教,是即多默所遗教也。
    五、大秦景教东来
    逮至有唐贞观九年,上溯天主降生六百三十五祀,大秦国(即如德亚国)修士阿罗本,远将经像重译来朝。尔乃宰相郊迎,翻经内殿,命名景教。初敕造大秦寺于京后,又遍敕诸州,各置景寺。开元以后四朝,宠赉弥渥。即郭汾阳王,亦复重广法堂,依仁施利,修举哀矜。教行有唐,盖二百载而近矣。今长安有“景教流行中国碑”可考也。
    六、耶稣会东来
    1、利西泰
    又后九百四十六载,溯天主降生千五百八十一年,为明万历辛巳。耶稣会士西泰利子,自欧罗巴梯航九万里东来,庚子底燕京,贡圣像、西琴、自鸣钟等物。朝廷义隆柔远,恩礼备至,缙绅先生与之游,讲究天主大道,多所契合。著有《实义》、《畸人》等书行世,服从其教感其化者比比。辛亥卒于京,赐地葬焉。
    2、其他耶稣会士
    于是熊、庞、阳、龙诸子,先后接踵来京司教事。而晋有高则圣,闽有艾思及江南有毕今梁,并显闻于时。
    第四节 耶稣会在中国的影响
    一、修宪历
    崇祯己巳,庭议修历徐文定公素折节西贤,为性命交,知其旁通历学,时以少宗伯领督修,疏荐函璞邓子,未几病殁。绩荐余师道未汤子、暨味韶罗子。历垂成,罗又病殁,独余师与历事相始终。入国朝,用其法造时宪历颁行天下,命掌钦天篆,辞再三不允。
    二、建教堂
    1、宣武门堂
    至辛卯,遂荷世祖皇帝特达之恩眷,锡嘉名,晋崇阶;更念其将老,敕户部查给地亩,任作生圹;而且驾数临堂,谘求教学,赐御制文有铭。西泰氏旧堂之东偏,师为仿西式改创新堂,宽数倍。于其东阶,恭勒纶音于石以垂不朽,天下闻而荣之。堂近宣武门,属城西东华门旧灯市之南。
    2、东堂
    又一堂,钦赐于顺治乙未,改建于康熙壬寅,堂亦西式。相偕在内行教者,再可利子,景明安子也。人称东堂,以别于宣武门之堂。
    三、京师之天学
    天学之在京师,为四方之望。自京师堂构一新,叨恩格外。而四方西贤铎振之地,士民益奋钦崇。会有中丞汇白佟、廉察鹤沙许二公信綦坚,宦游所到,捐资营筑,以奉天主。俸入不为己有,而为天主有。其视明叶文忠徐文定、韩蒲州、刘成都、李宦卿、杨京兆数君子乐为道侣身主者何让乎?
    四、四方之天学
    江南之苏淞二郡,浙之武林,江右之南昌、之建昌、之南赣,楚之武昌,闽之福州、之建宁、之延平、之汀州,蜀之重庆、之保宁,咸有新堂,西贤居焉。前己丑,余师为历学计久远,特疏上请,敦伯南子以知历赴阙庭,仰给大官。同时遵旨入内地者,又十余人。我国家肇造区夏,一统无外。名公钜卿,相与黼黻辅皇猷于上。而辇毂内外,或省会之冲,或乡邑之僻,每有西贤至止,时出其所学,为世津梁。指正真之定极,杜诳惑之旁蹊。于以下肃人心,上襄王化唐虞三代之风,庶其再见于今日欤。
    五、翻译书籍
    利西泰而下,著述号最富者,进呈历书百余卷,业蒙宣付史馆。他若理器殊汇,莫非教学攸关,成书又三百卷。(有经,有史,有超形性学,有形性学,有修学,有天文学,板藏京师、江南、浙、闽、秦、晋各堂)且总计载来图书七千余部。群贤感荷心帡幪,宾至忘返,共矢协佐同文,抑首翻译,川至日升,殆无穷竟。鸣呼!此又泰火以前未有之盛事也,汉唐无论矣。癸卯孟冬公余少暇,客有问天学今昔之概者,谨遵所闻论次之,以代口答。

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第39巻:李祖白著『天文学概論』


    李祖白は、燕武出身の学者で、 1663年に楊光賢の『
    異端論』に応答する形で著した『天学伝蓋    』
    である。李祖白は字が蘭珍で、燕武出身。生年月日は不明。天文台の夏季官を務め、1665年に死去。著者はヨハン・アダム・シャル・フォン・ベルの弟子であり(本書の中で2箇所、シャル・フォン・ベルを「私の師」と呼んでいる)、現存する原本は1664年に徐志堅による序文が付され、全34ページ。バチカン図書館(Biblioteca Apostolica Vaticana)に所蔵されており、文書コードはRac.Gen.Or.III-213(12)である。本書は、福建省の黄明橋が著し、フランス国立図書館に所蔵されている『天学伝蓋』(1639年版、目録番号6875-1)とは同名だが、内容が異なる。
    本書は、カトリックの発展と中国との関係を紹介し、『商書』、『史経』、『論語』、『孟子』などの文献に見られるように、古代中国の学問は本質的に天文学であったと説明している。三代以降、天文学は衰退し、カトリックは幾度も東方へと広まった。イエズス会は、暦の改訂、教会の建設、天文学の普及、書籍の翻訳などの活動を通じて、中国に大きな影響を与えた。
    本書は、楊光賢が『妖精論』や『聚渓記』などの著作でカトリックを攻撃していた1663年1月に書かれた。彼はカトリックを異端と非難し、ヨハン・アダム・シャル・フォン・ベルの新暦を「西方の利益のために暦の権威を密かに奪った」と非難した。この時、李祖白は師であるシャル・フォン・ベルを擁護するかのように『天学伝蓋』を著した。この書を読んだ楊光賢は激怒し、3月末に李祖白と徐志堅を反駁する『虞徐表語詩語書』を著した。彼らはこの書を非難し、「伏羲から今日に至るまで、君主や大臣はほぼ皆、異端宗派の末裔として汚名を着せられ、六経四書もこの異端教義の残滓として汚名を着せられている」と述べた。彼らはこれらの書を礼部へ提出し、この異端宗派の根絶と法による正当な処刑を要求した。同年8月、礼部はヨハン・アダム・シャル・フォン・ベル、ルイス・リー・バーク、ジャン=バティスト・レジス、フェルディナント・ヴェルビースト、李祖貝、徐志堅らを合同で裁判した。翌年4月、宗教的信念のために投獄されていた5人の官僚が不当に処刑され、その中には本書の著者である李祖貝も含まれていた。   
 『天学伝』目次 25
    『天学伝』目次 27     『天学伝』序文 28     I. 聖人賢人の学問は天に基づいている 28     II. 天学は儒教である    28 III. 東方へのカトリックの到来の簡単な説明 28     IV. 序文の執筆過程 28    第1章:天学の概要    30 第2章:天学の三つの教え    30 I.    自然の教え 30 II.書物の教え 30     III. 恩恵の教え 30    第 3 章: 天の学問と中国    31 I. 古代中国も天に仕えた 31     II. 天の学問の微妙な言葉と表現31     III. 天の学問は三王朝後に失われた 32     IV. 聖トマスの教え 32 V. ネストリウス派の    東方へ    の到来32 VI.    イエズス会の東方への到来 32 第 4 章: 中国におけるイエズス会の影響 33     I. 憲法暦の改訂 33     II. 教会の建設 33     III. 首都における天の学問 33     IV. 四方における天の学問 34     V. 書物の翻訳 34    
天の学問伝記
序文  
  I. 聖人賢人の学問は天に基づいている    天地の心から、統治者と教師の道が現れる。皇帝の統治方法や聖人の学び方は常に天に根ざしている。黄玄の時代から現代に至るまで、統治のあり方に変化はない。しかし、教えは断片化し、個人や家族がそれぞれ独自の教師となり、まるで火と水のように混ざり合っている。彼らは皆、自らの教義において天を擁護すると主張するが、表向きは天の名を否定しながら、内心ではその本質を受け入れていることが多い。道教の深遠な神秘や仏教の静謐な空性も、究極的には、儒教の理想である自己の本質と運命の成就という同じ目標へと至る。しかし、それらは道徳原理を破壊し、君主と臣下、父と子といった根本的な関係を放棄し、深遠な空性に耽溺して、いわゆる天を求めている。だからこそ、儒教はこれらの教えを拒絶し、避けるのである。彼らの行いは目立たず、あまりにも身近なため気づかず、人は天を認識することなく、支配者と臣下、父と子の役割の中で人生を送る。儒教の学者でさえ、これらの欠点から免れることはできないかもしれない。これらの欠点を是正したいのであれば、教義において天を堅持すること以上に良いことはない。   
 II. 天の研究、すなわち儒教は、    太古の昔から伝承され、カトリックの学者によって影響を受けてきた。初めて彼の言葉を聞いた人は、混乱し、その意味を理解できないかもしれない。儒教の学者の間でも、二帝三王の道、太陽、月、星の動き、天地が顕現する理由、精霊や神が隠されている理由、万物が繁栄する理由、川が流れる理由について教えるべきだ。彼らの学問について、無礼に教えるべきではない。時が経つにつれ、人は彼に近づき、彼の書物を学び、物事の悟りを指導原理とし、自制と他者への愛を実践とし、悔い改めを入り口とし、生と死への備えを究極の目標とするべきである。そして、二帝三王の道、太陽、月、星の動き、天地が顕現する理由、霊神や神が隠されている理由、万物が繁栄する理由、川が流れる理由について考えると、すべてが相互に関連し、互いに強化し合い、二学派の教えを超越する。その時初めて、人は自分の学問が何であるかを理解するだろう――それは儒教の学問に他ならない。 
III.    東洋へ    のカトリックの到来に関する簡単な説明:カトリックは漢王朝と唐王朝の間に中国に広まった。明王朝万暦年辛思年に、イエズス会宣教師タリー・スタークは9万里を航海して中国に渡り、玄武門内に教会を建てた。多くの高官や貴族が彼と交流することを楽しんだ。康熙帝の治世には、皇帝の寵愛と厚遇が彼に与えられた。通衛教師は国政全般を監督するよう任命され、東殿を建てるよう勅令が出された。    
第四に、序文の執筆に関して    、李子静明と安子が担当することになり、私は彼らと交流できて嬉しかった。しかし、李子は私が彼の言葉に共鳴していると本当に感じ、李子に彼の本の序文を書いてくれるよう頼んだ。そこで、私はその基本原則を概説した。以前、福清の宰相である葉は西洋の学者に詩を贈呈し、「中国精神を敬い、儒教の原理を深く理解する」と述べていた。彼はまた、「儒教は狭量な見方のようなもので、広い視野を持つことで異なる見方が得られる」とも述べた。それは真に異なる意見を超越し、天を敬う道とされるものに基づいて教義を確立する。その意味を徹底的に調査し、その含意を精緻化することで、学問や教授について議論することなくこれを達成できる。しかし、真に深遠で超越的な、そしてこれを超えるものはすべて、私の理解を超えている。    康熙三年、賈辰の年、春の第一月に、靳陵の歴史家である徐志堅は、敬意を込めて    第一部「天学概論」を記した    。天学はカトリックの学問である。神は万物の源であり、初めから存在しながらも、始まりのない万物の源であり、完全な徳と福、完全な知識と能力を持ち、驚異的な性質は超越的で深遠で不可解である。中国では、神は神として崇められている。天と地の支配者であるゆえに、単に神と呼ばれています。その教えは人類のために確立され、人々を世俗的な行為から神聖なものへと導き、真の源から真の幸福を求めるように導きます。主な目的は、物事が正しく、誤りなく行われることを保証し、自制心と他者への愛を育み、悔い改めと改革から始め、最終的には生と死という重大な問題への備えを達成することです。これは私たちにとって本当に最も重要な実践的な学びであり、その起源は古代に遡ります。  
  第2章:天の三つの教え
I.    自然の教え    時の初めに、神は世界の初めに天と地を創造し、万物を育み、人間の居住と使用に必要なすべてを提供しました。最初の人間が一人の男性と一人の女性が生まれ、それぞれが生まれながらの霊性を授かりました。彼らは善を愛し、悪を憎みました。これは彼らが決して逃れることのできない根本的な原則です。忠誠と孝行の行為に出会ったときは、熱烈な敬愛をもって彼らを賞賛すべきです。悪や大いなる悪に遭遇したときは、正義の憤りをもって憎むべきである。これは古来より自然の教えと呼ばれてきた。愚者にもこれが欠けているわけではなく、賢者にも行き過ぎているわけではない。そうではないだろうか。    第二に、書物の教えは    生来の性質と気質のみを考慮している。外的影響に誘惑されると、人は本来の善性を失い、軽率な発言をしてはならない。したがって、書物の教えはこうである。時の始まりから3701年後、神はシナイ山(中国西方4万里)の頂上から2枚の石板を降ろし、神への愛と他者への愛を指針として十戒を明確に記した。これが書物の教えであり、自然の教えを肯定するものである。    第三に、えこひいきの教えは…


    それだけでなく、1497年後、神の教えはさらに進展しました。まず、神は人類に御意志を宣言し、神々を遣わされました。世界が迷妄に陥っていたため、神は自ら地上に降り立ち、人間の本性を身にまとい、本来の本質と結びつくために、ユダヤの国バイリン郡(最初の人間が生まれた場所であり、シナイ山もその領土内にある)でイエスと名付けられました。地上での33年間、イエスは数々の奇跡を行いました。死者を生き返らせ、盲人を開かせ、巨大な波や強風を命じると静め、暴君のような悪魔を命じると退却させました。これは、万物を変容させ、万物を神の意志に従わせるという、まさに神の奇跡でした。イエスは教えを明確に説き、新しい規則を確立しました。人々はそれを広く受け入れ、イエスの宗教を「神の恵みの宗教」と呼びました。それは、人間が当然享受できるものではなく、神から授けられた宗教だったからです。前の2つの宗教と比べて、この宗教はさらに大きな恩恵をもたらした。

    第3章:天学と中国
    I. 古代中国も
    自然法。では、天学はいつ中国に伝わったのだろうか?その伝来をたどることはできるのだろうか?「人がいれば宗教がある」と言われている。中原の人々とこの宗教は同時に獲得された。なぜそう言うのか?最初は、最初の人々の末裔がデヤのような場所に集まり、東西南北には他の住民はいなかった。当時、皆が1人の主人に仕え、1つの宗教に従っていたため、さまざまな異端の教義が理由もなく発生した。その後、人口が増えるにつれて、人々は遠く離れた場所に散らばり、東西で人類の居住が始まったのはほぼ同時期だった。歴史記録を調べ、年をたどると、中国では伏羲、あるいは少なくとも彼よりそれほど遠くない人物が、中国における人類の居住の始まりを告げたのである。これらの初期の中国人は確かに西から東へ移住してきた徳也の子孫であり、天の研究は当然彼らの起源であった。彼らが成長し、その子孫が知識を伝えるにつれて、この学問は当時中国で今日よりもはるかに盛んになった。唐王朝や禹王朝、そして三王朝にまで広がり、統治者や大臣は宮廷で互いに戒め合い、賢者は教えを後世に残し、しばしば天と皇帝に互いに戒め合い励ますよう求めた。これは決して偶然ではなかった。
    II. 天学の微妙な言葉とフレーズ
    1. 書書(尚書)
    :書書には、「天は至高神の命を受け、天はそれを我々に授けるだろう」とある。また、「私は至高神を畏れ、不服従する勇気はない」ともある。また、「至高神、大皇帝は民に恩恵を与えるだろう」ともある。 「至高の神は民を守護する」とある。「至高の神の心は見通す」とある。「至高の神は不変ではなく、善行を行う者には百の祝福を与え、悪行を行う者には百の災いを与える」とある。「我々は天の明確な命に従わなければならない」とある。「天は民を守護し、彼らを統治者や教師にして、至高の神を補佐させる」とある。「私は至高の神の命に逆らうことはなく、天の威厳を決して忘れない」とある。
    2.
    詩経にはこうある。「文王は天に輝き、文王は昇り降りし、皇帝の傍らにいる」とある。「この文王は敬虔にも至高の神に仕え、天は地上の証人であり、命は果たされた。至高の神はあなたの上にあり、心に迷いを抱くことはない」とある。 「ああ、至高の神よ、あなたの存在は畏敬の念を抱かせる。」 「天の怒りを敬え、軽率であってはならない。天の変遷を敬え、無謀であってはならない。」 「至高の神は広大で限りなく、民の導き手である。天は民を生み出し、民は徳を欠いていない。」 「至高の神は私たちに豊かな収穫を与え、私たちを養い支えてくださる。」 「江元は輝かしく、その徳は揺るぎない。至高の神は彼女に頼っている。揺らぐことも心配することもなく、至高の神はあなたの上にいる。」
    3. 論語
    、魯節には、「天を怒らせた者は、祈る場所はない。」 「私が何をしたにせよ、天は私を罰するだろう、天は私を罰するだろう。」 「私は長い間祈ってきた。」 「私は天命を畏れる」とあります。
    4. 中庸の教え
    中庸の教えは、「郊外の祭壇や祖廟の儀式は神に仕えるためである」と述べています。また、「天の道は静かで無臭であり、究極である」とも述べています。
    5.
    孟子は、「天を喜ぶ者は世界を守り、天を畏れる者は国を守る」と述べています。また、「天に従う者は生き残り、天に逆らう者は滅びる」とも述べています。また、「悪人であっても、断食して沐浴すれば神に仕えることができる」とも述べています。また、「心を守り、本性を養うことが天に仕える方法である。生と死に揺るぎなく、それを待つために自分を鍛えることが、運命を確立する方法である」とも述べています。 これらの文章はすべて天の教えを想起させるものではないでしょうか。これらは皇帝だけでなく天についても語っています。天は皇帝であり、臣民が統治者を朝廷と呼ぶように、朝廷は統治者である。

    III. 三朝以降、天の研究は失われた
    。実際、中国の教育には天の研究が欠けていた。三朝以降、世界の道徳が衰退し、人々は戦争に苦しみ、学者たちは功利主義によって堕落したことは残念である。秦王朝が周王朝に取って代わると、法を執行するために官僚を任命し、詩や書物を放棄した。以前の記録はすべて戦争の炎で破壊され、儒教の学問の詳細はもはや入手できなくなった。ああ!
    IV. 聖トマス・アクィナスの遺産
    :西漢王朝の元寿帝の治世中に、神が生まれ、神の救済が完成した。聖トマス・アクィナスは中国で説教し、彼の行いは西洋の歴史に記録されている。近くの中原では、明朝末期に十字経が広まった。十字経を通して神の救済が達成されたことから、この宗教が名付けられた。これは聖トマス・アクィナスの遺産である。
V
    . ネストリウス派:
    唐王朝の鎮関9年、神の誕生から635年後、大秦(ルデアとも呼ばれる)の僧侶アロペンが新しい翻訳の経典を唐の朝廷にもたらした。宰相は彼を城外で迎え、経典を内宮に翻訳し、ネストリウス派と名付けた。当初は大秦に寺院を建立する勅令が発布され、その後、各地の県にネストリウス派の寺院を建立する勅令が発布された。開元以降4代の治世の間、庇護は増加した。汾陽王郭汾陽でさえ、法堂を再建・拡張し、仁と慈悲を実践し、慈悲を堅持した。彼の教えは、約200年前の唐の時代に隆盛した。これは、長安の「ネストリウス碑文」で確認できる。

    VI. イエズス会士の東方への到来
    1.
    リゼットから946年後、1581年前の神の誕生に遡ると、明の万暦年辛思年に、イエズス会士リゼットはヨーロッパから9000マイル東へ航海し、庚子年に北京に到着し、イコン、西洋のハープ、自動鳴動時計を持参した。宮廷は、遠い土地に対する正義と仁愛をもって、彼に多くの恩恵と礼儀を与えた。彼は郷士や学者たちと交流し、神の偉大な道について議論し、多くの共通点を見出した。彼は『十一』や『済人』などの書物を著し、それらは広く流通し、多くの人々が彼の教えに影響を受けた。彼は辛海の年に北京で亡くなり、埋葬地を与えられた。
    2. その後、熊、龐、楊、龍などの他のイエズス会士が
    北京に来て布教を行った。晋には高澤勝、福建には艾思、江南には畢金良がおり、いずれも当時の著名な人物であった。
    第4章 中国におけるイエズス会の影響
    I. 憲法暦
    崇禎の済思の年に、朝廷は暦の改訂について議論した。西洋の学者と親しい友人であった徐文鼎は、徐の暦研究に関する幅広い知識を知っていた。当時、彼は礼部次官であり、改訂を担当していた。彼は韓濤と鄧子を推薦したが、その後まもなく病死した。彼は于世道と唐子、そして魏紹と羅子を推薦した。暦はほぼ完成したが、羅も病死した。于世だけが最後まで暦の仕事を続けた。中華人民共和国建国後、暦の方法を用いて史県暦を作成し、全国に普及させた。彼は天文台の責任者に任命されたが、何度も辞退した。
    II. 教会の建設
    1. 玄武門教会
    辛毛の年に、世祖皇帝はこれを特別に優遇し、名声を与え、より高い地位に昇格させた。皇帝は自分が高齢であることを考慮し、歳入部に墓のための土地を提供するよう命じた。さらに、皇帝は教えについて相談するために何度か教会を訪れ、皇帝の碑文を授けた。 1. 旧西台家の殿堂の東に、西風様式で数倍の幅を持つ新しい殿堂が建てられた。その東側の階段には、後世に栄光をもたらす皇帝の勅令が石に刻まれている。この殿堂は、城の西にある東華門の古い灯籠市場の南、玄武門の近くにある。
    2.
    東にあるもう一つの殿堂は、順治の義威年に皇帝の勅令によって与えられ、康熙の仁陰年に再建された。これも西風様式である。そこで教えたのは在克利子と景明安子であった。玄武門の殿堂と区別するために東殿と呼ばれた。
    3. 都の皇室:
    都の皇室は、あらゆる方面の希望である。都に新しい殿堂が建てられて以来、並外れた恩恵を受けている。あらゆる方面の学者や民衆がその教えに感銘を受けている。当時、検閲官の恵百通と監察官の何沙旭の二人の官吏は、その誠実さと献身で知られていた。彼らはどこへ行っても、主を敬うために学院を建設するための資金を寄付した。彼らの給料は自分のためではなく、主のためであった。彼らは、彼らの仲間であり師であることを喜んだ葉文忠、徐文鼎、韓普洲、劉成都、李煥青、楊景昭といった君子たちにどうして匹敵できようか。
    第四に、
    江南の蘇州と松江、浙江の武林、江西の南昌、建昌、南安、湖北の武昌、福建の福州、建寧、延平、汀州、四川の重慶と保寧の四方にある天学院には、西洋の学者たちが住む新しい館が建てられた。紀丙の年、私の師は暦学の長期的な展望を鑑み、皇帝に特別に請願し、暦学者である潘伯南子を都に遣わし、高位に任命しました。同時に、十数名が皇帝の命を受けて都に入りました。わが国は建国以来、例外なく国土を統一してきました。高官や高位の大臣たちが一堂に会し、華麗な袈裟を身にまとい、皇帝の計画を支えてきました。都の内外を問わず、地方の都であろうと辺境の村であろうと、西洋の学者たちがしばしば訪れ、知識を共有し、世界との架け橋となりました。それは真実と究極の真理を指し示し、欺瞞と混乱の道を阻みました。下からは人々の心を清め、上からは唐・虞・夏の精神を体現し、今日再びその精神を見ることができるようにしました。
V
    . 翻訳書
    李西台以降、最も多作な著述家は百巻を超える暦書を著し、それらは後に帝国学院に寄贈された。その他、様々な分野の著作を著した者もおり、いずれも教育に関連するもので、さらに三百巻に及んだ。(これには古典、歴史、形而上学、天文学、その他の主題が含まれ、印刷版は首都、江南、浙江、福建、陝西、山西の様々なホールに保管されていた。)合計で七千冊を超える書籍が含まれていた。学者たちは深く感謝し、去ることを惜しみ、翻訳作業に専念し、その努力は尽きることがないように思われた。ああ!これは太宗の治世以前には前例のない出来事であり、漢王朝や唐王朝をも凌駕するものであった。桂茂の年の初冬、官務の短い休暇中に、ある客人が過去と現在の天文学の一般原則について尋ねた。私は敬意をもって聞いたことに従い、今答えよう。


天学伝概 李祖白


明末清初カトリック史文献叢編

11 HP74 C10 01W80599 HP74 C10 興隆(清)李祖白撰 周驒方点校 天学伝概 興隆(清)李祖白撰 周驒方点校 


天学伝概


天学伝概目録

天学伝概前言 周弭方

天学伝概序 許之漸

天学伝概 李祖白 



天学伝概前言


 『天学伝概』は李祖白が撰し、清康熙刻本、九行二十字、白口単辺である。現在、国内外ではバチカン市国の中国カトリック史・中西思想公教廷図書館にのみ所蔵がある。

  李祖白、字は然真。明天啓六年、湯若望と協力して『遠鏡説』を翻訳した。清代に入り、湯若望は順治元年8月11日付『新暦供費請給兼本局要務陳疏』において「順天生員宋可成、副榜監生李祖白、儒士掌乗、焦応旭の四名は、文理に優れ、暦学に志をもち、局に招かれ、長年尽力してきた」と記している。二十五日、勅旨が下り、李祖白らは「長年尽力し勤勉で敏捷であるため、例に照らし欽天監博士の職名を兼任させる」とされた(『西洋新法 暦書奏疏』二巻参照)。順治六年『西洋新法暦書』を刻印した際、李祖白は欽天監夏官正となった。

  祖白は弟子として湯若望[アダム・シャール]を敬慕した。順治十七年七月、湯氏は北京の宣教師墓地に聖母堂碑を建立。祖白が碑陰に跋文を刻む。跋文に「我が師湯道未先生、諱は若望。西洋ドイツ国人。幼少より道に学び、イエズス会に入り、天主正教の宣教を志す。三十歳で中華に赴き、天啓二年となる。嗣に歴学に精通していたため、己巳の年に大学士徐文定公の推薦により召され、京に赴いて暦を修め、十余年に及んだ。恭しく国朝の建鼎に遇い、遂に西洋の新法を用いて暦を造り頒布した。相次いで恩恵と礼遇に浴し、今に至るまで衰えを知らない。門人李祖白謹んで記す。」 湯氏が編纂した『西洋新法暦書』の中に、『渾天儀説』一巻、『五緯表』十巻があり、受法門人の中に「祖白」の名がある。

  康熙二年癸卯の孟冬、祖白は「公余の少しいつかの間に、客人が天学の今昔概略を問うたので、謹んで聞いたことを論じて次ぎ、口答に代えた」 。これが『天学伝概』であり、許之漸の序文である。本書が出ると、天下は大いに騒然となった。楊光先は直ちに『許青嶼(漸)侍御書』を投じ、祖白を激しく誹謗した。この年の冬、暦法の問題により、朝廷は湯若望・李祖白の不軌を議し、極刑に処した。後に京師で連続地震が発生したため、朝廷は急いで採用できず、 再議の結果、若望は釈放され、欽天監の付教官吏である李祖白、宋可成、宋発、朱光顕、劉有泰の五人は全員斬刑に処された。康熙八年になって、湯若望と李祖白の欽天監事件はようやく平反され、昭雪された。『天学伝概』はカトリックの名著であり、中国カトリック史、中西思想交流史においていずれも独特の位置を占める。祖白は教会の他の書籍の校訂・刻印にも参加した。高一志訳『聖母行実』巻三の修潤者は「虎林 李祖白」と題している。虎林は現在の安徽省貴池市、古の呉の封地であるため、本書で祖白が自ら「燕呉の後学」と署名している。今回の『天学伝概』整理は、台湾の呉相湘氏編『天主教東伝文献続編』影印本を底本とし、引用文中の誤りを直接訂正した以外は、他の文字に一切手を加えていない。


二〇〇〇年五月六日 北京 周驛方謹序 


[湯若望 ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(ドイツ語: Johann Adam Schall von Bell、1591年5月1日 - 1666年8月15日[1])は、ドイツのイエズス会士。明末清初の中国で宣教活動を行い、また科学者として活躍した。

日本の歴史教科書では「アダム・シャール」と表記され、かつては西洋でも Schaal と書かれることも多かった[2]。しかし、Schallのドイツ語での発音は「シャル」が近い。中国名は「湯若望」(拼音: Tāng Ruòwàng とうじゃくぼう)。]


天学伝概序

  天地の心が見えて初めて、君師の道が興る。帝王が治める所以、聖賢が学ぶ所以、天に本ぜずして成ったものはない。黄軒(黄帝)の時代から今日に至るまで、世に異なる治め方はなく、教えは統一されながら分裂し、人々は各自で学び、家は各自で師となる。水と火が相容れないが、要するに天を尊んで説を立てる者はいない。彼とこの間の往々にして、陽にはその名を排し、陰にはその実を窃む。道家の幽玄、仏子の虚寂も、その拠り所を究めれば、儒家の「性を尽くし命に至る」と、道は異なれど帰処は同じではないか。ただ、倫を廃し紀を壊し、君臣父子の大を捨てて幽玄虚寂に耽り、別に所謂天を求めること、これ二氏の教えが儒者が辞して斥ける所以である。彼らが実践を明らかにせず、習わしを深く察さず、終生君臣父子の道に留まり、天の働きを認識しないならば、儒者にも欠陥が生じかねない。もしその欠陥を正そうとするなら、やはり天を尊んで説を立てるに勝るものはない。伝承によれば、開闢以来「天主教学」を唱える者たちがいたが、その言葉を聞けば突如として怪しく頼りない。たとえ儒者に接しても、二帝三王の道、日月星辰の運行、天地の顕現、鬼神の幽玄、万物の繁栄、江河の流転を説くべきであり、彼らの学問を安易に語るべきではない。時を経て親しく接するにつれ、その書を読み解くと、事象の明示と堕落防止を宗旨とし、己を克ち人を愛することを実践とし、過ちを悔い善へ改めることを入門とし、生死の大事に備え無患とすることを究極とする。二帝三王の道、日月星辰の運行、天地の顕現、鬼神の幽玄、万物の繁栄、江河の流転に至るまで、これらと相補相表裏をなさないものはない。二氏(仏教・道教)を超越し、初めてその学問が、何一つとして我が儒者の学問でないものはないと知る。その教えは漢・唐の時代から中国に伝わる。


明の万暦辛巳年(1581年)、イエズス会の宣教師シレリ[マテオ・リッチ]が九万里の海を渡って来訪し、宣武門内に堂を建立した。当時、名高い公卿の多くが喜んで彼と交わった。我が朝に至っては恩恵と礼遇が倍増し、通微教師が実際に諸務を統括し、さらに勅命により東堂が建立され、再可利子と景明安子がこれを司った。私もまた皆と共に喜んで彼らと交わった。しかし、真に李子が私をその言葉に契りある者と見なしたのか、著書を手にし、利子を通じて私に序文を求め、その大略を述べるに至った。かつて福清の葉相国が『西賢に贈る』の詩にこう詠んだ。「中華の風を慕い、我が儒理に深く契く」 また「拘儒徒は管窺に過ぎず、達観は自ずから一視す」とも。誠にもして同異の観を化じ、天を尊ぶことを説く所以を取らざるを得ぬ。その指帰を究め、その義蘊を精すれば、学を言わず、教を言わずとも足るべし。然れども一切の窮神達化は、これより更に進むものあり、抑えもって余の及ぶ知らざるに過ぎぬ。


康熙三年 甲辰の春 王正月 柱下史 毘陵許之漸 謹題 



天学伝概

燕呉の後学 李祖白 撰


 天学、天主教を学ぶなり。天主は万有の始有であり、その有無は元であり万有の元である。徳福円満、知能渾全;妙性は超然として、奥は思悟に窮む。中土では尊称して上帝と称す。ここに天地の主宰であるゆえ、質をもって天主と称す。その教は人のために立てられ、人を蠢動(ちゅうどう)より別し、人々と天神を同列とし、真の源に向かい真の福を求めさせる。大要は、事象を明らかにし堕落しないことを宗旨とし、己を克ち人を愛することを工夫とし、悔い改め善へ移ることを入門とし、生死の大事に備え無患とすることを究極とする。誠に我らにとって最も喫緊の実学であり、その由来は遠い。昔、天主上帝は、その世の初め、乾坤を開き、万物を発育させ、人が安住し利用するために必要なものは全て備えた。初めに創造された人は男女一人ずつであり、その霊性には当然の法則が備わっていた。善を好み悪を憎むことは、生まれながらの常であり、永遠に逃れられない。忠孝の大節に遇えば、渇くが如く仰慕し、奸頑の大悪に遇えば、仇の如く憎む。古来これを性教と称し、愚者も不足せず、聖者も余りあることはなく、まさに然りではないか。ただ性の参は気禀に誘われ、物に交じり侵され、初めの良さを失うゆえ、軽々しく率直に語れぬゆえ、これに書教が続く。開闢後三千七百一年の時、天主はシナイ山西(中国から四万里)の頂に降り、石碑二枚を刻み、十戒を明示し、主を愛し人を愛することを綱として括った。この書教は、性教の申命たる所以である。それのみならず、さらに千四百九十七年後、天主の教えが世に広まる中、また進歩する者が現れた。先に人間に詔示し、神人を遣わした。これは世が迷い深まったため、自ら降臨して救い、下界の人性をもって本性を受け継ぎ、生けるものとして現れた。この時、ユダヤの初の人もまたここに生まれ、シナイ山はその境内にあった。白陵郡にあって、名はイエス。世に三十三年の間、現した奇跡は極めて多かった。死者に命じれば即座に蘇り、盲人に命じれば即座に視力を得た。荒れ狂う波や強風も、命じれば即座に鎮まり、暴虐の魔も、命じれば即座に退散した。これは、万物が神の命令に応じて現れるのと同じ、神の異能によるものである。戒律を詳明に定め、新規則を簡潔に確立し、衆人の心を大いに服従させた。その教を寵教と名付け、教が主の寵愛によるものであり、人の分として当然のものではないことを示した。以前の二つの宗教と比べ、この恩恵は特に深い。


では天学が中土に伝わる時期は、果たして推し量れるだろうか?この地にこの人物が現れた時、すなわちこの教が生まれた時であり、中土の人々は教と同時にこれを得たのである。何故そう言えるのか。天地開闢の時、最初の人類の子孫はユダヤ一箇所に集まっていたが、東西南北の他には人の住むところなかった。


当時、人々は一主を事え、一教を奉じ、紛れもしい邪説は生じる余地もなかった。その後、人口が増え続け、人々は遠く離れて散らばっていった。そして大東と大西に人が住み始めたのは、ほぼ同時期であった。史書を調べ、年数を推し量れば、中国においては伏羲氏であり、仮に伏羲でなくとも伏羲よりさほど遠くない時期に、中国に人が現れた始まりである。


ただこの中国における最初の人々は、まさにユダヤの末裔のように、西から東へ渡り、天学を心に抱いて来たのである。


子孫を育て、家々で伝承し習わすうちに、この時この学問が中国にあったならば、必ず今世よりも倍増して明晰であったであろう。延々と唐・虞の時代を経て、三代に至り、君臣は朝廷で戒めを告げ、聖賢は後世に訓戒を垂れ、しばしば天を呼んで帝と称し、互いに警鐘を鳴らした。生けるもの及び救世の宗徒の多い者たちは、中土で教えを伝え、その事績は西方の史書に蔵されている。これを受け継いだのは、果たして偶然だろうか?『書』にこう記されているのを見よ:「昭は上帝を受け、天は命を申して用いて休む」。「我は上帝を畏れ、敢えて正さずにはおかない」。「惟皇上帝、衷を下民に降す」。「上帝は下民を妥佑す」。「唯簡在上帝之心」。曰く「惟上帝不常、作善降之百祥、作不善降之百殃」。曰く「顧諟天之明命」。曰く「天佑下民、作之君、作之師、惟其克相上帝」。曰く「我亦不敢寧於上帝命、弗永遠念天威」。『詩経』に曰く:「文王は上に在り、天に照る。文王昇降し、帝の左右に在り。」曰く:「唯この文王翼翼、上帝に照事す。天鑑は下に在り、命は既に集う。上帝汝に臨む、心を二うることなかれ。」曰く:「皇しき上帝、下に臨み赫々たり。」 「天の怒りを畏れ、戯れを敢えてせず。天の変りを畏れ、駆け巡ることを敢えてせず。」曰く:「広大なる上帝、下民の庇護者。天は衆民を生み、その命は決して偽りなし。」曰く:「我が来牟(きむ)、上帝が率いて育む。」曰く:「赫々たる姜嫄(こうえん)、その徳は他と異なる。上帝はこれ依り……『二心なく憂いなく、上帝は汝に臨む。』」『魯論』曰く:「天に罪を得れば、祈る所なし。」曰く:「我が否むところ、天はこれを厭う、天はこれを厭う。」曰く:「丘の祈りは久しい。」曰く:「天命を畏れる。」

『中庸』に曰く:「郊社之礼、所以事上帝也。」曰く:「上天之載、無声無臭、至矣。」『孟子』に曰く:「楽天者、保天下。畏天者、保其国。」曰く:「順天者存、逆天者亡。」曰く:「雖有悪人、齋戒沐浴、則可以事上帝。」 曰く:「その心を存じ、その性を養うは、天を事える所以なり。妖寿は二たからず、身を修めてこれを待つは、命を立てる所以なり。」


*

上帝24語例


A

《書》

★曰:「昭受上帝,天其申命用休。」『尚書』虞書・益稷 第五


《このようにされてこそ、天子が行われることに対して、天下の人々も大いに呼応して、天子の御意志を待つことになるでしょう。  その結果、天子は、輝かしい天帝のお恵みを受けられ、天は天命があなたの上にあることを重ねて明らかにされるでしょう》


「心を清らかにして、上帝の意志を受信しなさい」

★曰:「予畏上帝,不敢不正。」『尚書』(別名:『書経』)商書・湯誓 第10

「(夏の桀王には多くの罪がある。)私は天上を統べる最高神(上帝)を敬い畏れている。それゆえ、その命に背いて彼の罪を正さない(討伐に行かない)わけにはいかないのだ。」

★曰:「惟皇上帝,降衷於下民。」 商書・湯誥 (とうこう)

《大いなる天の上帝は、心の正しさという性質を人々にお与えになった。》角川文庫 書経


★曰:「上帝妥佑下民。 :「惟簡在上帝之心。」 商書・湯誥 (とうこう)

《上天は、地上の人々を助けて、…その善であるか、罪に当たるかの判断は、上帝の心にあるのです。》


★曰:「顧諟天之明命。」 泰誓上

《あの天帝の明らかな命令を目ではっきりと見て、天地の神に仕えられたのです。》太甲


★曰:「天佑下民,作之君,作之師,惟其克相上帝。」泰誓上

《天は、地上にいる人々を助けようと、私をその君主とし、指導者とされました。さてそこで、私は天帝とともに、(天下四方を統べて安らがせようと思うのです。)》泰誓上


★曰:「我亦不敢寧於上帝命,弗永遠念天威。」君奭(くんせき)

《私がこの位に止まっていることをよしとして下さいませ。私とて、敢えて天帝が降される天命に安んじているわけではございません。永く天の威光を念じ、我が王朝の人々が過つことがないようになさらないのですか。…》


B

見之《詩》

★曰:「文王在 上,於昭於天;文王陟降,在帝左右。」「詩経」大雅・文王篇 第6章

(文王の神霊は天上にあり、あの天に輝きを放っている。[周は古い国ではあるが、国運に新しい気運が現れた。周の前途は実に輝かしく、天の意志は阻むことができない。]文王の神霊は昇り降りし、いかなる時も天帝の傍らにいる。)

★曰:「維此文王翼翼,昭事上帝。

天鑒在下,有命既集。

上帝臨女,無貳爾心。」詩経・大雅・大明

( 文王は慎み深く細かいことにも気を配り、天の神につかえ人民の幸福を願った。

     [その結果、周に多福をもたらした。])

(天は下界をみそなわし 今ぞ天命は下された。)

(上帝女<音汝>に臨めり、爾の心に貳[うたが]い無かれ。)

★曰:「皇矣上帝,臨下有赫。」大雅 -文王之什 -皇矣 

(皇[おお]いなるかな上帝、下を臨[み]ること赫[あき]<叶黑各反>らかなること有り)

★ 「敬天之怒,無敢戲豫;敬天之渝,無敢馳驅。」 詩經 -> 大雅 -> 生民之什 

(天の怒りを敬んで、敢えて戲れ豫[やす]んずること無かれ。天の渝[か]<音兪>われるを敬んで、敢えて馳せ驅すること無かれ。)

★曰:「蕩蕩上帝,下民之辟。天生烝民,其命匪諶。」詩経 / 大雅・蕩之什・蕩


(広大な徳を有される天帝は

 天下の民に君臨される。

  そのはずの天帝が下す命には、

  民を苦しめるものがこうも多い。

 天は民をお産みになりはしたが、

 天命は常に民を守りはしない。

  人は、始めこそ慎ましくおるものの、

  それを最期まで貫き通せる者は

  実に少なきこと。)


★曰:「口我來牟,上帝率育。」《詩經.周頌.執競》:「貽我來牟,帝命率育。」

「口我來牟,上帝率育」 は、かなり近い形で
「貽我來牟,帝命率育」
という『詩経』の句に見えます。(ctext.org)

(麦を与えられ、上帝の命によって人々が広く養われる。 )


★曰:「赫赫姜嫄,其 德不同。上帝是依......『無貳無虞,上帝臨女。』」閟宫(ひきゅう)

《赫赫(かがや)かしきは姜嫄、その徳たがうことなければ、 上帝もここに依りたもうて、(周の先祖后稷をみごもらせたもうた)。…

(武王は言った)「ふたごころあるなかれ、虞(はかりごと)するなかれ。上帝汝を見守りたもうゆえに」と。》角川文庫 詩経


C

《魯論》「魯論(ろろん)」は、孔子の言行録『論語』の異本の一つで、現在伝わる『論語』の底本となった系統。

★曰:「獲罪於天,無所禱也。」「論語」八佾第三13

(天に対して罪を犯せば、祈っても無駄ですよ。)

★曰:「予所否者,天厭之,天厭之。」「論語」雍也第六26

(もし私によくないところがあれば、天の神様は見限るだろう。天の神様は私を見捨てるだろう。)

★曰:「丘之禱久矣。」述而第七34

(もし私によくないところがあれば、天の神様は見限るだろう。天の神様は私を見捨てるだろう。)

★曰:「畏天命。」季氏第十六 8

(天命を畏れ敬う。)


D

《中庸》

★曰:「郊社之禮,所以事上帝也。」中庸第十九章:武王周公其達孝 中庸19 3:2:2  新釈2:251頁

(郊外で典禮を行うのは天帝を祭ること)

★曰:「上天之載,無聲無臭,至矣。」詩経(大雅文王篇)中庸33  6:3  新釈2:322頁

(「上天のことは声もなく臭いもない」と言うが、

実に聖王の徳をもって民を化するに、声もなく臭いもなくて、

民は自ら感化することを形容している。至れり尽くせりというべきである。)


E

《孟子》

★曰:「樂天者,保天下。畏天者,保其國。」梁恵王下 新釈4:50(3)

(天のことわりを楽しむ者は、天下を保ち、天に畏敬の念をいだく者は、国家を保つことができます。)

★曰:「順天者存,逆天者亡。」離婁上 4:248(7)


(天の理法に従う者は存続して栄え、天の理法に反する者は滅びる。)

★曰:「雖有惡人,齋戒沐浴,則可以事上帝。」卷之八 離婁章句下  中間部 4:301(25)

(どんなに醜い人であっても、斎戒沐浴して心身を清めたならば、上帝(天の神さま)もその人の祀(まつ)りを受け入れてくださるだろう。)

★曰:「存其心,養其性, 所以事天也。妖壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」 卷之十三 盡心章句上 177節 冒頭 4:442(1)


(誰もが心の中に持っている理義を極めつくせば、人の本性が本来善であることが分かる。本性が善であることを知れば、それを与えてくれた天をも知ることになる。己の心を常に省みて察し、善なる本性を養うことが天に仕える道である。短命か長命かなどと気に掛ける事無く、ひたすら身を修めることに務めて天寿を待つ、それが立命乃ち天命を守る道なのである。)


  凡そこれらの諸文、天学の微言法語(奥ふかいことばの教え)でなくして何ぞあろうか。帝のみならず天とも言うのは、天即ち帝なり。臣民が君上を朝廷と称するに如く、朝廷即ち君上なり。これを審らかにすれば、中国に先天の学を説く者なし。惜しむべきは三代に遡れば、世風は日増しに下り、民は戦乱に苦しみ、士大夫の習いは功利に堕した。


呂氏と秦が周を代え、法律を重んじ『詩経』『書経』を棄てた。古の典籍は全て烈火に遭い、天学の詳なるは再び見られず、哀れなり!西漢元寿の世に至り、天主降誕と救世の業が成就すると、使徒聖トマス(多默)が中土に教を伝え、その事跡は西洋史に記されている。この中州の近き地に、明末に十字教規が伝播したのは、天主が救世の功を十字架に成し遂げたゆえに、その名を教義としたのであり、これこそトマスが残した教えである。唐の貞観九年、天主降誕から六百三十五禩を経た頃、大秦国よりユダヤ国の修道士アロボン(阿羅本)が経典と仏像を携え遠路来朝した。宰相が郊外で出迎え、宮殿内で経典を翻訳し、景教と命名した。初めは詔により都に大秦寺を建立し、後に諸州に広く詔を下し、各々に景教寺を置かせた。開元以降の四代にわたり寵愛はますます厚く、郭汾陽王でさえも法堂を広く建立した。仁に依り利を施し、哀矜を修め挙げる。教は唐に伝わり、約二百年に及ぶ。今、長安に『景教流行中国碑』があり、これを考証できる。


*

[アロボン 阿羅本(あらほん、阿罗本、拼音: Āluóběn)は、唐朝へキリスト教を広めるために訪れた宣教師。阿羅本の原音は、セム系"アブラハム"の訳であるという説[1]や、aloho punoya, "神の改宗"[2]などの説がある。

歴史上、最も早く中国にキリスト教(ネストリウス派)を伝えた人物といわれている。

「大秦景教流行中国碑」によると、唐代貞観9年(635年)、阿羅本はアッシリア東方教会の使いでネストリウス派の主教として、宣教団を率い、首都・長安へ向かった。唐太宗は宰相の房玄齢に長安郊外まで出迎えさせた。当時、唐は各所からの外国人の来訪を歓迎していた。]



また九百四十六年後、天主降誕千五百八十一年に遡り、明の万暦辛巳年にあたる。イエズス会の西泰利子(シチリ)がヨーロッパから九万里の航海を経て東来し、庚子年(1601年[1600年2月14日〜1601年2月2日までが「庚子年」])に燕京(北京)に到着し、聖像、西洋の琴、自動鳴鐘などを献上した。朝廷は遠方を慈しむ義を重んじ、恩恵を尽くした。

[利子はマテオ・リッチのことだろう。]

紳士や先生たちが彼と交わり、天主の大道を論じ合うと、多くの点で意気投合した。著書に『実義』『畸人』などがあり世に出回った。その教えに従い、その感化を受けた者は枚挙にいとまがなかった。辛亥年(1610年[リッチの没年は1610年5月11日。辛亥は通常1611年。旧暦四月内は前年に対応?])に京で逝去し、賜地にて葬られた。これを受けて熊、龐、陽、龍ら諸子らが相次いで京に赴き司教の務めを担い、晋には高則聖、閩には艾思及、江南には畢今梁らが現れ、共に世に名を馳せた。崇禎己巳年(1637年)、朝廷で暦法の修訂が議された。徐文定公(徐文定)はかねてより西賢を敬い、性命の交わりを重んじていた。その暦学に精通していることを知り、当時少宗伯として修暦を監督していた彼は、函璞鄧子を推挙したが、間もなく病没した。続いて余師道未湯子と味韶羅子[1]を推挙した。暦が完成間近となった頃、羅もまた病没した。余師のみが暦事の始末に最後まで携わった。明代に入ると、その法を用いて『時憲暦』を編纂し、天下に頒布した。欽天篆の掌管を命じられるも、三度辞退したが許されなかった。辛卯年、ついに世祖皇帝の特段の恩寵を受け、嘉名を賜り、崇階に昇進した。さらに老齢を慮り、戸部に命じて戸畝を支給させ、生墓を築くことを許された。さらに数度にわたり御座を堂に臨ませ、教学を諮問し、『御製文』に銘を賜った。西泰氏の旧堂の東側に、師は西洋様式を模倣し、新堂を改築した。広さは数倍となり、その東階に、石に綸音(皇帝の勅令)を刻み、不朽のものとした。天下がこれを聞き、栄誉とした。堂は宣武門に近く、城西に属する。東華門旧灯市南にもう一堂あり、順治乙未年に欽賜され、康熙壬寅年に改築された。堂も西洋様式で、共に内部で教鞭を執る者は、再可利子、景明安子の三名である。人々はこれを東堂と呼び、宣武門の堂と区別した。天学が京師にあることは、四方の望みであり、京師の堂構えが一新されて以来、格別の恩恵に浴している。そして四方の西賢が鐘を鳴らす地では、士民の敬慕の念が一層高まっている。折しも中丞匯白佟、廉察鶴沙許の二公[三]が、信仰を堅く持ち、官途を巡る所々で財を投じて堂宇を営み、天主を奉じた。俸給は己のためではなく天主のため。明の葉文忠、徐文定、韓蒲州、劉成都、李卿、楊京兆の諸君[四]が、自らを道友の身主と為すことを惜しまなかったならば、江南の蘇松二郡、浙の武林、江右の南昌・建昌・南贛、楚の武昌、閩の福州など、 道友として主を奉じることを喜びとする者、江南の蘇淞二郡、浙の武林、江右の南昌・建昌・南贛、楚の武昌、閩の福州・建寧・延平・汀州、蜀の重慶・保寧に新堂を建立し、西の賢人たちがそこに住まうに至った。己丑の年、我が師は暦学の計算を久遠にわたり行い、特に上奏して請い、敦伯南子[五]を暦官として闕庭に赴かせ、大官の御用を仰いだ。同時に詔に従い内地に入った者は、また十数人に及ぶ。



 我が国家は区夏を創建し、一統して外なきをなし、名公巨卿は 共に皇猷を黼黻し、輦轂の内外、あるいは省会の要衝、あるいは郷邑の僻地において、西賢が訪れる度に、その学問を時折披露し、世の津梁となり、真の定極を指し示し、誑惑の傍蹊を断ち、これにより下には人心を整え、上には王の化を助けた。唐虞三代の風潮が、今日再び見られるのだろうか?李西泰以降、著述で最も豊富なのは『進呈暦書』百余巻で、すでに史館に奉納されている。その他、理器殊彙など、いずれも教学に関わるもので、成書はさらに三百巻に及ぶ。経典あり、史書あり、形性を超えた学問あり、形性を論じた学問あり、修養の学問あり、天文学あり。版木は京師、江南、浙、閩、秦、晋の各堂に蔵される。総計して来たる図書七千余部を載せ。群賢は恩恵に感銘し、賓客は帰りを忘れ、共に協力を誓い、同文を助けることを誓う。訳すこと、川の流れのように日増しに、ほぼ尽きることがない。ああ!これはまた秦の焚書以前にも例を見ない盛事である。漢唐は言うまでもなく。

  癸卯の年の初冬、公余のわずかな暇に、客が天学の今昔概略を問うたので、謹んで聞いたことを論じて次ぎ、口答に代える。



 校記 

[一]鄧玉函,字函璞;湯若望,字道未;羅雅谷,字味。

 [二]利類思,字再可;安文思,字景明。

 [五]南懷仁,字敦伯 。 以上耶稣會士。

 [三]佟國器,字思遠,號匯白;許纘曾號鵠沙。

 [四]葉向高,謚文忠;徐光啟,謚文定;韓,宰相,蒲州人;劉宇亮,宰相,绵竹人;李之藻,仕光禄寺卿,故稱;楊廷筠,官京兆尹,故稱。

以上中國官吏。其中葉向高、韓、劉宇亮,家人有領洗入教者,而本人尚難確定。


校記

[一]鄧玉函、字は函璞;湯若望、字は道未;羅雅谷、字は味。

[二]利類思、字は再可;安文思、字は景明。

[五]南懷仁、字は敦伯。以上イエズス会士。

[三]佟国器、字は思遠、号は匯白;許纘曾、号は鵠沙。

[四]葉向高、諡は文忠;徐光啓、諡は文定;韓、宰相、蒲州人;劉宇亮、宰相、綿竹人; 李之藻、光禄寺卿に任じられたため称される;楊廷筠、京兆尹の官職にあったため称される。

以上は中国官吏。このうち葉向高、韓、劉宇亮は、家族に洗礼を受けて入教した者がいるが、本人については未だ確定が難しい。


https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%9D%8E%E7%A5%96%E7%99%BD_(%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%AE%B6)

李祖白(—1665年),中國明朝末年至清朝初年天文學家、天主教徒。

生平

早年即受教於西方傳教士湯若望,供職於欽天監。明朝天啟六年(1626年),李祖白協助湯若望寫出《遠鏡說》一書,將伽利略發明的現代望遠鏡製作方法介紹入中國。

清朝順治年間,李祖白與利類思合著《天學傳概》,在文中提出中國文化西來說,招致楊光先等人的激烈反對。康熙三年,楊光先上書指責湯若望,造成康熙曆獄。康熙四年,時任欽天監曆科主事的李祖白因此案被判處凌遲處死,後在孝莊皇太后的斡旋下減刑為絞刑,與兒子李實等五人一同被處死。[1]

康熙帝親政後,於康熙八年對此案進行平反,照原官恩恤。[1]

參考文獻

  1.  王新龍. 大清王朝3. 中國戲劇出版社. 2013-11-20: 74. ISBN 9787104030461.

 


李祖白(—1665年)は、中国・明朝末期から清朝初期にかけて活躍した天文学者であり、カトリック信者であった。


生涯

若くして西洋の宣教師であるヨハン・タムに師事し、欽天監に勤務した。明の天啓6年(1626年)、李祖白は湯若望を補佐して『遠鏡説』を著し、ガリレオが発明した近代的な望遠鏡の製作方法を中国に紹介した。


清の順治年間、李祖白は利類思と共著で『天学伝概』を著し、その中で「中国文化は西洋起源である」という説を提唱したため、楊光先らから激しい反対を招いた。康熙三年、楊光先が上書して湯若望を非難し、これが「康熙暦獄」を引き起こした。康熙四年、当時欽天監暦科主事を務めていた李祖白はこの事件により凌遅の刑を宣告されたが、後に孝荘皇太后の取り成しにより絞首刑に減刑され、息子の李実ら5人と共に処刑された。[1]


康熙帝が親政を開始した後、康熙8年にこの事件の冤罪を晴らし、元の官職に復帰させ、恩赦を与えた。[1]


参考文献

 王新龍. 『大清王朝3』. 中国戯劇出版社. 2013年11月20日: 74. ISBN 9787104030461.



DeepL.com(無料版)で翻訳しました。

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https://ctext.org/datawiki.pl?if=gb&res=52094


https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%9C%E9%95%9C%E8%AF%B4


《远镜说》是明朝的一本天文書籍,由天文學家李祖白和傳教士湯若望寫成,主要將伽利略的文章翻譯後收集而成,在天啟六年(1626年)出版,其中介紹望远镜、近視及遠視眼鏡的相關原理[1],是中国最早出版,介绍西方光学理论和望远镜技术的書籍[2]。

參考資料

  1.  欲窮千里目-伽利略與《遠鏡說》. [2016-02-24]. (原始内容存档于2016-03-04).
  2.  中国之最.  [2016-02-24]. (原始内容存档于2019-04-06).

『遠鏡説』は明代の天文書であり、天文学者の李祖白と宣教師のヨハネス・タウエルマンによって執筆された。主にガリレオの論文を翻訳してまとめたもので、天啓6年(1626年)に出版された。この書物では、望遠鏡や近視・遠視用眼鏡の原理が紹介されており[1]、中国で最初に出版され、西洋の光学理論と望遠鏡技術を解説した書籍である[2]。


参考文献

 『千里の目を極めんとす――ガリレオと『遠鏡説』』. [2016-02-24]. (2016-03-04にアーカイブ).

 『中国之最』. [2016-02-24]. (2019-04-06にアーカイブ).

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https://ziliaozhan.win/download/pdf/lishi/2023-07-06/2399.html#edown


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李祖白(〜1665年)の著書『天学伝概(てんがくでんがい)』は、1663年(康熙2年)頃に執筆された、カトリック教義と中国古代文化の調和を説いた宣教擁護の書である。 [1, 2, 3]

主要な概要と特徴
  • 著者と背景: 明末清初の天文学者で湯若望(アダム・シャール)の弟子でもあった李祖白が、楊光先の排教論(『辟邪论』)に対抗し、キリスト教の正統性と歴史的由来を弁明するために著した。
  • 「中国文化西来」の論理: 中国古代の「天(上帝)」とキリスト教の「天主」は同一であるとし、伏羲(ふくぎ)をはじめとする中国の上古聖賢も本来は天学(キリスト教的真理)を奉じていたと主張した。
  • 「康熙暦獄」への影響: 本書の中で「中国人の始祖はユダヤ(如德亞)の苗裔である」といった趣旨の記述が含まれていたことが、清朝の保守派(楊光先ら)の猛烈な反発を買い、1665年に李祖白らが処刑される「康熙暦獄(しょうきれきごく)」の直接的な導火線のひとつとなった。 [1, 2, 3, 4, 5, 6]
『天学伝概』の具体的な記述内容や、当時の康熙暦獄の経緯についてさらに詳しく知りたい場合はお知らせください。

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