2026年9月30日水曜日

邪馬台国は阿波だった!? “ヤマモトノタケルノミコト”が熱く語る「邪馬台国阿波説」(PR) - 地域創生SDGs情報メディア - ロコラバ -

邪馬台国は阿波だった!? “ヤマモトノタケルノミコト”が熱く語る「邪馬台国阿波説」(PR) - 地域創生SDGs情報メディア - ロコラバ -

邪馬台国は阿波だった!? “ヤマモトノタケルノミコト”が熱く語る「邪馬台国阿波説」(PR)

毎週日曜11時から13時まで、全国のコミュニティFM(一部地域を除く)を結んで放送している地域SDGs情報バラエティ『ロコラバ』。今回は3月26日放送の『地域人』のコーナーから、徳島県での町おこしの取り組みをご紹介します。

弥生時代、女王・卑弥呼が治めていたという「邪馬台国」。その所在地については未だ明確な答えは出ていませんが「九州説」「畿内説」が有力とされてきました。

そこへ一石を投じたのが徳島県徳島市。“卑弥呼の墓”と呼ばれる「八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)」など数々のパワースポットを有する徳島市は、「邪馬台国 阿波説」を掲げ、四国全体を盛り上げることに奮闘中です。

昨年は「邪馬台国は阿波だった!?」をテーマにしたご当地映画『少女H』も完成。謎多き古代の歴史、そして自然豊かな徳島の風景が広がる青春ファンタジー映画に仕上がりました。

今回は、徳島商工会議所 青年部で「邪馬台国は阿波だった!?」の広報担当として奔走中の「ヤマモトノタケルノミコト」こと、山本高弘(やまもと・たかひろ)さんにお話しを伺います。

「ヤマモトノタケルノミコト」こと、山本高弘(やまもと・たかひろ)さん

邪馬台国は阿波にあった!?

――山本高弘さんは、徳島のコミュニティFM局「エフエムびざん」で毎週火曜日、番組「邪馬台国は阿波だった!?」のパーソナリティも担当されています。山本さん、「邪馬台国は阿波だった!?」をキャッチコピーにした町おこしの活動についてお聞かせください。

邪馬台国の所在地は九州説や畿内説と、300年経った今もなお決着がついていません。けれど、阿波踊りで有名な徳島県には「魏志倭人伝」や「古事記」などに、「読めば読むほど阿波説が当てはまるのではないか?」という文献が数多く残されているんです。

たとえば、「延喜式神名帳(927年にまとめられた全国の神社一覧)」にも、 阿波は「古事記」の舞台となる伝承の神社がたくさん書かれてあります。それを知って「もっと声を大にして発信していこう」と思いました。私は歴史家ではありませんが、町を盛り上げるために勉強しながら活動しています。

――「卑弥呼フェス」というイベントも、開催されているそうですね。

そう名付けるのも頷ける理由があります。天皇陛下が変わる際に行われる儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」の最重要供物のひとつに、徳島県の阿波忌部(いんべ)家の一族が作る「麁服(あらたえ)」という麻の織物があります。大昔から供える品として知られ、現在は宮内庁から依頼を受けてお届けしています。脈々と続く歴史があり、天皇即位の際に最も重宝される供物を作るのが、阿波。そこで、メンバーと一緒にイベントのネーミングを考え、「『卑弥呼フェス』でいこう!」となりました。

“阿波説”を女子高生が検証する映画『少女H』

――徳島商工会議所 青年部が制作した、邪馬台国の阿波説を女子高生たちが検証する映画『少女H』。拝見して「邪馬台国は阿波にあったのかも」と思えましたし、青春映画としても完成度の高い作品でした。撮影は大変でしたか?

コロナ期間中の映画撮影だったので、短期間で行ったんです。6月は県をまたぐ往来が可能になり、東京都と徳島県でオーディションの募集をかけました。最終的に徳島県在住の学生3名が選ばれました。

――2022年12月、東京都目黒区でも上映されました。反響はいかがでしたか?

東京の目黒でも、たくさんの方に喜んでいただけました。「(阿波説に対して)そうだったのかもな」と思ってくださる方も増えましたね。

――映画では、卑弥呼にゆかりがあると思しきスポットがたくさん出てきました。卑弥呼のお墓ではないかといわれる「八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)」。こちらはどんな神社ですか?

とても歴史のある神社です。もともとは神社の位でいう「正一位」という、最高位でした。ある時期には五位に落とされていましたが、しばらくして正一位に戻されたという経緯があります。国府町矢野にある、山の裾野にある神社です。この神社の周りだけでも古墳が200基ほどあるんですよ。

――そんなに!?

私は勝手に「徳島の王家の谷」と呼んでおります(笑)。

――宮崎県には有名な神話が伝わる「天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)」がありますよね。太陽の神・アマテラスオオミカミが何もかも嫌になって洞窟に隠れてしまったところを、他の神々が宴会を設けて連れ出した、というもの。徳島県と宮崎県は海を挟んで近い場所にありますし、邪馬台国の阿波説は信憑性がありますね。

映画の最後のシーンで「アマノウズキ」が踊るシーンがありますが、実は「天岩戸伝説」になぞらえて、名前を少し変えて演出しました。映画では「天岩戸伝説」は徳島県だったというふうにしています。

米津玄師&鳴門海峡&徳島ラーメン!

――昨年末、徳島県出身の米津玄師さんが紅白歌合戦を地元の「大塚国際美術館」で歌いました。周りの反響はありましたか?

私の子どもは京都に住んでいるのですが、1月に友達を連れて帰ってきたので、「四国観光で行きたいとこ行こうか?」と聞いたら、井の一番に「 大塚国際美術館!」と言っていました(笑)。町に「米津さんが歌った」という案内看板もあって、多くの方から人気のスポットです。

――徳島県ではずせないのは「鳴門海峡」! 有名ですね。

鳴戸の渦潮は、船で渦を見られる観光スポットになります。外国人の観光客も多いです。

――グルメだと、「半田そうめん」というのがありますね。

半田そうめんは、歯ごたえがあるそうめんです。そのほかでは「徳島ラーメン」も人気ですよ。

――「徳島ラーメン」は、どんな特徴がありますか。

醤油とんこつで、ちょっと濃い目の味なんです。スープに生卵を落として、マイルドにして食べるのが特徴的です。私が太ったのは、徳島ラーメンを食べすぎたからです!(笑)

――あはは(笑)! 最後に、リスナーにメッセージをお願いします。

地元を発信するために『少女H』という映画を作らせていただきました。徳島商工会議所 青年部のホームページにYouTubeのリンクを貼っておきますので、ご興味のある方はご覧いただけると嬉しいです。皆さん、徳島にぜひ遊びに来てください!

***

(番組パーソナリティ 川久保さんコメント)
最初は「え、阿波説?」と思っていましたが、映画やお話を聞いて、「さもありなん……」と傾いてきました(笑)。

(番組パーソナリティ 横田さんコメント)
徳島県はパワースポットがすごく多いですし、おいしいものもたくさんありますので、ぜひ行きたいです!

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文・構成 = 池田アユリ
編集 = ロコラバ編集部

【海外の反応】「日本人は器具を並べるだけで石1つ磨かない」タージマハルの黄ばみに7カ国が失敗…日本の6名が2年測り続けて出した衝撃の結末とは?https://youtu.be/OXAD6oUjhK4?si=IysrBr6UHsVR7FkU

高知城へ行くと三の丸で長宗我部時代の石垣を一部掘り返してあって見ることが出来ます。麓に銅像のある岡豊(おこう)城跡には坂本龍馬の小説…

高知城へ行くと三の丸で長宗我部時代の石垣を一部掘り返してあって見ることが出来ます。麓に銅像のある岡豊(おこう)城跡には坂本龍馬の小説『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)で知られる坂崎紫瀾(さかざきしらん)による顕彰碑があります。その近くにある(銅像もここにある)高知県立歴史民俗資料館の展示では長宗我部氏が長野県から来た秦氏の系譜であると紹介されています。長野は物部が逃げ込んだ場所なので秦氏と物部氏は最初から新旧渡来系として繋がっていたのではと推察します。坂本龍馬が長宗我部系とは断言できませんが人脈的には繋がっていたでしょう。そうなると本能寺から明治維新及びその後の自由民権運動(坂崎は自由民権運動家だった)まで繋がる原動力みたいなものが高知にあると言うことになります。 自分は阿波を日本の古代史の発祥の地と考えていて、その研究者界隈で悪役になることの多い蜂須賀氏はかなり多くのことを知っていて、特にキリシタンになったとされる家政が重要と考えています。 <https://youtu.be/b90RbTTEDoM?si=AqJ2FbXg45vBjaUh> https://youtu.be/b90RbTTEDoM?si=AqJ2FbXg45vBjaUh <https://youtu.be/b90RbTTEDoM?si=AqJ2FbXg45vBjaUh> https://www.youtube.com/live/DYADzYfKdUE?si=yOV6kLUwd8bEpI33 <https://www.youtube.com/live/DYADzYfKdUE?si=yOV6kLUwd8bEpI33> ANYAチャンネル ライブ配信 https://www.youtube.com/live/DYADzYfKdUE?si=QpqhcoAuQe7NOOxm @YouTubeより 2026年9月30日 参考: 10:00 推理作家高木彬光氏も壱岐から東に向かったと考えています(高木彬光『邪馬台国の秘密』『邪馬台国推理行』)。夏の風向きを考えるとそれが合理的らしいです。帆船があったという仮定をしています。ただし高木彬光氏は邪馬台国宇佐説です。 宗像=末蘆説を固める材料として、神湊近くの福津市勝浦にある年毛神社に伝わる「永島文書」という古文書に「この辺りは昔は万津浦(まつうら)と呼ばれていた」という記述があったと、「ムー」の2001年11月号で取り上げられています。 20:15 甕棺墓は当時、朝鮮半島南部の伽耶国に見られ、北九州西部はこの辺りと文化的に繋がっていたと考えられます。 伽耶には西暦48年?にインドから来た御后、許黄玉(ホ・ファンオク)とともに製鉄技術が伝えられたと言う説が近年有力です(その第七王子が倭国に渡来したという説もあります)。 当時のインドは帆船がすでにあったようです。 10:00 推理作家高木彬光氏も壱岐から東に向かったと考えています(高木彬光『邪馬台国の秘密』『邪馬台国推理行』)。夏の風向きを考えるとそれが合理的らしいです。帆船があったという仮定をしています。ただし高木彬光氏は邪馬台国宇佐説です。 宗像=末蘆説を固める材料として、神湊近くの福津市勝浦にある年毛神社に伝わる「永島文書」という古文書に「この辺りは昔は万津浦(まつうら)と呼ばれていた」という記述があったと、「ムー」の2001年11月号で取り上げられています。 20:15 甕棺墓は当時、朝鮮半島南部の伽耶国に見られ、北九州西部はこの辺りと文化的に繋がっていたと考えられます。 伽耶にはインドから来た御后、許黄玉(ホ・ファンオク)とともに製鉄技術が伝えられたと言う説が近年有力です(その第七王子が倭国に渡来したという説もあります)。 当時のインドは帆船がすでにあったようです。 10:00 推理作家高木彬光氏も壱岐から東に向かったと考えています(高木彬光『邪馬台国の秘密』『邪馬台国推理行』)。夏の風向きを考えるとそれが合理的らしいです。帆船があったという仮定をしています。ただし高木彬光氏は邪馬台国宇佐説です。 宗像=末蘆説を固める材料として、神湊近くの福津市勝浦にある年毛神社に伝わる「永島文書」という古文書に「この辺りは昔は万津浦(まつうら)と呼ばれていた」という記述があったと、「ムー」の2001年11月号で取り上げられています。 甕棺墓は当時、朝鮮半島南部の伽耶国に見られ、北九州西部はこの辺りと文化的に繋がっていたと考えられます。 伽耶にはインドから来た御后、許黄玉(ホ・ファンオク)とともに製鉄技術が伝えられたと言う説が近年有力です(その第七王子が倭国に渡来したという説もあります)。 当時のインドは帆船がすでにあったようです。 <https://note.com/firm_lion4229/n/nebbb82a5428f> 伊都国へ届いたか甕棺・支石墓が語る古代倭の知られざる血脈 <https://note.com/firm_lion4229/n/nebbb82a5428f> <https://note.com/firm_lion4229/n/nebbb82a5428f> note <https://note.com/firm_lion4229/n/nebbb82a5428f> https://note.com>人物・社会>学者・文化人 <https://note.com/firm_lion4229/n/nebbb82a5428f> 2025/12/5 -伽耶王家の血脈は、甕棺・支石墓・鉄器文化・伊都国 という複数の証拠を通して、日本列島に深く根を下ろしている。 インドの王女から始まった物語は、海を ... 日本はいつできましたか? <https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14331447939?__ysp=5paw576FIOeUleajuuWikyDlm5vku6Pnm64g5pel5pys5Lq6> https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14331447939?__ysp=5paw576FIOeUleajuuWikyDlm5vku6Pnm64g5pel5pys5Lq6 <https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14331447939?__ysp=5paw576FIOeUleajuuWikyDlm5vku6Pnm64g5pel5pys5Lq6> ヤマト政権 <https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&rkf=1&slfr=1&qrw=0&p=%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E6%94%BF%E6%A8%A9&fr=link_kw_cbr_direct&fr2=cid_14331447939>できたのは本当に3世紀後半なのか? 三国史記の記載では新羅の神話で倭人が出ます 初代の王はほのめかしですが4代目はズバリ倭人の王 >朝鮮の歴史書『三国史記』には、新羅の第4代王である脱解尼師今 <https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&rkf=1&slfr=1&qrw=0&p=%E8%84%B1%E8%A7%A3%E5%B0%BC%E5%B8%AB%E4%BB%8A&fr=link_kw_cbr_direct&fr2=cid_14331447939>(だっかいにしきん)や、建国期の重臣である瓠公 <https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&rkf=1&slfr=1&qrw=0&p=%E7%93%A0%E5%85%AC&fr=link_kw_cbr_direct&fr2=cid_14331447939>(ここう)が「倭人」であったと記されています。 新羅の王と倭人の関係 脱解尼師今(第4代王): 『三国史記』によると、多婆国(または竜城国)出身で、東方から海を渡ってきたとされ、同書や研究において倭人伝承を持つ王として知られています。 瓠公(ここう): 新羅の建国初期から諸王に仕えた有力な重臣で、首にひょうたを下げて海を渡ってきた元・倭人と伝えられています。初期の外交・衝突: 2世紀から3世紀にかけて、新羅と倭人の間では国境の侵犯や首都への侵入などの争いがあった一方で、親交や人質・王子の往来など複雑な交流の記録も残されています。 wiki <https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&rkf=1&slfr=1&qrw=0&p=wiki&fr=link_kw_cbr_direct&fr2=cid_14331447939>より 新羅の王 初代は赫居世居西干 <https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&rkf=1&slfr=1&qrw=0&p=%E8%B5%AB%E5%B1%85%E4%B8%96%E5%B1%85%E8%A5%BF%E5%B9%B2&fr=link_kw_cbr_direct&fr2=cid_14331447939>(紀元前69年)で朴氏の祖先。 朴は瓢から来たもの。 だから初代の王が実は瓢公で倭人とする説がある 新羅の3大王族は全て倭人と関係してる。 朴氏 祖先は初代 赫居世居西干(=瓢公?) 昔氏 祖先は4代目の脱解尼師今(紀元前19年) 金氏 金閼智 <https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&rkf=1&slfr=1&qrw=0&p=%E9%87%91%E9%96%BC%E6%99%BA&fr=link_kw_cbr_direct&fr2=cid_14331447939> (神話で瓢公が出てくる) ●紀元前の時点で倭人が深く古代朝鮮 <https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&rkf=1&slfr=1&qrw=0&p=%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%9C%9D%E9%AE%AE&fr=link_kw_cbr_direct&fr2=cid_14331447939>の王族と関係している。 広開土王 <https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&rkf=1&slfr=1&qrw=0&p=%E5%BA%83%E9%96%8B%E5%9C%9F%E7%8E%8B&fr=link_kw_cbr_direct&fr2=cid_14331447939>碑 414年 >399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向い >『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣 <https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&rkf=1&slfr=1&qrw=0&p=%E6%9C%AA%E6%96%AF%E6%AC%A3&fr=link_kw_cbr_direct&fr2=cid_14331447939>を質となす」と新羅が倭へ人質を送っていた記録等があり、他の史料と碑文の内容がほぼ一致しているところが見られる。 >倭が海を渡って百済や新羅を臣民とした >2011年に発見された職貢図新羅題記にも「或屬倭(或る時は倭に属していた)」 日本書紀とかにも朝鮮半島南部 <https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&rkf=1&slfr=1&qrw=0&p=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E5%8D%97%E9%83%A8&fr=link_kw_cbr_direct&fr2=cid_14331447939>を支配してたり、朝鮮諸国が服属してたという記載ある。 物証として半島から前方後円墳が多く発見されておりそれは古代朝鮮最大の墓。 古墳の木棺は日本産の高野槙やクスノキを使ってる。 と、各国の歴史書の記述と前方後円墳という大きな物証が昔朝鮮半島を倭が支配してたことを示している。 その当時の倭は、『今の日本で全国とは言えないまでも広範囲に支配してた規模の倭』だとすればヤマト政権が3世紀後半でなくもっと前にできていた。 日本成立はもっと昔でないですか?

鉄の遺伝子 ― 伽耶王家は海を渡り、伊都国へ届いたか甕棺・支石墓が語る古代倭の知られざる血脈|海野庚信/神話を科学する 歴史の旅

鉄の遺伝子 ― 伽耶王家は海を渡り、伊都国へ届いたか甕棺・支石墓が語る古代倭の知られざる血脈

鉄の遺伝子 ― 伽耶王家は海を渡り、伊都国へ届いたか甕棺・支石墓が語る古代倭の知られざる血脈

見出し画像

■ 序章

紀元1世紀、朝鮮半島南部に興った小王国・金官伽耶(きんかんがや)。
そこに即位した金首露王と、はるかインドから海を越えてきた王女・許黄玉(ホ・ファンオク)。
この“異国の王妃が伽耶王家に入った”という物語は、単なる伝承にとどまらない。

彼らの子孫は半島を越え、海を渡り――
倭国の中心地・伊都国(いとこく)へ、そして日本列島全体へと流れ込んだのではないか。

その痕跡となるのが、
甕棺墓、支石墓、鉄器文化、海上交易ネットワーク。

1. 伽耶王家の始まり――インド王女がやってきた紀元42年

金首露王のもとへ渡来したインド王女・許黄玉。
伝承では、彼女は海の向こうから護られ導かれ、伽耶に到着したと語られる。

そして二人の間には十人の王子が生まれ、その血脈は半島全体へ広がり、
やがて 倭国に渡来した「第七王子」 の存在が語られる。

→ この“第七王子渡来説”こそ、後の日本列島に見られる 伽耶系・鉄の民の広がり を説明する鍵である。

2. 甕棺と支石墓――伽耶と倭をつなぐ古代の証拠

■ 伽耶の墓制

伽耶地域では、

  • 甕棺墓(巨大な壺に遺体を収める)

  • 支石墓(ドルメン・巨石を屋根状に乗せた墓)
    が支配層の埋葬として広く分布している。

これらは王族・鉄生産集団の墓と考えられている。

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甕棺
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支墓石

■ 日本列島の甕棺墓

九州北部、とくに

  • 糸島(伊都国)

  • 福岡平野

  • 唐津・佐賀
    には伽耶の甕棺墓と酷似した墓が大量に出土しており、伽耶系渡来民の直接的な痕跡 とされる。

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甕棺エリア

■ 日本の支石墓

北部九州には支石墓も多く、
伽耶~倭の古代海上文

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支墓石エリア

化圏が同じ埋葬スタイルを共有していたことがわかる。

→ 墓の形は“文化のDNA”

伽耶と倭の墓が同じということは、人が移動し、文化を持ち込んだ“動いた証拠” に他ならない。

3. 伊都国 ― 倭国の玄関であり伽耶の影が最も強く残る場所

魏志倭人伝に登場する 伊都国(いとこく) は、倭国の中でも特別な地位を持っていた。

「倭国の王は伊都国の官をもって国中を統治する」

魏志倭人伝

伊都国は単なる地方都市ではなく、海外との窓口・外交港・交易の中心である。

■ ここに伽耶文化の痕跡が集中する

  • 伽耶式の甕棺

  • 朝鮮半島と同じ青銅器の型式

  • 鉄器・鉄斧

  • 半島系の装飾品

  • 弥生時代の大型環濠集落

これらはまさに、“伽耶の民が伊都国へ入ってきた” と考えるのが自然なほど一致する。

4. 第七王子と「鉄の民」の渡来 ― 倭国の鉄文化の起源

伽耶は古代東アジアでも屈指の鉄生産国家だった。
その技術を使いこなし、鉄を輸出し、海を自由に渡った“海の民”である。

■ 第七王子が倭国に来たという伝承

これは単なる神話ではない。

鉄器、鍛冶技術、武器、祭祀具――これらが一気に日本列島へ流入し始めたタイミングと合致する。

さらに、

  • 宗像

  • 糸島(伊都国)

  • 玄界灘沿岸

  • 丹後

  • 出雲
    など「海民の信仰」が強い地域に、伽耶系文化の痕跡が集中している。

→ “鉄の遺伝子”は伊都国を入口に、

大和政権の形成期へ流れ込んだ可能性が高い。

5. 甕棺と支石墓が語る「海の王国ネットワーク」

伽耶~伊都国~出雲~北九州~丹後
これらの地域に共通するものは、海上交易・鉄・墓制・王権祭祀。

これは偶然ではない。

甕棺と支石墓は、古代の“文化の航路図”であり、
“伽耶の血”がどこまで届いたのかを示す地図でもある。

伽耶王家と倭国の交流は、
日本列島の文明形成の核心に触れるテーマとなる。

■ 結論

伽耶王家の血脈は、甕棺・支石墓・鉄器文化・伊都国 という複数の証拠を通して、日本列島に深く根を下ろしている。

インドの王女から始まった物語は、海を越え、伽耶を経由し、伊都国へ。
そして日本の古代史の中心へとつながっていく。

2026年9月26日土曜日

イギリスで人気の日本大使、イギリス唯一の「サムライ」の洗礼地を訪問 - BBCニュース

イギリスで人気の日本大使、イギリスただ一人の「サムライ」の洗礼地を訪問

イギリスで人気の日本大使、イギリスただ一人の「サムライ」の洗礼地を訪問

イングランド教会の教会の中で、スーツ姿の鈴木大使がインタビューに答えている
鈴木浩・在英日本大使の訪問先はイギリスで注目の的だ

この記事は約 3 分で読めます

日本の鈴木浩・駐イギリス大使は24日、17世紀に日本に漂着した後、イギリス人で唯一「サムライ」となったウィリアム・アダムスが洗礼を受けた教会を訪れた。

この日はアダムスの洗礼記念日。アダムスは1564年9月24日、英イングランド南東部ジリンガムにあるキリスト教イングランド教会の聖メアリー・マグダレン教会で洗礼を受けた。

その後、航海中に日本に漂着したアダムスは、日本の将軍に取り立てられ、武士の身分を得ることになる。

鈴木大使は、「パイオニア精神の素晴らしい話だ」として、「その結果として現在、日本人とイギリス人の間に心から心へと通じ合う、本当に深い思いとつながりが生まれていることを、私はとても嬉しく思う」と話した。

イギリスでは2024年の着任以来、鈴木大使がイギリス各地を訪問した際の写真や動画がソーシャルメディアで話題となっている。

2025年1月には、ウェールズの国旗と日本の国旗、そして赤いドラゴンを手に持ちながら、ウェールズ語のウェールズ国歌「我が父祖の土地」を歌う動画を公開した。

同年9月にイングランド北部マンチェスターを訪問した際には、ボッディントンズ・ビールを贈呈されると、それを一気に飲み干して「バイ・エック、最高だ!」と叫んだ。これは、このビールの1990年代のテレビ広告で用いられていたキャッチフレーズを引用したもの。

日英の最初の橋渡し

西洋の帆船の甲板に日本の武士たちと西洋の船乗りたちが集まっている。中央ではアダムスが家康に握手の手を伸ばしている

Getty Images

ウィリアム・アダムスが時の将軍・徳川家康に会った時の様子を描いたイラスト

アダムスは当初、造船工としてチャタムで働いていた。その後、オランダのリーフデ号に乗り込んで極東へと航海したが、1600年に日本に漂着した。当時のイギリスはエリザベス1世の治世で、アダムスは日本に到達した最初のイギリス人だった。

一方の日本では、徳川家康が将軍となり、江戸幕府を開いたばかりだった。造船、航海、砲術でのアダムスの技量に感銘を受けた家康は、アダムスを顧問として雇い入れ、旗本に取り立てた。また、「三浦按針」という名乗りを与えた。

アダムスはその後、日英関係の中で独自の役割を果たした。ジェイムズ1世と家康の間の仲介役となり、イギリスの東インド会社が日本に商館を設置するきっかけを作った。

アダムスの物語は、1975年のジェイムズ・クラヴェル作小説「将軍」の着想につながった。小説は1980年にアメリカでテレビドラマ化され、リチャード・チェンバレンや三船敏郎が出演した。「SHOGUN 将軍」は真田広之主演でリメイクされ、2024年から放送されている。

ジリンガムがあるメドウェイ地区では、青少年交流プログラム「メドウェイ日本友好協会」が設立された。同協会からは毎年夏、日英の学生4人ずつが交換留学している。

公園の道端に石造りの時計塔が立っている

Google

ジリンガムには1934年、アダムスを記念した砂岩の時計塔が建てられた

しかし、ウィリアム・アダムス協会のニコラス・マクリーン名誉会長は、アダムスは全く違う運命をたどる可能性もあったと話す。

「アダムスが参加したオランダ船団では、リーフデ号だけが生き延び、他の船は難破した」と、マクリーン氏は述べた。

「日本に漂着した後も、プロテスタントのスパイだと非難され、処刑される危険が極めて高かった。(カトリック教会の)イエズス会の思惑通りにいけば、そうなっていただろう」

「実際にはそうはならず、代わりにアダムスは将軍の顧問を20年近く務めた」

2026年9月13日日曜日

境内での撮影やダンス等に関する福島八幡宮の見解と方針 | 【公式】福島八幡宮WEBサイト

撥子(ばちこ)

 懐石小室の4月のお椀は、撥子(ばちこ)と菜花を添えた海老糝薯(しんじょう)の澄まし仕立てです。撥子は、海鼠(なまこ)の卵巣を塩漬けして干し上げた春を代表する珍味。「最近はウニに代表されるような分かりやすい豪華さ、おいしさがもてはやされて、撥子のような『分かりにくい味の魅力』が理解されにくくなりました。手をかけてつくる生産者が減り、ますます希少で高価になっています」と小室さん。とくにこの撥子は、小室さんが長年淡路島でつくってもらっているもの。肉厚で塩加減が程よく、噛みしめると濃厚な磯の香りがします。舌に残るうまみの余韻が酒を呼びます。

https://www.umai-mon.com/user/collection/234



エリス (ギリシア神話) - Wikipedia

エリス (ギリシア神話)
エリス
Ἔρις
争い・不和の女神
親 ニュクス
兄弟 モロス, ケール, タナトス, ヒュプノス, モーモス, オネイロス, ヘスペリデス, モイラ, ネメシス、アパテー, ピロテース, ゲーラス
子供 ポノス, レーテー, リーモス(英語版), アルゴス, ヒュスーミネー, マケー, ポノスたち, アンドロクタシアー, ネイコス, プセウドス, ロゴス, デュスノミアー, アーテー, ホルコス
ローマ神話 ディスコルディア
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エリス(古希: Ἔρις、古代ギリシア語ラテン翻字: Eris)は、ギリシア神話の争いと不和の女神である[1]。殺戮の女神エニューオーと同一視される。ローマ神話のディスコルディア(Discordia)に相当する[1]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B9_(%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%A5%9E%E8%A9%B1)

エリス (ギリシア神話)

教訓譚

ヘーシオドスは教訓詩『仕事と日々』の中で、二種のエリスについて書いている。片方は忌まわしい戦いと抗争を蔓延させる残忍なエリスだが、もう片方はニュクスが生んだ長女であり、怠け者も相手への羨望によって切磋琢磨する闘争心を掻き立てる、益のある「善きエリス」がいるとした[7]。

エリスは『イソップ寓話』にも不和や争いの寓意として登場している。ヘーラクレースが旅をしていると、狭い道に林檎に似たものが落ちているのを見て踏み潰そうとした。しかしそれは倍の大きさに膨れ、もっと力を入れて踏みつけ棍棒で殴ると、さらに大きく膨れ上がって道を塞いでしまった。呆然と立ちつくすヘーラクレースのもとにアテーナーが現れて言った。「およしなさい、それはアポリア(困難)とエリス(争闘)です。相手にしなければ小さいままですが、相手にして争うと大きく膨れ上がるのです」[8]。

アントーニーヌス・リーベラーリス『変身物語集』では、パンダレオースの娘アエードーンと大工ポリュテクノスは仲の良い夫婦だったが「ゼウスとヘーラーよりも深く愛し合っている」と自慢したためヘーラーの怒りを買い、エリス(夫婦の不和)を送り込まれた[9]。

『イーリアス』

トロイア側で激昂するアレースとアカイア側で鼓舞するアテーナーの二神の戦いに、恐怖デイモスと敗走ポボス、アレースの妹であり戦友のエリスが加わる。女神は飽くこと無く猛り狂い、両軍の兵士たちに敵意を吹きこみ、普段は小柄だが争いが膨らめば大地に足をつきながら頭は天にとどくほど巨大な姿になり、軍勢の中を駆け巡った[2]。

3日目の早朝ゼウスはエリスに「戦いの兆し」を持たせ、女神はアカイア軍の船に立ち、すさまじい大声で雄叫びを上げると、兵士たちは闘争心と不屈の気力が湧き、戦いを好むようになり、アカイアとトロイア両軍の荒れ狂う戦闘を見てエリスは大いに喜んだ[11]。

またアテーナーが纏うアイギスの姿の描写に、総が垂れ、縁には「ポボス(敗走)」が取り巻き、表には「エリス(争い)」「アルケ(武勇)」「イオケ(追撃)」に怪物ゴルゴーンの首がある[12]。ヘーパイストスが作ったアキレウスの盾にも、人間どもの激しい闘いに「エリス(争い)」と「キュドイモス(乱闘)」と「ケール(死)」といった神々が参戦する様が描かれている[13]。

これに似たものにウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』があり、ヘーパイストス(ウゥルカーヌス)はアプロディーテー(ウェヌス)の息子アイネイアースのために盾を作るが、その盾の表にアレース(マールス)とエリーニュスたちと共に、裂けた衣を纏ったエリスと、その後ろに女神ベローナが血色の鞭を持って従い、戦闘のただ中で荒れ狂う姿が描かれている[14]。

エリス (ギリシア神話) - Wikipedia

エリス (ギリシア神話)

エリス (ギリシア神話)

教訓譚

ヘーシオドスは教訓詩『仕事と日々』の中で、二種のエリスについて書いている。片方は忌まわしい戦いと抗争を蔓延させる残忍なエリスだが、もう片方はニュクスが生んだ長女であり、怠け者も相手への羨望によって切磋琢磨する闘争心を掻き立てる、益のある「善きエリス」がいるとした[7]。

エリスは『イソップ寓話』にも不和や争いの寓意として登場している。ヘーラクレースが旅をしていると、狭い道に林檎に似たものが落ちているのを見て踏み潰そうとした。しかしそれは倍の大きさに膨れ、もっと力を入れて踏みつけ棍棒で殴ると、さらに大きく膨れ上がって道を塞いでしまった。呆然と立ちつくすヘーラクレースのもとにアテーナーが現れて言った。「およしなさい、それはアポリア(困難)とエリス(争闘)です。相手にしなければ小さいままですが、相手にして争うと大きく膨れ上がるのです」[8]。

アントーニーヌス・リーベラーリス『変身物語集』では、パンダレオースの娘アエードーンと大工ポリュテクノスは仲の良い夫婦だったが「ゼウスとヘーラーよりも深く愛し合っている」と自慢したためヘーラーの怒りを買い、エリス(夫婦の不和)を送り込まれた[9]。

『イーリアス』

トロイア側で激昂するアレースとアカイア側で鼓舞するアテーナーの二神の戦いに、恐怖デイモスと敗走ポボス、アレースの妹であり戦友のエリスが加わる。女神は飽くこと無く猛り狂い、両軍の兵士たちに敵意を吹きこみ、普段は小柄だが争いが膨らめば大地に足をつきながら頭は天にとどくほど巨大な姿になり、軍勢の中を駆け巡った[2]。

3日目の早朝ゼウスはエリスに「戦いの兆し」を持たせ、女神はアカイア軍の船に立ち、すさまじい大声で雄叫びを上げると、兵士たちは闘争心と不屈の気力が湧き、戦いを好むようになり、アカイアとトロイア両軍の荒れ狂う戦闘を見てエリスは大いに喜んだ[11]。

またアテーナーが纏うアイギスの姿の描写に、総が垂れ、縁には「ポボス(敗走)」が取り巻き、表には「エリス(争い)」「アルケ(武勇)」「イオケ(追撃)」に怪物ゴルゴーンの首がある[12]。ヘーパイストスが作ったアキレウスの盾にも、人間どもの激しい闘いに「エリス(争い)」と「キュドイモス(乱闘)」と「ケール(死)」といった神々が参戦する様が描かれている[13]。

これに似たものにウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』があり、ヘーパイストス(ウゥルカーヌス)はアプロディーテー(ウェヌス)の息子アイネイアースのために盾を作るが、その盾の表にアレース(マールス)とエリーニュスたちと共に、裂けた衣を纏ったエリスと、その後ろに女神ベローナが血色の鞭を持って従い、戦闘のただ中で荒れ狂う姿が描かれている[14]。