2026年10月12日月曜日

景教碑


小岸


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大秦景教流行中國碑頌


 粵若常然真寂,先先而无元;窅然靈虗,後後而妙有。惣玄摳而造化,妙衆聖以元尊者,其唯我  三一妙身无元真主阿羅訶歟!判十字以㝎四方,皷元風而生二氣。暗空易而天地開,日月運而晝夜作。匠成厏物,然立初人。別賜良和,令鎮化海。渾元之性,虗而不盈。素蕩之心,夲無希嗜。洎乎娑殫施妄,鈿飾純精。閒平大扵此是之中,隟冥同於彼非之內。是以三百六十五種,肩随結轍。𥪰織法羅,或𢫾物以託宗,或空有以淪二,或禱祀以邀福,或伐善以矯人。智慮營營,恩情役役。茫然無得,煎迫轉燒,積昧亡途,久迷休復。於是  我三一分身㬌尊弥施訶戢隱真威,同人出代。神天宣慶,室女誕聖於大秦;㬌宿告祥,波斯覩耀以来貢。圓卄四聖有說之舊法,理家國扵大猷。設 三一浄風無言之新教,陶良用於正信。制八境之度,鍊塵成真;啟三常之門,開生滅死。懸㬌日以破暗府,魔妄於是乎悉摧;棹慈航以登明宮,含靈扵是乎既濟。能事斯畢,亭午昇真。經留廿七部,張元化以發靈開。法浴水風,滌浮華而潔虗白;印持十字,融四照以合無抅。擊木震仁惠之音,東礼趣生榮之路。存鬚所以有外行,削頂所以無內情。不畜臧獲,均貴賤於人。不聚貨財,示罄遺於我。齋以伏識而成,戒以靜慎為固。七時礼讚,大庇存亡。七日一薦,洗心反素。真常之道,妙而難名,㓛用昭彰,強稱㬌教。惟道非聖不弘,聖非道不大。道聖符契,天下文明。 

太宗文皇帝,光華啓運,明聖臨人,大秦國有上徳曰阿羅本,占青雲而載真經,望風律以馳艱險。貞觀九祀,至扵長安。帝使宰臣房公玄齡,惣仗西郊,賔迎入內。翻𦀰書殿,問道禁闈。深知正真,特令傳授。貞觀十有二年秋七月,詔曰︰「道無常名,聖無常體,随方設教,密濟群生。大秦國大德阿羅夲,逺将𦀰像,来獻上亰,詳其教旨,玄妙無為,觀其元宗,生成立要。詞無繁說,理有忘筌,濟物利人,宜行天下。」所司即於亰義寧坊造大秦寺一所,度僧廿一人。宗周德喪,青駕西昇。巨唐道光,㬌風東扇。旋令有司將 帝寫真轉摸寺壁。天姿汎彩,英朗㬌門。聖迹騰祥,永輝法界。案《西域圖記》及漢魏史策,大秦國南統珊瑚之海,北極衆寶之山;西望仙境花林,東接長風弱水;其土出火𦀸布、返䰟香、明月珠、夜光璧;俗無寇盜,人有樂康。法非㬌不行,主非德不立。土宇廣濶,文物昌明。髙宗大帝,克恭纘祖,潤色真宗;而扵諸州各置㬌寺,仍崇阿羅夲為鎮國大法主。法流十道,國冨元休;寺滿百城,家殷㬌福。聖曆年,釋子用壯,騰口於東周。先天末,下士大笑,訕謗於西鎬。有若僧首羅含,大德及烈,並金方貴緒,物外髙僧,共振玄網,俱維絶紐。 

玄宗至道皇帝,令寧國等五王,親臨福宇,建立壇場。法棟暫橈而更崇,道石時傾而復正。天寶初,令大将軍髙力士,送  五聖寫真,寺內安置;賜絹百疋,奉慶睿圖。龍髯雖逺,弓劒可攀;日角舒光,天顏咫尺。三載,大秦國有僧佶和,瞻星向化,望日朝尊。詔僧羅含、僧普論等一七人,與大德佶和,於興慶宮修㓛德。於是天題寺牓,額戴龍書;寶裝璀翠,灼爍丹霞;睿扎宏空,騰淩激日。寵賚比南山峻極,沛澤與東海齊深。道無不可,所可可名;聖無不作,所作可述。肅宗文明皇帝,於靈武等五郡,重立㬌寺。元善資而福祚開,大慶臨而皇業建。 代宗文武皇帝,恢張聖運,從事無為。每於降誕之辰,錫天香以告成㓛,頒御饌以光㬌衆。且𠃵以美利,故能廣生。聖以體元,故能亭毒。  我建中聖神文武皇帝,披八政以黜陟幽明,闡九疇以惟新㬌命。化通玄理,祝無愧心。至扵方大而虗,專靜而恕,廣慈救衆苦,善貸被羣生者,我修行之大猷,汲引之階漸也。若使風雨時,天下靜,人能理,物能清,存能昌,歿能樂,念生響應,情發目誠者,我㬌力能事之㓛用也。大施主金紫光祿大夫、同朔方節度副使、試殿中監、賜紫袈裟僧伊斯,和而好惠,聞道勤行。逺自王舍之城,聿来中夏,術髙三代,藝博十全。始効節於丹庭,乃策名於王帳。中書令汾陽郡王郭公子儀,初惣戎於朔方也, 肅宗俾之從邁。雖見親於卧內,不自異於行間。為公爪牙,作軍耳目。能散祿賜,不積於家。獻臨恩之頗黎,布辞憩之金罽。或仍其舊寺,或重廣法堂。崇飾廊宇,如翬斯飛。更効㬌門,依仁施利,每嵗集四寺僧徒,虔事精供,俻諸五旬。餧者来而飰之,寒者来而衣之,病者療而起之,死者葬而安之。清節達娑,未聞斯美。白衣㬌士,今見其人。願刻洪碑,以揚休烈。

詞曰︰

真主元元,湛寂常然。㩲輿匠化,起地立天。分身出代,救度無邊。日昇暗滅,咸證真玄。

赫赫文皇,道冠前王;乗時撥乱,𠃵廓坤張。明明㬌教,言歸我唐。翻經建寺,存歿舟航。百福偕作,萬邦之康。

髙宗纂祖,更築精宇。和宮敞朗,遍滿中土。真道宣明,式封法主。人有樂康,物無灾苦。

玄宗啓聖,克修真正。御牓揚輝,天書蔚映。皇圖璀璨,率土髙敬。庶績咸熙,人賴其慶。

肅宗来復,天威引駕。聖日舒晶,祥風掃夜。祚歸皇室,祆氛永謝。止沸㝎塵,造我區夏。

代宗孝義,德合天地。開貸生成,物資美利。香以報㓛,仁以作施。暘谷来威,月窟畢萃。

建中統極,聿修明德。武肅四溟,文清萬域。燭臨人隱,鏡觀物色。六合昭蘇,百蠻取則。

道惟廣兮應惟宻,強名言兮演三一;  主能作兮臣能述,建豊碑兮頌元吉。

大唐建中二年嵗在作噩太蔟月七日大耀森文日建立,時法主僧寧恕知東方之㬌衆也。


広東は常に真に寂しく、先に先んじて元がなく、窅然は霊虐で、後後に妙がある。総玄は摳し、造化、妙衆聖は元尊者、その唯一私、三一妙身無元真主阿羅訶歟!十字を裁き、四方を弱くし、原風を皷にして二つの気を生じさせます。暗い空は容易であり、天地は開かれ、日月は昼夜を問わず働く。匠は厏物を成し、しかし初人を立てる。善と和を賜らず、鎮化海を命じる。渾元の性は、虐げているが、満たされない。素朴で奔放な心は、もともと希な嗜好はありません。娑殫施妄に泊し、鈿は純粋な精を飾る。閑平大拎此は中にあり、冥は他の非の中にあります。したがって、三百六十五種があり、肩は結轍に従います。口で法羅を織り、ある者は口に物を託して宗を託し、ある者は空虚で二を堕落させ、ある者は祈祀して福を招き、ある者は善を討ちて人を矯正する。知恵と配慮、恩情は役役。茫然として得るものがなく、煎じられ焦げて転び、昧が積み重なり、道は失われ、長く迷い、再び休む。それで、私は三分身で景尊弥施訶戢隱真威、同人出代。神天が祝福し、室女が大秦で誕生し、景宿が吉兆を告げ、ペルシアは輝いて以来貢ぎます。円卅四聖は旧法を説き、家国を理し、大猷を提げます。三一浄風無言の新教を設置し、陶良は正信に用いる。八境の度を制し、塵を鍊して真理とし、三常の門を開き、生滅と死を開く。懸景の日に暗府を破り、魔妄はそこですべてを打ち砕く;棹慈航は明宮に登り、霊を含んでこれを提げ、すでに済んだ。能事は終わり、亭は正午に昇り、真に。経は27部を残し、張元化は霊を発して開いた。法は水風に浴び、浮華を洗い清め、虐白を清める;印は十字を握り、四つの光を融合させ、無抅と合致する。木を打って仁恵の音を震わせ、東礼の趣が栄える道。髭を保てるがゆえに外行があり、頂部を削るがゆえに内情がない。家畜や臧獲をせず、人それぞれに高低を重んじる。財貨を集めず、すべて私に遺す。斎は伏識によって成り、戒は静と慎みを固める。七時の礼賛、大庇存亡。七日ごとに推薦し、心を清めて素朴に返す。真常の道は、妙でありながら名が難しく、功効は顕著で、強く景教と称される。道は聖でなければ広くなく、聖は道でなければ大きくありません。道聖符契、天下の文明。



玄宗至道皇帝は、寧国ら五王に福宇へ親自赴き、壇場を建立するよう命じた。法棟は一時的に橈し、さらに高く、道石は時に傾き、再び正す。天宝の初めに、大将軍高力士に五聖の写真を送るよう命じ、寺内に安置し、絹百疋を賜り、睿図を奉慶した。龍の髭は遠くても、弓や劻は登ることができ、太陽の角は光を放ち、天の顔は足の尺である。三年、大秦国に僧佶と和があり、胆星が化し、日朝尊を望まれた。詔僧羅含、僧普論等七人は大徳佶和と興慶宮で功徳を修めました。それゆえ、天は寺の牓に題し、額に龍の書を戴く;宝は翠翠に装し、灼熱の丹霞を刻み;睿は宏大な空に紮し、騰淩は日を激す。寵賚は南山の峻極に匹敵し、沛澤は東海と同に深い。道に不可欠なものはなく、何とも称できる;聖なるものは作らず、その行いは語ることができる。肅宗文明皇帝は、靈武など五郡において景寺を再建立した。元は善く資し、福祚が開かれ、大慶が臨み、皇業が築かびます。代宗の文武皇帝は、聖なる運を回復し、無為に従事した。降誕のたびに、天香を注いで成功を告げ、御膳を頒って衆を祝います。そして、美と利をもって、


したがって、広く生むことができる。聖は体元を以て、したがって毒を抑制できる。私は建中聖神文武皇帝であり、八政を披き、幽明を黜り、九疇を阐し、惟新


景命。玄理を化通し、恥じることのない心でありますように。至っては、方が大きく虐げであり、専ら静かに許し、広く慈悲をもって衆衆の苦しみを救い、善く衆生を貸す者、我が修行の大猷、汲み取る段階は次第に進む。もし風雨の時に天下が静まり、人が理に、物が清く、存が繁栄し、逝くが喜び、念が応え、情が湧き目が誠実であるならば、我が景力の功用である。大施主金紫光禄大夫、同朔方節度副使、試殿中監、紫袈裟を賜る僧伊斯は、和やかで恵みを好み、道を聞くと勤勉に行動する。遠く王舎の城から遠く、中夏へと来て、術は三代にわたり高く、芸術は十全です。丹庭で効節が始まり、王の帳に名を計った。中書令汾陽郡王郭公子儀は、初めに朔方で総戎に就き、肅宗は彼に従わせました。たとえ寝床で親しく見えても


内部は、行間と異なることはありません。公の爪牙となり、軍の耳目となる。俸給を散らすことができ、家に蓄えることはしない。臨恩を献上し、かなりの黎、布辞の休息の金


。ある者は旧寺のままであり、ある者は広法堂を重んじる。崇飾の廊宇は、まるで翬斯が飛ぶかのようです。さらに景門を効用し、仁に則り利益を施し、各嵗は四寺の僧徒を虔誠に精進に供え、五旬に至る。餃子は来て節し、寒い者は来てそれを身にまとい、病人は治療してそれを起こし、死者は埋葬して安らかにする。清らかな節が娑に達し、この美しさは聞いたことがない。白衣の景士、今、その人物を見ました。洪碑を刻み、休烈を揚すことを願います。


太宗文皇帝は、光華啓運、明聖臨人、大秦国に上徳日阿羅本があり、青雲を占拠し真経を載せ、望風律で困難を駆け抜けた。貞観九祀、長安へ至る。皇帝は宰臣の房公玄齡を西郊に総使させ、賔迎を内へ迎え入れた。口書殿を翻し、禁闈を問う。正真を深く理解し、特に伝授いたします。貞観十二年秋七月、詔曰く:「道は常なる名がなく、聖は常なる体を有せず、随方に教を設け、密に群生を救う。」


大秦国の大徳である阿羅夲は、遠くから口像を上京に献上し、その教旨を詳述し、玄妙無為であり、その元宗を観察し、生成の要を成す。言葉は冗長でなく、理は筌を忘れ、万物を救い人に益し、天下に適すべきである。所司は京義寧坊に大秦寺を建立し、僧を21名測定した。宗周徳は喪に服し、青駕は西へ昇る。巨唐の道光、景風東扇。すぐに官吏に皇帝の写真を寺の壁に移すよう命じる。天の姿は彩りに彩られ、英朗は景門に輝く。聖跡が繁栄し、永遠に法界を輝かします。『西域図記』および漢魏の史策によれば、大秦国は南統の珊瑚の海と北極の諸宝の山を南統し、西は仙境の花林を望み、東は長風弱水と接し、その土は火口布、返香、明月珠、夜光璧を生み、俗には盗賊がなく、人は楽康がある。法は景色にならず、主は徳にならず、立たない。大地は広く、文物は繁栄しています。高宗大帝は、克恭纘祖を克し、真宗を潤色し、諸州にそれぞれ景観寺を設置し、なお阿羅夲を鎮国大法主として崇崇した。法流は十道、国は富み、元は休む;寺は百城に満ち、家は殷景福である。聖暦年、釈子は壮を用い、東周に口を騰した。先天の末に、下士は大笑いし、西の鎬を中傷した。有如僧首羅含、大徳及烈、金方貴緒、物外高僧、共鳴玄網、すべてが絶妙な結びつきを維持する。


偉大なる太宗皇帝の時代、輝かしく壮麗な王朝の創始者である太宗皇帝の治世に、シリアの国から最も徳の高いオロプンがやって来た。彼は青い雲を見ながら真の聖典を携え、風向きを見定めて困難と危険に立ち向かった。西暦635年、彼は長安に到着した。皇帝は宰相の方玄陵を派遣し、方玄陵は官杖を携えて西の国境まで行き、客人を内陸へと案内した。聖典は皇帝の図書館で翻訳され、皇帝は私室でその内容を研究した。そして、その宗教の正しさと真実に深く感銘を受け、その普及のために特別な命令を下した。西暦638年7月、次のような皇帝の布告が発せられた。

「正しい原理には不変の名前はなく、聖人にも不変の地位はない。教えは地域に応じて確立され、広く民衆の利益を目的としている。シリア王国の偉大な徳を持つオロプンは、その遠い地から聖典と聖像を持ち帰り、我々の首都に献上した。この宗教の原理を調べたところ、それらは純粋に優れ、自然なものであることがわかった。その起源を調査すると、重要な真理の確立から生まれたことがわかった。その儀式は難解な表現がなく、その原理は枠組みが忘れ去られても生き残る。それはすべての生き物に有益であり、人類に有利である。これを帝国全土に広め、適切な当局が1寧5月に首都にシリア教会を建設し、21人の司祭によって統治されるようにすべきである 。 周王朝の徳が衰退したとき、青い牛に乗った者が西に昇った。偉大な徳の原理は唐は輝きを増し、光り輝く風が東を扇ぐためにやってきた。

当局に皇帝の真の肖像画を描かせるよう命令が出され、それが教会の壁に移されると、天上の顔のまばゆいばかりの輝きが、輝かしい門を照らした。聖なる痕跡は幸運な影響を放ち、聖域に永遠の輝きをもたらした。西域図説や漢と魏の歴史書によれば、シリア王国は南は珊瑚海にまで達し、北は宝石山に接し、西は仙人の境界と花咲く森にまで広がり、東は激しい風と干潟に面している。この国では、耐火布、生命を回復させる香、輝く月真珠、夜光宝石が産出される。山賊や盗賊は知られておらず、人々は幸福と平和を享受している。輝かしい法のみが施行され、徳の高い者のみが君主の地位に就く。国土は広大で豊かであり、その文学作品は明快で分かりやすい。

カウツン皇帝は祖先を丁重に継承し、真理の確立にさらに寛大であった。彼は各州に壮麗な教会を建立させ、オロプンに与えられた栄誉を承認し、彼を国家維持のための教義の偉大な守護者とした。この教義があらゆる経路に浸透するにつれ、国家は豊かになり、平和が満ち溢れた。どの都市も教会で溢れ、王族は輝きと幸福を享受した。西暦699年、仏教徒は勢力を拡大し、東の都で声を上げた。6 西暦713年、西都で卑しい者たちが嘲笑を巻き起こし、中傷を広めた。その時、黄金の地から来た高貴な身分の羅漢、大徳のキエリ、その他高潔な僧侶たちがおり、世俗の利害を捨て、一致団結して偉大な原則を守り、最後まで完全に保持した。

高潔な玄宗皇帝は寧王をはじめとする五人の王子を自ら招き、この吉祥の建物を視察させ、礼拝所を建立し、一時的に倒されていた聖なる木材を復元し 、 一時的に冒涜されていた聖石を再建した。

742年、偉大な将軍カウ・リズに、5枚の聖なる肖像画を送って教会に安置するよう命令が出され、これらの知恵の絵には100枚の絹が添えられていた。龍の髭は当時は遠く離れていたが、彼らの弓と剣はまだ手の届くところにあり、太陽の角は光線を放ち、天上の顔はすぐそばにあるように見えた。7

744年、シリア王国の僧侶キホは、星(中国)の方角を見つめ、その変容の力に惹かれ、スリ(すなわち皇帝)を観察し、最も高貴な皇帝に謁見するためにやって来た。皇帝は、僧侶ロハン、僧侶プーロン、その他七人、そして偉大な徳を持つキホと共に、興王宮で功徳を積むよう命じた。そこで皇帝は教会の壁に銘文を刻み、石碑には王室の銘文が刻まれた。集められた宝石は輝きを放ち、そのきらめきはルビー色の雲と競い合い、虚空に浮かぶ知恵の記録は太陽に反射して光線を放ち、豊かな贈り物は南の山々の高さを超え、恵みは東の海のように深かった。正しい原則の範囲を超えるものはなく、何が許されるかは特定できる。聖人の力ではどうにもならないことは何もなく、実行可能なことは何でも関係づけることができる。

有能で聡明な皇帝・蘇宗は、霊武とその他4か所の名高い教会を再建した。これにより大きな恩恵がもたらされ、幸福が増し始め、寛大さが示され、帝国が確立された。

卓越した武勇を誇る太宗皇帝は、神聖なる継承を重んじ、自然の潜在原理を尊びました。常に、受難日には天香を授け、功徳の儀式を命じ、皇帝の食糧を配給して、高名な会衆に栄光を授けました。天は恵みを惜しみなく与え、それによって生命の恩恵を広げます。聖人は徳の根源的な原理を体現し、それによって有害な影響を打ち消すことができるのです。

神聖で賢者のような、有能で軍事的な建宗皇帝は、8つの政府部門を定め、それによって賢い者と愚かな者を昇進させたり降格させたりしました。また、  9 つのカテゴリーを開放し、それによって輝かしい勅令を刷新しました。彼の変革的な影響力は最も難解な原理にまで及び、心の開放性が彼の信仰を際立たせました。このように、正しく拡大された原理の純粋さと、他者への共感における揺るぎない一貫性、多くの人々を苦しみから救い、周囲すべてに祝福を広める広範な同情によって、私たちの教義の育成は偉大な基盤を獲得し、漸進的な進歩によってその影響力が広まりました。風雨が適時であれば、世界は安寧し、人々は原理によって導かれ、卑しい事物は清らかになり、生きている者は安楽し、死者は喜ぶでしょう。思考は適切な反応を生み出し、感情は自由であり、目は誠実である。これこそが、我々高貴な宗教の信者が目指す、称賛に値する状態である。

我々の偉大な恩人、皇帝から紫のローブを授けられた司祭、8  I-sz' は、宴会場の名誉ある大政治家、北部地域の副次軍事委員、試験宮殿の監督官であり、生まれつき温厚で優雅な性格でした。彼の心は健全な教義を受け入れやすく、その遂行に勤勉でした。遠く離れたラージャグリハの都から、9 彼は中国を訪れた。彼の原則は三王朝の原則よりも高尚で、その実践はあらゆる分野で完璧であった。最初は宮廷に関する職務に専念し、やがて彼の名前は軍名簿に記された。第二大臣で樊陽王の高子公が最初に北方の軍を指揮したとき、蘇宗皇帝は彼(黎子)を旅の従者にした。彼は私的な侍従であったが、行軍中は特別な地位を取らず、公の爪と牙のように、軍を鼓舞する際には耳と目のように働いた。彼は与えられた富を分配し、私的に財宝を蓄積しなかった。彼は皇帝の恩恵によって与えられた宝石を奉納し、祈りのために金の絨毯を敷いた 。 今や彼は古い教会を修復し、すぐに宗教施設の数を増やした。彼は様々な建物を敬い飾り立て、まるで飛翔するキジの羽毛のようであった。さらに、彼は高貴な宗教の規律を実践し、その富を慈善行為に分け与えた。毎年、彼は4つの教会から聖職者を集め、敬意をもって50日間、彼らを清めと準備に従事させた。裸の者はやって来て服を着せられ、病人は手当てを受けて回復し、死者は安らかに埋葬された。最も清らかで自己否定的な仏教徒の間でさえ、このような卓越性は聞いたことがなかった。今、これらの人々を思い起こした高貴な会衆の白衣の会員たちは、彼らの寛大な行いを称えるために、大きな銘板を刻むことを望んだ。


■結びの頌
 原初に居ます真の主(神)、寂(じゃく)として変わることなし。三位一体の人なるメシアの救いは無辺、太陽を昇らせ暗闇を滅ぼし、その威信を証しす。 
 太宗の世に景教は輝き、我が唐の国教となり、経典を訳し寺院を建て、民に百福と万作あり、国安(やす)らか。 
 高宗の建てた精舎、高く明るく、平和遍(あまね)く中国に満ち、景教を宣教し、その法主を立て、人に楽あり、物に災苦無し。 
 玄宗は、(景教の)聖道を啓(ひら)き、その真正を修(おさ)め、御真筆の額は輝き、寺門の書は映(は)え、御肖像は光り、國をあげて徳を慕い、百工の職民、広くその恩恵に頼る。 
 粛宗が復位により帝威高まり、聖光照らして夜の闇を払い、幸(さち)皇室に戻りて妖気退散。乱を鎮め塵を払い、我が夏を謳歌す(これらは安禄山の乱を鎮めたことに言及)。 
  代宗孝養に篤く、天地の徳に合致し、貸すに寛大、物に有効。香を炊いて天に謝し、仁を以て人に施す。陽の出る方より、月の住まう方より人集まる。 
 徳宗よく統治し、徳を自らに修め、武を四海に及ぼし、文治万域に達し、燭灯隠蔽を照らす。鏡にて物観るごとく、天地東西南北を映す。百の蛮民帝に従う。 
 道広くして綿密。強いて名づくれば三一と称す。主の為し能うこと、臣これを述べ、碑文を建てて、大吉を頌(たた)う。 
 大唐の建中二年、一月七日、日曜日に建立。時の僧主寧恕、東方の景衆の総主教。 
  
【注】建中二年(781年)は、日本では、光仁天皇の最後の年で、桓武天皇の即位の前年にあたり、平安遷都の13年前のことである。最澄の入唐は、石碑建立の21年後になり、空海の入唐は、建立の23年後にあたる〔佐伯『景教碑文研究』170~71頁〕。 


https://koinonia-jesus.sakura.ne.jp/keikyo/nestoriankeiyoindex.htm


https://koinonia-jesus.sakura.ne.jp/keikyo/4hibunnotesa.htm


https://koinonia-jesus.sakura.ne.jp/keikyo/5hibunnotesb.htm


 碑文の本文は、佐伯好郎『景教碑文研究』The Nestorian Monument in China. 東京:待漏書院(明治44年)/復刻版:東京:大空社1996年(125~130頁)と、川口一彦編著『景教』イーグレーブ(2002年)に準拠した。注は、佐伯『景教碑文研究』135~173頁に準拠したが、川口一彦編著『景教』の注と、さらに、次の英訳も参照した。 
"Inscription of the Nestorian Monument". THE OPEN COURT. A MONTHLY MAGAZINE. 
Devoted to the Science of Religion, the Religion of Science, and the Extension of the Religious Parliament Idea.Volume XXIII. CHICAGO (THE OPEN COURT PUBLISHING COMPANY 1909)Reduced to HTML by Christopher M. Weimer, July 2002. 

  
【本文】
景教流行中国碑頌并序 
大秦寺僧景浄述 
【訳】大奏寺(キリストの教会)の僧侶(牧師)、景浄(シリア名アダム)の記述。 

【本文】
奥若 
常然眞寂 
先先而无元 
窅然靈虚 
後後而妙有 
惣玄樞而造化 
妙衆聖以元尊者 
其唯我三一妙身 
无元眞主 
阿羅詞歟 
  
【訳】万物の何ひとつなき先に存在し、はじめなく、終わりなき方、とこしえまでも存在する元尊(神)、この方は、真理をもって造化(創造)し、多くの預言者たちを遣わされた。この方こそ、私たちが信じ告白する三位一体神の妙身(御父)、 
始めなき、まことの主、阿羅訶(アロハ。シリア語で神)である。 


【本文】
判十字以定四方 
皷元風而生二気 
暗空易而天地開 
日月運而晝夜作 
【訳】
この方は、十字を分けて四方を定め、元風(聖霊)の働きを通し、光と闇、陰と陽をお造りになった。無から天地を創造し、日と月を造って昼夜を分けられた。 


【本文】
匠成万物 
然立初人 
別賜良和 
令鎮化海 
【訳】
万物をたくみに創造し、初人(アダム)をお造りになった。 
また彼に良和(エバ)を賜い、ともに万物を支配させなさった。 


【本文】
渾元之性 
虚而不盈 
素蕩之心 
本無希嗜 
泪乎沙殫施妄 
鈿飾純精 
【訳】
人はもともと、その本性は悪に傾かず、その純真な心は他のものを乞い願わなかったのだが、娑殫(サタン)が来て、虚偽をもって彼らを惑わした。 



【本文】
間平大於此是之中 
隙冥同於彼非之内 
是以三百六十五種 
肩隋結轍 
競織法羅 
或指物以託宋 
或空有以淪二 
【訳】
また神と人とを隔てさせ、人の心を邪悪なものとなした。 
こうして365種(人類)はサタンに従い、好きかってに生きるようになった。 
人は競って世に掟を作り、あるいは物質を追い求めて現世利益の宗教に走る。 




【本文】
或?祀以邀福 
或伐善以驕人 
知慮営営 
思情役役 
茫然無得 
煎迫轉焼 
積昧亡途 
久迷休復是於 
【訳】
あるいは哲学を弄し、あるいは儀式を通して幸福を追い求める。 
あるいは善行をして、自分を善人と傲る。 
知恵は利を追求するが、心は闇の中にあり、前途は暗い。 
迷うばかりで、立ち返る道は久しくわからなかった。 


。。

【本文】
是於 
我三一分身景尊弥施詞 
戢隠真威同人出代 
神天宣慶 
室女誕聖於大秦 
景宿告祥 
波斯覩燿以来貢 
【訳】
しかし、私たちが信じ告白する三位一体神の分身、景尊・弥施訶(景教の尊主メシア)は、真の姿を隠し、人として現われてくださった。そのとき天使は喜んだ。 
大奏(ローマ帝国シリア領)において、聖なるメシアは室女(処女マリア)を通して降誕された。星も喜びを告げ、ペルシアからは星の輝きを見て宝物を捧げに来る者もいたほどであった。 


【本文】
圓廿四聖有説之舊法 
理家國於天猷設 
三一浄風無言之新教 
陶良用於正信 
制八境之度 
練塵成真 
啓三常之門 
開生滅死 
懸景日以破暗府 
【訳】
メシアは『旧約聖書』24巻(景教の『旧約聖書』はユダヤ教と同じく24巻)を成就し、 
世界を御手の中に治められた。 
また、私たちが信じ告白する三位一体の浄風(聖霊)は、無言の新しい教えにより、 
良用(信者)を正しい信仰へと導かれる。世界を救い、塵を練って真を成される。 
信・望・愛の心を開き、生を与えて人を死から解放される。 
景日(主の日、主の復活の日)を掲げ、暗府(よみ)を破り、悪魔をくじかれる。 


  
【本文】
魔妄於是乎悉摧 
棹慈航以登明宮 
含霊於是乎既濟 
能事斯畢 
亭午昇真 
徑留廿七部 
帳元化以発霊關 
法浴水風 
滌浮華而潔虚白 
【訳】
恵みの船に私たちを乗せ、天の宮に上らせされる。 
こうして人は救われ、神のみわざは成った。 
まさに太陽が真上にのぼりつめた有り様である。 
私たちは『新約聖書』27巻を持っている。 
三位一体神の創造の力は、霊の関を開かれる。 
その御教え、洗礼、聖霊は、虚飾にみちた人の心を洗い清める。 



【本文】
印持十字 
融四照以合無抅 
撃木震仁惠之音 
東礼趣生榮之路 
存鬚所以有外行 
削頂所以無内情 
不蓄臧獲 
均貴賤於人 
不聚貨財 
示罄遺於我 
【訳】
私たちは印に十字架を持つ。世と和解し、自由の中に生きる。 
木を打ち鳴らして愛と恵みを人々に知らせ、東方に礼をして日出ずる道をたどる。 
髭のあるのは心を外に向けたしるし、 
一方、頭の頂の毛をそるのは、心に悪意のないしるしである。 
私たちは奴隷をもたず、貴賎の別を設けず、財産を蓄えず、身もとに残すものもない。 



【本文】
斎以伏識而成 
戒以静慎為固 
七時礼讃 
大庇存亡 
七日一薦 
洗心反素 
真常之道 
妙而難名 
功用昭彰 
強稱景教 
惟道非聖不弘 
聖非道不大 
道聖符契 
天下文明 
【訳】
清めは思慮深い心で行い、戒律は謹んで堅く守る。 
日に7度の礼拝を捧げ、生者と死者のために祈る。 
とくに七日に一度の主日礼拝には、心を洗い清め、原点に立ち返る。 
真理の道は不思議で名づけられないが、功徳は明らかである。 
それを強いて名づけるなら景教という。 
景教の真理は、聖でなければ広まらない。 
聖は真理でなければ広まらない。 
聖と真理とは、ふたつに割った契約の札のように相符号して働く。 
その天下にこそ真の文明が生まれる。 


 3章 景教碑文
■景教と日本
 佐伯好郎は、その『景教碑文研究』待漏書院(明治44年)(復刻版:大空社)1頁~124頁において、次のように述べている。
 現在(明治44年)の日本は、ペルー提督の渡来以来、「西洋崇拝の迷夢を打破せられ国民的自覚の第三期に入らんとする」〔佐伯『景教碑文研究』4頁〕。だから「日清日露両戦役以後の事実を出発として、外国の宣教師によりて宣伝せられし基督教さへ将に日本化せられんとするの現象を呈して」いる。かつて採り入れられた支那仏教は、今や日本仏教に変じており、漢学変体の奈良朝は、鎌倉時代の日本となり、奈良の大仏は一寸八分の観音像となった。これが和魂漢才である〔佐伯『景教碑文研究』6頁〕。 
 漢唐の時代には、ヨーロッパとアジアとの陸上交通によって、外国の文物が中国に伝わり、インド、ペルシア、ローマ、その他の西域諸国の文物が、漢から唐にいたる時代には、日本にも伝来していた〔佐伯『景教碑文研究』9頁/11頁〕。だから、『続日本書紀』には、ペルシア人の渡来が記されている〔佐伯『景教碑文研究』14頁〕。玄宗皇帝(在位712~756年)当時、唐へ派遣された景教の宣教師は、エデッサあるいは、ササン朝ペルシアの医学を修めた修道院の出身者であった〔佐伯『景教碑文研究』15頁〕。唐の長安には、大秦寺が建てられたが、それは当初「ペルシア教」の「ペルシア寺」と呼ばれた〔佐伯『景教碑文研究』16頁〕。景教碑文によれば、唐時代の300年の間の約200年間、景教は国教として扱われ、ペルシア渡来の師アラボン(阿羅本)は、「鎮国大法王」として、国内の景教を統治した。阿倍仲麻呂も真備も最澄も空海も、その他幾千もの日本からの留学生たちは、この頃の「世界の長安」にあって学んだのである。当時のヨーロッパは、「暗黒時代」と称されているが、7世紀~9世紀の唐にあって、世界の光がここを照らしていた〔佐伯『景教碑文研究』17~19頁〕。日本で興った孝徳天皇(在位645~654年)の大化の改新は、このような大陸の情勢に刺激されたからであり、日本の歴史が世界の歴史に入ろうとした時期にあたる〔佐伯『景教碑文研究』22頁〕。 
 今(明治の)の日本は、日英同盟と日露戦争を通じて、世界歴史的な戦争を遂行し、20世紀初頭の世界の歴史に入ろうとしている。景教流行中国碑は、この意味において、日唐文明の性質を明らかにするロゼッタストーンであり、日本文明を照らす一大炬火(たいまつ)である〔佐伯『景教碑文研究』24~25頁〕。 
■景教流行中国碑
 景教流行中国碑は、明朝の末期の「天啓」時代(1621年~27年)に、長安の民の一人が地面を鋤(す)いているときに偶然発見された。イエズス会のアルバレズ・スメドー(Alvarez Semedo)が、1625年に、この碑の発見に関して言及している〔佐伯『景教碑文研究』28~29頁〕。スメドー自身が1628年に長安に入り、石碑を検証し、漢文は理解したが、その他の文字は理解できなかった。3年後の1631年に、宣教師アントニオ・フェルナンデー(Anton Fernandez)が、石碑の横文字がシリア語であることを確認した。清朝では、1805年になって、ようやく、王昶の編集による『金石萃編』の第200巻に、石碑の漢文部分が載せられている〔佐伯『景教碑文研究』32頁〕。 
 日本では、1814年に、幕府の書籍奉行の近藤重蔵が、王昶の『金石萃編』を通して、碑文を読破し、それが、厳禁の耶蘇(ヤソ)教であることを知った。以後、日本でこれを読む者がいなかった。明治になって、文学博士の中村敬宇が、その『天道遡源(さくげん)』に石碑の漢文を載せたが、幕府のキリシタン厳禁の余波を受けて、その存在さえも知る者がいなかった。明治40年6月10日に、アメリカのコロンビア大学のホルム教授(Prof. Fritz Von Holm)が、長安に赴いて、石碑の買収を試みたが果たせず、原石と同じ物を用いて、石碑の模造碑を彫刻して、アメリカへ持ち帰った。この模造碑が、明治41年6月16日に、ニュー・ヨークの市立中央博物館に安置され、これを契機に、景教碑文が欧米において注目されるようになった。このことが中国を刺激して、明治41年に、発掘されてから280年後に、石碑は、長安の西安府の城外にあった金勝寺(唐代の大秦寺が廃寺となった跡地に金勝寺が移転してきた)の庭から、西安城内の碑林へと移されて「国宝碑」とされることになった。この時、京都大学の桑原隲蔵(しつぞう?)博士は、その場に居合わせて目撃している〔佐伯『景教碑文研究』付録90頁〕。20世紀になり、欧米の学者が中国の文明に注目し始めると、景教碑文は、中国文明を知るために注目されるようになった。碑文の移転については、京都大学文学博士桑原隲蔵が、『藝文』第一号(明治43年/1909年4月)に「西安府の大秦景教流行中国碑」と題して載せている〔佐伯前掲書同頁〕。 
 こういうわけで、景教石碑は、皇帝の命令で大秦寺が廃寺にされる折に、石碑が壊されることを恐れた信徒たちが、これを地中に埋没したと考えられる。そうだとすれば、この石碑は、建てられてから、わずか60年あまりしか地上に姿を見せていなかったことになる。この期間は、奇しくも、最澄と空海の入唐の20年前から、入唐の40年あまり後の期間にあたる。石碑は、発掘されるまで、約780年間も地中に眠っていたことになる〔佐伯『景教碑文研究』41頁〕。この石碑については、欧米の学者の間で、一時偽造説が出たたことがある。しかし、後漢の2世紀頃には、ローマ(大秦)からパルティア(安息)とクシャーナ朝のバクトリア(大夏)とを経由して、銅銭や鉄貨幣を用いて、東西の交易が盛んであった。現在も遺る敦煌の石室遺書にも、唐代の景教について「惟獨神威無等力」と記されていることを思えば、現在では石碑の真正性が認められている〔佐伯『景教碑文研究42~48頁/54~55頁〕。これには、真正説を主張したワイリー(Alexander Wylie)や四書五経を英訳したウィリアム(Dr.Williams)や東洋学者ポチエー(M.G. Pauthier)たちの努力に負うところが大きい〔佐伯『景教碑文研究』75頁〕。 
■日本における景教研究
 翻(ひるがえ)って日本では、中村正直が初めて石碑に注目した後も、研究に観るべきものがない。わずかに、文学博士高楠順次郎が、1896年に、フランスの東洋研究専門学会が発行する機関誌『通報』(T'oung Pao)において、景教碑文を書いたと思われるペルシア人の景浄(「大秦寺波斯僧景浄」とある)が、当時長安に居たインドの仏僧プラジューナ(般刺若)と共に、『大乗理趣六波羅密教』を胡(こ/ウ)(唐代では西域一般を指す)のテキストから漢文に訳したことを報告し、景浄が多くの仏教用語を用いて、景教の布教に努めていたと告げている〔佐伯『景教碑文研究』英文5~8頁〕。先に述べた桑原隲蔵博士の論文は明治43年(1910年)であり、佐伯氏の『景教碑文研究』は明治44年(1911年)である。先の文学博士桑原隲蔵(しつぞう?)による「西安府の大秦景教流行中国碑」(1909年)が契機となって、「高野山の高僧、同大學林の教授諸氏及び英国人イー・エー・ゴルドン夫人(Mrs. E.A.Gordon)」たちの協力によって、「今年(1910年)9月」〔佐伯『景教碑文研究』77頁〕に、中国の原物(?)の模型碑が高野山に建立された。なお、この高野山の模造碑は、2020年現在、京都大学文化博物館にも展示されている。 
■景教の十大特徴
 佐伯氏は、景教の特徴として、次の10項目をあげている〔佐伯『景教碑文研究』83~85頁〕。 
(1)マリアを「神の母」(テオトコス)とすることに反対する。カトリックとの違い。 
(2)十字架を「しるし」とするが、それ以外のしるしを認めない。 
(3)死者のための「亡霊慰安」の祈りを禁じないが、死後の「贖い」を認めない。カトリックとの違い。 
(4)聖餐のパンと葡萄酒の「キリスト化体」説を認めず、パンと葡萄酒の「変質霊在」説を採る。カトリックとの違い。 
(5)法王、(管長)、大徳、僧、執事、及び四種の教会補助者の八(九)階級制度を採る。 
(6)僧侶の妻帯を禁じない。カトリックとの違い。 
(7)断食励行を特徴とする。 
(8)法王のみ菜食を原則とするが、高僧以下は、肉食を禁じない。 
(9)法王(総管長)は、3人の管長の互選による。管長は、6人の大徳の長である。 
(10)聖書と祈祷文と讃誦は、シリア語を本則とするが、ギリシア語またはラテン語の使用を禁じない。カトリックとの違い。ただし、漢文が用いられていたことは明白である。


          6章 景教碑文頌の概要
■景教碑文の皇帝たち
 景教碑文に出てくる唐代の皇帝は、初代の太宗皇帝(李世民:在位626年~649年)と続く高宗皇帝(李治、在位649年~6833年)に始まり、八代目の玄宗皇帝(李隆基、在位712~756年)から続く粛宗皇帝(李亨、在位756年~762年)、代宗皇帝(李豫、在位762年~779年)、徳宗皇帝(李?、在位779年~805年)まで、全部で6名の皇帝が出てくる。ただし、女帝の則天武后(武?、在位690年~705年)の時代に、景教が揶揄と嘲笑を受けた(迫害された)ことが記されている。 
 太宗皇帝の時代に阿羅本が来唐すると、皇帝は一行を手厚く迎え入れて、景教の聖なる道を民衆に教えるよう勅令を出し(638年)、大秦寺を建てて、そこに皇帝の肖像を飾った。大秦国は、宝山と花林と川の流れる美しい國で、盗難もなく平和であるとある。ちなみに、「大秦」は、『後漢書』では「拂菻」とあり、これを「エフライム」のことだとして、「大秦」は「ユダヤ民族の本国であり、支那と天山南北路を越えて(ユダヤ民族と)交通があったことを示す」〔佐伯『景教碑文研究』151~52頁〕という指摘がある。これが、日本へのユダヤ人渡来説の元祖であろうか。 
 景教の国教化に伴い、高宗の時代に、阿羅本は鎭国大法王に任ぜられ、福音は国中に溢れた。 則天武后の代に一時嘲笑を受ける時もあったが(698年~99年)、救いの道は絶えることがなかった。玄宗皇帝は、福音堂の祭壇を修復し、大将軍の高力士を派遣し、「五聖人」(高祖/太宗/高宗/睿宗/玄宗)の肖像を掲げた。玄宗の時代に、大秦国の僧估和(きつわ)(ギワルギス)が星を見て17名と共に来唐し、皇帝の威信は国中に発揮された。粛宗は五郡(当時の唐の全域)に景教の会堂を建て、代宗は、皇帝の誕生祝いの日に、多くの食物を(景教の)信徒たちに賜わった(クリスマスにちなんで皇帝の誕生祭を行なうのは景教に始まるか)。徳宗は、八つの政策を行ない、景教の教理を理解し、國は偉大で平和であった。 
 僧伊斯(イサク)は、遠いバルクより来唐した。彼は、温和で恵みに富み、武術に優れ、粛宗は彼を従軍させ、親しく交わった。彼は、軍隊を整え、皇帝の耳目となって仕えた。毎年四つの(景教の)寺の僧や信徒を集めてもてなし、飢えた者に食を与え、病める者に医療を施した。 
■結びの頌
 原初に居ます真の主(神)、寂(じゃく)として変わることなし。三位一体の人なるメシアの救いは無辺、太陽を昇らせ暗闇を滅ぼし、その威信を証しす。 
 太宗の世に景教は輝き、我が唐の国教となり、経典を訳し寺院を建て、民に百福と万作あり、国安(やす)らか。 
 高宗の建てた精舎、高く明るく、平和遍(あまね)く中国に満ち、景教を宣教し、その法主を立て、人に楽あり、物に災苦無し。 
 玄宗は、(景教の)聖道を啓(ひら)き、その真正を修(おさ)め、御真筆の額は輝き、寺門の書は映(は)え、御肖像は光り、國をあげて徳を慕い、百工の職民、広くその恩恵に頼る。 
 粛宗が復位により帝威高まり、聖光照らして夜の闇を払い、幸(さち)皇室に戻りて妖気退散。乱を鎮め塵を払い、我が夏を謳歌す(これらは安禄山の乱を鎮めたことに言及)。 
  代宗孝養に篤く、天地の徳に合致し、貸すに寛大、物に有効。香を炊いて天に謝し、仁を以て人に施す。陽の出る方より、月の住まう方より人集まる。 
 徳宗よく統治し、徳を自らに修め、武を四海に及ぼし、文治万域に達し、燭灯隠蔽を照らす。鏡にて物観るごとく、天地東西南北を映す。百の蛮民帝に従う。 
 道広くして綿密。強いて名づくれば三一と称す。主の為し能うこと、臣これを述べ、碑文を建てて、大吉を頌(たた)う。 
 大唐の建中二年、一月七日、日曜日に建立。時の僧主寧恕、東方の景衆の総主教。 
  
【注】建中二年(781年)は、日本では、光仁天皇の最後の年で、桓武天皇の即位の前年にあたり、平安遷都の13年前のことである。最澄の入唐は、石碑建立の21年後になり、空海の入唐は、建立の23年後にあたる〔佐伯『景教碑文研究』170~71頁〕。 
                     ネストリオス派と景教へ

 Inscription of the Nestorian Monument

Inscription of the Nestorian Monument


THE OPEN COURT

A MONTHLY MAGAZINE

Devoted to the Science of Religion, the Religion of Science, and the Extension of the Religious Parliament Idea.

Volume XXIII

CHICAGO

THE OPEN COURT PUBLISHING COMPANY
1909
{Reduced to HTML by Christopher M. Weimer, July 2002}

p. 35

INSCRIPTION OF THE NESTORIAN MONUMENT.

TRANSLATED BY A. WYLIE.

Tablet Eulogizing the Propagation of the lllustrious Religion in
China, With a Preface; Composed by King-Tsing,
A Priest of the Syrian Church.

BEHOLD the unchangeably true and invisible, who existed through all eternity without origin; the far-seeing perfect intelligence, wbose mysterious existence is everlasting; operating on primordial substance he created the universe, being more excellent than all holy intelligences, inasmuch as he is the source of all that is honorable. This is our eternal true lord God, triune and mysterious in substance. He appointed the cross as the means for determining the four cardinal points, he moved the original spirit, and produced the two principles of nature; the sombre void was changed, and heaven and earth were opened out; the sun and moon revolved, and day and night commenced; having perfected all inferior objects, he then made the first man; upon him he bestowed an excellent disposition, giving him in charge the government of all created beings; man, acting out the original principles of his nature, was pure and unostentatious; his unsullied and expansive mind was free from the least inordinate desire; until Satan introduced the seeds of falsehood, to deteriorate his purity of principle; the opening thus commenced in his virtue gradually enlarged, and by this crevice in his nature was obscured and rendered vicious; hence three hundred and sixty-five sects followed each other in continuous track, inventing every species of doctrinal complexity; while some pointed to material objects as the source of their faith, others reduced all to vacancy, even to the annihilation of the two primeval principles; some sought to call down blessings by prayers and supplications, while others by an assumption of excellence held themselves up as superior to their fellows; their p. 36 intellects and thoughts continually wavering, their minds and affections incessantly on the move, they never obtained their vast desires, but being exhausted and distressed they revolved in their own heated atmosphere; till by an accumulation of obscurity they lost their path, and after long groping in darkness they were unable to return. Thereupon, our Trinity being divided in nature, the illustrious and honorable Messiah, veiling his true dignity, appeared in the world as a man; angelic powers promulgated the glad tidings, a virgin gave birth to the Holy One in Syria; a bright star announced the felicitous event, and Persians1 observing the splendor came to present tribute; the ancient dispensation, as declared by the twenty-four holy men,2 was then fulfilled, and he laid down great principles for the government of families and kingdoms; he established the new religion of the silent operation of the pure spirit of the Triune; he rendered virtue subservient to direct faith; he fixed the extent of the eight boundaries,3 thus completing the truth and freeing it from dross; he opened the gate of the three constant principles,4 introducing life and destroying death; he suspended the bright sun to invade the chambers of darkness, and the falsehoods of the devil were thereupon defeated; he set in motion the vessel of mercy by which to ascend to the bright mansions, whereupon rational beings were then released, having thus completed the manifestation of his power, in clear day he ascended to his true station. Twenty-seven sacred books5 have been left, which disseminate intelligence by unfolding the original transforming principles. By the rule for admission, it is the custom to apply the water of baptism; to wash away all superficial show and to cleanse and purify the neophytes. As a seal, they hold the cross, whose influence is reflected in every direction, uniting all without distinction. As they strike the wood, the fame of their benevolence is diffused abroad; worshiping toward the east, they hasten on the way to life and glory; they preserve the beard to symbolize their outward actions, they shave the crown to p. 37indicate the absence of inward affections; they do not keep slaves, but put noble and mean all on an equality; they do not amass wealth, but cast all their property into the common stock; they fast, in order to perfect themselves by self-inspection; they submit to restraints, in order to strengthen themselves by silent watchfulness; seven times a day they have worship and praise for the benefit of the living and the dead; once in seven days they sacrifice, to cleanse the heart and return to purity.

It is difficult to find a name to express the excellence of the true and unchangeable doctrine; but as its meritorious operations are manifestly displayed, by accommodation it is named the illustrious Religion. Now without holy men, principles cannot become expanded; without principles, holy men cannot become magnified; but with holy men and right principles, united as the two parts of a signet, the world becomes civilized and enlightened.

In the time of the accomplished Emperor Taitsung, the illustrious and magnificent founder of the dynasty, among the enlightened and holy men who arrived was the Most-virtuous Olopun, from the country of Syria. Observing the azure clouds, be bore the true sacred books; beholding the direction of the winds, he braved difficulties and dangers. In the year A.D. 635 be arrived at Chang-an; the Emperor sent his Prime Minister, Duke Fang Hiuen-ling; who, carrying the official staff to the west border, conducted his guest into the interior; the sacred books were translated in the imperial library, the sovereign investigated the subject in his private apartments; when becoming deeply impressed with the rectitude and truth of the religion, be gave special orders for its dissemination. In the seventh month of the year A.D. 638 the foliowing imperial proclamation was issued:

"Right principles have no invariable name, holy men have no invariable station; instruction is established in accordance with the locality, with the object of benefiting the people at large. The 'Greatly-virtuous Olopun, of the kingdom of Syria, has brought his sacred books and images from that distant part, and has presented them at our chief capital. Having examined the principles of this religion, we find them to be purely excellent and natural; investigating its originating source, we find it has taken its rise from the establishment of important truths; its ritual is free from perplexing expressions, its principles will survive when the framework is forgot; it is beneficial to all creatures; it is advantageous to mankind. Let it be published throughout the Empire, and let the proper authority build a Syrian church in the capital in the I-ning May, which shall p. 38 be governed by twenty-one priests. When the virtue of the Chau dynasty declined, the rider on the azure ox ascended to the west; the principles of the great Tang becoming resplendent, the lllustrious breezes have come to fan the East."

Orders were then issued to the authorities to have a true portrait of the Emperor taken; when it was transferred to the wall of the church, the dazzling splendor of the celestial visage irradiated the Illustrious portals. The sacred traces emitted a felicitous influence, and shed a perpetual splendor over the holy precincts. According to the Illustrated Memoir of the Western Regions, and the historical books of the Han and Wei dynasties, the kingdom of Syria reaches south to the Coral Sea; on the north it joins the Gem Mountains; on the west it extends toward the borders of the immortals and the flowery forests; on the east it lies open to the violent winds and tideless waters. The country produces fire-proof cloth, life-restoring incense, bright moon-pearls, and night-lustre gems. Brigands and robbers are unknown, but the people enjoy happiness and peace. None but Illustrious laws prevail; none but the virtuous are raised to sovereign power. The land is broad and ample, and its literary productions are perspicuous and clear.

The Emperor Kautsung respectfully succeeded his ancestor, and was still more beneficent toward the institution of truth. In every province he caused Illustrious churches to be erected, and ratified the honor conferred upon Olopun, making him the great conservator of doctrine for the preservation of the State. While this doctrine pervaded every channel, the State became enriched and tranquility abounded. Every city was full of churches, and the royal family enjoyed lustre and happiness. In the year A.D. 699 the Buddhists, gaining power, raised their voices in the eastern metropolis;6 in the year A.D. 713, some low fellows excited ridicule and spread slanders, in the western capital. At that time there was the chief priest Lo-han, the Greatly-virtuous Kie-leih, and others of noble estate frorn the golden regions, lofty-minded priests, having abandoned all worldly interests; who unitedly maintaied the grand principles and preserved them entire to the end.

The high-principled Emperor Hiuentsung caused the Prince of Ning and others, five princes in all, personally to visit the felicitous edifice; he established the place of worship; he restored the consecrated p. 39 timbers which had been temporarily thrown down; and reerected the sacred stones which for a time had been desecrated.

In 742 orders were given to the great general Kau Lih-sz', to send the five sacred portraits and have them placed in the church, and a gift of a hundred pieces of silk accompanied these pictures of intelligence. Although the dragon's beard was then remote, their bows and swords were still within reach; while the solar horns sent forth their rays, and celestial visages seemed close at hand.7

In 744 the priest Kih-ho, in the kingdom of Syria, looking toward the star (of China), was attracted by its transforming influence, and observing the suri (i.e., Emperor), came to pay court to the most honorable. The Emperor commanded the priest Lo-han, the priest Pu-lun, and others, seven in all, together with the Greatly-virtuous Kih-ho, to perform a service of merit in the Hing-king palace. Thereupon the Emperor composed mottoes for the sides of the church, and the tablets were graced with the royal inscriptions; the accumulated gems emitted their effulgence, while their sparkling brightness vied with the ruby clouds; the transcripts of intelligence suspended in the void shot forth their rays as reflected by the sun; the bountiful gifts exceeded the height of the southern hills; the bedewing favors were deep as the eastern sea. Nothing is beyond the range of the right principle, and what is permissible may be identified; nothing is beyond the power of the holy man, and that which is practicable may be related.

The accomplished and enlightened Emperor Suhtsung rebuilt the Illustrious churches in Ling-wu and four other places; great benefits were conferred, and felicity began to increase; great munificence was displayed, and the imperial State became established.

The accomplished and military Emperor Taitsung magnified the sacred succession, and honored the latent principle of nature; always, on the incarnation-day, he bestowed celestial incense, and ordered the performance of a service of merit; he distributed of the imperial viands, in order to shed a glory on the Illustrious Congregation. Heaven is munificent in the dissemination of blessings, whereby the benefits of life are extended; the holy man embodies the original principle of virtue, whence he is able to counteract noxious influences.

Our sacred and sage-like, accomplished and military Emperor Kienchung appointed the eight branches of government, according p. 40 to which he advanced or degraded the intelligent and dull; he opened up the nine categories, by means of which he renovated the illustrious decrees; his transforming influence pervaded the most abstruse principles, while openness of heart distinguished his devotions. Thus, by correct and enlarged purity of principle, and undeviating consistency in sympathy with others; by extended commiseration rescuing multitudes from misery, while disseminating blessings on all around, the cultivation of our doctrine gained a grand basis, and by gradual advances its influence was diffused. If the winds and rains are seasonable, the world will be at rest; men will be guided by principle, inferior objects will be pure; the living will be at ease, and the dead will rejoice; the thoughts will produce their appropriate response, the affections will be free, and the eyes will be sincere; such is the laudable condition which we of the Illustrious Religion are laboring to attain.

Our great benefactor, the Imperially-conferred-purple-gown priest,8 I-sz', titular Great Statesman of the Banqueting-house, Associated Secondary Military Commissioner for the Northern Region, and Examination-palace Overseer, was naturally mild and graciously disposed; his mind susceptible of sound doctrine, he was diligent in the performance; from the distant city of Râjagriha,9 he came to visit China; his principles more lofty than those of the three dynasties, his practice was perfect in every department; at first he applied himself to dulies pertaining to the palace, eventually his name was inscribed on the military roll. When the Duke Koh Tsz'-í, Secondary Minister of State and Prince of Fan-yang, at first conducted the military in the northern region, the Emperor Suhtsung made him (I-sz') his attendant on his travels; although he was a private chamberlain, he assumed no distinction on the march; he was as claws and teeth to the duke, and in rousing the military he was as ears and eyes; he distributed the wealth conferred upon him, not accumulating treasure for his private use; he made offerings of the jewelry which had been given by imperial favor, he spread out a golden p. 41 carpet for devotion; now he repaired the old churches, anon he inreased the number of religious establishments; he honored and decorated the various edifices, till they resembled the plumage of the pheasant in its flight; moreover, practising the discipline of the Illustrious Religion, he distributed his riches in deeds of benevolence; every year he assembled those in the sacred office from four churches, and respectfully engaged them for fifty days in purification and preparation; the naked came and were clothed; the sick were attended to and restored; the dead were buried in repose; even among the most pure and self-denying of the Buddhists, such excellence was never heard of; the white-clad members of the lllustrious Congregation, now considering these men, have desired to engrave a broad tablet, in order to set forth a eulogy of their magnanimous deeds.

ODE.
The true Lord is without origin,
Profound, invisible, and unchangeable;
With power and capacity to perfect and transform,
He raised up the earth and established the heavens.
Divided in nature, he entered the world,
To save and to help without bounds;
The sun arose, and darkness was dispelled,
All bearing witness to his true original.
The glorious and resplendent, accomplished Emperor,
Whose principles embraced those of preceding monarchs.
Taking advantage of the occasion, suppressed turbulence:
Heaven was spread out and the earth was enlarged.
When the pure, bright Illustrious Religion
Was introduced to our Tang dynasty,
The Scriptutes were translated, and churches built,
And the vessel set in motion for the living and the dead:
Every kind of blessing was then obtained,
And all the kingdoms enjoyed a state of peace.
When Kautsung succeeded to his ancestral estate.
He rebuilt the edifices of purity;
Palaces of concord, large and light,
Covered the length and breadth of the land.
p. 42
The true doctrine was clearly announced,
Overseers of the church were appointed in due form;
The people enjoyed happiness and peace,
While all creatures were exempt from calamity and distress.
When Hiuentsung commenced his sacred career,
He applied himself to the cultivation of truth and rectitude;
His imperial tablets shot forth their effulgence,
And the celestial writings mutually reflected their splendors.
The imperial domain was rich and luxuriant,
While the whole land rendered exalted homage;
Every business was flourishing throughout,
And the people all enjoyed prosperity.
Then came Suhtsung, who commenced anew,
And celestial dignity marked the imperial movements.
Sacred as the moon's unsullied expanse,
While felicity was wafted like nocturnal gales.
Happiness reverted to the imperial household,
The autumnal influences were long removed;
Ebullitions were allayed, and risings suppressed,
And thus our dynasty was firmly built up.
Taitsung the filial and just
Combined in virtue with heaven and earth;
By his liberal bequests the living were satisfied,
And property formed the channel of imparting succor.
By fragrant mementoes he rewarded the meritorious,
With benevolence he dispensed his donations;
The solar concave appeared in dignity,
And the lunar retreat was decorated to extreme.
When Kienchung succeeded to the throne,
He began the cultivation of intelligent virtue;
His military vigilance extended to the four seas,
And his accomplished purity influenced all lands.
p. 43
His light penetrated the secrecies of men,
And to him the diversities of objects were seen as in a mirror;
He shed a vivifying influence through the whole realm of nature,
And all outer nations took him for example.
The true doctrine how expansive!
Its responses are minute;
How difficult to name it!
To elucidate the three in one.
The sovereign has the power to act!
While the ministers record;
We raise this noble monument!
To the praise of great felicity.

This was erected in the 2d year of Kienchung, of the Tang Dynasty (A.D. 781), on the 7th day of the 1st month, being Sunday.

Written by Lu Siu-yen, Secretary to Council, formerly Military Superintendent for Taichau; while the Bishop Ning-shu had the charge of the congregations of the Illustrious in the East.

[The two lines of Syriac are in the Estrangelo character, and run down the right and left sides of the Chinese respectively. Kircher translates this as follows:]

"Adam, Deacon, Vicar-episcopal and Pope of China.
In the time of the Father of Fathers, the Lord John Joshua, the Universal Patriarch."

[The translation of the Syriac at the foot of the stone is given here on he authority of Kircher:]

"In the year of the Greeks one thousand and ninety-two, the Lord Jazedbuzid, Priest and Vicar-episcopal of Cumdan the royal ity, son of the enlightened Mailas, Priest of Balach a city of Turkestan, set up this tablet, whereon is inscribed the Dispensation of our Redeemer, and the preaching of the apostolic missionaries to the King of China."

[After this, in Chinese characters, is]

"The Priest Lingpau."

[Then follows:]

"Adam the Deacon, son of Jazedbuzid, Vicar-episcopal.
The Lord Sergius, Priest and Vicar-episcopal.
p. 44
Sabar Jesus, Priest.
Gabriel, Priest, Archdeacon, and Ecclesiarch of Cumdan and Sarag."

[The following subscription is appended in Chinese:]

"Assistant Examiner: the High Statesman of the Sacred rites, the Imperially-conferred-purple-gown Chief Presbyter and Priest Yí-li."

[On the left-hand edge are the Syriac names of sixty-seven priests, and sixty-one are given in Chinese.]


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ネストリウス派記念碑の碑文

 ネストリウス派記念碑の碑文

ネストリウス派記念碑の碑文


公開法廷

月刊誌

宗教学、科学の宗教、そして宗教議会構想の拡張に専念する。

第23巻

シカゴ

オープンコート出版会社
1909
{クリストファー・M・ワイマーによりHTML形式に変換、2002年7月}

35ページ

ネストリウス派記念碑の碑文。

翻訳:A・ワイリー

中国における輝かしい宗教の普及を讃える碑文、序文付き。シリア教会の司祭
、金清によって書かれた。

永遠の昔から起源なく存在し、遠くまで見通す完全な知性、その神秘的な存在は永遠である方を見よ。原初の物質に働きかけ、宇宙を創造した。彼はすべての聖なる知性よりも優れており、すべての尊いものの源である。これが我々の永遠の真の主なる神であり、その本質は三位一体で神秘である。彼は十字架を四方位を決定する手段として定め、原初の霊を動かし、自然の二つの原理を生み出した。暗い虚空は変化し、天と地が開かれた。太陽と月が回転し、昼と夜が始まった。すべての劣った対象を完成させた後、彼は最初の人間を創造した。彼はその人間に優れた性質を与え、すべての被造物の統治を彼に委ねた。人間は、その本性の原初の原理を実践し、純粋で控えめであった。彼の汚れのない広大な心は、少しの過度な欲望からも解放されていた。サタンが偽りの種を蒔き、彼の原理の純粋さを損なわせるまで、彼の徳に生じた隙間は徐々に拡大し、彼の性質のこの裂け目によって、彼の本質は曖昧になり、悪徳なものとなった。こうして、365の宗派が次々と現れ、あらゆる種類の教義の複雑さを生み出した。ある宗派は物質的なものを信仰の源泉として指し示し、またある宗派はすべてを空虚なものにし、二つの原始原理さえも消滅させた。ある宗派は祈りや嘆願によって祝福を呼び起こそうとし、またある宗派は卓越性を装って仲間より優れていると自負した。彼らの 知性と思考 は絶えず揺れ動き、心と感情は絶えず動き回り、彼らは大きな欲望を得ることはなく、疲れ果てて苦悩し、自らの熱狂的な雰囲気の中でぐるぐる回った。そして、曖昧さの蓄積によって道を見失い、長い間暗闇の中を手探りした後、戻ることができなくなった。そこで、三位一体が本質的に分かれたため、輝かしく尊いメシアは、その真の尊厳を覆い隠して、人としてこの世に現れました。天使の力が吉報を告げ、処女がシリアで聖なる方を産みました。輝く星が幸福な出来事を告げ、ペルシャ人は1 壮麗さを見て貢物を捧げに来た。24 人の聖人によって宣言された古代の摂理、2 は成就し、彼は家族や王国の統治に関する偉大な原則を定め、三位一体の純粋な霊の静かな働きという新しい宗教を確立し、徳を直接的な信仰に従属させ、8 つの境界の範囲を定め、3 こうして真理を完成させ、不純物を取り除き、三つの不変の原理の門を開いた。4 生命を導入し、死を滅ぼす。彼は輝く太陽を止めて闇の部屋に侵入させ、それによって悪魔の偽りは打ち負かされた。彼は慈悲の器を動かして輝かしい館へと昇らせ、それによって理性的な存在が解放された。こうして彼の力の顕現を完了すると、彼は晴れた日に真の地位へと昇った。 27 の聖典5つ が残されており、これらは本来の変革原理を展開することによって知性を広めています。入会規則により、洗礼の水をかけるのが慣習となっています。これは、表面的な見せかけをすべて洗い流し、新参者を清め、浄化するためです。印章として、彼らは十字架を掲げ、その影響はあらゆる方向に反映され、区別なくすべての人を結びつけます。彼らが木を打つと、彼らの慈悲の評判が広く伝わります。東に向かって礼拝することで、彼らは生命と栄光への道を急ぎます。彼らは外的な行動を象徴するために髭を生やし、内なる感情がないことを示すために頭頂部を剃ります 。彼らは奴隷を所有せず、高貴な者も卑しい者も平等に扱います。彼らは富を蓄積せず、すべての財産を共有財産に投資します。彼らは自己反省によって自分自身を完成させるために断食します。彼らは静かに警戒することで自分自身を強くするために抑制に従います。彼らは1日に7回、生者と死者のために礼拝と賛美を行います。彼らは7日に一度、心を清め、純粋な状態に戻るために犠牲を捧げる。

真実で不変の教義の素晴らしさを表現する名を見つけるのは難しい。しかし、その功績ある働きが明白に示されているため、便宜上、それは輝かしい宗教と呼ばれる。聖人がいなければ、教義は広まることはなく、教義がなければ、聖人は高められることはない。しかし、聖人と正しい教義が印章の二つの部分のように結びつくことによって、世界は文明化され、啓蒙されるのである。

偉大なる太宗皇帝の時代、輝かしく壮麗な王朝の創始者である太宗皇帝の治世に、シリアの国から最も徳の高いオロプンがやって来た。彼は青い雲を見ながら真の聖典を携え、風向きを見定めて困難と危険に立ち向かった。西暦635年、彼は長安に到着した。皇帝は宰相の方玄陵を派遣し、方玄陵は官杖を携えて西の国境まで行き、客人を内陸へと案内した。聖典は皇帝の図書館で翻訳され、皇帝は私室でその内容を研究した。そして、その宗教の正しさと真実に深く感銘を受け、その普及のために特別な命令を下した。西暦638年7月、次のような皇帝の布告が発せられた。

「正しい原理には不変の名前はなく、聖人にも不変の地位はない。教えは地域に応じて確立され、広く民衆の利益を目的としている。シリア王国の偉大な徳を持つオロプンは、その遠い地から聖典と聖像を持ち帰り、我々の首都に献上した。この宗教の原理を調べたところ、それらは純粋に優れ、自然なものであることがわかった。その起源を調査すると、重要な真理の確立から生まれたことがわかった。その儀式は難解な表現がなく、その原理は枠組みが忘れ去られても生き残る。それはすべての生き物に有益であり、人類に有利である。これを帝国全土に広め、適切な当局が1寧5月に首都にシリア教会を建設し、21人の司祭によって統治されるようにすべきである 。 周王朝の徳が衰退したとき、青い牛に乗った者が西に昇った。偉大な徳の原理は唐は輝きを増し、光り輝く風が東を扇ぐためにやってきた。

当局に皇帝の真の肖像画を描かせるよう命令が出され、それが教会の壁に移されると、天上の顔のまばゆいばかりの輝きが、輝かしい門を照らした。聖なる痕跡は幸運な影響を放ち、聖域に永遠の輝きをもたらした。西域図説や漢と魏の歴史書によれば、シリア王国は南は珊瑚海にまで達し、北は宝石山に接し、西は仙人の境界と花咲く森にまで広がり、東は激しい風と干潟に面している。この国では、耐火布、生命を回復させる香、輝く月真珠、夜光宝石が産出される。山賊や盗賊は知られておらず、人々は幸福と平和を享受している。輝かしい法のみが施行され、徳の高い者のみが君主の地位に就く。国土は広大で豊かであり、その文学作品は明快で分かりやすい。

カウツン皇帝は祖先を丁重に継承し、真理の確立にさらに寛大であった。彼は各州に壮麗な教会を建立させ、オロプンに与えられた栄誉を承認し、彼を国家維持のための教義の偉大な守護者とした。この教義があらゆる経路に浸透するにつれ、国家は豊かになり、平和が満ち溢れた。どの都市も教会で溢れ、王族は輝きと幸福を享受した。西暦699年、仏教徒は勢力を拡大し、東の都で声を上げた。6 西暦713年、西都で卑しい者たちが嘲笑を巻き起こし、中傷を広めた。その時、黄金の地から来た高貴な身分の羅漢、大徳のキエリ、その他高潔な僧侶たちがおり、世俗の利害を捨て、一致団結して偉大な原則を守り、最後まで完全に保持した。

高潔な玄宗皇帝は寧王をはじめとする五人の王子を自ら招き、この吉祥の建物を視察させ、礼拝所を建立し、一時的に倒されていた聖なる木材を復元し 、 一時的に冒涜されていた聖石を再建した。

742年、偉大な将軍カウ・リズに、5枚の聖なる肖像画を送って教会に安置するよう命令が出され、これらの知恵の絵には100枚の絹が添えられていた。龍の髭は当時は遠く離れていたが、彼らの弓と剣はまだ手の届くところにあり、太陽の角は光線を放ち、天上の顔はすぐそばにあるように見えた。7

744年、シリア王国の僧侶キホは、星(中国)の方角を見つめ、その変容の力に惹かれ、スリ(すなわち皇帝)を観察し、最も高貴な皇帝に謁見するためにやって来た。皇帝は、僧侶ロハン、僧侶プーロン、その他七人、そして偉大な徳を持つキホと共に、興王宮で功徳を積むよう命じた。そこで皇帝は教会の壁に銘文を刻み、石碑には王室の銘文が刻まれた。集められた宝石は輝きを放ち、そのきらめきはルビー色の雲と競い合い、虚空に浮かぶ知恵の記録は太陽に反射して光線を放ち、豊かな贈り物は南の山々の高さを超え、恵みは東の海のように深かった。正しい原則の範囲を超えるものはなく、何が許されるかは特定できる。聖人の力ではどうにもならないことは何もなく、実行可能なことは何でも関係づけることができる。

有能で聡明な皇帝・蘇宗は、霊武とその他4か所の名高い教会を再建した。これにより大きな恩恵がもたらされ、幸福が増し始め、寛大さが示され、帝国が確立された。

卓越した武勇を誇る太宗皇帝は、神聖なる継承を重んじ、自然の潜在原理を尊びました。常に、受難日には天香を授け、功徳の儀式を命じ、皇帝の食糧を配給して、高名な会衆に栄光を授けました。天は恵みを惜しみなく与え、それによって生命の恩恵を広げます。聖人は徳の根源的な原理を体現し、それによって有害な影響を打ち消すことができるのです。

神聖で賢者のような、有能で軍事的な建宗皇帝は、8つの政府部門を定め、それによって賢い者と愚かな者を昇進させたり降格させたりしました。また、  9 つのカテゴリーを開放し、それによって輝かしい勅令を刷新しました。彼の変革的な影響力は最も難解な原理にまで及び、心の開放性が彼の信仰を際立たせました。このように、正しく拡大された原理の純粋さと、他者への共感における揺るぎない一貫性、多くの人々を苦しみから救い、周囲すべてに祝福を広める広範な同情によって、私たちの教義の育成は偉大な基盤を獲得し、漸進的な進歩によってその影響力が広まりました。風雨が適時であれば、世界は安寧し、人々は原理によって導かれ、卑しい事物は清らかになり、生きている者は安楽し、死者は喜ぶでしょう。思考は適切な反応を生み出し、感情は自由であり、目は誠実である。これこそが、我々高貴な宗教の信者が目指す、称賛に値する状態である。

我々の偉大な恩人、皇帝から紫のローブを授けられた司祭、8  I-sz' は、宴会場の名誉ある大政治家、北部地域の副次軍事委員、試験宮殿の監督官であり、生まれつき温厚で優雅な性格でした。彼の心は健全な教義を受け入れやすく、その遂行に勤勉でした。遠く離れたラージャグリハの都から、9 彼は中国を訪れた。彼の原則は三王朝の原則よりも高尚で、その実践はあらゆる分野で完璧であった。最初は宮廷に関する職務に専念し、やがて彼の名前は軍名簿に記された。第二大臣で樊陽王の高子公が最初に北方の軍を指揮したとき、蘇宗皇帝は彼(黎子)を旅の従者にした。彼は私的な侍従であったが、行軍中は特別な地位を取らず、公の爪と牙のように、軍を鼓舞する際には耳と目のように働いた。彼は与えられた富を分配し、私的に財宝を蓄積しなかった。彼は皇帝の恩恵によって与えられた宝石を奉納し、祈りのために金の絨毯を敷いた 。 今や彼は古い教会を修復し、すぐに宗教施設の数を増やした。彼は様々な建物を敬い飾り立て、まるで飛翔するキジの羽毛のようであった。さらに、彼は高貴な宗教の規律を実践し、その富を慈善行為に分け与えた。毎年、彼は4つの教会から聖職者を集め、敬意をもって50日間、彼らを清めと準備に従事させた。裸の者はやって来て服を着せられ、病人は手当てを受けて回復し、死者は安らかに埋葬された。最も清らかで自己否定的な仏教徒の間でさえ、このような卓越性は聞いたことがなかった。今、これらの人々を思い起こした高貴な会衆の白衣の会員たちは、彼らの寛大な行いを称えるために、大きな銘板を刻むことを望んだ。

オード。
真の主は起源を持たず、
深遠で、目に見えず、不変である。
完全化と変容の力と能力をもって、
主は地を隆起させ、天を確立した。

生まれながらにして分裂した彼は、限りなく救い、助けるためにこの世に生を受けた。
太陽が昇り、闇は払われ、
すべてが彼の真の起源を証しした。
栄光に満ち、輝かしく、偉業を成し遂げた皇帝は、
その理念は先代の君主たちの理念を受け継いでいた。
この機会を利用して、混乱を鎮め、
天は広がり、地は拡大した。
清らかで輝かしい高貴な宗教が
唐王朝に伝来し、
経典が翻訳され、教会が建てられ、
生者と死者のための船が動かされた。
こうしてあらゆる種類の祝福が得られ、
すべての王国は平和な状態を享受した。
カウツンが先祖伝来の領地を継承したとき、
彼は清らかな建造物を再建した。
調和の宮殿は大きく明るく、
国土の隅々まで覆っていた。
42ページ
真の教義は明確に宣言され、
教会の監督者たちは正式な手続きを経て任命された。
人々は幸福と平和を享受し、
すべての被造物は災難や苦難から免れた。
玄奘が聖なる道を歩み始めたとき、
彼は真理と正義の修養に励み、
彼の勅書は輝きを放ち、
天の書物は互いにその輝きを映し合った。
帝国の領土は豊かで栄え、
国土全体が崇高な敬意を捧げた。
あらゆる商売が繁栄し、
人々は皆、繁栄を享受した。
そして蘇宗が新たな時代を始め、
天上の威厳が皇帝の行進を彩った。
月の清らかな広がりのように神聖で、
幸福は夜のそよ風のように漂った。
幸福が皇室に戻り、
秋の気運はとうに去り、
騒乱は鎮まり、反乱は鎮圧され、
こうして我が王朝は堅固に築かれた。
孝行で公正な太宗は、
徳において天地と一体となった。
彼の寛大な遺贈によって人々は満たされ、
財産は救済をもたらす経路となった。
彼は芳しい記念品で
功績のある者に報い、慈悲深く施しを与えた。
太陽の凹面は威厳をもって現れ、
月の隠れ家は極めて美しく飾られた。
建忠が即位すると、
彼は聡明な徳の修養を始め、
その軍事的警戒は四海にまで及び、
その清廉潔白さはあらゆる国に影響を与えた。
43ページ
彼の光は人々の秘密を貫き、
彼にはあらゆるものの多様性が鏡に映るように見えた。
彼は自然界全体に活力を与える影響を与え、
すべての異国の民は彼を模範とした。
真の教義はなんと広大か!
その応答は微細で、
それを名付けるのはなんと難しいことか!
三つを一つにまとめるのは。
君主には行動する力がある!
大臣たちが記録する間、我々は偉大な幸福を称えるために
この高貴な記念碑を建立する。

これは唐の建中2年(西暦781年)の1月7日(日曜日)に建立された。

台州軍司教を務めた陸小厳が執筆。寧樹司教は東方高名教会の教区を管轄していた。

[シリア語の2行はエストランジェロ文字で書かれており、中国語の右側と左側にそれぞれ配置されている。キルヒャーはこれを次のように翻訳している。]

「アダム、助祭、司教代理、そして中国の教皇。
父祖の中の父、普遍の族長である主ヨハネ・ヨシュアの時代に。」

【石碑の足元にあるシリア語の碑文の翻訳は、キルヒャーの権威に基づいてここに掲載する。】

「ギリシャ暦1092年、トルキスタンの都市バラチの司祭で啓蒙されたマイラスの息子であり、王都クムダンの司祭兼司教代理であるヤゼドブジド卿は、この石板を設置した。この石板には、我々の救世主の啓示と、使徒的宣教師による中国王への説教が刻まれている。」

[この後、中国語で]

「霊坡僧侶」

[続いて:]

「ヤゼドブジドの息子、アダム助祭、司教代理。
セルギウス卿、司祭兼司教代理。44
ページ。
サバル・イエス、司祭。
ガブリエル、司祭、助祭長、クムダンとサラッグの教会長。」

【以下の購読文は中国語で添付されています】

「審査官補佐:聖なる儀式の最高位の政治家、皇帝から紫衣を授けられた首席長老兼司祭、イーリー。」

左端には67人の司祭のシリア語名が、残りの61人の司祭の名前は中国語で記されている。


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Inscription of the Nestorian Monument

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