2026年10月8日木曜日

康熙の暦獄 (1659~1665)

 暦獄

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列傳五十九

湯若望楊光先南懷仁

湯若望

湯若望,初名約翰亞當沙耳,姓方白耳氏,日耳曼國人。明萬曆間,利瑪竇挾天算之學入中國,徐光啟與遊,盡其術。崇禎初,日食失驗,光啟上言:「台官用郭守敬法,歷久必差,宜及時修正。」莊烈帝用其議,設局修改曆法,光啟為監督,湯若望被徵入局掌推算。光啟卒,以李天經代,奏進湯若望所著書及𢗝星屏障。迭與台官測日食,候節氣,並考定置閏先後,湯若望術輒驗。莊烈帝知西法果密,欲據以改大統術,未行而明亡。

順治元年,睿親王多爾袞定京師,是歲六月,湯若望啟言:「臣於明崇禎二年來京,用西洋新法釐正舊曆,制測量日月星晷、定時考驗諸器。近遭賊毀,擬重製進呈。先將本年八月初一日日食,照新法推步。京師日食限分秒並起復方位,與各省所見不同諸數,開列呈覽。」王命湯若望修正曆法。七月,禮部啟請頒歷,王言:「治歷明時,帝王所重。今用新法正歷,以敬迓天休,宜名 時憲歷,用稱朝廷憲天乂民之至意。自順治二年始,即用新歷頒行天下。」湯若望復啟言:「敬授人時,全以節氣交宮,與太陽出入、晝夜時刻為重。今節氣、日時、刻分與太陽出入、晝夜時刻,俱照道里遠近推算,增加歷首,以協民時,利民用。」王獎其精確。八月丙 辰朔,日有食之。王令大學士馮銓與湯若望率欽天監官赴觀像台測驗,惟新法吻合,大統、回回二法時刻俱不協。

世祖定鼎京師,十一月,以湯若望掌欽天監事。湯若望疏辭,上不許。又疏請別給敕印,而以監印繳部,謂治歷之責,學道之志,庶可並行不悖,上亦不許。並諭湯若望遵旨率屬精修曆法,整頓監規,如有怠玩侵紊,即行參奏。加太僕寺卿,尋改太常寺卿。十年三月,賜號通玄教師,敕曰:「國家肇造鴻業,以授時定歷為急務。羲和而後,如漢洛下閎、張衡,唐李淳風、僧一行,於曆法代有損益。元郭守敬號為精密,然經緯之度,尚不能符合天行,其後晷度遂以積差。爾湯若望來自西洋,精於象緯,閎通曆法。徐光啟特薦於朝,一時專家治歷如魏文魁等,實不及爾。但以遠人,多忌成功,終不見用。朕承天眷,定鼎之初,爾為朕脩大清時憲歷,迄於有成。又能潔身持行,盡心乃事。今特錫爾嘉名,俾知天生賢人,佐佑定歷,補數千年之闕略,非偶然也。」旋復加通政使,進秩正一品。

欽天監舊設回回科,湯若望用新法,久之,罷回回科不置。十四年四月,革職回回科秋官正吳明炫疏言:「臣祖默沙亦黑等一十八姓,本西域人。自隋開皇己未,抱其歷學,重譯來朝,授職歷官,歷一千五十九載,專管星宿行度。順治三年,掌印湯若望諭臣科,凡日月交食及太陰五星陵犯、天象佔驗,俱不必奏進。臣察湯若望推水星二八月皆伏不見,今於二月二十九日仍見東方,又八月二十四日夕見,皆關象佔,不敢不據推上聞。乞上復存臣科,庶絕學獲傳。」並上十四年回回術推算太陰五星陵犯書,日月交食、天象佔驗圖像。別疏又舉湯若望舛謬三事:一、遺漏紫炁,一、顛倒觜參,一、顛倒羅計。八月,上命內大臣愛星阿及各部院大臣登觀像台測驗水星不見,議明炫罪,坐奏事詐不以實,律絞,援赦得免。

康熙五年,新安衛官生楊光先叩閽進所著摘謬論、選擇議,斥湯若望新法十謬,並指選擇榮親王葬期誤用洪範五行,下議政王等會同確議。議政王等議:「歷代舊法,每日十二時,分一百刻,新法改九十六刻。康熙三年立春候氣,先期起管,湯若望妄奏春氣已應參、觜二宿,改調次序,四餘刪去紫炁。天祐皇上,歷祚無疆,湯若望祗進二百年曆。選榮親王葬期不用正五行,反用洪範五行,山嚮年月俱犯忌殺,事犯重大。湯若望及刻漏科杜如預、五官挈壺正楊宏量、歷科李祖白、春官正宋可成、秋官正宋發、冬官正硃光顯、中官正劉有泰皆凌遲處死;故監官子劉必遠、賈文鬱、可成子哲、祖白子實、湯若望義子潘盡孝皆斬。」得旨,湯若望效力多年,又復衰老,杜如預、楊宏量勘定陵地有勞,皆免死,並令覆議。議政王等覆議,湯若望流徙,餘如前議。得旨,湯若望等並免流徙,祖白、可成、發、光顯、有泰皆斬。自是廢新法不用。

聖祖既親政,以南懷仁治理曆法,光先坐譴黜,復用新法。時湯若望已前卒,复通微教師封號,視原品賜卹,改「通玄」曰「通微」,避聖祖諱也。

列伝五十九

湯若望・楊光先・南懐仁

湯若望

湯若望(アダム・シャール)は、名はヨハン・アダム・シャール、姓はフォン・ベル(von Bell)氏、ドイツ人である。明の万暦年間、マテオ・リッチが天文学・数学の知識を携えて中国に入ると、徐光啓は彼と交わり、その術をことごとく学んだ。崇禎帝の即位当初、日食の予報が外れるという事態が生じ、徐光啓は上奏して言った。「天文台の役人は郭守敬の法を用いていますが、長い年月を経て必ずや誤差が生じています。早急に修正すべきです」。崇禎帝はその意見を採用し、暦法を改めるための局を設置した。徐光啓が監督となり、湯若望はその局に招かれて推算の任に当たった。徐光啓の死後、李天経が後任となり、湯若望の著書や星図・観測機器を朝廷に献上した。天文台の役人たちと日食の観測や二十四節気の確認、閏月の配置などを繰り返し行ったが、湯若望の計算は常に正確であった。崇禎帝は西洋の暦法が極めて精密であることを理解し、それに基づいて従来の「大統暦」を改めようとしたが、実行に移す前に明は滅亡した。

順治元年、睿親王ドルゴンが北京を平定した。その年の六月、湯若望は次のように申し出た。「臣は明の崇禎二年に北京へ参り、西洋の新法を用いて旧暦を正し、日月星辰の観測や時刻測定のための機器を製作いたしました。近頃、賊によってそれらが破壊されましたので、改めて製作し献上したいと存じます。まずは本年八月一日の日食について、新法に基づき計算を行いました。北京における日食の時刻・規模・方位、および各省での観測結果との相違点などを一覧にして提出いたします」。親王は湯若望に暦法の修正を命じた。 7月、礼部が暦の頒布を上奏すると、王は次のように述べた。「暦を治め時を明らかにすることは、帝王が重んじる務めである。今、新法を用いて暦を正し、天の恵みを恭しく迎え入れるにあたり、これを『時憲暦』と名付け、天の法に則り民を治めるという朝廷の至誠を示すものとしたい。順治2年より、この新暦を天下に頒布する。」湯若望はさらに上奏して言った。「民に時を授けるにあたっては、節気や宮(黄道十二宮)の推移、および太陽の出没や昼夜の時刻を重視すべきです。今般、節気・日時・刻分を太陽の出没や昼夜の時刻と照らし合わせ、各地の距離(道里)に応じて推算し、暦首(暦の起算点)を調整することで、民の生活する時と合致させ、その利用に資するようにいたしました。」王はその精緻さを称賛した。8月丙辰の朔日、日食があった。王は大学士の馮銓と湯若望に命じ、欽天監の官員を率いて観象台で観測を行わせたところ、新法のみが実測と合致し、大統暦・回回暦の時刻はいずれも不一致であった。

世祖が京師(北京)に都を定めた後、11月、湯若望を欽天監の長官に任じた。湯若望は上奏して辞退を求めたが、皇帝はこれを許さなかった。さらに彼は、別に勅印を給付し、欽天監の公印は礼部に返納することを求めた。暦を治める責任と、道を修める志を両立させたいと考えたからであるが、皇帝はこれも許さなかった。そして湯若望に対し、勅命を遵守して部下を率い、暦法の精緻化と監内の規律の整備に努めるよう命じ、もし怠慢や不正があれば直ちに弾劾・上奏するよう言い渡した。彼は太僕寺卿に加えられ、まもなく太常寺卿に転任した。順治10年3月、「通玄教師」の号を賜った際の勅書には、次のようにある。「国家が偉業を興すにあたり、時を授け暦を定めることは急務である。羲和(ぎわ)の時代より後、漢の落下閎・張衡、唐の李淳風・僧一行に至るまで、暦法は代々その損益(改訂)がなされてきた。元の郭守敬の暦は精密と称されたが、それでも経緯度の数値は天の運行と完全には合致せず、その後、日影の測定値(晷度)にも誤差が蓄積するようになった。そなた湯若望は西洋より来たり、天体観測に精通し、暦法を深く理解している。徐光啓が朝廷に特に推挙した人物であり、当時の暦法専門家である魏文魁らも、実のところそなたには及ばなかった。しかし、異国人であるがゆえに、その成功を妬む者が多く、ついに重用されることはなかった。朕が天の恩顧を受け、王朝の基盤を固めた当初、そなたは朕のために『大清時憲暦』を編纂し、完成に導いた。また、身を慎み行いを正し、職務に尽力した。今、特にそなたに嘉名を授ける。天が賢人を世に生み出し、暦の制定を補佐させ、数千年にわたる欠落を補わせたことは、決して偶然ではないと知らしめるためである。」ほどなくして通政使に加えられ、官位は正一品に進められた。


欽天監には従来「回回科(イスラム暦法部門)」が設置されていたが、新たな暦法が採用されたことに伴い、やがて回回科は廃止され、その暦法も用いられなくなった。順治14年4月、回回科の元官吏である呉明選(ご・めいせん)が上奏文を提出した。その内容は以下の通りである。「私の先祖である摩沙亦黒(モシャ・イーヘイ)ら18家は、もともと西域の出身です。隋の開皇年間の己未(きび)の年以来、天文の知識を携えて朝廷に仕え、天文官に任じられて1590年にわたり星辰の運行を司ってきました。順治3年、湯若望(ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル)より、日食・月食、月や五星の運行、天文占卜に関する事項は報告不要であるとの指示を受けました。しかし私が観測したところ、シャール・フォン・ベルは水星が2月と8月に隠れる(見えなくなる)と予測していましたが、実際には2月29日と8月24日の夕方に東の空で観測されました。これらは天文占卜に関わる事柄であり、報告を怠るわけにはいきません。どうか回回科を復活させ、この失われた知識を後世に伝えさせてください」。彼はさらに、月や五星の運行を計算する回回法に関する書物や、14年の日食・天文占卜の図表も提出した。また別の上奏文では、シャール・フォン・ベルによる3つの誤り(1. 紫気(しき)の記載漏れ、2. 貜参(きょしん)と羅睺(らご)の取り違え)を指摘した。同年8月、皇帝は大臣の愛星阿(アイシンガ)や各省の官僚らに命じて観象台に登らせ、水星を観測させたが、発見することはできなかった。明選(ミンシュアン)は、虚偽の報告を提出して皇帝を欺いた罪(絞首刑に相当する罪)で有罪判決を受けましたが、恩赦により助命されました。


康熙5年、新安衛の生員であった楊光先(ヤン・グアンシエン)は、自著である『摘謬論(てきびゅうろん)』と『選択議(せんたくぎ)』を皇帝に献上しました。彼は、ヨハン・アダム・シャール(湯若望)が定めた新暦法には10の誤りがあると批判し、さらに栄親王(えいしんのう)の埋葬日時の選定において、『洪範(こうはん)』の五行説の適用に誤りがあったと指摘しました。これを受け、皇帝は廷臣たちによる会議を招集し、この件について議論・検討するよう命じました。


議政王らは次のように論じた。「歴代の旧法では、一日は十二時・百刻とされていたが、新法ではこれを九十六刻に改めた。康熙三年、立春の候気(気候の変化の観測)において、本来の時期より早く観測用の管を設置した上、湯若望は春の気がすでに参宿・觜宿に感応したと虚偽の奏上を行い、観測の順序を変更した。また、『四余』のうち『紫気』を削除した。皇帝の御代は天の加護により無窮であるにもかかわらず、湯若望は二百年分のみの暦を献上した。さらに、栄親王の埋葬日時の選定において、正五行を用いず洪範五行を用いたため、山・向・年・月がいずれも忌むべき凶殺に触れるという重大な過ちを犯した。湯若望および刻漏科の杜如預、五官挈壺正の楊宏量、暦科の李祖白、春官正の宋可成、秋官正の宋発、冬官正の朱光顕、中官正の劉有泰は、いずれも凌遅刑(生きたまま肉を削ぎ落とす刑)に処すべきである。また、監官の子である劉必遠・賈文郁、可成の子の哲、祖白の子の実、湯若望の養子の潘尽孝は、いずれも斬首刑とすべきである」。これに対し、皇帝の裁可(聖旨)が下った。「湯若望は長年にわたり尽力しており、すでに老齢である。杜如預と楊宏量も陵墓の地を定めた功労があるため、いずれも死罪を免じ、再審議せよ」。議政王らが再審議した結果、湯若望は流刑とし、他は先の審議通りとすることになった。再び裁可が下り、湯若望らは流刑も免除されたが、祖白・可成・発・光顕・有泰は斬首刑に処された。これ以降、新法は廃止され、用いられなくなった。

聖祖(康熙帝)が親政を開始すると、南懐仁に暦法の管理を任せ、新法が再び採用された。当時、湯若望はすでに死去していたが、「通微教師」の称号が追贈され、生前の官位に準じた弔慰金が下賜された。「通玄」という名を「通微」と改めたのは、聖祖の諱(いみな)を避けるためであった。


楊光先

楊光先,字長公,江南歙縣人。在明時為新安所千戶。崇禎十年,上疏劾大學士溫體仁、給事中陳啟新,舁棺自隨。廷杖,戍遼西。

國初,命湯若望治歷用新法,頒時憲曆書,面題「依西洋新法」五字。光先上書,謂非所宜用。既又論湯若望誤以順治十八年閏十月為閏七月,上所為摘謬、辟邪諸論,攻湯若望甚力,斥所奉天主教為妄言惑眾。聖祖即位,四輔臣執政,頗右光先,下禮、吏二部會鞫。康熙四年,議政王等定讞,盡用光先說,譴湯若望,其屬官至坐死。遂罷新法,復用大統術。除光先右監副,疏辭,不許;即授監正,疏辭,復不許。

光先編次其所為書,命曰不得已,持舊說繩湯若望。顧學術自審不逮遠甚,既屢辭不獲,乃引吳明烜為監副。明烜,明炫兄弟行,明炫議復回回科不得請,至是明烜副光先任推算。五年春,光先疏言:「今候氣法久失傳,十二月中氣不應。乞許臣延訪博學有心計之人,與之制器測候,並飭禮部採宜陽金門山竹管、上黨羊頭山秬黍、河內葭莩備用。」七年,光先复疏言:「律管尺寸,載在史記,而用法失傳。今訪求能候氣者,尚未能致。臣病風痺,未能董理。」下禮部,言光先職監正,不當自諉,仍令訪求能候氣者。

是時朝廷知光先學術不勝任,復用西洋人南懷仁治理曆法。南懷仁疏劾明烜造康熙八年七政民歷於是年十二月置閏,應在康熙九年正月,又一歲兩春分、兩秋分,種種舛誤,下議政王等會議。議政王等議,曆法精微,難以遽定,請命大臣督同測驗。八年,上遣大學士圖海等二十人會監正馬祜測驗立春、雨水兩節氣及太陰火、木二星躔度,南懷仁言悉應,明烜言悉不應。議政王等疏請以康熙九年曆日交南懷仁推算,上問:「光先前劾湯若望,議政王大臣會議,以光先何者為是,湯若望何者為非,及新法當日議停,今日議复,其故安在?」議政王等疏言:「前命大學士圖海等二十人赴觀像台測驗,南懷仁所言悉應,吳明烜所言悉不應,問監正馬祜,監副宜塔喇、胡振鉞、李光顯,皆言南懷仁曆法上合天象。一日百刻,歷代成法,今南懷仁推算九十六刻,既合天象,自康熙九年始,應按九十六刻推行。南懷仁言羅睺、計都、月孛、推歷所用,故入歷;紫炁無象,推歷所不用,故不入歷。自康熙九年始,紫炁不必造入七政歷。」又言:「候氣為古法,推歷亦無所用,嗣後並應停止。請將光先奪官,交刑部議罪。」上命光先但奪官,免其罪。

南懷仁等復呈告光先依附鼇拜,將歷代所用洪範五行稱為滅蠻經,致李祖白等無辜被戮,援引吳明烜誣告湯若望謀叛。下議政王等議,坐光先斬,上以光先老,貸其死,遣回籍,道卒。刑部議明烜坐奏事不實,當杖流,上命笞四十釋之。


楊光先


楊光先、字は長公、江南の歙県の人である。明代には新安所の千戸(武官)を務めた。崇禎10年、棺を担いで上奏し、大学士の温体仁と給事中の陳啓新を弾劾した。その結果、廷杖(朝廷での杖刑)に処され、遼西へ流刑となった。


清朝の初期、湯若望(アダム・シャール)が新法を用いて暦を編纂し、「時憲暦」を頒布した際、その表紙には「西洋新法に依る」の五文字が記されていた。楊光先はこれを不適切であるとして上書した。さらに、湯若望が順治18年の閏10月を誤って閏7月としたことを指摘し、謬りを正し邪説を排する論を上奏して湯若望を激しく攻撃し、彼が奉じるカトリックを「妄言をもって衆を惑わすもの」と断じた。聖祖(康熙帝)が即位し、四人の輔政大臣が政務を執ると、彼らは楊光先を強く支持し、礼部と吏部に命じて合同審理を行わせた。康熙4年、議政王らが判決を下し、楊光先の主張を全面的に採用して湯若望を処罰し、その属官には死刑判決まで下された。こうして新法は廃止され、再び「大統術」が用いられることとなった。楊光先は欽天監右監副に任じられたが、上書して辞退を願い出たものの許されず、続いて監正に任じられた際も同様に辞退を願い出たが、やはり許されなかった。


楊光先は自らの著述を編纂して『不得已(やむを得ず)』と名付け、旧来の説に基づいて湯若望を批判した。しかし、自らの学識が(西洋の天文学に)遠く及ばないことを自覚しており、辞退が認められなかったため、呉明烜を監副として招いた。明烜は明炫(めいげん)と兄弟の間柄であり、かつて明炫が「回回科(イスラム暦法)」の復活を求めて認められなかった経緯があったが、この時、明烜は楊光先を補佐して推算の任に当たることとなった。五年春,光先疏言:「今候气法久失传,十二月中气不应。乞许臣延访博学有心计之人,与之制器测候,并饬礼部采宜阳金门山竹管、上党羊头山秬黍、河内葭莩备用。」七年,光先复疏言:「律管尺寸,载在史记,而用法失传。今访求能候气者,尚未能致。臣病风痹,未能董理。」下礼部,言光先职监正,不当自诿,仍令访求能候气者。


是时朝廷知光先学术不胜任,复用西洋人南怀仁治理历法。南怀仁疏劾明烜造康熙八年七政民历于是年十二月置闰,应在康熙九年正月,又一岁两春分、两秋分,种种舛误,下议政王等会议。议政王等议,历法精微,难以遽定,请命大臣督同测验。八年,上遣大学士图海等二十人会监正马祜测验立春、雨水两节气及太阴火、木二星躔度,南怀仁言悉应,明烜言悉不应。議政王らは上奏し、康熙九年の暦の計算を南懐仁(フェルディナント・フェルビースト)に委ねるよう求めた。皇帝は次のように下問した。「かつて楊光先が湯若望(アダム・シャール)を弾劾した際、議政王大臣会議は楊光先の主張を是とし、湯若望を非とした。また、新法(西洋暦)を一時停止し、後に復活させることとなったが、その理由は何か」。議政王らは上奏して答えた。「以前、大学士の図海(トゥハイ)ら二十名を観象台に派遣して観測を行わせたところ、南懐仁の言はすべて事実と合致し、呉明烜の言はことごとく外れていました。監正の馬祜、監副の宜塔喇・胡振鉞・李光顕に尋ねたところ、皆、南懐仁の暦法は天象に合致していると証言しました。一日を百刻とするのは歴代の定法ですが、南懐仁はこれを九十六刻と計算し、それが天象に合致している以上、康熙九年からは九十六刻に基づいて施行すべきです。南懐仁は『羅睺(らご)・計都(けいと)・月孛(げつはい)』については暦の計算に用いるため暦に組み込むが、『紫気(しき)』は実体がなく計算に用いないため組み込まない、と述べています。したがって、康熙九年からは『紫気』を七政暦(日月五星の暦)に含める必要はありません」。さらにこう述べた。「『候気(こうき)』は古法であり、暦の計算には不要であるため、今後はこれも停止すべきです。楊光先を官職から解任し、刑部に送って処罰を検討するよう求めます」。皇帝は楊光先を官職から解任するにとどめ、罪には問わなかった。


南懐仁らはさらに上奏し、楊光先が鰲拝(オボイ)に阿諛追従し、歴代用いられてきた『洪範五行』を「滅蛮経(蛮族を滅ぼす経)」と呼んで李祖白らを無実の罪で処刑させ、呉明烜の言葉を引用して湯若望を謀反の罪で誣告したことを告発した。議政王らの審議により、楊光先は斬首刑に相当するとされたが、皇帝は彼が高齢であることを理由に死罪を免じ、故郷へ送還させた。彼は道中で死去した。刑部は呉明烜について、事実と異なる上奏を行ったとして杖刑および流刑に相当するとしたが、皇帝は笞刑四十回を科して釈放するよう命じた。


南懐仁


南懐仁(フェルディナント・フェルビースト)、名はフェルディナント、姓はフェルビースト氏、ベルギー人である。康熙帝の治世の初めに中国へ渡った。当時、湯若望(アダム・シャール)が罷免され、楊光先が監正、呉明烜が監副に就任していた。彼らは「大統暦」を用いて暦を編纂したが、節気が実際の天象と合わず、金星・水星の運行位置にも誤りが生じていた。呉明烜は水星が出現するはずだと上奏したが、その説は採用されなかった。そこで南懐仁(フェルディナント・フェルビースト)が召喚され、暦法の整備を命じられた。南懐仁は楊光先と呉明烜を弾劾して退け、自らが監副に任命された。


康熙8年3月のこと、南懐仁は次のように述べた。「旧法によれば本年は11月に閏月を置くことになっているが、新法による観測・計算では、閏月は康熙9年の正月に置くべきである」。さらに、「今月の29日は『雨水』にあたり、これは正月の『中気』であるから、この月こそが康熙9年の正月であり、閏月はその年の2月に置くべきだ」と主張した。皇帝が礼部を通じて欽天監の官吏たちに諮問したところ、多くが南懐仁の説を支持したため、康熙8年12月の閏月を取りやめて康熙9年の2月に移すこととし、節気や気象の観測・予測もすべて南懐仁の説に従うこととなった。6月、南懐仁が観象台の観測機器の改修を願い出ると、皇帝はこれを許可した。12月に機器が完成すると、南懐仁は監正に昇進した。機器は計6種で、黄道経緯儀、赤道経緯儀、地平経儀、地平緯儀、紀限儀、天体儀であった。彼はそれぞれ図と解説を作成し、それらをまとめて『霊台儀象志』を編纂した。康熙17年、『康熙永年表』を献上した。これは七政(太陽・月・五惑星)の運行や食(日食・月食)を推算するもので、湯若望が未完のまま残していた書を南懐仁が引き継いで完成させたものである。康熙21年、盛京(奉天)へ赴き北極高度を測定するよう命じられ、その結果、北京より2度高いことが判明した。彼は別途、日月食の推算表を作成して上奏した。南懐仁は長らく監正の職にあり、累進して工部侍郎にまで至った。康熙27年に死去し、「勤敏」の諡号を賜った。


これ以降、欽天監では西洋人が登用され、監正や監副に就く例が絶えることなく続いた。康熙54年、紀理安(キリアン・シュトゥンプ)に対し、地平経緯儀を製作するよう命じ、地平儀と象限儀を一つに統合させた。乾隆年間、戴進賢、徐懋徳、劉松齢、傅作霖らは皆、進士の位を賜った。道光年間に入ると、高拱宸らは帰国したり病没したりした。当時、欽天監の官吏たちはすでに西洋の天文暦法を深く習得しており、もはや西洋人を登用する必要がなくなったため、宣宗の勅命を仰ぎ、西洋人の同監への入職を停止した。かつて聖祖(康熙帝)は南懐仁(フェルディナント・フェルビースト)を重用し、カトリックの奉教や本国の風俗維持を許容したものの、各省における教会設立や入信は禁じていた。当時、各省にはすでに30余りのカトリック教会が存在していた。雍正年間には禁令が厳格化され、それらはことごとく取り壊されたが、京師(北京)に一か所だけが残され、欽天監に勤務する西洋人の住居とされた。内地へ入って布教を行う者は、直ちに法によって処罰された。やがて西洋人の同監入職が停止されると間もなく海禁が緩和され、条約によって布教が認められるようになり、新旧の教会が内地全土に遍く建てられるに至った。


論じて曰く、暦算の術は、深く入れば入るほど奥深く、進めば進むほど精緻になるものである。湯若望(アダム・シャール)や南懐仁の著述と、楊光先の攻撃とについて、その浅深や疎密を論じることは、今や誰にでもできることである。しかし当時においては、異国人を嫉視し、宗教問題が絡み合い、互いに糾弾し合って浮き沈みを繰り返すなど、まさに一時の得失が入り乱れる様相を呈していた。聖祖はかつて、暦法をめぐる論争が絶えない中で、自らが未学であるがゆえに是非を判断できないことを悟り、発奮して研究に励んだ。ついにその深奥かつ精緻な理を極め、その極意を完全に理解するに至ったのである。天下の主でありながら、これほどまでに謙虚に学びを励んだとは。ああ、聖人というべきであろう!

南懷仁

南懷仁,初名佛迪南特斯,姓阜泌斯脫氏,比利時國人。康熙初,入中國。時湯若望方黜,楊光先為監正,吳明烜為監副,以大統術治歷,節氣不應,金、水二星躔度舛錯。明烜奏水星當見,其言復不售。乃召南懷仁,命治理曆法。南懷仁劾光先、明烜而去之,遂授南懷仁監副。

時康熙八年三月,南懷仁言是歲按舊法以十一月置閏,以新法測驗,閏當在九年正月。既又言是月二十九日雨水,乃正月中氣,即為康熙九年之正月,閏當在是年二月。上命禮部詢欽天監官,多從南懷仁,乃罷八年十二月閏,移置九年二月;節氣佔候,悉用南懷仁說。六月,南懷仁請改造觀像台儀器,從之。十二月,儀器成,擢南懷仁監正。儀凡六:曰黃道經緯儀,曰赤道經緯儀,曰地平經儀,曰地平緯儀,曰紀限儀,曰天體儀;並繪圖立說,次為靈臺儀象志。十七年,進康熙永年表,表推七政交食,為湯若望未竟之書,南懷仁續成之。二十一年,命南懷仁至盛京測北極高度,較京師高二度,別為推算日月交食表上之。南懷仁官監正久,累加至工部侍郎。二十七年,卒,諡勤敏。

自是欽天監用西洋人,累進為監正、監副,相繼不絕。五十四年,命紀理安制地平經緯儀,合地平、 象限二儀為一。乾隆中,戴進賢、徐懋德、劉松齡、傅作霖皆賜進士。道光間,高拱宸等或歸國,或病卒。時監官已深習西法,不必復用西洋人,奏奉宣宗諭,停西洋人入監。方聖祖用南懷仁,許奉天主教,仍其國俗,而禁各省立堂入教。是時各省天主堂已三十餘所。雍正間,禁令嚴,盡毀去,但留京師一所,俾西洋人入監者居之。入內地傳教,輒繩以法。迨停西洋人入監,未幾海禁弛,傳教入條約,新舊教堂遍內地矣。

論曰:曆算之術,愈入則愈深,愈進則愈密。湯若望、南懷仁所述作,與楊光先所攻訐,淺深疏密,今人人能言之。其在當日,嫉忌遠人,牽涉宗教,引繩批根,互為起僕,誠一時得失之林也。聖祖嘗言當曆法爭議未已,己所未學,不能定是非,乃發憤揅討,卒能深造密微,窮極其閫奧。為天下主,虛己勵學如是。嗚呼,聖矣!

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康熙の暦獄 (1659~1665)

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